問答有用掲示板より転載
15165 何が歴史修正主義を支えているのか?
ベルナール 2002/09/05 07:04
ベルナール 2002/09/05 07:04
「だれが『よしりん』を支えているのか?」というお尋ねですが、これは一部の右翼や国粋主義者等と考えるとおかしなことになります。「『よしりん』を支えている」のは、「一部の右翼や国粋主義者等」だけでなく、歴史修正主義に「賛成あるいは反対」しているわれわれの思考法そのものなのです。
「ヒト・モノ・カネ・情報」が地球規模でくまなく行き渡り、誰も「じっとしておいて」くれないグローバリズムという現象は、そういうネーミングこそ最近ですが、これは何世紀もかけて発展し、いまや世界中に張りめぐらされた、商業貿易にかかわる交通・輸送手段や通信システムが、もはや例外地域を残さず、地球を併呑してしてしまった状態のことです。
19世紀中庸から20世紀初頭にかけての、いわゆる《帝国主義》の時代は、鉄道から航空などの輸送手段、電話・電信など通信システムが飛躍的に発展した時代でした。各国の交流はいよいよさかんになり、互い影響を及ぼしながら、いよいよ類似点が多くなってきました。しかし皮肉にも、「ヒト・モノ・カネ・情報」の無限定に流動するエネルギーに世界を《攪拌》し、相互に似通ったものになった時、各国のナショナリズムがその沸点に達したわけです。
カントは、その『判断力批判』において〈崇高〉と〈 美 〉の概念を対比し、〈 崇高 〉は形式を持たない対象(無限定性)においても見出されるとしています。そして、< 崇高 >の感情の快は、「生の諸力の瞬間的障害の感情」(einer augenblicklichen Hemmung der Lebenskrafte) 」にもとづき、阻止された感情は、その後一層強力に迸り出ると述べます。つまり、〈 障害 〉は、無限定性を整序し、偶発的な無意味なつらなりに区切りを与える機能を果しているというわけです。
無限定に流動するエネルギーは、それを「一対一」にも似た対立関係に置換されることによって、その脅威が減じられ、不安が沈静化します。いわゆる「歴修正主義者」たちが、「日本」あるいは「自己」の何たるかを吟味しないまま、「反日」「自虐」といった、一方が優越項であり他方が貶下項である、二項対立的思考を選び取るのは、そのためです。
例えば、和辻哲朗の『風土』からスキャンダルで廃刊となった『マルコポーロ』誌に至るまで、貶下項に代入される特権的対象として、ユダヤ人と中国人が選ばれているのは偶然ではありません。世界中に商業網を持つユダヤ商人や華僑は、世界中を無限定に流動する資本の比喩として機能しているわけです。世界各地に遍在し、容易に国境を越境し、その経済的ダイナミズムによってわれわれを「じっとしておいてくれない」現代社会そのものの象徴として、われわれ自身の「内面の」不安を凝固させるものとして、これら差別と偏見の対象が「外部の」実体として仮構されているというわけです。
「夜の果ての旅」、暗にセリーヌの作品名からの引用だとして、このメタファを「よしりん」向けに使うのは、もったいない気がしました。
次作の半自伝的作品『なしくずしの死』では、主人公は、パリのショワズール小路で小さなレース商を営む家庭で育ったことになっており、店番の母親が万引きを見つけても顧客を失うのを恐れてそれを指摘できない小心翼々たる小商人の家庭が描かれています。セリーヌのが育った家庭は、大規模店舗の進出などで商形態が大きく変わろうとする時代に、没落する中産階級と社会学的には規定できるでしょう。しかし、実際のセリーヌの実家は、小説で描かれているほど貧しくはありませんでした。セリーヌの反ユダヤ主義にまつわる妄想は、社会条件が悪化しているという客観的事実というよりも、明日への不安から生み出された幻覚なのです。
例えば、石原慎太郎氏は、個人的には、幼稚ないばり屋、大言壮語する小心者に過ぎません。しかし、彼がハイダーやル・ペンと同時期にもてはやされ、この集団不安の時代に、等しく拝外主義を扇動し、人種差別や民族偏見をそそのかしているのは、偶然の一致ではないのです。