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進化論と左翼


進化論と左翼は時々、互いを警戒する関係にあった。左翼の一部、特にマルキストや共産主義者たちは自然選択による進化論(ダーウィニズム)に批判的な見方をしてきた。この批判の一部はイデオロギー的理由だった:適者生存や弱肉強食の概念が、経済的あるいは社会的理想に合わない。逆に言えば、ラマルキズムにおける進歩は理想に合う。これはソ連のルイセンコ学説に特徴的に現れた。そしてそれは経済的および農業的問題を引き起こした。

左翼の大多数は、当然ダーウィニズムには反対しないが、彼らの見方によれば競争を強調しすぎ、共生のような自然の中での協調要素を無視するような進化論の解釈に批判的である。

比較歴史

進化についての科学理論と左翼の政治理論はほぼ同時期に発展した。フランス人ジャン=バティスト・ラマルク(1744-1829)は彼の進化論を"Philosophie Zoologique"で1809年に発表した。彼は地球が古く、生物は共通祖先から進化したという新しい見方を支持したが、メカニズムは後に登場する自然選択ではなく、進歩のひとつだった。進歩のメカニズムは、生物がその道を進歩する存在の鎖という文化的考えと合っていた。フランスにおいて、このような考え方が革命哲学と合っており、科学界に認められていたのに対して、英国ではそのような考え方は、社会秩序を打倒するために暴徒を煽動する社会主義の扇動者と、働く者に選挙権を求めたチャーチストに支持された。英国の科学界は神の掟を示し、既存の社会階層を正当化しようとした大学聖職者によって支配されていた。

カール・マルクス(1818-1883)とフリードリッヒ・エンゲルス(1820-1895)が共産党宣言を出版したのが1848年で、マルクスの資本論3巻が出版されたのが1867年、1885年、1894年だった。これらの本により、異なる状態の間の進歩による社会進化をコアとする共産主義の原則が確立された。これは階級闘争によるものであり、プロレタリアートはブルジョアジーを打倒することに協力しなければならないと、彼らは論じた。

カール・マルクスはダーウィンの進化論についての著作を読んで、すぐにこれが彼の世界観と階級闘争の理論を支持するものだと確信した。カール・マルクスはダーウィンに署名入りの資本論を送った。ダーウィンは礼儀正しくお礼の手紙を書いたが、まったく読まなかった[1]。マルクスはダーウィンの成果が人間社会内の闘争を説明し、マルクスの哲学が深く基礎とする何らかの自然過程の唯物論的説明を与えると確信した。しかし、ダーウィンの本がマルサスの理論に支持を与えることは認められなかった。

1861年にカール・マルクスは友人のラサールに「歴史的階級闘争についての自然科学における基礎を与えるという点で、ダーウィンの成果は最重要であり、私の目的に合う。...すべての欠点にもかかわらず、ここに初めて自然科学における目的論に致命的打撃を与え、合理的いいが経験的に説明される」という手紙を書いている。

急進的経済学者ハーバート・スペンサー(1820-1903)は1851年の著作"Social Statics"において、適者生存という言葉を作り出し、革命的な自由経済理論を記述した。この適者生存は20世紀においては右翼的用語とみなされる。スペンサーは、貧者すなわちプロレタリアートを救援する計画は有害無益であり、トーリー党温情主義や「"能力に応じてとる"から、"必要に応じてとる"へ」を主張する共産主義と正反対のものであるというホイッグ党マルサス主義者の論を支持した。

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)とアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823-1913)は自然選択による進化論を1858年に出版し、翌年にはダーウィンの種の起源が出版された。ダーウィンの理論は、生存能力(環境選択)あるいは魅力(性選択)により、生物は繁殖するというものだった。

スペンサーはダーウィニズムの強力な支持者となり、適者生存という用語は1872年に出版された種の起源6版に採用された。こうしてダーウィニズムはスペンサーの経済学および社会哲学と関係するようになった。

ダーウィンは中流階級上位のエリートだった。彼の従兄弟であるフランシス・ゴルトン(1822-1911)は人間の繁殖に対する自然選択の意味を考え、後に優生学と呼ぶことになるものを作り出した。これは他の人々からは、疑似科学であり、名門出身者が下層階級から、白人が他人種から社会によって選択されるという考え方を広めるものだと考えられた。階級闘争という点では、これはブルジョアジーによるプロレタリアートの抑圧だと見ることができた。

自然選択を新たに強調したにもかかわらず、ダーウィンは種の起源3版から、獲得形質の遺伝のようなラマルキズムの一面を含めた。1871年のダーウィンの"Descent of Man"でも見られるように、この進歩の考えは残った。

ダーウィンの理論は完全には程遠く、ダーウィンの死からネオダーウィニズムな現代進化総合説の間の1920~1930年代は、ラマルク的な進歩が好まれ、自然選択が拒否されたために、ダーウィンの蝕と呼ばれる。

この問題について、19世紀末の注目すべき左翼思想家には、"The Present Evolution of Man"を1896年に出版したSir George Archdall Reid (1860-1929)や、1902年に弱肉強食の概念に特に反対した"Mutual Aid: A Factor of Evolution"を出版したロシアのアナーキストであるピョートル・クロポトキンがいる。

英国の偉大な進化生物学者J.B.S.ホールデン(1892-1064)とその最高の弟子たるジョン・メイナード・スミス(1920-2004)はともに共産主義者であり、ともに第1次世界大戦および第2次世界大戦において英国政府のために働いた。H.J.マラーはX線が突然変異を引き起こすという発見により1946年にノーベル賞を受賞した。


ルイセンコ学説

1917年のロシア革命後、ソビエト連邦は世界最初の共産主義国家となった。ソビエト連邦の発展と同時期に、現代進化総合説が発展し、ダーウィニズムの蝕は終わった。ルイセンコ学説は遺伝学に反対するキャンペーンで、非科学的農学者トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)によって組織され、スターリンによって支持された。ルイセンコは、ソビエト連邦初期におけるラマルキズムの一形式であるイワン・ミチューリンの考えの指導的支持者だった。ルイセンコの農業"科学"は反遺伝学であり、交配と移植によって種が変化することを提唱していた。

ルイセンコは1928年に、小麦を春に成長させるために、湿気と低温を使う春化処理という新しい農業技術を"発明した"無名の農学者として、キャンペーンを開始した。ルイセンコはその技術を使えば、収穫量が3~4倍になると約束した。実際には、その技術は1854年から知られていて過去20年にわたって広く研究されていて、全然新しいものでもなければ、役に立つものでもなかった。

ソビエトの報道機関はルイセンコを新しい革命的な技術を開発した天才として報道した。1934年から1940年の間に、ルイセンコの諫言とスターリンの承認により、アゴールやレヴィトやナードソンを含む多くの遺伝学者たちが処刑されるか、ニコライ・バビロフをのような有名なソビエトの遺伝学者が強制収容所に送られた。ニコライ・バビロフは1940年に逮捕され、1943年に刑務所で死亡した。遺伝学は「ファシスト科学」であり「ブルジョワ科学」だという汚名を着せられた。一部の遺伝学者は生き延びて、遺伝学の研究を続けたが、それは危険なことだった。

1948年に、遺伝学は公式に遺伝学はブルジョワ的疑似科学と宣告された。遺伝学者はすべて職を失い、一部は逮捕された。遺伝研究機関は閉鎖された。ニキータ・フルシチョフもルイセンコを偉大な科学者と評し、遺伝学がタブーであり続けた。ただ、遺伝学者たちは釈放されるか、死後名誉回復された。1960年代なかばで、ようやくルイセンコ学説は放棄された。

ルイセンコ学説はソビエトの生物学に対して長期にわたって深刻な損害を与えた。深刻な農業への打撃に直面して、初期のソビエト指導部が誤りを認めるにいたるという、深刻な失敗を表している。ルイセンコ学説も中国まで広がった。ついにソビエトがルイセンコ学説を批判するに至った後も中国では影響が続いた。


群選択

個人は全体として自らのためではなく種のために行動すべきだという群選択が、1960年代まで受け入れられてきた。これは、自己ではなく社会のためになる無私無欲と類似している。群選択への批判と、血縁選択のような利他的行動の代替的説明の発展は、群選択のありうる役割を大きく制限することとなった。1956年のハンガリー動乱抑圧に抗議して党を去るまで共産党員だったジョン・メイナード・スミスは血縁選択をいう用語をつくりり、動物行動の分析ツールとしてゲームの理論の発展に影響した。

遺伝子を共有する血縁者に対してのみ血縁選択)あるいは、返礼されるなら利他的であるべきである。群選択は今では特定の限定された状況でのみ認められるだけである。


現代の情勢

"A Darwinian Left"のピーター・シンガーのような左翼はダーウィニズムを受け入れたが、より保守的な観察者とは異なる政治的および経済的教訓を得た。

リチャード・ドーキンスによって提唱されたミーム理論は、宗教のような考え方や社会制度の進化と普及にダーウィン的進化メカニズムを提案する。ミーム理論は、人類社会において遺伝子的な進化とともにミーム的進化が起きると示唆する。問題は遺伝子の普及対ミームの普及であって、多くの人々は人類社会におけるミームの進化と普及が、遺伝子の進化と普及の重要性をはるかに上回ると論じている。

ジャレド ダイアモンドは環境要因の差異による多様な文化を説明するために、ダーウィンのフレームワーク内で働く唯物論的メカニズムを提唱した。

しかしながら、チャールズ・ダーウィンは同情と他者への援助と全人種へのユニバーサルな教育と奴隷解放の主唱者であり、ナショナリズムへの反対者であったことに注意すべきだ。

社会生物学と進化心理学の理論は、様々な左翼とフェミニストから批判の対象とされてきた。リチャード・レウォンティンのような批判者たちは、一般的にこれらの仮説を生物学的決定論だと非難する。人間の行動生物学主の進化論的説明は、性別役割や外国人嫌いなどが進化したものであって、人間の行動の生来の性質であると主張することで、政治的変化に抵抗するものだと、これらの左翼は主張する。

引用

See, for example, Not in Our Genes: Biology, Ideology and Human Nature (Richard Lewontin, with Steven Rose and Leon J. Kamin) (1984) ISBN 0-394-72888-2[1]
Allen, G.A. (1989) Eugenics and American social history, 1880-1950 [2]
Allen, G.A. (?) Social Origins of Eugenics [3]
Darwin, C.R. (1859) The Origin of Species [4]
Darwin, C.R. (1871) The Descent of Man and Selection in Relation to Sex [5]
Kropotkin, P. (1902)Mutual Aid: A Factor of Evolution
Marx, K. and Engels, F. (1848) The Communist Manifesto [6]
Marx, K. Das Kapital
Maynard Smith, J. (1982) Evoluion and the Theory of Games ISBN 0-521-28884-3
Reid, G.A. (1896) The Present Evolution of Man
Spencer, H. (1851) Social Statics [7]
Singer, P., (1999) A Darwinian Left: Politics, Evolution, and Cooperation, New Haven and London, Yale University Press. ISBN 0-300-08323-8
Stack, D. (2003) The First Darwinian Left: Socialism and Darwinism 1859-1914 ISBN 1-873797-37-0





最終更新:2012年04月15日 11:04