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自然選択とランダムな突然変異を嫌う左翼


日本におけるルィセンコ派の八杉竜一は突然変異による進化を攻撃する[ie. 進化と創造;1949 ]。

進化要因論としての突然変異説批判を、次のように個条かきにしてまとめている。(1) 遺伝子突然変異は生活にとって重要な性質に関係していない。(2) 突然変異は一般に生活力を低下させるから、生物にとって不利である。(3) 人為的に突然変異をひきおこす手段は、生物の正常生活と無関係である。(4) 突然変異には方向性がない。(5) 進化の主要因となるには頻度が低い。[p.124-125]


これらは 創造論者の主張 と何ら違っていない。



今西進化論のようなものを求める左翼

個体単位の突然変異の蓄積ではなく、今西錦司の言うような「集団が進化」するのだと言う左翼がいる。

しかし例えば、人間は果たして、人間の前の“種”の中から生じた、突然変異的な存在(これは、論理必然的に“個”としての存在である)から発展してきたものであろうか、そんな風に人間の発端と進化の歴史を理解することができるであろうか。何らかの猿(類人猿)から、人間への進化は果たして“偶然”の結果であろうか。我々は類人猿の中にたまたま生じた、たった一人のある“ミュータント”の子孫、その意味で偶然の産物であろうか。
...
人類の発端にしても、偶然に生じた類人猿の中の、“突然異変”的な個体から発展してきたというより、ある類人猿の少なくとも一群が、特別の条件と環境の下で進化して人類の祖先となっていったと理解する方が、はるかに理にかなっているように思われる。“個人主義的”発想法はここでも有害ではないだろうか。




自然選択では説明できないという左翼

共産主義の製造元であるエンゲルスも...

私はダーウィンの学説について進化説は受け容れますが、ダーウィンの証明方法(生活のための闘争、自然淘汰)はただ、新しく発見された一つの事実の、はじめての、暫定的な、不完全な、表現としてそれを容認するだけのことでしかありません。ダーウィンのときまでは、今日では至るところにただ生存のための闘争だけしか見ないその御当人たち(フォークト、ビュヒナー、モレスコット、その他)が有機的な自然のまさに協同作用を、例えば植物界は動物界に酸素と食物を供給し、逆に動物界は植物どもに炭酸と肥料とを供給するというような、とりわけリービッヒによって重視されていたこのようなものを、強調したのでした。双方の見解とも或る限界の内部でそれぞれなんらかの正当さを持っていますが、いずれの一方も他方と同じく一面的で偏狭です。自然諸物体は--無生のものも生あるものも--の交互作用は調和と同じく衝突を、闘争と同じく協同作用を、ともに含んでおります。ですから、一人の自然研究者と自任する者が歴史的発展の多様な冨の全体を「生存のための闘争」という一面的な痩せたきまり文句のもとに、自然の領域においてさえもまともに文字通りには受け取れれえてはいないのこの文句のもとに、包摂させることをあえてするならば、このやり方は全く自分自身を罪に落とすものです。

[エンゲルス: 自然の弁証法(下), 岩波文庫 pp.318-319]


また、立命館大学の須藤泰秀教授はエンゲルスの「サルが人間になるにあたっての労働の役割」の解説において、獲得形質の遺伝があってほしいと語る。

手が自由になり,今や新しい技能を次々獲得することができるようになっていた。そしてこの技能とともに26)獲得された,以前にも勝る柔軟性を後の世代に継承させ27),世代から世代へ強化させていったのである

27) vererben は伊藤嘉昭氏の訳語〔伊藤嘉昭『サルが人間になるにあたっての労働の役割』,(青木書店,1967 年),60 ページ〕にならって訳した。現代遺伝学で,獲得形質が遺伝することはないと結論づけられてから久しいからである。だが種レベルで,何百万年も費やしたヒトへの進化に関して,遺伝子のランダムな突然変異と自然選択だけで全てが説明し尽くされるかは疑問。相互作用に基づくのが世の常なれば,行動変化が蛋白性機能分子群に影響を与え,ひいては遺伝子を変異させる逆の可能性もあると思えるのだが……。



現在は、全国労働組合総連合系組織の出版部門である学習の友社から出版されている「鰺坂ほか: 反デューリング論の学習」(2006)は、もともと共産党の下部組織のひとつ日本民主青年同盟から出版されていた。従って、その見解はそこそこ共産党の公式なものと思われる。その本で、自然選択に絡んで:

フランスのモノーらのように分子レベルで変異と淘汰を説明する試みもありますが、この説の最大の難点は変異も淘汰もたんなる偶然でしか説明されないという点であり、これについてさまざまな議論があります。近年話題を呼んでいる「今西進化論」などもこの点を突いたものです。今西氏らはダーウィンの説も20世紀の分子生物学も変異の必然性を説明できず、承認できないといっています。エンゲルスがすでに19世紀にダーウィン説では変異の原因が解明できていないといい、その限界を指摘しつつ、その積極的意義を認めている点は重要だといえましょう。

もちろんエンゲルスは進化の問題をすべて細部にわたって解明しつくしたわけではありません。20世紀の生物学もそれの完全な解明はできていないのですから当然のことです。エンゲルスはダーウィン説をラマルク説で補う方向で考えていたと思われるのですが(112~113)、これも興味あるところです。

[鰺坂ほか: 反デューリング論の学習, p.46]
と記述している。「この説の最大の難点は変異も淘汰もたんなる偶然でしか説明されないという点」とインテリジェントデザイン理論家たちと同じことを言っている。


それはアニミスト

Jacques Monodはこのような左翼の進化についての考え方をアニミストと評している。

普遍的合目的原理にもとづく一群の考え方があって、それによる。この原理は生物圏の進化ばかりか宇宙の進化を支配しており、生物圏の内部ではたんにより精密かつ強烈な仕方で現れているにすぎないと、考えているのである。これらの理論は生物のなかに、普遍的に方向づけられた進化から生じた、もっとも洗練され、もっとも完璧な産物を見ているのである。そして、その進化の到達点が人間および人類であり、そこまで到達したのはそうなるべき定めにあったからである。これらの見方 -- 私はこれを物活説(アニミスト)と呼ぶことにする -- は多くの点で生気説よりも興味深い。

[Jacques Lucien Monod: "Chance and Necessity", 1970; 渡辺格・村上光彦訳: 偶然と必然, 1972] pp.27-28

「歴史の必然」は「進化は進歩である」という主張へとつながり、「自然選択とランダムな突然変異」は相いれない。





最終更新:2012年04月15日 13:10