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戦略爆撃について by タラリ

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戦略爆撃について by タラリ



南京事件を議論する際に、日本軍の南京爆撃、重慶爆撃がサブテーマとして出てくることがあります。jaさんの投稿から戦略爆撃に関する部分を抜き出しました。

引用文中の話者短縮表示 
  • ja2047→ja,
  • deliciousicecoffee→deli,
  • dainihonteikokubansai→dai


(前略)
deli)「都市爆撃」という言い方は性質の悪い歪曲だ。
歪曲ではない、都市に対する爆撃は事実だ。
ただし、南京爆撃の場合は必ずしも無差別爆撃ではなく、「無差別爆撃化することを許容する」という通達が出されているに過ぎない。

「南京に於ける軍事政治経済の諸機関に対し制空権下の空爆を実施せんとす」
「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主願とするをもって、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度二千ないし三千メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたく」
(九月十四日付の 空襲計画命令書)

意図的な都市無差別爆撃は重慶爆撃の後半からだね。
南京爆撃は意図的な都市無差別爆撃ではない。
(後略)

これはメッセージ30714 deliciousicecoffeeさんに対する返信です



ja)南京爆撃は意図的な都市無差別爆撃ではない。
deli)そのとおりだ。分かれば良い。
だから最初から「都市無差別爆撃」という言葉は使っていない。正確に言うと「無差別爆撃化を一部許容する都市爆撃」だ。http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=fn5fe5tbba6a4oa4ga4ca4abeea42a4h3nbfaea47a4fa4a4a4k&sid=1835559&mid=30719

ja)意図的な都市無差別爆撃は重慶爆撃の後半からだね。
deli)これも、支那軍が対空砲火陣地を市街地に移したのが始まりだ。
1940年4月10日付の『海軍要務令続編(航空戦之部)草案』は「要地爆撃」を次のように定義している。これが、米軍の日本諸都市への都市爆撃と全く同じ理屈なのは見てのとおりだよ。「対空砲火陣地を市街地に移した」から、などという小手先の理由でやったわけではない。

「軍事政治経済ノ中枢機関,重要資源,主要交通線等敵国要地二対スル空中攻撃ヲ謂フ」
「第七十四 要地攻撃ノ要ハ作戦ノ推移二即応シ主トシテ戦略的要求二基キ,敵ノ軍事政治経済ノ中枢機関ヲ攻撃シテ其ノ機能ヲ停止セシメ,又ハ重要資源ヲ破壊シテ作戦ノ遂行ヲ困難ナラシムルト共ニ,敵国民ノ戦意ヲ挫折シ敵ノ作戦二綻ヲ生ゼシメ,或ハ敵ノ主要交通線ヲ攻撃シテ兵力ノ移動,軍需品ノ補給ヲ遮断スル等戦争目的ノ達成ヲ容易ナラシムルニ在リ」
(『海軍要務令続編(航空戦之部)草案』 1940年4月10日)

(後略)

これはメッセージ30734deliciousicecoffeeさんに対する返信です


ja)1940年4月10日付の『海軍要務令続編(航空戦之部)草案』は「要地爆撃」を次のように定義している。
これが、米軍の日本諸都市への都市爆撃と全く同じ理屈なのは見てのとおりだよ。
deli)日本軍が、支那軍の対空砲火陣地だけではなく、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等を爆撃をしたことは認めるが、それは戦争ではよくあることだろう。
「敵国民の交戦継続意志をくじくこと」を目的に都市を爆撃することが、これ以降「よくあること」になってしまったわけ。日本は世界に先駆けて大規模かつ継続的な都市爆撃をやったわけだ。愛国者を自認するでりちゃんなどは、その先進性を大いに自慢していい。

deli)米軍が行ったのは、東京など住宅地への焼夷弾の絨毯爆撃だったり広島・長崎への原爆投下だし、
重慶爆撃では日本も焼夷弾の絨毯爆撃をやっている。しかも、96陸攻だの97重爆だの、B29に較べれば、軽爆撃機に属する機材を使って、大戦末期の日本の中小都市への大空襲に匹敵する「戦果」を上げている。今日のように日本が「戦争を恥じる文化の国」になっていなければ、大いに誇ったであろう偉業だよ。
(後略)

これはメッセージ30743deliciousicecoffeeさんに対する返信です


dai)目的も無く一般市民を巻き添えに無差別爆撃を始めたのは実はイギリスが最初なのです。アメリカも当初は、そのやり方に批判的であったが効果を目の当たりにするに真似し始め日本に対しても都市の無差別爆撃を平気でやるようになりましたとさ
まあ半分正解ですね。

ヨーロッパで大規模な夜間無差別爆撃を実施したのはイギリスで、アメリカは昼間精密爆撃を担当していた。

対日戦でも、アメリカは当初軍事拠点に対する昼間精密爆撃の思想でやってたんだけど、司令官がハンセル准将からルメイ少将に代わると、中高度からの夜間無差別爆撃を採用するわけです。発案は本人ではなく、隷下の314BWのパワー准将だということだが、とにかくルメイの指揮の下、日本は焼夷弾による焼き払いの攻撃を受けるわけです。

ところが、戦後1964年になって、このカーチス・ルメイが日本政府から「勲一等旭日大綬章」を贈っているのですね。その前に真珠湾攻撃の源田空将がアメリカで勲章貰ったからとは言え、これって、中国が松井大将に勲章を出すようなもんですわ。何考えているのだ、池田内閣!

で、それはそうとして、都市に対する焼夷弾を使用した無差別爆撃というのは、やはりゲルニカ爆撃が最初です。

さらに、木造家屋に対する油脂焼夷弾による焼き払い攻撃というのは、戦史上重慶爆撃が最初でしょう。

1939年の5月4日の空襲では死者3318人を数えていますので、B29の100機規模の集団による日本の中都市爆撃に匹敵する被害です。これを九六式陸攻27機でやったのだから、「大戦果」なわけで、日本が今日のように戦争を恥とする文化の国になっていなかったら、大いに誇ったであろう「戦史に燦然たる偉業」です。

なお、重慶爆撃がWWⅡ末期の日本空襲と同じ理屈で実施されたのは、当時の日本の軍の文書にも残っているとおりです。
「軍事政治経済ノ中枢機関,重要資源,主要交通線等敵国要地二対スル空中攻撃ヲ謂フ」
「第七十四 要地攻撃ノ要ハ作戦ノ推移二即応シ主トシテ戦略的要求二基キ,敵ノ軍事政治経済ノ中枢機関ヲ攻撃シテ其ノ機能ヲ停止セシメ,又ハ重要資源ヲ破壊シテ作戦ノ遂行ヲ困難ナラシムルト共ニ,敵国民ノ戦意ヲ挫折シ敵ノ作戦二綻ヲ生ゼシメ,或ハ敵ノ主要交通線ヲ攻撃シテ兵力ノ移動,軍需品ノ補給ヲ遮断スル等戦争目的ノ達成ヲ容易ナラシムルニ在リ」
(『海軍要務令続編(航空戦之部)草案』 1940年4月10日)

これは メッセージ 32187 dainihonteikokubansaiさんに対する返信です


dai)ゲルニカ爆撃は新生ルフトバッフェの実験的意味合いが強いと聞いています。
コレはその通りでしょう、
スペイン内乱への軍の派遣自体がそういう意図もあって行われたわけですから。
dai)ゲルニカ爆撃を世界から非難されそれ以上は止めています。
というか、フランコ政権側ではゲルニカは人民戦線派のバスク軍が退却時に放火したもので、爆撃など無かったと主張していましたので、それ以上はやるわけに行かなかったのです。
重慶爆撃は中国軍が対空砲陣地を市街地各所に点在させ民家を盾にするやり方への対抗処置だとの説が強いのも事実です。
でりちゃんもそんな話をしてたな。
そういう説がどこから出てるのか教えて下さい。

私の知るところでは、1938年12月25日の陸軍第一飛行団長寺倉少将の命令書には
「飛行団ハ主力ヲ以テ重慶市街ヲ攻撃シ、蒋政権ノ上下ヲ震撼セントス、攻撃日時ヲ明二十六日十三時ト予定ス」
とあり、爆撃目標については
「飛行第六十戦隊及飛行第九十八戦隊ハ相共同シテ明二十六日十三時ヲ期シ重慶市街ヲ攻撃スルノ準備ニ在ルヘシ 目標ハ両戦隊共重慶市街中央公園、都軍公署・・公安局県政府ヲ連ヌル地区内トシ副目標ヲ重慶飛行場トス 爆弾は百瓩以上ノモノヲ使用スヘシ」
とある。

市街地の中央公園の周辺は繁華街と住宅密集地で、いくらかの官庁もあります。重慶初爆撃が重慶市街中央公園を目標として行われているのですから、
「中国軍が対空砲陣地を市街地各所に点在させ民家を盾にするやり方への対抗処置だとの説」
というのは、重慶に関してはほぼガセだと思っていいのではないでしょうか、あるいは戦時中にはそのような主張がなされたと言うことかも解りません。戦時には双方自分の行為を正当化するために、いろいろな発表をやりますからね。

スペインの教科書なんか、1981年まで「ゲルニカ爆撃は捏造」と書いてあったそうです
(--;

以上ネタ元は「戦略爆撃の思想 前田哲男」

これは メッセージ 32194 dainihonteikokubansaiさんに対する返信です


おーお、ウォーバーズのQ&Aとは、ぽこちゃんもなかなか渋いものを引っ張って来るではないか、実は私がmsg30719で、「意図的な都市無差別爆撃は重慶爆撃の後半からだね。」と書いたのは
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=fn5fe5tbba6a4oa4ga4ca4abeea42a4h3nbfaea47a4fa4a4a4k&sid=1835559&mid=30719
そのページの記述に倣ってのことだ。

さて、同ページでは、私としても一目も二目も置くブンゾー氏が
「やっぱりほんまもんの無差別爆撃っていうのは、英空軍ボマーコマンドが世界初でしょうなあ。ゲルニカとか、ロンドンブリッツとかでも、照準が無差別(それだけの精度が出せない)というだけであって、目標そのものを無差別にしてるわけじゃない、」

といい、 N氏が
「絨毯爆撃=無差別爆撃ととる限り、一九四〇年の重慶爆撃は無差別爆撃であったと言わざるを得ません。 しかしながら、重慶への無差別爆撃は、ドイツ、イギリスの無差別爆撃と殆ど同時期なので、無差別爆撃の先鞭を付けたとはいえないと思われます。」

と言っているが、
これは、「日本が先駆けてやったわけじゃない」という結論が一致しているだけで、ご両人の主張の内容には相当な隔たりがある。

N氏の言う「重慶への無差別爆撃は、ドイツ、イギリスの無差別爆撃と殆ど同時期なので、」の 「ドイツ、イギリスの無差別爆撃」は、
ブンゾー氏やまなかじ氏の言う「思想としては全くWWⅠの都市爆撃から脱却していません。」のカテゴリーに入るものだと思うよ。

イギリス空軍が明確な「地域爆撃」を実行したのは1940年12月16日のマンハイム爆撃からで、これは重慶市街を5地区に分割して虱潰しに壊滅させていこうという百一号作戦の開始された5月18日より半年以上も後のことだ。

壊滅的な都市無差別爆撃は、地域爆撃、無差別爆撃、絨毯爆撃、戦略爆撃、要地爆撃と様々な名で呼ばれているが、概念も実態も少しずつ指し示す範囲に違いがある。 どの名前を用いるにしても、「ここから」と線を引くことは難しい。互いに参考にしながら、あるいは独立してエスカレーションしてきたわけだが、都市無差別爆撃としての重慶爆撃は、イギリス軍の都市爆撃の無差別爆撃化に先行することはあっても遅れるものではなかった。

という結論でいいのではないかな。

これは メッセージ 32220 pokosi2000 さんに対する返信です



で、結局
「重慶爆撃は中国軍が対空砲陣地を市街地各所に点在させ民家を盾にするやり方への対抗処置だとの説が強いのも事実です。」
のソースは、巌谷二三男氏の記述だったわけか。

だけどね、巌谷氏はそのように認識していたのかもしれないけど、
「六月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった。」
というのはどうなのだろうな。

「作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった。」
というのは百一号作戦の意図そのものだから、この通りなのだが、
「六月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、」
というのは、違うだろ。

1938年暮の初空襲の段階での命令書が
「目標ハ両戦隊共重慶市街中央公園、・・・副目標ヲ重慶飛行場トス 」
なのとは明らかに矛盾するし、

1939年5月の空襲で重慶の下町地区が炎上し、二日間で死者3991人(民國二十八年度四川各地空襲損害統計表)とか
「最初の晩に一万人が焼き殺された」(マーチン・ケイディン 「日米航空戦史」)とか言われる事実とも相違している。
「支那軍が対空砲火陣地を市街地に移したのが始まりだ。」
というのは明らかな誤りだよ。

日本が戦争をしてきた歴史は、日本人が何を考え、何を成し遂げてきたのかという立場から書かれるべきなのだ。「対抗上仕方なくやった」という捉え方は、私には自虐的に過ぎるように思える。

これは メッセージ 32226 ja2047 さんに対する返信です



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