Payard(パイヤール)のケーキとルノートル

2009年7月29日 (水)





Francois Payard氏は、移転前のDanielのパティシェとして名を馳せ、97年にDaniel Boulud氏と共にPayard Patisserie&Bistroをオープンさせています。

1979年に池袋の西武百貨店にオープンしたルノートルが4月25日をもって閉店となりました。そのスペースに入ったお店がパイヤール。

今年の1月8日に88歳で他界されがガストン・ルノートルさんは、1920年にノルマンディーで生まれ、料理人だった御両親の影響で14歳からお菓子屋さんで働き始め、1957年には今のルノートルの本店であるオトイユのお店を開店させました。

その後はパリ市内と近郊にどんどんお店をオープンさせ、さらには日本を初めとする海外へと発展させていきました。

ルノートルが成長していった時代、フランス菓子の流れはルノートルが作り出していました。

エーグルドゥースの寺井シェフがルノートルでお菓子の経歴をスタートさせたように、あのピエール・エルメ氏もガストンさんのもとで初めてお菓子屋さんとして働き始めたのです。

チョコレートで有名なミシェル・ショーダンさんはルノートルのチョコレート部門のシェフから独立した人ですし、ジャンポール・エヴァンさんも、今は亡くなってしまいましたがペルティエさんもルノートルと関係があったようです。

私がコルドンで製菓の基礎を習った先生は、パリのルノートルで働いていた方で、ルノートルの話は何度もでてきました。

4月にコルドンブルーに入学してすぐに、いつもお世話になっている西武百貨店本店の外商さんに頼みこんで、西武の地下にあるルノートルの工場(製造現場)を見せて頂きました。
まさかそれから一ヶ月もせずルノートルが撤退するとは想像もできませんでした。

第一経営の倒産で、神田精養軒やジェラール・ミュロも無くなり、その影響でルノートルも日本から消えてしまいました

ルノートルは西武百貨店と契約し、1979年、池袋を皮切りに渋谷、宇都宮、八王子、有楽町、札幌、関西の八尾、高槻、塚新、神戸などの各店と、横浜や自由が丘、調布、白金、名古屋などのセゾン系の商業施設に出店しました。

その後、実際に商品の製造を行っていた、当時のレストラン西武に契約を移行し、この2月1日には九州の第一経営に営業譲渡されました。

ところが第一経営は2週間ほどで倒産となり、それ以降も譲渡前の西洋フード・コンパスに身分は戻ったものの、(私が見学した時は既に末期的状況で、契約は有期のアルバイト契約で各種社会保障もないまま、働いていたと後日お伺いしました)
5月がルノートル社との契約更新月だったのですが、一度権利を譲渡した西洋フード・コンパス社は当然ながら契約更新することはせず、とうとう連休前の25日に全店舗撤退を決定しました。

今年の初めに創業者のガストン・ルノートルさんが亡くなり、4月には30年の歴史に終止符を打つこととなり、日本のルノートル関係者はみな失望、落胆しています。

いつの日かまた日本にルノートルの看板飾られることを願っています。

おいしいもの



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最終更新:2009年12月31日 19:25