麻生元総理の曾曾お爺さんが造った百年使える道路

これは、平成二十三年九月十九日東京中野で行われた、経済評論家の三橋貴明氏の講演会の前座の挨拶として筆者のにこん様二号のスピーチ内容です。



あの麻生元総理の曾曾お爺さんにあたる方で初代山形県令「三島通庸(みしまみちつね)」という方が居られました。


県令とは今の県知事の事です。
この方、官軍側の人間と言うことで、佐幕派の東北での評判は芳しくないのですが。立派な功績があります。

それは何でしょうか?

答えは道路を造ったことです。
山形県は四方を高い山に囲まれています。どこに行くにも高い山を越える必要が有ります。当時戊辰戦争で官軍に敗北を喫してしまった東北地方は復興もままならないまま荒廃しきっていました。
 そんな山形県令に明治八年着任した三島通庸は、真っ先に山形県に幹線道路を造りました。
有名な物は
米沢と福島を結ぶ万世大路
今の国道十三号です
そして
米沢と喜多方を結ぶ大峠函嶺越(おおとうげかんれいごえ)
今の国道113号です。

維新後の日本に於いて当時の日本はまだ、県境の峠道は歩いて越えるのが当たり前。
地域経済を支える物流の為に数十キログラムの重い荷物を背負って峠を越える職業の人を歩荷(ぼっか)とか強力(ごうりき)と呼びます。
多少道が良ければ牛馬に百キログラムの荷を背負わせ牛方、馬方がこれを引いて歩く。
これを駄馬と呼びます。

群馬と長野の県境に十石峠と呼ばれる有名な峠があります。
何故こんな名前が付いたのでしょうか?
一日に十石の米を運ぶことが出来る道だからだそうです。

米一石は約150キログラムです。
大人が一年間に食べるお米の量が一石です。
つまり一日に十人分のお米しか運べない。

これが当時の物流の常識でした。

こんな時代に三島が企画したのは馬車がすれ違うことが出来る幅の広い道路と呼ばれる物。
当時は県の財政は窮乏しているのにこんな無駄に広い道を
土木県令と揶揄され、私腹を肥やしているに違いないと散々叩かれました。
しかしこれらの道は本当に無駄だったのでしょうか?

奥羽山脈の岩に楔を打ち込んだような急峻な地形。豪雪地帯という地理的条件故に
長期間の通行止めとなる事は有ったにせよ、明治初期に開通したこれらの道路。




万世大路は昭和45年まで
そしてなんと
大峠函嶺越は平成四年まで幹線国道として百年以上に亘って東北には無くてはならない道として使われました。

今も現存区間は、三菱ジープの様な車ならば走行可能です。
私も何度か走ってみたことがあります。

三島の経済政策はまず道路。つまり公共投資です。
社会インフラがなければ物流が成り立ちません。

山形県とその隣の福島県はモモやブドウやサクランボウの産地で有名ですが、これを奨励したのも三島です。

出来上がった果物は道路の上を早く大量に運搬できる馬車に乗せて新鮮なうちに県外に売りに出すことが可能となります。
これは当時の一次産業物の主流を占めていた炭や繭や生糸や亜炭(あたん。質の悪い石炭暖房用に使われた。山形は日本一の産出)も同じ事。
維新旋風で荒廃した東北の復興に多大な貢献があった事は否めないはずです。

三島の造った道路は昭和に入りバスや大型トラックを通行させる為に相次いで拡幅工事が行われました。周辺で聞き取り調査を行ったところ当時を知る古老からは、「工事期間中に周囲の温泉宿は大勢の工夫達で大層賑わい、その為に建て増しを行った旅館も存在したそうです。」
これらの付随する経済効果も非常に大きい物です。
経済効果が発生すればそこで税収も増えます。

これでも本当に公共投資は一部の人間を利するだけ。
と言い切れるのでしょうか?

万世大路の昭和の大改修が行われたのは戦争前夜。
鉄が足らずにトンネルや橋脚に鉄筋が入れられていない。
コンクリートを節約したためによる強度不足等の崩壊の危険性が、戦後の早い時期から指摘されており、このため造られたのがバイパス(現国道十三号)昭和45年開通

バイパス完成を待つように昭和47年旧栗子トンネル大落盤。


日本は国土の七割が急峻な山岳地帯です。
道路が無ければ経済活動も成り立たない。
そして一旦造った道路も適宜なメンテナンスが行われていなければ、人命が失われる事だってあり得る。
これでも公共投資は税金の無駄使いと言えるのでしょうか?




平成二十四年十二月





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最終更新:2016年06月21日 20:15
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