John G Westの「科学の名による人間性喪失」 まとめ


インテリジェントデザインの本山たるDiscovery Instituteのインテリジェントデザイン部門であるCenter for Science and Cultureの副センター長であり、シニアフェローである社会学者Dr. John G. Westが、自著" Darwin Day in America をダイジェストした" The Abolition of Man? "を読むシリーズ


ながながしいので、まとめて振り返っておくことにする。

John G Westの第1の主張は、科学に対する"シビリアンコントロール"である:
テクノクラシー

科学的知識は特定分野では良き公共政策のために必要かもしれないが、それだけでは十分ではない。政治課題は非常に道徳的な問題であり、科学者がモラリストとして機能するには能力が不十分である。CS Lewisはテクノクラシーの欠点について1950年代に警告した。「私は権力を持つ専門家を恐れる。彼らは専門分野の外側について語るスペシャリストだからだ。科学者には科学を語らせよう。しかし、政府は人間と正義と、どの物がどれくらい価値を持つのが良いのかについては政府の仕事だ。これらについては科学的訓練は人間の意見に何の付加価値も与えない。

たとえば、野生生物学者は、政策担当者に絶滅の危険にある種についての情報を提供できる場合がある。おそらく、彼らは生物多様性に対する種の絶滅のコストを予測できるだろう。しかし、彼らには、特定種と、それを絶滅から救うことによって失われる仕事のどちらが大事かを判断する権限は他の誰以上にない。政治とは主として、競合する商品にランク付けて調停することである。しかし、商品のランク付けには正義と道徳の問題が含まれている。これらの問題について「科学的訓練は人間の意見に何の付加価値も与えない」とCS Lewisが指摘するように。
情報を出すのは科学の仕事で、それに基づきどう対処するかは政治の仕事だというのは、まっとうな主張。

John G Westは第2の主張とあわせて、宗教保守が科学に勝ることを示唆する:
テクノクラシー

テクノクラシーには更なる問題がある。人間の理性に限界があるために、ときには専門家がひどく誤ることがある。政治における科学的唯物論の歴史が何かを示すとしたら、それは科学の専門家たちは、他と人々と同様に間違うことがあることだ。彼らは自らの偏見によって盲目になり、彼らが選好する政策を推進するために証拠を超えてしまう。

ユートピア的理想主義

70年前、優生学はより良い育種によって米国の社会問題を解決することを約束した。今日、精神衛生改革運動家たちは、あらゆる児童を精神病の有無でスクリーニングし、数百万の児童に向精神薬を投与することで、米国の子供の行動問題を解決すると約束する。前世紀の優生改革運動のように、向精神薬を投与する子供の数を大きく増やすことで、行動問題を純粋の唯物原因へと還元する。優生改革運動のように、実際の科学を大きく超えた壮大な主張がついて回る。
...
科学的唯物論の高まりに対して、米国の政治的な文化の断固たる現実主義・反ユートピア理想主義の意見は、改革派の理想主義とユートピア的理想主義に対してカウンターバランスをとった。米国の建国者たちは理想主義とともに、人間の欠点について強い現実主義をとっていた。「人間が天使なら、政府は必要ないだろう」とJames Madisonは"Federalist"に書いた。
John G Westは優生をめぐる歴史を修正しつつ、それに対抗するものとして「現実主義・反ユートピア理想主義」を挙げる。実際の歴史では、宗教もまた優生になだれこんでいったのだが。


それはさておき、福音主義キリスト教の教義に反する自然科学の知識すべてに対して異議申し立てをすればどうなるか。自然科学の研究は間違うこともあるので、異議申し立ての幾つかは正解になるだろう。でも、予め、その異議申し立てが正解かどうかはわからない。自然科学の研究の進行によって結果として正解か否かが明らかになるだけ。

John G Westの第3の主張「人間性喪失」は、「刑法の責任能力」への異議申し立てである。
人間性喪失

公共政策に対する科学的唯物論の第3の影響は人間性喪失だった。支持者たちは科学的唯物論が社会問題を解決し、人間の尊厳を高めるものだと見ていたが、歴史を見れば人類全体を侮辱する例が多くみられる。男と女は物理容器と物理入力に還元可能だという主張は、深く人間性を奪っていることが明らかになった。

司法では、ある教科書に書かれているように、「人間が意図して犯罪を犯すことは、花が赤色になったり、芳香を出したりする以上に責任がない」と考えるなら、場合によっては人道にかなった処置につながるが、自らの選択を問われる合理的存在として扱われる尊厳を犯罪者から奪うことにもなる。同時に多くの例で、懲罰としてなら決して許されない、科学的リハビリテーションの恐るべき形態に扉を開くことになる。
「神経伝達物質を新陳代謝させる酵素モノアミンオキシダーゼA(MAOA)をコード化している遺伝子の機能的な多形性が、虐待の影響を緩和する」という研究に基づいて、"MAO-A"が少なくなる遺伝子型を理由に刑が軽くなるという判決が実際にあった。


それが不適切だという主張はまっとうなもの。ただし、修正すべきは、心神喪失や心神耗弱の認定を含む刑法の責任能力についての考え方や法規定であって、科学ではない。

John G Westの第4の主張「相対主義」は、自然主義の誤謬を前提とするもの:
相対主義

ダーウィン理論と相対主義の関係はアナロジーだけではない。"The Descent of Man"において、ダーウィンは倫理を自然選択による進化の産物として描写した。倫理は、神あるいは自然によって認定された、時間を超越した真理の反映ではなく、生存のために自然選択によって進化したものである。生存条件が変われば、種の倫理も変わる。ある状況では、母性愛が倫理であるが、別の状況では幼児殺しが倫理になるかもしれない。ある状況では、親切が倫理になり、別の状況では虐待が倫理になるかもしれない。
...
ダーウィン自信の個人的な倫理選択がどうであれ、倫理の発達についてのダーウィンの還元的な説明は、客観的にひとつの社会の倫理性を、他の社会の倫理性に対して、選好する余地をほとんど残さない。各社会の倫理規範はおそらく、その社会の生存にとって有利なように発展してきたので、各社会の倫理規範は等しく"自然"だと考えられる。
これは、Curry[2006]が挙げる自然主義の誤謬の派生品に該当する

Moving from is to ought (Hume’s fallacy). ("である"から"べき"へ)
Moving from facts to values. (事実から価値へ)
Identifying good with its object (Moore’s fallacy).
Claiming that good is a natural property. 
Going ‘in the direction of evolution’.(進化の方向へ向かって進め)
Assuming that what is natural is good. (自然なものは良いと仮定)
Assuming that what currently exists ought to exist. (現に存在するものは、存在すべきと仮定)
Substituting explanation for justification.

ただすべきは科学ではなく、自然主義の誤謬に基づく主張。

John G Westの第5の主張「息苦しい言論の自由」は、民主的に科学を「修正」できないことへの不満:
息苦しい言論の自由

ダーウィンの理論を公教育で教えることをめぐる論争について、報道者たちはダーウィンの理論の批判者の想定宗教信条に関心をはらう一方で、進化論の擁護者たちの持つ反宗教的信条について調べることがない。なぜなのか? 動機は政治論争の両側にある。あるいは、どちらにも関係がない。無批判にダーウィニストのアジェンダを受け入れようとする報道者たちは、報道の倫理の重大な違反を犯しているばかりか、市民への重大な損害をもたらしている。公共政策の科学的唯物論の問題のある遺産があるからこそ、必要なことは、政治における科学的唯物論の批判的な調査である。

自由社会の一員として、地球温暖化や子供へのリタリンの過剰投与や性教育の内容やダーウィニズムとインテリジェントデザインの論争について、素人や現在の科学的コンセンサスに異議を唱える科学者の権利を積極的に擁護する意志を持つべきである。.... 科学の名においてなされた主張についての公的な詳細な調査は、一部の者たちが言うのとは逆に「科学に対する戦争」を構成しない。実際には、科学の過剰から科学を守ることになるかもしれない。

John G Westの主張はその額面を乗り越えていくことになる。公共政策には理科教育の内容が含まれるため、当然のことながら民主的にインテリジェントデザインを公教育のカリキュラムに組み入れることも"あり"にしてしまう(もちろん、それがインテリジェントデザイン運動家たるJohn G Westの目標のひとつだが)。

以上、John G Westの主張は、法規定や法理論の問題だったり、自然主義の誤謬だったり、民主的に科学を修正したいという希望だったりである。いかにも米国なのは、自分たちの主張が「科学に対する戦争」だと言われたくないという部分。日本だと、「科学に対する戦争」という表現は、それほどネガティブな印象を持って受け止められないかもしれない。









最終更新:2013年11月24日 00:19