「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国

「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国



1999 黄文雄 徳間書店
外国を侵略したことが一度もないという自慢話も大嘘である。

北方諸民族は、たいてい一度は長城を越えて京師を占領、あるいは中国を征服して王朝をつくったことがあった。

唯一それをしなかったのが韓人である。
韓人にとってはくやしい史実かもしれないが、カが及ばなかったというのが本当のところだろう。

それでも、外国への侵略をまったく行わなかったわけではない。

新羅時代に新羅人はよく日本列島を侵寇していた。
もしそれが侵略ではないとしても、韓国の教科書では、元寇を日本「征伐」として教えている。
そのとき日本を侵略したのは高麗軍だった。高麗軍が壱岐対馬を襲ったときは、島民を虐殺して200人の童男童女を強制連行し、忠烈王と公主に献上した。
高麗軍への評価には尾ヒレがつき、モンゴル軍に抵抗したことで日本が征伐されるのを救った。
日本が無事だったのは、高麗軍の働きがあったからだと嘘の歴史を教えている。

高麗朝にはユンクアンの女真征伐や李朝時代の「応永の外寇」(1419年)のように対外侵略もあったが、
李朝では朝鮮人の満州人いじめから起こった満州人とモンゴル人の逆襲や復仇のための戦争である「丙子胡乱」で、
朝鮮は清の属国になった。

しかしその後も、満州人とともに2回の羅禅(ロシア)遠征や三回の明への侵略を行った。
後述するが、明人を大量虐殺したのは、朝鮮軍だったのだ。

第二次大戦後も韓国軍は米軍の先頭に立って海外派兵を行い、ベトナム戦争ではベトコン叩きに躍起になったのだった。

明の前朝である元の時代、モンゴル人が高麗朝を支配していたころ、高麗人は競ってモンゴル人の氏名を名乗る「創氏改名」が流行り、モンゴル風を学ぶ動きが風靡した。
高麗朝の多くの貴族はモンゴル名を持っていた。
しかし、モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。

明が遼東半鳥に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。
そのため、満州人の朝鮮人に対する大規模な逆襲である「丁卯胡乱」(1627年)と「丙子胡乱」(1636年)が起こり、朝鮮は清の属国となった。

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。
父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。
3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。
満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。
しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい
虐殺と略奪を行ったのだ。
清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。

「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
(恒屋盛服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。
しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。

日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。

万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。
満州では、{朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。{





平成21年2月2日
まかぴー様 寄稿





最終更新:2009年02月15日 11:57
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