「Chase of immortal」
執筆者:CHU
LEDの無機的な照明が灯る室内、そこは饐えた生活臭に満たされていた。
部屋に間取りなどなく、五メートル四方の立方体に近い。窓もなく、入り口は一つであり、その扉は閉じていた。しっかりと施錠され、来客を拒んでいる。
室内にインテリアは一つもない。独居房のような間仕切りのないトイレ、簡易ベッド、コンソール装置とディスプレイがある以外には、何も設えられてはいなかった。
ゴミ箱すらないのは、この部屋が居住を前提としていないためであろうか。
携帯用の栄養補助食品の包装や、飲料水の空ボトルも部屋の床に散乱している。リノリウム製のフロアリングに掃除された痕跡はなく、埃や抜け落ちた髪の毛が積もっていた。
この部屋の中に人の姿は一つだけだった。部屋の主であろう、歳は五〇半ばを幾らか過ぎた初老の男性がコンソールデスクに対座している。
男性の白髪に覆われた頭は粗暴に掻き乱され、いちいち整える気も失せるほどにボサボサだ。ボタンが胸元まで外されたワイシャツの上から袖を通す白衣も、所々が皮脂や垢で汚れ、黄ばんでいる。
小汚い格好の男性は狂ったように――何かに怯えているかのように――何処かに連絡を取ろうとコンソールのパネルを叩いていた。
異様だ。
一心不乱なその様子は鬼気迫るものがある。
痩身矮躯の身体に、目下に出来た濃い隈と血走った眼は仕事疲れにも見えなくはないが、その形相は尋常ではない。
恐怖だ。
ヒトの持つ、最も原始的な感情が男性を支配している。
男性に取り憑いたのは、泥のように粘つく恐怖。
そしてそれは、その“恐怖”は、――人の形を持っている。
男性は逃げていた。
正しくは逃亡の途中であり、現在も継続中だ。
いつ終わるとも知れない逃亡の生活。
ただ、終わりのイメージは明確な形を持っていた。
――即ちそれは、人の形をした恐怖が、男性の肩を叩いた時以外に他ならない。
気忙なパネルの打鍵音と、男性の乱れた呼吸音のみが無機的な部屋に満ちる。
エンターキーを押下し、命令の実行を要求する。だが、返ってくるのは「error」の文字と、使い古された短形波のビープ音だ。
努力は虚しく、未だ結実しない。
ディスプレイは暗いまま沈黙を保ち、時刻を示すカウンターの値のみが、静かに変化し続けている。
「何故だ……、何故だ何故だ何故だ! 何故どこにも繋がらない――!」
苛立った男性がコンソールのパネルを殴りつけるが、そのようなことで回線が繋がるようには出来ていなかった。
乱れた呼吸のまま、コンソール脇に置いていた飲料水のボトルに口を付ける。ボトルの内容物をいくらか喉奥に流し込む内に、乱れた呼吸だけは多少落ち着いたようである。
「……何故だ? 何故、私がこんな目に逢わなければならない――!」
最初から答えなど求めていない独白だ。それは、何処ともなく消え去る筈だった。
――しかし、
「それは貴様が“タルタロスの悪魔”だから、だなァ」
その独白に応える者が居た。
その者は、男性にとって絶対に応えて欲しくなかった人物だ。
自分が逃亡生活を続けることとなった恐怖の根源であり――白衣の男性を含む、ノーライフ機関の研究員たちが生み出した“化物”。
『ナンバーズ』――不死者の王と揶揄される程、人の身を逸脱した過剰強化人間。
それが今、自分の肩を叩きにやってきた。
振り向いた先、カードキーをふらふらと指先で揺らす壮年の男性の姿がある。
――覚えている。
あの妙に節くれ立った指は、拳の形に固めれば、どんな鈍器をも凌駕する凶器となり得るのだ。
――忘れる訳がない。
強くウェーブのかかった肩まで届くモスグリーンの髪。双眸は窺い知れないが、口元は緩やかな笑みを湛えている。
――見間違える筈がない。
一八〇を優に超えるあの巨躯。白いワイシャツを押し上げる胸板は、不自然なほどに厚く盛り上がっている。まるで鎧だ。
――変わっていない。
黒いスラックスは丁寧に糊を利かせ、アイロンがあてられていた。
何一つ同じ。
記憶にある、三〇年前と寸分違わないその姿が、目の前に在る。
「ヒッ――!?」
その姿を認めた途端、一瞬で喉が干上がり、間の抜けた悲鳴が漏れた。
抑えようの無い恐怖が全身を締め上げ、震えが止まらない。
男性は、妙に冷たく、粘ついた汗が頬を伝うのを感じた。
「なっ、なっ何故お前っ、お前がここにいるッ――“テクトーリ”!?」
腕を組み、出入口に背を預けて立つテクトーリと呼ばれた闖入者は、ゆっくりと研究員の男性に近付いていく。
巨躯さえ除けばどこにでも居そうな佇まいだ。表情も穏やかで、知らない者が傍目に見れば、優しそう――などとのたまうかもしれない。
だが違う。
アレは、そのようなものではない。あの研究に携わった自分だからこそ、言い切れる。
アレは、紛れもなく“化物”なのだ。
安全な場所――強化ガラス越しではなく、こうして直に相対して初めて理解する。テクトーリが身に纏う存在感は尋常一様のものではないと。
威圧感――あるいは闘気と呼称するのが剴切か。
息が詰まる。
その無言の圧に押され、下がろうとする研究員の尻に固い感触が生まれた。
コンソールだ。
背後にはコンソールとディスプレイしか存在せず、出口はテクトーリが塞いでいる。
後詰まりで、先詰まりで、手詰まりだ。
――殺される。と、男性は直感した。
ナンバーズは悉く、ノーライフ機関の研究員を憎悪している。
機関そのものは解体され、もはや存在しないが、彼らにとって機関の有無は考慮に値しないだろう。
彼らが憎悪する対象は、生みの親――即ち、自分を含むノーライフ機関の研究員たちだ。
連絡が途絶えた関係者は皆、彼らの手に掛かったのだと同僚から聞いていた。
その同僚も、連絡を受けた翌日には肉塊として発見された。現場の検視に立ち会ったベテランの捜査官が嘔吐したほど、その死に様は凄惨を極めていたという。
テクトーリは自分を殺しに来た。
――そうでなければ、身を隠している自分の下へ来る筈が無い。
「く、来るな! 来るなぁッ!!」
研究員の男性は、懐に手を入れ、護身のために身に着けていたポリマーフレームの自動拳銃を抜き放った。
それを震える手でテクトーリに突き付ける。
しかし、装填されている9mm弾が通用する気などまるでしない。
この“化物”に圧倒的な身体能力を付与したのは、他ならぬ自分たち自身なのだから。
現に、テクトーリは拳銃を突き付けられているという状況にも拘らず、銃口を見ることもせずに飄々とした足取りを崩さない。
――だが、
「く、来るな! 化物がッ!」
研究員の言葉に、初めてテクトーリは顔を顰めた。
ただしそれは、拳銃を突き付けられたことに対してではなく、激しい拒絶の態度に対してであった。
苦笑の表情を作ったテクトーリは、
「……無粋だな友よ、折角逢えたというに。私は、貴様に逢いたくて逢いたくて――焦がれて身が裂けそうだったぞ?」
胸に右手をあて、語る。
髪間から覗く双眸は、事実、再会の喜びを湛えている。
しかし、研究員は強い拒絶の態度を崩さない。頼りない護身具を構え、
「う、うるさい! 私にこれ以上近づくんじゃあない! さもなければ――」
叫ぶと、テクトーリは腕を広げて足を止めた。
「撃ってみるか?」
どうぞ、と言わんばかりの、芝居地味たその所作は、心憎い程に優雅だ。
研究員の態度がハッタリなどではなく本気だったとして、それでも何ら問題は無い、とでも言うような不遜な態度。
いや、実際にそう思っているのだろう。
その態度が、研究員の指に力を与えた。
「わ、私は本気だ、本気なんだ!!」
限界まで勇気を振り絞り、トリガーを引く――のだが、その指は途中で何かに阻まれた。――セーフティだ。
「あ、え? しまっ……」
何と初歩的なミスだろうか。間抜け過ぎて、呆れるほど。
テクトーリはその様子を見て、驚いたように目を瞬かせている。それから、口に指をあて、小さく笑った。
研究員の心を自らが招いた絶望が黒く染めていく。
今からセーフティを外し、もう一度構えることなど、この“化物”に対してできる筈が無い。
カチカチと歯を鳴らし、恐怖により出た涙で視界が歪む。
力の抜けた手から小型の自動拳銃がすっぽ抜ける。床に落ちた拳銃は、ガチャリと、硬質な音を立てた。
そんな、はっきりと無様な様相を見て、テクトーリの顔が笑顔に変わる。
にんまりと、人の不快感を煽る不気味な笑みだ。
笑みを顔に貼り付けたテクトーリは、落ちた拳銃を拾い、セーフティを外した。
次いで、樹脂製の半透明な弾倉を外して残弾数を数えると、遊底を引いて薬室に弾を装填する。
そのまま歩みを止めることなく、息が掛かる程の距離まで進むと、テクトーリは研究員の耳元で囁く。心の襞を嬲るような、ひどく優しい声色で。
「駄目ではないか、銃はしっかりと握っておかねば――ほら」
そう囁いて、セーフティを外した拳銃を、研究員に再び握り直させる。
「は……、えっ?」
困惑する研究員を余所に、テクトーリは研究員の指をトリガーに掛け直し、自らの心肺装置のある位置、つまりは左胸に直接突き付けた。
「狙いは急所だ……分かるな? この距離なら外さないだろう? そう、しっかりと握って……そう……そうだ、引き金を――引け」
魔物の甘言が脳に染み込み、テクトーリに操られるまま、研究員は訳もわからずトリガーを引いた。
乾いた破裂音が一度だけ室内に響き、空薬莢が跳ねる金属音が続いて響く。
立ち上がった硝煙は、陰気に紛れ、幾許もしない内に消えた。
「あ……あ……」
研究員は目を見開き、呆けた様にテクトーリの顔を見ていた――いや、違う。顔から目を離す事が出来なくなっていた。
テクトーリの着ている白いワイシャツには、左胸に焼け焦げた穴が開き、その部分に赤い染みが出来ていた。ただ、それだけだ。
撃たれた当の本人の顔には苦痛の色も無く、何の変化も無い。
人を不快にさせる、不気味な笑みのままだ。
「そうだ、やれば出来るではないか、なあ? だが――」
不気味な笑みのまま、テクトーリは銃弾がめり込んだ己の傷口に指を突き入れ、抉り出し始めた。
「我々にとって9mm弾など意味が無い。それは、貴様ら悪魔共がよく知っているだろう?」
血と空気が混ざる音が止み、傷口を抉っていた指を研究員の目前に掲げて見せる。
「ほら――な?」
そこには血に濡れた赤い鉛弾が摘まれている。
「あッ……あッ……」
引きつった呼吸を繰り返し、涙で顔をくしゃくしゃにした研究員の股座は濡れていた。床には汚らしい水溜りができている。
――殺される。と、研究員は確信した。
そんな諦念に包まれていた研究員だからこそ、テクトーリの言葉に酷く驚かされることになる。
「何をそんなに恐れる? 私は貴様ら悪魔共に“礼”をしに来たのだぞ」
「れ、礼……?」
恐る恐るテクトーリの言葉を口に出す。それは、実に現実離れした言葉として耳に残った。
――まさか、助かる?
魔物の言葉は淡い期待を生み、研究員の心に一筋の光を差し入れる。
だが、それが虚しい希望であると、乾いた心は理解していた。
「――そう、そうだ。貴様らが我々に与えたこの力、身を以って知りたいだろう? 己の成し遂げた偉業をとくと味わうといい」
テクトーリに左手の手首を掴まれた。妙に節くれ立った指、その五指が食い込んだ腕が異音を立て、本来は曲がり得ない方向に曲がる。
プレス機に押し潰されたような苦痛に、涙で濡れた顔が歪み、絶叫が喉から迸る。
「味わった後――死ね」
テクトーリは笑っている。
笑ったまま、自分の行く末を告げた。
節くれ立った左の五指、伸びた先は喉だ。
腕と同じく、凄まじい力が込められる。
一瞬で声帯を握り潰され、声を奪われた。
テクトーリの左手は赤黒いものを掴んでいる。掴み取った――喉肉だ。
喉奥を熱い液体が塞ぐ。肺から漏れた空気がそこに混ざり、ゴボゴボと異音を立てる。
溢れた液体は重力に従って流れ落ち、白衣を赤く染めた。
呼吸は、もうできなかった。
――死神という存在は、見る物によってその姿を変える。と、消え行く意識に思い出す。
誰の言った言葉なのか、それはもう思い出せない。
だが、自分にとって死神は――、
人の不快感を煽る笑みを浮かべた、おぞましい人の姿をした化物だった。
※
「――脆いな、人間というのは」
ヒト一人分の“解体”を終えたテクトーリは、指に絡まった腸を振り払うと、真っ赤に染まった手をスラックスで拭う。しかし、それは赤の濃度を薄めるだけであって、そもそもの解決には至らない。
何故ならば、白いワイシャツも、黒いスラックスも、全てが血で濡れていたからだ。
本来はモスグリーンのウェーブヘアも、今はペンキ缶を頭から被ったように赤く染色されてしまっていた。
部屋を血で模様替えした張本人は、虚ろな瞳を百と裂かれた肉片に向けている。
憎い相手を討った感慨もない。
殺しても殺しても、この心に開いた空隙は埋まらない。
時には仕事で、時には私情で、そしてまたある時は気まぐれで。数えるのも億劫になる程の命をこの手に掛けて来た。それでも――。
殺しても殺しても、この心の渇きは満たされない。
それどころか、この血肉を貪る獣性は、日に日に肥大している気もする。
かつて、実験室の強化ガラス越しにせせら笑っていたこの男を殺せば、幾分か満たされるかと思ったのだが、違った。
髪から滴った血が床に新たな溜まりを作る。それと時を同じくして、惨劇の部屋の入り口に新たな気配が生まれた。
「終わったの、アナタ?」
「――キワトルか。詰まらんよ、脆弱過ぎてな」
戸口から声を掛けたのは、見た目だけならば三十路ほどの女だ。
テクトーリと同じ服装の、いわばペアルックの上下。女の、茶褐色の乱れ髪が覆うしなやかな身体からは、酸化した苛辣な血臭が漂い、部屋の鮮烈な血臭と混ざり合う。
テクトーリにキワトルと呼ばれた女は肉片にゴミでも見るような一瞥を送ると、視線を愛する夫に戻した。
「イジワルね。だったら、私に譲ってくれてもよかったでしょう?」
キワトルは手に持ったタオルをテクトーリに投げつつ、自らの腕を引っ掻きながら残念そうに唇を尖らせた。
その爪は腕の皮膚に突き刺さり、痛々しい痕跡を刻み付ける。
自傷癖――解離性障害の一種だ。
PTSDにより、心を闇に食われたこのキワトルもまた、テクトーリと同じくナンバーズの呼称を受けた一人。破壊と殺戮を供とする魔人だ。
「そうもいかん」
タオルで血を軽く拭ったテクトーリはキワトルの不平に笑って返す。
「お前には二人も殺らせただろう。これは、私の獲物だ」
「そうだったかしら?」
「そうだとも」
微笑み、傍に立った愛しい妻を抱き寄せる。途端、キワトルの上下は容易く赤色を吸い取り、同じ色に染まった。
テクトーリは、キワトルの乱れた茶褐色の髪を優しく掻き分け、カメラアイに代替された両目を覗き込む。その目に先程までの空虚さは無く、愛慕の情に満ちていた。
「管理人室のアレ、どうする?」
「放っておけ。どうせ、ミラージュが処理する肉塊が、ほんの六〇キロばかり増えただけだ」
キワトルは赤い舌でテクトーリの頬に残った血を舐め取り、そのまま下唇を甘噛みする。頬を緩め、
「ふふ……お楽しみはこれで一旦おしまいね」
唇を離したキワトルは仕事の貌でそう言った。
「自分のところのお偉いさんを殺って欲しい――そんな下らない依頼がミラージュから来てるわ」
「……確かに、下らんな」
吐き捨てるように呟き、歯噛みする。
「命薬さえ自由に出来れば、あのような腐った櫛比に迎合せずとも良いのだが……。“オグマ”とは、まだ伝が取れんのか?」
テクトーリの問にキワトルは力なく首を横に振った。
その顔は、半分が呆れで、もう半分が諦めだ。
「……無理よ。アイツ、隠れんぼの才能だけは頭抜けているもの。ミラージュのトレーサーを使っても掠りもしないわ」
それで、とキワトルは言葉を継ぐ。
「依頼、どうするの? 蹴るというのであれば、私はそれで構わないけど」
「……応諾するしかあるまい。奴らには、まだ従っておく必要があるからな。それに――」
同じく仕事の貌――傭兵としての貌に戻ったテクトーリは、キワトルを引き連れ、部屋の戸口に向かう。その頭では、これから自分が殺害するであろう獲物の勘定を始めていた。
「――殺しに事欠かんのは、それはそれで有難いことだ」
その獲物が支配企業の幹部であろうが、自分達の前では肉になるのを待つ養鶏と同義だ。
咽返る程の血臭に満ちた部屋を後にしながら、テクトーリは薄く笑っていた。
「――だが、たまには、手応えのある同胞(ハラカラ)と相見えたいものだな」
己が愛機の待つ場所へ足を進め、強敵の出現を焦がれる。
恋慕にも似たその感情は、人の道を外れた今でも褪せること無く、自らの奥底で黒い火となり燃え盛っていた。
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最終更新:2011年11月02日 21:19