赤穂市の忠臣蔵ゆかりの地を紹介します。


赤穂市(あこうし)は、兵庫県の南西端部に位置し、岡山県との県境に位置する市です。元禄赤穂事件(忠臣蔵)の舞台となった赤穂城や、港町の坂越、国立公園の御崎などで知られています。
古くから塩田が栄え(入り浜式製塩)、生産されている塩は「赤穂の塩」として全国に流通しています。最近はお菓子などにも赤穂の塩が使われていますね。この塩をめぐり浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出す塩の製法と販路の問題で対立があったことから刃傷に及んだとという「塩戦争」説もあったりします。
しかし、いまだなぜ浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及んだのか誰も知る由もないです。このなぞが忠臣蔵の話をより面白くしているのかもしれません。
まずは、赤穂市にある忠臣蔵に関する史跡を紹介します。

赤穂城

赤穂城は、常陸国笠間から正保2(1645)年に転封となった浅野長直が、慶安元(1648)年より13年に亘る大工事により、寛文元(1661)年に完成しました。変型輪郭式の純然たる海岸近世城郭史上価値ある遺跡として昭和46(1971)年国の史跡として指定され、赤穂市が国内外に誇る市民的文化遺産です。

城郭配置図

  • 大手門
大手門の虎口は68坪の内枡形をなし、東面する高麗門と南面する櫓門からなる雄大な城門でした。明治期に取り壊され、現在の高麗門は昭和30年(1955)に大手隅櫓とともに再建されたものです。
大手門の北にある二重櫓で、東西4間半、南北3間半の基底部を持つ櫓です。大手門を監視する到着櫓としての性格を持ち大手門防備の要となる櫓でした。明治年間に取り壊されたが、大手門や土塀とともに再建されました。

  • 近藤源八宅跡長屋門
1999年4月、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいに解体・復元され一般公開されるようになりました。源八は藩の重職を務め、大石家と親戚関係でしたが、討入りには加わっていません。

  • 大石邸長屋門
長屋門は築城当時のもので、旧屋敷跡は大正12(1923)年国の重要文化財に指定されました。

  • 二の丸門跡
浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応二年に赤穂に来て、虎口の縄張りの一部を変更したことで知られています。
赤穂城二の丸の面積は一万七二五九坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪の大きさでした。
また、文久二年(1862)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」です。この事件は、明治四年(1871)二月の、日本最後の仇討ち『高野の仇討ち』の導火線ともなりました。
ここに置かれている半畳くらいの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれています。

  • 本丸跡
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治十年代後半の取り壊しまでの約230年間存続していました
現在の本丸門は、平成四年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。

  • 武家屋敷
三之丸清水門から城内に入ったとき、左手に見える侍屋敷風の建物が武家屋敷公園です。漆喰塀の続く外観は、往時の城内を偲ぶものです。

  • 清水門
この門は口幅二間二分、奥行七尺七寸、建坪四坪のもので「赤穂城引渡一件」文書では、川口門ともいわています。
門を出ると板橋があり、附近には蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場がありました。
門の内側には敵兵の直進を防ぐために蔀が備えられ、又門の南の石塁と二の丸東北櫓との間の二の丸濠には、六間一尺五寸の竹柵も設けられていました。
なおこの門は、開城後の大石内蔵助が元禄十四年四月十九日に幕府へ城明渡しの後、名残を惜しみつつ退城したことで有名な門です。

  • 塩屋門
塩屋門は赤穂城搦手の門として配され、高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、建築面積約16.5㎡であったという。門を入ると内部は内桝形をなし、門正面には高さ4.5mの桝形石垣、左手は雁木となり、城内へは右手方向へ進路をとる。桝形内には番所と太鼓櫓があって、この門内外の侍屋敷に合図を行った。門の向きは南よりの西向きで、足軽2人、下番2人、三道具(突棒・刺股・袖搦)1組が配置されていた。元禄14年(1701)3月19日、公の刃傷・切腹を報らす第一(早水藤左衛門・萱野三平)、第二(原 惣右衛門・大石瀬左衛門)の早使の入ったのもこの門であり、 4月19日城請取りの備中足守藩主木下肥後守の軍勢が入城したのもこの門である。真ん中の写真は、明治10年代頃に写された塩屋門。中央やや左に高麗門の門構えが、左端には太鼓櫓が見える。右奥の建物は二十の隅櫓で、1層目に唐破風付きの出窓を備えている。その規模は基底部で東西約6.9m・南北約8.8mと伝えられている。
現在塩屋門があった場所は、石垣のみ残されており(いまだ修復されず崩したまま)門は、花岳寺山門に移築されています。

息継ぎ井戸

浅野内匠頭刃傷の知らせを早駕籠で4日半で早水藤左衛門、萱野三平が赤穂城下に着き、邸宅に入る前に一息ついた井戸とされ、息継ぎ井戸と呼ばれています。もとの場所から少し西側に移動しきれいに整備されました。

花岳寺

浅野家四代、大石家などの菩提所。宝物館。忠義塚。四十七士の墓。山門は、赤穂城塩屋門を移築したもので、平成元(1989)年市文化財指定されました。二代目の大石名残りの松、大高源五の句碑「こぼるるを ゆるさせ給へ 萩の霧」があります。

大石神社

大正元(1912)年し創建。赤穂城の三ノ丸の大石内蔵助宅跡にあり内蔵助をはじめ四十七士と萱野三平、赤穂城主浅野家三代と森家の先祖七代の武将を祀っています。神社内に宝物殿、義士木像奉安殿があります。赤穂の人の初詣は、まずここでしょうか。


赤穂城の歴史

1646年(正保3年) 近世城郭建設のため、近藤正純が設計図を作成。石材採掘にも取り掛かる。
1648年(慶安元年) 6月17日(新暦8月5日)に幕府に築城計画を提出、異例の即日許可となり、築城開始。
1652年(承応元年) 山鹿素行を1千石で召し抱える。築城についての意見を聞き、二の丸周辺の造営を変更。
1661年(寛文元年) 赤穂城が完成する。
1701年(元禄14年) 3代長矩、江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により浅野氏改易となる。城は龍野藩主脇坂安照預かりとなる。
1702年(元禄15年) 永井直敬が3万3千石で入封。同年、赤穂浪士討ち入り。
1706年(宝永3年) 直敬転封により、森長直が2万石で入封。廃藩置県まで森氏が城主となる。

廃城・再建から現在

1876年(明治9年) 飾磨県権令、赤穂城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却される。
1923年(大正12年) 大石内蔵助邸が国の史跡に指定される。
1955年(昭和30年) 大手門、大手隅櫓再建。
1971年(昭和46年) 赤穂城が国の史跡に指定される。
1996年(平成8年) 大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門が再建される。
1999年(平成11年) 本丸門が1999年(平成11年)放送のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」の撮影に使用される。
2002年(平成14年) 旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定される。
2006年(平成18年) 財団法人日本城郭協会による日本100名城に選ばれ、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリー(60番)が開始された。
現在、二の丸庭園を再建中。


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最終更新:2010年02月27日 22:58