巻第二百二十九

資治通鑑巻第二百二十九
 唐紀四十五
  徳宗神武聖文皇帝四

 建中四年(七八三)

1.十一月,丁亥,以隴州為奉義軍,擢皋為節度使。泚又使中使劉海廣許皋鳳翔節度使。皋斬之。

1.十一月丁亥、隴州を奉義軍とし、韋皋を節度使とした。朱泚はまた中使の劉海広をして韋皋の鳳翔節度使となるのを許したが、韋皋はこれを斬った。

2.靈武留後杜希全、鹽州刺史戴休顏、夏州刺史時常春會渭北節度使李建徽,合兵萬人入援,將至奉天,上召將相議道所從出。關播、渾瑊曰:「漠谷道險狹,恐為賊所邀。不若自乾陵北過,附柏城而行,營於城東北雞子堆,與城中掎角相應,且分賊勢。」盧杞曰:「漠谷路近,若為賊所邀,則城中出兵應接可也。倘出乾陵,恐驚陵寢。」瑊曰:「自泚圍城,斬乾陵松柏,以夜繼晝,其驚多矣。今城中危急,諸道救兵未至,惟希全等來,所繫非輕,若得營據要地,則泚可破也。」杞曰:「陛下行師,豈比逆賊!若令希全等過之,是自驚陵寢。」上乃命希全等自漠谷進。丙子,希全等軍至漠谷,果為賊所邀,乘高以大弩、巨石擊之,死傷甚眾。城中出兵應接,為賊所敗。是夕,四軍潰,退保邠州。泚閱其輜重於城下,從官相視失色。休顏,夏州人也。泚攻城益急,穿塹環之。泚移帳於乾陵,下視城中,動靜皆見之。時遣使環城招誘士民,笑其不識天命。

2.霊武の留後の杜希全、塩州刺史の戴休顔、夏州刺史の時常春は渭北節度使の李建徽と会し、兵を合わせて一万人で援軍に入り、奉天に入ろうとしたが、お上は将軍・宰相を召して通過すべきところを協議した。関播・渾瑊は、「漠谷は道は険しく狭く、賊に迎撃されることを恐れます。乾陵より北に通過するのにこしたことはありません。柏城に近づいて行けば、城の東北の鶏子堆に宿営し、城中と挟み撃ちにしてたがいに呼応すれば、また賊の勢いを分断することができます」と言ったが、盧杞は、「漠谷の道は近く、もし賊に迎撃されたとしても、ただちに城中から出兵すれば接敵することができます。もしも乾陵に出たならば、陵寝(帝陵と寝殿)を驚かしてしまうことを恐れます」と言った。渾瑊は、「朱泚が城を包囲すれば、乾陵の松や柏を切って、昼夜相次ぐから、陵寝を驚かすことはもっと多くなります。今城中は危急で、諸道の救兵はまだ来ていません。思うに杜希全らが来れば、将兵の士気を繋ぎ止めるに重く、もし駐屯を要衝によることができれば、ただちに朱泚を破ることができるでしょう」と言った。盧杞は、「陛下が軍と行くのに、どうして逆賊と比較することができようか!もし杜希全らが通過すれば、これより陵寝を驚かしてしまう」と言い、お上はそこで杜希全らに命じて漠谷より進ませた。丙子、杜希全らの軍は漠谷に到達したが、果たして賊に迎撃され、高いところから大弩・巨石で攻撃され、死傷者は非常に多かった。城中から出兵して接敵したが、賊に敗北した。この夜、四軍は壊滅し、退却して邠州を防衛した。朱泚はその輜重を城下で閲兵し、官吏は顔色を失った。戴休顔は夏州の人である。朱泚は攻城することますます厳しく、塹壕を掘ってこれを取り囲んだ。朱泚は本陣を乾陵に移し、上から城中を見下ろしたから、城中の動静はすべて見えた。当時、包囲下の城に使者を派遣して兵士・民衆の投降を誘ったが、笑ってその天命を知ることはなかった。

3.神策河北行營節度使李晟疾愈,聞上幸奉天,帥眾將奔命。張孝忠迫於朱滔、王武俊,倚晟為援,不欲晟行,數沮止之。晟乃留其子憑,使娶孝忠女為婦,又解玉帶賂孝忠親信,使說之。孝忠乃聽晟西歸,遣大將楊榮國將銳兵六百與晟俱。晟引兵出飛狐道,晝夜兼行,至代州。丁丑,加晟神策行營節度使。

3.神策河北行営節度使の李晟の病が癒え、お上が奉天に行幸したのを聞いて、軍を率いてまさに出動しようとした。張孝忠は朱滔・王武俊に迫って、李晟を頼って援軍としようと、李晟を行かせないように思い、しばしば行くことを阻止した。李晟はそこでその子の李憑を留めて、張孝忠の娘を娶って夫人とさせ、また玉帯をといて張孝忠に贈って信頼の証とし、これを説得させた。張孝忠はそこで李晟が西に帰ることを許し、大将の楊栄国を派遣して精兵六百を李晟とともに同行させた。李晟は兵を率いて飛狐道に出て、昼夜兼行して代州に到った。丁丑、李晟に神策行営節度使を加えた。

4.王武俊、馬寔攻趙州不克。辛巳,寔歸瀛州,武俊送之五里,犒贈甚厚。武俊亦歸恆州。

4.王武俊・馬寔は趙州を攻撃したが勝てなかった。辛巳、馬寔は瀛州に帰還し、王武俊はこれを送ること五里、贈り物は非常に厚かった。王武俊もまた恒州に帰還した。

5.上之出幸奉天也,陝虢觀察使姚明敭以軍事委都防禦副使張勸,去詣行在。勸募兵得數萬人。甲申,以勸為陝虢節度使。

5.お上が出て奉天に行幸すると、陝虢観察使の姚明敭は軍事委都防禦副使の張勧に去らせて行在に行かせた。募兵して数万人を得た。甲申、張勧を陝虢節度使とした。

6.朱泚攻圍奉天經月,城中資糧俱盡。上嘗遣健步出城覘賊,其人懇以苦寒為辭,跪奏乞一襦褲誇。上為之尋求不獲,竟憫默而遣之。時供御纔有糲米二斛,每伺賊之休息,夜,縋人於城外,采蕪菁根而進之。上召公卿將吏謂曰:「朕以不德,自陷危亡,固其宜也。公輩無罪,宜早降,以救室家。」群臣皆頓首流涕,期盡死力,故將士雖困急而銳氣不衰。

6.朱泚が奉天を攻囲すること一ヶ月、城中の資財・兵糧はともに尽きた。お上はかつて飛脚を遣わして城を出て賊を偵察させた。その人は心から寒さに苦しいことを述べて、跪いて奏じて一短衣を願った。お上はこのためにたずね求めたが得られなかったが、ついにその寒さを哀れんだが要求に答えられないままに遣わした。当時、お上の食事はわずかに糲米二斛だけで、賊が攻撃を休むのをうかがうごとに、夜に人を城外におろして、蕪菁根(大根)をとって進上した。お上は公卿・将吏を召して、「朕は不徳によって自ら危亡に陥ったが、もとよりいやはやもっともである。公らには罪はなく、よろしく速やかに降って室家を救え」と言うと、群臣は皆頓首して涙を流し、死力を尽くすことを期し、そのため将兵は困難であっても士気は衰えなかった。

上之幸奉天也,糧料使崔縱勸李懷光令入援,懷光從之。縱悉斂軍資與懷光皆來。懷光晝夜倍道,至河中,力疲,休兵三日。河中尹李齊運傾力犒宴,軍士尚欲遷延。崔縱先輦貨財渡河,謂眾曰:「至河西,悉以分賜。」眾利之,西屯蒲城,有眾五萬。齊運,惲之孫也。

お上が奉天に行幸するや、糧料使の崔縦が李懐光に勧めて援軍させた。李懐光はこれに従った。崔縦はことごとく軍資をおさめて李懐光とともに来た。李懐光は昼夜兼行して河中に到り、疲弊のため兵を三日休ませた。河中尹の李斉運は力をつくして労いの宴をしたが、軍の兵士は進軍しようと願った。崔縦はまず財貨の車を渡河させようとし、軍に、「河西に至ればすべて分配しよう」と言ったから、軍はこれに利そうとし、西は蒲城に駐屯し、軍は五万となった。李斉運は李惲の孫である。

李晟行且收兵,亦自蒲津濟,軍於東渭橋。其始有卒四千,晟善於撫御,與士卒同甘苦,人樂從之,旬月間至萬餘人。

李晟は行って兵を収め、また蒲津済より東渭橋に進軍した。最初は兵四千であったが、李晟はよく撫育し、兵士と甘苦を同じくし、人は喜んでこれ従ったから、十日ほどで一万人になった。

神策兵馬使尚可孤討李希烈,將三千人在襄陽,自武關入援,軍於七盤,敗泚將仇敬,遂取藍田。可孤,宇文部之別種也。

神策兵馬使の尚可孤は李希烈を攻撃し、三千人を率いて襄陽にあり、武関より援軍に入り、七盤に進軍したが、朱泚の将軍の仇敬忠を破り、遂に藍田を奪取した。尚可孤は宇文部の別種である。

鎮國軍副使駱元光,其先安息人,駱奉先養以為子,將兵守潼關近十年,為眾所服。朱泚遣其將何望之襲華州,刺史董晉棄州走行在。望之據其城,將聚兵以絕東道。元光引關下兵襲望之,走還長安。元光遂軍華州,召募士卒,數日,得萬餘人。泚數遣兵攻元光,元光皆擊卻之,賊由是不能東出。上即以元光為鎮國軍節度使,元光乃將兵二千西屯昭應。

鎮国軍副使の駱元光は、その先祖は安息(パルティア)の人で、駱奉先は養子とした。兵を率いて潼関を守ること十年近くとなり、そのため軍は心服していた。朱泚はその将軍の何望之を派遣して華州を襲撃し、刺史の董晋は州を棄てて行在に逃走した。何望之はその城によって、集めた兵を率いて東道を途絶させた。駱元光は潼関の兵を率いて何望之を襲撃し、長安に逃げ帰らせた。駱元光は遂に華州に進軍し、兵士を応募し、数日して一万人あまりとなった。朱泚はしばしば兵を派遣して駱元光を攻撃したが、駱元光はすべて撃退した。賊はそのため東に出ることができなくなった。お上はそこで駱元光を鎮国軍節度使とし、駱元光はそこで兵二千を率いて西は昭応に駐屯した。

馬燧遣其行軍司馬王權及其子匯將兵五千人入援,屯中渭橋。

馬燧は行軍司馬の王権、およびその子の王匯を派遣して兵五千人を率いて援軍に入らせ、中渭橋に駐屯した。

於是泚黨所據惟長安而已,援軍游騎時至望春樓下。李忠臣等屢出兵皆敗,求救於泚,泚恐民間乘弊抄之,所遣兵皆晝伏夜行。泚內以長安為憂,乃急攻奉天,使僧法堅造雲梯,高廣各數丈,裹以兕革,下施巨輪,上容壯士五百人。城中望之忷懼。上以問群臣,渾瑊、侯仲莊對曰:「臣觀雲梯勢甚重,重則易陷。臣請迎其所來鑿地道,積薪蓄火以待之。」神武軍使韓澄曰:「雲梯小伎,不足上勞聖慮,臣請御之。」乃度梯之所傃,廣城東北隅三十步,多儲膏油松脂薪葦於其上。丁亥,泚盛兵鼓噪攻南城,韓游瑰曰:「此欲分吾力也。」乃引兵嚴備東北。戊子,北風甚迅,泚推雲梯,上施濕氈,懸水囊,載壯士攻城,翼以轒轀,置人其下,抱薪負土填塹而前,矢石火炬所不能傷。賊並兵攻城東北隅,矢石如雨,城中死傷者不可勝數。賊已有登城者,上與渾瑊對泣,群臣惟仰首祝天。上以無名告身自御史大夫、實食五百戶以下千餘通授瑊,使募敢死士御之,仍賜御筆,使視其功之大小書名給之,告身不足則書其身,且曰:「今便與卿別。」瑊俯伏流涕,上拊其背,歔欷不自勝。時士卒凍餒,又乏甲冑,瑊撫諭,激以忠義,皆鼓噪力戰。瑊中流矢,進戰不輟,初不言痛。會雲梯輾地道,一輪偏陷,不能前卻,火從地中出,風勢亦回,城上人投葦炬,散松脂,沃以膏油,歡呼震地。須臾,雲梯及梯上人皆為灰燼,臭聞數里,賊乃引退。於是三門皆出兵,太子親督戰,賊徒大敗,死者數千人。將士傷者,太子親為裹瘡。入夜,泚復來攻城,矢及御前三步而墜,上大驚。

ここに朱泚の党はただ長安にのみ根拠とするだけになり、援軍の騎兵が時折望春楼下に到った。李忠臣らはしばしば兵を出したがすべて敗れ、朱泚に救援を求めた。朱泚は民間がこれに乗じて掠め取ることを恐れ、兵を派遣して昼は伏せて夜に進ませた。朱泚は心内では長安を心配の種としていたから、そこで奉天を猛攻し、僧法堅に雲梯を造らせ、高さ、幅がそれぞれ数丈、牛革で覆い、下には巨大な車輪をつくり、上には壮士五百人を収容した。城中はこれを見て恐れ慄いた。お上は群臣に対策を問うと、渾瑊・侯仲荘が、「臣が雲梯を見るに勢いは非常に重く、重いということは陷りやすいのです。臣はその来るところを迎えて道に穴掘り、薪を積んで火をつけて待ち伏せします」と答えた。神武軍使の韓澄は、「雲梯は小細工であって、聖慮を煩わすほどのものではありません。臣は防いでみせましょう」と言い、そこで雲梯が来そうなところにわたって、城の東北隅の三十歩を広げて、多くの膏油・松脂・薪葦をその上に蓄えた。丁亥、朱泚は兵を太鼓や歓声で士気を盛り上げて南城を攻撃した。韓游瑰は、「これは私の力をわけようと思う」と言い、そこで兵を率いて東北を厳重に備えた。戊子、北風が猛烈に吹き、朱泚は雲梯を押して、上は湿らせた毛布を施し、水袋を懸け、壮士を乗せて城を攻め、左右には轒轀(装甲車)を配置し、人をその下に置き、薪や土を背負って塹壕を埋めて前進し、矢・石・火・松明では傷つけることができなかった。賊は兵を列べて城の東北隅を攻撃し、矢や石は雨のようで、城中の死傷者は数えられなかった。賊にはすでに城に登る者がいて、上と渾瑊は向かい合って泣き、群臣はただ首を仰いで天を呪った。お上は無名告身で御史大夫より実食五百戸以下の千通あまりを渾瑊に授け、募集した決死隊を率いさせ、そこで御筆を賜い、その功績の大小を見て名を書いてこれを給付し、告身が足りなければただちに書いた。そして「今は卿との別れだな」と言い、渾瑊は俯いて涙を流した。お上はその背中をなで、悲しみの泣き声を自分ではどうすることもできなかった。当時、将兵は凍えて飢え、また甲冑は乏しく、渾瑊は説諭し、忠義を演説し、みな太鼓・歓声をあげて力戦した。渾瑊は流矢があたり、戦いを進めてやめず、痛いと言わなかった。雲梯が地道に転がると一つの車輪が炎上し、進むことも退くこともできず、火は地中から出て、風で火の勢いがまわり、城上の人も松明を投げ、松脂を散らし、膏油を浴びせ、歓呼が地を震った。しばらくの間、雲梯とその上の人はすべて灰燼と化し、臭いや音が数里にわたり、賊はそこで撤退した。ここに三門からすべて兵を出し、太子は自ら督戦し、賊徒は大いに敗れ、死者数千人となった。将兵で傷ついだ者は、太子が親ら包帯した。夜になると朱泚はまた攻城に来て、矢が御前の三歩前で落ち、お上は大いに驚いた。

李懷光自蒲城引兵趣涇陽,並北山而西,先遣兵馬使張韶微服間行詣行在,藏表於蠟丸。韶至奉天,值賊方攻城,見韶,以為賤人,驅之使與民俱填塹。韶得間,逾塹抵城下呼曰:「我朔方軍使者也。」城上人下繩引之,比登,身中數十矢,得表於衣中而進之。上大喜,舁韶以徇城,四隅歡聲如雷。癸巳,懷光敗泚兵於澧泉。泚聞之懼,引兵遁歸長安。眾以為懷光復三日不至,則城不守矣。

李懐光は蒲城より兵を率いて涇陽に行き、北山に列んで西にいたった。兵馬使の張韶を密かに服を変えて行在に先発させ、上表を蝋で丸めて隠した。張韶が奉天に来ると、賊がまさに城を攻めようとしているのに出会い、張韶を見て、賎人だと思って、これを使役して他の民衆とともに塹壕を埋めさせた。張韶が隙きを見て、塹壕を越えて城下に到って、「私は朔方軍の使者だ」と叫び、城上の人は縄をおろしてこれを引っ張り上げた。登る時、身に数十の矢があたり、上表を衣の中から出して進上した。お上は大いに喜び、張韶を担いで城を巡らせ、四隅に歓声がおきることは雷のようであった。癸巳、李懐光は朱泚の兵を澧泉で破った。朱泚はこれを聞いて恐れ、兵を撤退して長安に逃げ帰った。軍は李懐光のために二・三日しても至らず、そこで城は守りを解いた。

泚既退,從臣皆賀。汴滑行營兵馬使賈隱林進言曰:「陛下性太急,不能容物,若此性未改,雖朱泚敗亡,憂未艾也!」上不以為忤,甚稱之。侍御史万俟著開金、商運路,重圍既解,諸道貢賦繼至,用度始振。

朱泚が退却すると、群臣は皆祝賀した。汴滑行営兵馬使の賈隠林は、「陛下は性格が非常に性急で、器量が大きくすることができません。もしこの性格が改まらなければ、朱泚が敗れ滅んだとしても、憂いは未だに収まらないのです!」と進言し、上はさからわず、非常にこれを称えた。侍御史の万俟著が金州・商州の運路を開き、重囲がすでに解囲したから、諸道の貢賦は相継いで到り、費用ははじめて振った。

朱泚至長安,但為城守之計,時遣人自城外來,周走呼曰:「奉天破矣!」欲以惑眾。泚既據府庫之富,不愛金帛以悅將士,公卿家屬在城者皆給月俸。神策及六軍從車駕及哥舒曜、李晟者,泚皆給其家糧。加以繕完器械,日費甚廣。及長安平,府庫尚有餘蓄,見者皆追怨有司之暴斂焉。

朱泚が長安に到ると、城を守る計略のため、当時人を城の外より遣わして来て、周囲を走って、「奉天を破ったぞ!」と叫ばせ、衆を惑せようとした。朱泚はすでに府庫の富によっていたが、金帛を愛さずに将兵を喜ばせることに用い、公卿の家属で城にいる者は皆月俸を給付した。神策および六軍で車駕および哥舒曜・李晟に従う者は、朱泚が皆その家の食料を給付した。それだけではなく攻城用の器械を建造・修築し、日々の費えは非常に多かった。長安が平定されると、府庫にはなおも余剰の備蓄があったが、見る者は皆追って役人の苛斂誅求があることを恨んだ。

或謂泚曰:「陛下既受命,唐之陵庫不宜復存。」泚曰:「朕嘗北面事唐,豈忍為此!」又曰:「百官多缺,請以兵脅士人補之。」泚曰:「強授之則人懼。但欲仕者則與之,何必叩戶拜官邪!」所用者惟范陽、神策團練兵。涇原卒驕,皆不為用,但守其所掠資貨,不肯出戰。又密謀殺泚,不果而止。

ある者が朱泚に、「陛下はすでに天命を受けられました。唐の陵庫は存在させておくべきではありません」と言ったが、朱泚は、「朕はかつて北面して唐に仕えたから、どうしてこのようなことができようか!」と言った。また、「百官は欠員が多く、兵で士人を脅して補充しましょう」と言ったが、朱泚は、「強制してこれを授けても人は恐れるだけだ。ただ仕えたいと思う者にこれを与えよう。どうして必ず戸を叩いて官を拝命することがあろうか!」と言った。用いた者はただ范陽・神策団練兵であった。涇原の兵卒は驕慢で、すべて用いなかった。ただその略奪した財貨を守るだけで、戦いに出ることをよしとしなかった。また密かに朱泚を謀殺しようとし、果さずに止めた。

李懷光性粗疏,自山東來赴難,數與人言盧杞、趙贊、白志貞之奸佞,且曰:「天下之亂,皆此曹所為也!吾見上,當請誅之。」既解奉天之圍,自矜其功,謂上必接以殊禮。或說王翃、趙贊曰:「懷光緣道憤歎,以為宰相謀議乖方,度支賦斂煩重,京尹犒賜刻薄。致乘輿播遷者,三臣之罪也。今懷光新立大功,上必披襟布誠,詢訪得失,使其言入,豈不殆哉!」翃、贊以告盧杞。杞懼,從容言於上曰:「懷光勳業,社稷是賴,賊徒破膽,皆無守心,若使之乘勝取長安,則一舉可以滅賊,此破竹之勢也,今聽其入朝,必當賜宴,留連累日,使賊入京城,得從容成備,恐難圖矣!」上以為然。詔懷光直引軍屯便橋,與李建徽、李晟及神策兵馬使楊惠元刻期共取長安。懷光自以數千里竭誠赴難,破朱泚,解重圍,而咫尺不得見天子,意殊怏怏,曰:「吾今已為奸臣所排,事可知矣!」遂引兵去,至魯店,留二日乃行。

懐光は人となりは荒く片意地を張っており、山東よりやって来て難に赴いたが、しばしば人と盧杞・趙賛・白志貞の奸佞を言って、また「天下が乱れたのはすべて小奴らのせいである!私がお上に謁見したら、ただちに誅殺を願い出よう」と言っていた。すでに奉天の包囲が解かれると、自らその功績をたのみ、お上が必ずや接して礼をあつくされると言っていた。ある者が王翃・趙賛に、「李懐光は憤慨を言っており、宰相の謀議は方策にそむき、度支の納税は煩わしく、京兆尹の贈り物は刻薄である。乘輿をさまよわせたのは、三臣の罪である。今李懐光は新たに大功を立て、お上は必ずや襟をひらいて誠を述べさせ、得失を尋ねられるから、その言を入れられれば、なんと危ういことだろうか!」と説いて、王翃・趙賛はそのことを盧杞に告げた。盧杞は恐れ、従容としてお上に、「李懐光の勲功の業績は、社稷が頼りとすることころで、賊徒は肝を破り、皆心を守ることはできません。もし李懐光に勝利の乗じて長安を奪取させれば、一挙に賊を滅ぼすことができます。これは破竹の勢いです。今その入朝を聴せば、必ずや賜宴となり、連日留まって、賊を京城に入れさせ、防備させてしまいます。そうすればついには何もできなくなってしまいます!」と言い、お上もそうだと思った。李懐光に詔して、直ちに軍を引き返して便橋に駐屯させ、李建徽・李晟および神策兵馬使の楊恵元とともに急いで共に長安を奪取させようとした。李懐光は自ら数千里を進み誠をつくして艱難に赴き、朱泚を破り、重囲を解いたのに、すぐ近くにいるのに天子に謁見できず、意はことさらに怏々とし、「私は今もう奸臣のために排斥された。この事は知るべきだ!」と言い、遂に兵を引き上げて去り、魯店に到って、二日留まってから行った。

7.劍南西山兵馬使張朏以所部兵作亂,入成都,西川節度使張延賞棄城奔漢州。鹿頭戍將叱干遂等討之,斬朏及其黨,延賞復歸成都。

7.剣南西山兵馬使の張朏が配下の兵に擁立されて反乱を起こし、成都に入った。西川節度使の張延賞は城を棄てて漢州に逃げた。鹿頭の守将の叱干遂らはこれを討伐し、張朏およびその与党を斬り、張延賞は再び成都に帰った。

8.淮南節度使陳少游將兵討李希烈,屯盱眙,聞朱泚作亂,歸廣陵,修塹壘,繕甲兵。浙江東、西節度使韓滉閉關梁,禁馬牛出境,築石頭城,穿井近百所,繕館第數十,修塢壁,起建業,抵京峴,樓堞相屬,以備車駕渡江,且自固也。少游發兵三千大閱於江北。滉亦發舟師三千曜武於京江以應之。

8.淮南節度使の陳少游は兵を率いて李希烈を討伐し、盱眙に駐屯した。朱泚が反乱したのを聞いて、広陵に戻り、塹壕・堡塁を修造し、甲兵を整えた。浙江東西節度使の韓滉が関梁を閉鎖し、馬牛が境を出るのを禁じ、石頭城を築城し、井を近くに百箇所掘り、邸宅数十を修繕し、塢壁を修造し、建業より京峴山まで、楼・姫垣が続き、車駕が江を渡るのに備えて、また自ら守りを固めた。陳少游は兵三千を発して大いに江北で閲兵した。韓滉もまた水軍三千を発して京江で威武してこれに応じた。

鹽鐵使包佶有錢帛八百萬、將輸京師。陳少游以為賊據長安,未期收復,欲強取之。佶不可,少游欲殺之。佶懼,匿妻子於案牘中,急濟江。少游悉收其錢帛。佶有守財卒三千,少游亦奪之。佶纔與數十人俱至上元,復為韓滉所奪。

塩鉄使の包佶は銭帛八百万を京師に運ぼうとした。陳少游は賊が長安によっていて、いまだ納めるべき時ではないとして、これを強奪しようとした。佶は拒んだから、陳少游は殺そうとした。包佶は恐れ、妻子を公文書の中に隠し、急いで江を渡った。陳少游はことごとくその銭帛を収容した。包佶は財を守る兵三千いたが、陳少游はまたこれも奪った。包佶はわずかに数十人とともに上元に到ったが、また韓滉に奪われた。

時南方籓鎮各閉境自守,惟曹王皋數遣使開道貢獻。李希烈攻逼汴、鄭,江、淮路絕,朝貢皆自宣、饒、荊、襄趣武關。皋治郵驛,平道路,由是往來之使,通行無阻。

当時、南方の藩鎮はそれぞれ境を閉ざして自ら守り、ただ曹王皋のみがしばしば使者を派遣して道を開いて貢献した。李希烈は攻めて汴州・鄭州・江州・淮州の路を閉ざし、朝貢はすべて宣州・饒州・荊州・襄州より武関に赴いた。曹王皋は郵駅を治め、道路を平らげたから、これより往来の使は、通行が阻まれることはなかった。

9.上問陸贄以當今切務。贄以曏日致亂,由上下之情不通,勸上接下從諫,乃上疏,其略曰:「臣謂當今急務,在於審察群情,若群情之所甚欲者,陛下先行之;所甚惡者,陛下先去之。欲惡與天下同而天下不歸者,自古及今,未之有也。未理亂之本,繫於人心,況乎當變故動搖之時,在危疑向背之際,人之所歸則植,人之所在則傾,陛下安可不審察群情,同其欲惡,使億兆歸趣,以靖邦家乎!此誠當今之所急也。」又曰:「頃者竊聞輿議,頗究群情,四方則患於中外意乖,百辟又患於君臣道隔。郡國之志不達於朝廷,朝廷之誠不升於軒陛。上澤闕於下布,下情壅於上聞,實事不必知,知事不必實,上下否隔於其際,真偽雜糅於其間,聚怨囂囂,騰謗籍籍,欲無疑阻,其可得乎!」又曰:「總天下之智以助聰明,順天下之心以施教令,則君臣同志,何有不從!遠邇歸心,孰與為亂!」又曰:「慮有愚而近道,事有要而似迂。」疏奏旬日,上無所施行,亦不詰問。贄又上疏,其略曰:「臣聞立國之本,在乎得眾,得眾之要,在乎見情。故仲尼以謂人情者聖王之田,言理道所生也。」又曰:「《易》,乾下坤上曰泰,坤下乾上曰否,損上益下曰益,損下益上曰損。夫天在下而地處上,於位乖矣,而反謂之泰者,上下交故也。君在上而臣處下,於義順矣,而反謂之否者,上下不交故也。上約己而裕於人,人必悅而奉上矣,豈不謂之益乎!上蔑人而肆諸己,人必怨而叛上矣,豈不謂之損乎!」又曰:「舟即君道,水即人情。舟順水之道乃浮,違則沒;君得人之情乃固,失則危。是以古先聖王之居人上也,必以其欲從天下之心,而不敢以天下之人從其欲。」又曰:「陛下憤習俗以妨理,任削平而在躬,以明威照臨,以嚴法制斷,流弊自久,浚恆太深。遠者驚疑而阻命逃死之亂作,近者畏懾而偷容避罪之態生。君臣意乖,上下情隔,君務致理,而下防誅夷,臣將納忠,又上慮欺誕,故睿誠不佈於群物,物情不達於睿聰。臣於往年曾任御史,獲奉朝謁,僅欲半年,陛下嚴邃高居,未嘗降旨臨問,群臣跼蹐趨退,亦不列事奏陳。軒墀之間,且未相諭,宇宙之廣,何由自通!雖復例對使臣,別延宰輔,既殊師錫,且異公言。未行者則戒以樞密勿論,已行者又謂之遂事不諫,漸生拘礙,動涉猜嫌,由是人各隱情,以言為諱,至於變亂將起,億兆同憂,獨陛下恬然不知,方謂太平可致。陛下以今日之所睹驗往時之所聞,孰真孰虛,何得何失,則事之通塞備詳之矣!人之情偽盡知之矣!」
上乃遣中使諭之曰:「朕本性甚好推誠,亦能納諫。將謂君臣一體,全不堤防,緣推誠信不疑,多被奸人賣弄。今所致患害,朕思亦無它,其失反在推誠。又,諫官論事,少能慎密,例自矜衒,歸過於朕以自取名。朕從即位以來,見奏對論事者甚多,大抵皆是雷同,道聽塗說,試加質問,遽即辭窮。若有奇才異能,在朕豈惜拔擢?朕見從前已來,事只如此,所以近來不多取次對人,亦非倦於接納。卿宜深悉此意。」贄以人君臨下,當以誠信為本。諫者雖辭情鄙拙,亦當優容以開言路,若震之以威,折之以辯,則臣下何敢盡言,乃復上疏,其略曰:「天子之道,與天同方,天不以地有惡木而廢發生,天子不以時有小人而廢聽納。」又曰:「唯信與誠,有失無補。一不誠則心莫之保,一不信則言莫之行。陛下所謂失於誠信以致患害者,臣竊以斯言為過矣。」又曰:「馭之以智則人詐,示之以疑則人偷。上行之則下從之,上施之則下報之。若誠不盡於己而望盡於人,眾必怠而不從矣。不誠於前而曰誠於後,眾心疑而不信矣。是知誠信之道,不可斯須而去身。願陛下慎守而行之有加,恐非所以為悔者也!」又曰:「臣聞仲虺讚揚成湯,不稱其無過而稱其改過;吉甫歌誦周宣,不美其無闕而美其補闕。是則聖賢之意較然著明,惟以改過為能,不以無過為貴。蓋為人之行己,必有過差,上智下愚,俱所不免,智者改過而遷善,愚者恥過而遂非;遷善則其德日新,遂非則其惡彌積。」又曰:「諫官不密自矜,信非忠厚,其於聖德固亦無虧。陛下若納諫不違,則傳之適足增美;陛下若違諫不納,又安能禁之勿傳!」又曰:「侈言無驗不必用,質言當理不必違。辭拙而效速者不必愚,言甘而利重者不必智。是皆考之以實,慮之以終,其用無它,唯善所在。」又曰:「陛下所謂『比見奏對論事皆是雷同道聽塗說者』。臣竊以眾多之議,足見人情,必有可行,亦有可畏,恐不宜一概輕侮而莫之省納也。陛下又謂『試加質問,即便辭窮』者,臣但以陛下雖窮其辭而未窮其理,能服其口而未服其心。」又曰:「為下者莫不願忠,為上者莫不求理。然而下每苦上之不理,上每苦下之不忠。若是者何?兩情不通故也。下之情莫不願達於上,上之情莫不求知於下,然而下恆苦上之難達,上恆苦下之難知。若是者何?九弊不去故也。所謂九弊者,上有其六而下有其三:好勝人,恥聞過,騁辯給,眩聰明,厲威嚴,恣強愎,此六者,君上之弊也;諂諛,顧望,畏心耎,此三者,臣下之弊也。上好勝必甘於佞辭,上恥過必忌於直諫,如是則下之諂諛者順旨而忠實之語不聞矣。上騁辯必剿說而折人以言,上眩明必臆度而虞人以詐,如是則下之顧望者自便而切磨之辭不盡矣。上厲威必不能降情以接物,上恣愎必不能引咎以受規,如是則下之畏心耎者避辜而情理之說不申矣。夫以區域之廣大,生靈之眾多,宮闕之重深,高卑之限隔,自黎獻而上,獲睹至尊之光景者,逾億兆而無一焉;就獲睹之中得接言議者,又千萬不一;幸而得接者,猶有九弊居其間,則上下之情所通鮮矣。上情不通於下則人惑,下情不通於上則君疑。疑則不納其誠,惑則不從其令。誠而不見納則應之以悖,令而不見從則加之以刑。下悖上刑,不敗何待!是使亂多理少,從古以然。」又曰:「昔趙武吶吶而為晉賢臣,絳侯木訥而為漢元輔。然則口給者事或非信,辭屈者理或未窮。人之難知,堯、舜所病,胡可以一洲一詰而謂盡其能哉!以此察天下之情,固多失實,以此輕天下之士,必有遺才。」又曰:「諫者多,表我之能好;諫者直,示我之能容;諫者之狂誣,明我之能恕;諫者之漏洩,彰我之能從。有一於斯,皆為盛德。是則人君之與諫者交相益之道也。諫者有爵賞之利,君亦有理安之利;諫者得獻替之名,君亦得採納之名。然猶諫者有失中而君無不美,唯恐讜言之不切,天下之不聞,如此則納諫之德光矣。」上頗採用其言。
10.李懷光頓兵不進,數上表暴揚盧杞等罪惡。眾論喧騰,亦咎杞等。上不得已,十二月,壬戌,貶杞為新州司馬,白志貞為恩州司馬,趙贊為播州司馬。宦者翟文秀,上所信任也,懷光又言其罪,上亦為殺之。

10.李懐光はにわかに兵を進ませず、しばしば上表して盧杞らの罪悪を暴いた。衆は論争して喧々諤々となり、また盧杞らを咎めた。お上はやむをえず、十二月壬戌、盧杞を新州司馬に、白志貞を恩州司馬に、趙賛を播州司馬に左遷した。宦官の翟文秀はお上の信任されるところであったが、李懐光がまたその罪を言上したから、お上はまた翟文秀を殺した。

11.乙丑,以翰林學士、祠部員外郎陸贄為考功郎中,金部員外郎吳通微為職方郎中。贄上奏,辭以「初到奉天,扈從將吏例加兩階,今翰林獨遷官。夫行罰先貴近而後卑遠,則令不犯;行賞先卑遠而後貴近,則功不遺。望先錄大勞,次遍群品,則臣亦不敢獨辭。」上不許。
12.上在奉天,使人說田悅、王武俊、李納,赦其罪,厚賂以官爵。悅等皆密歸款,而猶未敢絕朱滔,各稱王如故。滔使其虎牙將軍王郅說悅曰:「日者八郎有急,滔與趙王不敢愛其死,竭力赴救,幸而解圍。今太尉三兄受命關中,滔欲與回紇共往助之,願八郎治兵,與滔渡河共取大梁。」悅心不欲行而未忍絕滔,乃許之。滔復遣其內史舍人李琯見悅,審其可否,悅猶豫不決,密召扈崿等議之。司武侍郎許士則曰:「朱滔昔事李懷仙為牙將,與兄泚及朱希彩共殺懷仙而立希彩。希彩所以寵信其兄弟至矣,滔又與判官李子瑗謀殺希彩而立泚。泚既為帥,滔乃勸泚入朝而自為留後,雖勸以忠義,實奪之權也。平生與之同謀共功如李子瑗之徒,負而殺之者二十餘人。今又與泚東西相應,使滔得志,泚亦不為所容,況同盟乎!滔為人如此。大王何從得其肺腑而信之邪!彼引幽陵回紇十萬之兵屯於郊坰,大王出迎,則成擒矣。彼囚大王,兼魏國之兵,南向渡河,與關中相應,天下其孰能當之!大王於時悔之無及。為大王計,不若陽許偕行而陰為之備,厚加迎勞,至則托以它故,遣將分兵而隨之,如此,大王外不失報德之名而內無倉猝之憂矣。」扈崿等皆以為然。王武俊聞李琯適魏,遣其司刑員外郎田秀馳見悅曰:「武俊曏以宰相處事失宜,恐禍及身,又八郎困於重圍,故與滔合兵救之。今天子方在隱憂,以德綏我,我曹何得不悔過而歸之邪!捨九葉天子不事而事泚及滔乎!且泚未稱帝之時,滔與我曹比肩為王,固已輕我曹矣。況使之南平汴、洛,與泚連衡,吾屬皆為虜矣!八郎慎勿與之俱南,但閉城拒守。武俊請伺其隙,連昭義之兵,擊而滅之,與八郎再清河朔,復為節度使,共事天子,不亦善乎!」悅意遂決,紿滔云:「從行,必如前約。」丁卯,滔將范陽步騎五萬人,私從者復萬餘人,回紇三千人,發河間而南,輜重首尾四十里。

12.お上は奉天にいて、使者に田悦・王武俊・李納を説得してその罪を赦し、あつく官爵を贈った。田悦らは皆密かに帰順を約束したが、なおいまだに朱滔とは関係を断たず、それぞれが王号を称することはもとのようであった。朱滔はその虎牙将軍の王郅をして田悦に説いて、「日頃は八郎(田悦)に急事があれば、滔と趙王はあえてその死をよしとせず、力をつくして救援に赴き、幸いにも解囲された。今、太尉三兄(朱泚)は関中で受命し、滔は回紇とともに行ってこれを助けようと思ったが、八郎が兵を治めることを願ったから、滔とともに河を渡って共に大梁を取ろうではないか」と言った。田悦は内心では行こうとは思わなかったが、未だに朱滔との関係を断つのに忍びず、そこでこれを許した。朱滔はまたその内史舎人の李琯を遣わして田悦に会見させ、その可否を詳らかにさせた。田悦はなお躊躇して決めなかった。密かに扈崿らを召してこれを議した。司武侍郎の許士則は、「朱滔は昔、李懐仙に仕えて牙将となり、兄の朱泚および朱希彩とともに李懐仙を殺して朱希彩を擁立しました。朱希彩はだからその兄弟を寵信するに到ったのです。朱滔はまた判官の李子瑗とともに朱希彩を謀殺して朱泚を擁立し、朱泚が帥となりましたが、朱滔はそこで朱泚に入朝を勧めて自身は留後となり、忠義を勧めたとはいえ、その実は権力を奪ったのです。平生より朱滔と謀を同じくして功績を共にしても李子瑗の徒のようになり、負けてこれを殺す者は二十人あまり。今また朱泚と東西で相互し、朱滔をして志を得れば、朱泚もまた入れるところではありません。ましてや同盟なんてことならどうでしょうか!朱滔の人となりはこのようなのです。大王はどうしてその心服を得てからこれを信じるのに従うことができましょうか!彼は幽陵・回紇の十万の兵を率いて郊坰に駐屯し、大王が出迎えると、そこで捕虜となるでしょう。彼は大王を捕らえ、魏国の兵を兼ね、南は渡河に向かい、関中とともに相互して、天下それに対してどうしてこれに対応することができましょうか!大王その時にこれを悔やんでも遅いのです。大王の計として、表向きは共に行くことを許して、裏ではこれに備えとするのにこしたことはなく、厚く送迎を行い、至ればそこで他の理由をつけて、将軍を派遣して兵を分割して従います。このようにすれば、大王は外部からは徳に報いるの名声を失わず、しかし内では争乱の心配がなくなります」と言い、扈崿らは皆そうだと思った。王武俊は李琯が魏に行ったのを聞いて、その司刑員外郎の田秀を派遣して急いで田悦に会見して、「王武俊は前に宰相のせいで信任を失い、禍が身に及ぶことを恐れて、また八郎は重囲に悩み、そのため朱滔と兵を合わせてこれを救いました。今、天子はまさに隠れ憂いのため、徳によって我らを安んじましたが、私とあなたはどうして悔い改めずに帰順することができましょうか!九葉の天子を捨てて仕えず、朱泚および朱滔に仕えるのですか!かつ朱泚がまだ帝を称していない時に、朱滔と我らは比肩して王となり、もとよりすでに私とあなたは軽んじられています。ましてや南は汴州・洛州を平らげて朱泚と連衡すれば、私とあなたは捕虜となるでしょう!八郎は慎んでこれとともに南を領有することなく、かつ城を閉ざして守りを防ぎます。王武俊はその隙を窺うようお願います。昭義の兵を引き連れて、攻撃してこれを滅ぼせば、八郎とともに再び河朔を清めて河朔を極めて南に行き、再び節度使となり、共に天子に仕えるのは、良いことではないのでしょうか不亦善乎!」田悦は遂に意を決し、朱滔を欺いて、「行くのに従います。必ず前の約束の通りとしましょう」と言った。丁卯、朱滔は范陽の歩騎五万人を率いて、私の従者二万人あまり、回紇三千人を率いて、河間に到ってから南に行き、輜重は最初から最後まで四十里であった。

李希烈攻李勉於汴州,驅民運土木,築壘道,以攻城。忿其未就,並人填之,謂之濕薪。勉城守累月,外救不至,將其眾萬餘人奔宋州。庚午,希烈陷大梁。滑州刺史李澄以城降希烈,希烈以澄為尚書令兼永平節度使。勉上表請罪,上謂其使者曰:「朕猶失守宗廟,勉宜自安。」待之如初。
劉洽遣其將高翼將精兵五千保襄邑,希烈攻拔之,翼赴水死。希烈乘勝攻寧陵,江、淮大震。陳少游遣參謀溫述送款於希烈曰:「濠、壽、舒、廬,已令馳備,韜戈卷甲,伏俟指麾。」又遣巡官趙詵結李納於鄆州。
中書侍郎、同平章事關播罷為刑部尚書。
以給事中孔巢父為淄青宣慰使,國子祭酒董晉為河北宣慰使。
陸贄言於上曰:「今盜遍天下,輿駕播遷,陛下宜痛自引過以感人心。昔成湯以罪己勃興,楚昭以善言復國。陛下誠能不吝改過,以言射天下,使書詔開所避忌,臣雖愚陋,可以仰副聖情,庶令反側之徒革心向化。」上然之,故奉天所下書詔,雖驕將悍卒聞之,無不感激揮涕。
術者上言:「國家厄運,宜有變更以應時數。」群臣請更加尊號一二字。上以問陸贄,贄上奏,以為不可,其略曰:「尊號之興,本非古制。行於安泰之日,已累謙沖,襲乎喪亂之時,尤傷事體。」又曰:「贏秦德衰,兼皇與帝,始總稱之。流及後代,昏僻之君,乃有聖劉、天元之號。是知人主輕重,不在名稱。損之有謙光稽古之善,崇之獲矜能納諂之譏。」又曰:「必也俯稽術數,須有變更,與其增美稱而失人心,不若黜舊號以祗天戒。」上納其言,但改年號而已。上又以中書所撰赦文示贄,贄上言,以為:「動人以言,所感已淺,言又不切,人誰肯懷!今茲德音,悔過之意不得不深,引咎之辭不得不盡,洗刷疵垢,宣暢鬱堙,使人人各得所欲,則何有不從者乎!應須改革事條,謹具別狀同進。捨此之外,尚有所虞。竊以知過非難,改過為難;言善非難,行善為難。假使赦文至精,止於知過言善,猶願聖慮更思所難。」上然之。
 

徳宗神武聖文皇帝四 興元元年(甲子、七八四年)

1.春,正月,癸酉朔,赦天下,改元。制曰:「致理興化,必在推誠;忘己濟人,不吝改過。朕嗣服丕構,君臨萬邦,失守宗祧,越在草莽。不念率德,誠莫追於既往;永言思咎,期有復於將來。明征其義,以示天下。
「小子懼德不嗣,罔敢怠荒,然以長於深宮之中,暗於經國之務,積習易溺,居安忘危,不知稼穡之艱難,不恤征戍之勞苦,澤靡下究,情未上通,事既擁隔,人懷疑阻。猶昧省己,遂用興戎,征師四方,轉餉千里,賦車籍馬,遠近騷然,行繼居送,眾庶勞止,或一日屢交鋒刃,或連年不解甲冑。祀奠乏主,室家靡依,死生流離,怨氣凝結,力役不息,田萊多荒。暴令峻於誅求,疲□空於杼軸,轉死溝壑,離去鄉閭,邑裡丘墟,人煙斷絕。天譴於上而朕不寤,人怨於下而朕不知,馴致亂階,變興都邑,萬品失序,九廟震驚,上累於祖宗,下負於蒸庶,痛心靦貌,罪實在予,永言愧悼,若墜泉谷。自今中外所上書奏,不得更言『聖神文武』之號。「李希烈、田悅、王武俊、李納等,鹹以勳舊,各守籓維,聯撫馭乖方,致其疑懼;皆由上失其道而下罹其災,朕實不君,人則何罪!宜並所管將吏等一切待之如初。
「朱滔雖緣朱泚連坐,路遠必不同謀,念其舊勳,務在弘貸,如能效順,亦與惟新。
「朱泚反易天常,盜竊名器,暴犯陵寢,所不忍言,獲罪祖宗,朕不敢赦。其脅從將吏百姓等,但官軍未到京城以前,去逆效順並散歸本道、本軍者,並從赦例。
「諸軍、諸道應赴奉天及進收京城將士,並賜名奉天定難功臣。其所加墊陌錢、稅間架、竹、木、茶、漆、榷鐵之類,悉宜停罷。」
赦下,四方人心大悅。及上還長安明年,李抱真入朝為上言:「山東宣佈赦書,士卒皆感泣,臣見人情如此,知賊不足平也!」
2.命兵部員外郎李充為恆冀宣慰使。
3.朱泚更國號曰漢,自稱漢元天皇,改元天皇。

3.朱泚は国号を改めて漢といい、自ら漢元天皇と称し、天皇と改元した。

4.王武俊、田悅、李納見赦令,皆去王號,上表謝罪。惟李希烈自恃兵強財富,遂謀稱帝,遣人問儀於顏真卿,真卿曰:「老夫嘗為禮官,所記惟諸侯朝天子禮耳!」希烈遂即皇帝位,國號大楚,改元武成。置百官,以其黨鄭賁為侍中,孫廣為中書令,李緩、李元平同平章事。以汴州為在梁府,分其境內為四節度。希烈遣其將辛景臻謂顏真卿曰:「不能屈節,當自焚!」積薪灌油於其庭。真卿趨赴火,景臻遽止之。
希烈又遣其將楊峰繼赦賜陳少游及壽州刺史張建封。建封執峰徇於軍,腰斬於市,少游聞之駭懼。建封具以少游與希烈交通之狀聞,上悅,以建封為濠、壽、廬三州都團練使。希烈乃以其將杜少誠為淮南節度使,使將步騎萬餘人先取壽州,後之江都,建封遣其將賀蘭元均、邵怡守霍丘秋柵。少誠竟不能過,遂南寇蘄、黃,欲斷江路,時上命包佶自督江、淮財賦,溯江詣行在。至蘄口,遇少誠入寇。曹王皋遣蘄州刺史伊慎將兵七千拒之,戰於永安戍,大破之,少誠脫身走,斬首萬級,包佶乃得前。後佶入朝,具奏陳少游奪財賦事。少游懼,厚斂所部以償之。李希烈以夏口上流要地,使其驍將董侍募死士七千人襲鄂州,刺史李兼偃旗臥鼓閉門以待之。侍撤屋材以焚門,兼帥士卒出戰,大破之。上以兼為鄂、岳、沔都團練使。於是希烈東畏曹王皋,西畏李兼,不敢復有窺江、淮之志矣。
5.朱滔引兵入趙境,王武俊大具犒享。入魏境,田悅供承倍豐,使者迎候,相望於道。丁丑,滔至永濟,遣王郅見悅,約會館陶,偕行渡河。悅見郅曰:「悅固願從五兄南行,昨日將出軍,將士勒兵不聽悅出,曰:國兵新破,戰守逾年,資儲竭矣。今將士不免凍餒,何以全軍遠征!大王日自撫循,猶不能安,若捨城邑而去,朝出,暮必有變!』悅之志非敢有貳也,如將士何!已令孟祐備步騎五千,從五兄供芻牧之役。」因遣其司禮侍郎裴抗等往謝滔。滔聞之,大怒曰:「田悅逆賊,曏在重圍,命如絲發,使我叛君棄兄,發兵晝夜赴之,幸而得存。許我貝州,我辭不取;尊我為天子,我辭不受,今乃負恩,誤我遠來,飾辭不出!」即日,遣馬寔攻宗城、經城,楊榮國攻冠氏,皆拔之。又縱回紇掠館陶頓幄帟、器皿、車、牛以去。悅閉城自守。壬午,滔遣裴抗等還,分兵置吏守平恩、永濟。
6.丙戌,以吏部侍郎盧翰為兵部侍郎、同平章事。翰,義僖之七世孫也。
7.朱滔引兵北圍貝州,引水環之,刺史刑曹俊嬰城拒守。縱范陽及回紇兵大掠諸縣,又拔武城,通德、棣二州,使給軍食。遣馬寔將步騎五千屯冠氏以逼魏州。
8.以給事中杜黃裳為江淮宣慰副使。
9.上於行宮廡下貯諸道貢獻之物,榜曰瓊林大盈庫。陸贄以為戰守之功,賞賚未行而遽私別庫,則士卒怨望,無復鬥志,上疏諫,其略曰:「天子與天同德,以四海為家,何必橈廢公方,崇聚私貨!降至尊而代有司之守,辱萬乘以效匹夫之藏,虧法失人,誘姦聚怨,以斯制事,豈不過哉!」又曰:「頃者六師初降,百物無儲,外扞兇徒,內防危堞,晝夜不息,迨將五旬,凍餒交侵,死傷相枕,畢命同力,竟夷大艱。良以陛下不厚其身,不私其欲,絕甘以同卒伍,輟食以啖功勞。無猛制而人不攜,懷所感也;無厚賞而人不怨,悉所無也。今者攻圍已解,衣食已豐,而謠讟方興,軍情稍阻,豈不以勇夫恆性,嗜利矜功,其患難既與之同憂,而好樂不與之同利,苟異恬默,能無怨咨!」又曰:「陛下誠能近想重圍之殷憂,追戒平居之專欲,凡在二庫貨賄,盡令出賜有功,每獲珍華,先給軍賞,如此,則亂必靖,賊必平,徐駕六龍,旋復都邑,天子之貴,豈當憂貧!是乃散其小儲而成其大儲,損其小寶而固其大寶也。」上即命去其榜。
10.蕭復嘗言於上曰:「宦官自艱難以來,多為監軍,恃恩縱橫。此屬但應掌宮掖之事,不宜委以兵權國政。」上不悅。又嘗言:「陛下踐祚之初,聖德光被,自用楊炎、盧杞黷亂朝政,以致今日。陛下誠能變更睿志,臣敢不竭力?倘使臣依阿苟免,臣實不能。」又嘗與盧杞同奏事,杞順上旨,復正色曰:「盧杞言不正!」上愕然,退,謂左右曰:「蕭復輕朕!」戊子,命復棄山南東、西、荊湖、淮南、江西、鄂岳、浙江東、西、福建、嶺南等道宣慰、安撫使,實疏之也。既而劉從一及朝士往往奏留復,上謂陸贄曰:「朕思遷幸以來,江、淮遠方,或傳聞過實,欲遣重臣宣慰,謀於宰相及朝士,僉謂宜然。今乃反覆如是,朕為之悵恨累日。意復悔行,使之論奏邪?卿知蕭復如何人?其不欲行,意趣安在?」贄上奏,以為:「復痛自修勵,慕為清貞,用雖不周,行則可保。至於輕詐如此,復必不為。借使復欲逗留,從一安肯附會!今所言矛楯,願陛下明加辯詰。若蕭復有所請求,則從一何容為隱!若從一自有回互,則蕭復不當受疑。陛下何憚而不辯明,乃直為此悵恨也!夫明則罔惑,辨則罔冤。惑莫甚於逆詐而不與明,冤莫痛於見疑而不與辯。是使情偽相糅,忠邪靡分。茲實居上御下之要樞,惟陛下留意。」上亦竟不復辯也。
11.辛卯,以王武俊為恆、冀、深、趙節度使,壬辰,加李抱真、張孝忠並同平章事。丙申,加田悅檢校右僕射。以山南東道行軍司馬樊澤為本道節度使,前深、趙觀察使康日知為同州刺史、奉誠軍節度使,曹州刺史李納為鄆州刺史、平盧節度使。
12.戊戌,加劉洽汴、滑、宋、亳都統副使,知都統事,李勉悉以其眾授之。
13.辛丑,六軍各置統軍,秩從三品,以寵勳臣。
14.吐蕃尚結贊請出兵助唐收京城。庚子,遣秘書監崔漢衡使吐蕃,發其兵。

 

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最終更新:2023年05月10日 23:12
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