PvMの科学的内容がなにもないインテリジェントデザイン


進化論ブログPanda's Thumbの執筆者のひとりPvMは
  • インテリジェントデザイン理論家は、デザイナーの意図や能力には言及できないと言う。
  • しかし、デザイナーの意図や能力がわからないのに、肯定的な予測はできない。
  • インテリジェントデザインはフロントローディング(あらかじめ仕込まれている・最初から用意されている)と介入を識別できない
  • フロントローディングはオッカムの剃刀の原則によって、デザイナーは科学から削除される。
  • 従って、インテリジェントデザインの科学的なものは何も残らない
とインテリジェントデザインには科学的な中身が何もないと主張した。


以下和訳

PvM: "Still awaiting the evidence"

まだ証拠を待つ


" Misplaced Sympathies "という表題のウォール・ストリート・ジャーナル社説では、Kevin Shapiroはインテリジェントデザインの多くの問題を概説している。
インテリジェントデザインは科学的には空虚だという見方が、急速に広まっている。

Kevin Shapiro wrote:

Proponents of intelligent design, like the mathematician William Dembski, argue that we don’t understand the origins of various biological systems and never will, because they can’t be broken down into smaller parts that could be explained by natural selection. Therefore, we should give up on Darwin and accept the existence of a designer. Alas, this kind of argumentum ad ignorantium flies in the face of an ever-increasing amount of evidence from molecular biology, and hardly measures up to the neoconseratives’ rigorous intellectual standards.

数学者Wiliam Dembskiのようなインテリジェントデザイン提唱者たちは、様々生物の起源が理解できず、未来永劫できないのは、自然淘汰では説明できる小さな部分に分解できないからだと論じる。そして、ダーウィンに見切りをつけて、デザイナーの存在を認めるべきだと。悲しいかな、この手の"Argument from ignorance"は、常に増加する分子生物学からの証拠に真っ向から反抗する。そして、ネオコンサバティブな厳格な知的水準にほとんど達していない。

これらの事実に、インテリジェントデザイン活動家はどう対応するだろうか。あまりうまくない。

インテリジェントデザイン活動家は、詳細を力説すると、"証拠"はすぐに的外れへと崩壊するにもかかわらず、インテリジェントデザインは"肯定的な証拠"を提示すると論じる。

何故、インテリジェントデザインが、デザイナーについての補足情報を必要とする補足仮説を必要とせずに、その仮説から論理的に導出可能な予測がつくれないのかを見ていこう。実際、デザイナーに関する仮定をしないと、多くの人々が今や科学的に示したように、インテリジェントデザインの予測で残るのは空虚なものだけ。

オーケー、インテリジェントデザインはどのようにデザインを推論しようとするか見ていこう。いあゆる"デザイン推論"で。何かがデザインされていると判断するには、それが"指定されていて"[訳注:意味ありげ]]かつ十分に"複雑"でなければならない。で、これらの用語はほんとうのところどういう意味だろうか。"指定"(Specification) は基本的には、現象やシステムとは独立の記述が存在することを意味する。そして、Dembskiが生物学において指摘したところによれば、"指定" (Specification)は単に"機能"と同じになる。では、"複雑さ"とは何だろうか? この言葉の普通の意味と違って、インテリジェントデザインにおける複雑さは、規則性や偶然では(いまだ)説明できないものに対して使われる。これらの条件が満たされると、デザイン推論が働きはじめる。言い換えるなら、デザイン推論は基本的に、その起源がわからない機能のあるものが、従って、"指定されて"いて複雑で、そしてデザインされている。あるいは、 Del Ratzschの定義を使うなら「規則性と偶然の論理和の補集合」となる。これは明らかに、"Argument from ignorance"であって、"Gap Argument"として知られるものである。

せいぜいで、インテリジェントデザインは、我々が知っていることではなく、無知に基づいて推論される。で、どうやってインテリジェントデザイン活動家は、インテリジェントデザインが"肯定的証拠"に基づいていると主張するのだろうか。結局のところ、インテリジェントデザインがいかなる予測もできないか、それが"肯定的証拠"に基づくことが自明らしい。結局のところ、デザイナーの意図や能力を知らないで、どうやって予測ができるだろうか? 

とすると、"肯定的証拠"の例とは何だろうか?

“Biological novelty appears in the fossil record suddenly and without similar precursors. The Cambrian explosion is the prime example”

"生物の新しい構造(novelty)が、化石記録に同様の先行形態なしに、突如として出現する。カンブリア紀爆発は第1の例である。"

カンブリア紀の記述はひどく不正確だが、これはインテリジェントデザインとまったくつながっていない。何故、インテリジェントデザインは生物の新しい構造(Novelty)が同様の先行形態なしに突如出現すると予期するのだろうか? この"予測"は、カンブリア紀が神の"創造"の証拠である論じる創造論者によく見られる、補足仮定を必要とする。しかし、インテリジェントデザインはデザイナーについて何も言えないと主張しているので、デザイナーが何をするのか、しないのか、できたのか、できなかったのかについての主張には、いかなるメリットもない。

Intelligent agents ‘re-use’ functional components that work over and over in different systems (e.g.,wheels for cars and airplanes):

インテリジェントエージェントは、異なるシステムで働いてきた機能部品を再利用する。たとえば自動車と航空機の車輪など)

これもまた、デザイナーについての補足仮説が必要だ。インテリジェントデザインはデザイナーについて何も言えないと主張するので、このような主張は空虚さしか残らない。実際のところ、何故デザイナーは部品を再利用すると制約されなければならないのだろうか? 実際のところ、超自然のデザイナー(インテリジェントデザインのデザイナーの論理的に相応しいバージョン)なら、デザイナーの能力を既存部品の再利用に制約する理由はない。実際のところ、真に創造的なデザイナーなら部品を再利用しなかっただろう。

実際のところ、インテリジェントデザイン活動家たちは自分たちの仮説やその論理的帰結を良く知らないで、インテリジェントデザイン批判者がインテリジェントデザインの主張を誤って伝えると、インテリジェントデザイン活動家が主張しなければならないのは悲しいことだ。

多くのインテリジェントデザイン批判者たちは、インテリジェントデザインの空虚さを既に指摘している。たとえば、Murrayは、インテリジェントデザインが科学的に多くの成果をもたらすという主張は、見当違いだと述べている。

Murray wrote:

Friends of IDT have suggested some concrete ways in which the fertility of IDT might be manifest in contemporary science. Two recurring examples are: a) it might lead us to think that junk DNA has some important function after all and b) it might similarly lead us to look for the function of so called vestigial organs.

インテリジェントデザインの支援者たちはk、現代科学において明らかかもしれないインテリジェントデザインが成果をもたらすだろう具体的な方法を提案した。2つの繰り返される例は:a) ジャンクDNAが重要な機能持っているかもしれないという考えに導く。b) いわゆる痕跡器官の機能を見つけようという方向に導く。

While it might be the case that approaching natural science in this way will sometimes yield fruit, the likelihood of red herrings runs equally strong. The reason is that IDT will provide a fertile theoretical backdrop in a certain domain only if (a) we can be fairly confident of what the designer’s intentions are in that domain, and (b) we are sure that the specific matter under investigation is relevant to those intentions.

自然科学におけるこのようなアプローチがときおり成果につながる例かもしれないが、めくらましの可能性も同じく強い。その理由は、(a) その領域におけるデザイナーの意図が何であるか確たる自信があるときと (b) 調査中の特定の事象がそれらの意図に適合していると確信できるときにのみ、特定領域でインテリジェントデザイン理論が理論的背景のもと成果を挙げるからである。

インテリジェントデザイン活動家はインテリジェントデザインがデザイナーおよびデザイナーの意図や動機について何も言えないと主張するので、インテリジェントデザインが成果を出せるとか、インテリジェントデザインが肯定的言明を創れるといったことを論理的に主張できないのは明らかだ。何故なら、このような言明は論理的にインテリジェントデザイン仮説からは出てこないからだ。

他のものもまったく同様の結論に至る。たとえば、"he Vacuity of Intelligent Design Theory"にとおいて、Ryan Nicholsは次のように見ている:

Nichols wrote:

In my argument against Intelligent Design Theory I will not contend that it is not falsifiable or that it implies contradictions. I’ll argue that Intelligent Design Theory doesn’t imply anything at all, i.e. it has no content. By ‘content’ I refer to a body of determinate principles and propositions entailed by those principles. By ‘principle’ I refer to a proposition of central importance to the theory at issue. By ‘determinate principle’ I refer to a proposition of central importance to the theory at issue in which the extensions of its terms are clearly defined.

インテリジェントデザイン理論に対する私の論において、私はそれが反証不可能だとか、矛盾を意味するとは主張しないだろう。私はインテリジェントデザインが何も意味しないと論じる。すなわち内容が何もない。内容によって、明確な原理とこれらの原則から導出される命題の量に言及する。この原則によって、私は論争中に理論に対する中心的な重要性の命題に言及する。明確な原理によって、用語の拡張が明確に定義されている、論争中に理論に対する中心的な重要性の命題に言及する。

I’ll evaluate the work of William Dembski because he specifies his methodology in detail, thinks Intelligent Design Theory is contentful and thinks Intelligent Design Theory (hereafter ‘IDT’) grounds an empirical research program. Later in the paper I assess a recent trend in which IDT is allegedly found a better home as a metascientific hypothesis, which serves as a paradigm that catalyzes research. I’ll conclude that, whether IDT is construed as a scientific or metascientific hypothesis, IDT lacks content.

William Dembskiの研究を評価しよう。というのは彼は詳細に方法論絵お提示しているからだ。そして彼は、インテリジェントデザイン理論が内容があり、インテリジェントデザイン理論が経験的研究計画に基礎を置いていると考えているからだ。この記事の後の方で、研究の触媒となるパラダイムとして働くような、メタ科学的仮説をよりよい拠点と主張される昨今のトレンドについて評価する。私は、インテリジェントデザイン理論が科学的仮説と解釈されようと、メタ科学仮説と解釈されようとも、インテリジェントデザイン理論には内容がないと結論するだろう。

Nicholsはまた、インテリジェントデザイン活動家に無視されている、Dembskiの主要な譲歩を思い起こさせる:

Before I proceed, however, I note that Dembski makes an important concession to his critics. He refuses to make the second assumption noted above. When the EF implies that certain systems are intelligently designed, Dembski does not think it follows that there is some intelligent designer or other. He says that, “even though in practice inferring design is the first step in identifying an intelligent agent, taken by itself design does not require that such an agent be posited. The notion of design that emerges from the design inference must not be confused with intelligent agency” (TDI, 227, my emphasis).

話を進める前に、しかしながら、私は、Dembskiが批判者に対して重要な譲歩を行ったことを指摘したい。彼は前述のような副次的家庭を置くことを拒否している。説明フィルタが特定システムがインテリジェントにデザインされたと意味するとき、Dembskiはそれがインテリジェントデザイナーあるいはその他の存在につながるもとは考えないと言った。Dembskiは「デザイン推論が実行上はインテリジェントエージェントを特定する第一歩であるとしても、それだけではそのようなエージェントの存在を要求しない。デザイン推論から出てくるデザインいついての考えとインテリジェントエージェンシーを行動してはならない。」

もちろん、もっともよい証拠は我が友Dembskiから出てくる。彼は、彼がデザインされたものだと主張する特定にシステムについての、インテリジェントデザインによる最善の説明を提示するように問われたとき、次のように応答している:

Dembski wrote:

As for your example, I’m not going to take the bait. You’re asking me to play a game: “Provide as much detail in terms of possible causal mechanisms for your ID position as I do for my Darwinian position.” ID is not a mechanistic theory, and it’s not ID’s task to match your pathetic level of detail in telling mechanistic stories. If ID is correct and an intelligence is responsible and indispensable for certain structures, then it makes no sense to try to ape your method of connecting the dots. True, there may be dots to be connected. But there may also be fundamental discontinuities, and with IC systems that is what ID is discovering.

あなたの例について、餌に食いつくつもりはない。あなたはゲームをするように依頼している:「私が私のダーウィン主義者のポジションについてやったことを、あなたのインテリジェントデザインのポジションに対して可能な因果メカニズムについて詳細を述べよと」 インテリジェントデザインは機械論ではなく、機械論的ストーリーを語るにあたって、あなたのまったく不十分なレベルの詳細にあわせることはインテリジェントデザインのタスクではない。もし、インテリジェントデザインが正しく、インテリジェンスが特定構造の原因であり、不可欠であるなら、点と点を結ぶような、あなたの方法を真似る意味がない。実際のところ、点と点のつながりがあるかもしれない。しかし、インテリジェントデザインが発見した還元不可能な複雑さを持つシステムのような根本的な不連続があるかもしれない。

[William A. Dembski: "Organisms using GAs vs. Organisms being built by GAs thread" at ISCID 18. September 2002.]

インテリジェントデザインがデザイナーを特定できないのは、含意がないからではない。Muurayが注意深く説明したように、方法論的自然主義を置き換えられないように、インテリジェントデザインを導く含意がないからである。Murrayによればインテリジェントデザイン問題は何だろうか? とても簡単だ。インテリジェントデザインは"デッキスタッキング(別名フロントローディング)[訳注: 最初から用意されているもの]と、介入を区別できない。すなわち、特定の瞬間から、規則性と偶然という言葉で完全に特定システムの説明できるという可能性を排除できない。言い換えるなら、初期時点でのデザイナーによる追加がオッカムの剃刀の犠牲になる。Dembskiはこのことがわかっており、それ故に、 van Tillのような有神論的進化論のポジションをとる人々を強く批判する:

Dembski wrote:

Design theorists find the “theism” in theistic evolution superfluous. Theistic evolution at best includes God as an unnecessary rider in an otherwise purely naturalistic account of life. As such, theistic evolution violates Occam’s razor. Occam’s razor is a regulative principle for how scientists are supposed to do their science. According to this principle, superfluous entities are to be rigorously excised from science. Thus, since God is an unnecessary rider in our understanding of the natural world, theistic evolution ought to dispense with all talk of God outright and get rid of the useless adjective “theistic.”

デザイン理論家には、有神論的進化論における"有神論"を余分なものだとわかる。有神論的進化論は、せいぜいがところ、生物についての純粋に自然主義的説明の不必要な付記として神を含んでいる。従って、有神論的進化論はオッカムの剃刀に違反する。オッカムの剃刀は科学者が科学することを規定する原則である。この原則に従えば、余分の存在は科学から厳格に削除されることになっている。従って、神は自然界を理解にするにあたって不必要な付記であるので、有神論的進化論は、神についての話を完全に省き、"有神論的"という使えない形容詞を取り外すべきだ。

言い換えるなら、もしインテリジェントデザインはフロントローディングと介入を識別できなくて、フロントローディングがオッカムの剃刀を意味するなら、インテリジェントデザインはDembskiが神であると正しく特定したデザイナーについての主張を削除すべきだ。そうなれば、方法論的自然主義の規則性と偶然の過程を認めなければならないという意味で、インテリジェントデザインは科学的に空虚になる。

インテリジェントデザイン活動家がこれと折り合いをつけるのにある程度の時間がかかるかもしれない。オッカムは神を余分あるいは不必要なものとするかもしれないが、これは神が創造したという余地がないことを意味しないことを指摘しておこう。つまりは、神の創造は科学的問いからは"見えなくなる"というだけなのだ。

神の知恵において、信仰を宗教の中心とした神を讃えよ。そして、神が妥当であるために反証可能であることを必要とする信仰をイメージしてみよう。彼らの主張を支持する科学的証拠が間違っているとわかったとき、そしてデザインとデザイナーが反証されたときの信仰に対するコストをイメージしてみよう。

何という、科学と宗教の浪費だろうか。

科学的空虚さについて話すなら、もうひとつの中間形態化石が見つかったときのWittの応答を読んでみればいい:

Witt wrote:

If Darwinism is true, not one but millions of transitional species, each slightly evolved from its predecessor, existed between bony fish and land-dwelling vertebrates. Darwinists have neither the fossils nor even a credible description of a hypothetical pathway to support such an evolutionary journey,…

もしダーウィニズムが正しいなら、ひとつではなく幾百万の中間種があるはずであり、それらは祖先から少しずつ進化したものであり、硬骨魚と陸上生活する脊椎動物の間にあるはずなのだ。ダーウィニストはそのような進化過程を支持する、化石どころか信頼できる経路仮説すら持っていない...

Wittは英語の博士学位を持っているが、それは科学について疎いことを示すだけかもしれない。しかしながら、私を魅了することは、科学的な証拠に直面した時、インテリジェントデザイン活動家が創造論者の起源にすばやく退却するということである。









最終更新:2009年08月26日 06:54