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The rest is silence -Erster Akt-*②」


 -Arena・Corridor-

 ――その復讐が果たされたとき、貴方は自分自身に何を思うでしょうね。

 脳内に木霊する黒騎士の言葉。黒騎士のどこか見下したような独特の口調とその態度、そして「あの言葉」はアハトの精神を揺さぶるのに十分な効果を得たが、それでも彼はこの復讐というものがいずれ破滅をもたらすであろうことを充分に理解していた。
 死神に拐かされ、一度は暗闇で満たされた向こう岸へと進めた歩み。如何なる手違いか、あるいは書類に不備でもあったのか。許可されたはずの死は何者かによって剥奪され、自分は再び闘争と略奪が満ちる地上へと送り返された。
 再び手にすることができた生命。あるいは万人ならば、喜び勇むところなのかもしれない。
 だが戻されたのは己の命のみ。故郷であるヴォルムスは瓦礫の山と化し、家族は死という感情無き言葉に変換された。そして彼女――アイリも――。

 変わったモノは周囲。変わり行くモノは状況。それでも変わらなかったモノは、ただ失ったという事実のみ。

 アイリのいない世界に露ほどの興味も抱けず、そしてこれからの生涯に目的など何一つ見出せない。あの日、あんなにも輝いていた景色は全て枯れ落ちた。太陽が失われた世界では生きていくことも出来ず、またその意味も理由もない。
 ――だがそれでも、だ。例え生きる意味も理由も失ったとて、それでも成し遂げなければならないことが一つだけある。
 それこそが――血の償い。今の自分がこうして生きている理由は唯一、ただそれだけだ。
 その根源にあるのは手段と目的の置換だ。生きるために他者を討ち取るのではなく、他者を討ち取るために生きるという、余りも歪んだ命の在り方。
 手段と目的を履き違えた愚か者は須らく皆、破滅の道を歩むだろう。己とて、それは例外ではない。しかしそれで構わないと、アハトは雲海のように広がる思考に切り口を入れる。
 この身は既に一度燃え尽きた蝋燭のようなもの。溶けつくした蝋をかき集め、申し訳程度に形を整え、固めたものに再び火を灯す。しかし、残骸を集めただけの蝋燭が、以前のように猛々しく燃え盛ることなどない。
 ならば如何にして焔を灯すか。その命題を問うならば、解答は極々単純なモノとなる。
 それは――怒り。死を拒絶してでも生きようとするならば、怒りほどそれに適した感情はないだろう。
 だが――。

 ――その復讐が果たされたとき、貴方は自分自身に何を思うでしょうね。

「何を、だと?思うことなど何も……ない」

 元より一度死んだ身である以上、生に執着する理由はない。この復讐が果たされた、その時は……。

「その時は……」

 思案するが即座に答えが出ない。復讐までの道のりは容易に想像できるものの、その一寸先は洞穴の如き暗闇だ。安易に踏み込めば、二度と出られぬと感じさせる暗雲。入るものを捉える暗闇の楔で満たされている。
 外道の道をあえて進む自分に、真っ当な死など与えられるはずもない。ならば心配は無用のはずだ。
 未練もなく、生きる理由もなくなれば生きる必要性すら自然と消滅する。理由がなければ行動する意味はない。生きる理由がなければ生きる意味もなくなる。
 目的を完遂したその時は、よもや生きる理由は非ず。ならば――。

 ――座して……死を待つのみだ。

 黒騎士の意味深な問いかけに、アハトはそのような結論を下した。彼は変わらぬ歩調で歩みを進める。心の何処かで「それでいいのか……」と問う何者かを無視して。

 アハトはアイシスと合流するため、アリーナのガレージから都市部まで直通しているリニアレールの発着場、そこに向けて足を進めていた。長く続く無機なる廊下。統一化された味気ない照明で満たされたそこで、人影を見て捉えた。常日頃、人の姿など皆目見かけないこの場所においてそれは珍しい。静止する水面の如く、徐々に明瞭となる姿形。
 その人影の正体は幼き少女であった。身体的特徴とその横顔から、年齢の程は十かそこいらしかないだろう。抱きかかえられた白い兎の縫いぐるみが、なおそう感じさせる。
 だが、この少女が外見不相応の年齢であっても驚きはない。そう思わせる理由は単には言い難いものだが、あえてそれを言葉を用いて表現しようとするならば、陳腐とも言えるが的確な言葉が一つだけある。
 それは――妖精だ。
 高貴なる白と呼ばれる花、あるいは冬の深雪を思わせる白磁の肌は触れがたいほどに美しく、一切の淀みがない。弦のように長く繊細な白金色の髪は、そよ風を受ければ音色さえ奏でるだろう。その横顔は花の妖精のように神秘的だが、稀に妙齢な女性の如き表情を垣間見せる。
 少女が着込んでいるのは、優雅な装飾をあしらった黒衣の礼装だ。礼服としてはいささか幻想的であり、ともするなら世俗的な大衆文化の衣服とも見て取れるもの。だが、現代という景色の中では浮き彫りになってしまうであろうそれも、この少女が纏うとなんと様になることか。少女が纏う存在感が、単にその存在を肯定しているのだ。
 少女が纏う圧倒的な存在感は、無骨な廊下でさえ意味あるものとし、無機質な照明さえ輝かしき太陽に似る。座する全ての物に価値ありと、女帝の如き威厳でその価値を容認する。
 少女の周辺を漂う数多の存在は、我先にとその美しさを飾る物を手にして少女の元に集うことだろう。その美しさに花を添えることこそが、我が誉れであらんとするかのように。
 そうして数多の存在が、この道を聖女の歩みを祝福する花通りへと変異させる。隔離された世界――絵画の如き風景を現実のものとするのだ。
 絵画が動作を行う。アハトは少女が動いたことに対し、「動くのか」という妙なる感想を抱いた。それも単に、この目の前の光景が現実のものとは思えないことから生まれた感想だろう。
 少女が左へ顔を向け、その先を確認した後に白磁の顔を反対――右へと向ける。その行動は分岐路にてどちらの道を進むべきか、難渋しているかのように思える。アハトはそのままの速度で歩みを進めた。
 その存在に気づいたのか、近づくアハトに視線を向ける少女。

「ねえ、おじさん」

 少女が言葉を発した。アハトはそれが自分に向けられたものとは思わず、そのまま白百合に似た少女の脇を通り抜けようとする。

「おじさん」

 二度目の問いかけに、アハトは足を止めた。視線だけで周囲を見渡すものの、この場にいるのは自分と少女のみだ。
 少女に視線を移す。ミラーシェード越しに真紅の瞳でこちらを見上げる少女が見える。

「――俺のことか?」
「うん。ソリッド、どこ?」
「ソリッド?」
「うん」

 ――聞いたことのない名だ。

「どんな奴だ?」
「ソリッドはソリッドだよ。どこにいるのかな」
「……わからないな」
「そう」
「……」

 もう一度、繰り返し左右を見る少女。動く度に揺れ舞う白銀の長髪が、無機質な廊下を彩り香る。

「……ここ、どこ?」
「――――――迷子か」
「まいご?」
「誰ときた?」
「メイファおねーちゃん」
「そいつは?」
「わかんない」
「…………」
「……」
「家は?」
「……あ」
「覚えていないのか?」
「メモリーするのを忘れただけ」
「メモリー?」
「うん」
「……」

 要領を得ないな、とアハトは思う。
 一連の会話から理解できるのは、この少女は迷子の状態にあり、既に帰宅する術を失っているという事実だ。少女の言葉の中に存在するソリッドなる人物とメイファなる人物が、一体誰なのかも検討がつかない。
 現在、アハトと少女がいるエリアはアリーナが保有する格納庫の一角、その廊下だ。
 形式だけとは言え、一般人の侵入が禁止されているこの格納庫には、彼等一般人が利用できる施設は何一つとして存在していない。ましてや迷子の子供を預けられる場所など、存在し得ないのは明白だ。
 アハトは思案する。そこら辺の連中を捕まえて押し付けようにも、このエリアにいるのは機械油に塗れた屈強な整備士達のみである。日夜機械と接し、会話し、時には身体を張った友好を結ぶ。自分が作った作品を「腹を痛めて生んだ子供」などと、遺産問題がこじれそうな発言を平気で抜かすような連中だ。そんな連中に預けたところで、何もできやしないだろう。
 だが自分とて、無関係なこの少女を助ける義理も義務も持ちえていない。見捨てることなど、今さら造作もないことだ。どこで朽ちようと、泣き叫ぼうと、そんなことは知ったことではない。

「アリーナのエントランス」
「?」
「確証はないがな。そこならソリッドなり、メイファなりがいる可能性は高いはずだ」
「そう。じゃあ、つれてって」
「……」

 少女の要求に対し、沈黙で答えるアハト。

「ダメ?」
「ダメ……ではないが……」
「ひとりじゃいけないから。ほら、マリーもお願いして」

 雪色の少女が抱きかかえた兎の縫い包みに、懇願の仕草を行わせる。

「……ついてこい」
「うん」

 アハトはついて来るだけならば一切の支障はないだろうと判断し、少女に先んじて歩みを進めた。

 -Arena・entrance-

 特定区間を移動する電磁誘導式高速車両、通称「リニア」から降りた黒衣の男と雪色の少女は、共にアリーナのエントランスへ向けて歩みを進めていた。
 アハトは自らの横を静かに歩く少女に、視線だけを向ける。ミラーシェード越しに見える妖精の姿。陽光の元に晒されたその姿を見て、アハトは思考する。
 深雪の如き少女の肌。間近で見るそれはその実、病的ともいえる領域に差し掛かっているように思える。白人というレベルをやや踏み越えた肌の色。そして妖しく灯る紅宝石の瞳。この二つの要素が示す意味は――。

 ――アルビノ……遺伝子疾患の類か?

 アハトは遺伝子疾患の一部にこのような風貌を持つものがいる、というのを聞いたことがあった。先天的なメラニンの異常がもたらす色素の欠如。だが、感情を感じさせぬ動作と物言いによる違和感は、それだけでは解決しまい。むしろ、より深刻な存在であることを感じずにはいられない。
 詮索し始めた自身の思考を、アハトはすぐさま彼方に追いやった。干渉すること、詮索することに意味もメリットもない。この少女が仮にどこかしらの企業の実験体だったとしても、見ず、聞かず、話さずを決め込むのみ。好奇心は猫をも殺すものだ。
 余計なことを詮索すれば、今度は自身が狩られる立場に立たされるだろう。機密情報を得た人物がを野放しにする馬鹿はいない。そしてそれは、例え本人が喋る意図を持っていないとしても関係のないものだ。
 爆発の危険性がない火薬があったとしても、それが火薬である以上、存在そのものが危険であることに変わりはない。如何なる外的要因を持ってしても起爆しない、などという保障はどこにもないのだ。
 故に――封鎖、除去を行う。その対象が人間であるなら、その言葉は口封じに変化する。関係者はあらゆる手段を用いてでも、その者をこの世から排除することだろう。
 強者が手段を選ばない時ほど、厄介なことはない。たかが企業の尖兵如きに敗北する自分ではないとアハトは自負するが、厄介ごとが増えるのを歓迎することはできないとも案じた。
 沈み始めた思考の海から戻るアハト。歩みを進める。
 「リニア」の発着場からアリーナ・エントランスまでの移動の間、両者の間に会話は皆無であった。それためか、アハトは存外に長い時間歩いていたという感覚を、少なからず抱いていた。体感時間の違いがもたらす錯覚なのだろう。
 視線を雪色の少女に向ける。その表情には皆目変化が見られず、疲労の様子などは一切ない。だが先ほどのが自分にとって錯覚だとて、この小さな身体にはそれなりの負担がかかっているのかもしれないと思案する。

 ――休憩を挟むか。

 そう思い、視線だけで周囲を見渡すアハト。手身近にある喫茶店を見咎めた、その時だった。
 アハトは背後から先んじて放たれた殺気を捉え、瞬時に背後を振り返る。間髪いれず繰り出されたのは拳撃だ。
 自身の視界内を侵犯するそれを、アハトは左の掌で受け止める。乾いた音が通りに強く響き渡る。一拍子の後、その拳の持ち主と視線が交差する。
 強烈な拳撃に反して、その人物は見目麗しき女性の姿。情熱的な赤毛の髪は長く、勤めて流麗。それは拳撃を繰り出した際に生じた踏み込み、その慣性に乗って扇状に広がり、空間を色鮮やかに染色している。
 瞳は星の泉の如く玲瓏。凛々しい視線は闘志を含んだ戦士のそれであり、こちらを明確に敵と見据えていた。ともするなら、その力強さもまた美しいとさえ定義できる。決して蛮勇を思わせるものではなく、携える気品は女帝の如き優雅さすら感じさせる。
 悪びれることもなく、肌を多く露出する服装を身に纏うのは自分への自信の表れか、もしくは民族的なものか。
 肌の色から推察するに、人種はアジア系。それも漢民族を主流とする東の大国か。アハトは赤毛の女性の敵対行動に疑問を抱きつつも、勤めて冷静に分析を行う。
 傭兵であり、また工作員や諜報員としても活動する自分が「何者かから突如、襲撃を受ける」などというのは、もはや日常のことであり、そこに何ら疑問を感じることはない。問題とするならばこのアリーナのエントランス――つまり多くの聴衆がいるこの場にて、外見が相応に目立つ女性からの攻撃を受けるということだ。それもこちらの能力を知ってるのか、否か。銃器の類ではなく、無謀にも徒手空拳による襲撃だ。この僅かな思考の間にも、生まれる疑問は数多い。
 しかし、目の前の赤毛の女性はこちらの疑問には一切頓着することなく、攻撃の姿勢を崩さない。
 女性は防がれた拳を引くと同時に間合いを僅かに空け、そこから片足を軸にすることで身体全体を回転させた。従えるは鞭のように撓る長い右脚。
 アハトはそれを僅かに上体を逸らして回避する。風さえ従える強烈な回し蹴りが目の前、僅か数mm手前を横切る。随伴した風が追い討ちをかけるように、前髪を揺らした。
 斬撃の如き蹴りが難なく回避されたという事実に対して、赤毛の女性は追撃で応じる。流れる右足の軌道を止めることなく、大地に戻ると同時に踏み込み、姿勢を低く、そして身体全体で踏み込む。繰り出されたのは肘撃ち。

 ――女の胆力とはいえ……この速度、侮れんな。

 アハトは冷静に判断を下し、肘撃ちを右腕の義手で弾き、その軌道を逸らす。
 回し蹴り、そこから肘撃ちへ派生するという一連の流れから、アハトはこの女性が何かしらの格闘技を所持しているのは間違いない、と推測した。それも軍隊格闘技、そのベースとなった西洋武術とはまるで異なる武術をこの女性は所持している。
 決定的に異なるのは、攻撃後の行動だろう。西洋武術とは基本的に、攻撃の後に引く、つまり攻撃の装填の動作を挿む必要がある。拳を繰り出したなら戻す、蹴りならば再び元の地点に戻すなどだ。攻撃により運動エネルギーを放出したのなら、それを再装填しなければ再び攻撃することはできない。
 だが、この赤毛の女性の戦闘方法は、根本からこれが異なる。両手両足、いずれでも強烈な打撃を見舞うことができ、そしてそのいずれも撃鉄が起こされた状態だ。
 拳撃がはずれても即座に回し蹴りが迫り、それすら回避したとて、既に右腕には肘撃ちという攻撃が装填されている。それを先ほど弾いたアハトの目の前で、赤髪の女性は無防備な背中を見せながらも踏み込みを続行する。繰り出されたのは――背面を利用した当身だ。

 ――この動き……拳法か。

 その正体の一角を看破しつつ、アハトは繰り出される体技、その悉くを捌いていく。
 都合二〇合の応酬を超え、未だ両者の間に決定打はない。女性の格闘能力が如何に優れているとはいえ、アハトの身体能力と知覚速度の前では一歩不足しているのが現状だ。それとて、赤毛の女性の実力ならば理解はできているだろう。故に――。
 情熱の色を携えた女性が、今までとは異なる動きを見せる。静謐に、ゆったりと掲げられたのは長く妖艶な右足だ。
 赤毛の女性が自身の体勢を低く沈み込ませるのと同時に右足を踏み込む。地を揺るがすほどの衝撃を従えた踏み込み――アハトが知るところではなかったが、それは「震脚」と呼ばれる東洋武術の踏み込みのひとつ――を放つと共に、低く抑えていた重心を一気に開放した。
 強烈な踏み込みが生んだ反発作用と急激な重心の移動とが完全に同調し、爆ぜたと思わせる速度を拳士の動きに付加する。前方に突き出されたのは左腕による掌底。
 常人とは思えぬその速度に思わず目を見開くアハト。人類の運動限界を半歩ほど踏み越えた速度はしかし、アハトの左の義眼はその軌道を確実に補足している。

 赤毛の闘士は思案する。
 自身の切り札の一つとも言える右掌打。一見、シンプルとも言える打撃だがその実、磨き上げれば文字通り「必殺」の絶技へと昇華される。
 「震脚」を用いた踏み込みと重心移動による加速度、そして着弾時に発生する衝撃を一箇所に集中させる。正面からまともに受ければ、その衝撃は内臓を保護する肋骨をも容易く打ち砕き、その奥に座する心の臓に到達、確実なる死をもたらすことだろう。
 目の前の黒衣の男の動きから推測するに、格闘技の類を身につけているようには思えない。だがその運動能力、知覚能力は郡を抜いており、時折垣間見せる歩法は舞踊を思わせるほど洗練されている。格闘技ではない何か。男の間合いの使い方はむしろ、剣術の類を彷彿とさせるものだ。
 繰り出した右掌打は、まともに受ければ大の大人でさえ絶命する威力を備えている。単純ゆえに見切られやすいという弱点を持つが、見切られたとしても防御が出来なければ意味はない。「震脚」と重心移動がもたらす加速度は、ただの打撃を必殺のものとし、かつ目標が防衛網を形成する前に着弾する。
 回避できず、さりとて受ければ致命傷を与える一撃。常人ならば反応すらできずに絶命するそれも、黒衣の男の視線はその軌道を確実に追っている。
 しかし、それすら既に遅い。男の腕、及び身体は未だ始動状態にすら入っていない以上、今から防御、もしくは回避を選択したとしても間に合いはしない。黒衣の男が初速からの最高速、などという不条理を実現しない限りそれは不可能だろう。

 既に初加速に出遅れたアハトは、上半身のバネだけで左右の腕部を跳ね上げる。重さのある義手の右腕部をカウンターウェイトとし、左腕に加速度を付加。迫り来る拳士の掌底に重ね合わせるように、左の掌底を繰り出す。

 衝突――見事な協和音が響く。

 アリーナ・エントランスの一角、先ほどまで談笑をしていた数多くの人間が、今ここで、この瞬間に起きた攻防に見入った。アリーナでの賭けに負けた酔っ払いが喧嘩するのとはわけが違う。
 それは完成された舞踊を思わせるもの。芸術の域に達したそれは一介の害なす手段としての領域を越え、後世に伝えるべき技巧として昇華されている。その技巧の程がどれだけ優れているか、その本質そのものは玄人にしか汲み取ることは出来ないだろう。
 だがそれとて杞憂だ。本質を見極められずとも、その凄味を感覚で感じ取ることは獣でもできる。見るものを魅了する絶技の応酬は、その空間にいた全て者に、等しく記憶に焼きついたはずである。
 言葉を口にするのさえ、まるで禁忌に思えてくるほどの静寂。それが何よりも証明していた。
 女性が衝突させた掌を引き戻すと同時に間合いを離す。常人の脚力で五足の間合いはしかし、この拳士ならば一足で飛び越えることだろう。
 アハトは離れた間合いに油断することもなく、緊張をその身に宿らせる。決して筋肉を弛緩させずに、さりとて攻撃態勢をとらず、ミラーシェード越しに赤髪の女性を見据えた。

「――やるわね。ロリコンの変態誘拐犯のくせに」

 赤髪の女性が侮蔑の言葉を投げかける。東洋武術を思わせる独特の構えを維持しつつ、その両足には跳躍のエネルギーを遍く充足させている。

「何のことだ?」
「惚け――!」

 赤髪の女性が怒気を含んだ言葉を言い放とうするが、それを雪色の少女が遮る。黒衣の男の背後から小さく顔を出す少女。

「あ、メイファおねーちゃん」
「アリス!早くこっちに!」
「うん」
「大丈夫だった!?」
「うん。このひとに、つれてきてもらった」
「……え?」

 メイファと呼ばれた赤髪の女性が、その凛々しい瞳を黒衣の男に向ける。その視線には疑問という言葉を載せられているのが、容易に見て取れる。

「あ――」

 何かに気付いた雪色の少女が短く声を上げる。その視線の先には、この状況下においてもなお悠然と歩みを進める黒髪の男。
 静謐に満たされたこの場における男の堂々とした歩みは獅子か、あるいは白虎を思わせるもの。広大なる草原の覇者か、はたまた森林の王者かを髣髴とさせるその歩みは、荘厳の一言に尽きるものだ。
 逆立てた黒褐色の髪は大鷲の翼のように力強く、如何にも獰猛。視線はいくらか和らいでいるはいるものの、その根源たる瞳は猛禽類の如き鋭さを保っている。
 服越しからでも見て取れる屈強な肉体は、男が優秀な戦士であることを何よりも雄弁に語っていた。

「美花(メイファ)……。アクティブすぎるのも、時には考えものだぞ」
「何かあってからでは遅いかな……って思ってさ……。ていうか――」

 美花(メイファ)と呼ばれた女性がばつの悪そうな表情で猛禽の男に弁解を行い、次いで黒衣の男を見据えた。
 黒衣の男の容姿は、客観的に分析しても怪しさに富むものだった。
 首から下、足の先までの服飾が全て黒で統一されており、さらにその上に漆黒の外套を羽織っている。時期的にはそれほど寒さはないというのに、両手には手袋。視線を隠すミラーシェードはもちろん、その枯れ木のような長身さえも、その怪しさを助長している。

 ――コレを怪しむなと言われても……。けど――。

 メイファはアリス自身がこの男を一切警戒していないというのを見て取った。この子は自分よりも、そういう点ではある種鋭い感性を持っている。だがそれで完全な安堵が得られるほど、メイファは割り切れてはいなかった。
 その理由は単に、先ほどの戦闘に他ならない。
 この黒衣の男、戦意はあれど殺意はまったく感じられなかった。だがメイファは男が戦闘の最中、僅かに冷徹な感情が見せるのを逃さなかった。その感情は僅かばかり表層に浮き出るものの、すぐに奥へと引いてしまう。感情の動きから敵の動きを予測するという功を収めた自分でなければ、それを拾うことはできなかっただろう。
 形容するならば、それは抜き身の刃物とでも言うべきか。今は鞘に納まっているものの、時折見せる白刃の如き感情が肌を突く。
 特に注視すべきは最後の打ち合いだろう。右掌打を放った後に間合いを離したのは、何も戦術的な意味合い、仕切りなおしを意図しただけではない。あの一撃の後、メイファは明確に「斬られる」というのを直感した。常人における五足の間合いも、その殺意の領域から離れたに過ぎない。
 今は独断、この男の筋肉は運動状態とはなっておらず、弛緩状態を保っている。例えこの男が突然に敵対行動とったとしても、自分ならば筋肉が緊張状態へと移行するその前――先んじて放出されるであろう「戦意」を感じ取ることができる。速度のアドバンテージは二手ほどこちらにあるのは確実だ。
 ましてやソリッドがいる今の状況ならば万が一にも敗北はないだろう。故に問題はないとメイファは判断し、その警戒を解いた。

「ありがとう、おじさん」
「……あぁ」

 アリスが黒衣の男をおじさんと称する。メイファは男の横顔から推測するに、年齢のほうはさほど自分と変わりないように思えた。アリス自身がお兄さんという言葉を知らないだけだろうか。
 場合が場合なら失礼に当たるその呼び方も、黒衣の男は独断気にした様子は見て取れない。
 そのやり取りを知ってか知らずか、猛禽の瞳を備えた男が黒衣の男の前まで歩みよる。

「彼女を保護してくれたことに、礼を言おう。それとメイファ――」
「あぁ、うん、その、ごめんなさい……。早とちりだったみたいね」
「大事はない」
「今度手料理をご馳走するわ」

 そう言って、生来の明るさを持って目配せをする赤髪の女性。次いで、右手を差し出すは猛禽の瞳を持つ男。

「ソリテュードだ」
「お前があの……?俺は――」
「アハトだろう?今日の試合、見させてもらった。あのような機体を軽々と扱うとは恐れ入る」
「世辞はいい」
「お世辞ではないさ。それと――」
「私はシャオラン(小蘭)。この人の――!」

 シャオランと名乗った女性がその横に立つ男、ソリテュードの首に飛びつく。

「――愛人」

 妖しく微笑む。見ようによっては、見る者を堕落させ兼ねない妖艶さ。だがこの女性の明るい声音はそのような下賤な雰囲気を見事に打ち消し、返って快活的な魅力を溢れさせている。

「お前はまたそういうことを……」
「いいじゃなーい。だって――」
「――エデンの睡蓮か」
「あら、私のこと知ってるの?」
「有名人だからな」
「睡蓮?」

 ソリテュードが問いを投げかける。

「私を見てくれている人たちからの呼び名。愛称みたいなものかな?ちなみに花言葉は甘美――優しさ――信頼。そして――」

 メイファの口先がソリテュードの耳元へ向けられる。囁く言葉は妖しく、また艶に富んだもの。

「心の純潔――よ」
「へぇ、お前にそんな通り名があるとは意外だ。そしてその花言葉も意外だ。ついでに言うといい加減離れろ」
「あははっ!恥ずかしいんだソリッド!」

 向日葵のように笑うメイファ。ただそこにいるだけで場の明るさが増しているのは、錯覚ではあるまい。柔らかな表情は祝福を詠う春の陽光のように美しい。澄み渡る水面でさえ、その輝きを甘んじて受け止めるほどに。
 だが万物を祝福する陽光とて、人によっては痛ましいこともある。その光を見る痛みに耐えかねたアハトは、面を背ける。

「――用件は済んだ。待ち合わせがあるのでな、失礼する」
「そうだったのか。悪いな、引き止めて」
「いや、問題ない」
「――いつしか同じ戦場に立つときが来るだろう」
「……」
「そのときは、味方であることを祈る」

 猛禽の瞳を持つ男の口調はいくらか和らいではいたものの、その視線は戦場に身を置くもののそれだ。それは同時に、敵として相対したのならばその時は容赦しない、という意思をも感じさせた。視線による対話は、両者の性質を言葉よりも雄弁に伝えていた。
 男は視線を深雪の少女――アリスと呼ばれた少女に向ける。

「アリス」
「なに?」
「帰るぞ」
「うん。おじさん、ありがと」
「あぁ」

 短く返答する黒衣の男。

「ばいばい」

 深雪の肌を持つ少女が小さく手を振る。黒衣の男――アハトはアリスのその行動に沈黙を示したものの、しばし遅れて小さな動作で手を振った。
 その行動を見たソリテュードは黒衣の男に対して、見かけによらず子供好きなのかもしれないな、という感想を抱いた。


 ソリテュードはアリスの手を引き、その小さな歩幅を意識しつつゆっくりと歩き出す。しばらく歩みを進めたところで、ソリテュードは雪色の少女に問いを投げかけた。

「アリス、あいつ――アハトはどんな奴だった?」
「ん……」

 しばらく黙り込むアリス。考えているのだろう。考えがまとまるのを待つのもまた、保護者の役目だ。

「いたがらないひと……」
「痛がらない?」
「うん。いたいのに、それにきづいてない」
「どういう――」
「いたいのなら、泣けばいいのにね。ね?マリー」

 アリスが白い兎の縫い包み――マリーに同意を求める。
 ソリテュードはゆっくりと背後を振り返った。視線の先には黒衣の男の背中が見える。
 陽光に照らされていながらも、その背中は冥府へ向かう幽鬼のようなものに思えた。

 -喫茶店・アインスト-

 都市部からやや離れた位置に座する小さな喫茶店「アインスト」。その喫茶店の給仕を担当している少女――レナは、小さくもまとまった店内をゆっくりと見渡した。
 店の特徴を単に言うならば、この店内の光景が何よりもそれを雄弁に語っているだろう。決して繁盛とは言えない客足。だが店内にはレナの見知った顔ぶれ――ようするに常連客と呼ばれる人達が多くいる。つまりはそういうことなのだ。
 店を大きく拡大することもなく、さりとて多くの従業員を雇うこともないのはマスターでもある父の意向だ。その理由は、曰く「この静かな時間こそが至福」だからだそうだ。
 レナはその時の父親の横顔から、他にもっともらしい理由がありそうだと感じたものの、それを詮索するようなことはしなかった。余り突っ込んで聞いてはいけないような、そんな気がしたからだ。
 店内を再び見渡す。店内は常連の一人である、トレンチハットが特徴の老齢な男性が一人、珍しく若い女性が一人、男女の組み合わせが2組という状況だ。
 特にこの男女の組み合わせの内の一組は、レナにとっては初見だ。常連客の多いこの店において、それは実に珍しい。
 その男女は奥の窓側の席にて、珈琲を片手に談笑をしている。表情の変化が少ない短い黒髪の男性と、優雅ともとれるプラチナブロンドの長髪が特徴的な女性の二人だ。

「最後の踏み込みを許したのが敗因ね……。トルフォニスの切り札が接近戦にあることぐらいわかっていたのに避けれなかった。そのことが何よりも屈辱だわ」
「あの戦い、どっちが勝ってもおかしくはなかった。負けたのは時の運だろう」
「じゃあ私は、運に負けたってわけ……?」

 怒気を含んだ金髪の女性の声。女性は「私が誰か言ってみなさいよ!」と言葉を続ける。
 激昂する女性とその剣幕に押される黒髪の男性。黒髪の男性は押されつつも、勤めて弁明を行う。

「ち、違う。そうじゃない。次やればおそらくセシリィ――お前が勝つ。それこそ、コインを投げれば二回に一回は表が出るようにな。それぐらいにはお前達は拮抗していたと思う」
「そうやってうまく誤魔化そうとして……」
「そんなことは……ないぞ?」
「私の目を見て言いなさいよ!」

 そう言えば、今ではもうユウともそんな言い争いをしなくなったな――とレナは過去を思い返した。成長するにつれて顕著となったそれは、お互いがお互いを知ろうと思い始めたからによるところだろう。立場を理解できなくても、知ることで人は少しだけ他人に優しくなれるものだ。
 だがそれは、触れようとすらせずに大事にしているだけではないだろうか、とレナは案ずる。
 そんな思考の混濁を知ってか知らずか、入り口に吊るされた鐘は自らの仕事を忠実に全うする。入店者が現れたことを、その小さな音色を響かせることで知らせるのだ。
 レナはその音を聞き、自分の仕事に戻る。入り口に身体を向け、入店者を歓迎する。

「いらっしゃいませ」

 入店してきたのは黒い外套に身を包んだ男性だ。いや、外套だけではない。鈍色の髪を除いて、瞳を覆うミラーシェードと外套、手袋からブーツに至るまでその服飾の全てが真っ黒。まさに影絵を思わせる風体だ。
 最初に思ったのはすごく背が高いということだ。その差はレナの頭二つ分ほどであり、思わず見上げるほどだ。ユウや自身の父親よりも一回りは長身だが、だからといって「大きい」という印象はまったく受けない。というよりは、大きいという表現が正しくないとでもいうべきか。
 例えるなら葉を失った枯れ木。背は高いものの、外套の奥に潜む身体は痩躯。同様に手足も細く、長い。
 単純に大きいという言葉を当てはめるならば、この人よりは自分の父親のほうが適切だろう。

「お一人……ですか?」
「人と待ち合わせている」
「あ、それでしたら――」

 レナは視線を送り、「あちらです」と手を添えてその方角を示した。その先には先ほど、レナに「黒ずくめの怪しい男が来たら案内して欲しい」と伝えた一人の女性が座っている。
 長身痩躯の男は何も言わず、静かな足取りで待ち人の元へ向かっていく。歩く音すら乏しい黒衣の男の歩み。本当に生きているのかさえ怪しい動作だ。ミラーシェードに隠されて見えぬ瞳には、あるいは生者の証があるのだろうか。

「どうしたレナ?」

 バーカウンターの奥でグラスを磨く父親が、問いを投げかける。

「え……?」
「気になるのか?」
「うん……。なんかあの人、まるで――」

 死んでいるのに生きているみたい――そんな漠然とした表現が、レナの心の片隅から浮かび上がってきた。呆然と心のどこからか滲み出たその表現に、レナは自省を促す。外見と雰囲気だけで決め付けるなんてよくないと、人は見かけによらないものなんだ、と自身に言い聞かせる。
 それでもただ一つ、疑問が生じたとするならば、それは「そのように極自然と機械的に判断できた自分」だろうか。その理由を模索して思考の海へと飛び込んではみるものの、明確な回答は一切得られない。
 ならばそれは杞憂なのだろうと、レナは思った。レナはついぞ、その「機械的な判断」というのを意識することはなかった。


 形容するならば月明かり。競い合わせるならばそれは太陽か。星々を圧してなお輝くそれは、頭髪と言われても信じられぬ神秘の結晶。月明かりの糸は勤めて流麗であり、金糸のように繊細。それは何者も編むことなく、さりとて何を吊るすわけでもない。ただひたすらにその輝きを誇示せんと、その身を置いている。
 月明かりの元には黒縁の眼鏡。その奥で灯るのは真紅の瞳だ。月光の髪を持ち、鮮やかな真紅の瞳を持つ女性の名は――アイシス。
 彼女がタブレット型のパーソナルコンピュータを操作する。公開すべき情報を素早く発見した彼女は、その内容を取得。その情報を画面に表示する。

「レイヴン名はバラン。搭乗ACは重装4脚「ブラッドアラクネー」です」
「……。依頼は?」
「本日より三日後です。クレスト社からの依頼を実行するためミラージュ社の輸送列車を襲撃する、とのことです。それと――」

 その言葉に次いで、今度は重装備を施した四脚型AC「ブラッドアラクネー」が画面に表示される。
 アイシスは拡大を選択、それを2度実行する。ピックアップされたのは「ブラッドアラクネー」の肩部装甲だ。紋章を刻むべきそこには、禍々しい紅色に染め上げられた蜘蛛の姿。口部から滴る血の雫を拾うことも忘れ、ただひたすらに獲物を貪っている絵が刻まれている。
 アハトは記憶を走査する。
 忌むべき赤い蜘蛛のエンブレムを付けたACとこの表示されたACが適合しているかと問われれば、自分は「否」と答えるだろう。
 拭えぬ違和感とでも言うべきか。キースが調査したこの男のレイヴンとしての経歴は、如何にも並の並だ。取り立てて大規模な戦闘を行った過去もなければ、危ない橋を渡ったという情報もない。今時珍しいほどの至極真っ当なレイヴンだ。
 そのエンブレムも赤い蜘蛛という点においては適合するものの、記憶の中にあるそれとでは細部が異なっている。それとて、記憶の混濁の度合いを考えるならば、誤差の範囲内に収まると言われれば、それまでではある。

「……確証はないな。だが――」
「情報がない現状、接触する他はない」
「そういうことだ」
「私の意見を言わせてもらえるなら、恐らく否。何よりもこそ泥の情報が信用なりませんから」
「――そうか」

 アハトは珈琲を飲み干し、無言で立ち上がる。店員に勘定を済ませ、アイシスと共に店を出る。

「カストラは?」
「明日には整備が完了するかと」

 喫茶店「アインスト」の前に、その外観に似つかわしくない金属の塊が設置されていた。それは電動機関という心臓を持ち、電力という血で稼動する二輪駆動車。だが、そのサイズは一般的な大型の自動二輪車よりも二回りは大きい。その要因たる分厚い金属の鎧は、自身の圧倒的な速度に耐え得るべく備え付けられたもの。漆黒の鎧と月光の装飾をあしらった車体。時折脈動する真紅のラインは、血管を思わせる。
 これこそ、アハトが所持する可変式大型二輪装甲車――ケリュネイアだ。
 従来の二輪車を上回る加速力と最高速度を高次元で両立させる、というコンセプトを元に開発され、相反する加速と最高速の両立を実現させるために、通常走行時に利用する電動機関とは別に小型化されたオーバードブースト機構を搭載している。
 停止状態から200km/hに達するのに五秒を要さず、またOBを起動した際には「飛翔に近い形」で移動。計算上での最高速度は700km/hに達する。
 よもや二輪車としての次元を超えた加速度と最高速は、搭乗者に死の漣を感じさせる域にある。大の大人であろうと、アクセルを捻れば速やかに自害可能だ。オーバード・ブースト機構が実現する時速700kmの世界に至っては、よもや常人の想像が及ぶ領域を遥かに超越したもの。毒物による死を想像するほうがまだ容易いと言えよう。
 その設計思想、それを実現させた技術、そのどちらもが狂気の域だ。狂気の恩恵を遺憾なく受けて生まれたこのケリュネイアは、まさに金属で出来た怪物だろう。
 その怪物に、恐れることなく跨るアハト。長身のアハトが搭乗してもなお、その車体は不釣合いと思えるほど大きい。

「乗っていくか?」
「――殺す気ですか?」
「冗談のつもりだったんだがな……」
「あり得ないほどわかりづらいです。そして私には至極大事な予定があります」
「射撃場か?」
「えぇ。それと最近、的が朽ちてきたと店主がぼやいてました」
「――それで?」
「ぜひ貴方に的に――」

 ケリュネイアの電動機関を点火する。アイシスの不吉な言動を重々しい駆動音がかき消す。

「先に戻る」
「――えぇ。ではまた」

 吼える駆動音。拘束具とも言うべき金属の鎧が、荒ぶる車体を押さえ込む。マフラーからは獅子の唸り声を思わせる雄叫び。静謐な市街地に咆哮が響き渡る。
 アハトは徐々にアクセルを開け、ケリュネイアの加速を促す。月女神の聖獣がアスファルトの路上を走破する。
 風すら置き去りにするその車体を操作している間、アハトは機械義手である右腕、その付け根の部分の違和感が強くなっていくのを感じた。僅かに付随するのは痛み。
 恐らく季節が変わったことにより、義手を構成する物質の体積が僅かに変化したことによるものだろう。人体とはそういう分子単位の変化にさえ、敏感に反応する。元より自身の腕でないというなら、それはなおさらだろう。
 今の右腕が、自分の腕ではないことを再確認するアハト。
 元来が定期的なメンテナンスが必要なものだが、人体を模した機械の腕というのは精密極まるパーツの集合体だ。素人による調整、整備が出来るようには設計されていない。
 ましてや剛性さえ兼ね備え、近接戦闘を可能とする義手だ。調整できるのは製作者本人であるルイスだけだろう。

 ――明日、ルイスの元を尋ねるか。  

 黄金の角と青銅の蹄を持ち、射られた矢よりも素早く走ると伝えられる月女神の牡鹿。その名を冠する二輪駆動車「ケリュネイア」を操作し、アハトは帰路に着いた。

 The rest is silence -Erster Akt- End…

→Next…coming soon…


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  • 1/18… アラビア数字を漢数字に変更。バランクス→バランに変更。矛盾が生じたため、セシリアが戦闘したレイヴンをソリテュードからトルフォニスに変更。ケリュネイアのエンジンが内燃機関だったのを電動機関に変更したことによって不適切な表現の修正。色々と申し訳ありません。 -- 宮廷楽人・タカ坊 (2011-01-18 01:32:47)
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