【「随筆 新・人間革命」79/聖教新聞 1999-04-27付】


1979年(昭和54年)の4月24日――。

この日、私は、19年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。

全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。

その背後には、悪辣(あくらつ)なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。

なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。

正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じの通りである。

 

御聖訓には、随所に説かれている。

「法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける」と(趣旨、140頁等)。

広宣流布の闘争のゆえに、悪口罵詈されるのが、真の法華経の行者といえるのである。

さらに「佐渡御書」には、「賢人・聖人は罵詈して試みるものである」(通解、958頁)と。

【「賢聖は罵詈して試みるなるべし」】

真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。

 

畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。

心痛に、夜も眠れなかった。

私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。   

しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。

それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。

坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。

 

私は苦悩した。

――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛(いじ)められることだけは、防がねばならない。

戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。

民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。

私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。

また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。

 

ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。

「私が辞めれば、事態は収まるんだな」

沈痛な空気が流れた。

やがて、誰かが口を開いた。

「時の流れは逆らえません」

 

沈黙が凍りついた。

わが胸に、痛みが走った。

――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。

実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。

また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。

しかし、時流とはなんだ!

問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。

そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。

宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。

それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。

情けなく、また、私はあきれ果てた。

 

戸田会長は、遺言された。

「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。

この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。

ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!

 

そんな渦中の、4月12日、私は、中国の周恩来総理の夫人である〓穎超(とうえいちょう)女史と、迎賓館でお会いした。

その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。

「いけません!」

“人民の母”は笑みを消し、真剣な顔で言われた。

「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」

生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。

 

やがて、暗き4月24日を迎えた。火曜日であった。

全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。

しかし、新たな“七つの鐘”を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。

大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。

私は途中から会場に入った。

「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」

「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。

皆、不安な顔であった。

「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。

私は、厳然として言った。

「私は何も変わらない。恐れるな!

私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。

 あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ

               夕闇せまりて 一人 歩むを

 

これは、4月24日に記された日記帳の一首である。

わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。


2007年の統一地方選挙を大勝利で終え、4.24を迎えた。

小野不一さんの創価王道の記事によると、今年の4.24は、あの昭和54年と同じ曜日であり、奇しくもあの年も同じように4月22日に統一地方選挙を大勝利して迎えた4.24であったそうだ。

昭和54年…僕は当時4歳だった。リアルタイムに遭遇した出来事ではあっても、当時の記憶はほとんどない。 僕は池田先生はずっと学会の会長だと思ってたのだ。 のちに(中学生くらいの時だったか)池田先生がすでに「会長」ではなく、秋谷さん(当時)という別の会長がいたということを知った時に不思議な印象を持ったことだけが記憶に残っている。

僕は男子部として活動を始めたのがやや遅く24歳からで、ちょうどこの随筆が聖教新聞に掲載された時期と重なる。 それまでは「名誉会長」という肩書きを「先生は会長よりさらに高い立場で世界的な戦いを起こされているのだろう」くらいにしか思っていなかった。

 

 

この随筆をはじめて読んだ時の衝撃。

池田先生から会長職を奪ったのは、実は当時の学会の中枢幹部だったという事実。 

宗門からのプレッシャーに耐えきれなかった当時の中枢幹部たちが、自らの師匠を「いけにえ」に差し出したという歴史を学んだ時、弟子であるということの厳しさを思い知った。 

なにしろ、本当の一大事において、弟子が師匠を守るために声をあげ、立ち上がるとことが、当時選りすぐりであるはずの「中枢幹部」にすらできなかったのだから。

 

 

 

「時の流れは逆らえません」

この発言をした幹部を、先生はいまだ名指しされてはいない。 こういう発言が後の退転者のそれだったとすれば、たとえ先生が名指ししなくとも、組織内で「これはだれそれの発言だった」と伝わるようなケースもあるのに、それもない。

つまりこの発言をした幹部は、おそらく現在も中枢幹部として役職を担っている誰かだということなのかも知れない。

いや、随筆の文章を読む限り、この発言は当時の首脳部の暗黙の認識だったということになる。 

これは実に恐ろしい事実だと思う。

 

 

平時において、口で師弟を叫ぶことはたやすい。 しかし有事の際に師匠を守り抜くことができる弟子であるのかどうか…  この当時の「中枢幹部」の憎むべき振る舞いを他人事と思ってはいけない。 

 

 

この屈辱的な4.24から10日目に、5.3がある。

5.3は昭和54年の4.24の出来事よりずっと前から、戸田先生、池田先生の会長就任の日であった。 つまり歴史の流れという意味では、このふたつの日付自体(4.24と5.3)に関連はない。

しかし、弟子の立場で言えば、かたや5.3は弟子の最高の誉れの日であり、かたや4.24は弟子として最大の汚点の日ということになる。そういう意味では深い相関があると言えるだろう。

そうであるならば、我々は弟子として、4.24から5.3を、点と点で捕らえるべきではない。4.24から5.3の、10日間の持つ意味を感じなくてはならない。

すなわち、5.3を大勝利で迎えるということと、4.24の仇討ちの精神とは一体のものであるということだ。 本日4.24より5.3へと、大勝利へのスパートをかけてまいりたい。

(2007.04.24)

 


最終更新:2007年04月26日 19:32