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機械論についてのメモ


J.H. ブルック「 科学と宗教 」から

Mechanism(機械論)


機械論哲学の基本的主張は、自然現象は機械的な原理に従っていて、その規則性が自然の法則、望ましくは数学公式の形で表現される、というものである。(p.133)


神の奇跡を擁護するMarin Mersenne(1588-1648)


メルセンヌの首尾一貫した立場は、自然の秩序に示される神の力能と、いかようにも作用しうる神の絶対的な力能という、長き歴史にわたって形成された重要な区別に依存していた。機械論哲学がメルセンヌや後のボイルに訴えたのは、神がこの世界に作用を及ぼすときの通常のやり方を完璧に表現するものと考えられたからである。自然法則とは、秩序の根本原因でる神の意思が表現されたものであるが、神を拘束するものではない、神は望むならば別のやり方でも行動することができるのだから。機械論哲学は奇跡の起こる可能性を排除したのではなく、真の奇跡を認識する手段をはっきりさせた。自然法則のことばで説明しえない出来事、それこそが奇跡なのである、と。(p.142)

しかし、ひとつ問題があった。機械論で説明できないことが、未知の法則があるのか、真の奇跡なのかのを識別する方法が、機械論の内側にはなかったのだ。機械論の説明が見つかれば、それは真の奇跡ではなかったことがわかる。しかし、見つからなければ、真の奇跡かも知れず、未知の法則があるのかもしれずのままである。


神の介入の証明を求めて悩むSir Isaac Newton (1642-1727)


機械論の隙間に神を見出そうとして、機械論の性質そのものによって失敗する。それでも神を求めたのがSir Isaac Newtonである。

宇宙が完全に機械化されているのならば、神の振舞う余地などないのではないかという憂慮を誰よりも強く抱いたのは、ニュートンである。
...
彼の主意主義神学では、自然の出来事を機械的な結果としても神の意思としても説明できたので、神の介入を最もよく実証するのはどんな出来事なのかを決定しなければならなかった。最も派手な証拠があるとすれば、それは通常のから著しくかけ離れた異常な現象からのものだろう。だが主意主義哲学に基づけば、異常な出来事さえ神の制定した機構から生じるものとして考えることができた。もしその異常な出来事に対してあるメカニズムが特定されるとすれば、神の振舞いについて言及するには及ばない、と懐疑主義者が難癖をつけないだろうか。(p.161)

機械論で記述されたら、それは神の奇跡すなわち神の介入ではなく、神の予見となる。神の存在を否定するものではないが、神の介入を肯定できなくなる。

創造以後も神が活動していることを肯定するために、さらになる証拠が必要とされたのは明らかである。ニュートンは恒星の安定性にそれを見出した。無限の宇宙においてさえ恒星の運動が予測されるのは、それぞれの恒星に作用している重力が皆無であるとは考えられないからだ。恒星が互いに衝突せずにいられるのは何ゆえか、という問いに対するニュートンの答えこそ、神の摂理なのであった。しかし、ここでも曖昧さが生じた。それは神自らが恒星を適所で支えているからなのか、それとも、お互いに作用する力を無視しうるほど遠く離れたところに恒星を配置した神の先見の明ゆえなのか?
...
しかし、この問題は創造の時点ですでに片がついていたのかもしれないというニュートンの推測は、神が定常的に関与しているとする論拠を弱めることになった。(p.163)

そして、太陽系の安定性に神の摂理を見出そうとするのだが...

太陽系が長期にわたって安定を保つには、神の摂理という安全装置が必要なのだ、さもないと惑星は軌道を外れるか、太陽と衝突してしまうだろう。果たして摂理はどんな備えをしたのだろうか。同じジレンマが残った。この建て直しは直接的な命令によるのか、それとも神性な仕組みによるものか。もしその効果が目に見えるものであるなら、直接的な命令のほうがずっと壮観なはずだ。しかし、トマス・バーネットへの書簡において、ニュートンはこう述べた。「自然因が手近にあれば、神はそれを道具として用いられることでしょう。」そして、彗星こそがそのような手近な自然因であるとニュートンは信じていた。皮肉なのは、ある自然因が見つかるや、徹底した自然主義の立場をとる人々が摂理を不要とする論議を展開しだしたことだ。(p.164)

機械論の内側にいる限り、自然法則を使って神が介入したのか、自然法則に従った自然現象なのか識別がつかない。

そして、Sir Isaac Newtonの死後に:

18 世紀末には新たなアイロニーが生まれる。フランスの数学者、ラプラスとラグランジュによって、惑星起動に生じる不規則は惑星自体が矯正することが示された。だからといって、宇宙が設計の所産でないとはならなかったが、誤りを免れない科学に宗教的弁明をもち込むとどんな失態が起こるかを赤裸々に露見したのである。(p.165)


神の介入を証明しようとして、機械論の中で何かを示そうとする。しかし、機械論で説明できれば神は存在は否定されないが、その現象は神の予見の範疇に入り、神の介入ではなくなる。

Gottfried Wilhelm Leibniz (1646-1716)


Newtonに対して、Leibnizは神への賛美ゆえに「宇宙の建て直し」を拒絶する。

ライプニッツが喝破したように、神が自らの創造の欠陥を補修しなければならないとすれば、職人としての技量が問われるからである。(p.164)

ライプニッツの神学では、神の被造物があらゆる「可能な」世界のなかの最善であることが示されれば神を賛美する根拠になった。そのような世界はニュートン、ベントリー、クラークが頻りに説いた宇宙の建て直しを必要としないはずである。奇跡とはしかるべき恩寵を満たすことなのであり、二流の時計仕掛けを修繕することではないと、ライプニッツは主張した。(p.180)

ライプニッツは予定調和に訴えた。天体の運動が定まり、生物が創造された後に続いたのは「純粋に」自然で、「まったく」機械論的なことである。(p.181)

しかし、完璧な宇宙こそ神を賛美する理由としたのだが、これはLeibniz本人の意思と無関係に、理神論(世界を創造したら、いなくなった神)の根拠とみなされる。


規則の体系そのものに神を見出すRobert Boyle (1627-1691)


自然法則の体系そのものに神の証を見ようとしとのはRobert Boyleだった(ただし、奇跡を否定していない)。

自然の法則、つまり神のこしらえた「規則の体系」こそが神の活動の証である。物体はある種の性質を示すという機械論的な解釈に従って、どの性質をどの物体に与えるかという選択こそが神のものである、とボイルは論じた。(p.148)

機械論哲学は、正しく理解されれば、神の活動を裏付けることができる。ならば、この世界のように「かくも数奇な機械が、バラバラの部品から偶然構成されるはずがあろうか」とボイルは問う。(p.148)

もし人間のなかに霊的な実体があるとすれば、人間の自発的な活動こそ、無形で知的な存在が物体に作用しうることの証明となる、類推するに神も同じことをしているのではなかろうか?「霊的な神性が存在し、有形のものの動きに介入し、影響を与えている」可能性を割り引いて考える理由はない。(p.148)

神はいかなる論理的必然性にも、自然法則にも縛られていない。なぜなら、自然法則とは神の選んだ行動様式の一つの表現にすぎないからだ。この推論はまた、ボイルが「介入」と呼んだものが必ずしも奇跡的な介入ではなかったことを示すだろう。人が足を上げたりペンを取ったりするのに奇跡はいらない。ならば神が物質を動かすのにどうして奇跡が必要なものか。(p.150)

隙間の神が賛美に値しない技量の低い神であるのに対して、自然法則の背後にいる神はそうではない。しかし、機械論の手の及ばない神は、機械論でその存在を証明も反証もできない。


Charles Bradlaugh (1833-1899)


直接介入する神は、常に修理が必要な世界しか創れない力量の低い、賛美に値しない神。神の介入不要な世界を創造した立派な神は、創造が終わったらいなくなった理神論の神に限りなく近づく。

「無神論」は、敵対する有神論によって特徴づけられるので、近代の無神論の起こりを離間するには、否定する相手となった特殊な有神論の形式を突き止めることが重要なのだ。19世紀の世俗主義者、チャールズ・ブラッドローのことばは、この見方の賢明さをよく示している。「わたしは無神論者だが、神が存在しないと言うのではない。まず神とは何なのか言ってくれ給え、それまでは何も言うつもりはない。」

キリスト教擁護派の問題はここにあった。神の存在について科学的に権威づけられた証明を利用しようとすれば。、神とは職人であり、機械工であり、建築家であり、自然の仕組みの陰にいる最高の考案者であると言うに等しいことになる。ここからほんの一歩で無神論に「なりうる」。設計とみえるものが実は幻だという別の形而上学を持ち出すだけで十分なのだ。(p.216)