「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房




日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。
日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。
李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。
教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家の基本的政策、体質となった。
韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。
このような韓国の情勢が日本人に快いはずはない。

もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では"悪名高い李承晩ライン"がある。
日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、
講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。
翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。
1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。
1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。
韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。
日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。
韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、
しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。
微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。


日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。
折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。
これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。

※韓国がここまで傍若無人にやれたのは、日本の武装が貧弱で反撃できないことを見越していたからだ。
 (海上自衛隊の発足は1954年7月)


関連…

<<国家ぐるみで日本人漁師を殺戮していた韓国>>
★李承晩ライン

1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。
同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、
全ての天然資源、水産物を利用する権利を主張。日本はこのラインを認めず、
結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで韓国軍による日本漁船の拿捕が続いた。
李ライン廃止までの抑留者数、拿捕された船の数、死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人
死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
抑留された被害者は、日韓漁業協定が成立する1965年まで抑留され、
韓国に人質として利用された。 その年月、最大13年。
日本政府は、彼らを帰してもらうために、在日朝鮮人の犯罪者を
仮釈放して、在留特別許可を与えた・・・その犯罪在日朝鮮人の数、472人。
韓国は国際法上認められていない、自称”平和線”によって
拿捕された漁民を人質として利用し、日韓条約と日韓漁業協定を
韓国に圧倒的有利な内容で締結させた。
折から(1954年)おこった竹島の所属を巡る日韓交渉も韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に日本側は事実上沈黙させられた・・・





平成21年2月1日
まかぴー様 寄稿





最終更新:2009年02月01日 23:41
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