アナロジーは理論の一部になれない


インテリジェントデザイン"理論"が、普通の科学な理論と違う大きなポイントのひとつに、「アナロジーによる議論」がある。

The signs of intelligence that occur in human artifacts and biological systems are not merely analogous. They are isomorphic, for we find the exact same form of specified complexity in each.

人間による人工物と生物システムにあるインテリジェンスの徴候は、単なる類似ではない。それは同形である。何故なら、まったく同じ形態の指定された複雑さを見つけるからだ。



もちろん、論証の一部にアナロジーがある理論など、自然科学でなくとも、普通では考えられない。アナロジーでは何かを証明できない。以下に、如何に問題かを示してみよう。

アナロジーは証明しない


そもそも、アナロジーは可能性の示唆はできても、証明にならないと既にHumeが論じている

アナロジーは、科学的な仮説と同じように、可能性を「示唆」するだけであって、決して証明にはなりえないのである。科学の仮説は実験によって検証しうる。しかし、創造の背後にある知性についての仮説が同じようなやり方で検証し得ないのは明らかだ。世界が創造される現場を目撃した人はいないからだ。

我々が知っているのは一つの世界だけである。もし様々な世界を比較検討できるのであれば、「この」世界のほうが「あの」世界よりも機械に似ているとか似ていないとか言えるだろう。しかし、世界の単一性を奉じている我々に、どうしてこのような優劣の選択が正当化できるのか。

[JH ブルック: 科学と宗教, pp.201-203]

Humeは"世界"について述べているが、生物についても同様である。「生物デザインをデザイナーが自然界に持ち込む」ところも見たものはいないし、持ち込まれた直後の生物を捕捉した者もいないからである。


アナロジーは間違った帰納になる


アナロジーによる論は次のような帰納論のような形で提示される[ Humbug! Online 2006/05/13 ]

  1. 構造と秩序を示す還元不可能に複雑なマシン{A]がある。
  2. 構造と秩序を示す還元不可能に複雑な生物機械[B]がある。
  3. 我々は[A]がインテリジェントデザイナー、つまり我々自身によって創られたと知っている。
  4. 従って、Bはインテリジェントデザイナー、つまり神によって創られたはずだ。

これは、「1+3」という命題が真であるから、逆命題である「2+4」も真だと主張している。対偶は正しいが、逆命題や裏命題が正しいかどうかは別問題なのだが。

我々が確かに知っていることは、人間が何かをデザインしたとき、必然的に複雑さや構造や目的や秩序といった属性を持っているということだけだ。この推論を逆に適用して、複雑さや構造や目的や秩序を持つ何かは、インテリジェントデザインの産物でなければならないと証明できない。



アナロジーの舞台に本題が乱入する

アナロジーを作るとき、日常感覚でわかりやすい事例を切り取ることがあるだろう。その事例が、アナロジーで説明しようとしているものと重なりがあると、説明が閉じなくなる。たとえば、Michael Beheの持ちネタのひとつがそれだ。

in walking through the woods a person might crush plants by his footsteps, accidentally break tree branches and so on. Why do we not ascribe those marks to purposeful activity? On the other hand, when we see a small snare (made of sticks and vines) in the woods, obviously designed to catch a rabbit, why do we unhesitatingly conclude the parts of the snare were purposely arranged by an intelligent agent? Why do we apprehend purpose in the snare but not in the tracks?

森の中を歩いていて、折れた枝か何かを偶然に踏んで、押しつぶしたとしよう。我々はこれを目的ある活動だと思うだろうか? 一方、我々が森で、明らかにウサギを捕らえようとした、棒と蔓でできた小さな罠を見て、何故、我々は躊躇することなく、罠がインテリジェントエージェントによって故意に用意されたと論じられるのか?何故、我々は森の小道に意図を感じず、罠に意図を感じるか?


これは、構成部品が自然界にあるものだけでも、インテリジェンスによるものかどうか識別できるという主張の論拠である。ここでは「インテリジェントエージェント=人間(狩猟生活者)」であり、「部品=棒と蔓」である。それを、「棒だけ」あるいは「蔓だけ」と比較すれば、インテリジェンスによるものであることは明らかだという論になっている。

ところが、ここに「食虫植物」を並べてみると変なことになる。これは、アナロジーの舞台に、本題のネタが乱入した形になる。

  • 「インテリジェントエージェント=人間(狩猟生活者)」であれば、「棒と蔓でできた小さな罠」はインテリジェンスによるもので、「ハエトリソウ」は自然物である。
  • 「インテリジェントエージェント=創造主 or 人間」だったら、「棒と蔓でできた小さな罠」も「ハエトリソウ」もインテリジェンスによるものである。

どう考えればいいのだろうか?


アナロジーがこけると本題もこける

インテリジェントデザイン理論の概念のひとつ"Irreducible Complexity"には「ネズミ捕りのアナロジー」が理論の一部として含まれる。

In Darwin’s Black Box (1996), Behe presents a powerful argument for actual design in the cell. Central to his argument is his notion of irreducible complexity. A system is irreducibly complex if it consists of several interrelated parts so that removing even one part completely destroys the system’s function. As an example of irreducible complexity Behe offers the standard mousetrap. A mousetrap consists of a platform, a hammer, a spring, a catch, and a holding bar. Remove any one of these five components, and it is impossible to construct a functional mousetrap.

"Darwin's Black Box(1996)"で、Beheは細胞の中の実際のデザインについて強力な議論を提示している。彼の論点は彼の言うところの還元不可能な複雑さだ。もし、あるシステムが複数の連携した部品で構成され、そのひとつでも取り去れば、機能を失うのであれば、そのシステムは還元不可能な複雑さを持つ。還元不可能な複雑さの例として、Beheは標準的なネズミ捕りを挙げている。ネズミ捕りはプラットホーム、ハンマー、スプリング、キャッチ、および把持バーから成る。 これらの5つの部品のどれかひとつを取り除いてみよう。そうすると、機能するネズミ捕りを組み立てられなくなる。


ネズミ捕りのように、「全部の部品がそろわないと機能しない"還元不可能に複雑な"システム」は、進化では実現しないというのがBeheの論である。

ところが、"還元不可能に複雑な"システムだと主張したネズミ捕りが"漸進進化"可能なら、論拠が失われてしまう。このため、論争はネズミ捕りをめぐるものになる。そして、幾つかの応酬があったものの、ついに"ネズミ捕りの漸進進化"が提示されてしまった。


それでもアナロジーを使うしかないインテリジェントデザイン

まったく観測事実から帰納なしに「進化論で説明できないから、デザインだ」と主張するのは、さすがに説得力を欠く。
なので、今でも、ネズミ捕りは残っている。






最終更新:2010年03月09日 00:40