インテリジェントデザイン:進化論の科学的代案


A little science estranges a man from God; a little more brings him back.
Francis Bacon (1561~1626)

遅かれ早かれ誰もが「我々はどこから来たのか?」と問うことになるでしょう。その答えは深遠で、人生を形作る意味を持ちます。この問いに答えられなければ、倫理、宗教そして生命の意味についての鍵となる根源的なもうひとつの問い「我々は何らかの目的のためにここにいるのか?」に答えられません。考えられる答えは2つあります: 宇宙と生命とその多様性--自然現象--が、1)自然法則と偶然だけの産物なのか(自然主義仮説) 2) 法則と偶然とデザイン(何らかの意志あるいは物質とエネルギーを操作できる力を持つ何らかの知性)の産物なのか(デザイン仮説)。後者なら「目的」がありえますが、前者はそうではありません。

自然主義仮説は(宇宙と生命の起源についての)化学進化の理論と(生物の多様性についての) ダーウィン進化論を支柱としています。デザイン仮説は、しばしば「微調整された」と記述されるようなきわめて複雑な自然システムの目的のある特性を支柱としています。それぞれの仮説は、哲学的因習や宗教的因習と密にかかわっており、科学と哲学、証拠と含意、現実性とイマジネーションを分離するために明快な思考が必要です。

著者たちは科学的研究および法曹について鍛えられています[1]。この記事では、読者の皆さんが、私たちの起源についての本質的科学的議論があり、この議論はインテリジェントデザインとその進化論への挑戦を客観的に考慮しない限り解決せず、科学や宗教、倫理、モラルについての私たちの世界観にとって非常に重要であることを知ってくれることを望みます。この議論において、私たちは幾つかの命題を作ります。: 1) ダーウィンの進化論の最も重要で明確な特徴は、それが指導されず、計画もされず、無意味な(目的のない)過程であること。2) インテリジェントデザインは科学であり宗教ではないこと。 3) それぞれの起源論は、深い宗教、倫理およびモラルの含意があること。

この記事を、主要な用語と概念の包括的な議論から始めます。続いて、デザインの検出についての考察、両起源仮説を支持する証拠、そして、最後にインテリジェントデザインが生命倫理にどう影響するか考えます。

議論の用語


多くの進化論とインテリジェントデザインについての混乱は不正確でわかりにくい用語の定義から生じています。

起源科学(Origins Science)

このエッセイでは、起源科学は宇宙や地球、生物およびその多様性の起源(あるいは原因)を説明しようとする科学のことです。起源科学は厳密に現実に実証的であるというよりは、歴史学的です。従って、仮説を直接検証するための実験ができないので、化学や物理のような実験科学とは異なります。起源科学の歴史学的な本質はハーバード大学Ernst Mayr教授によって説明されています[2]。

たとえば、ダーウィンは科学に歴史学的真実性を取り入れました。進化論者は既に起きた現象と過程を説明しようとするというので、物理や化学と違って進化生物学は歴史学的科学です。そのような現象と過程の説明には自然法則と実験は不適切な方法です。そのかわりに、説明しようとする現象につながる仮に再構築した特定シナリオから構成される歴史的な物語を作ります。

歴史学的と実証的の区別はきわめて重要です。自然法則と実験によってその結論の厳格な客観性が保たれる純実証科学と違って、歴史学者の説明には守るべき基準や規律はありません。このことにより歴史学者の説明は主観的であってもよく、根拠となるデータだけでなくイマジネーションや哲学や宗教観(あるいは非宗教観)に影響されます。

起源科学の第2のユニークな特徴は、あらゆる宗教と同じ問いを発しているために、信仰への影響が避けられないことです。「我々はどこから来たのか?」という問いに対するいかなる答えも、誰かの感情を害することは確かです。従って、歴史学的、主観的および宗教的特性を持つ起源科学は、哲学的および宗教的バイアスなしに客観的に遂行されなければならず、すべての関連証拠は個々にその意味に関わらず検証されなければなりません。

進化(Evolution)

普通の用法では、進化とは物事が時間とともに変化することを意味します。この意味では多くのものが"進化"します: 自動車デザイン、政治制度、コンピュータソフトウェア、対人関係など。この定義は議論にはなりません。誰もが物が変化することだということで一致しているからです。たとえ、生命システムに対して使われても、私たちは物事が変化するという意味だとわかります。受精卵は乳児に、そしてティーンエイジャーから大人になります。タンポポは金色の花から綿帽子になり、イモムシは蝶になります。もっと身近だと、私たちは犬や猫、家畜の品種が計画された選択的な交配による人為的な選択によって"創造"されることを知っています。従って、進化は変化することだとすべての科学者が認めています。問題は変化したことではなく、何がその変化を引き起こしたのかです。

ダーウィン進化論(Darwinian Evolution)

Charles Darwinが1859年の本「種の起源」において"自然淘汰"[3]という新語を作ったとき、"人為的(すなわち知的に誘導された)淘汰"という言葉を心にとめていました。Darwinはインテリジェントエージェントが計画された交配によって数年で、そのような動物の形態に対する根本的な変化を起こせるのなら、十分な時間と適者が不適者よりも生存しやすく、子孫を残しやすい環境要因があれば、意志なき過程でもおそらく同じことができると論じました。 Darwinは生物の形態や基本体型、構造が長い時間で変化してゆくことをよく知っていました。いまもういなくなってしまった、ますます複雑になる植物と動物の驚くほどの多様性を、化石だけが証明しています。疑いなく生物は変化してきました。しかし、何が変化させたのでしょうか?Darwinとその後継者たちは、指導されることのない意志なき自然現象が変化を起こし、自然法則と偶然(ランダムな変化に対する自然淘汰)だけで生物の多様性と生命の起源を十分に説明していると主張していました。

1995年に米国生物学教師協会は次のような進化の定義を規定しました:

地球の生物の多様性は進化の結果です:自然淘汰や偶然、歴史的な偶発性、環境の変化に影響された遺伝子変化を伴う管理されない、非人格的な、そして予見できない不意の自然現象[4]

従って、進化はその定義から、まったく指導も監督もされない過程であり、その中では意志がいかなる役割も演じないのです。意志だけが目的を作れるのですから、進化は目的のない過程です。過程に目的がないことが、ダーウィン理論を唱える人々によって明らかにされています:

Darwinは2つことを示しました:彼は進化が聖書の記された創造伝説に反する事実であり、その原因たる自然淘汰は、神の指導やデザインの余地のない自動的なものであることを示しました[5]。

人間は目的なき、神を考えない自然現象の結果です[6]。

Darwin の科学に対する計り知れない功績は、デザインと目的があるという明らかな証拠があるにもかかわらず、すべての生物学的現象が機械論的な原因で説明しうることを示したことです。何者にも指示されない無意味な(目的なき)変化と、盲目で冷淡な自然淘汰の過程との結合によって、Darwinは生命の過程について、神学的あるいは霊的な説明を無用のものとしました[7]。

人間は偶然の産物に過ぎないことを理解すべきです[8]。

これが、生物学者の言う"進化"です。ただ変化というのではなく、指導されない、故意ではない、無意味な(目的なき)、より高次の知性に影響されない変化です。これらの主張から明らかになったことは、進化はいかなる自然のあるいは超自然の意志の介入も受けないものだということです。ダーウィン論者によれば、私たちは"現象(occurrences)"であって、"デザイン"ではありません。

ネオダーウィニズム(Neo-Darwinian Synthesis)

Darwinは生物にどのように変化が起きて、後の世代にどのように引き継がれるかのメカニズムを提示しませんでした。Gregor MendelはDarwin存命中に遺伝学の基本原理を発見していましたが、(1866年に興行された)Mendelの業績は広く知られることはなく、 1900年に再発見されるまで、ほとんど影響を与えませんでした。1950年になってようやく、遺伝学が科学たりえるようになり、古生物学や微生物学、生化学、発生学そしてダーウィン進化仮説をひとつにつないで、包括的な理論が作れるようになりました。だから、"ネオダーウィニズム"は近代進化論についての固有の名称なのです。その理論では、ランダムな環境制約に支配された生物の都合のよい(ランダムな突然変異による)遺伝的変化が生存すると仮定します。ダーウィン進化過程は現在の環境圧に適した特徴を持つ個体群が子孫を残すように選別する一連のふるいと考えられます。川がその流れを選べないように、生物も選べません。自然法則と偶然が許す方向に流れをとります。

化学進化(Chemical Evolution)

化学進化は生命の起源自体について自然主義的な理論を示します。化学物質がランダムに有史以前の海洋("生命のスープ"仮説)で生成され、再び何らかの" ランダムな変化に対する選択行為"により、生物のようなものが形成されました。現時点では、純自然過程でどのように生命が発生したかについて広く認められた一貫し理論はありません。この分野を専門とするある科学者は、この問いに答えるのはほとんど絶望的だ[9]と言っています。また他の科学者たちはより楽観的です[10]。

ほとんどの科学者(と素人)は化学進化を指すときもダーウィン進化論を指すときも"進化"という略した用語を使い続けています。私たちはここでは自然法則と偶然にだけによる、デザインによらない、ダーウィン進化論や化学進化および宇宙の起源と発展についての自然主義的な理論を含むすべての進化理論を意味することにします。

自然主義/科学的唯物論(Naturalism/Scientific Materialism)

進化は自然主義と呼ばれる哲学に基盤としています。自然主義とは、(化学や物理における)因果律と効果がすべての現象について適切に考慮されていて、デザインや自然についての目的論的な概念は無効であるという主義です[11]。最後のフレーズは、証拠に基づく演繹の結果ではなく、原理的にデザイン仮説は先験的に無効だということを意味します。人間は自然現象として"発生した"ものであり、何らかの目的を以ってデザインされたり創造されたりしたものではないと信じろと言っているのです。デザインを除外すれば、自然主義の哲学は、いかなる自然現象の説明についても効果的に超自然的な説明を排除できます。実際、まさにこの自然主義の機能によって、あらゆる科学的説明から超自然の介入の可能性を排除しています。教皇ヨハネパウロ2世は「それらのインスパイアした哲学故に、進化論は ... 人間についての真理とは並び立たない。」と述べています[12]。

また、デザインに対するこの議論の余地のない仮定は「科学的唯物論」と呼ばれます。すべての現象、意識さえもが物質とエネルギーと物理的因果律の働きに還元されることを保証します。非物理的な意志の働きを反映するデザインは許されません。哲学者たちは自然主義や唯物論の多くの変種をカタログしていますが、デザインについては効力のある原因として拒絶しています。

自然主義的な世界観に対するコミットメントは、ハーバードの遺伝学者Richard Lewontin教授によって明確に説明されています:

一部の構成に明確な不合理があるとしても、健康と生命についての途方もない約束を満たせていないとしても、ただのお話に対する科学界の寛容性でしかないとしても、我々は科学の側をとる。それは、我々が優先するコミットメント、唯物論へコミットメントしているからだ。科学の方法論と慣例に従って現象世界の物質的説明を受け入れているのではない。むしろ逆に、我々が物質的因果律に対して先見的に支持するということは、たとえ直感に反していようと、初心者にとって煙にまかれたようなものでも、調査の仕掛けと物質的説明を作り出すひとまとまりの概念を創り出すことなのだ。さらに唯物論は絶対であり、神が足を踏み入れることなど許されない。

この声明は、インテリジェントデザインの反対者がいかに、起源科学について哲学的制約をおくことに伴う2つの中心的問題をさけていることを例証しています。

第一は私たちはすべての科学について議論しているのではなく、生命の起源と生物の多様性の起源について議論しているということです。何かがどう機能するかと、どう生じたのかはまったく別種の問題です。科学者が生物がどう機能するかを発見しようとしている普段の世界ではLewotinは正しく、超自然的な説明は出てきません。しかし、知的な力が生命の起源や生物の多様性の起源においてまったく働かなかったというのは明白に前提であり、実験で確かめることも、直接観察することもできない問題の多い主張です。第二は、"唯物論へのコミットメント"が有神論に対して与える明らかな影響をまったく無視していることです。おそらく、もっとも明確にいかに自然主義が科学を証拠に対して盲目にさせているかを表現しているのはカンザス州立大学の生物学者Scott Toddでしょう。彼は「たとえあらゆるデータがインテリジェントデザイナーを指し示していようとも、そのような仮説は自然主義的でないが故に、科学からは排除される。」[14]と言っています。つまり、ある特定の原理だけをあらかじめ想定し、それ以外をデータではなく定義で排除すると言っているのです。

実際には自然主義は主義か哲学と意味しているのですが、多くの科学者は、科学の"方法論"の一部にすぎず、ほんとうの哲学的な主義ではないと主張しています。この点からすれば、哲学的自然主義というよりは方法論的自然主義と呼ぶべきです。つまり、科学は自然を探求する方法論としてすべての観測された現象に対する可能な説明としての非物質的ないかなる力も排除するという選択をしているのです。これは最近、サイエンス誌(Scientific American)の編集者John Rennieが認めました:「近代科学の中心的な主義は方法論的自然主義である[15]。」哲学的自然主義と呼ばれようと、方法論的自然主義と呼ばれようと、それはいずれにせよ非物質的です:この主義の効果は、科学者だけではなく一般人も生命はデザインされていないというこの中心的な教義を信じさせるものなのです。

自然主義的仮定が主義ではなく証明されていない仮定として真に方法論的に使われているなら、そのことが適切に開示され、それを認めるかどうかは任意とすべきです。適切な開示とは、提示された歴史学的説明の信頼性へのこの仮定の影響と、データの選択と解釈に対してこの仮説がどういう形で影響するかが説明されることです。デザインに対する自然主義的バイアスの開示がなされていないのは、進化と起源についての科学の教科書やそのほかの出版物において、この議論が記載されていないことから証拠付けられます。一般向けサイエンスライターであるRobert Wrightが説明しているように、自然主義は「科学することの不文律」のひとつであって、わずかでも目的論(デザイン)的な響きがあれば慎重に排除することを要請しているのです[16]。この不文律を破れば、侮辱され、嘲笑され、職を失い、査読のある科学論文誌への投稿原稿を拒絶され、科学界から事実上破門される[17]のですから、このようなルールは承認が必要です。

科学界はスペインの異端審問との薄気味悪いほど類似しています。"ローマ教皇"が交付した規則と態度と信念を受け入れなければ、恐ろしい罰が待っています。実際には火刑にするわけではありません。というのは私たちの腰抜けの法律のもとではもはやそのような罰は認められないからです。しかし、そのかわりに確実にDead Duck[訳注: お陀仏がニュアンスとして近い]にします。[18]

この"ルール"が開示されておらず、承認が必要であることを、米国における科学の指導的な組織である米国科学振興協会(AAAS)が採択した最近の方針がおそらくもっともよく示しています。AAAS評議会は「公立学校の科学カリキュラムの一部としてインテリジェントデザイン理論を教えることを許可しようとする体制側に対して、全米の市民が反対するように主張しています[19]。デザインに拒絶している、議論の余地のない仮定へ言及することなく、世界に向かってデザイン推論を拒絶し、学校で議論することを阻止しようと主張しています。

インテリジェントデザイン(Intelligent Design)

インテリジェントデザインは宇宙と生命と生物の多様性の起源において知的な原理が重要な役割を果たしたかもしれないという科学的理論です。デザインは自然の中、特に生命システムにおいて経験的に検出可能だというのが論拠です。インテリジェントデザインは知的原理の探求と、現在の科学教育と研究において推進されている起源についての自然主義的な説明に対して異議を唱える知的運動です[20]。インテリジェントデザイン理論はインテリジェントデザイン理論家であるBaylor UniversityのWilliam Dembski教授により次のように説明されています:

インテリジェントデザインでは、知的原理にできて、何も指示しない自然原理でできないことを観察することから始めます。何も指示しない自然原理は、スクラッブルのピースをボードに置くことはできても、それらのピースを有意味な単語や文になるように並べ替えられません。有意味な並びを作るには知的原理が必要です。この直感が、何も指示しない自然原理と知的原理の本質的な違いであり、前世紀のデザインについての議論の基礎でした。

バイアスのかからない視点では、デザイン仮説は自然研究からの真の跳躍です。それは観測データに対する本能的精神的反応です。もっとも熱心な進化論生物学者でさえも、生命システムが何らかの目的のためにデザインされたかのように見えると認めています[22]。現在、インテリジェントデザイン科学者たちは、生命とその多様性が知的原理の産物であるかもしれないという仮説を経験的かつ客観的に検証し確認する方法を開発しています。彼らは肯定的な証拠を示してこの仮説(たとえば、細胞メッセージ伝達システムの存在)を採択するだけでなく、化学進化やダーウィン進化や新たな"自己組織化"理論たちを排除する証拠もさがしています。

創造科学(Creation Science)

創造科学は聖書の創世記に記されている字義通りの解釈を証明しようとするものです。創造科学は1982年のアーカンソー訴訟[23]の判例で定義されました。その訴訟では、地裁は"創造科学"を教えることは違憲であると判断しました。それが起源について創世記の事実上の言い換えであり、そのようなものを教えることは特定の宗教観を強要することになるというのが理由でした。似たような"創造科学"の判例が、エドワーズ対アジラード[23]裁判において最高裁判所での違憲判決で出ており、そこでもその理由は特定宗教観の強要でした。

インテリジェントデザインと創造科学の関係

インテリジェントデザインは創造科学ではありません。インテリジェントデザインは単に観測とデータ分析に基づく過去のある現象の直接原因についての仮説です。インテリジェントデザインはいかなる宗教経典も論拠にしないし、起源についての[創世記の]記述を証明しようというものでもありません。インテリジェントデザインの提唱者はインテリジェントデザイン理論が新たな証拠によって反証されるかもしれないことを認めています。

多くの宗教と非宗教の起源理論がその居所を見出せるかもしれない大きな住居(tent)のようなものです。インテリジェントデザインは、生命とその多様性が物質とエネルギーを操作できる力を持つ知性の産物であること以外に何も提唱しません。これは、"聖書に記された創造論"やイスラム教、アメリカインディアンあるいはその他の宗教的な遺産など創造主への信仰と矛盾しません。インテリジェントデザインは単純に、創造の理由は示しても誰が創造したかを示しません。それはインテリジェントデザイン理論家が隠された政策を遵守しているからではなく、データはその問いへの答えを裏付けるものではないからです。インテリジェントデザインはひとつの問いだけを指し示します:生命は指導された過程の産物なのか、指導されない過程の産物なのか? 生命が意志によるものなのか、無意味(意志なき)分子運動によるものなのか?

有神論の進化論(Theistic Evolution)

ギャラップによる過去20年の調査(表1)によれば、インテリジェントデザインという言葉知らないかもしれませんが、80%以上の米国人が何らかの形の神の指導する過程を信じています。これらの人々のうち約半分が「若い地球と文字通りの創世記」という見解を信じ、残りの半分が「有神論的進化論」あるいは「神に指導された(God-Guided)進化論」を信じています。

表1 ギャラップ調査a
創造科学b 有神論的進化論 神の導く過程d 無神論/自然神の進化論e 意見なし
1982 44% 38% 82% 9% 9%
1991 47% 40% 87% 9% 9%
1992 47% 35% 82% 11% 7%
1997 44% 39% 83% 10% 7%
1999 47% 40% 87% 9% 4%
2001 45% 37% 82% 12% 6%

a 項目欄はギャラップではなく著者が記述したもの
b 「過去1万年以内のあるときに人間を今の形で神が創造した」という文に同意した人
c 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたものだが、その過程を神が指導(guide)した」という文に同意した人
d 創造論と有神論の進化論の和
e 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたもので、神はこの過程に関与していない」という文に同意した人

進化を「時間につれての変化」と定義するなら、神はその変化を指示することができるので、神と進化論の両方を明らかに信じられます。しかし、正確にはその定義には批判的です。というのは進化を前述のように科学者が主張どおり(指導も計画もされない偶然)とすると、特定の結果を計画しないで単にさいころを投げる存在に他ならないと言う神を信じるという論理的なむつかしさがあるからです。従って、神がランダムな進化過程を使ったのであれば、定義により、それは無意味な(目的なき)、意図されない結果ということになります。「指導された(guided)、指導されない(unguided)」過程を信じるのは自己矛盾です。ケネス・ミラー教授はこのジレンマについて次のように論じています:


(カート) ワイズが明らかにしたように、進化論的生物学がキリスト教にとって真に危険なのは、大半の科学者がそうだと思っている理由からではありません。進化論版の自然の歴史が聖書の中心的な神話である唯一回の創造と洪水を脅かすことではないのです。むしろ、生命が本質的に無意味(目的がない)であると人々を納得させてしまうかもしれないという、凍りつくような予見です。宇宙に目的がないなら、意味もなく、絶対的なものもなく、存在意義もないのです[26]。


科学と宗教を"重複のないmagisteria"し、2つを完全に分離された、異なる"知り方"と定義して、両者を調停しようとしている人々がいます[27]。このコンセプトによれば、科学の機能とは現実の"客観的"な知識を与えるもので、宗教は"主観的"な霊的な印象を取り扱います。しかし、ここで試みられた区分は、同じ問いに対して両者が答えを提示したときだけmagisteriaが重なるので、むしろ問題を悪化させます:「我々はどこから来たのか」という問いに対して、有神論は人間が何らかの目的のためにデザインされたと答えますが、科学はデザインや目的は幻想であると主張します[28]。混乱の深さを示す最近の例では、米国長老派教会(PCUSA)が採択した決議があります。その決議では"進化"は"創造者としての神"と両立すると言っています[29]。問題は、この決議において"進化"という言葉が定義されていないことです。もし、進化をPCUSAが「時間につれての変化」の意味で使っているなら、この声明は正しいかもしれません。しかし、進化が「指導されない、盲目の、意図されない変化」であるなら、この声明は論理矛盾です。

理神的進化論者は、自然の中にデザインの証拠がないので、神への信仰は"自然の事実(revelation)" すなわち、自然の中にある神の証拠には依拠できません[30]。キリスト教の記述によれば、自然の中に現れるデザインは現実のものです。従って、理神的な進化論者には、信仰のバイアスとして主観的個人的な霊的体験だけが残されます。論理的には理神的進化論者を事実上、厳密なダーウィン進化論者と区別できません。生命が何かにデザインされたものだと信じる有神論の進化論者はインテリジェントデザイン理論にその論拠を見出すでしょう。

Richard Dawkinsは、有神論と自然主義を融合させる試みはまさしく「洗練された神学のロビーに言い寄って、我々のキャンプに引き入れて、創造論者を別のキャンプに移す試みだ。これは政治的には正しいが、知的には正しくない。」と言っています[31]。

デザインの検出


インテリジェントデザイン理論の中心的な主張は、デザインが経験的に検出可能だということです。ほとんどの人々にとって、デザイン検出は熟慮することなく起こる直感的な過程です。これは、200年以上前にWilliam Paleyが彼の本「自然神学」[32]において最も見事に説明しています。田舎を歩いていると、彼はしょっちゅう石が地面にあるのを見ました。もし、彼が少しでも考えるなら、彼は単に物質的な力で形成された自然物がそこにあると結論するでしょう。しかし、もし懐中時計が草の上にあれば、それは知的な出所で作られたものと彼は結論するでしょう。何故でしょうか?それは、彼はそれを調べて、石と違って、それは時を刻むという目的を果たすために 複数の微細加工された相互作用する部品がともに働いている時計であることを発見するからです。彼は直接的なステップ・バイ・ステップの科学的過程によらずに結論に達し、そのようなシナリオは容易に想像でき、彼の結論はどんな理性的な人からも異議を申し立てられることはありません。彼はただ、それがデザインされたものであることを"知った"だけです。もし、Paleyが地面に携帯電話が落ちているのを見つけたら、彼は、その用途はわからなくとも、やはりそれがデザインされたものだと結論するでしょう。空から落ちてきたコーラのビンが「神は気が狂っているに違いない」とアフリカの部族に大混乱を起こさせた映画を思い出しましょう。一人の意志は、他の意志による創造的活動を"感知"できるのです。

この直感は人が造ったものに対しては有効に機能しますが、それが人の手によらないことが明らかにわかっている生物に対して適用できるでしょうか?言い換えると、生物学に適用できるでしょうか?ヒトゲノムプロジェクトの指導的科学者の一人であるGene Myersは、2000年にインタビューで「ほんとうに私にとって驚異なのは生物の構造です。そのシステムは非常に複雑です。それはデザインされたかのようです.... なにか巨大な知性がそこにあります」[33]と言っています。マイヤーズの直感が正しいとどうやったらわかるでしょうか?そして、彼(そして私たち)の心は私たちをだましていないでしょうか?私たちの直感が間違っていたとしたら、生命システムに私たちが見出したデザインは、進化生物学者たちの言うように幻想なのかもしれません。私たちの直感をチェックあるいは確認する方法はないでしょうか?

デザイン検出の方法

もし私たちが、ある物体あるいは現象がデザインされたものかどうか科学的に判定しようとするなら、直感以上の、使い勝手のよいものが必要です。私たちには、問いに対して形式化された客観的かつ系統的なアプローチが必要です。これはまさにWilliam Dembskiが探求を始めているものです。彼の本「The Design Inference」[34]で、Dembskiは「デザイン検出フィルタ」を使ったデザイン検出方法の概要を述べています。「あらゆる(過去あるいは現在の)現象やパターンそして物体について説明原理が3つだけ、偶然と必然(自然法則)とデザインがある」というのが、その論理的な構成です。自然主義仮説は生命の起源と生物の多様性に偶然と必然とだけが働いたと仮定しますが、デザイン仮説はこれら3つすべたが働いたかもしれないと仮定します。デザインの検出は本質的に、デザインが支配的であり、偶然と必然を排除する証拠を探すことになります。

Dembskiのフィルタの適用方法は、まず、問題となるパターンが、そのパターンを形作る個々の要素の意味あるいは意義とは独立な機能や構造あるいは目的を表しているかどうかを、まず問うことから始めます。たとえば、パターン"DESIGN"は、このパターンを構成する個々の文字の意義あるいは意味とは独立に認識できる意味を持っています。Dembski教授はこれを、"指定(specification)"と呼びました。文字列"NDISGN"は意味を持たないので、従ってデザイン推論を支持しません。

次のステップは、この明らかに意味のあるパターンがなんらかの法則や規則によって説明できるかの判断です。そのパターンはそのようになる必然性があるのか?そのパターンを形作る要素は、特定形状をとる必然性があるのか?もうしそうなら、それはデザインだと推測できないかもしれません。

そのパターンが必然でないなら、最後のステップ、そのパターンが偶然によるものなのかの判断に進みます。そのパターンが比較的単純であれば、それは偶然の産物であると合理的に説明できます。しかしながら、偶然で説明できないほど複雑であるなら、デザイン推論が正当となります。フィルタによりデザインされたと判断されたパターンは、Dembskiが"指定された複雑さ(specified complexity)"と呼ぶものを表しています。デザイン推論は複雑さとともに指定(specification)も要件としています。独立に与えられたパターンとマッチしなければなりません。

“TDlPH,B;5H;Nn;E/”は複雑なパターンですが、指定(specification)を欠いていて、意味を持ちません。浜辺の波のパターンは規則正しいですが、複雑さを欠いています。同様に、パターン"DESIGN"は指定されていますが、たった6文字であり、十分な複雑さを欠いていて、偶然ではなく目的をもったものだと自信を持って結論できません。
他方、ゲチスバーグ演説は複雑さと指定を併せ持っています。以下の3つの原理について議論により、読者はこの重要なコンセプトがよくわかるでしょう。

3つの説明原理

偶然。現象は偶然で起こりえます。偶然の現象は a)予測できませんし、b) 意図あるいは法則で制御できません。
カジノで遊んだり、トランプをしたり、コイン投げをした人は誰でも、偶然の意味を知っています。統計計算することで、私たちは、それがいつ、どこで起きるかはわからないが、与えられた現象が起きる見込みを予測できます。たとえば、スクラッブルの26個のパイが入った袋(英語のアルファベット各文字が1個ずつ入っていて、1個取り出されたら同じ文字のパイを補充するものとします)から目を閉じて1個取り出して、"DESIGN"という単語を綴れるのは、どれくらいの確率でしょうか?これは計算できます。1文字目に"D"を引くのは1/26です。"DE"と続けて引くのは1/26^2 = 1/676です。従って、袋から取り出してD-E-S-I-G-Nと綴れる確率は1/26^6 = 1/308,915,776 (=10^8.5) です。簡単に(少し不正確ですが)言うと、3億900万回、6個のパイを引くと、1回は"DESIGN"という単語を綴れることになります。これはたった6文字のパターンです。もし、"HAMBURGERS"と綴りたければ、141兆回(つまり、最初の1回で綴れる確率は1/10^14です)かかります。[訳注: この説明は確率論的には正しくない。141兆回では36.8%の確率で1回も綴れない。]  明らかに、パターンが複雑になれば、偶然で綴れる可能性は指数関数的に小さくなります。ほとんどの科学者は、発生確率1/10^150以下なら、それは事実上不可能だと認めています[35]。

必然(あるいは自然法則)。現象もしくはパターンあるいは物体は必然的に生じることがあります。必然的現象とは、化学や物理の法則により起こされるものです。塩の結晶は、意志からの直接の入力なしに偶然と必然とだけで構成されるパターンの例です。ナトリウムイオンと塩素イオンの溶液が過飽和になると、正の電荷を持つナトリウムイオンは負の電荷を持つ塩素イオンと結合して立方体の結晶構造を形成します。大陸を横切って流れる河は、重力の法則と物体(水、岩など)の存在によってその方向を規定されます。

デザイン。現象あるいは物体またはパターンの3つ目の可能な原理はデザインです。デザインされた現象あるいは物体またはパターンは、意志あるいは知性によって本来考えられ、目的を以って物質とエネルギーを操作して創られたものです。歴史上、人間が作ったものはすべて、デザインの結果であり、意図されたものです。まさに、このドキュメントは、多くの現象(文字、数字、句読点のユニークな並び)のパターンで構成され、インクと紙と言う物質要素を使って、意志によって配列されたものです。デザイン(言語と単語の選択)と必然(インクが紙につく)がこのドキュメントを生成(Cause)しています。自然は人間と人間でないものの"意志(mind)"に満ちていて、一部の科学者たちは異星人の意志を探しています。従って、過去に作用したかもしれない未発見の意志の存在を仮定することは不条理ではありません。

多くの人々が認めていて、議論するまでもない科学的方法は、デザインの検出や、現存する証拠の検証によってインテリジェントエージェントの過去の行動を推論といったものに依拠しています:
  • 事故死(偶然あるいは必然)なのか意図的(殺人)なのかを判断するための調査を行う科学捜査
  • 文字列パターンがメッセージを含んでいるのか、単なる無意味な雑音なのかを調べる暗号解読
  • 人工物が人間によって創られたのか、自然にできたのかを調べる考古学
  • 火災が意図的(デザイン)よるものなのか、擦り切れた電線(偶然か必然か)を黒焦げた燃え残りから明らかにしようとする放火捜査
  • 著作物が偶然に誰かの作品に似てしまったのか、意図的なものかを科学者が調べる著作権侵害と盗作

地球外知性探索 (SETI)

デザイン検出のもっとも明確な例がSETIプログラムです。SETIプログラムでは知的な発信源からの信号パターンをさがして、電波望遠鏡で全天を系統的にスキャンしています。これのフィクション版であるカール・セーガンの本(および映画)「コンタクト」では、研究チームが実際にパルス(1)と休止(0)で、最初の25個の素数(2から101まで)のパターンを繰り返すパターンを発見します。彼らは「ユーレカ!! 我々は見つけた!」と叫びます。では、何故彼らはそう結論するのでしょうか?あふれる歓喜の声は正しかったのでしょうか?このパターンをデザイン検出フィルタにかければ、これがデザイン推論を科学的に有効と判断できるでしょうか?

ステップ 1.
その信号系列がそのパターンを構成する個々の記号の意味とは独立にメッセージあるいは意味を持っているでしょうか? YESです。パルスあるいは休止は独立した意味を持っておらず、パターン(素数系列)だけが意味を持っています。

ステップ 2.
その系列は既知の物理法則に規定されたものでしょうか?そうなる必然性があるでしょうか?NOです。

ステップ 3.
その信号系列が偶然にできる確率はどれくらいでしょうか?これだけを考えるなら[36]。これは簡単に計算できます。パルスと休止の2種類、YESとNO、0と1です。そして、1126個のイベント(パルスか休止)が信号系列にあります。なので、偶然にできる確立は2^1126回に1回、あるいは10^338回に1回の確率です。この数字は10^150よりもはるかに大きいので、この意味あるパターンの合理的な原因として"偶然"を排除できます。では何が残るでしょうか?原理は3つしかありません。デザインと偶然と必然です。偶然と必然を排除して、デザインと言える意味を見出したので、私たち(とSETI研究者たち)はパターンの発信源の(現在の)最も適切な説明は意志であると結論できます。ユーレカ!!

SETIからDNAへ

SETIの例で示した論理が科学的に有効なら(この結論に合理的な人がけちをつけなければ)、私たちはまったく同じ方法を自然にある対象に適用できます。フィルタにかけてデザイン推論に至るのであれば、私たちはもっとも合理的な結論に自信を持てます。では、外宇宙を離れて同じくらい深い内宇宙、生命の最小単位の中心、細胞へと話を移しましょう。ここで、私たちは地球における既知の最古の有機生命であるバクテリアに注目しましょう。バクテリアは地球がいかなる生命にも居住可能になった頃から、未知の自然の過程で出現したと仮定されています[37]。私たちは何を見つけるでしょうか?私たちは、生命に必須な化学物質である、すべての細胞蛋白質を統合する命令を持つ巨大な図書館をバクテリアに見出します。DNAは非常に長い分子(最も単純な細胞であっても、400万"字"以上の長さ)で、コード化されたメッセージを含んでいます。それは図書館の本のように整然と並んでいます。本は、文字から構成され、文字はつなげられて文になり、分はパラグラフ、章、そして本全体となります。最も単純な細胞にもこのようなDNA"本"が何百とあります。細胞内のDNAの発見は、外宇宙から届いた素数列の発見と同様に、"ユーレカ!"と叫ぶに値するものでしょうか?フィルタにかける必要があります。

ステップ 1.
DNA列は意味を持っていて、目的を持っていますか?YESです。細胞の生命機能を実現する分子機械を組み上げる命令列を与えます。それぞれのDNA"文字"はまったく意味がなく、その文字の連鎖、系列、パターンに意味があります[38]。意味はここの文字の意味とは独立です。英語のアルファベット文字列が意味を持つのと同じように、これらのパターンは機能します。

ステップ 2.
その信号系列は物理法則に規定されていますか?NOです。もし法則が系列を支配しているなら、その系列は意味を持ちえません。何故でしょうか?英語で文を書くとき、すべての"a"の次には"b"がこないといけないでしょうか?"c"を"b"の後の持ってこさせる法則があるでしょうか?もちろんありません。もしあれば、私たちはどんな単語も綴れず、言語を記述できません。どの文字もどの文字の後に使ってもよいので、アルファベットは言語、すなわちコミュニケーションの手段として使えるのです。DNAでもそうです。文字の並びが化学法則にしたがっているなら、生命に不可欠な膨大な情報を運べません。どの遺伝子文字もどの遺伝子文字の後に来てもよいので、遺伝子は地球上の生命の多様性を実現するに必要なだけの無限の命令列をゲノムが記述できるからです。例外があることが不可欠であり、法則では規則正しいものしか作れません(だからこそ法則と呼ぶのですが)。

ステップ 3.
偶然に最初の細胞にDNAが組みあがる確率はどれくらいでしょうか?自己複製する機能を実現するだけの最低300個の遺伝子が、最初の細胞に必要であると仮定します。偶然だけで100個のアミノ酸を作る遺伝子コードが組みあがる統計確率は1/10^190 のオーダーだと計算できます[40]。従って、私たちの答えはNOで、機能を持つDNA連鎖が偶然に出現する確率はゼロと考えられます。

私たちはデータと事実からもっとも論理的な結論に至りました。それは、最初の機能する細胞にあるDNAが運ぶメッセージは知的な源に由来することの証だと言うことです。有意味な信号系列が外宇宙で発見されれば、それは"知的異星人"の存在を強く示唆します(いまだ見つかったことはありませんが)。それは生命が他の惑星に出現したことを示唆するので、これは科学的に認められうる推論です。他方、もっと複雑で意味のある"信号"が現に生きている私たちの体内で見つかれば、それは知的な源に由来するのでしょうか?インテリジェントな原理が生命の起源において働いたこと(Causes)を拒否する哲学たる自然主義哲学が科学を支配している限り、このような推論は認められません。

自然主義が正しいなら、DNAが自然法則と、私たちの分析では不可能と言えるランダムな変化によって、形作られたことになります。これは自然主義を厳守することによって起きる問題であり、だからこそこれが科学的に逆効果だと信じているのです。





最終更新:2009年08月12日 07:14