Jeffrey ShallitのSignature in the Cell批判




数か月前、私はStephen Meyerの新刊本Signature in the Cellを一読し終わった。非常に時間がかかったのは、あまり悪い点が多くあったからで、私は衝撃を受ける度にノートを取った。

これを読んで、2つの点で衝撃を受けた。ひとつは、本質的不正直さであり、もうひとつは、Meyerの情報理論についての徹底した誤解である。多くの不正佳奈展についてのポストはまた別の機会に行うが、今日は情報理論に集中したい。私は生物学者ではないので、生物学について何が間違っているかは誰かに委ねよう。

Signature in the Cellで、Meyerは3つの異なる情報理論について語っている。すなわち、Shannonの情報と、Kolmogorovの情報と、インテリジェントデザイン創造論者によって発明され、首尾一貫した定義がなされていない第3種の情報である。この第3種を私は「創造論者情報(Creationist Information」と呼ぶことにする。

Shannonの理論は確率論的理論である。Shannonは不確実性の減少を情報と同一視した。彼はこれを測定するためにエントロピーの減少を計算した。ここでエントロピーは -log 2pで与えられ、pは確率である。たとえば、2つのコインを私の背後ではじくとして、キミがそれらが裏表どちらを向くか知らないなら、情報量は0である。コインの一つをキミに見せれば、キミの不確実性を -log 2 1/2 = 1ビット減らすことになる。両方をキミに見せれば、-log 2 1/4 =2 ビット減らすことになる。Shannonの理論は完全に確率に基づいている。論じる対象の確率分布が定義されていないなら、これに関連する情報を議論することは、何の意味も持たないだろう。

これに対して、Kolmogorovの情報理論は確率分布には全く言及しない。これは文字列の情報を、何らかのユニバーサルなコンピューティングモデルに対して計測する。ラフに言えば、文字列xのKolmogorov情報(あるいは複雑さ)は、最短のプログラムPと入力Iの長さである。ここで、Pは入力Iに対してxを出力する。たとえば、iが素数なら1、そうでないなら0の値を取る、01101010001....で始まる長さnのビット列のKolmogorov複雑さは、log 2n +C が上限となる。ここで、Cは素数であるか否かをテストするのに必要なプログラムの長さを考量に入れた定数である。

Shannonの理論もKolmogorovの理論も意味とは何の関係もない。たとえば、人間にとってとても意味があるが、Kolmogorovの情報はほとんどないというメッセージがありうる(たとえば、結婚のプロポーズに対するYESという答え)。そして、人間にとってほとんど意味がないがKolmogorovの情報は多くあるメッセージもありうる(たとえば、正しく作られたコインを1000回トスして得られるビット列)。

Shannonの理論もKolmogorovの理論も数学的基礎がちゃんとしていて、これを説明し利用する論文が何千本もある。Shannonの情報もKolmogorovの情報も、よく理解された法則に従い、証明に疑いの余地はない。

Meyerが論じた創造論者情報は、首尾一貫性のないしろものである。William Dembskiによって導入されたバージョンのひとつは、私を含めMark PerakhやRichard Weinなど多くのものから詳細に批判された。インテリジェントデザイン創造論者たちは、これを"Specified Information(指定された情報)"あるいは"Specified Complexity(指定された複雑さ)"と好んで呼び、科学界から広く認められていると見せかけているが、実際はそうではない。創造論者情報を厳格で首尾一貫した定義した科学論文はない。科学あるいは数学の研究で使われたこともない。

Meyerも厳格な定義をしていないが、Shannonの情報やKolmogorovの情報のちゃんと確立された計測方法を否定して、コモンセンスな情報の定義を使いたがる。86ページで、Meyerは次の情報の定義を是認する形で引用している。"an arrangement or string of characters, specifically one that accomplishes a particular outcome or performs a communication function"(文字列の配置であり、特に特定の出力を完成する、あるいは通信機能を実現するもの)。Meyerにとって、その文字列がコミュニケーションするか、何らかの機能を持っていない限り、創造論者情報はゼロである。しかし、Meyerは、ある文字列がどれだけの創造論者情報を持っているが、直接的に述べることはしない。あるときは彼は文字列の長さが創造論者情報量だと示唆する。またあるときは、確率の負の対数がそうだと示唆する。しかし、何についての確率なのか? 因果履歴なのか、一様分布した文字列に対するものなのか? Dembskiの定義も同じ誤りを持っている。しかし、Meyerの曖昧な定義は、さらなる問題をもたらす。幾つか例を挙げよう。

問題点1: ユニバーサルなコミュニケーション方法はない。したがって、Meyerの定義はまったく主観的なものだ。もし"Uazekele?"という文字列を私が受け取っても、私は無意味だと思って無視するだろう。しかし、リンガラ語の話者なら、ただちに意味がわかって、"Mbote"と返すだろう。科学及び数学におえkる量は、誰が計測するかに依存しない。

問題点2: 創造論者情報を文字列の長さだけで計測するなら、パディングによって文字列が持つ情報量を過大評価することになる。たとえば、ある機能を実行するコンピュータプログラムPがあって、これにn個のNOPを加えた以外は同一のプログラムP'があったとしよう。長さを基準に計測するなら、Pに比べてP'はnビット多い創造論者情報を持っていると主張するだろうか?(これに対して、Kolmogorovの理論では、P'は高々、log nビットの情報を余計に持っているだけである。)

問題点3: もし文字列の一様分布に対して創造論者情報を計測するなら、インテリジェンスだけが創造論者情報を創れるというMeyerの主張は誤りになる。たとえば、ひとつの文字列を1000回コピーする変換で作った文字列は、一様分布に比べれば、ありえそうにない。しかし、これは数学的に簡単に作れる。

問題点4: 議論の対象となる物の因果履歴によって創造論者情報を計測するなら、これらの確率を推定しなければならない。しかし、Meyerは彼自身の方法を、現在はまだちゃんと理解されていない生命の起源のような現象に適用することに関心を持っているが、彼が本当にやったこと(創造論者情報は時には確率の負の対数でもあるので)は、これらのイベントの確率の推定である。しかし、因果履歴を正しく知らない限り、そのような確率は合理的に推定しようがない。この場合、情報についての話は、めくらましにしかならない、彼は「ありそうにない。だからデザイン」だと言うだろう。そして実際そう言っている。

問題点5: Meyerが関心を持っていることは、その文字列は何かをコミュニケートしているか、機能を持っているかである。しかし、ある文字列は同じ長さの別の文字列より、多くコミュニケートする。ある機能は、別の機能よりも使えるものである、Meyerの計測方法は、このようなことを考慮していない。"It will rain tomorrow"と"Tomorrow: 2.5 cm rain"は同じ長さの文字列だが、明らかに一方が役に立つ。私には、Meyerは同量の創造論者情報を持っているとい主張するように思える。

問題点6: Meyerにとって、コンピュータ処理のコンテキストでに情報は、たとえば、機能を実行するプログラムである。プログラムが長いほど、創造論者情報を多く持っている。では、一文字だけシンタックスエラーのあって、コンパイルできない、非常に長いプログラムを考えてみよう。そのようなプログラムは何の機能も実行できないので、Meyerにとって情報量はゼロである。そして、Meyerが不可能だと言っている、一文字の突然変異による大量の創造論者情報の生成が起きる。

Meyetの定式化されない定義を全ての誤りとともに受け入れたとしても、情報についての彼の主張は、間違っている。たとえば、彼は次のような誤った主張を繰り返し書いている。

p. 16: "What humans recognize as information certainly originates from thought - from conscious or intelligent human activity... Our experience of the world shows that what we recognize as information invariably reflects the prior activity of conscious and intelligent persons."

人間が情報として認識するものは、確かに思考、すなわち意識あるいはインテリジェントな人間の活動に起因する。...世界についての我々の経験は、我々が情報として認識するものが、必ず意識とインテリジェントな人物の先行する活動を反映していることを示している。

p. 291: "Either way, information in a computational context does not magically arise without the assistance of the computer scientist."

いずれにせよ、コンピュータ処理のコンテキストでの情報は、コンピュータサイエンティストの助けなしに、魔法のよう生じることはない。

p. 341: "It follows that mind -- conscious, rational intelligent agency -- what philosophers call "agent causation," now stands as the only cause known to be capable of generating large amounts of specified information starting from a nonliving state."

したがって、非生物状態から始まる、大量の指定された情報の生成能力を持つ既知の原因として存在するのは、心、すなわち意識のある合理的なインテリジェントエージェンシーである、哲学者がエージェント因果律と呼ぶものである。

p. 343: "Experience shows that large amounts of specified complexity or information (especially codes and languages) invariably originate from an intelligent source -- from a mind or personal agent."

大量の指定された複雑さあるいは情報(特にコードや言語)が必ずインテリジェントな源泉、すなわち心あるいはパーソナルエージェントに起因することを、経験は示している。

p. 343: "...both common experience and experimental evidence affirms intelligent design as a necessary condition (and cause) of information..."

一般的な経験と実験的な証拠はともに、情報の必要条件(と原因)としてのインテリジェントデザインを真実であると示している。

p. 376: "We are not ignorant of how information arises. We know from experience that conscious intelligent agents can create informational sequences and systems."

我々は情報の発生について無知ではない。我々は経験から、意識あるインテリジェントエージェントが情報にあるシーケンスやシステムを創れることを知っている。

p. 376: "Experience teaches that whenever large amounts of specified complexity or information are present in an artifact or entity whose causal story is known, invariably creative intelligence -- intelligent design -- played a role in the origin of that entity."

因果履歴が既知であるアーティファクトや存在に、大量の指定された複雑さあるいは情報が存在しているときは、必ず創造的インテリジェンス、すなわちインテリジェントデザインがその起源に役割を果たしていることを、経験は教えている。

p. 396: "As noted previously, as I present the evidence for intelligent design, critics do not typically try to dispute my specific empirical claims. They do not dispute that DNA contains specified information, or that this type of information always comes from a mind..."

前述のように、私がインテリジェントの証拠として提示したように、批判者たちは私の特定の主張を論破しようとしない。彼らは、DNAが指定された情報あるいは心に起因するタイプの情報を持っていることを論破しない。

これらの主張に対して、反例として、気象予報を挙げておこう。気象学者は、温度や気圧や風速や風向などの大量のデータを自然界から集め、このデータを処理して、正確な気象予報を行う。彼らが集めた情報は「指定された」もの(朝、傘を持って行くべきか告げている)であり、正確な気象予報には、数千でないにせよ、数百の情報が必要なことは明らかだ。Meyerが何らかのインテリジェントな存在(ゼウスとか)が気象をコントロールしていると主張しない限り、これらの情報は心から生じていない。おそらくインテリジェントデザインは偽装されたギリシャ多神教だろう。

情報についての主張はMeyerの本の中心だが、見てきたとおり、これらの主張の多くは誤りだ。Meyerの本には、さらに多くの誤りがある。少し例を挙げよう。さらに何十も例は挙げられるが。

p. 66 "If the capacity for building these structures and traits was something like a signal, then a molecule that simply repeated the same signal (e.g., ATCG) over and over again could not get the job done. At best, such a molecule could produce only one trait."

もし、これらの構造や特質を構築する容量がシグナルのようなものであれば、単純に同じシグナル(ATGC)を繰り返す分子は何も機能しない。せいぜいがところ、一つの機能を実現するのみである。

これは明らかではない。繰り返し回数も情報であり、実際、繰り返し回数の違いが異なる機能を作り出しているのを我々は見出す。たとえば、Huntington病はCAGの繰り返し回数の違いに関連している。

p. 91: "For this reason, information scientists often say that Shannon's theory measures the "information-carrying capacity," as opposed to the functionally specified information or "information content," of a sequence of characters or symbols.

この理由により、情報科学者は、Shannonの理論が、文字列の機能的に指定された情報あるいは「情報コンテンツ」に対して、「情報伝送容量」を計測していると言う。

ここで、Meyerは全く混同している。Shannonの理論の「情報伝送容量」はチャネルのことであって、文字列ではない。情報科学者は「機能的に指定された情報」についての語らないし、「情報コンテンツ」とも同一視しない。

p. 106: (he contrasts two different telephone numbers, one randomly chosen, and one that reaches someone) "Thus, Smith's number contains specified information or functional information, whereas Jones's does not; Smith's number has information content, whereas Jones' number has only information-carrying capacity (or Shannon information)."

(彼はランダムに選んだ電話番号と、誰かにつながる電話番号を対比する)したがって、Smithの番号は指定された情報あるいは機能的情報を持っているが、Jonesの番号はそうではない。Smithの番号は情報コンテンツだが、Jonesの番号は情報伝送容量(あるいはShannon情報)である。

これは全く訳が分からない。情報科学者は「指定された情報」や「機能的情報」について語らない。そして私が指摘したように、「情報伝送容量」はチャネルについてであって文字列についてではない。

p. 106: "The opposite of a complex sequence is a highly ordered sequence like ABCABCABCABC, in which the characters or constituents repeat over and over due to some underlying rule, algorithm, or general law."

複雑なシーケンスの逆は、ABCABCABCABCのような高度に秩序立った文字列で、そこでは文字あるいは構成要素が何らかのルールかアルゴリズムか一般法則によって繰り返されている。

これは複雑さについてに、よくある誤解である。Kolmogorov複雑さの小さい文字列の背後には確かにルールがあるが、文字列が繰り返されるというのは正しくない。1からnまでの数字iが素数か否かで1か0をとる長さnの文字列のKolmogorov複雑さは小さいが、繰り返しにはなっていない。

p. 201 "Building a living cell not only requires specified information; it requires a vast amount of it -- and the probability of this amount of specified information arising by chance is "vanishingly small."

生きた細胞をつくるには、ただ指定された情報が必要なだけでなく、大量の指定された情報が必要であり、そのような大量の指定された情報が偶然に生じる確率は無視しうるほど小さい。

根拠なき主張である。「指定された情報」は厳格には定義されていない。トルネードにどれだけの指定された情報があるのか?岩は?惑星の配置は?

p. 258 "If a process is orderly enough to be described by a law, it does not, by definition, produce events complex enough to convey information."

プロセスが法則によって記述できるほど単純なら、定義上、情報を運べるほど複雑なイベントを生成できない。

これは誤りだ。我々は常に、「大数の法則」にような統計法則について話している。突然変異+自然選択のようなランダムな要素を含むプロセスは実際に複雑な結果と情報を生成できる。

p. 293: "Here's my version of the law of conservation of information: "In a nonbiological context, the amount of specified information initially present in a system Si, will generally equal or exceed the specified information content of the final system, Sf." This rule admits only two exceptions. First, the information content of the final state may exceed that of the initial state, Si, if intelligent agents have elected to actualize certain potential states while excluding others, thus increasing the specified information content of the system. Second, the information content of the final system may exceed that of the initial system if random processes, have, by chance, increased the specified information content of the system. In this latter case, the potential increase in the information content of the system is limited by the "probabilistic resources" available to the system."

これが私のバージョンの情報量保存則だ。非生物学的コンテキストでは、系の初期の指定された情報量S iは、最終状態の系の指定された情報量S fを下回らない。このルールは2つに例外を許容する。このルールは2つのだけ例外を許容する。ひとつめは、インテリジェントエージェントが特定の潜在状態を選択して現実化し、他の状態を除外することで、最終状態の情報コンテンツが初期状態の情報量S iを上回る。もうひとつは、ランダムプロセスが偶然に、系の指定された情報コンテンツを増やすことで、最終状態の情報コンテンツが初期状態を上回る。後者の場合、系の情報コンテンツの増加は、系が使用可能な"probabilistic resources"(確率的源泉)によって上限が定められる。

まったくバカバカしい。"generally"(一般的に)という言葉は、提示された例外を却下できることを意味する。そして、"nonbiological(非生物学的)とは何を意味するのだろうか? どうやって生物学は魔法のようにこの"law"(法則)を破るのだろうか? もし人々がインテリジェントエージェントなら、彼らは物質とエネルギーの集合体である。彼らはどうやって、魔法のように情報を増やせるのか?

p. 337 "Neither computers by themselves nor the processes of selection and mutation that computer algorithms simulate can produce large amounts of novel information, at least not unless a large initial complement of information is provided."

まったくの根拠なき主張だ。「Novel information(新規情報)」は定義されていない。Meyerは完全に人工生命という大きな研究分野を無視している。その分野ではMeyerが不可能だと主張しているものが、日々達成されている。この本の索引には人名 John Koza Thomas Ray Karl Sims や、項目"artificial life"(人工生命)は見当たらない。

p. 357: "Dembski devised a test to distinguish between these two types of patterns. If observers can recognize, construct, identify, or describe pattern without observing the event that exemplifies it, then the pattern qualifies as independent from the event. If, however, the observer cannot recognize (or has no knowledge of) the pattern apart from observing the event, then the event does not qualify as independent."

Dembskiはこれら2つのタイプのパターンを識別する方法を考案した。もし観測者が、例となるイベントを観測することなく、パターンを認識あるいは構築あるいは同定あるいは記述すれば、パターンはイベント独立とみなせる。しかし、もし、観測者が、イベント観測とは独立に、パターンを認識できない(あるいは知らない)なら、イベントは独立とはみなせない。

Elsberryとの共著論文 に詳細を書いたように、"independence"(独立)の有意味な定義をしたというDembskiの主張は誤っている。

p. 396: "As noted previously, as I present the evidence for intelligent design, critics do not typically try to dispute my specific empirical claims. They do not dispute that DNA contains specified information, or that this type of information always comes from a mind..."

前述のように、私がインテリジェントの証拠として提示したように、批判者たちは私の特定の主張を論破しようとしない。彼らは、DNAが指定された情報あるいは心に起因するタイプの情報を持っていることを論破しない。

"specified information"(指定された情報)は茶番にすぎず、厳格な首尾一貫した定義や、意見の一致した計測方法を提示することなく、重要そうに聞こえる用語を選んだだけであることを、批判者たちは知っている。情報がランダムプロセスのような別の源泉から来ることを批判者たちは知っている。突然変異と自然選択だけでうまくいく。

まとめると、情報についてのMeyerの主張は場所によって首尾一貫しておらず、大きく間違っている。Thomas Nagel からPhilip SkellからJ. Scott Turnerまで、この本を推薦している人々は、無批判に情報についてのMeyerの主張を受け入れ、彼が間違っているかもしれないとも言わない。恥ずべきである。









最終更新:2013年11月13日 21:08