巻第一百九十九

資治通鑑巻第一百九十九
 唐紀十五
  太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下
貞觀二十二年(戊申、六四八)

 夏,四月,丁巳,右武候將軍梁建方撃松外蠻,破之。
  初,雟州都督劉伯英上言:「松外諸蠻蹔降復叛,請出師討之,以通西洱、天竺之道。」敕建方發巴蜀十三州兵討之。蠻酋雙舎帥衆拒戰,建方撃敗之,殺獲千餘人。羣蠻震懾,亡竄山谷。建方分遣使者諭以利害,皆來歸附,前後至者七十部,戸十萬九千三百,建方署其酋長蒙和等爲縣令,各統所部,莫不感悅。因遣使詣西洱河,其帥楊盛大駭,具船將遁,使者曉諭以威信,盛遂請降。其地有楊、李、趙、董等數十姓,各據一州,大者六百,小者二、三百戸,無大君長,不相統壹,語雖小訛,其生業、風俗,大略與中國同,自云本皆華人,其所異者以十二月爲歳首。
1.夏、四月、丁巳。右武衛将軍梁建方が松外の蛮を撃って、破った。その経緯は、以下の通り。
 雟州都督の劉伯英が上言した。
「松外の諸蛮は、叛服常ありません。軍を出してこれを討ち、西洱、天竺の道を開いてください。」
 建方へ、巴蜀十三州の兵を発してこれを討つよう敕が降った。
 建方は、これを撃って敗り、千余人を殺獲する。群蛮は震え上がり、山谷へ逃げ隠れた。そこで建方が使者を分遣して利害で諭すと、皆、やって来て帰順した。やって来た者は合計で七十部、その戸数は十万九千三百。建方はその酋長蒙和等を県令として各々の部を統治させたので、喜ばない者はいなかった。
 そこで使者を西洱河へ派遣すると、その師の楊盛は大いに驚き、船を揃えて逃げ出そうとした。だが、使者が威信を以て諭したので、盛は遂に降伏を請うた。その土地には、楊、李、趙、董等数十姓がおり、各々一州へ據っていた。その勢力は、大きいもので六百戸、小さいものは二、三百戸。大君長はおらず、統一されていない。言葉は訛りが酷いが、その生業風俗はほぼ中国と同じで、自ら「もとは華人だった」と言う。ただ、十二月を正月としているところは、中国と違っていた。
 己未,契丹辱紇主曲據帥衆内附,以其地置玄州,以曲據爲刺史,隸營州都督府。
2.己未、契丹の辱紇主の曲據は衆を率いて唐へ帰順した。その土地は玄州となり、曲據は刺史となって営州都督へ隷属した。
 甲子,烏胡鎭將古神感將兵浮海撃高麗,遇高麗歩騎五千,戰於易山,破之。其夜,高麗萬餘人襲神感船,神感設伏,又破之而還。
3.甲子、烏胡の鎮将古神感が兵を率いて海路から高麗を攻撃した。高麗の歩騎五千と易山にて遭遇し、これを破る。
 その夜、高麗兵万余人が神感の船を襲撃したが、神感は伏兵を設けており、これも撃破して、還った。
 初,西突厥乙毗咄陸可汗以阿史那賀魯爲葉護,居多邏斯水,在西州北千五百里,統處月、處密、始蘇、歌邏祿、失畢五姓之衆。乙毗咄陸奔吐火羅,乙毗射匱可汗遣兵迫逐之,部落亡散。乙亥,賀魯帥其餘衆數千帳内屬,詔處之於庭州莫賀城,拜左驍衞將軍。賀魯聞唐兵討龜茲,請爲郷導,仍從數十騎入朝。上以爲崑丘道行軍總管,厚宴賜而遣之。
4.初め、西突厥の乙毗咄陸可汗は阿史那賀魯を葉護としていた。彼は西州の北千五百里の多邏斯水に住み、處月、處密、始蘇、歌邏禄、失畢の五姓の衆を統治していた。
 乙毗咄陸が吐火羅へ逃げると、乙毗射匱可汗が兵を派遣して賀魯を追い散らしたので、部落は亡散した。
 乙亥、賀魯はその余衆数千帳を率いて、唐へ帰順した。詔がおり、彼等を庭州の莫賀城へ住まわせ、賀魯は左驍衛将軍を拝受した。
 賀魯は、唐軍が亀茲を討つと聞くと道案内を申し出、数十騎を率いて入朝した。上は、崑丘道行軍総管として、厚く宴賜して帰してやった。
 五月,庚子,右衞率長史王玄策撃帝那伏帝王阿羅那順,大破之。
  初,中天竺王尸羅逸多兵最強,四天竺皆臣之,玄策奉使至天竺,諸國皆遣使入貢。會尸羅逸多卒,國中大亂,其臣阿羅那順自立,發胡兵攻玄策,玄策帥從者三十人與戰,力不敵,悉爲所擒,阿羅那順盡掠諸國貢物。玄策脱身宵遁,抵吐蕃西境,以書徴鄰國兵,吐蕃遣精鋭千二百人、泥婆國遣七千餘騎赴之。玄策與其副蔣師仁帥二國之兵進至中天竺所居茶餺和羅城,連戰三日,大破之,斬首三千餘級,赴水溺死者且萬人。阿羅那順棄城走,更收餘衆,還與師仁戰;又破之,擒阿羅那順。餘衆奉其妃及王子,阻乾陀衞江,師仁進撃之,衆潰,獲其妃及王子,虜男女萬二千人。於是天竺響震,城邑聚落降者五百八十餘所,俘阿羅那順以歸。以玄策爲朝散大夫。
5.五月、庚子、右衛率長史王玄策が帝那伏帝王の阿羅那順を撃ち、大いに破った。
 始め、中天竺王尸羅逸多の兵は最強で、四天竺は皆、これに臣従していた。玄策が奉使として天竺へ行くと、諸国は皆使者を派遣して入貢した。
 やがて尸羅逸多が卒すると、国中が大いに乱れ、その臣下の阿羅那順が自立し、胡兵を発して玄策を攻撃した。玄策は従者三十人を率いて戦ったが、力及ばず、皆、捕らえられた。阿羅那順は、諸国からの貢物を悉く掠奪する。
 玄策は体一つで脱出し、闇に紛れて吐蕃との西境まで逃げ、檄文を書いて隣国の兵を呼び集めた。吐蕃は精鋭千二百を派遣し、泥婆国は七千騎を派遣した。
 玄策とその副官の蒋師仁は二国の兵を率いて進軍し、中天竺の居城の茶餺和羅城にて連戦三日、大いにこれを破り、三千余の首級を挙げる。川へ逃げ込んで溺死した敵兵は一万に及ぶ。
 阿羅那順は城を棄てて逃げたが、敗残兵をかき集め、軍を返して師仁と戦った。だが、師仁は再びこれを撃破し、阿羅那順を捕らえた。
 余衆はその妃と王子を推戴し、乾陀衛江にて阻んだが、師仁は進軍してこれを撃った。敵軍は潰れ、妃と王子はじめ男女一万二千人を捕らえる。
 ここに於いて天竺は震駭した。陥したり、降伏してきた城邑は五百八十余所。玄策は阿羅那順を捕らえて帰国した。玄策を、朝散大夫とする。
 六月,乙丑,以白霫〔別〕部爲居延州。
6.六月、乙丑。白習霫〔別〕部を居延州とした。
 癸酉,特進宋公蕭瑀卒,太常議謚曰「德」,尚書議謚曰「肅」。上曰:「謚者,行之迹,當得其實,可謚曰貞褊公。」子鋭嗣,尚上女襄城公主。上欲爲之營第,公主固辭,曰:「婦事舅姑,當朝夕侍側,若居別第,所闕多矣。」上乃命即瑀第而營之。
7.癸酉。特進宋公蕭瑀が卒した。
 諡について、太常は「徳」を推し、尚書は「粛」を推した。上は言った。
「諡は、其の行跡を見て、的を得なければならない。『貞褊』と諡するが良い(褊は、了見が狭い、の意。「貞淑だが偏屈」とゆうことか)。」
 子の鋭が後を継いだ。
 鋭は、上の娘の襄城公主を娶っていた。彼女が下嫁する際、上は彼等の為に第を造営しようとしたが、公主は固辞して言った。
「婦は朝夕そばにいて、舅や姑に仕えるのです。別に第を造ったら、仕えきれないことが多くございます。」
 そこで上は、瑀の第を造らせた。
 上以高麗困弊,議以明年發三十萬衆,一舉滅之。或以爲大軍東征,須備經歳之糧,非畜乘所能載,宜具舟艦爲水運。隋末劍南獨無寇盜,屬者遼東之役,劍南復不預及,其百姓富庶,宜使之造舟艦。上從之。秋,七月,遣右領左右府長史強偉於劍南道伐木造舟艦,大者或長百尺,其廣半之。別遣使行水道,自巫峽抵江、揚,趣萊州。
8.上は、高麗が困窮したと見て、明年三十万の軍を発して一挙に滅ぼそうと思い、議論させた。ある者は、大軍が東征するには兵糧の準備が不可欠だとして、これを運ぶ為に軍艦を整備しようと言った。ところで、隋末の動乱期に、剣南だけは盗賊が起きなかった。遼東の軍役も剣南には及ばなかったので、その百姓は裕福だった。そこで、彼等へ舟艦を造らせればよい、と建議した。上は、これに従う。
 秋、七月、右領左右府長史強偉を剣南道へ派遣し、木を斬って舟艦を造らせた。その大きいものは、長さ百尺、広さ五十尺あった。別の使者を水道から派遣して、巫峽から江・揚を通って莱州へ向かわせた。
 庚寅,西突厥相屈利啜請帥所部從討龜茲。
9.庚寅、西突厥の相屈利啜が部族を率いて亀茲討伐へ従軍することを請願した。
 10初,左武衞將軍武連縣公武安李君羨直玄武門,時太白屢晝見,太史占云:「女主昌。」民間又傳秘記云:「唐三世之後,女主武王代有天下。」上惡之。會與諸武臣宴宮中,行酒令,使各言小名。君羨自言名五娘,上愕然,因笑曰:「何物女子,乃爾勇健!」又以君羨官稱封邑皆有「武」字,深惡之,後出爲華州刺史。有布衣員道信,自言能絶粒,曉佛法,君羨深敬信之,數相從,屏人語。御史奏君羨與妖人交通,謀不軌。壬辰,君羨坐誅,籍沒其家。
  上密問太史令李淳風:「秘記所云,信有之乎?」對曰:「臣仰稽天象,俯察暦數,其人已在陛下宮中,爲親屬,自今不過三十年,當王天下,殺唐子孫殆盡,其兆既成矣。」上曰:「疑似者盡殺之,何如?」對曰:「天之所命,人不能違也。王者不死,徒多殺無辜。且自今以往三十年,其人已老,庶幾頗有慈心,爲禍或淺。今借使得而殺之,天或生壯者肆其怨毒,恐陛下子孫,無遺類矣。」上乃止。
10.初め、左武衛将軍武連県公の武安の李君羨が玄武門の宿衛になった時、屡々昼間に金星が見えた。太史が占って、言った。
「女主が栄える。」
 民間でも、秘記が、次のように伝えていた。
「唐三世の後、女武王が天下を代わって占有する。」
 上は、これを憎んだ。
 やがて、諸武臣が集まって宮中で宴会が開かれた。宴たけなわの時、上は各々へ幼名を言わせた。すると君羨は、自ら『五娘』と言った。上は愕然としたが、笑って言った。
「何と女々しい。爾は勇猛壮健なのに!」
 また、君羨の官名にも封邑にも「武」の字がついていたので、深くこれを憎み、後に華州刺史として下向させた。
 ここに、員道信とゆう布衣がいた。彼は「粒を絶てるし仏法に通暁している」と吹聴し、君羨は深くこれを敬信した。(「絶粒」の意味がよく判らない。)彼等は屡々人が居ないところで話し込んだ。
 御史は、「君羨が妖人とつきあっているのは、不軌を謀っているのだ。」と上奏した。
 壬辰、君羨は有罪として誅され、その家は没収された。
 上が密かに太史令李淳風へ聞いた。
「秘記が伝えることは、信じられるのか?」
 対して言った。
「臣が仰いでは天象を観、伏して暦数を察したところ、その人は既に陛下の宮中にあり、親属となっております。いまから三十年経たないうちに天下の王となり、唐の子孫を殆ど殺し尽くすでしょう。その兆しは既に起こっております。」
 上は言った。
「疑わしい者を殺し尽くしたらどうか?」
「天命です。人の力ではどうしようもありません。王者は死にません。いたずらに無辜の民を大勢殺すだけでしょう。それに、今から三十年後ならば、その人は既に老境に入っておりましょうから、あるいは慈悲の心が芽生えて禍が少なくて済むかも知れません。今、もしも彼を殺せたならば、天は更に別の溌剌とした者を生み、陛下の子孫は却って皆殺しにされるかも知れませんぞ。」
 上は、殺戮を止めた。
 11司空梁文昭公房玄齡留守京師,疾篤,上徴赴玉華宮,肩輿入殿,至御座側乃下,相對流涕,因留宮下,聞其小愈則喜形於色;加劇則憂悴。玄齡謂諸子曰:「吾受主上厚恩,今天下無事,唯東征未已,羣臣莫敢諫,吾知而不言,死有餘責。」乃上表諫,以爲:「老子曰:『知足不辱,知止不殆。』陛下功名威德亦可足矣,拓地開疆亦可止矣,且陛下毎決一重囚,必令三覆五奏,進素膳,止音樂者,重人命也。今驅無罪之士卒,委之鋒刃之下,使肝腦塗地,獨不足愍乎!向使高麗違失臣節,誅之可也;侵擾百姓,滅之可也;他日能爲中國患,除之可也。今無此三條而坐煩中國,内爲前代雪恥,外爲新羅報讎,豈非所存者小,所損者大乎!願陛下許高麗自新,焚陵波之船,罷應募之衆,自然華、夷慶賴,遠肅邇安。臣旦夕入地,儻蒙録此哀鳴,死且不朽!」玄齡之遺愛尚上女高陽公主,上謂公主曰:「彼病篤如此,尚能憂我國家。」上自臨視,握手與訣,悲不自勝。癸卯,薨。
   柳芳曰:玄齡佐太宗定天下,及終相位,凡三十二年,天下號爲賢相;然無跡可尋,德亦至矣。故太宗定禍亂而房、杜不言功,王、魏善諫諍而房、杜讓其賢,英、衞善將兵而房、杜行其道,理致太平,善歸人主。爲唐宗臣,宜哉!
11.京師の留守をしている司空梁文昭公房玄齢が重病になった。上は玉華宮へ徴召し、肩輿で入殿させて御座の傍らで降ろした。上は玄齢と相対して涙を零し、そのまま宮下へ留めた。その後、玄齢の症状が少し回復したと聞いては喜びで顔を輝かせ、悪くなったと聞いては憂鬱で憔悴した。
 玄齢は諸子へ言った。
「我は主上の御厚恩を受けた。今、天下は無事だが、ただ東征が止まない。群臣は誰も敢えて諫めようとしないし、我はその害を知っていながら口にしない。これでは死んでも余責があるぞ。」
 そして、上表して諫めた。その大意は、
「老子は言いました。『満足を知れば辱められず、止まるを知れば危うからず。』と。陛下の高名威徳は、もう充分です。国土拡大も限度があります。それに、陛下は一死刑囚の判決毎に必ず三覆五奏させ、死刑執行の日には質素な食事にして音楽も止めさせています。これは、人の命の尊さを思ってのことではありませんか。それなのに今、無罪の士卒を刃の下へ駆り立てて、肝脳を地へ塗りつけようとしています。彼等のみ、愍れむに足りませんのか!それは、高麗が臣節を失ったのなら、これを誅すべきです。百姓を侵擾したのなら、滅ぼすべきです。後々中国の患いとなるのなら、除くべきです。しかし、今、この三箇条がありませんのに、中国の民を出征に煩わさせる。これは、内には前回の恥を雪ぎ、外には新羅の報復をする為だけです。何と些細な原因で 、大きな損を受けるのでしょうか!どうか陛下、高麗が悔い改めることを許し、軍監を焼き募兵を罷めてください。そうすれば華も夷も自然と慶頼し、遠方からは慕われ、近くは安らぎましょう。臣は旦夕にも地下へ入ります。もしもこの哀鳴を採っていただけましたら、臣は死しても朽ちません!」
 玄齢の子息の遺愛は上の娘の高陽公主を娶っていた。上は、公主へ言った。
「彼はこのように重病なのに、なお、我が国のことを憂えてくれている。」
 上は自ら見舞いに行き、手を握って訣別したが、悲しみをこらえきれなかった。
 癸卯、卒した。

 柳芳、曰く。
 玄齢は太宗の天下平定を補佐した。臨終になるまで宰相の地位にあり、その期間は凡そ三十二年。天下は賢相と号したが、その行跡を尋ねてみても、何も見あたらない。彼の徳はそこまで至ったか。
 太宗が禍乱を平定したのに、房・杜は功績を言い立てなかった。王、魏が善く諫めると、房・杜は彼等の賢へ譲った。英・衛が用兵に巧ければ、杜・房はその道を行った。太平を致しながら、善は全て人主へ帰順させたのだ。唐の宗臣となったのは、宜しいかな!
 12八月,己酉朔,日有食之。
12.八月、己酉朔、日食が起こった。
 13丁丑,敕越州都督府及婺、洪等州造海船及雙舫千一百艘。
13.丁丑、越州都督府と婺、洪等の州へ海船及び双舫千百艘を造るよう、敕した。
 14辛未,遣左領軍大將軍執失思力出金山道撃薛延陀餘寇。
14.辛未、左領軍大将軍執失思力を金山道から出陣させ、薛延陀の余寇を撃たせた。
 15九月,庚辰,崑丘道行軍大總管阿史那社爾撃處月、處密,破之,餘衆悉降。
15.九月、庚辰。崑丘道行軍大総管阿史那社爾が處月、處密を撃ち、これを破った。余衆は全て降伏する。
 16癸未,薛萬徹等伐高麗還。萬徹在軍中,使氣陵物,裴行方奏其怨望,坐除名,流象州。
16.癸未、薛萬徹等が高麗を伐って還った。萬徹は軍中で勝手気儘に掠奪をした。裴行方がその怨望を上奏したので、萬徹は有罪となり象州へ流された。
 17己丑,新羅奏爲百濟所攻,破其十三城。
17.己丑、新羅が、百済から攻められて十三城を破られたと上奏した。
 18己亥,以黄門侍郎褚遂良爲中書令。
18.己亥、黄門侍郎猪遂良を中書令とする。
 19強偉等發民造船,役及山獠,雅、邛、眉三州獠反。壬寅,遣茂州都督張士貴、右衞將軍梁建方發隴右、峽中兵二萬餘人以撃之。蜀人苦造船之役,或乞輸直雇潭州人造船;上許之。州縣督迫嚴急,民至賣田宅、鬻子女不能供,穀價踴貴,劍外騷然。上聞之,遣司農少卿長孫知人馳驛往視之。知人奏稱:「蜀人脆弱,不耐勞劇。大船一艘,庸絹二千二百三十六匹。山谷已伐之木,挽曳未畢,復徴船庸,二事併集,民不能堪,宜加存養。」上乃敕潭州船庸皆從官給。
19.強偉等が民を徴発して船を造ったが、その夫役は山獠へまでおしつけられた。おかげで、雅、邛、眉の三州の獠が造反した。
 壬寅、茂州都督張士貴、右衛将軍梁建夥多へ隴右、峽中の兵二万余人を与えてこれを撃たせた。蜀の人間は造船の賦役に苦しみ、ある者は、澤州から人を雇って船を造るよう請い、上はこれを許した。
 州や県の官吏達は、厳急に督迫したので、民は田宅を売ったり子女を売り払ってもノルマを果たすことが出来ぬ有様で、穀物の価格は高騰し、剣外は騒然となった。上は、これを聞くと司農卿長孫知人を派遣して検分させた。知人は、帰って来て上奏した。その大意は、
「蜀の人間はひ弱で、苛酷な労働に耐えられません。大船一艘の代わりに、庸絹二千二百三十匹を納めさせることにしましょう。山谷で伐った木を里まで持って来きもしないうちに、更に新しい船を造るよう命じられる。二艘の船を同時に造るなど、民はその労務に耐えられません。どうか民力を休ませてください。」
 上は、澤州の造船は、全て官から賃金を給与するよう敕した。
 20冬,十月,癸丑,車駕還京師。
20.冬、十月、癸丑。車駕が京師へ還った。
 21回紇吐迷度兄子烏紇蒸其叔母。烏紇與倶陸莫賀達官倶羅勃,皆突厥車鼻可汗之壻也,相與謀殺吐迷度以歸車鼻。烏紇夜引十餘騎襲吐迷度,殺之。燕然副都護元禮臣使人誘烏紇,許奏以爲瀚海都督,烏紇輕騎詣禮臣謝,禮臣執而斬之,以聞。上恐回紇部落離散,遣兵部尚書崔敦禮往安撫之。久之,倶羅勃入見,上留之不遣。
21.回紇吐迷度の兄の子烏紇は、その叔母と姦淫していた。
 烏紇と倶陸莫賀の高官倶羅勃は、共に突厥の車鼻可汗の婿である。彼等は、共に吐迷度を殺して車鼻へ帰順しようと謀った。
 烏紇が、夜、十余騎を率いて吐迷度を襲撃し、これを殺した。燕然の副都護元礼臣が烏紇を誘い込もうと、使者を派遣し、彼を瀚海都督とするよう上奏しようともちかけた。烏紇は軽騎を率いて礼臣のもとへ謝礼に赴いたので、礼臣はこれを捕らえて斬り、上聞した。
 上は、回紇部落が離散することを恐れ、兵部尚書崔敦礼を派遣して安撫した。
 しばらくして、倶羅勃が入見したので、上はこれを唐に留めて帰さなかった。
 22阿史那社爾既破處月、處密,引兵自焉耆之西趨龜茲北境,分兵爲五道,出其不意,焉耆王薛婆阿那支棄城奔龜茲,保其東境。社爾遣兵追撃,擒而斬之,立其從父弟先那準爲焉耆王,使修職貢。龜茲大震,守將多棄城走。社爾進屯磧口,去其都城三百里,遣伊州刺史韓威帥千餘騎爲前鋒,右〔驍〕衞將軍曹繼叔次之。至多褐城,龜茲王訶利布失畢、其相那利、羯獵顛帥衆五萬拒戰。鋒刃甫接,威引兵僞遁,龜茲悉衆追之,行三十里,與繼叔軍合。龜茲懼,將卻,繼叔乘之,龜茲大敗,逐北八十里。
22.阿史那社爾は處月と處密を破ると、兵を退いて焉耆の西から亀茲の北境へ赴いた。兵を五道へ分けて敵の不意を衝く。
 焉耆王薛婆阿支は城を棄てて亀茲へ逃げ、その東境を保つ。社爾は追撃してこれを捕らえ、斬る。そして、その従父弟の先那準を立てて焉耆王とし、職貢を修めさせた。
 亀茲は大いに震駭し、億の守将が城を棄てて逃げた。社爾は進軍して磧口へ屯営した。そこは、亀茲の首都から三百里の場所である。伊州刺史韓威へ千余を与えて先鋒として派遣し、右〔驍〕衛将軍曹継叔が後続となる。
 多褐城へ至ると、亀茲王訶利布失畢と、その相羯猟顛が五万の軍を率いて拒戦した。交戦すると、威は偽って逃げた。亀茲は全軍を挙げて追撃する。三十里ほど進むと、威は後続の継叔と合流した。亀茲は懼れ、退却する。継叔がこれに乗じたので、亀茲は大敗し、八十里逃げた。
 23甲戌,以廻紇吐迷度子前左驍衞大將軍〔翊左郎將〕婆閏爲左驍衞大將軍、大俟利發、瀚海都督。
23.甲戌、廻紇の吐迷度の子の、前の左屯衛大将軍〔翊左郎将〕婆閏を左驍衛大将軍、大俟利發、瀚海都督とする。
 24十一月,庚子,契丹帥窟哥、奚帥可度者並帥所部内屬。以契丹部爲松漠府,以窟哥爲都督;又以其別帥達稽等部爲峭落等九州,各以其辱紇主爲刺史。以奚部爲饒樂府,以可度者爲都督;又以其別帥阿會等部爲弱水等五州,亦各以其辱紇主爲刺史。辛丑,置東夷校尉官於營州。
24.十一月、庚子。契丹の帥窟哥と奚の帥可度者が、部族を率いて帰順した。契丹部を松漠府として窟哥を都督とする。又、その別帥達稽等の部を峭落等九州とし、おのおのその辱紇主を刺史とした。
 奚部を饒楽府とし、可度者を都督とする。又、その別帥阿會等の部を弱水等五州とし、おのおのその辱紇主を刺史とした。
 辛丑、営州に東夷校尉の官を設置した。
 25十二月,庚午,太子爲文德皇后作大慈恩寺成。
25.十二月、庚午、太子が文徳皇后の為に大慈恩寺を造っていたのが、落成した。
 26龜茲王布失畢既敗,走保都城,阿史那社爾進軍逼之,布失畢輕騎西走。社爾拔其城,使安西都護郭孝恪守之。沙州刺史蘇海政、尚輦奉御薛萬備帥精騎追布失畢,行六百里,布失畢窘急,保撥換城,社爾進軍攻之四旬,閏月,丁丑,拔之,擒布失畢及羯獵顛。那利脱身走,潛引西突厥之衆并其國兵萬餘人,襲撃孝恪。孝恪營於城外,龜茲人或告之,孝恪不以爲意。那利奄至,孝恪帥所部千餘人將入城,那利之衆已登城矣,城中降胡與之相應,共撃孝恪,矢刃如雨。孝恪不能敵,將復出,死於西門。城中大擾,倉部郎中崔義超召募得二百人,衞軍資財物,與龜茲戰於城中,曹繼叔、韓威亦營於城外,自城西北隅撃之。那利經宿乃退,斬首三千餘級,城中始定。後旬餘日,那利復引山北龜茲萬餘人趣都城,繼叔逆撃,大破之,斬首八千級。那利單騎走,龜茲人執之,以詣軍門。
  阿史那社爾前後破其大城五,遣左衞郎將權祗甫詣諸城,開示禍福,皆相帥請降,凡得七百餘城,虜男女數萬口。社爾乃召其父老,宣國威靈,諭以伐罪之意,立其王之弟葉護爲王,龜茲人大喜。西域震駭,西突厥、于闐、安國爭饋駝馬軍糧,社爾勒石紀功而還。
26.亀茲王布失畢は敗北の後、都城へ逃げ込んで、確保した。阿史那社爾が進軍してこれに迫ると、布失畢は軽騎で西へ逃げた。社爾はその城を抜き、安西都護郭孝恪に守らせた。
 沙州刺史蘇海政と尚輦奉御薛萬徹が精騎を率いて布失畢を追撃する。六百里進軍すると、布失畢は切羽詰まって撥換城を保った。社爾は、進軍してこれを四旬、攻め続けた。
 閏月、丁丑、これを抜き、布失畢と羯猟顛を捕らえる。
 那利は体一つで逃げ出したが、密かに西突厥の衆と亀茲の兵万余人を率いて、孝恪を襲撃した。この時、孝恪は城外に屯営していた。これを報告してくれた亀茲の人間も居たが、孝恪は気に留めなかった。
 那利がやって来ると、孝恪は手勢千余人を率いて城内へ入った。那利の兵が城へ登ると、城内の降胡がこれに呼応して共に孝恪を攻撃してきた。矢が、雨のように降る。孝恪は敵しきれず、城から脱出しようとしたが、西門にて戦死した。
 城中は大騒動になった。倉部郎中崔義超が募兵して二百人を得た。軍資財物を守り、城中で亀茲と戦う。曹継叔と韓成もまた、城外に屯営し、城の西北の隅を攻撃した。
 那利はしばらくして退却した。三千余の首級を斬り、城中はようやく安定した。
 旬余日後、那利は北亀茲の兵万余人を率いて、再び国都へ攻め寄せた。継叔は迎撃して、大いに破り、八千の首級を挙げる。那利は単騎で逃げたが、亀茲人がこれを捕らえ、軍門へ差し出した。
 阿史那社爾は敵の大城を合計五つ破った。左衛郎将権祇甫へ諸城を巡らせて禍福を説かせると、皆、降伏を請うてきた。これによっておよそ七百城を得、男女数万人を虜にした。社爾はそれらのうち父老を呼び寄せ、唐の威霊を述べ、今回の戦争が罪を伐つものだったことを伝え、王の弟の葉護を王に立てた。亀茲の人々は大いに喜ぶ。
 西域は大騒動となり、西突厥、于闐、安国が争うように軍糧を満載した駱駝を贈ってきた。社爾は戦功を石へ刻み込んで還った。
 27戊寅,以崑丘道行軍總管、左驍衞將軍阿史那賀魯爲泥伏沙鉢羅葉護,賜以鼓纛,使招討西突厥之未服者。
27.戊寅、崑丘道行軍総管、左驍衞将軍阿史那賀魯を泥伏沙鉢羅葉護として、鼓纛を賜下し、西突厥のまだ服従しないものを招討させた。
 28癸未,新羅相金春秋及其子文王入見。春秋,眞德之弟也。上以春秋爲特進,文王爲左武衞將軍。春秋請改章服從中國,内出冬服賜之。
28.癸未、新羅の相金春秋とその子の文王が入見した。春秋は眞徳の子息である。
 上は春秋を特進として、文王を左武衛将軍とした。春秋は、新羅の朝廷で中国と同じ服装を使うことを請うた。そこで唐では、冬服を賜下した。
二十三年(己酉、六四九)

 春,正月,辛亥,龜茲王布失畢及其相那利等至京師,上責讓而釋之,以布失畢爲左武衞中郎將。
1.春、正月、辛亥。亀茲王布失畢と、その相那利等が、京師へ到着した。上は、彼等を責譲した後、赦してやり、布失畢を左武衛中郎将とした。
 西南徒莫祗等蠻内附,以其地爲傍、望、覽、丘四州,隸朗州都督府。
2.西南の徒莫祇等の蛮が帰順した。その土地を傍、望、覧、丘の四州として、朗州都督府へ隷属させた。
 上以突厥車鼻可汗不入朝,遣右驍衞郎將高侃發回紇、僕骨等兵襲撃之。兵入其境,諸部落相繼來降。拔悉密吐屯肥羅察降,以其地置新黎州。
3.突厥の車鼻可汗が入朝しない。上は、右驍衛郎将高侃へ回&#x7d07、僕骨等の兵を徴発させて、これを攻撃させた。
 兵が突厥国内へ入ると、諸部落が相継いで降伏してきた。抜悉密の吐屯肥羅察が降伏したので、その地へ新黎州を設置した。
 二月,丙戌,置瑤池都督府,隸安西都護;戊子,以左衞將軍阿史那賀魯爲瑤池都督。
4.二月、丙戌。瑶池都督府を設置し、安西都護へ隷属させた。
 戊子、左驍衛将軍阿史那賀魯を瑶池都督とした。
 三月,丙辰,置豐州都督府,使燕然都護李素立兼都督。
5.三月、丙辰。豊州都督府を設置し、燕然都護李素立へ都督を兼務させた。
 去冬旱,至是始雨。辛酉,上力疾至顯道門外,赦天下。丁卯,敕太子於金液門聽政。
6.去年の冬は旱だったが、ここに至って始めて雨が降った。
 辛酉、上は病をおして顕道門外まで出て、天下へ赦を下した。
 丁卯、太子が金液門にて政治を執るよう敕した。
 夏,四月,乙亥,上行幸翠微宮。
7.夏、四月、乙亥。上は翠微宮へ御幸した。
 上謂太子曰:「李世勣才智有餘,然汝與之無恩,恐不能懷服。我今黜之,若其即行,俟我死,汝於後用爲僕射,親任之;若徘徊顧望,當殺之耳。」五月,戊午,以同中書門下三品李世勣爲疊州都督;世勣受詔,不至家而去。
8.上が太子へ言った。
「李世勣には才知が有り余っているが、汝は彼へ何の恩も与えていない。これでは服従されないかも知れない。だから我は今回、彼を地方へ飛ばす。もしも奴がすぐに出立したなら、我が死ぬのを待ってから、彼を僕射として親任せよ。だが、奴が出立をぐずついたなら、殺してしまうぞ。」
 五月、戊午、同中書門下三品李世勣を畳州都督とした。李世勣は詔を受けると、家にも帰らずに出発した。
 辛酉,開府儀同三司衞景武公李靖薨。
9.辛酉、開府儀同三司衛景武公李靖が卒した。
 10上苦利增劇,太子晝夜不離側,或累日不食,髪有變白者。上泣曰:「汝能孝愛如此,吾死何恨!」丁卯,疾篤,召長孫無忌入含風殿。上臥,引手捫無忌頤,無忌哭,悲不自勝;上竟不得有所言,因令無忌出。己巳,復召無忌及褚遂良入臥内,謂之曰:「朕今悉以後事付公輩。太子仁孝,公輩所知,善輔導之!」謂太子曰:「無忌、遂良在,汝勿憂天下!」又謂遂良曰:「無忌盡忠於我,我有天下,多其力也,我死,勿令讒人間之。」仍令遂良草遺詔。有頃,上崩。
  太子擁無忌頸,號慟將絶,無忌攬涕,請處分衆事以安内外,太子哀號不已,無忌曰:「主上以宗廟社稷付殿下,豈得效匹夫唯哭泣乎!」乃秘不發喪。庚午,無忌等請太子先還,飛騎、勁兵及舊將皆從。辛未,太子入京城;大行御馬輿,侍衞如平日,繼太子而至,頓於兩儀殿。以太子左庶子于志寧爲侍中,少詹事張行成兼侍中,以檢校刑部尚書、右庶子、兼吏部侍郎高季輔兼中書令。壬申,發喪太極殿,宣遺詔,太子即位。軍國大事,不可停闕;平常細務,委之有司。諸王爲都督、刺史者,並聽奔喪,濮王泰不在來限。罷遼東之役及諸土木之功。四夷之人入仕於朝及來朝貢者數百人,聞喪皆慟哭,剪髮、剺面、割耳,流血灑地。
  六月,甲戌朔,高宗即位,赦天下。
10.上の病状は益々ひどくなった。
 太子は昼夜側を離れない。数日食事を摂らない時もあり、頭には白髪も混じり始めた。上は、泣いて言った。
「汝がそんなに孝養を尽くしてくれるから、もう死んでも恨みはないぞ!」
 丁卯、病が篤く、長孫無忌を含風殿へ召し入れた。上は伏したまま無忌の顎へ手を差し出した。無忌は悲しさに耐えきれずに哭く。上は、遂に何も言えなかったので、無忌を退出させた。
 己巳、再び無忌と褚遂良を部屋へ召し入れ、言った。
「朕は今、後事を全て公輩へ託す。公輩も知っているように、太子は孝仁だ。これを善く輔導してくれ!」
 そして、太子へ言った。
「無忌と遂良がいれば、汝は天下に憂いがないぞ!」
 また、遂良へ言った。
「無忌は我へ忠節をつくした。我が天下を取れたのも、彼の助力が大きい。我が死んでも、讒言で疑ったりするな。」
 そして、遂良へ遺詔を書かせた。
 しばらくして、上は崩御した。(享年53歳)
 太子は、無忌の首を抱いて気絶するほど慟哭した。無忌は抱きかかえて、内外を安心させる為の衆事の処理を請うた。太子は哀号を止めなかったので、無忌は言った。
「衆生は、宗廟社稷を殿下へ託されたのです。なんで匹夫のように泣き濡れていて良いでしょうか!」
 そして、喪を秘して発しなかった。
 庚午、無忌等は太子が先に宮殿へ還るよう請うた。飛騎、勁兵及び旧将が皆、これに従った。
 辛未、太子が京城へ入った。大行の馬輿や侍衛はいつも通りだった。続いて太子が到着し、両儀殿へ入った。太子左庶子于士寧を侍中とし、少詹事張行成へ侍中を兼務させ、検校刑部尚書、右庶子、兼吏部侍郎高李輔へ中書令を兼務させた。
 壬申、太極殿で喪を発し、遺詔を宣して太子が即位した。軍国の大事は停止することは出来ないが、平常の細務は係の役人へ一任する。
 都督や刺史となっている諸王が喪へ駆けつけてきたが、濮王泰だけが期限に間に合わなかった。遼東の役と諸々の土木工事を中止する。
 四夷から朝廷へ入っている者や、朝貢に来ている者が総勢数百人いたが、皆、喪を聞いて慟哭した。哀しみのあまり、あるものは髪を切り、顔を傷つけ、耳を切り落としたので、彼等の流血が地を染めた。
 六月、高宗が即位して、天下へ赦を下した。
 11丁丑,以疊州都督李勣爲特進、檢校洛州刺史、洛陽宮留守。
11.丁丑、畳州都督李勣を特進、洛州刺史、洛陽宮留守とした。(ここで始めて、李世勣が李勣となった。太宗の名前を避けて、「世」の字を取り去ったのだ。12.参照)
 12先是,太宗二名,令天下不連言者勿避;至是,始改官名犯先帝諱者。
12.話は前後するが、太宗は名前が二字だったので、「世民」と二字が繋がっていなければ、名前を避けなくてもかまわない、と令していた。ここにいたって、先帝の名前を犯している官名は全て改めた。
 13癸未,以長孫無忌爲太尉,兼檢校中書令,知尚書、門下二省事。無忌固辭知尚書省事,帝許之,仍令以大尉同中書門下三品。癸巳,以李勣爲開府儀同三司、同中書門下三品。
13.癸未、長孫無忌を太尉として、検校中書令、知尚書・門下二省事と兼任させた。しかし無忌が知尚書事を固辞したので、帝は許し、太尉同中書門下三品とした。
 癸巳、李勣を開府儀同三司、同中書門下三品とした。
 14阿史那社爾之破龜茲也,行軍長史薛萬備請因兵威説于闐王伏闍信入朝,社爾從之。秋,七月,己酉,伏闍信隨萬備入朝,詔入謁梓宮。
14.阿史那社爾が亀茲を破ると、行軍長史薛万備は兵威で于闐王伏闍信を入朝させるよう請い、社爾はこれに従った。
 秋、七月、己酉。伏闍信が万備に従って入朝した。詔して梓宮にて謁見する。
 15八月,癸酉,夜,地震,晉州尤甚,壓殺五千餘人。
15.八月、癸酉、夜、地震が起こった。晋州が最も激しく、五千余人が死んだ。
 16庚寅,葬文皇帝于昭陵,廟號太宗。阿史那社爾、契苾何力請殺身殉葬,上遣人諭以先旨不許。蠻夷君長爲先帝所擒服者頡利等十四人,皆琢石爲其像,刻名列於北司馬門内。
16.庚寅、文皇帝を昭陵に葬った。阿史那社爾と契苾何力は殉死して陵へ併葬されることを請願した。上は使者を派遣して、先帝の旨で諭し、許さなかった。
 頡利可汗を初め、先帝に捕らえられた蛮夷の君長十四人は、皆、石を磨いて像を造り、北司馬門内へ名を刻んだ。
 17丁酉,禮部尚書許敬宗奏弘農府君廟應毀,請藏主於西夾室,從之。
17.丁酉、礼部尚書許敬宗が弘農府君の廟を壊し、西夾室へしまうよう上奏した。これに従う。
(弘農君府は魏の弘農太守重耳。高宗の七世の祖である。太廟には東西に夾室が併設されている。)
 18九月,乙卯,以李勣爲左僕射。
18.九月、乙卯。李勣を左僕射とする。
 19冬,十月,以突厥諸部置舎利等五州隸雲中都督府,蘇農等六州隸定襄都督府。
19.冬、十月。突厥の諸部を州とする。新設された舎利等五州を雲中都督府に隷属させ、蘇農等六州を定襄都督府へ隷属させた。
 20乙亥,上問大理卿唐臨繋囚之數,對曰:「見囚五十餘人,唯二人應死。」上悅。上嘗録繋囚,前卿所處者多號呼稱冤,臨所處者獨無言。上怪問其故。囚曰:「唐卿所處,本自無冤。」上歎息良久,曰:「治獄者不當如是邪!」
20.乙亥、上は大理卿唐臨へ投獄されている囚人の数を問うた。臨は答えた。
「五十余人です。死んだのは二人だけです。」
 上は悦んだ。
 上は、かつてかつて囚人を見回ったところ、前任の大理卿から投獄された囚人達の大半が冤罪だと言い立てていたのに、臨から投獄された囚人と一人も冤罪を訴えなかった。上が怪しんで理由を尋ねると、囚人は答えた。
「唐卿の裁判に冤罪はありません。」
 上は暫く感嘆した後、言った。
「彼以上の裁判官はいない!」
 21上以吐蕃贊普弄讚爲駙馬都尉,封西海郡王。贊普致書于長孫無忌等云:「天子初即位,臣下有不忠者,當勒兵赴國討除之。」
21.上は吐蕃の賛普弄讚を駙馬都尉として、西海郡王へ封じた。賛普は、長孫無忌等へ書を渡して言った。
「天子は即位したばかりです。臣下に不忠者がいたら、兵を率いて御国へ駆けつけ打ち払ってあげますぞ。」(胡三省、注。太宗が死んだので、吐蕃は中国を軽く見たのだ。)
 22十二月,詔濮王泰開府置僚屬,車服珍膳,特加優異。
22.十二月、濮王泰へ府を開かせて幕僚を設置し、車服珍膳は特別扱いするよう詔した。

  高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之上

永徽元年(庚戌、六五〇)

 春,正月,辛丑朔,改元。
1.春、正月、辛丑朔、改元する。
 丙午,立妃王氏爲皇后。后,思政之孫也。以后父仁祐爲特進、魏國公。
2.丙午、王氏を皇后に立てた。后は思政の孫である。后の父の仁祐を特進、魏国公とした。
 己未,以張行成爲侍中。
3.己未、張行成を侍中とする。
 辛酉,上召朝集使,謂曰:「朕初即位,事有不便於百姓者悉宜陳,不盡者更封奏。」自是日引刺史十人入閤,問以百姓疾苦,及其政治。
  有洛陽人李弘泰誣告長孫無忌謀反,上立命斬之。無忌與褚遂良同心輔政,上亦尊禮二人,恭己以聽之,故永徽之政,百姓阜安,有貞觀之遺風。
4.辛酉、上は朝集使を召して、言った。
「朕は即位したばかりだ。百姓に不便なことがあれば、悉く陳述せよ。口に出せないことならば封奏せよ。」
 これより、毎日刺史を十人入閣させて、百姓の疾苦を問い、政治に反映させた。
 洛陽の人李弘泰が、長孫無忌が造反を謀っていると誣告した。上は、すぐに李弘泰を斬罪に処した。無忌と褚遂良は心を併せて政治を輔け、上も又二人を尊礼し、その述べることは恭しく拝聴した。だから、永徽の政治に百姓は安んじ、貞観の遺風があった。
 太宗女衡山公主應適長孫氏,有司以爲服既公除,欲以今秋成婚。于志寧上言:「漢文立制,本爲天下百姓。公主服本斬衰,縱使服隨例除,豈可情隨例改,請俟三年喪畢成婚。」上從之。
5.太宗の娘衡山公主が長孫氏へ嫁ぐのに、既に服喪は終わったと天下に公表しているので今秋にでも成婚させたい、と、役人が上奏した。すると、于志寧が上言した。
「漢の文帝は、天下の百姓を本にして制度を立てました。公主の服喪の期間は次第に短くなっております。服喪は慣例に従って終わるものであり、心情に従って慣例を改めてはなりません。どうか三年待って喪が終わってから成婚させてください。」
 上は、これに従った。
 二月,辛卯,立皇子孝爲許王,上金爲杞王,素節爲雍王。
6.二月、辛卯。皇子孝を許王、上金を杞王に、素節をヨウ王に立てた。
 夏,五月,壬戌,吐蕃贊普弄讚卒,其嫡子早死,立其孫爲贊普。贊普幼弱,政事皆決於國相祿東贊。祿東贊性明達嚴重,行兵有法,吐蕃所以強大,威服氐、羌,皆其謀也。
7.夏、五月、壬戌。吐蕃の賛普弄讃が卒した。
 嫡子は早くに死んでいたので、その孫を賛普に立てる。賛普が幼弱なので、政事は全て国相の禄東賛が決定した。
 禄東賛は明達で厳重な人間。戦争には法があったので、吐蕃は強大になった。氐や羌を威服させたのも、全て彼の謀である。
 六月,高侃撃突厥,至阿息山。車鼻可汗召諸部兵皆不赴,與數百騎遁去。侃帥精騎追至金山,擒之以歸,其衆皆降。
8.六月、高侃が突厥を攻撃して阿息山へ至った。車鼻可汗は諸部の兵を召集したが、誰もやってこない。とうとう、数百騎で逃げ出した。侃は精騎を率いて金山まで追撃し、これを捕らえて帰った。その民は全て降伏した。
 初,阿史那社爾虜龜茲王布失畢,立其弟爲王。唐兵既還,其酋長爭立,更相攻撃。秋,八月,壬午,詔復以布失畢爲龜茲王,遣歸國,撫其衆。
9.以前、阿史那社爾は亀茲王布失畢を捕らえ、その弟を王に立てていた。だが、唐軍が帰国すると、酋長達は王位を争って互いに攻撃しあった。
 秋、八月、壬午。布失畢を亀茲王に復位させると詔し、これを帰国させて衆を慰撫させた。
 10九月,庚子,高侃執車鼻可汗至京師,釋之,拜左武衞將軍,處其餘衆於鬱督軍山,置狼山都督府以統之。以高侃爲衞將軍。於是突厥盡爲封内之臣,分置單于、瀚海二都護府。單于領狼山、雲中、桑乾三都督,蘇農等一十四州;瀚海領瀚海、金徽、新黎等七都督,仙萼等八州;各以其酋長爲刺史、都督。
10.九月、庚子、高侃が車鼻可汗を捕らえて京師へ帰った。これを赦し、左武衛将軍とし、その余衆は鬱督軍山へ住ませ、狼山都督府を設置して、これを統治させた。高侃を衛将軍とする。(唐に衛将軍はない。衛の前に一字脱落していると思われる。)
 ここにおいて、突厥は全て封内の臣となった(唐の領土となった)。単于、瀚海の二都護府を分置する。
 単于は狼山、雲中、桑乾の三都督、蘇農等十四州を領する。瀚海は瀚海、金徽、新黎等七都督、仙萼等八州を領する。各々、その酋長を刺史、都督とした。
 11癸亥,上出畋,遇雨,問諫議大夫昌樂谷那律曰:「油衣若爲則不漏?」對曰:「以瓦爲之,必不漏。」上悅,爲之罷獵。
11.癸亥、上が狩猟に出て、雨に遭った。上は、諫議大夫の昌楽の那律へ問うた。
「油衣にすれば濡れないかな?」
 対して言った。
「瓦ならば、絶対洩れません。」
 上は悦んで、狩猟を止めた。
 12李勣固求解職;冬,十月,戊辰,解勣左僕射,以開府儀同三司、同中書門下三品。
12.李勣が辞職を求めた。
 冬、十月、戊辰。李勣の左僕射を解任し、開府儀同三司、同中書門下三品とした。
 13己未,監察御史陽武韋思謙劾奏中書令褚遂良抑買中書譯語人地。大理少卿張叡册以爲准估無罪。思謙奏曰:「估價之設,備國家所須,臣下交易,豈得准估爲定!叡册舞文,附下罔上,罪當誅。」是日,左遷遂良爲同州刺史,叡册循州刺史。思謙名仁約,以字行。
13.己未、監察御史の陽武の韋思謙が、中書令褚遂良が中書の通訳の土地を買い叩いたと弾劾した。大理少卿の張叡冊は、見積もりに基づいたと判断し無罪とした。だが、思謙は上奏した。
「国家の必要に備える為に、見積もりが設定されているのです。臣下の交易が、どうして見積価格に準じられましょうか!叡冊の判決文は下とグルになって上をめくらますものです。誅するべきです。」
 この日、遂良は同州刺史へ、叡冊は循州刺史へ左遷された。
 思謙の名は仁約。だが、字の方が有名である。
 14十二月,庚午,梓州都督謝萬歳、兗州都督謝法興與黔州都督李孟嘗討琰州叛獠;萬歳、法興入洞招慰,爲獠所殺。
14.十二月、庚午。梓州都督謝万歳、袞州都督謝法興と黔州都督李孟嘗が琰州の造反した獠を討伐した。
 万歳と法興は洞へ入って招慰したが、獠から殺された。
永徽二年(辛亥、六五一)

 春,正月,乙巳,以黄門侍郎宇文節、中書侍郎柳奭並同中書門下三品。奭,亨之兄子,王皇后之舅也。
1.春、正月、乙巳。黄門侍郎宇文節と中書侍郎柳爽を共に同中書門下三品とした。爽は亨の兄の子で、王皇后の舅である。
 左驍衞將軍、瑤池都督阿史那賀魯招集離散,廬帳漸盛,聞太宗崩,謀襲取西、庭二州。庭州刺史駱弘義知其謀,表言之,上遣通事舎人橋寶明馳往慰撫。寶明説賀魯,令長子咥運入宿衞,授右驍衞中郎將,尋復遣歸。咥運乃説其父擁衆西走,撃破乙毗射匱可汗,併其衆,建牙于雙河及千泉,自號沙鉢羅可汗,咄陸五啜、努失畢五俟斤皆歸之,勝兵數十萬,與乙毗咄陸可汗連兵,處月、處密及西域諸國多附之。以咥運爲莫賀咄葉護。
2.左驍衛将軍、瑤池都督阿史那賀魯が離散した民を招集したので、廬帳も次第に人が増えていた。そんな折に太宗の崩御を聞き、西、庭二州を襲取しようと謀った。庭州刺史駱弘義がその謀略を知り、上表して知らせた。上は通事舎人橋寶明を派遣して、慰撫させた。寶明は賀魯を説得し、長子の咥運を宿衛へ入れさせた。咥運へ右驍衛中郎将を授けて、帰国させる。
 咥運は父へ説き、衆を擁して西へ走った。阿史那賀魯は乙毗射匱可汗を撃破してその衆を併呑し、雙河及び千泉へ牙帳を建てて沙鉢羅可汗と号した。咄陸の五啜や努失畢の五俟斤が皆、これへ帰順し、勝兵は数十万を数えた。乙毗咄陸可汗と連合すると、處月、處密や西域諸国が多く彼等へ帰属した。咥運を莫賀咄葉護とした。
 焉耆王婆伽利卒,國人表請復立故王突騎支;夏,四月,詔加突騎支右武衞將軍,遣還國。
3.焉耆王婆伽利が卒した。国人は、元の王の突騎支を再び立てるよう請願した。
 夏、四月。突騎支へ右武衛将軍を加えて帰国させるよう、詔が降りた。
 金州刺史滕王元嬰驕奢縱逸,居亮陰中,畋遊無節,數夜開城門,勞擾百姓,或引彈彈人,或埋人雪中以戲笑。上賜書切讓之,且曰:「取適之方,亦應多緒,晉靈荒君,何足爲則!朕以王至親,不能致王於法,今書王下上考以愧王心。」
  元嬰與蔣王惲皆好聚斂,上嘗賜諸王帛各五百段,獨不及二王,敕曰:「滕叔、蔣兄自能經紀,不須賜物;給麻兩車以爲錢貫。」二王大慙。
4.金州刺史滕王元嬰は驕奢放縦。亮陰の中に居し(?)、無節操に狩猟をして、屡々夜中に城門を開ける有様。百姓は疲れ果てた。或いは、弾き弓で人を撃ったり、雪の中へ人を埋めて戯笑した。上は、書を賜下して切にこれをたしなめ、かつ、言った。
「立派な人間をこそ手本とするべきだ。晋の霊王は荒君、何で手本とするに足りようか!王は朕の至親だから、法で処罰するに忍びない。今、書を王へ下し、王の心に愧を思わせよう。」
 元嬰と蒋王惲は、共に金をかき集めるのが好きだった。上は嘗て諸王へ各々帛五百段を賜下したが、ただこの二王へは渡さず、敕して言った。
「滕叔と蒋兄は切り盛り上手だから、賜物の必要はない。車二台分の麻を給付するから、これを銭を貫く紐としなさい。」
 二王は大いに恥じ入った。
 秋,七月,西突厥沙鉢羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衞大將軍契苾何力爲弓月道行軍總管,右驍衞將軍高德逸、右武候將軍薛孤呉仁爲副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。
5.秋、七月。西突厥の沙鉢羅可汗が庭州へ来寇し、金嶺城と蒲類県を攻め落とし、数千人を殺略した。左武候大将軍梁建方と右驍衛大将軍契苾何力を弓月道行軍総管として、右驍衛将軍高徳逸と右武候将軍薛孤呉仁を副官とし、秦、成、岐、雍の府兵三万人及び回紇五万騎を徴発してこれを討伐するよう詔が降りた。
 癸巳,詔諸禮官學士議明堂制度,以高祖配五天帝,太宗配五人帝。
6.癸巳、諸礼官の学士へ明堂の制度を議論するよう詔が降りた。高祖へ五天帝を配置し、太宗へ五人帝を配置する。
 八月,己巳,以于志寧爲左僕射,張行成爲右僕射,高季輔爲侍中;志寧、行成仍同中書門下三品。
7.八月、己巳。于志寧を左僕射、張行成を右僕射、高季輔を侍中とする。志寧と行成は同中書門下三品とする。
 己卯,郎州白水蠻反,寇麻州,遣左領軍將軍趙孝祖等發兵討之。
8.己卯、郎州の白水蛮が造反し、麻州へ来寇した。左領軍将軍趙孝祖等を派遣し、兵を発して討伐させた。
 九月,癸巳,廢玉華宮爲佛寺。戊戌,更命九成宮爲萬年宮。
9.九月、癸巳。玉華宮を廃止して、仏寺とした。
 戊戌、九成宮を万年宮と改称する。
 10庚戌,左武候引駕盧文操踰牆盜左藏物,上以引駕職在糾繩,乃自爲盜,命誅之。諫議大夫蕭鈞諫曰:「文操情實難原,然法不至死。」上乃免文操死,顧侍臣曰:「此眞諫議也!」
10.庚戌、左武候引駕の盧文操が、ひめがきを越えて左藏物を盗んだ。
 引駕職とゆう、盗人を捕まえるべき人間が自ら盗みを働いたので、上は誅殺するよう命じたが、諫議大夫の蕭鈞が諫めて言った。
「文操のやったことは、心情としてはとても赦せません。しかし法では死罪にはなりません。」
 上は文操の死を免除し、侍臣を顧みて、言った。
「これこそ、真の諫議だ。」
 11閏月,長孫無忌等上所刪定律令式,甲戌,詔頒之四方。
11.閏月、長孫無忌等が策定した律令式を上納した。
 甲戌、これを四方へ頒布する。
 12上謂宰相曰:「聞所在官司,行事猶互觀顏面,多不盡公。」長孫無忌對曰:「此豈敢言無;然肆情曲法,實亦不敢。至於小小收取人情,恐陛下尚不能免。」無忌以元舅輔政,凡有所言,上無不嘉納。
12.上が宰相へ言った。
「官司達は互いの顔色を見ながら仕事をしており、公に尽くさないことが多いと聞くぞ。」
 長孫無忌が対して言った。
「正論です。しかし、情に流れて法を曲げるような事態にまでは至っておりません。些細な事に目をつぶることまで論じるのなら、陛下とて同罪になってしまいますぞ。」
 無忌は元舅として輔政していた。およそ彼の言うことは、上は皆嘉納した。
 13冬,十有一月,辛酉,上祀南郊。
13.冬、十一月。辛酉、上が南郊を祀った。
 14癸酉,詔:「自今京官及外州有獻鷹隼及犬馬者,罪之。」
14.癸酉、詔した。
「今後、京官や外州で鷹や隼や犬馬を献上する者がいれば、これを罰する。」
 15戊寅,特浪羌酋董悉奉求、辟惠羌酋卜檐莫各帥種落萬餘戸詣茂州内附。
15.戊寅、特浪羌の酋長董悉奉求と辟恵羌の酋長卜檐莫が、各々種落万余戸を率いて茂州を詣で、帰順した。
 16竇州、義州蠻酋李寶誠等反,桂州都督劉伯英討平之。
16.竇州、義州の蛮酋李宝誠等が造反した。桂州都督劉伯英がこれを討って平定した。
 17郎州道總管趙孝祖討白水蠻,蠻酋禿磨蒲及儉彌于帥衆據險拒戰,孝祖皆撃斬之。會大雪,蠻饑凍,死亡略盡。孝祖奏言:「貞觀中討昆州烏蠻,始開靑蛉、弄棟爲州縣。弄棟之西有小勃弄、大勃弄二川,恆扇誘弄棟,欲使之反。其勃弄以西與黄瓜、葉楡、西洱河相接,人衆殷實,多於蜀川,無大酋長,好結讎怨,今因破白水之兵,請隨便西討,撫而安之。」敕許之。
17.郎州道総管趙孝祖が白水蛮を討った。蛮酋の禿磨蒲と倹弥于は衆を率いて険に據り拒戦した。孝祖は皆撃って、これを斬る。丁度大雪が降り、蛮は飢え凍え、殆ど死に尽くした。
 孝祖は上奏した。
「貞観年間に昆州の烏蛮を討ち、始めて青蛉、弄棟を州県としました。弄棟の西に小勃弄、大勃弄の二川があり、弄棟はその天険に誘われるように造反しています。その勃弄は西方で黄瓜、葉楡、西洱河と接しており、人は大勢住んでいますが、蜀川が多いので大酋長が居らず、互いに攻め合って仇敵となっています。今、白水軍を破ったのを契機に西討を行い、これを安撫させてください。」
 敕にて、これを許す。
 18十二月,壬子,處月朱邪孤注殺招慰使單道惠,與突厥賀魯相結。
18.十二月、壬子、處月の朱邪孤注が招慰使の単道恵を殺し、突厥の賀魯と結託した。
 19是歳,百濟遣使入貢,上戒之,使「勿與新羅、高麗相攻,不然,吾將發兵討汝矣。」
19.この年、百済の使者が入貢した。上はこれを戒めた。
「新羅や高麗と戦争をしてはならない。そんなことをしたら、我は出兵して汝を討つ。」
三年(壬子、六五二)

 春,正月,己未朔,吐谷渾、新羅、高麗、百濟並遣使入貢。
1.春、正月、己未朔、吐谷渾、新羅、高麗、百済が使者を派遣して入貢した。
 癸亥,梁建方、契苾何力等大破處月朱邪孤注於牢山。孤注夜遁,建方使副總管高德逸輕騎追之,行五百餘里,生擒孤注,斬首九千級。軍還,御史劾奏梁建方兵力足以追討,而逗留不進;高德逸敕令市馬,自取駿者。上以建方等有功,釋不問。大理卿李道裕奏言:「德逸所取之馬,筋力異常,請實中廐。」上謂侍臣曰:「道裕法官,進馬非其本職,妄希我意;豈朕行事不爲臣下所信邪!朕方自咎,故不復黜道裕耳。」
2.癸亥、梁建方、契苾何力等が牢山にて處月の朱邪孤注を大いに破った。
 孤注は夜にまぎれて逃げる。建方は副総管の高徳逸へ軽騎で追撃させた。五百余里追いかけて、孤注を生け捕り、九千の首級を挙げる。
 軍が還ると、御史は、梁建方が兵力は充分だったのに追撃せず逗留して進軍しなかったことを弾劾した。また、高徳逸は敕令を受けて馬を買ってきたが、その中で一番の駿馬は自分で取ってしまった。
 上は、建方は軍功を挙げたので赦して不問とした。
 大理卿李道裕が上奏した。
「徳逸が取った馬は筋力が素晴らしい逸品です。これを中厩へ入れましょう。」
 上は侍臣へ言った。
「道裕は法官だ。馬を進めるのはその本分ではないのに、妄りに我が心に阿った。朕の常日頃の行動が悪かったから、このような事をすれば喜ぶと臣下から思われたのだ。どうしてこれでよかろうか!朕は自分を咎める。だから敢えて道裕を降格しないのだ。」
 己巳,以同州刺史褚遂良爲吏部尚書、同中書門下三品。
3.己巳、同州刺史褚遂良を吏部尚書、同中書門下三品とする。
 丙子,上饗太廟;丁亥,饗先農,躬耕籍田。
4.丙子、上が太廟で饗宴を開いた。
 丁亥、先農で饗宴し、自ら籍田を耕した。
 二月,甲寅,上御安福門樓,觀百戲。乙卯,上謂侍臣曰:「昨登樓,欲以觀人情及風谷奢儉,非爲聲樂。朕聞胡人善爲撃鞠之戲,嘗一觀之。昨初升樓,即有羣胡撃鞠,意謂朕篤好之也。帝王所爲,豈宜容易。朕已焚此鞠,冀杜胡人窺望之情,亦因以爲誡。」
5.二月、甲寅、上は安福門楼へ御幸し、百戯を観る。
 乙卯、上は侍臣へ言った。
「昨日楼へ登ったのは、人情及び風俗の奢倹を観たかったのだ。声楽を楽しみたかったのではない。胡人は撃鞠の戯が巧いと朕は聞いており、かつて一度観たことがある。昨日始めて楼へ登ったが、群胡が撃鞠をしていた。彼等は、朕がこれを好むと思っていたのだろう。だが、帝王の所業が、どうしてそんな甘い物だろうか。朕は既にこの鞠を焼いた。胡人がこれで我が想いを理解し、戒めとしてくれるよう冀っている。」
 三月,辛巳,以宇文節爲侍中,柳奭爲中書令,以兵部侍郎三原韓瑗守黄門侍郎、同中書門下三品。
6.三月、辛巳。宇文節を侍中、柳爽を中書令、兵部侍郎の三原の韓瑗を守黄門侍郎、同中書門下三品とする。
 夏,四月,趙孝祖大破西南蠻,斬小勃弄酋長歿盛,擒大勃弄酋長楊承顛。自餘皆屯聚保險,大者有衆數萬,小者數千人,孝祖皆破降之,西南蠻遂定。
7.夏、四月。趙孝祖が、西南蛮を大いに破り、小勃弄の酋長歿盛を斬り、大勃弄の酋長楊承顛を捕らえる。自余の者は皆、寄り集まって険を保った。その多い者は数万、少ない者は数千。だが、孝祖はこれを皆破って降した。こうして、西南蛮は平定された。
 甲午,澧州刺史彭思王元則薨。
8.甲午、澧州刺史彭思王元則が卒した。
 六月,戊申,遣兵部尚書崔敦禮等將并、汾歩騎萬人往茂州。發薛延陀餘衆渡河,置祁連州以處之。
9.六月、戊申、兵部尚書崔敦礼等へ并、汾の歩騎万人を率いさせて茂州へ派遣する。薛延陀の余衆を発して河を渡らせ、祁連州を設置してここへ住まわせた。
 10秋,七月,丁巳,立陳王忠爲皇太子,赦天下。王皇后無子,柳奭爲后謀,以忠母劉氏微賤,勸后立忠爲太子,冀其親己;外則諷長孫無忌等使請於上。上從之。乙丑,以于志寧兼太子少師,張行成兼少傅,高季輔兼少保。
10.秋、七月、丁巳。陳王忠を皇太子に立て、天下へ恩赦を下す。
 王皇后には子供が居なかったので、柳爽が皇后の為に謀ったのだ。忠の母親の劉氏は微賤だったので、忠を太子に立てるよう皇后へ勧めた。こうして、恩を売ろうとしたのだ。又、外では長孫無忌等へ風諭して、上へ請願させた。上は、これに従った。
 乙丑、于志寧へ太子少師を、張行成へ少傅を、高季輔へ少保を兼任させる。
 11丁丑,上問戸部尚書高履行:「去年進戸多少?」履行奏:「去年進戸總一十五萬。」因問隋代及今日見戸,履行奏:「隋開皇中,戸八百七十萬,即今戸三百八十萬。」履行,士廉之子也。
11.丁丑、上は戸部尚書高履行へ問うた。
「去年の戸数の増減はどうか?」
 履行は答えた。
「去年は十五万増えました。」
 そこで、隋代と今日の戸数を比べさせると、履行は上奏した。
「隋の開皇年間は八百七十万戸でしたが、今は三百八十万戸です。」
 履行は、士廉の子息である。
 12九月,守中書侍郎來濟同中書門下三品。
12.九月、守中書侍郎来済を同中書門下三品とした。
 13冬,十一月,庚寅,弘化長公主自吐谷渾來朝。
13.冬、十一月、庚寅、弘化長公主が吐蕃から来朝した。
 14癸巳,濮王泰薨於均州。
14.癸巳、濮王泰が均州にて卒した。
 15散騎常侍房遺愛尚太宗女高陽公主,公主驕恣甚,房玄齡薨,公主教遺愛與兄遺直異財,既而反譖遺直。遺直自言,太宗深責讓主,由是寵衰,主怏怏不悅。會御史劾盜,得浮屠辯機寶枕,云主所賜。主與辯機私通,餉遺億計,更以二女子侍遺愛。太宗怒,腰斬辯機,殺奴婢十餘人;主益怨望,太宗崩,無戚容。上即位,主又令遺愛與遺直更相訟,遺愛坐出爲房州刺史,遺直爲隰州刺史。又,浮屠智勗等數人私侍主,主使掖庭令陳玄運伺宮省禨祥。
  先是,駙馬都尉薛萬徹坐事除名,徙寧州刺史,入朝,與遺愛款昵,對遺愛有怨望語,且曰:「今雖病足,坐置京師,鼠輩猶不敢動。」因與遺愛謀:「若國家有變,當奉司徒荊王元景爲主。」元景女適遺愛弟遺則,由是與遺愛往來。元景嘗自言,夢手把日月。駙馬都尉柴令武,紹之子也,尚巴陵公主,除衞州刺史,託以主疾留京師求醫,因與遺愛謀議相結。高陽公主謀黜遺直,奪其封爵,使人誣告遺直無禮於己。遺直亦言遺愛及主罪,云:「罪盈惡稔,恐累臣私門。」上令長孫無忌鞫之,更獲遺愛及主反状。
  司空、安州都督呉王恪母,隋煬帝女也。恪有文武才,太宗常以爲類己,欲立爲太子,無忌固爭而止,由是與無忌相惡。恪名望素高,爲物情所向,無忌深忌之,欲因事誅恪以絶衆望。遺愛知之,因言與恪同謀,冀如紇干承基得免死。
15.散騎常侍房遺愛が太宗の娘の高陽公主を娶った。公主は非常に驕慢で勝手気儘な女だった。
 房玄齢が卒すると、公主は遺愛へ、兄の遺直と財産を分離するよう勧め、その後、遺直を讒言した。遺直が自ら申し開くと、太宗は公主を深く責め、これ以来寵愛が衰えた。公主は怏々として楽しまなかった。
 御史が盗賊を弾劾した時、僧侶弁機の宝枕を入手したが、弁機は、これは公主から贈られたものだと言った。公主と弁機は姦通しており、彼への賜は億を数え、更に二女子を遺愛へ侍らせていた。太宗は怒り、弁機を腰斬にして奴婢十余人を殺した。
 公主は益々怨望する。太宗が崩御しても、全く悲しまなかった。
 上が即位すると、公主は再び遺愛と遺直へ訴訟を起こさせた。遺愛は有罪となって房州刺史へ左遷され、遺直は隰州刺史となった。
 また、僧侶智勗等数人が私的に公主へ侍った。公主は、庭令陳玄運へ宮省の機密を探らせた。
 ところで、遺愛は駙馬都尉の薛万徹と昵懇の仲だった。やがて薛万徹は罪を犯して寧州刺史に左遷されたが、入朝した時、彼は遺愛へ対して朝廷への恨み辛みを述べ、かつ、言った。
「今、陛下には足の病があるが、それでも京師に坐っているだけで、鼠輩は敢えて動こうとはするまい。」 
 そして、遺愛と謀った。
「もし、国家に返事があれば、司徒の荊王元景を主に推戴しよう。」
 元景の娘は、遺愛の弟の遺則へ嫁いでおり、以来、遺愛と往来する仲になった。元景は、ある時、「日月を手に取る夢を見た」と自ら言った。
 駙馬都尉の柴令武は、紹の子息である。(柴紹は、高祖の娘平陽公主を娶っていた。)太宗の娘の巴陵公主を娶っている。衛州刺史に任命されたが、「太宗が病気なので医者を探したい」とゆう口実で京師に留まり、遺愛等の謀議と結託した。
 高陽公主は、遺直を黜してその封爵を奪おうと謀り、「遺直が自分に無礼である。」と、人を使って誣告した。すると遺直は再び遺愛と公主の罪を言い立て、言った。
「罪は満ち溢れ、悪は稔る。臣の私門へまで累が及んでしまうのが恐ろしいのです。」
 上は、長孫無忌へ調べさせた。すると、遺愛と公主の造反の有様まで判ってしまった。
 司空、安州都督呉王恪の母は、隋の煬帝の娘である。恪には文武の才があり、太宗は自分に似ていると思い、いつも太子に立てたがっていた。しかし、長孫無忌が固く争ったので、実現しなかった。以来、恪は無忌と仲が悪くなった。
 恪の名望はもともと高く、事あれば推戴されそうな物情があったので、無忌はこれを深く忌み、何かにかこつけて恪を誅殺し、衆望を絶とうと欲していた。
 遺愛はこれを知ったので、紇干承基の時のように死罪を免れること(貞観十七年、参照)を冀い、恪も同類だと言い立てた。
四年(癸丑、六五三)

 春,二月,甲申,詔遺愛、萬徹、令武皆斬,元景,恪、高陽、巴陵公主並賜自盡。上泣謂侍臣曰:「荊王,朕之叔父,呉王,朕兄,欲匄其死,可乎?」兵部尚書崔敦禮以爲不可,乃殺之。萬徹臨刑大言曰:「薛萬徹大健兒,留爲國家效死力,豈不佳,乃坐房遺愛殺之乎!」呉王恪且死,罵曰:「長孫無忌竊弄威權,構害良善,宗社有靈,當族滅不久!」
  乙酉,侍中兼太子詹事宇文節,特進、太常卿江夏王道宗、左驍衞大將軍駙馬都尉執失思力並坐與房遺愛交通,流嶺表。節與遺愛親善,及遺愛下獄,節頗左右之。江夏王道宗素與長孫無忌、褚遂良不協,故皆得罪。戊子,廢恪母弟蜀王愔爲庶人,置巴州;房遺直貶春州銅陵尉,萬徹弟萬備流交州;罷房玄齡配饗。
1.春、二月、甲申。遺愛、萬徹、令武を皆斬り、元景、恪、高陽、巴陵公主は自殺させるよう詔が降りた。上は、泣いて侍臣へ言った。
「荊王は朕の叔父、呉王は朕の兄、殺したくないが、出来ないのか?」
 兵部尚書崔敦礼が不可としたので、彼等も殺した。
 万徹は刑に臨んで大言した。
「薛万徹は大健児だ。留めて国家の為に死力を尽くさせれば、何と素晴らしいではないか。それを房遺愛の連座などで殺すのか!」
 呉王恪は、死ぬ時に罵った。
「長孫無忌は権威を弄んで良善を殺害した。宗社に霊があるならば、遠からず一族誅殺されるぞ!」
 乙酉、侍中兼太子詹事宇文節、太常卿江夏王道宗、左驍衛大将軍駙馬都尉執失思力は、皆、房遺愛と交流があったとして、連座で嶺表へ流罪となった。
 節と遺愛は非常に親密で、遺愛が下獄された時、節はあれこれとこれを助けた。江夏王道宗はもともと長孫無忌、褚遂良と仲が悪かった。だから罪に落とされたのである。
 戊子、恪の同母弟蜀王愔を廃して庶民とし、巴州へ住ませた。房遺直は春州銅陵尉へ左遷した。万徹の弟万備は交州へ流された。また、房玄齢の配饗が廃止された。
 開府儀同三司李勣爲司空。
2.開府儀同三司李勣を司空とした。
 初,林邑王范頭利卒,子眞龍立,大臣伽獨弑之,盡滅范氏。伽獨自立,國人弗從,乃立頭利之壻婆羅門爲王。國人咸思范氏,復罷婆羅門,立頭利之女爲王。女不能治國,有諸葛地者,頭利之姑子也,父爲頭利所殺,南奔眞臘,大臣可倫翁定遣使迎而立之,妻以女王,衆然後定。夏,四月,戊子,遣使入貢。
3.林邑王范頭利が卒した時、子息の真龍が立ったが、大臣の伽獨がこれを弑逆して范氏を皆殺しとした。伽獨は自立したが、国人は従わなかったので、頭利の婿の婆羅門を王に立てた。しかし国人は范氏を想い、婆羅門を辞めさせて、頭利の娘を王に立てた。だが、娘は、国を治めきれなかった。
 ここに、頭利の姑の子に諸葛地とゆう者が居た。父は頭利に殺され、南方の真臘へ逃げていた。大臣の可倫翁定が使者を派遣して迎え入れ、これを立て、女王と結婚させた。 
 夏、四月、戊子、唐へ使者を派遣して入貢した。
 秋,九月,壬戌,右僕射北平定公張行成薨。甲戌,以褚遂良爲右僕射,同中書門下三品如故,仍知選事。
4.秋、九月壬戌、右僕射北平定公張行生が卒した。
 甲戌、褚遂良を右僕射とした。同中書門下三品は従来通りで、知選事も兼任する。
 冬,十月,庚子,上幸驪山温湯;乙巳,還宮。
5.冬、十月、庚子、上が驪山の温泉に行った。乙巳、宮へ還る。
 初,睦州女子陳碩眞以妖言惑衆,與妹夫章叔胤舉兵反,自稱文佳皇帝,以叔胤爲僕射。甲子夜,叔胤帥衆攻桐廬,陷之。碩眞撞鐘焚香,引兵二千攻陷睦州及於潛,進攻歙州,不克,敕揚州刺史房仁裕發兵討之。碩眞遣其黨童文寶將四千人寇婺州,刺史崔義玄發兵拒之。民間訛言碩眞有神,犯其兵者必滅族,士衆兇懼。司功參軍崔玄籍曰:「起兵仗順,猶且無成,況憑妖妄,其能久乎!」義玄以玄籍爲前鋒,自將州兵繼之,至下淮戍,遇賊,與戰。左右以楯蔽義玄,義玄曰:「刺史避箭,人誰致死!」命撤之。於是士卒齊奮,賊衆大潰,斬首數千級。聽其餘衆歸首;進至睦州境,降者萬計。十一月,庚戌,房仁裕軍合,獲碩眞、叔胤,斬之,餘黨悉平。義玄以功拜御史大夫。
6.話は遡るが、睦州の女子陳碩真が妖言で衆を惑わし、妹婿の章叔胤と挙兵して造反した。文佳皇帝と自称し、叔胤を僕射とする。
 甲子夜、叔胤が衆を率いて桐廬を攻めて、これを陥れた。
 碩眞は鐘を撞いて香を焚き、兵二千を率いて睦州及び於潜を攻め落とした。進んで歙州を攻めたが、勝てなかった。
 揚州刺史房仁裕へ、兵を発してこれを討つよう敕が降りた。
 碩真はその党の童文宝へ四千の兵を与え、婺州を攻撃させた。州刺史の崔義玄は兵を発して拒戦する。
 民間では、「碩真には神がついており、その兵を犯す者は必ず一族が亡ぶ。」とゆう噂がまことしやかに流れ、士衆は恐れおののいた。司功参軍の崔玄籍が言った。
「起兵は、順に依ってさえ、なお失敗することがあるのだ。ましてや妖妄に憑かれているのなら、長くはないぞ!」
 義玄は玄籍を前鋒とし、自ら州兵を率いて後続となった。下進戍にて賊軍と遭遇し、戦う。左右が楯で義玄を隠すと、義玄は言った。
「刺史が矢を避けたら、誰が命を掛けてくれるか!」
 これを撤廃させた。
 ここにおいて士卒は奮い立ち、賊衆は大いに潰れ、数千の首を斬られた。その余は降伏した。
 義玄軍が睦州の境まで進軍すると、降伏する者は万を数えた。
 十一月、庚戌。義玄は房仁裕軍と合流し、碩真と叔胤を捕らえ、これを斬った。余党は悉く平定した。義玄は、この功績で御史大夫を拝受した。
(胡三省、曰く。御史大夫は天子の耳目だ。功績で与えるべき官職ではない。後に義玄は中宮の旨を承って長孫無忌等を逮捕した。これは、そのつけが回ってきたのだ。)
 癸丑,以兵部尚書崔敦禮爲侍中。
7.癸丑、兵部尚書崔敦礼を侍中とした。
 十二月,庚子,侍中蓨憲公高季輔薨。
8.十二月、庚子。侍中蓨憲公高季輔が卒した。
 是歳,西突厥乙毗咄陸可汗卒,其子頡苾達度設號眞珠葉護,始與沙鉢羅可汗有隙,與五弩失畢共撃沙鉢羅,破之,斬首千餘級。
9.この年、西突厥の乙毗咄陸可汗が卒した。その子の頡苾達度が真珠葉護と号した。沙鉢羅可汗と仲が悪くなり、五弩失畢と共に沙鉢羅を攻撃して、これを破る。千余の首級を斬った。
五年(甲寅、六五四)

 春,正月,壬戌,羌酋凍就内附,以其地置劍州。
1.春、正月、壬戌。羌の酋凍就が帰順した。その土地を剣州とする。
 三月,戊午,上行幸萬年宮。
2.三月、戊午。上が万年宮へ御幸した。
 庚申,加贈武德功臣屈突通等十三人官。
  初,王皇后無子,蕭淑妃有寵,王后疾之。上之爲太子也,入侍太宗,見才人武氏而悅之。太宗崩,武氏隨衆感業寺爲尼。忌日,上詣寺行香,見之,武氏泣,上亦泣。王后聞之,陰令武氏長髮,勸上内之後宮,欲以間淑妃之寵。武氏巧慧,多權數,初入宮,卑辭屈體以事后;后愛之,數稱其美於上。未幾大幸,拜爲昭儀,后及淑妃寵皆衰,更相與共譖之,上皆不納。昭儀欲追贈其父而無名,故託以褒賞功臣,而武士彠預焉。
3.庚申、武徳の功臣屈突通等十三人へ官位を加賜する。その経緯は、以下の通り。
 まだ上が皇太子でもなかった頃、王皇后には子供がいなかった。蕭淑妃が上から寵愛されたので、王皇后はこれを妬いていた。
 上が皇太子となって太宗のもとへ入侍すると、才人の武氏を見て、夢中になった。太宗が崩御すると、武氏は他の側室達と共に感業寺にて尼となった。忌日、上が寺を詣でて焼香した折、武氏を見かけた。武氏は泣き、上も又泣いた。
 王后はこれを聞いて、密かに武氏を還俗させ、これを後宮へ入れるよう上へ勧めた。それは、淑妃の寵愛を裂く為である。
 武氏は智巧があり謀略が多い女性。宮へ入ると、腰を低くして皇后へ仕えたので、后はこれを愛し、屡々上の前で彼女を褒めた。
 武氏はすぐに寵愛を受けて昭儀となった。その分、后も淑妃も寵愛が衰えてしまったので、彼女達は共に武氏をそしったが、上は聞かなかった。
 昭儀は、父親へ追賜したがったが、名目がなかった。そこで、功臣達への褒賞にかこつけ、武士彠もこれに預からせたのだ。
 乙丑,上幸鳳泉湯;乙巳,還萬年宮。
4.乙丑、上は鳳泉湯へ御幸した。乙巳、萬年宮へ還る。
 夏,四月,大食發兵撃波斯,殺波斯王伊嗣侯,伊嗣侯之子卑路斯奔吐火羅。大食兵去,吐火羅發兵立卑路斯爲波斯王而還。
5.夏、四月。大食が兵を発して波斯を撃った。(サラセン帝国が、ペルシアを攻撃した。)
 大食は波斯王の伊嗣侯を殺した。伊嗣侯の子息の卑路斯は吐火羅へ逃げる。大食軍が去ると、吐火羅は兵を出し、卑路斯を波斯王に立てて還った。
 閏月,丙子,以處月部置金滿州。
6.閏月、丙子。處月部へ金満州を設置した。
 丁丑,夜,大雨,山水漲溢,衝玄武門,宿衞士皆散走。右領軍郎將薛仁貴曰:「安有宿衞之士,天子有急而敢畏死乎!」乃登門桄大呼以警宮内。上遽出乘高,俄而水入寢殿,水溺衞士及麟遊居人,死者三千餘人。
7.丁丑、夜、大雨が降った。山水が溢れ、玄部門へぶつかる。宿衛の士卒は、皆、逃げ散った。右領軍郎将薛仁貴が言った。
「天子に急がある時に、死を畏れる宿衛の士など、なんであるものか!」
 そして門へ登って宮内へ大声で警戒を呼びかけた。上が急いで飛び出して高みに登ると、たちまち水が寝殿へ入ってきた。衛士や麟遊県の住人が溺れ、三千余人が死んだ。
 壬辰,新羅女王金眞德卒,詔立其弟春秋爲新羅王。
8.壬辰、新羅女王金真徳が卒した。詔してその弟の春秋を立てて新羅王とする。
 六月,丙午,恆州大水,呼沱溢,漂溺五千三百家。
9.六月、丙午。恒州で大水が起こった。呼沱が溢れて五千三百家が水浸しとなった。
 10中書令柳奭以王皇后寵衰,内不自安,請解政事;癸亥,罷爲吏部尚書。
10.中書令柳奭は、王皇后の寵愛が衰えたのを見て内心不安になり、政事からの解任を請願した。癸亥、吏部尚書を辞職する。
 11秋,七月,丁酉,車駕至京師。
11.秋、七月、丁酉。車駕が京師へ到着した。
 12戊戌,上謂五品以上曰:「頃在先帝左右,見五品以上論事,或仗下面陳,或退上封事,終日不絶;豈今日獨無事邪,何公等皆不言也?」
12.戊戌、上が五品以上へ言った。
「先帝の左右にいた頃は、五品以上が論争したり、あるいは杖下にて面と向かって陳情したり、退出後に封事したのを見たものだ。どうして、今日だけ事もないことがあろうか。公等、どうして何も言わぬのだ?」
 13冬,十月,雇雍州四萬一千人築長安外郭,三旬而畢。癸丑,雍州參軍薛景宣上封事,言:「漢惠帝城長安,尋晏駕;今復城之,必有大咎。」于志寧等以景宣言渉不順,請誅之。上曰:「景宣雖狂妄,若因上封事得罪,恐絶言路。」遂赦之。
13.冬、十月。雍州から四万一千人を雇用して長安に外郭を築かせた。工事は、三旬で終わる。
 癸丑、雍州参軍薛景宣が、封事を上納し、言った。
「漢の恵帝は長安城を築いた後、崩御しました。今、この城を復元する。必ず大きな咎がありますぞ。」
 于志寧等が、景宣は縁起が悪いことを言うので誅殺するよう請うと、上は言った。
「景宣は狂妄ではあるが、もしも封事を上納したことが原因で罪を得るなら、これからは発言を絶やすことになる。」
 遂に、これを赦す。
 14高麗遣其將安固將高麗、靺鞨兵撃契丹;松漠都督李窟哥禦之,大敗高麗於新城。
14.高麗がその将安固へ高麗、靺鞨の兵を率いて契丹を攻撃させた。松漠都督李窟哥がこれを防ぎ、新城にて高麗軍を大いに敗った。
 15是歳大稔,洛州粟米斗兩錢半,秔米斗十一錢。
15.この年、大豊作で、洛州の粟米は一斗が二銭半で、うるち米は一斗十一銭だった。
 16王皇后、蕭淑妃與武昭儀更相譖訴,上不信后、淑妃之語,獨信昭儀。后不能曲事上左右,母魏國夫人柳氏及舅中書令柳奭入見六宮,又不爲禮。武昭儀伺后所不敬者,必傾心與相結,所得賞賜分與之。由是后及淑妃動靜,昭儀必知之,皆以聞於上。
  后寵雖衰,然上未有意廢也。會昭儀生女,后憐而弄之,后出,昭儀潛扼殺之,覆之以被。上至,昭儀陽歡笑,發被觀之,女已死矣,即驚啼。問左右,左右皆曰:「皇后適來此。」上大怒曰:「后殺吾女!」昭儀因泣數其罪。后無以自明,上由是有廢立之志。又畏大臣不從,乃與昭儀幸太尉長孫無忌第,酣飲極驩,席上拜無忌寵姫子三人皆爲朝散大夫,仍載金寶繒錦十車以賜無忌。上因從容言皇后無子以諷無忌,無忌對以他語,竟不順旨,上及昭儀皆不悅而罷。昭儀又令母楊氏詣無忌第,屢有祈請,無忌終不許。禮部尚書許敬宗亦數勸無忌,無忌厲色折之。
16.王皇后、蕭淑妃と武昭儀は互いに讒訴しあったが、上は皇后や淑妃の言葉を信じず、昭儀だけを信じた。
 皇后は、自分の想いを我慢して左右に善くしてやることが出来ず、母の魏国夫人柳氏や舅の中書令柳奭が六宮へやって来ても、礼遇しなかった。武昭儀は、皇后が不遜に対している相手を伺って、彼等へは必ず親身にしてやり、賜などはこれへ分けてやった。こうして皇后や淑妃の動向は、昭儀へ必ず知れ渡り、昭儀はこれを上へ聞かせた。
 皇后の寵愛は衰えたけれども、上はまだ廃立までは考えていなかった。そんなとき、昭儀が女子を出産した。皇后がやって来て、これを可愛がり、あやした。彼女が退出すると、昭儀は密かに我が子を絞め殺し、これを布で覆った。上がやってくると、昭儀は上辺は笑いながら布を取ったが、娘は既に死んでいる。昭儀は驚いて泣いた。左右に問うと、左右は皆言った。
「さっき皇后がやってきました。」
 上は激怒して言った。
「皇后が娘を殺した!」
 昭儀は泣いてその罪を数え上げた。皇后は身の潔白を証明できない。この事件で、上は廃立を考えるようになった。
 しかし皇后の廃立は重大問題なので、上は大臣が従わないことを畏れた。そこで上は昭儀と共に太尉長孫無忌の第を訪れた。大いに酒を飲んで楽しんだ後、その席上で無忌の寵姫の三人の子を皆、朝散大夫に任命し、更に金寶や錦を載せた車十台を無忌へ賜った。その上で上は、皇后に子がない事をさりげなく言い、無忌に風諭した。しかし、無忌は話題を変え、上の意に従わなかった。上と昭儀は、不機嫌なまま還った。
 昭儀は又母の楊氏を無忌の第へ訪問させ屡々請願したが、無忌は遂に許さなかった。
 礼部尚書許敬宗もまた何度も無忌に勧めたが、無忌は顔色を変えて叱りつけた。
六年(乙卯、六五五)

 春,正月,壬申朔,上謁昭陵;甲戌,還宮。
1.春、正月、壬申朔。上は昭陵を参った。甲戌、宮へ還る。
 己丑,雟州道行軍總管曹繼叔破胡叢、顯養、車魯等蠻於斜山,拔十餘城。
2.己丑、 州道行軍総管曹継叔が斜山にて胡叢、顕養、車魯等の蛮を撃破し、十余城を抜いた。
 庚寅,立皇子弘爲代王,賢爲潞王。
3.庚寅、皇子弘を代王に、賢を潞王に立てた。
 高麗與百濟、靺鞨連兵,侵新羅北境,取三十三城;新羅王春秋遣使求援。二月,乙丑,遣營州都督程名振、左衞中郎將蘇定方發兵撃高麗。
4.高麗と百済、靺鞨が連合して新羅の北境を侵略し、三十三城を取った。新羅王春秋は救援の使者を派遣する。
 二月、乙丑、営州都督程名振、左衛中郎将蘇定方を派遣し、兵を発して高麗を攻撃した。
 夏,五月,壬午,名振等渡遼水,高麗見其兵少,開門渡貴端水逆戰,名振等奮撃,大破之,殺獲千餘人,焚其外郭及村落而還。
5.夏、五月、壬午。名振等は遼水を渡った。
 高麗軍は敵が少ないと見て、門を開き、貴端水を渡って逆戦する。名振は奮撃して大いにこれを破り、千余人を殺獲する。その外郭及び村落を焼き払い、還る。
 癸未,以右屯衞大將軍程知節爲葱山道行軍大總管,以討西突厥沙鉢羅可汗。
6.癸未、右屯衛大将軍程知節を葱山道行軍大総管として、西突厥の沙鉢羅可汗を討伐させた。
 壬辰,以韓瑗爲侍中,來濟爲中書令。
7.壬辰、韓瑗を侍中とし、来済を中書令とした。
 六月,武昭儀誣王后與其母魏國夫人柳氏爲厭勝,敕禁后母柳氏不得入宮。秋,七月,戊寅,貶吏部尚書柳奭爲遂州刺史。奭行至扶風,岐州長史于承素希旨奏奭漏洩禁中語,復貶榮州刺史。
  唐因隋制,後宮有貴妃、淑妃、德妃、賢妃皆視一品。上欲特置宸妃,以武昭儀爲之,韓瑗、來濟諫,以爲故事無之,乃止。
  中書舎人饒陽李義府爲長孫無忌所惡,左遷壁州司馬。敕未至門下,義府密知之,問計於中書舎人幽州王德儉,德儉曰:「上欲立武昭儀爲后,猶豫未決者,直恐宰臣異議耳。君能建策立之,則轉禍爲福矣。」義府然之,是日,代德儉直宿,叩閤上表,請廢皇后王氏,立武昭儀,以厭兆庶之心。上悅,召見,與語,賜珠一斗,留居舊職。昭儀又密遣使勞勉之,尋超拜中書侍郎。於是衞尉卿許敬宗、御史大夫崔義玄、中丞袁公瑜皆潛布腹心於武昭儀矣。
8.六月、武昭儀が、王后とその母の魏国夫人柳氏が呪術を行っていると誣告した。敕して后母の柳氏の入宮を禁じる。
 秋、七月、戊寅。吏部尚書柳奭を遂州刺史へ左遷する。奭が扶風まで行った時、岐州長史の于承素が上へ阿って、奭が禁中での会話を外部へ洩らしたと上奏した。そこで更に降格されて栄州刺史となった。
 唐は、隋の制度を踏襲し、後宮の貴妃、淑妃、徳妃、賢妃は皆一品としていた。上は特に宸妃を設置して武昭儀をこれに充てようと欲したが、韓瑗、来済が前例がないと諫めたので、沙汰やみとなった。
 中書舎人饒陽の李義府は長孫無忌から嫌われて壁州司馬へ左遷された。だが、敕が門下へ到着する前に義府は密かにこれを知り、中書舎人幽州の王徳倹へ計略を問うた。すると徳倹は言った。
「上は武昭儀を皇后に立てたがっている。だが、猶予して決断できないのは、宰臣の異議を恐れているからだ。君がこれを立てることができれば、禍を転じて福に出来るぞ。」
 義府は得心した。
 この日、徳倹に代わって直宿し、閣を叩いて上表した。
「皇后王氏を廃立して武昭儀を立て、多くの民を安堵させてください。」
 昭儀は密かに使者を派遣して、 これを勉めさせ、一足飛びに中書侍郎に抜擢した。
 ここに於いて、衛尉卿許敬宗、御史大夫崔義玄、中丞袁公瑜等が密かに武昭儀の腹心となった。
 乙酉,以侍中崔敦禮爲中書令。
9.乙酉、侍中崔敦礼を中書令とした。
 10八月,尚藥奉御蔣孝璋員外特置,仍同正員。員外同正自孝璋始。
10.八月、尚書奉御の蒋孝璋を員外に特置して、正員と同格にした。員外同正は孝璋から始まった。
 11長安令裴行儉聞將立武昭儀爲后,以國家之禍必由此始,與長孫無忌、褚遂良私議其事。袁公瑜聞之,以告昭儀母楊氏,行儉坐左遷西州都督府長史。行儉,仁基之子也。
11.長安令裴行倹は、武昭儀を皇后に立てようとしていると聞き、国家の禍は必ずここから始まると思い、長孫無忌、褚遂良等と私的に対策を練った。袁公瑜がこれを聞き、昭儀の母の楊氏へ伝えた。行倹は西州都督府長史へ左遷される。
 行倹は行基の子息である。
 12九月,戊辰,以許敬宗爲禮部尚書。
  上一日退朝,召長孫無忌、李勣、于志寧、褚遂良入内殿。遂良曰:「今日之召,多爲中宮,上意既決,逆之必死。太尉元舅,司空功臣,不可使上有殺元舅及功臣之名。遂良起於草茅,無汗馬之勞,致位至此,且受顧託,不以死爭之,何以下見先帝!」勣稱疾不入。無忌等至内殿,上顧謂無忌曰:「皇后無子,武昭儀有子,今欲立昭儀爲后,何如?」遂良對曰:「皇后名家,先帝爲陛下所娶。先帝臨崩,執陛下手謂臣曰:『朕佳兒佳婦,今以付卿。』此陛下所聞,言猶在耳。皇后未聞有過,豈可輕廢!臣不敢曲從陛下,上違先帝之命!」上不悅而罷。明日又言之,遂良曰:「陛下必欲易皇后,伏請妙擇天下令族,何必武氏。武氏經事先帝,衆所具知,天下耳目,安可蔽也。萬代之後,謂陛下爲如何!願留三思!臣今忤陛下,罪當死!」因置笏於殿階,解巾叩頭流血曰:「還陛下笏,乞放歸田里。」上大怒,命引出。昭儀在簾中大言曰:「何不撲殺此獠!」無忌曰:「遂良受先朝顧命,有罪不可加刑!」于志寧不敢言。
  韓瑗因間奏事,涕泣極諫,上不納。明日又諫,悲不自勝,上命引出。瑗又上疏諫曰:「匹夫匹婦,猶相選擇,況天子乎!皇后母儀萬國,善惡由之,故嫫母輔佐黄帝,妲己傾覆殷王,詩云:『赫赫宗周,褒姒滅之。』毎覽前古,常興歎息,不謂今日塵黷聖代。作而不法,後嗣何觀!願陛下詳之,無爲後人所笑!使臣有以益國,葅醢之戮,臣之分也!昔呉王不用子胥之言而麋鹿遊於姑蘇。臣恐海内失望,棘荊生於闕庭,宗廟不血食,期有日矣!」來濟上表諫曰:「王者立后,上法乾坤,必擇禮教名家,幽閑令淑,副四海之望,稱神祇之意。是故周文造舟以迎太姒,而興關雎之化,百姓蒙祚;孝成縱欲,以婢爲后,使皇統亡絶,社稷傾淪。有周之隆既如彼,大漢之禍又如此,惟陛下詳察!」上皆不納。
  他日,李勣入見,上問之曰:「朕欲立武昭儀爲后,遂良固執以爲不可。遂良既顧命大臣,事當且已乎?」對曰:「此陛下家事,何必更問外人!」上意遂決。許敬宗宣言於朝曰:「田舎翁多收十斛麥,尚欲易婦;況天子欲立后,何豫諸人事而妄生異議乎!」昭儀令左右以聞。庚午,貶遂良爲潭州都督。

12.九月、戊辰、許敬宗を礼部尚書とする。
 上はある日退朝すると長孫無忌、李勣、于志寧、褚遂良を内殿へ入れた。
 遂良は言った。
「卿の召集は、中宮のことだ。上の意は決している。これに逆らうのなら、死を覚悟しなければ。太尉は元舅で司空は功臣、陛下へ、元舅や司空を殺したとゆう汚名を取らせてはいけない。だが遂良は草茅出身で汗馬の労もないのに、こんな高い地位へ至ったし、先帝からは後事を託された。ここで死を以て諫争しなければ、あの世で陛下に会わせる顔がない!」
 李勣は、病気と称して入らなかった。
 無忌等が内殿へ至ると、上は無忌を顧みて言った。
「皇后には子がなく、武昭儀には子がある。今、昭儀を皇后へ立てたいが、どうだ?」
 すると、遂良が言った。
「皇后は名門の出で、先帝が陛下の為に娶ってくださった女性です。先帝が崩御なさる時、陛下の手を執って臣へ言われました。『朕の佳き児と佳き嫁を、今、卿へ託す。』これは陛下も聞かれましたことで、今でも臣の耳に残っております。皇后には、いまだ過ちを聞きません。どうして軽々しく廃立できましょうか!臣は道理を曲げて陛下に従い、先帝の遺命へ逆らうような真似は、敢えて行いません!」
 上は不機嫌になって退出させた。
 翌日、再び言った。すると遂良は、
「陛下がどうしても皇后を変えたいのでしたら、どうか天下の令族からお選びになってください。なんで武氏でなければならないのですか。武氏がかつて先帝に仕えておりましたことは、衆人が知っております。天下の耳目をどうして覆えましょう。万代の後、陛下は何と言われましょうか!どうか三思なさってください!臣は今、陛下に逆らいました。この罪は死刑に値します。」
 そして笏を置き、殿階にて頭巾を解き、叩頭流血して言った。
「陛下へ笏をお返しします。どうか田里へ帰してください。」
 上は激怒して引き出すよう命じた。すると、昭儀が御簾の中から大声で言った。
「どうしてこの獠を撲殺しないのですか!」
 無忌が言った。
「遂良は先朝から顧命を受けた臣です。罪があっても刑を加えてはなりません。」
 于志寧は、何も言わなかった。
 韓瑗が上奏の暇を見て涕泣して極諫したが、上は納れなかった。翌日、また諫めた。見るに耐えないほど悲しそうだったが、上は引き出すよう命じた。瑗は、また上疏して諫めた。
「匹夫匹婦でさえ、なお伴侶を大切にします。ましてや天子ですぞ!皇后は御国の母。善悪はこれに由ります。ですから嫫母は黄帝を補佐し、妲己は殷王を傾覆しました。詩にも言います。『かくかくたる宗周は、褒姒がこれを滅ぼした。』と。前古を見る時でさえ、いつも嘆息するのです。ましてや今日聖代を塵黷するのですぞ。行動が規範とならなければ、子孫は何を観ればよいのですか!どうか陛下、詳細に考え、後世の人々から笑われますな!臣を塩漬けにしても御国の為になるのなら、それこそ臣下としての本分です。昔、呉王が伍子胥の言葉を聞かなかったばかりに、姑蘇は麋鹿の遊び場となりました。臣は海内の失望を恐れます。闕庭に棘荊が生い茂り、宗廟が祀られなくなるのも、先のことではありませんぞ!」
 来済も上表して諫めた。
「王が后を立てるのは、上は乾坤に則るものです。必ず名家から選び、深窓に容れてこそ、四海の望に沿い、神祇の意向にかなうのです。周の文王は船を造って太姒を迎えましたので、関雎の教化へ連なり、百姓は恩恵を受けました。孝成は欲望の赴くまま婢を皇后としましたので皇統は絶え社稷は途絶えました。有周の勃興はこのようで、大漢の禍もまたかくの如しです。どうか陛下、後詳察ください。」
 上は、皆、納れなかった。
 他日、李勣が入見したので、上は問うた。
「朕は武昭儀を皇后に立てたいのだが、遂良は絶対に駄目だと固執している。遂良は顧命の大臣だ。やはりやめたほうがよいのかな?」
 対して言った。
「これは陛下の家庭のことです。何で他の人に聞く必要がありましょうか!」
 上は遂に決意した。
 許敬宗が、朝廷にて宣言した。
「田舎翁でも、十斛の麦が増収したら女房を変えたがるのだ。ましてや天子が皇后を廃立するのに、何で諸人が妄りに異議を唱えるのか!」
 昭儀は、左右に伝達させた。
 庚午、遂良は澤州刺史へ貶された。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:20
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