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『南京事件FAQ』へのja2047さんの投稿原稿

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*『南京事件FAQ』へのja2047さんの投稿原稿

#contents

**略奪や放火は中国兵がやった

***否定派の主張
略奪は中国兵がやったという記録がある。中国軍の清野作戦により多くの家屋が焼き払われた。中国軍の焼き払いと略奪の被害が大きい。

***反論
強制疎開による家屋の焼却も敗走する中国軍の略奪も確かにあったと考えられる。
しかし、中国軍による家屋の焼き払いや略奪を記録している資料は、日本軍による被害も記録しており、例外なく日本軍による被害の方が大きいとしている。

中国軍による放火や略奪が日本軍による被害よりも大きかったという記録はなく、「中国軍の焼き払いと略奪の被害が大きい」と言う主張は裏付けのある事実ではなく願望であるに過ぎない。


資料
>ミニー・ヴォートリン日記~~''陥落前-中国軍による家屋の焼却の例''~~一ニ月九日 木曜日~~「今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。午後はほとんど、北西以外の全ての方角から濛々と煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。」~~''陥落後-日本軍による放火もしくは失火の例''~~一ニ月一九日 日曜日~~「今夜、城内の少なくとも三カ所で大きな火災が発生している。」~~一二月ニ一日 火曜日~~「現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間は濠々とあがる煙によって、いまなお掠奪と破壊の行為が続いていることがわかる。戦争の産み出すものは死と荒廃である。」

>南京地区における戦争被害  ルイス・S・C・スミス~~M.S.ベイツによるまえがき~~「''南京の城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置として行ったものである。''それが適切なものであったかなかったかはわれわれの決定しうることではない。 市の東南の道路にそっておこなわれた軍事行動と四日間にわたった南京市に対する控えめではあるが容赦のない攻撃による住民の生命および財産の損害は、きわめて少なかった。~~''事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。''そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない。」

>南京アメリカ大使館報告 ― エスピー報告~~「''中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵に よる城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、''とアメリカ人らは強調した。」~~「当地の日本官憲によると、南京城内の火災の多くは、退却中の中国軍ないしは、便衣兵によるものであり、陥落後に発生したとの弁明がなされている。''なかには 中国軍による火災もあるかもしれないが、占領後の日本軍が、故意に、または不注意で引き起こした火災には比べるべくもない、というのが妥当のようだ。''~~ 日本兵が建物に侵入して略奪をした後、放火したか、それとも、建物内の小火が不注意から建物に燃え付いたものか、あるいは近くの火災から延焼したかのいずれかと思われる。火事を 起こした建物の消火に努めた形跡はまったく見当たらない。~~ 火災による南京市の破壊が最悪の時期に書かれた記録を添付している。国際委員会のメンバーが大火の原因を追求し、署名をしている。記録の第一章には、日本軍の入城以前に、どの程度が焼失していたか知る限りを述べ、当時 火災による損害は大したことがなかったと証言している。~~ 第二草は、十二月二十日夜の状況を述べたもので、このとき沢山の建物が火災にあい、現場近くで火事見物をする日本兵や、店から洗いざらい品物を持ち出し、 トラックで持ち逃げする日本兵、また別の建物では、「床の上で焚き火をする」日本兵が目撃されている。」~~http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.html
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**殺害も中国兵がやった

***否定派の主張
一般市民の殺害は中国兵が敗走するときに行ったものであるというアメリカ大使館報告がある。
また、潜伏していた便衣兵が日本兵に化けて活動していたという報道があり、市民の殺害はこれらの便衣兵が行っていたと考えられる。

***反論
中国兵が一般市民の殺害を行ったという記述はアメリカ大使館副領事のジェームズ・エスピーの報告書にでてくるものが唯一のものであるが、どの程度の裏付けがあるのか明らかではない。

また、この報告書の「(中国兵は)市民の服欲しさに、殺人まで行った。」の記述の後には「しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。」「正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。」とあり、“中国兵による殺害もなかったわけではないが日本軍による殺害がはるかに多い。”と述べているにすぎないことが解る。

ニューヨーク・タイムズ1月4日記事の「潜伏していた便衣兵が日本兵に化けて活動していたという報道」も、誰の証言によるものか出所が不明であり、日本側にこれに該当する記録や証言はまったく残されていない点からも、記事の信憑性は確認が取れない。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/ousinrin.htm

陥落後の南京で、中国軍なり、中国民間人犯罪者なりが大量殺人を行うなど不可能であり、ことに捕虜の大量殺害や安全区での敗残兵の狩り出し、殺害を中国兵が行ったとは考えられない。
まして日本軍による略奪・暴行・殺人のピークとされる時期は何万もの日本兵が城内の各所で警戒、敗残兵の掃討を行っている再中であるので、中国人が日本兵に化けて活動するなど自殺行為だ。

中国兵による殺害の方が多かったと言うのは単なる願望にすぎない。


資料
>南京アメリカ大使館報告 ― エスピー報告~~「しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった''中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。''」~~「''しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。''十二月十三日夜、十四日朝には、すでに暴行が行われていた。城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。''正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。''~~ 兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。」~~http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.html


>「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。」ニューヨーク・タイムズ1月4日記事~~http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano126.html
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**誰も累々たる死体を見ていない

***否定派の主張
南京市街に死体がごろごろしているはずだが、南京に入城したジャーナリストや文化人には累々たる死体を見た者がいない。

***反論
詩人の西條八十は陥落直後の市内で、中国兵の死体の山や、街路の夥しい死体を見た、と、当時の雑誌に書いている。

また、石川達三は戦後新聞のインタビューに対して「私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、」と答えている。
外国人記者、在留外国人も死体を目撃して記録している。

激戦地なので、当然死体はある。その死体がどういう理由で発生したかは別の話であって、虐殺がなかったと言いたいあまり、死体そのものがなかったとか見た者がいないというウソを言ってはいけない。


資料
>西條八十 『燦たり南京入城式』 文芸春秋社「話」 昭和13年2月号~~「出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。」~~「驚くほど厚い鉄の扉の蔭に、一河岸の米蔵の俵を寄せ集めたほど積上げられた敵の土嚢。''このあたりから、往来に土民服を着た支那兵の死体やら、軍馬の屍が、夥しく見えはじめた。''」~~http://www.geocities.jp/yu77799/saijou.html

>石川達三~~「読売新聞」昭和21年5月9日~~-兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―~~ "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、~~''入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた''、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた ~~ また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した」~~http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html

>前田雄二 『戦争の流れの中に』 P118~~死体の門~~ 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口のゆう(手へんに邑)江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。~~「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいぶかりの声をあげた。''城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。''~~http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/maeda.html
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**欧米のマスコミも取り上げていない

***否定派の主張
当時の首都南京は国際都市。多くの欧米人が住んでいた。また、大陸にはロイター、AP、UPIなどの大通信社や新聞社の特派員が多数駐屯していた。当時は、反日的な機運が高まっていたのに、南京事件はほとんど報道されなかった。

***反論
手許で確認出来るだけでも、「ニューヨーク・タイムズ」「シカゴ・デイリーメール」の一連の記事他に「ワシントンポスト1/12」「マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー2/11」「タイムズ12/18」「ライフ1/10」などが取り上げている。
これを「ほとんど取り上げていない」とは言えない。

なお、南京には陥落時5人の欧米人報道関係者がいたが、全員が陥落三日後には南京を脱出している。
その後虐殺・暴行事件のあったとされる時期には、日本軍は欧米の報道関係者の入城を許していない。

資料
>ニューヨーク・タイムズ一九三七年十二月十八日~~捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う~~F・ティルマン・ダーディン~~ ◇アメリカ大使館を襲撃~~ ◇蒋介石総統のおそまつな戦術、指揮官の逃亡 首都陥落を招く~~ 十二月十七日、上海アメリカ船オアフ号発~~ ニューヨーク・タイムズ宛特電~~ 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。~~ 中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本軍の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌撞した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。~~ 少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。~~ ~~ 民間人多数を殺害~~ 民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。~~ とくに警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていたが、なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた。~~ 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや露地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。外国人はたくさんの殺害を目撃した。~~http://www.geocities.jp/yu77799/bates2.html
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**欧米の大使館なども抗議していない

***否定派の主張
南京事件の3ヶ月ほど前、昭和12年9月に米英仏は日本の南京空爆に対して無差別爆撃であると抗議した。スミス博士によるとこの空爆による死者は600人。しかし、南京虐殺については何の抗議も受けていない。
日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官も虐殺には全くふれていない。

***反論
米英などからの自国被害への抗議はあった 。

各国の大使館など外交団とは、まず第一にその土地における自国の権益、自国民の生命、財産の保護のために駐在している。外交上の抗議とは、まず第一に自国の権益、自国民の生命、財産の保護の観点からなされるものだ。
米英からは、米英人財産の損失に関して、アメリカ、イギリスの砲艦を爆撃して死傷者の出たことについて、またアメリカ外交官への軍人による暴行に対して抗議があった。
都市爆撃については多くの外国人が居住していた都市に実質的な無差別爆撃が行われれば、居留外国人の生命、財産に危険が及ぶので当然抗議がなされる。
外国人への退去勧告がなされた12月9日以降の南京占領後に発生した中国人への暴行は、米英人の財産、生命、権益への直接の侵害ではないので、外交上の抗議はなされなかったというだけのことである。

第三国から虐殺についての公式の抗議がないということと、それを知らなかったということは全く別であり、アメリカ、ドイツの外交文書には日本軍の残虐行為を記録したものが多数残されている。
「日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官」というのが誰のことかは不明だが、下記の通りローゼンもシャルフェンベルグも日本軍の暴行について報告している。


資料
>「エスピー報告」 アメリカ在南京副領事 1938年 1月~~ 「日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか、十分な説明はなされていない。しかし、われわれの 聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも二回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。~~ それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。外国人目撃者の話によると、南京を冒涜する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた。市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。~~http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.html

>ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者ーローゼン(南京) ~~一九三八年二月一〇日付南京分館第八号報告~~内容-南京における日本軍の残虐行為に関する記録フィルム~~南京における日本軍の恐怖支配-それは、かなりの程度でいまだに続いているが-の間、およそ四半世紀にわたり当地に在住する米国監督派教会伝道団員のジョン・マギー牧師が映画撮影をおこなったが、その記録は日本軍のおこなった残虐行為を雄弁にものがたる証拠となっている。~~[略]~~それぞれの映像の背景となった出来事に関する英文の解説が添付されている。フィルムと同様、この解説も衝撃的な歴史資料であり、(ヒトラー)総統閣下には、このフィルムを解説の正確な訳文とともに御覧いただきたいと所望する。~~さて私は、先の日曜日に日本軍が引き起こした「英雄的行為」の現場とその四人の犠牲者をこの目で見た。そこでは二脚の椅子を運んでいた老人が、日本兵にいとも簡単に銃で撃たれた。この老人の姉は、日本兵が接近したので近くに隠れていたが、知りあいの二人を呼んで、竹竿と縄で戸を担架に作り変え、重傷の老人を運び去ろうとした。すると日本兵は、重傷の老人と姉、老人を運ぼうとした二名、合わせて四名全員を射殺したのだ。~~[略]~~同じ日曜日ラーべ氏は、紅卍字会が、池から二一〇以上の死体を運び出す様子を目撃した。これらの人々は、まず機関銃で殺され、その後で焼かれた。焼却に手問取ると、死体は水中に投げ込まれたのである。英雄気取りの島国民族に殺された犠牲者の死体は針金で後ろ手に縛られていた。~~ ~~ドイツ外務省文書 ~~シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京) ~~[略]~~南京入城のさいの日本軍の所業については、語らぬに越したことはない。チンギス・ハーンを思い出さずにはいられないほどの徹底した破壊ぶりであった。ある陸軍参謀の中佐の話では、上海から南京へ向かっていた食糧輸送部隊はついに本隊のもとに戻らなかったそうである。この一件からも、日本軍がここではまるであのベルゼルカーのごとく何もかも貧り尽くしたことがわかるであろう。~~空き家はただちに焼き払われた。日本兵は、一九一八年当時の黒人兵同様、こう言い含められていたに違いない。~~「ここで頑張った奴はみな、南京で美しい娘をモノにできるぞ。」~~こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい目にあわされた。~~[略]~~日本軍は統制が失われたと言えば簡単だが、私はそうは思わない。アジア人の戦争の進め方は、われわれとは異なるのだ。日本と中国の立場が逆でも、事態に大差はなかっただろう。とくに扇動の仕方は同じである。~~[略]
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日本への抗議がない
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*否定派の主張
中国から日本への正式抗議がない。

*反論
1937年8月15日に日本大使館が南京から引き上げ、11月19日から中国政府が南京を引き上げて漢口に避難すると言う状況であり、当然南京での両国外交部の接触はない。

南京城内で日本軍が民間人に対する略奪暴行、拉致、殺人を繰り返したとされる時期に南京で市民の保護に当たっていたのは残留外国人からなる「安全区国際委員会」であり、同委員会は日本大使館に対して膨大な数の抗議を行っている。
中国政府は南京市民の置かれた状況をリアルタイムに掌握しておらず、日本との外交的な接触の場もなく実質的な戦争下にあるわけだから「抗議」を行っていない。
蒋介石の項に見るとおり、「非難」を行っているわけだ。
これに対して、実際に南京市民の保護活動を行っている「国際委員会」はたびたび抗議を行っているのだから、「抗議」がないというのは事実ではない。


資料
>第五号文書(Z 8)~~                南京安全区国際委員会~~                  寧海路五号~~                    一九三七年十二月十六日~~ 南京南京日本帝国大使館員~~  福田篤泰殿~~ 拝 啓~~ 昨日正午、交通銀行で貴下も出席された会見のおりに少佐が指摘されたように、できるだけ速やかに市を平常の生活に戻すことが望ましいことです。しかし、昨日、安全区内で日本兵が続けざまに暴行をおこなったため、難民の間に恐慌状態が強まりました。大きな建物に収容されている難民たちは、近くの無料食堂へいって米粥を手に入れることもできないでいます。その結果、これらの建物へ当方が直接米を運んでやらねばならず、これが問題をいっそう煩雑にしでいます。~~ われわれは米や石炭を無料食堂にかついでゆく人夫を集めることさえできなかったので、今日は何千人という人か朝食抜きですごさわばなりませんでした。今朝、国際委員会の外国人メンバーは、これらの一般市民に給食するためトラックで日本側歩哨線を突破するのに、必死の努力をしました。昨日、当委員会の外国人メンバーは、私用の車を日本兵により何度も徴発されるところでした。''(暴行事件の例をあげた一覧表を追加します。)''~~ [略]~~ ''当方は最高司令官が到着すれば市内の秩序も回復するであろうと考えたので、昨日は抗議をとり止めました。しかし、昨夜はその前夜より事態がいっそう悪化したので、これらのことにつき貴軍の注意を喚起することにしました。日本軍は兵士がこのような行為をおかすことを是認するものではないと、われわれは確信します。''       敬 具~~              (署名)  書 記 ルイス・C・スミス~~                    委員長 ジョン・H・D・ラーベ~~   *(訳注)徐氏の編書では第七号文書。

>第六号文書(Z 9)~~                南京安全区国際委員会~~                  寧海路五号~~                    一九三七年十二月十七日~~ 南京南京日本帝国大使館御中~~  日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う~~ [略]~~昨日は十四人の労務者が連行されました。当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。[略]~~''十四日いらい貴軍の兵士がおこなっている強盗・強姦・殺人の蔓延にまったく驚いています。われわれが抗議のなかで要求することは、貴下が貴軍の秩序を回復しできるだけ早急に市の生活を平常にすることだけであります。''~~ [以下略]

>第七号文書(Z10、11、12)~~                南京安全区国際委員会~~                  寧海路五号~~                    一九三七年十二月十八日~~ 南京南京日本帝国大使館御中~~  日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う~~またもあなたを煩わせることを遺憾に思いますが、''われわれが保護している二○万の市民の苦難と窮迫は、貴国軍隊が何らかの処置をとって、安全区を徘徊する日本兵の間の無秩序状態をやめさせるよう要請することを、焦眉の急としております。~~当方にて記録が間にあわないほど頻々と報告されてくる暴行事件の内容にここで詳しく立ち入る時間も紙面もありません。''~~ [以下略]

>第八号文書(Z13)~~                南京安全区国際委員会~~                  寧海路五号~~                    一九三七年十二月十九日午後五時~~ 南京南京日本帝国大使館御中~~''この手紙に添えた安全区における日本軍暴行事件報告の続き、第十六件から第七○件までの記録を貴下に提出しなければならないことを非常に残念に思います。注にて指摘した通り、これらはわれわれの気づいた事件のほんの一部にすぎません。''~~ [以下略]
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「便衣兵狩り」とはなんだったのか
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*解説
否定論の主張は通常、次のような構成になっている。
+南京で日本軍が処刑した中国兵は、国際法上適格な交戦者と認められないので、捕虜にする必要がなかった。
+交戦者としての適格を欠くものは裁判なしに処刑しても合法であった。

詳細は論点ごとに検証するとして、まずは実際にその場で何が起きたのかを確認しよう。

南京陥落時点で残っていた中国軍将兵の正確な数は不明だが、一般的にはおよそ5万とする推定が代表的である。そのうちかなりの人数、おそらくは数千人が、南京陥落時に逃げ場を失い、軍服を脱いで市民に紛れ込もうとした。
日本軍に捕獲されれば殺されると考えたのである。

これを知った日本軍は「市内にはおよそ二万人の中国兵が、市民に紛れて潜伏している」と考えた。そこで、市民を集合させて取り調べ、その場で兵士であると認定したものは拘束して連行し、集団で殺害した。もちろん、兵士と疑われた市民もそのまま連行されて殺されてしまった。
市民の服を着て抵抗するものを殺したのではない。市民の服を着た無抵抗のもののうちから、正規軍兵士であると認定したものを集団で連行して殺害したのだ。

中間的な数字を挙げている秦郁彦氏の推計では、主に日本軍の記録を根拠として、陥落時点で生き残った中国軍5万人のうち3万人が捕獲された後殺害されたと見ている。そのうち9千人が城内から私服で狩り出されて殺害された、いわゆる便衣兵=私服の敗残兵である。

ここで注意してほしいのは、実際には私服に着替えていた兵士よりも、軍服を着て集団で投降した兵士の方が多く殺害されていることだ。この点は、より大きな犠牲者数を挙げる笠原説も、より小さな数字の板倉説も共通している。無抵抗の中国兵の殺害を問題にするのなら、「便衣兵狩り」の問題はマイナーな一部に過ぎないのだ。

にもかかわらず、「便衣兵狩り」が大きく問題になるのは、それが中国兵だけではなく、多くの一般市民を巻き込んで、しかも外国人たちの見ている前で連行が行われた、時には家族の見ている前で処刑が行われた、それらはまったく非武装、無抵抗のものであった、という点に原因があると考えられる。
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便衣兵作戦自体が犯罪行為だ
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*否定派の主張
私服で戦うゲリラは国際法違反であり、便衣兵作戦自体が犯罪行為である。

*反論
南京城内の敗残兵が、「便衣兵作戦」というものを計画していたとか、城内で日本軍が私服による戦闘行為に遭遇したという記録はない。

「便衣兵」とは、日中戦争当時の用語では「便衣隊」という。
「便衣」とは平服という意味であり、「便衣隊」と呼ばれるものには
+一般市民が武器を取って抵抗するもの
+軍隊が一般市民に偽装して作戦を行うもの
の2種類がある。

当時の国際法では、敵軍が突然侵入してきた場合に一般市民が武装して抵抗することは許されている(ハーグ陸戦規約第2条)。軍人が市民の服を着てはいけないという国際法はないが、軍隊が一般市民を装って敵を安心させて攻撃することは禁じられている。(ハーグ陸戦規約 第23条ロ号)

南京城内の「便衣兵」とは、一般の兵士が逃げ場を失い、日本軍に捕獲されても殺されると考えて、軍服を脱いで、市民に紛れ込もうとしたものであった。ひとまずは命が助かりたいための処置であり、計画的に実行された形跡はない。また、実際に「便衣隊」としての交戦行為が行われた記録もない。

南京城内には「便衣の兵士」はいたが、「便衣隊の隊員である兵士」はいなかったと考えられる。


資料:
>信夫淳平『戦時国際法講義2』~~「便衣隊とは--、交戦者たるの資格をみとめざる常人にして自発的に、又は他の示唆を受け、敵兵殺害又は敵物破壊の任に当る者を近時多くは便衣隊と称する。」~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/ilow01_03.htm

>ハーグ陸戦規約~~【第二条】(群民兵)~~ 占領せられさる地方の人民にして、敵の接近するに当り、第一条に依りて編成を為すの遑なく、侵入軍隊に抗敵する為自ら兵器を操る者か公然兵器を携帯し、且戦争の法規慣例を遵守するときは、之を交戦者と認む。~~ ~~【第二三条】(禁止事項)~~ろ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること~~http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/J1907c.htm

>奥宮正武「私の見た南京事件」~~(戦史家、元海軍航空参謀、当時海軍大尉として南京攻略戦に参加)~~私の知る限り,彼らのほとんどは,戦意を失って,ただ、生きるために、軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを通常言われているゲリラと同一視することは適当とは思われない。~~http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/doc_okumiya.html
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兵民分離は必要だった
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*否定派の主張
占領した都市に敵軍が私服で潜んでいては危険だ。狩り出して不法交戦者を処刑するのは当然である。

*反論
占領軍の政策として「兵民分離」を行うことは当然だ。
ただし、分離した後の処置として、摘出した兵士は
+捕虜として収容する
+国際法などに対する違反容疑があるものは、裁判に掛けて、違法行為が確認されれば処罰する
の、扱いが妥当だろう。

実際には、兵士と認定されたものは、「兵士であるから」という理由で、何の法的な手続きも経ることなく、集団で殺害されたのだった。下記の資料に示すように、日本軍が摘出した中国兵について、違法交戦者の認定をした記録はない、ただ、【敗残兵】を掃討し、殲滅したと書かれているのみなのだ。

戦闘行動を仕掛けるということは、相手を交戦者と見なしているということだ。相手が交戦者ではないのなら、攻撃されて応戦することはあっても、攻撃を仕掛けるわけにはいかない。

戦闘として行った行動なのであれば、敵兵を攻撃し捕獲したのだから、拘束後は捕虜として扱うのが原則なのである。現に下記の「歩兵第七連隊命令」でも、捕獲した中国兵のことを「俘虜」と書いている、一般的な言葉の意味上は捕虜であると認識していたのだろう。

なお、兵士と誤認された一般市民も相当数含まれていたという記録として日本側、中国側、在留外国人のものがある。スマイス調査によれば、日本軍に拉致されて帰らない市民は4,200人にのぼる。


資料
>第9師団 歩兵第6旅団 歩兵第7連隊~~歩七作命甲第一一一一号~~歩兵第七連隊命令~~十二月十五日午後八時三〇分~~於 南京東部連隊本部~~一、本十五日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは殆と下士官兵のみにて将校は認められさる状況なり  将校は便衣に更へ難民地区に滞在しあるか加し~~二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し~~''徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす ''~~http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/shouhou_hohei7.html

>歩兵第七連隊『戦闘詳報』~~  自十二月十三日 至十二月二十四日~~南京城内掃蕩成果表 歩兵第七連隊~~一、射耗弾 小銃      五,〇〇〇発~~       重機関銃   二、〇〇〇発~~''二、刺射殺数(敗残兵)   六、六七○''~~http://www.geocities.jp/yu77799/haizanheigari.html

>水谷荘一等兵 日記「戦塵」~~第9師団 第6旅団 歩兵第7連隊 第1中隊~~十二月十六日~~ [略]~~ 目につく殆どの若者は狩り出される。~~子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。~~http://www.geocities.jp/yu77799/haizanheigari.html

>足立和雄(元朝日新聞特派員)証言~~ [略]~~ 朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。~~“便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。~~http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/ben'ihei.htm

>マッカラムの手記~~十二月三十日~~金陵女子文理学院やマギーのところなどから男性が数人、強制的に連行された。中国兵だと訴えられて強制的に連れ去られたという。~~ 連行される者が民間人だと証明できる友人もいたのだが、手にタコがあったため、抗議の声があったにもかかわらず、深く調べもせずに兵士の熔印がおされてしまった。人力車夫、サンパンの船頭、肉体労働者などが、ただ手に正直者の苦労の印があるというだけで、大勢処刑されている。~~http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mac.html

>「日本兵の暴行による死者の八九パーセントおよび負傷者の九○パーセント十二月十三日以後、すなわち市の占領の完了後におきている。以上に報告された死傷者に和えて、四二○○人が日本軍に拉致された。臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては、ほとんどの事実を報告していない。六月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に穀されたものと考えられる理由がある。」~~「南京地区における戦争被害」 ルイス・S・C・スマイス~~http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/doc_smyth.html
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便衣兵には捕虜の資格がない
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*否定派の主張
便衣兵はゲリラなので交戦者の資格を満たしていない。したがって捕虜にする必要はない。

*反論
南京城内から摘出された「便衣兵」は私服を着てはいるが正規軍の所属員であるので、明白な国際法違反の事実がない限り、捕獲されれば捕虜として扱われなくてはならない。

確かに、一部では南京の敗残兵は「交戦者の条件」を満たしていなかったと主張されている。
ここで言う「交戦者の条件」とは、''「指揮官の存在、軍服または特殊標章、武器の携帯、交戦法規の遵守」''の四つであるが、実はこれらは、''当時の戦時国際法''で、国家の組織する軍隊以外の民兵などが、正規の軍と同様の正当な交戦者として認められるための条件なのだ。

国家の組織する正規軍は、各国が責任を持ってその服装や指揮命令の制度を整えるものであるから、国際法は正規軍には条件を付けていない。兵士が正規軍の所属員であるかどうかを決めることが出来るのは、その軍を組織した国家の制度だけなのは当然のことだ。
したがって、捕獲者側は捕獲されたものが正規軍の所属員、関係者であることを確認した場合は捕虜にする義務が発生する。もし、捕獲したものが正規軍の所属員と確認出来ない場合は捕虜にする必要はない、この場合は釈放が原則である。

ただ、戦時国際法では禁止項目(ハーグ規約第23条)を定めているので、正規軍も民兵も武装した市民も、戦闘を行うものがこれを破れば、明確な国際法違反になり、処罰の対象となる。
たとえば、ハーグ規約には軍人が市民の服を着てはいけないという条項はないが、戦闘員が一般市民を装って敵を安心させて攻撃することは禁じられている。(第23条ロ号 背信の行為による敵の殺傷の禁止)
南京城内の「便衣兵」は軍服を脱いで便衣(民間人の服)を着て潜伏していたが、その状態から武器を持って敵に攻撃を掛けたわけではない。したがって、戦時国際法の明文規定に違反しているとは言えない。

なお、今日の戦時国際法である「ジュネーブ諸条約に関する第一議定書」では、軍服を脱いで潜伏していた兵士には捕虜資格があることが明確に読み取れるように書いてある。
この点、南京攻略戦当時に日本が批准していた「ハーグ陸戦規約」では、軍服を脱いだ敗残兵が明確に捕虜資格があると定めた条項はないと主張する人もいるが、当時は両様に解釈出来る可能性があったとするなら、敵兵や市民を殺すについては、その判断が正当であったのかどうかの保証として、裁判を行い、記録を残すべきであった。
正当性が保証されない殺人を行えば、後で非難を受けるのは仕方がない、敵国首都を陥落させた興奮と一刻も早い治安確保をとの焦りの中で、「とりあえず殺せばよい」という判断をしたことは失策であった。 これは率直に認める方がよいだろう。

資料
>ハーグ規約~~【第一条】(民兵と義勇兵)~~戦争の法規及権利義務は、単に之を軍に適用するのみならす、左の条件を具備する民兵及義勇兵団にも亦之を適用す。~~一. 部下の為に責任を負ふ者其の頭に在ること~~二. 遠方より認識し得へき固著の特殊徽章を有すること~~三. 公然兵器を携帯すること~~四. 其の動作に付戦争の法規慣例を遵守すること~~http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/J1907c.htm

>【第二三条】(禁止事項)~~ろ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること~~http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/J1907c.htm

※正規軍兵士が軍服を脱いでいること自体は、上記第1条にも第23条にも違反しない。


>ジュネーブ諸条約に関する第一追加議定書~~第四十四条 戦闘員及び捕虜~~3 戦闘員は、文民たる住民を敵対行為の影響から保護することを促進するため、攻撃又は攻撃の準備のための軍事行動を行っている間、自己と文民たる住民とを区別する義務を負う。もっとも、武装した戦闘員は、武力紛争において敵対行為の性質のため自己と文民たる住民とを区別することができない状況があると認められるので、当該状況において次に規定する間武器を公然と携行することを条件として、戦闘員としての地位を保持する。~~(a)交戦の間~~(b)自己が参加する攻撃に先立つ軍事展開中に敵に目撃されている間~~この3に定める条件に合致する行為は、第三十七条1(c)に規定する背信行為とは認められない。~~4 3中段に定める条件を満たすことなく敵対する紛争当事者の権力内に陥った戦闘員は、捕虜となる権利を失う。もっとも、第三条約及びこの議定書が捕虜に与える保護と同等のものを与えられる。この保護には、当該戦闘員が行った犯罪のため裁判され及び処罰される場合に、第三条約が捕虜に与える保護と同等のものを含む。~~7 この条の規定は、紛争当事者の武装し、かつ、制服を着用した正規の部隊に配属された戦闘員について、その者が制服を着用することに関する各国の慣行であって一般に受け入れられているものを変更することを意図するものではない。

>第四十五条 敵対行為に参加した者の保護~~1 敵対行為に参加して敵対する紛争当事者の権力内に陥った者については、その者が捕虜の地位を要求した場合、その者が捕虜となる権利を有すると認められる場合又はその者が属する締約国が抑留国若しくは利益保護国に対する通告によりその者のために捕虜の地位を要求した場合には、捕虜であると推定し、第三条約に基づいて保護する。その者が捕虜となる権利を有するか否かについて疑義が生じた場合には、その者の地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、引き続き捕虜の地位を有し、第三条約及びこの議定書によって保護する。~~http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty159_11a.pdf

※ 南京事件の30年前に定められた戦時国際法では、日本軍の行為は合法であると解釈する余地がなくもないが、事件の40年後に定められた国際法では、はっきりと違法であると記述されるようになった。

国際法というものは、その時代に国際間で合意されていることを明文化するものだから、これは1907年から1977年までの間に、1937年の南京事件で行われたようなことは違法である、という国際的な合意が形成されていたということを意味する。
1977年の国際法に違法だと書かれていることは、決して1977年から突然に違法になったわけではないのである。
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便衣兵処刑は合法である
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*否定派の主張
私服で戦うゲリラは国際法違反であり、当時は国際法違反者のゲリラ兵は裁判を行わずに処刑するのが合法な慣習だった。

*反論
南京事件について、そのような主張が公式になされたことも、認められたこともない。

この主張が成り立つためには次の二つの条件が両方とも必要だ。
+南京城内で捕獲された敗残兵が、明らかな国際法違反を犯していること。
+当時、戦時国際法違反に対しては、裁判なしで処罰することが、当然のことと考えられていたこと。
ところが実際には、1.の明らかな戦時国際法違反は確認されておらず、2.の、当時は無裁判の処刑が合法と考えられていた、というのは事実に反する。

1930年代にもなると、無裁判の処刑は人道に反する行為で不法であると認識されており、当時の日本軍が南京以外では便衣隊活動の容疑者に裁判を行った記録もちゃんと残っている。

したがって、事件当時でも、常識としては敗残兵の無裁判殺害は違法行為であったと考えられる。

南京事件での日本軍は裁判を行わなかっただけではなく、殺害の理由として「敗残兵」であるから、としか記録に残していない。
「敗残兵」を拘束した上で殺害したのなら、捕虜虐殺と言われても仕方がない。
後で非難を受けても、反論出来るように、根拠になる文書を残さなかったというのは、どう考えても失敗だろう。


資料:
>立作太郎『戦時国際法論』p53~~凡そ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於いて審問すべきものである。然れども一旦権内に入れる後、全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/ilow01_04.htm

>裁判義務の慣習法を実践した事例~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/ilow01_05.htm

>東京裁判では、弁護側は「裁判をした」と主張した。~~http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=598;id=sikousakugo#598

*結論
いずれにしても、事実としてはっきりと言えることは、

-当時の日本軍の記録には「掃討で敗残兵を殲滅した」と書かれている。「国際法違反の便衣兵を処刑した」という記述はない。
-居留外国人や海外の報道は、これを非人道行為と考えている。
-10年後の東京裁判で、弁護側は「武器を持って潜んでいたものは裁判に掛けた」と主張した。「無裁判処刑は合法である」とは主張していない。
-事件の40年後に定められた国際戦争法では、日本軍の行ったような行為は違法であると明文で記述されるようになった。

これらが、この問題の扱われてきた実際の歴史だということだ。


城内敗残兵は国際法違反のゲリラであり、その無裁判処刑が合法であったと主張する人がいる。しかし、仮に理論上そのような仮説を立てることが可能であったとしても、当時の日本軍は通常無裁判処刑のような扱いはしていなかったという事実がある。
当時の軍の公文書でも国際法違反で処刑したとは書かれておらず、東京裁判の時にも無裁判処刑の合法は主張されず、当然ながら国際的にそのような主張が認められたこともなかった。
今日では国際法に明確に無裁判処刑は違法行為であると記述されるようになっている。
その国際法とは起きたことの評価を踏まえて成立していることを無視してはいけない。
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司令官がいないので捕虜になれない
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*否定派の主張
指揮官の唐生智が部下を置いて逃亡したので司令官がいない。司令官のいない軍隊は捕虜にする必要はない。
        
*反論
名目上の司令官が不在であるからと言って、軍の所属員が捕虜資格をなくすことはない。

確かにハーグ陸戦規約の「交戦者の条件」(正確には正規軍以外のものが正規軍と同等の資格を認められるための条件)には司令官の存在が謳われている。
しかしこれは、国家の組織する軍隊以外の組織に正規軍と同等の資格があると見なすための条件で、非公式の組織を公式の組織と同等に扱うためには、責任者のはっきりしない団体をそのように扱うわけには行かない、という理由によるものだ。
これに対して、国家の組織する軍隊には通常、指揮権の継承順序を定めるルールがあって、あるポストが空白の場合は、誰が代理を務めるかはちゃんと決まっているものだ。日本軍の場合で言うと、「軍令承行令」というものがあり、指揮官が不在でも、戦死しても、代わりに誰が指揮を執るかは組織上明確にされている。

だいいち、捕虜資格は、軍の所属員である限り、部隊で降伏しようと、個別に投降しようと、動けなくなったところを本人の意志ではなく捕獲されようと、敵に捕らえられて管理下に入れば適用されるものだ。
戦線で大量に投降があってこれを拘束した場合、敵の総司令官がどこにいるかがはっきりしないうちは投降した兵に捕虜資格があるかどうか解らない、というルールはあり得ない。

名目上の司令官一人が不在であるからと言って、その軍全体の捕虜資格がなくなるような馬鹿なことはない。


資料
>ハーグ陸戦規約~~【第三条】(兵力の構成員)~~交戦当事者の兵力は、戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得。~~敵に捕はれたる場合に於ては、二者均しく俘虜の取扱を受くるの権利を有す。~~http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/J1907c.htm

>「司令官逃亡」が交戦者資格喪失を意味するか? ~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/ilow050519.htm#04
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何応欽の軍事報告にもない
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*否定派の主張
1938年3月に開かれた国民党の臨時大会で何応欽参謀総長の軍事報告がなされたがその中で南京事件については一言も触れていない。

*反論
何応欽の年次報告書に虐殺被害が見られないと言っても、報告書には目的がある。
中国軍の行動と、損失をまとめた報告に、戦闘外での被害が記載されていないということは別に不思議ではない。

戦後の著書では 何応欽は南京虐殺について触れている。

資料
>「南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した。日本軍は麻縄で数百名の武装のない兵士や市民を一しょにしばつて機関銃で一斉掃射したり、あるいはガソリソをかけて彼らを焼き殺した。日本の将校が兵士を引率して、いたるところで放火、掠奪、強姦をほしいままにし、強姦された婦女子の数は教え切れず、しかも強姦された婦女子の多くは殺された。」~~『中日関係と世界の前途』~~http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html
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戦後の中国もある時期までは問題にしていなかった
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*否定派の主張
戦後の中国もある時期までは問題にしていなかった。鄧小平の出現まで、中国教科書に「大虐殺」はなかった。

*反論
鄧小平は1904年生まれであるので、当然それ以前に「南京大屠殺」の記述などあるはずもない。

というのは冗談としても、復権して最高実力者となった1978年以降のことを言うなら、中国本土の小学校の教科書に初めて「南京大屠殺」が記載されたのは1991年のことであるので、小学校の教科書についてだけはこれは正しい。
しかし、中学、高校用の教科書には1960年版からすでに記載されていたのだから、やはり間違いである。

さらに、台湾の小学校では1968年版から、高校の教科書では1953年から南京陥落時の虐殺事件が記載されていた。
いずれも中国本土よりも早くから「南京大屠殺」が登場している。

したがって、この主張は全くの間違いである。


資料
>「1937年11月、日本侵略軍は上海を占領し、続いて南京を包囲した。蒋介石は南京を六ヶ月間を守ると述べたものの、結局六日間で陥落した。南京の人民は日寇に非人間的な残虐きわまる暴行を受けた。けだもののような日寇は一ヶ月余に、我々三十万の同胞を殺害し、約二万余の女性に暴行を行い、市内の建物の三分の一が焼かれ、数えられないほどの金品を略奪した。これは日本侵略者が中国人民に残した大きな血の債務である。」~~中華人民共和国 九年一貫制試用課本歴史第3冊、1960年版P111-112~~http://jun-gw.sfc.keio.ac.jp/JP/thesis/WangXueping/syuron.pdf
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毛沢東も言及していない
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*否定派の主張
毛沢東は38年5月延安の抗日戦争研究会で「持久戦について」という有名な講演をした時、虐殺に触れるどころか日本軍の欠点は「包囲は多いが殲滅は少ない」として日本軍の甘さを指摘している。

*反論
毛沢東の特定の著述の中に「南京での虐殺」が出てこないからといって、毛沢東が、中国共産党が虐殺事件を知らなかったとは言えない。

東中野修道『南京虐殺の徹底検証』には
「毛沢東の総括によれば、①南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。」
とあるが、
「持久戦について」には
「第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。」
とあるのみである。
その「殲滅は少ない」の中に、南京攻略戦が入っているのかどうかここから読みとるのは無理であり、「南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。」とまで断言はできないだろう。
また、毛沢東が持久戦論で強調しているのは、「日本軍は強いようだが、その指揮は不徹底でまずいものであり、恐れることはない、これからは勝てる」ということだ。
なにも日本軍の残虐行為について語ることが目的の文書ではなく、日本軍の戦術を分析して「恐るに足らず」と共産軍の志気を高めることを目的としている。

なお、延安は漢口から約1000km、上海からは1500kmも離れた山間の奥地であり、交通は不便でラジオ放送がそのまま受信できる環境ではなかった。南京で行われたことがいつ頃詳しく伝わったかは不明だ。
武漢で発行されていた中国共産党の刊行物、週刊誌『群衆』の1938年1月1日号には、すでに南京での虐殺について言及があるが、延安で発行されたものでは陳甘寧辺区政府機関紙『新中華報』の第四四三期(一九三八年六月三〇日)に「日本侵略者一年来の暴行」と題する論説を掲載しているのが最初のようだ。
毛沢東が「持久戦論」の内容をまとめた時点では、南京事件の詳細が延安まで伝えられていなかった可能性もある。

ただし、後には、毛沢東自身も「南京事件」の安全区委員会資料を掲載した、『中国占領区の日本帝国主義』(延安時事問題研究会編 一九三九年)に序文を書いている。
当然、この時点ではその内容について承知していたことになる。
あることについて書かれていない書物が存在することが、その「あること」の不存在の証明にならないことは、落ち着いて考えれば誰でも理解できることだ。


資料
>「敵軍の暴行は最近開始されたものではなく、「九・一八」以前にすでに各種の残虐事件がひきおこされ、我が民衆が虐殺された。「九・一八」に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世の共に知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。」~~『群衆』民国27年1月1日~~http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/gunshu.html
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国際連盟にも提訴していない
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*否定派の主張
国際連盟で取り上げられず、非難決議もない。

*反論
国際連盟で中国代表が南京での残虐行為非難の演説を行い、この抜粋が日本の外務省文書にも転載されている。

では、なぜ提訴、非難決議にいたらなかったのか。
南京の虐殺はそれだけが孤立して行われたのではない。それは日本の中国侵略の一こまに過ぎず、南京事件の発生以前において日本の中国侵略戦争は国際的に圧倒的な非難を浴びていたのである。

1937年9月中国政府は日本の中国侵略を連盟に提訴した。連盟総会は9月28日にまず、「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を全会一致で可決し、日本軍による上海、南京、広東爆撃を非難した。さらに10月6日には日本の軍事行動が九カ国条約と不戦条約に違反していると判定し、連盟は中国を道義的に支援することを採択した。そして同年11月3日から24日までブリュッセルで開催された九カ国条約会議では、日本の中国侵略を国際法違反であるとして非難、警告する宣言を採択した。

中国とすれば南京事件を含む侵略行動全体を問題として国際社会に訴え、日本の侵略自体を止めさせることこそが国益に適うことであった。ことさら南京事件だけを取り上げるという考えは持っていなかった。また、国際社会における受け止め方にしても南京事件だけを取り出して、日本軍の凶暴性の象徴と見なす論調はなかったといえる。

否定派は南京事件は国際社会が突き動かされような衝撃的事件であったはずだ、と考えているようだが、それは当時の国際情勢がわかっていないのである。ヨーロッパにおいては1938年イタリアが日独防共協定に参加、翌月には連盟を脱退した。1938年1月にはフランス人民戦線政府が危機を迎え、3月にはナチスドイツがオーストリア併合をした。世界大戦の前触れとなる枢軸国側の横暴の前には南京事件だけを取り立てて問題視するような情勢ではなかったのである。

歴史に残る大虐殺がすべて発生直後に国際連盟や国際連合で非難決議されているわけではない。発生時期に国際機関の公然の非難決議がないから虐殺が実在しないというなら、ホロコーストもポルポトの残虐行為もチベットでの残虐行為もなかったことになる。国際社会の非難決議があるかどうかは、残虐行為そのものの規模よりは国際社会がその残虐行為にただちに向き合う余裕と意欲があるかどうかにかかっているのである。

資料
>「さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に打ちひしがれた民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与えています。~~あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。~~このリポートは一二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものであります。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち。」(国際連盟での中華民国代表 顧維鈞の演説)~~http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html

>「第百回理事会ニ於ケル日支問題討議ノ経緯~~(中略) ~~四、決議ノ採択 ~~理事会ハ前記非公開会議ニ引続キ一時ヨリノ公開会議ニ於テ顧維鈞ノ演説後波蘭、祕露ノ棄権ヲ除ク全会一致ヲ以テ支那問題ニ関スル決議ヲ採択シタリ。 ~~(一)劈頭顧維鈞ハ日本ノ侵略ノ事実日本軍ノ暴行、第三国ノ権益侵害等ヲ述ベ連盟ノ行動ヲ要求スル趣旨ノ演説ヲ為セリ。(註)~~(註)顧維鈞ノ演説ノ要旨左ノ如シ。~~「昨年十月ノ連盟総会決議以後モ日本ノ侵略ハ続行強化サレ北ハ済南、中央ハ上海、南京、杭州等何レモ占領サレ已ムナク首都ハ重慶ヘ移サルルニ至リ又日本海軍ハ南支ノ小島嶼ヲ占領シ空軍ハ無防備都市ノ空爆ヲ続行シツツアリ。嘗テ厳格ナル訓練ヲ誇リタリシ日本兵士ノ其ノ占領地帯ニ於ケル暴虐野蛮ナル行動ハ言語ニ絶シ其ノ幾多ノ事例ハ中立国ノ目撃者ヨリ報告サレ外国新聞ニ報道セラレタル通ナリ。~~ト述べ、日本兵ノ掠奪、暴行及姦淫ニ関スル昨年十二月二十日ノ「タイムス」及一月二十八日ノ「デイリー・テレグラフ」~~ヲ引用シ~~日本ノ軍閥ハ其ノ占領地ニ於テ領土的野心ナシト唱ヘツツ予テノ計画ニ従ヒ傀儡タル地方政権ヲ組織シ遂ニ所謂支那共和国仮政府ヲ作リ上グルニ至レル(後略)~~(昭和13年の外務省報告書)~~http://blog2.fc2.com/higeta/
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蒋介石も言っていない
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*否定派の主張
支那事変一周年目の7月7日蒋介石は「友好国への声明」と「日本国民への声明」を英文で発表したがそのどちらの戦時宣伝のなかにも「虐殺」は書かれていなかった。

*反論
蒋介石が南京での残虐行為に言及した資料があり、知らなかったとは言えない。

1938年1月22日の蒋介石日記に
「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ。」とある。

また、1938年7月7日に抗戦一周年を期して出された声明「日本国民に告げる書(日本国民への声明)」には
「また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、わが方の遠くに避難出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火炙りに処し、甚しきに至つては殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。」
とあり、「虐殺」が書かれていないと読むのは無理だ。
あえて言えば、この声明には「南京」という言葉は使われていないのだが、対日戦一周年を期して出された声明の中の、「占領された一地区」に、南京地区が入っていないという読み方が出来るわけもない。
「虐殺」が書かれていないというのは事実に反する。

資料
>「日本国民に告げる書(告日本国民書)全文」~~http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html ~~ttp://chungcheng.org.tw/thought/class07/0012/0005.htm ~~(アドレスバーにコピーして使用)
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日本軍が食料を贈って感謝状を貰っている
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*否定派の主張
日本軍が食料を贈って感謝状をもらっている。虐殺があったのならこのようなものは残らない。

*反論
正確に言えば、宝塔橋地区の紅卍会支部長が、砲艦比良の艦長に対して、援助食料に対する「受取証」を渡し、そこに「艦長さんの計らいに感謝します」と書き添えたということだ。独立した「感謝状」が出たわけではない。

「ありがとうございます」とか「感謝します」とか書かれた請求書やビジネスレターなら私もしじゅう受け取っているが、これを別に「感謝状を貰った」とは言わないのだ。
また、20万と見られていた南京難民全体と、日本軍全体との間のできごとのように書くのはちょっと頂けない。
むしろ陸軍部隊は南京城内外で発見した食料を自分たちのために確保してしまったので、安全区委員会からは「われわれが難民のために確保していた分については、輸送ができるように認めてほしい」という要請の文書が発行されている。

比良の艦長が難民の窮状を見て艦の食料を与えたのは事実だし、ものを貰って感謝するのは当然の礼儀であって、これは一つの美談ではある。
しかし戦場には人道行為をした人の記録もあれば、非人道行為が行われた記録もある。
非人道行為があったから、人道的行為がなかったことになる訳ではないのと同様、人道的な行いの記録があることが非人道行為の不存在の証明にはならないのである。


資料
>http://www.history.gr.jp/~nanking/re5-1.jpg

>日本軍が中国側の食料を押収していた例
>第十六師団佐々木到一少将の日記 (12月15日)~~我が第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当たるのだとゆふものがある。終つて冷酒乾杯。~~[略]~~城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊か(いささか)癪だが仕方が無い、因に南京米はぼろぼろで飯盒の中から箸では掬へない。~~(偕行社「南京戦史資料集」P-380)~~ ~~安全区国際委員会 第14号文書 ~~(ラーベより日本大使館へ・・・・1937年12月27日)~~「福井氏(引用者注:福井淳日本大使館書記官)の配慮を乞う~~12月1日に前南京市長馬氏が、安全区内の住民の保護に関する責任を当国際委員会に委託したさい、氏は米3万担、小麦粉1万袋を、市民の食糧用として当委員会に譲渡しました。(中略)~~中国軍は10万担の米(当方の3万担とは別に)を南京郊外に保管しておりましたが、その大部分は南京占領の際貴軍の手中に落ちました。それで、20万市民を養うために、前記2万担の米を我々が確保することを、許していただけるようお願い致します。~~地区内の各家庭の手持ちの米は急速に減少しつつある一方、当方の米の配給に対する需要は急速に増加しています。もし我々が全住民を養わねばならないとすれば、当方の予備食料は一週間ともたないでしょう。たとえ秩序が回復したとしても、何万、何十万という難民を春まで養わねばならないことになります。」~~http://www10.ocn.ne.jp/~war/kome.htm
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マギーは虐殺を一人しか目撃していない
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*否定派の主張
マギーは虐殺を一人しか目撃していないと言った。その一人の目撃も偽証である。

*反論
マギー牧師が殺人の現場に居合わせたのは一件だけだ、という意味では、これは本当。
ただし、マギー日記によれば発砲の瞬間はマギーの場所からは見えなかったようだ。

しかし、事件が起きたことを事実として知っている人間が、その事件の瞬間に現場にいたとは限らない。
実際には大量殺害は主に城外に連行して行われたのであるから、城内から出られない外国人達には殺害の瞬間を目撃する機会は少なかったというだけのことだ。
また、それぞれに難民保護、治療、日本当局との交渉など多忙を極めており、街路をパトロールしていたわけでもない。
今日東京には42,000人の警察官がおり、住民300人あたりに一人の配置となっているが、事件が起きる瞬間を警察官が目撃していることはまれである。
日々けが人の治療に当たる外科医が交通事故の瞬間を目撃することは、さらにまれである。
安全区委員の数は15人であり、住民数の1/10,000以下であるので、単発の事件が多発したとしても、実際にその場に居合わせる可能性は低い。
直接その瞬間を見たことが少ないから、その人が知っている事実がウソだということにはならない。マギーはほかの事件で何度も現場を訪れて死体を目撃したり、集団殺害の現場から逃げ帰った負傷者の証言を聞いたりしている。

資料
>「 其の次の日の出来事でありますが、私は他の三人の外国人、其の外国人の二人は「ロシヤ」人、一人は私の同僚の「フォスター」さんでありましたが、私共是れだけの外国人の家の「バルコニー」から外を見まして、実際中国人が一人殺されるのを目撃したのであります。 ~~ それは中国人が私の家の前を歩いて居つたのでありますが、それは何れも絹の着物を着て居りました。それを日本の軍人が後ろから誰何したのであります。さうしますると此の中国人は非常に驚きまして、歩行を早めて逃げ去らうとして、丁度其の先の所にありました角の所を曲らうと致しました所が、其処には丁度竹垣がありまして行詰りになつた為に、逃げることが出来なかつたのであります。 ~~ それを日本の兵隊が追掛けまして、さうして殺したのであります。」~~ ~~「其の晩でありましたか、其の翌日の晩でありましたか、私は能く記憶して居りませぬが、私の見ました所に依りますと、中国人の二列縦隊が連れて行かれるのを見たのであります。其の数は千若くは二千に上つたであらうと思ひます。(モニターによる修正後の文)~~さうして手は総て縛られて居つたのであります。私は其の団体の中に、中国の兵隊が居るのを一人も見かけなかつたのでありまして、全部便衣を着て居つたのであります。其の中の負傷した者が逃げて帰つて来たのでありますが、それは全部私の監督しておりまする教会の病院に入れられたのであります。~~どう云ふ風にして帰つて来たかと云ふと、全部銃剣で突かれたのでありますけれども、死んだやうな真似をして居た為に、逃げて来たと云ふことであります。」 ~~http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html
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累々たる死体を見た者がいない
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*否定派の主張
南京市街に死体がごろごろしているはずだが、そういう証言はなかった。東京裁判の
証言者以外に累々たる死体を見た者がいない。

*反論
詩人の西條八十は陥落直後の市内で、中国兵の死体の山や、街路の夥しい(民間人の姿をした)死体を見た、と、当時の雑誌に書いている。
また、第六師団長の谷中将は、当時の報告に、揚子江の岸が「河岸一面死体を以て覆われた」と、書いている。
外国人記者、在留外国人も民間人や兵士の死体を目撃して記録している。

激戦地なので、当然死体はある。その死体がどういう理由で発生したかは別の話であって、虐殺がなかったと言いたいあまり、死体そのものがなかったとか見た者がいないというウソを言ってはいけない。

資料
>燦たり南京入城式  西條八十 文芸春秋社「話」 昭和13年2月号 P238-240~~「出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。」~~「驚くほど厚い鉄の扉の蔭に、一河岸の米蔵の俵を寄せ集めたほど積上げられた敵の土嚢。このあたりから、往来に土民服を着た支那兵の死体やら、軍馬の屍が、夥しく見えはじめた。」~~http://www.geocities.jp/yu77799/saijou.html

>軍状報告昭和十三年一月二十七日~~陸軍中将 谷寿夫~~之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じたのであります。

>「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社)~~ のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。~~ これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。~~http://www.geocities.jp/yu77799/kyoudobutai.html
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虐殺命令書がない
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*否定派の主張
虐殺命令書がない。日本軍には軍事目的がなく、作戦記録もない。

*反論
南京攻略の目的があり、攻略の命令書もあり、戦闘記録には捕虜殺害も明記されている。
日本軍は虐殺を目的に作戦したわけではないのだから、命令書には「虐殺をせよ」とは書かれていない。
虐殺は日本軍の無計画さと組織性のなさから起きたと考えられる。

軍中央ではむしろ現地軍の暴走ぶりにとまどい、参謀総長名で中支那派遣軍司令官松井大将に「戒告」の文書を送っている。


資料
>「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。」(阿南惟幾 S12.12.22陸軍省局長会報におけるメモ)~~ ~~「就中、軍紀、風紀において忌わしき事態の発生近時漸く繁きを耳にし、信ぜざらむと欲するも尚転た慨然たるものあり。惟ふに、一人の失態も全隊の真価を左右し、一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷くるに至らん---~~然れ共、実情の不利不便愈々大なるに従い、益々これが克服の努力を望まざるを得ず。或は沍寒に苦しみ、或は櫛風沐雨の天苦を嘗めて日夜健闘しある外征将士の心労を深く偲びつつも、断じて事変の完美なる成果を期せんか為、茲に改めて軍紀風紀の振作に関して、切に要望す。~~本職の真意を諒せよ。~~昭和十三年一月四日~~           大本営陸軍部幕僚長 載仁親王~~中支那方面軍司令官宛」~~http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html
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虐殺死体や虐殺設備の痕跡がない
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*否定派の主張
大量の虐殺死体や虐殺死体処理設備の痕跡がない、ホロコーストのように死体処理工場でも作らない限り大量虐殺はできない。

*反論
万単位の死体は確かに存在したのであり、埋葬記録も各団体、個人によるものが日本側、中国側双方に残っている。

南京戦は激戦であり、中国側の戦死者だけでも万単位に上る。大量の死体は実際に存在したのであり、虐殺がなかったと信じたいあまり「死体がなかった」などというウソを主張するのは感心しない。
問題は原因が戦闘と捕虜・敗残兵の殺害、市民への暴行、いずれによるものか埋葬記録だけからは確定出来ない点と、全体の数が確定出来ない点にある。

死体は、大きな土の塚を作ってまとめて埋葬した。日本軍が処理したものでは大量に揚子江に流したものもある。
これらには当事者、目撃者の日本人、中国人の証言があり、写真も残されている。

専用の死体処理施設はなかったと思われるが、歴史上実在したとされる「大虐殺」のうち、専用の死体処理設備が確認されたものがいくつあるかを考えれば、設備の不存在が虐殺否定の根拠にはならないことは誰でも理解出来る。


資料
>遺体埋葬の記録
>~~紅卍字会
>~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/koumanjikai.html
>~~南京市衛生局
>~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/eiseikyoku.html
>~~赤十字
>~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/juuji_no1.html
>~~赤十字
>~~http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/juuji_no2.html

>埋葬の写真と伝えられるもの
>~~
>~~紅卍字会埋葬隊
>~~&ref(http://image02.wiki.livedoor.jp/n/q/nankingfaq/f102a527c8e07cb2.jpg)
>~~
>~~赤十字埋葬隊
>~~&ref(http://image02.wiki.livedoor.jp/n/q/nankingfaq/da0a1a411d8c8f66.jpg)

>日本軍による揚子江での死体処理(目黒輜重連隊村瀬守保氏撮影)~~「工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、沖へ流す作業をしていました。一回に数体ぐらいですから、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。」
>~~『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター 1987年)
>~~&ref(http://image01.wiki.livedoor.jp/n/q/nankingfaq/d922ad483487603b.jpg)
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虐殺記事は国民党のエージェントが書いた
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*否定派の主張
南京虐殺の直後に虐殺の記事を書いた新聞記者や大学教授は、中国国民党のエージェントであったことが明らかになった。
        
*反論
ダーディンやスティールのことであれば、中国側の主催する報道関係者のサロンに出入りしたり、中国側のお膳立てする会見や取材旅行に参加していたに過ぎない。

これを国民党のエージェントとまでいう人は報道と行政機関の関係と言うものにあまりにナイーブである。今も昔もジャーナリストというものは、利用出来るものは利用するのだ。

ベイツについては、「中華民国政府顧問」 であると書かれた出所不明の新聞の切り抜きと見られる資料が存在するらしいが、どのような顧問であったのかの明記はない。
記事内容が事実だとしても、日本で言えば明治期のクラーク博士やモース博士のような、「お雇い外国人」の立場で教育・学術の顧問を務めていたと見るべきだろう。
また、ティンパリーが中国政府の広報顧問を務めた後、国連機関のUNRRAや UNESCOの顧問、インドネシア政府の顧問を務めたことは、ずいぶん昔から広く知られていることであり、ティンパリー一族のホ-ムページにも堂々と記載されていることだ。
別に新しい発見ではない。

「顧問」と言うのはものごとを教え、指導をする人間であって、「エージェント」ではないのだから、工作員とかエージェントとか呼ぶことにはまったく何も根拠がない。


資料
>http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html ~~ http://www.timperley.org/references/REF0019.HTM
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