ベトナム戦争での韓国軍の蛮行

ベトナム戦争での韓国軍の蛮行

●ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
 ※これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです。(抜粋)

"女性たちを強姦した後、殺害"韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからない
ベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索、破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた。
筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが、その一部をここに紹介する。

1965年12月22日、韓国軍作戦兵力2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、
“きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた。
彼らはこの村で12歳以下の22人の子供、22人の女性、3名の妊産婦、70歳以上6名の老人を含む、50余名を超える良民を虐殺した。
"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました。
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました。
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり、子宮が外に出ていました。
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して、子供の頭を切り取って地面に放り投げ、あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました
彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し、ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました。
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"
パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた。
“見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です。”1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ。“手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね。


ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません。
ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです。”

当時の報告によれば、66年1月23日から2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊3個小隊、2個保安大隊、3個民間自衛隊により、
この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて、そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった。

また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ、649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された。
このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して、韓国軍等の地上軍が現場に投入されて
村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。

生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は、無差別機関銃乱射、大量殺戮、妊産婦、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などだ。
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる。

●住民たち(大部分が女性と老人、子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。

●住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。

●子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。

●女性を強姦した後、殺害して、妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。

●住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。

韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた。
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ。





平成21年2月1日
まかぴー様 寄稿





最終更新:2009年02月01日 23:53
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