インテリジェントデザイン:進化論の科学的代案


インテリジェントデザインを支持する証拠


デザイン理論に対する証拠は、デザインを肯定する証拠と、自然主義理論を否定する証拠から構成されます。前述のように、もし2つしか可能な説明方法がないなら、一方に否定的な証拠は、他方に肯定的な証拠となります。

外見のデザイン(Apparent Design)

おそらく、もっとも直接かつ無視できないデザインの証拠は、生命システムのデザインの外見です。私たちが矢尻をみつけたり、人間の眼を研究したりするときに直感的にその証拠を存出します。宇宙のデザインについて、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、ベーコン、ボイル、およびアインシュタインにさえ納得させた証拠です。 つい最近まで、科学の基礎は外見のデザインが構成していて[41]、それはRichard DawkinsやGene Myers(前述)が生物学にデザインを見出したのも、この直感です。

科学において、もっとも明白でもっとも単純な説明は、ふつうまっさきかけて受け入れられますが、新しいデータによって異議を唱えられるかもしれません。そのようなデータ(ヒントでも、示唆でも、希望的観測)によって、実際に元の仮説が反証されるまで、その仮説は破棄されるべきではありません。記録に残っている人類の歴史の最初の4000年では、デザイン仮説は事実上、普遍的に受け入れられていました。そして科学者の仕事は、この世界がどう生まれたかではなく、創造された世界がどう機能するかを発見することでした。18世紀半ばにヒュームはデザイン推論の論理に異論を唱えましたが、代案は提示しませんでした。Darwinは対抗しうる自然主義仮説という代案を提示しました。当時の多くの人々は(彼と同じく生命の新の複雑さをまったく知らなかった)はすぐに受け入れました。しかし、(特に20 世紀後半の)近代科学は、細胞(と宇宙)の構造と機能の度肝をぬくような複雑さを発見しました。これらの発見により、科学者たちはデザイン仮説のメリットを再考するようになりました[42]。

還元不可能な複雑さ(Irreducible Complexity)

生命の起源に対する"法則と偶然"という説明は、細胞の複雑さという本質に関わる観測の観点からはもっともらしくありません。生物化学者 Michael Bahe [訳注:Dr. Dembskiと並ぶインテリジェントデザイン理論家]は、生物の多くの生物学的メカニズムは還元不可能な複雑さを持っていると主張しています。この還元不可能な複雑なシステムとは「ひとつの基本機能をよく調和して相応作用する複数のパーツから構成されたひとつのシステムで、パーツのひとつでも取り去ると、機能しなくなるもの」です[43]。"還元不可能"という形容詞は、より複雑なシステムへと組み上げられる、より単純な機能を持つシステムに分解できないことを意味します。

Dr. Beheは還元不可能な複雑な生物学的システムの例としてバクテリアのべん毛をあげています。この生物機械は高速ロータリーモーターであり、プロペラを回転させて、バクテリアを食物の方へ、あるいは危険を避ける方へ動かします。それの組み立てと動作には少なくとも40個の、とても複雑で、結合されて、動くタンパク質部品が必要であり、一方それは、もっとも原始的な細胞の完全に機能するコンポーネントだと信じられています。全部の部品が同時にそろわない限り、それは動作しません。個々の部品がばらばらではダーウィンの自然淘汰は効かないので、自然淘汰によってこのような機械は作れないとDr. Beheは主張しています(それらの部品には、オリジナルよりもよく機能して自然淘汰で選択されるような生存に有効な機能を持っていません)。Dr. Beheによれば:

還元不可能な複雑なシステムは直接的に、変化前の形態から漸進的な変化(すなわち、初期の機能を、継続的に発展させつつ、同じメカニズムが機能し続ける)によって作れません。それは、いかなる、変化前の形態から還元不可能な複雑なシステムへ変化しつつあるとき、欠けた部品があれば定義上、機能しなくなるからです。還元不可能な生物学的システムが、もしあるなら、ダーウィン進化論に対する強力な反証となります。自然淘汰では既に機能しているものだけが淘汰の対象となるので、生物システムがもし部品が徐々に組み上げられて出来上がるわけにはいかない。従って、自然淘汰が影響するためには、一気に組み上げられなければならないでしょう。

自然法則と偶然だけではひとつの細胞にある、高度に複雑で統合された複数のコンポーネントから構成されるマクロ分子機械のひとつのタンパク質部品でさえも組み上げられたことはありません[45]。現象の準備と調整を知覚、決定、計画、支持する意志の機能がなければ、偶然と必然は概念だけであって創造的には無力です。

生物学的情報(Biological Information)

生命システムは膨大な量の情報(DNAなど)によって特徴付けられます。意味のある特質を持つ情報を生成できるような物理および化学法則あるいは過程は知られていません。複雑さなら可能ですが、情報は不可能です。意味のある特徴は物質あるいはエネルギーだけからは発生しません。意味を作り出せるのは、私たちが経験的に知っている限り、意志のみです。たとえば、"SGIDNE"という文字列は意味を持ちません。しかし、同じ文字を並べ替えて、"DESIGN" とすれば、物質ではなく意志に由来する新しい意味と情報を持ちます。これは天文学者 Paul Davisの説明です:

雪の結晶は六角形の特定形状に文法的情報を含んでいるが、これらのパターン、その構造自体の背後には意味のある情報やいかなる意味も持っていない。これに対して、生物学的情報の特徴的な性質は意味を十分持っている。DNAは機能をもつ有機体を作るために必要な命令列を構成している。明示され予め定められたものを作るための青写真なるいはアルゴリズムを。雪の結晶は、何も象徴するコードを持っていないが、遺伝子は明らかに持っている。生命を説明するのに、自由エネルギーや負のエントロピーの源泉を特定するだけでは、生物学的情報を作り出すに不十分だ。我々はまた、いかにして意味ある情報が出現したのか理解する必要がある。それは情報が単に存在するのではなく、情報の質が真のミステリーなのだ[46]。

生物学的システムの人間の創ったシステムの類似性(Similarities in Biological and Human-Made Systems)


ダーウィン進化論と"創造"する進化の力を支持する人々は類似性の議論に大きく依存している。生命形態によらず分子は類似しており、異なる動物のボディプラン(形態の設計)は類似しているなど。もちろん、類似性は同様に、共通のデザイナーを示唆し、それによって進化論者は生命の可能性としてデザイン(哲学ではなく証拠に基づく)の可能性を排除できません。科学者は多くの生物学的システムが人間が作ったシステムと同じ特徴を持つことを発見しています。ひとつの例はモールス符号のコンセプトと遺伝子コードの類似です。実際、後者は人間が作ったコード化システムのアナロジーとして発見されました[47]。ファルコン(ハヤブサ)は その名を持つF-16 ファイティングファルコンよりもはるかに複雑であり、バクテリアのべん毛を動かすナノスケールのモーターは人間が作った電動モーターよりもはるかに高性能です。人間の作った複雑なマシンと生体分子機械および情報処理システムの類似性は、デザイン仮説を支持します。もし、"類似性"がダーウィン進化論が認められる証拠であるなら、それはデザイン仮説にとっても同様です。

突然の多種の化石の門の出現(Abrupt Appearance of Fossil Phyla)

ダーウィンの自然淘汰は生物の形態の変化が長い時間をかけて徐々に小さな変化を蓄積することで起きると仮定しています。しかしながら、化石の記録はこの推測と矛盾しています。現在の証拠は、最初の生きている細胞は地球の気温が生物が居住可能なレベルになった直後(数百万年)に出現したことを示唆していることから始めましょう[48]。科学者ははじめ、生命の出現には数十億年の時間がかかると推測していましたが、バクテリアの出現は、地球の気温が沸点以族になってから次第にというよりは、直後に突如、生命が出現していました。40種以上の新しく異なった生命が5億5000万年前の「カンブリア紀の爆発」に登場しています[49]。事実上、すべてのボディプランが同時に出現したことはダーウィンの進化論と矛盾します。Stephen J. Gould とNiles Elderidgeは、生命形態の突如の出現を"説明"するために"断続平衡説"を提案しました[50]。残念ながら、それは何も説明したことになりません。誰もみていない間に進化が起こって、動物の変化が急速すぎて化石を残すのに十分な時間がなかったか、化石となるには中間種の個体数が少なすぎるかと仮定しただけです。これは証拠ではなく、希望的観測であり、突如の大きなスケールのゲノムの変化を指示する生物学的メカニズムは知られていません。インテリジェントデザイン理論は変化の速度についてではなく、生命の発展の制御についての理論なので、ゆるやかな生命の出現と突如の生命の出現のいずれのケースに対しても、対応できます。

インテリジェントデザイン理論は、どんな進化論の過程も多様な種の起源に関与していないとは主張しません。インテリジェントデザイン理論は進化が生物の多様性を説明するには不十分であると主張しているだけです。

多くの宇宙物理学者と宇宙論者は、長年、宇宙が「微調整された」ように見えると認めています。「微調整された(これはデザインと同義語)」とは、非常に正確で複雑にバランスした物理法則の基礎をなす数値定数の存在していることを指しています。重力、電子の質量、陽子の電荷などが特定の実現値です。それらがわずかでも違っていたら、生命どころか、いかなるものも存在し得ないでしょう。Martin Reesは観測された「微調整」を満足する解は2つしかないことを認めています。そのひとつはデザインであり、もうひとつは私たちの宇宙が無限の独立した並行宇宙のひとつであるとして、私たちの"微調整"された宇宙の存在確率を上げるというものです。自然主義に傾倒する者として、彼はデザインという結論を避けるために、見ることも存知することもできない証拠のない複数の宇宙の存在に頼っています。数十億あるうちのひとつの平均的な銀河系の裏庭にあるちっぽけな恒星のまわりにあるちっぽけな太陽系のちっぽけな惑星という存在からかけ離れて、宇宙における地球の位置がとてもユニークである[52]という証拠が提示されました。その結果、宇宙の「微調整」と地球の位置に関する証拠はデザインを支持する証拠となります。

インテリジェントデザイン理論についてのこれらの兆候と証拠に加えて、反論を支持しない発見がありました。これらはさらにデザイン理論の立場を強化します。

統計的研究(Statistical Studies)

数学的な分析は、複雑な生物学的システムを偶然を基礎としたダーウィンの進化論で作ることは想像を絶するありえないことだと示しています。(数千の他の生物分子に触れるまでもなく)遺伝子コードの統合はありえないとNoam Lahav, Walter Bradley and Charles Thaxton, and Robert Shapiro[53]も論じています。

誤って伝えられる証拠(Evidence Misrepresented)

"Icons of Evolution"と題した最近出版された本には、米国で使われている其科書に見られる、進化についての誤解させるような学説について詳細に記述しています[57]。"Icons of Evolution"は誤報に焦点を合わせていますが、その厳密な分析は進化論に関する多くの重要な問題点を指摘しています。


デザイン理論に対する反論


デザイン検出方法を生命システムに適用すると、それらがデザインされたと結論されますが、誰もが同意するわけではありません。従って、無神論者として、デザインに対する最も有名な批判者である、オックスフォード大学のRichard Dawkins教授はインテリジェントデザイナーが存在する可能性を認めません。生命におけるデザインは見かけだけ、ただの幻想だと言っています [58]。Dawkinsにとっての真の"デザイナー"は、ダーウィン進化論の具全と必然たる盲目の時計職人です。彼の結論は、彼が証拠として選んだデータと同じくらいに彼の哲学的な先入観に依拠しています。

明らかに、インテリジェントデザインに対する最も一般的な批判は進化論を支持するために集められた証拠です。 一般に、それは次のような観測結果です:
  1. 化石は存在している。これは地球の歴史において非常多くの種類の形をした生物が存在し、後に出現したものが初期に現れたものより複雑であることを示している。
  2. Darwinの自然淘汰は自然の中で観測できる。種族の中で、病気で弱く老いたものから淘汰され、敏捷なものが生き残る。
  3. ある毒(抗生物質)の中で培養されたバクテリアは、DNA(したがってタンパク質も)を変化させて、毒素に対する耐性を身につけ、生き延びる。
  4. 多くの動植物が、人間によって品種改良され、DNA構造と彼らの物理的な形態変えられた。従って、生物の形態は不変のもの(Darwinの時代には広く信じられていた)ではなく、(少なくとも知的な存在の指示のもとで)変化する。
  5. 種を超えた体の形状や特に生物分子の類似性は、共通の祖先がいたことを示唆している。

さらに、自然主義者はこのリストに、インテリジェントデザイン理論が示唆するデザイナーを誰も見ていないという事実を加えるでしょう。従って、デザインの証拠はないと。しかし、ストーンヘンジのデザイナーを誰も見ていませんが、誰も南イングランドにあるこの岩石のリングが知的にデザインされたことを疑いません。さらに、最初の生命の誕生とそれに続く多くの変化における意志なき進化過程が機能するのを観察できるわけでもありません。だから、デザイナーを見られないという反論は弱いのです。しかしながら、この反論をするにあたって、ダーウィン進化論者は、科学的に発見に中心的な論理構築の道具を知っています。理論Aを支持するデータは、理論Aと無矛盾でありかつ、競合する理論Bと矛盾するはずだということを。実際、事実上、ダーウィン進化論を実証するのに使われる観測はすべて、インテリジェントデザイン理論も実証するので、どちらが正しいか証明できません(後述)。この事実が一般あるいは学校生徒に公開されておらず、Darwinが正しく実証されており、従って事実であるという間違った印象を与えられたままになっています。話の半分だけしか伝えないのでは教育は教化にしかなりえません。

Darwinは科学界を種の不変性という誤った考えから、きわめてうまく解放しました。それは、彼が動物は(少しは)変化するということを示したからです。これは新しいアイデアではありませんでした。人々は数世紀にわたって品種改良を続けてきたからです。 Darwinのアイデアが新しい点は、変化に限界がなく、ランダムな変化に自然淘汰がはたらくことで、共通の祖先からすべての生物が生まれたという命題を導けることにあります[59]。これらの仮定は、データからかけ離れた途方もない信念の飛躍です。しかしながら、彼の論理は、宗教優位の息苦しい狭窄から解放されるのを切望していた19世紀の聴衆には無視できないものでした。教会の権威は結局は創造主の存在に依拠しており、その存在は生物界自体によって証明されているものでした[60]。もし、Darwinが正しいのであれば、科学は聖書が間違っていることを示したのだから、その証拠による圧制はやみました。

(教科書からテレビまで、日々私たちの文化を満たしている)自然主義仮説を立証する支柱についてさらに説明する必要がありませんが、自然主義が幾つかの重要な"自然"現象を説明できていないことを指摘しておく必要はあるでしょう。たとえば、宇宙の起源、宇宙の法則と定数の起源、生命の起源そして、還元不可能な複雑さの起源。自然主義的科学者は、自然とこれらを一時的に問題とみなします。というのは、科学の歴史は、いったんはミステリーだとされた現象も最後には"自然に"説明がつくという例に満ちているからです。確かにこれは明らかに真実ですが、リアルタイムに、関連変数を完全に制御できる条件で実験ができる実証科学や実験科学などにおける進展であることを忘れてはいけません。それはまた、型破りなことを考えることを推奨するフレームワーク内で実行されています。方法論的自然主義は起源を考える自由を制約します。

インテリジェントデザインは「科学の停止装置」か、"God of the Gaps"理論か?

批判者はそのように非難しています[61]。地球が丸いという発見は「科学を止めた」でしょうか?病気の病原菌病原説や、鉛から金を創れないという発見はどうでしょうか?これらの発見は科学の発展を止めたでしょうか?これらは真理の発見であり、したがって、科学的探究をある意味、止めました。彼は、自動車のキーが見つかれば、キーを捜すのをやめるのと同じ意味で、科学的探求を止めたのです。それ以上の探求の必要がなくなったからです。何故、私たちがポリオ防止方法や自動車の発明に資金を出さないかと言えば、それはもう答えが出ているからです。インテリジェントデザイン理論が正しければ、生命とその多様性は未知の知的存在によるものであり、そうなれば、(重力と同じく)それを所与のもととして、反論を証明するのをやめて、生命がどこからきたかではなく、生命がどう機能するかの発見に研究を努力を費やすのが、知的対応です。たとえば、遺伝学の分野では、ゲノムがどれくらい可塑であるかを探求すればよいのです。自然な変化の限界がどこまでで、遺伝子の知的な操作によって、どこまで限界を拡張できるか?遺伝子の挿入と削除でリスをシマリスに変えられるか?遺伝病を治療できるか?そのような有益な発見につながる問いに、注力すべきなのです。私たちの立場から見れば、貴重なリソース(とお金とキャリア)を、仮定が間違っているかもしれない、進化によっていかに私たちが生まれたかを探求することに振り向けるのは、恥です。

科学を前もって決められた採用可能な説明のセットに限るなら「自然な説明はがなければどうするか?」と自然と問うことになります。実際、DNAは知的存在によるものならどうでしょうか。科学は永遠にこれに気づかず、存在しない自然主義的答えの探求に知的資源と金銭的資源を浪費し続けるでしょう。科学の発展は袋小路の発見と間違った理論の排除に大きく依存しています。これが科学の働き方であり、インテリジェントデザイン理論は科学的探究を抑えるのではなく、推進するものと見るべきです。たとえば、最近公表されたコンピュータシミュレーションは知的入力なしに生命がいかに進化するかを説明するものえあり、これは反対の立場にあるインテリジェントデザイン理論の科学的挑戦に触発されたものです[62]。

インテリジェントデザインは"god of the gaps"理論でしょうか? 自然法則と偶然によって説明できないものは何でもデザインだとインテリジェントデザインは提案したと告発されました。従って、私たちの知識の隙間はすべて神によるデザインだと。それにはあたりません。指導されない自然の過程でそのパターンあるいは物体を創れないかを(想像ではなく)論証して、明らかなデザインや意味がそのパターンに欠けていることを示せば、デザイン推論を反証できます。日々、SETI研究者は電波に隠されたメッセージ(デザイン)がないか検証し、いまだ信号がある例を見つけていません。他方で、競合する仮説としてのデザインではなく、自然主義的説明が"chance of the gaps"あるいは"environment of the gaps"な説明をしています。今日、自然法則と偶然で説明できないことは何でも、(無限の並行宇宙のような)確率のリソースをインフレさせる法則や方法を見つけて、明日には自然法則と偶然で説明できるようなると。それ以外に許されないという理由で、そのような自然法則や偶然による説明があるはずだと。

インテリジェントデザインは科学の停止装置でしょうか。いいえ。真の科学の停止装置はデザインを哲学のようなものとして排除する方法論の自然主義です。

インテリジェントデザインは宗教であって、科学ではない?

起源の問題への科学的研究法を適用すれば、インテリジェントデザインが科学であるが明らかになります。デザイン推論は宗教テキストではなく、本当にデータに基づいています。これはディベートの経緯が証拠です。Richard Dawkinsが説明するように、ダーウィン理論は、彼の時代に支配的だった生命システムがデザインされたように見えるという信念への対論としてつくられました。デザインに反対するのがDarwin(そしてDawkins)にとって科学的だというなら、それに同意しないことが科学的です。デザイン理論は一般真理を探究するという科学の伝統的な定義と矛盾しません[65]。

科学組織やその他の組織はデザイン理論に対する数多くの反論をあげて都合よく進化論に生命の起源の説明を独占させようとしてきました。ひとつの反論はデザイン理論が検証不可能で、予言不可能だとうものです。前述のように、デザイン推論は他の伝統的なすべて科学においてつかわれる検証テクニックによって検証できるかもしれません。よい例がSETIプログラムです。さらに、進化論は競合する理論と対比され、比較検討されねばならず、インテリジェントデザイン理論はその起源科学の部分を担います。

デザイン理論は予測をしないで、科学的でないと主張している者もいます。まず始めに注意すべきは、進化の定義そのものが予測不可能です[66]が、デザイン理論は実際に予測可能なことです。たとえば、ゲノムはある目的のためにデザインされており、ジャンクDNAと呼ばれる部分にも機能があると予言します。そして、この予言は最近実証されました[67]。

インテリジェントデザインは生物学的システムが、偶然と法則によるもではなく、意志によるものだと仮定します。この予言は日々、生化学者が生化学機械の"リーバスエンジニアリング"をしようとするとき使います。すなわち、それらのアーキテクチャに組み込まれたデザインの決定事項をさがすことになるからです。William Harveyはデザイン理論を使って、心臓と静脈および動脈の構造を基に、血液がどう循環するかを発見しました。そのようなデザインに対する反論は、起源についての知識を高めるのではなく、議論からデザインを都合よく排除し、インテリジェントデザイナーの支持するいかなる科学的証拠も抑圧するためにつくられたつじつまの合わない弁解に過ぎません。

インテリジェントデザインは宗教ですか? とんでもない。いかなる宗教テキストからでもなく、単に客観的データから得られた論理的な推論です。おそらく最も重要なことは、試験的仮説(方法論の自然主義のような)であって、信念と承認を必要とする主義ではありません。デザイン仮説はそれが当然のことと思われるのを必要としません。どんな「宗教」(国教禁止条項目的のための)の主要な要件もそれが信念システムであるということです[68]。デザイン理論と進化は、理論あるいは仮説として、宗教に重要な問題を記述しますが、最高裁判所が、組み合わせた結果が特定のあるいはすべての宗教の教義と一致あるいは調和したとしても、材料の組み合わせだけでは宗教を構成しないと判断しました[69]。さらにデザイン推論は、特定の信仰システムを唱えようとはしておらず、知られている宗教の聖職者、倫理とモラルのセット、宗教テキストあるいは装飾を持っていません。

いずれもを支持する証拠は何も証明しない


進化論とインテリジェントデザイン理論のどちらかを立証する証拠だけでなく、多くの証拠はむしろ両方を立証します(従って、どちらも証明しません)。

適応と自然淘汰

環境の影響力によって、種の中で、小さな適応的な変化が起きることについて意見の相違はありません。違いは、ダーウィン進化論者が変化の限界がないと主張するのに対して、インテリジェントデザイン理論は(確実な実験的証拠から、私たちの観点で)事実上の限界があると主張している点です。それに加えて、(新しいタイプの動物につながる目新しくて、複雑な科学システムの出現など)壮大に主張したものは直接観測しえません。インテリジェントデザイン理論家は、これは個々の"デザイン・イベント"が唯一特別なものであって、(ビッグバン理論のように)遥かなる過去に一度だけ起きたものだからと考えます。きわめてゆるやかな変化によって古い種から新しい種が生まれるというダーウィン論者の主張でもまた観測されません。それは、その過程があまりにゆるやかであるために、それが判別できるまでの長い時間を観察者が生きていられない、あるいは変化の本当の理由である生化学をまだ十分に理解していないからだと、ダーウィン論者は考えます。従って、両方の理論ともに間接的な証拠に依拠しています。

インテリジェントデザイン理論家は生化学システムに存在する情報を、過去に知性がデザインしたことの間接的証拠だと指摘します。ダーウィン論者にとっては、ガラパゴス諸島の「ダーウィンのフィンチ(小鳥)」の例が大きく喧伝されました[70]。この話では、渇水期にフィンチのくちばしの平均のサイズが大きくなるのが観測されました。これは環境条件が正しければ、新しい種が約200年以内に出現するだろうという示す注目すべき証拠として、提示されました。読者は進化論と合致する半分だけではなく、話全体を聞けば、これがそれほど注目すべきものではないと思うでしょう。実際、乾季のあとの雨季にはくちばしの平均サイズは「平年」にもどっていきました。
群れ全体の平均のくちばしサイズの振動は、新しい動物が出現したのではなく(新しいくちばしですらなく)、環境要因の変動に体操する過程です。乾季では、(より固い乾いた種をつつける)より短く、よりたくましいくちばしが種を存続させます。雨季には、豊富なやわらかい種があるので、大きなくちばしの方が生き残ります。フィンチのゲノムが組み込まれているのは、環境圧力に対応して変化する能力ですが、しかしそれには限界があります。

ダーウィン論者には、観測された小さな変化(広く受け入れられている小進化)を無批判に受け入れて、(私たちが見るに、広く)外挿して大進化を結論する傾向があるのが問題です。それは、人間が3フィートの小川を飛び越えられるというとても正確で再現可能で定量的科学的観測に基づいて、人間が大西洋を飛び越えて新世界にたどりついたと結論するようなものです。ガラパゴスのフィンチのような話は、学校で何故進化論についてもっと教える必要があるか明らかにしています。すべての証拠は、かれらほども注目すべきでものではありません。

分子レベルと解剖学レベルの種の間の類似

(厳密には生きていないある種のウィルスをのぞけば)すべての生物にDNAがあります。あらゆる生物には(事実上は同じ20の)アミノ酸でできたタンパク質があり、バクテリアと人間のタンパク質はよく似ていることがあります。これは同一の祖先を持つことを立証するでしょうか、それとも共通のデザイナーの存在を示唆するでしょうか? 理論的にはどちらも成り立ちます。自動車、飛行機、エアコン、および大型衣装箪笥にはボルトがついています。これはどれかのものかどれかに進化したからでしょうか、それともデザイナーがよく似た部品をつかってまったく関係のない物の似たような問題を解決したからでしょうか? インテリジェントデザイン理論は、よく似た分子(および解剖学的なもの、たとえば手足目など)から多くの種が形作られていることを、共通のデザイナーを仮定することで、対応します。

"観測された進化"~抗生物質と薬剤耐性

"通常の"固体にとって致命的な環境で生き延びる"新しい"バクテリアや蚊の出現をインテリジェントデザイン理論はどう見るでしょうか?これはダーウィンの理論の決定的な証拠ではないでしょうか?これらの観測例に対するインテリジェントデザイン理論の見解に注目する前に、少なくとも2点を指摘する必要があるでしょう。第1に、毒素に免疫を持つバクテリアや昆虫は元と同じ種のバクテリアや昆虫です。それは新しい生物でも新しい種でもありません。何も新しいものは"創造"されていません。第2にこれらの生物は、抵抗力を"獲得"したのではなく、感受性"を喪失したことです。正常な種類の個体を死なせる有毒化学物質と結合できなくなったか、取り付けなくなったかした変異もしくは破損したタンパク質を持っているのです。従って、どんな新しい能力も獲得しておらず、正常な機能を失っただけなのです。この証拠はデザイン理論の予測である、予期された適応性と生来の耐久性を持つ機械のようにデザインされた免疫システムと矛盾しません。免疫システムの変異率はその他の部分のゲノムの数千倍も速いことが知られており、この高速変異なしには、生命システムへの多種の新しい脅威に対抗できません。このことは、小進化を進める変化の原因がランダムではなくデザインされたものだということを示唆しています。これらは、限定された方法で環境の変化に対応する計画された柔軟性の例です。

起源理論を生命倫理と関係付ける


神は私たちを創造したのでしょうか、それとも私たちが神を創造したのでしょうか? 私たちには本来の目的があるのでしょうか、それとも私たちは自由に私たち自身の目的を定めることができるでしょうか?これらの質問の答えは倫理のどんな議論にもかぎとなるものです。 William Provine教授は、自然主義的、唯物論そしてダーウィン進化論の世界観が深く意味するところを私たちにわかりやすく説明しています。

第 1に、世界は機械論的原理にしたがって厳密に構築されるのだという前提を、近代科学は直接的に内包している。自然にはいかなる目的のある原理はない。合理的な方法で検出可能な神やデザイナーは存在しない。第2に、いかなるモラル、倫理的法則、人間社会の絶対的な指導原理も、近代科学はまったく内包していない。科学と宗教の対立は、宗教的信仰をもったまま、進化論生物学を受け入れるために、教会の扉で自ら脳をチェックしなければならない、というものなのだ。

Provine教授は正しいでしょうか、間違っているでしょうか?自然現象が設計されたものでないと考えるなら、彼は論理的に正しいのです。ある目的のための将来のイベントの準備を整える力を持つ意志のみが、目的の起源たりうるからです。自然法則と偶然には、ゴールを目指し、未来を考える力はありません。従って、ダーウィン論者あるいは進化論の世界観が、有神論の世界観からのそれとは正反対であるという重大な倫理的な意味があります。ある目的のために我々がデザインされたかどうかで、倫理的な判断は大きく異なります。たとえば、合理的で論理的な正当化なしに、他の意志の計画や目的に反した行動をとりたがりません。屋外の石の整列された集まりを見つけて、それが古代の墓地であることがわかれば、土地開発業者は工事を中止して命令を待ちます。古代文明の明確な意志と目的に違反する前に彼は、少なくとも意味を考えるでしょう。しかしもし、石がただ洪水や雪崩などによりばらまかれたものであるなら、彼は考えるまでもなく、ブルドーザーで押しのけてしまうでしょう。

同様に、生命が偶然のものであるなら、なぜそれを私たちの必要に応じて変更しなてはいけないのでしょうか?もしできるなら、何故ヒトクローンを作ってはいけないのでしょうか?何故、望まれぬ子を堕胎してはいけないのでしょうか?何故、もはや働けない老人を安楽死させてはいけないのでしょうか?何故、結婚制度を廃止してはいけないのでしょうか?何故、脱税してはいけなのでしょうか?何故、盗んだり、殺したり、破壊してはいけないのでしょうか?普通の人々は、生命に本来の目的がないなら、心に浮かんだ目的と合致するものならなんでも許容できると直感的に認識します。「神がまったくいなければ、なんでもは許される [72]」しかしながら、もし生命がまったくの偶然のできごとで(少しでも)ないなら、何かデザインされ、作られたものであるなら、生命には本来の目的があるはずです。目的が生命に充ちているなら、私たちはその目的とは逆にあえて危険を冒しても行動します。遺伝子操作による「デザイナー人間」を作ることは、現在は未知の標準目的と衝突していて、想像を絶する災害はもたらされるかもしれません。私たちは本来の目的がわかるまでは生命をどこまで操作してよいでしょうか?

インテリジェントデザインにおける生命倫理の意味は個人について文化についても明らかです。ヒトクローンを作るべきか否か、ヒトの臓器を流通してよいか否か、死刑を宣告してよいか否か誰が私たちに教えてくれるでしょうか?誰が文化というテーブルの上座に座るのでしょうか?テーブルの席につくのを許されているのは誰でしょうか?自然主義的な科学は「事実」を提示するものであり、その目的と意味を述べる限り神学者や哲学者も許容されるでしょう。しかし、唯物論的科学が生命に本来の目的がないと既に結論を下した後で、どんな本当の役割が宗教に残されているでしょうか?なぜ生命には目的があるという誤った概念を思い違いをした個人は何かを信じられるでしょうか?それらは、政治的理由でパーティーに招かなければならないカップルのようで、その風変わりで美しい視点が無視されます。生命が本当にデザインされ、目的があればどうでしょうか?科学にとっては?もしそうなら、宗教はテーブルに席を確保するだけでなく、上座につく価値があるかもしれません。




最終更新:2009年08月12日 07:23