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11月15日19:39 御真影 2

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11月15日19:39 御真影 2



大連昭和高等女学校に「御真影」の来た日

おそらく「大連技芸女学校」が「大連昭和高等女学校」になったときに下賜されたものでしょう。
左が「御真影」を迎える様子。右が「御真影奉安庫」です。

大連はこの後敗戦に伴いソ連軍の進駐を受け、中華民国に返還されて国民党の官吏が乗り込んできたのですが、ある日、何の前触れもなく、いつの間にか、中国共産党の支配地域になっていたのだそうです。(これは当時の住民の感想ですので、正史ではまた違うのかもしれません、確認していません)

この御真影、どうしたのでしょうね。
おそらく「奉焼」したのだと思います。



コメント

2006年11月15日
19:53 ミー猫

朝鮮半島では、解放後にこえだめに捨てた後で焼却しようとしたから、全然燃えなかったというエビソードがあるそうですね。


2006年11月18日
00:14 pippo

防空演習の記事をさがしていたらこんなんが見つかりました。これも「御奉焼」というのでしょうか?

写真は命より重し

1945(昭和二〇)年の空襲時に、「御真影」を「守護」するために死亡した教師(校長および訓導)は10名にのぼったという。そのうち、福井市の若い女性教師の場合、公式記録には「御真影奉遷中爆死」とされているが、実は学籍簿等の重要書類を持ち出そうとしていたという(岩本前掲249、253頁)。国家は人の死を単色に染めあげようとする。その教師が「御真影」を背負う校長のあとに続いて、必死に持ち出そうとしたものは、子どもたちの貴重な記録だったのである。

その頃、中学校の生徒のなかでも、「学校守備役」というものが選ばれていた。奉安殿を守る係である。これに選ばれたばかりに命を落とした生徒もいた。

1945(昭和二〇)年8月8日夜。広島県福山市はB29九一機の二波にわたる空襲を受けた。555トンの焼夷弾が投下され、死者358人が出た。このなかに、「学校守備役」のため、避難せずに学校の奉安殿に向かい、途中で爆撃にあい死亡した高田仁さん(誠之館中学校)も含まれていた。仁さんの姉は、「安全な南へ逃げたと思っていた。わざわざ危ない方へ行くなんて……」と悔やむ(「福山空襲から50年」『朝日新聞』1995年8月8日付広島版)。

「たかが一枚の写真のために、なぜそこまで」というのは今日的な視点からの物言いだろう。この連載で見てきたように、当時は、天皇絶対の価値尺度に基づくマインド・コントロールが徹底していた。真面目で責任感が強い人ほど、こうしたコントロールは深く浸透したのだろう。

水島朝穂サイト>「命よりまず「御真影」が気にかかり」水島朝穂
~『三省堂ぶっくれっと』No.120 September, 1996
http://www.asaho.com/jpn/sansei/120.html


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