巻第二百二十五

資治通鑑巻第二百二十五
 唐紀四十
  代宗睿文孝武皇帝中之下

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦九年(甲寅、七七四年)

春,正月,壬寅,田神功薨於京師。
澧朗鎮遏使楊猷自澧州沿江而下,擅出境至鄂州,詔聽入朝。猷遂溯漢江而上,復州、郢州皆閉城自守,山南東道節度使梁崇義發兵備之。
二月,辛未,徐州軍亂,刺史梁乘逾城走。
諫議大夫呉損使吐蕃,留之累年,竟病死虜中。
庚辰,汴宋兵防秋者千五百人,盜庫財潰歸,田神功薨故也。己丑,以神功弟神玉知汴宋留後。
癸巳,郭子儀入朝,上言:「朔方,國之北門,中間戰士耗散,什才有一。今吐蕃兼河、隴之地,雜羌、渾之衆,勢強十倍。願更於諸道各發精卒,成四、五萬人,則制勝之道必矣。」
三月,戊申,以皇女永樂公主許妻魏博節度使田承嗣之子華。上意欲固結其心,而承嗣益驕慢。
戊午,以澧朗鎮遏使楊猷為洮州刺史、隴右節度兵馬使。
夏,四月,甲申,郭子儀辭還邠州,復為上言邊事,至涕泗交流。
壬辰,赦天下。
五月,丙午,楊猷自澧州入朝。
12.涇原節度使馬璘入朝,諷將士為己表求平章事。丙寅,以璘為左僕射。

12.涇原節度使の馬璘が入朝した。将軍・兵士にほのめかして、自身のために上表させ平章事の職を求めた。丙寅、馬璘を左僕射とした。

13.六月,盧龍節度使朱泚遣弟滔奉表請入朝,且請自將歩騎五千防秋;上許之,仍為之先築大第於京師以待之。

13.六月、盧龍節度使の朱泚は弟の朱滔を派遣して表を奉って入朝を願った。かつ自ら歩兵・騎兵五千を率いて防衛することを願い、お上はこれを許した。そこで朱泚のためにまず大きな邸宅を京師に造営して、朱泚を待った。

14.癸未,興善寺胡僧不空卒,贈開府儀同三司、司空,賜爵肅國公,謚曰大辯正廣智不空三藏和尚。

14.癸未、興善寺の胡僧の不空が卒した。開府儀同三司・司空を贈り、粛国公の爵を賜り、大弁正広智不空三蔵和尚と謚した。

15.京師旱,京兆尹黎幹作土龍祈雨,自與巫覡更舞。彌月不雨,又禱於文宣王。上聞之,命撤土龍,減膳節用。秋,七月,戊午,雨。

15.京師が旱となり、京兆尹の黎幹が土龍をつくって雨を祈り、自ら巫覡とともに更に舞った。十ヶ月雨が降らず、また文宣王(孔子)に祈った。お上はこれを聞いて、土龍を撤去するよう命じ、膳を減らして費用を節約した。秋七月戊午、雨が降った。

16.朱泚入朝,至蔚州,有疾,諸將請還,俟間而行。泚曰:「死則輿屍而前!」諸將不敢復言。九月,庚子,至京師,士民觀者如堵。辛丑,宴泚及將士於延英殿,犒賞之盛,近時未有。

16.朱泚が入朝しようと蔚州に到ったが病となった。諸将は帰還して機会を待って行くよう願った。朱泚は、「死んだら死体を輿に乗せて前に進め!」と言い、諸将は敢えて二言目を告げなかった。九月庚子、京師に到り、兵士や民で見る者は安堵するようであった。辛丑、朱泚及び将兵と延英殿で宴し、将兵への褒賞が盛んなことは、近年なかったことである。

17.壬寅,回紇擅出鴻臚寺,白晝殺人,有司擒之;上釋不問。

17.壬寅、回紇は勝手に鴻臚寺から出て、白昼殺人し、役人は逮捕したが、お上は釈放して不問とした。

18.甲辰,命郭子儀、李抱玉、馬璘、朱泚分統諸道防秋之兵。

18.甲辰、郭子儀・李抱玉・馬璘・朱泚に命じて諸道を分けて防衛の兵を統率させた。

19.冬,十月,壬申,信王□薨。乙亥,梁王璿薨。

19.冬十月壬申、信王瑝が薨じた。乙亥、梁王璿が薨じた。

20.魏博節度使田承嗣誘昭義將吏使作亂。

20.魏博節度使の田承嗣が昭義の将兵・官吏を誘って叛乱した。

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦十年(乙卯、七七五年)

1.春,正月,丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其衆歸承嗣。承嗣聲言救援,引兵襲相州,取之。崿奔洺州,上表請入朝,許之。

1.春正月丁酉、昭義兵馬使の裴志清が留後の薛萼を追放し、その軍を率いて田承嗣に帰順した。田承嗣は救援を声明し、兵を率いて相州を襲撃してこれを奪取した。薛萼は洺州に逃げ、上表して入朝を願い、これを許された。

2.辛丑,郭子儀入朝。

2.辛丑、郭子儀が入朝した。

3.壬寅,壽王瑁薨。

3.壬寅、寿王瑁が薨去した。

4.乙巳,朱泚表請留闕下,以弟滔知幽州、盧龍留後,許之。

4.乙巳、朱泚は上表して宮中に留まり、弟の朱滔が幽州を司り、盧龍の留後とするよう願い、これを許された。

5.昭義裨將薛擇為相州刺史,薛雄為衛州刺史,薛堅為洺州刺史,皆薛嵩之族也。戊申,上命内侍孫知古如魏州諭田承嗣,使各守封疆;承嗣不奉詔,癸丑,遣大將盧子期取洺州,楊光朝攻衛州。

5.昭義裨将の薛択を相州刺史とし、薛雄を衛州刺史とし、薛堅を洺州刺史とした。皆薛嵩の一族である。戊申、上は内侍の孫知古に命じて、魏州に行き、田承嗣を説諭させ、使のそれぞれに封地の境界を守らせようとしたが、田承嗣は詔を奉ることはなかった。癸丑、大将の盧子期を派遣して洺州を奪取させ、楊光朝が衛州を攻撃した。

6.乙卯,西川節度使崔寧奏破吐蕃數萬於西山,斬首萬級,捕虜數千人。

6.乙卯、西川節度使の崔寧が吐蕃数万を西山で破り、斬首一万級、捕虜数千人としたことを奏上した。

7.丙辰,詔:「諸道兵有逃亡者,非承製敕,無得輒召募。」
二月,乙丑,田承嗣誘衛州刺史薛雄,雄不從,使盜殺之,屠其家,盡據相、衛四州之地,自置長吏,掠其精兵良馬,悉歸魏州;逼孫知古與共巡磁、相二州,使其將士割耳剺面,請承嗣為帥。
辛未,立皇子述為睦王,逾為郴王,連為恩王,遘為鄜王,迅為隨王,造為忻王,暹為韶王,運為嘉王,遇為端王,遹為循王,通為恭王,達為原王,逸為雅王。
丙子,以華州刺史李承昭知昭義留後。
河陽三城使常休明,苛刻少恩。其軍士防秋者歸,休明出城勞之,防秋兵與城內兵合謀攻之,休明奔東都;軍士奉兵馬使王惟恭為帥,大掠,數日乃定。上命監軍冉庭蘭慰撫之。
三月,甲午朔,陝州軍亂,逐兵馬使趙令珍。觀察使李國清不能禁,卑辭,遍拜將士,乃得脫去。軍士大掠庫物。會淮西節度使李忠臣入朝,過陝,上命忠臣按之。將士畏忠臣兵威,不敢動。忠臣設棘圍,令軍士匿名投庫物,一日,獲萬緡,盡以給其從兵為賞。
乙巳,薛萼、常休明皆詣闕請罪,上釋不問。
初,成徳節度使李寶臣、淄青節度使李正己,皆為田承嗣所輕。寶臣弟寶正娶承嗣女,在魏州,與承嗣子維撃球,馬驚,誤觸維死;承嗣怒,囚寶正,以告寶臣。寶臣謝教敕不謹,封杖授承嗣,使撻之;承嗣遂杖殺寶正,由是兩鎮交惡。及承嗣拒命,寶臣、正己皆上表請討之,上亦欲因其隙討承嗣。夏,四月,乙未,敕貶承嗣為永州刺史,仍命河東、成徳、幽州、淄青、淮西、永平、汴宋、河陽、澤潞諸道發兵前臨魏博,若承嗣尚或稽違,即令進討;罪止承嗣及其侄悅,自餘將士弟侄苟能自拔,一切不問。
時朱滔方恭順,與寶臣及河東節度使薛兼訓攻其北,正己與淮西節度使李忠臣等攻其南。五月,乙未,承嗣將霍榮國以磁州降。丁未,李正己攻徳州,拔之。李忠臣統永平、河陽、懷、澤歩騎四萬進攻衛州。六月,辛未,田承嗣遣其將裴志清等攻冀州,志清以其衆降李寶臣。甲戌,承嗣自將圍冀州,寶臣使高陽軍使張孝忠將精騎四千御之,寶臣大軍繼至;承嗣燒輜重而遁。孝忠,本奚也。
田承嗣以諸道兵四合,部將多叛而懼,秋,八月,遣使奉表,請束身歸朝。
辛巳,郭子儀還邠州。子儀嘗奏除州縣官一人,不報,僚佐相謂曰:「以令公勳徳,奏一屬吏而不從,何宰相之不知體!」子儀聞之,謂僚佐曰:「自兵興以來,方鎮武臣多跋扈,凡有所求,朝廷常委曲從之;此無他,乃疑之也。今子儀所奏事,人主以其不可行而置之,是不以武臣相待而親厚之也;諸君可賀矣,又何怪焉!」聞者皆服。
己丑,田承嗣遣其將盧子期寇磁州。
九月,戊申,回紇白晝刺市人腸出,有司執之,系萬年獄;其酋長赤心馳入縣獄,斫傷獄吏,劫囚而去。上亦不問。
壬子,吐蕃寇臨涇,癸丑,寇隴州及普潤,大掠人畜而去;百官往往遣家屬出城竄匿。丙辰,鳳翔節度使李抱玉奏破吐蕃於義寧。
李寶臣、李正己會於棗強,進圍貝州,田承嗣出兵救之。兩軍各饗士卒,成徳賞厚,平盧賞薄;既罷,平盧士卒有怨言,正己恐其為變,引兵退,寶臣亦退。李忠臣聞之,釋衛州,南度河,屯陽武。寶臣與朱滔攻滄州,承嗣從父弟庭玠守之;寶臣不能克。
20.吐蕃寇涇州,涇原節度使馬璘破之於百里城。戊午,命盧龍節度使朱泚出鎮奉天行營。

20.吐蕃が涇州に入寇し、涇原節度使の馬璘が吐蕃を百里城で破った。戊午、盧龍節度使の朱泚に命じて鎮を出て奉天にて行営させた。

冬,十月,辛酉朔,日有食之。
盧子期攻磁州,城幾陷;李寶臣與昭義留後李承昭共救之,大破子期於清水,擒子期至京師;斬之。河南諸將又大破田悅於陳留;田承嗣懼。
初,李正己遣使至魏州,承嗣囚之,至是,禮而遣之,遣使盡籍境內戶口、甲兵、谷帛之數以與之,曰:「承嗣今年八十有六,溘死無日,諸子不肖,悅亦孱弱,凡今日所有,為公守耳,豈足以辱公之師旅乎!」立使者於廷,南向,拜而授書;又圖正己之像,焚香事之。正己悅,遂按兵不進。於是河南諸道兵皆不敢進。承嗣既無南顧之虞,得專意北方。
上嘉李寶臣之功,遣中使馬承倩繼詔勞之;將還,寶臣詣其館,遣之百縑,承倩詬詈,擲出道中,寶臣慚其左右。兵馬使王武俊說寶臣曰:「今公在軍中新立功,豎子尚爾,況寇平之後,以一幅詔書召歸闕下,一匹夫耳,不如釋承嗣,以為己資。」寶臣遂有玩寇之志。
承嗣知范陽寶臣鄉里,心常欲之,因刻石作讖云:「二帝同功勢萬全,將田為侶入幽燕。」密令瘞寶臣境內,使望氣者言彼有王氣,寶臣掘而得之。又令客說之曰:「公與朱滔共取滄州,得之,則地歸國,非公所有。公能捨承嗣之罪,請以滄州歸公,仍願從公取范陽以自效。公以精騎前驅,承嗣以歩卒繼之,蔑不克矣。」寶臣喜,謂事合符讖,遂與承嗣通謀,密圖范陽,承嗣亦陳兵境上。
寶臣謂滔使者曰:「聞朱公儀貌如神,願得畫像觀之。」滔與之。寶臣置於射堂,與諸將共觀之,曰:「真神人也!」滔軍於瓦橋,寶臣選精騎二千,通夜馳三百里襲之,戒曰:「取貌如射堂者。」時兩軍方睦,滔不虞有變,狼狽出戰而敗,會衣他服得免。寶臣欲乘勝取范陽,滔使雄武軍使昌平劉怦守留府。寶臣知有備,不敢進。
承嗣聞幽、恆兵交,即引軍南還,使謂寶臣曰:「河內有警,不暇從公,石上讖文,吾戲為之耳!」寶臣慚怒而退。寶臣既與朱滔有隙,以張孝忠為易州刺史,使將精騎七千以備之。
丙寅,貴妃獨孤氏薨,丁卯,追謚貞懿皇后。
十一月,丁酉,田承嗣將吳希光以瀛州降。
嶺南節度使路嗣恭擢流人孟瑤、敬冕為將,討哥舒晃。瑤以大軍當其衝,冕自間道輕入,丁未,克廣州,斬哥舒晃及其黨萬餘人。
嗣恭之討晃也,容管經略使王翃遣將將兵助之;西原賊帥覃問乘虚襲容州,翃伏兵撃擒之。
十二月,回紇千騎寇夏州,州將梁榮宗破之於烏水。郭子儀遣兵三千救夏州,回紇遁去。
元載、王縉奏魏州鹽貴,請禁鹽入其境以困之。上不許,曰:「承嗣負朕,百姓何罪!」
田承嗣請入朝,李正己屢為之上表,乞許其自新。

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦十一年(丙辰、七七六年)

1.春,正月,壬辰,遣諫議大夫杜亞使魏州宣慰。

1.春正月壬辰、諫議大夫の杜亞を派遣して魏州に使して宣慰させた。

2.辛亥,西川節度使崔寧奏破吐蕃四節度及突厥、吐谷渾、氐、羌群蠻衆二十餘萬,斬首萬餘級。

2.辛亥、西川節度使の崔寧が、吐蕃の四節度および突厥・吐谷渾・氐・羌・群蛮の軍二十万あまりを破り、首一万級あまりを斬ったことを上奏した。

3.二月,庚辰,田承嗣復遣使上表,請入朝。上乃下詔,赦承嗣罪,復其官爵,聽與家屬入朝,其所部拒朝命者,一切不問。

3.二月庚辰、田承嗣がまた使者を派遣して上表し、入朝を願った。お上はそこで詔を下して、田承嗣の罪を赦し、その官爵を復し、家族とともに入朝することを許し、その部で朝命を拒む者は、一切不問とした。

4.辛巳,增朔方五城戍兵,以備回紇。

4.辛巳、朔方五城の守兵を増やして、回紇に備えた。

5.三月,戊子,河陽軍亂,逐監軍冉庭蘭出城,大掠三日。庭蘭成備而入,誅亂者數十人,乃定。

5.三月戊子、河陽が軍乱し、監軍の冉庭蘭を追放して城から出し、大に掠奪すること三日であった。冉庭蘭は備えてから入城し、反乱した者数十人を誅殺し、そこで平定された。

6.五月,汴宋留後田神玉卒。都虞候李靈曜殺兵馬使、濮州刺史孟鑒,北結田承嗣為援。癸巳,以永平節度使李勉兼汴、宋等八州留後。乙未,以靈曜為濮州刺史,靈曜不受詔。六月,戊午,以靈曜為汴宋留後,遣使宣慰。

6.五月、汴宋の留後の田神玉が卒した。都虞候の李霊曜が兵馬使を殺し、濮州刺史の孟鑑は、北は田承嗣と結んで救援を求めた。癸巳、永平節度使の李勉に汴・宋等八州の留後を兼任させた。乙未、李霊曜を濮州刺史とし、李霊曜は詔を受けなかった。六月戊午、李霊曜を汴宋の留後とし、使者を派遣して宣慰した。

7.秋,七月,田承嗣遣兵寇滑州,敗李勉。

7.秋七月、田承嗣が兵を派遣して滑州を入寇し、李勉に敗れた。

8.吐蕃寇石門,入長澤川。

8.吐蕃が石門に入寇し、長沢川に入った。

9.八月,丙寅,加盧龍節度使朱泚同平章事。

9.八月丙寅、盧龍節度使の朱泚に加えて同平章事とした。

10.李靈曜既為留後,益驕慢,悉以其黨為管內八州刺史、縣令,欲效河北諸鎮。甲申,詔淮西節度使李忠臣、永平節度使李勉、河陽三城使馬燧討之。淮南節度使陳少游、淄青節度使李正己皆進兵撃靈曜。
汴宋兵馬使、攝節度副使李僧惠,靈曜之謀主也。宋州牙門將劉昌遣曾神表潛說僧惠;僧惠召問計,昌為之泣陳逆順。僧惠乃與汴宋牙將高憑、石隱金遣神表奉表詣京師,請討靈曜。九月,壬戌,以僧惠為宋州刺史,憑為曹州刺史,隱金為鄆州刺史。
乙丑,李忠臣、馬燧軍於鄭州,靈曜引兵逆戰;兩軍不意其至,退軍滎澤,淮西軍士潰去者什五六。鄭州士民皆驚,走入東都。忠臣將歸淮西,燧固執不可,曰:「以順討逆,何憂不克?奈何自棄功名!」堅壁不動。忠臣聞之,稍收散卒,數日皆集,軍勢復振。
戊辰,李正己奏克鄆、濮二州。壬申,李僧惠敗靈曜兵於雍丘。冬,十月,李忠臣、馬燧進撃靈曜,忠臣行汴南,燧行汴北,屢破靈曜兵;壬寅,與陳少游前軍合,與靈曜大戰於汴州城西,靈曜敗,入城固守。癸卯,忠臣等圍之。
田承嗣遣田悅將兵救靈曜,敗永平、淄青兵於匡城,乘勝進軍汴州,乙巳,營於城北數里。丙午,忠臣遣裨將李重倩將輕騎數百夜入其營,縱橫貫穿,斬數十人而還,營中大駭;忠臣、燧因以大軍乘之,鼓噪而入,悅衆不戰而潰,悅脫身北走,將士死者相枕藉,不可勝數。靈曜聞之,開門夜遁,汴州平。重倩,本奚也。丁未,靈曜至韋城,永平將杜如江擒之。
燧知忠臣暴戻,以己功讓之,不入汴城,引軍西屯板橋。忠臣入城,果專其功;宋州刺史李僧惠與之爭功,忠臣因會撃殺之;又欲殺劉昌,昌遁逃得免。
甲寅,李勉械送李靈曜至京師;斬之。
十二月,丁亥,李正己、李寶臣並加同平章事。
涇原節度使馬璘疾亟,以行軍司馬段秀實知節度事,付以後事。秀實嚴兵以備非常,丙申,璘薨,軍中奔哭者數千人。喧咽門屏,秀實悉不聽入。命押牙馬□治喪事於內,李漢惠接賓客於外,妻妾子孫位於堂,宗族位於庭,將佐位於前,牙士卒哭於營伍,百姓各守其家。有離立偶語於衢路,輒執而囚之;非護喪從行者無得遠送。致祭拜哭,皆有儀節,送喪近遠,皆有定處,違者以軍法從事。都虞候史廷幹、兵馬使崔珍、十將張景華謀因喪作亂,秀實知之,奏廷幹入宿衛,徙珍屯靈台,補景華外職,不戮一人,軍府晏然。
璘家富有無算,治第京師,甲於勳貴,中堂費二十萬緡,他室所減無幾,其子孫無行,家資尋盡。
戊戌,昭義節度使李承昭表稱疾篤,以澤潞行軍司馬李抱真兼知磁、邢兩州留後。
庚戌,加淮西節度使李忠臣同平章事,仍領汴州刺史,徙治汴州。

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦十一年(丙辰、七七六年)

春,三月,乙卯,兵部尚書、同平章事、鳳翔、懷澤潞、秦隴節度使李抱玉薨,弟抱真仍領懷澤潞留後。
癸亥,以河東行軍司馬鮑防為河東節度使。防,襄州人也。
田承嗣竟不入朝,又助李靈曜,上覆命討之。承嗣乃復上表謝罪。上亦無如之何,庚午,悉復承嗣官爵,仍令不必入朝。
中書侍郎、同平章事元載專橫,黄門侍郎、同平章事王縉附之,二人俱貪。載妻王氏及子伯和、仲武,縉弟、妹及尼出入者,爭納賄賂。又以政事委群吏,士之求進者,不結其子弟及主書卓英倩等,無由自達。上含容累年,載、縉不悛。
上欲誅之,恐左右漏洩,無可與言者,獨與左金吾大將軍吳湊謀之。湊,上之舅也。會有告載、縉夜醮圖為不軌者,庚辰,上御延英殿,命湊收載、縉於政事堂,又收仲武及卓英倩等繫獄。命吏部尚書劉晏與御史大夫李涵等同鞫之,問端皆出禁中,仍遣中使詰以陰事,載、縉皆伏罪。是日,先杖殺左衛將軍、知內侍省事董秀於禁中,乃賜載自盡於萬年縣。載請主者:「願得快死!」主者曰:「相公須受少污辱,勿怪!」乃脫穢襪塞其口而殺之。王縉初亦賜自盡,劉晏謂李涵等曰:「故事,重刑覆奏,況大臣乎!且法有首從,宜更稟進止。」涵等從之。上乃貶縉括州刺史。載妻王氏,忠嗣之女也,及子伯和、仲武、季能皆伏誅。有司籍載家財,胡椒至八百石,它物稱是。
夏,四月,壬午,以太常卿楊綰為中書侍郎,禮部侍郎常袞為門下侍郎,並同平章事。綰性清簡儉素,制下之日,朝野相賀。郭子儀方宴客,聞之,減坐中聲樂五分之四。京兆尹黎幹,騶從甚盛,即日省之,止存十騎。十丞崔寬,第捨宏侈,亟毀撤之。
癸未,貶吏部侍郎楊炎、諫議大夫韓洄、包佶、起居舍人韓會等十餘人,皆載黨也。炎,鳳翔人。載常引有文學才望者一人親厚之,異日欲以代己,故炎及於貶。洄,滉之弟。會,南陽人也。上初欲盡誅炎等,吳湊諫救百端,始貶官。
丁酉,吐蕃寇黎、雅州;西川節度使崔寧撃破之。
元載以仕進者多樂京師,惡其逼己,乃制俸祿,厚外官而薄京官,京官不能自給,常從外官乞貸。楊綰、常袞奏京官俸太薄;己酉,詔加京官俸,歳約十五萬六千餘緡。
五月,辛亥,詔自都團練使外,悉罷諸州團練守捉使。又令諸使非軍事要急,無得擅召刺史及停其職務,差人權攝。又定諸州兵,皆有常數,其召募給家糧、春冬衣者,謂之「官健」;差點土人,春夏歸農、秋冬追集、給身糧醬菜者,謂之「團結」。自兵興以來,州縣官俸給不一,重以元載、王縉隨情徇私,刺史月給或至千緡、或數十緡,至是,始定節度使以下至主簿、尉俸祿,掊多益寡,上下有敘,法制粗立。
庚午,上遣中使發元載祖父墓,斫棺棄屍,毀其家廟,焚其木主。戊寅,卓英倩等皆杖死。英倩之用事也,弟英璘橫於鄉里。及英倩下獄,英璘遂據險作亂;上發禁兵討之,乙巳,金州刺史孫道平撃擒之。
上方倚楊綰,使釐革弊政,會綰有疾,秋,七月,己巳,薨。上痛悼之甚,謂群臣曰:「天不欲朕致太平,何奪朕楊綰之速!」
11.八月,癸未,賜東川節度使鮮于叔明姓李氏。

11.八月癸未、東川節度使の鮮于叔明に姓李氏を賜った。

12.元載、王縉之為相也,上日賜以內廚御饌,可食十人,遂為故事。癸卯,常袞與朱泚上言:「餐錢已多,乞停賜饌。」許之。袞又欲辭堂封,同列不可而止。時人諷袞,以為「朝廷厚祿,所以養賢,不能,當辭位,不當辭祿。」
臣光曰:「君子恥食浮於人;袞之辭祿,廉恥存焉,與夫固位貪祿者,不猶愈乎!詩云:『彼君子兮,不素餐兮!』如袞者,亦未可以深譏也。

12.元載・王縉を宰相とした。任日に内廚の御饌を賜い、十人分の膳を出した。そのことは慣例となった。癸卯、常袞と朱泚が、「食費はすでに多くなっており、賜饌の停止を願います」と上言して、許可された。常袞はまた大将の封地をやめようとし、同列は不可として沙汰止みした。当時の人は常袞をそしって、「朝廷で禄が厚いのは、賢を養うためである。できなければ、ただちにその職を辞めるべきであり、禄を止めるべきではない」と思った。
臣光いわく、「君子が俸祿を人より受けるのを恥じる。常袞が禄を止めるのは、廉恥の心があるからだ。職位に固執して禄をはむ者は、なおもそのようにしないのだ。詩に、『彼の君子は、素餐せず(あの御方は働かずに食事はしない)!』とあり、常袞のような者は、また深く譏るべきではないのだ。

13.楊綰、常袞薦湖州刺史顏真卿,上即日召還;甲辰,以為刑部尚書。綰、袞又薦淮南判官汲人關播,擢為都官員外郎。

13.楊綰・常袞は湖州刺史の顔真卿を推薦した。お上は即日召還した。甲辰、刑部尚書に任じた。楊綰・常袞ははまた淮南判官汲人の関播を推薦し都官員外郎に抜擢された。

14.九月,辛酉,以四鎮、北庭行營兼涇原、鄭穎節度副使段秀實為節度使。秀實軍令簡約,有威惠,奉身清儉,室無姬妾,非公會,未嘗飲酒聽樂。

14.九月、辛酉四鎮北庭行営兼涇原鄭穎節度副使の段秀実を節度使に任じた。段秀実の軍令は簡潔で、威光慈悲があり、身は清廉倹約で、部屋に美姫や愛妾はおらず、公の席でなければいまだかつて飲酒や音楽をしなかった。

15.吐蕃八萬衆軍於原州北長澤監,己巳,破方渠,入拔谷;郭子儀使裨將李懷光救之,吐蕃退。庚午,吐蕃寇坊州。

15.吐蕃の八万の軍勢は原州で長澤監に敗れた。己巳、方渠を破って抜谷に侵入し、郭子儀は部将の李懐光に救援させ、吐蕃を撃退した。庚午、吐蕃は坊州に侵入した。

16.冬,十月,乙酉,西川節度使崔寧奏大破吐蕃於望漢城。

16.冬十月乙酉、西川節度使の崔寧は吐蕃を望漢城で大いに破ったことを上奏した。

17.先是,秋霖,河中府池鹽多敗。戸部侍郎判度支韓滉恐鹽戸減税,丁亥,奏雨雖多,不害鹽,仍有瑞鹽生。上疑其不然,遣諫議大夫義興蔣鎮往視之。]

17.これより先、秋に長雨となり、河中府の塩池の多くが決壊した。戸部侍郎判度支の韓滉は塩戸が減税となることを恐れた、丁亥、雨が多かったが、塩に損害はなく、そこで瑞塩が生じたと奏上した。お上は疑ってそうではないと思い、諫議大夫義興の蒋鎮を派遣して視察させた。

18.吐蕃寇鹽、夏州,又寇長武;郭子儀遣將拒卻之。

18.吐蕃が塩州・夏州に侵入し、また長武に侵入した。郭子儀は将軍を派遣して防御して退けた。

19.以永平軍押牙匡城劉洽為宋州刺史。仍以宋、泗二州隸永平軍。

19.永平軍押牙匡城の劉洽を宋州刺史とした。そこで宋州・泗州の二州を永平軍に隷属させた。

20.京兆尹黎幹奏秋霖損稼,韓滉奏幹不實;上命御史按視,丁未,還奏,「所損凡三萬餘頃。」渭南令劉澡阿附度支,稱縣境苗獨不損;御史趙計奏與澡同。上曰「霖雨溥溥,豈得渭南獨無!」更命御史朱敖視之,損三千餘頃。上歎息久之,曰:「縣令,字人之官,不損猶應言損,乃不仁如是乎!」貶澡南浦尉,計澧州司戶,而不問滉。

20.京兆尹の黎幹が秋の長雨で実りが失われたことを奏上した。韓滉は黎幹の上奏と事実ではないとし、お上は御史に命じて視察させた。丁未、戻って、「失われたのは約三万頃あまり」と奏上した。渭南令の劉澡は度支に阿諛追従して、県の境だけは苗は損なわれていないと言い、御史の趙計は劉澡と同じ奏上をした。お上は、「長雨が広々とした範囲に及んでいるのに、どうして渭南だけがなかったのか!」と言い、さらに御史の朱敖に命じて視察させると、三千頃が失われた。お上はしばらく嘆息して、「県令というのは、人を養う官であり、損なわれていなかったとしてもなお損なわれているというべきなのだ。それなのに不仁の輩はこうもなのだ!」と言い、劉澡を南浦尉に、趙計を澧州司戸に左遷したが、韓滉は不問とした。

21.十一月,壬子,山南西道節度使張獻恭奏破吐蕃萬餘衆於岷州。

21.十一月壬子、山南西道節度使の張献恭が吐蕃一万あまりを岷州で破ったことを奏上した。

22.丙辰,蔣鎮還,奏「瑞鹽實如韓滉所言」,仍上表賀,請宣付史臣,並置神祠,錫以嘉名。上從之,賜號寶應靈慶池。時人醜之。

22.丙辰、蒋鎮が帰還し、「瑞塩は本当に韓滉の言った通りにありました」と奏上した。そこで賀を上表し、史臣に記録させ、あわせて神祠を設置し、嘉名を賜ることを願った。お上はこれにしたがい、宝応霊慶池の号を賜った。当時の時はこれをそしった。

23.十二月,丙戌,朱泚自涇州還京師。

23.十二月丙戌、朱泚が涇州より京師に帰還した。

24.丁亥,崔寧奏破吐蕃十餘萬衆,斬首八千餘級。

24.丁亥、崔寧が吐蕃の十万あまりの軍を破り、斬首八千級あまりであったことを上奏した。

25.庚子,以朱泚兼隴右節度使,知河西、澤潞行營。

25.庚子、朱泚に隴右節度使を兼任させ、河西・沢潞の行営を司らせた。

26.平盧節度使李正己先有淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、徳、棣十州之地,及李靈曜之亂,諸道合兵攻之,所得之地,各為己有,正己又得曹、濮、徐、兗、鄆五州,因自青州徙治鄆州,使其子前淄州刺史納守青州。癸卯,以納為青州刺史。正己用刑嚴峻,所在不敢偶語;然法令齊一,賦均而輕,擁兵十萬,雄據東方,鄰籓皆畏之。是時田承嗣據魏、博、相、衛、洺、貝、澶七州,李寶臣據恆、易、趙、定、深、冀、滄七州,各擁衆五萬;梁崇義據襄、鄧、均、房、復、郢六州,有衆二萬;相與根據蟠結,雖奉事朝廷而不用其法令,官爵、甲兵、租賦、刑殺皆自專之,上寬仁,一聽其所為。朝廷或完一城,增一兵,輒有怨言,以為猜貳,常為之罷役;而自於境內築壘、繕兵無虚日。以是雖在中國名蕃臣,而實如蠻貊異域焉。

26.平盧節度使の李正己は以前より淄・青・斉・海・登・莱・沂・密・徳・棣の十州の地を領有しており、李霊曜の乱の時に、諸道は兵を合わせてこれを攻撃し、得たところの地は、それぞれが自身の領有とし、正己もまた曹・濮・徐・兗・鄆の五州を得て、そのたえ青州より鄆州に治所を移し、その子の前淄州刺史の李納に青州を守らせた。癸卯、李納を青州刺史に任じた。李正己は刑罰は厳格に用いたが、言ったことは二言はなく、しかし法令は公平均一で、賦税は均しく軽く、兵十万を擁し、東方に雄拠し、隣の藩鎮は皆恐れた。当時、田承嗣は魏・博・相・衛・洺・貝・澶の七州により、李宝臣は恒・易・趙・定・深・冀・滄の七州により、それぞれ軍五万であった。梁崇義は襄・鄧・均・房・復・郢の六州により、軍二万があり、互いに結びつきあい、朝廷に仕え奉っているとはいえ、その法令・官爵・軍制・租税・刑罰は用いず、すべて自分達が専横した。お上は寛大にもすべてその所業を許したが、朝廷はただ長安一城のみを全うするだけで、一兵も増やせば、たちまち怨嗟の声があがり、二心あるのを疑って、常に賦役を免れた。しかし自分の境界内に砦を築き、兵を訓練して日を虚しくすることはなかった。これによって中国にあって蕃臣と称しながらも、その内実は南蛮・夷貊の異域のようであった。

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦十三年(戊午、七七八年)

1,春,正月,辛酉,敕毀白渠支流碾磑以溉田。昇平公主有二磑,入見於上,請存之。上曰:「吾欲以利蒼主,汝識吾意,當為衆先。」公主即日毀之。

1.春正月辛酉、勅して白渠の支流の碾磑を破壊し漑田とした。昇平公主は碾磑を二機所有しており、お上に入見して、存続を願った。お上は、「私は天下に利することを願っている。お前も私の思いがわかるなら、ただちに民衆に率先しなさい」と言ったから、公主は即日破壊した。

2.戊辰,回紇寇太原,河東押牙泗水李自良曰:「回紇精銳遠來求鬥,難與爭鋒;不如築二壘於歸路,以兵戍之。虜至,堅壁勿與戰,彼師老自歸,乃出軍乘之。二壘抗其前,大軍蹙其後,無不捷矣。」留後鮑防不從,遣大將焦伯瑜等逆戰;癸酉,遇虜於陽曲,大敗而還,死者萬餘人。回紇縱兵大掠。二月,代州都督張光晟撃破之於羊武谷,乃引去。上引去。上亦不問回紇入寇之故,待之如初。

2.戊辰、回紇が太原に侵入し、河東押牙泗水の李自良が、「回紇の精鋭は遠くから入門を求めており、その鋭鋒と戦うのは難しいのです。二つの砦を帰路に築き、兵で守らせるのにこしたことはありません。敵が来たら、壁に立てこもり、戦ってはなりません。かの軍が疲弊して帰ったところを軍を出してこれに乗ずるのです。二砦にはその前に濠を掘り、大軍をその後に隠せば、勝てないなんてことはありません。」と言ったが、留後の鮑防は従わず、大将の焦伯瑜らを遣わして戦いに戻った。癸酉、敵と陽曲に遭遇して、大敗して帰還し、死者一万人あまりであった。回紇は兵を縦横に大いに掠奪した。二月、代州都督の張光晟がこれを羊武谷で撃破し、そこで引き上げた。お上はまた回紇が入寇した事由を不問とし、歓待することは最初のようであった。

3.己亥,吐蕃遣其將馬重英帥衆四萬寇靈州,塞填漢、御史、尚書三渠水口以弊屯田。

3.己亥、吐蕃はその将の馬重英を派遣して軍四万を率いて霊州に侵入し、填漢渠・御史渠・尚書渠の三渠の水口を塞いで屯田を減らした。

4.三月,甲戌,回紇使還,過河中,朔方軍士掠其輜重,因大掠坊市。

4.三月甲戌、回紇を帰還させた。河中を通過すると、朔方軍の兵士がその輜重を掠奪し、そのため大いに坊市を掠奪した。

5.夏,四月,甲辰,吐蕃寇靈州,朔方留後常謙光撃破之。

5.夏四月甲辰、吐蕃は霊州に侵入し、朔方留後の常謙光がこれを撃破した。

6.六月,戊戌,隴右節度使朱泚獻貓鼠同乳不相害者以為瑞;常袞帥百官稱賀。中書舍人崔祐甫獨不賀,曰:「物反常為妖,貓捕鼠,乃其職也,今同乳,妖也。何乃賀為!宜戒法吏之不察奸、邊吏之不禦寇者,以承天意。」上嘉之。祐甫,沔之子也。秋,七月,壬子,以祐甫知吏部選事。祐甫數以公事與常袞爭,由是惡之

6.六月戊戌、隴右節度使の朱泚が猫と鼠が同乳で互いに害することがないものを瑞兆として献上し、常袞は百官を率いて祝賀した。中書舎人の崔祐甫が一人祝賀せず、「物で常に反するものを妖といいます。猫は鼠を捕獲するのが職です。今同乳なのは妖です。どうして祝賀するのでしょうか!法吏が奸を察しないこと、辺吏が侵入を防がないのを戒め、天意を受けましょう」と言い、お上はその言をよしとした。崔祐甫は、崔沔の子である。秋七月壬子、崔祐甫に吏部選事を司らせた。崔祐甫はしばしば公事を常袞と争い、そのため憎んだ。

7.戊午,郭子儀奏以回紇猶在塞上,邊人恐懼,請遣邠州刺史渾瑊將兵鎮振武軍,從之。回紇始去。

7.戊午、郭子儀は回紇がなお塞上にあり、辺人が恐れていることを上奏した。邠州刺史の渾瑊の将兵の派遣し、振武軍を鎮めること願い、これにしたがった。回紇は始めて去った。

8.辛未,吐蕃將馬重英二萬衆寇鹽、慶二州,郭子儀遣河東朔方都虞候李懷光撃卻之。

8.辛未、吐蕃は馬重英が二万の軍を率いて、塩州・慶州の二州に侵入した。郭子儀は河東朔方都虞候の李懐光を派遣して撃退した。

9.八月,乙亥,成徳節度使李寶臣請複姓張,許之。

9.八月乙亥、成徳節度使の李宝臣が姓を張に戻すことを願い、これを許した。

10.吐蕃二萬衆寇銀、麟州、略党項雜畜,郭子儀遣李懷光等撃破之。

10.吐蕃は二万の軍で銀州・麟州に侵入し、党項雑畜を略奪した。郭子儀は李懐光らを派遣して撃破した。

11.上悼念貞懿皇后不已,殯於內殿,累年不忍葬;丁酉,始葬於莊陵。

11.お上は貞懿皇后への懐いがやまず、内殿で殯し、年を重ねても埋葬しなかった。丁酉、始めて荘陵に葬った。

12.九月,庚午,吐蕃萬騎下青石嶺,逼涇州;詔郭子儀、朱泚與段秀實共卻之。

12.九月庚午、吐蕃の一万が青石嶺を降り、涇州に迫った。郭子儀・朱泚・段秀実に詔して、共同で撃退した。

13.冬,十二月,丙戌,以吏部尚書、轉運、鹽鐵等使劉晏為左僕射,知三銓及使職如故。

13.冬十二月丙戌、吏部尚書転運塩鉄等使の劉晏を左僕射に任じ、三銓および使職を司ることは前のままとした。

14.郭子儀入朝,命判官京兆杜黄裳主留務。李懷光陰謀代子儀,矯為詔書,欲誅大將温儒雅等。黄裳察其詐,以詰懷光;懷光流汗伏罪。於是諸將之難制者,黄裳矯子儀之命,皆出之於外,軍府乃安。

14.郭子儀が入朝し、判官京兆の杜黄裳に命じて留務を司らせた。李懐光は密かに郭子儀にとってかわらんと謀り、詔書を偽って、大将の温儒雅らを誅殺しようとした。杜黄裳はその偽りを察して、李懐光を詰問し、李懐光は汗が流れて罪に伏せた。ここに諸将で制することが難しい者は、杜黄裳が郭子儀の命令を偽って、すべて外に出させたから、軍府は安穏となった。

15.以給事中杜亞為江西觀察使。

15.給事中の杜亜を江西観察使に任じた。

上召江西判官李泌入見,語以元載事,曰:「與卿別八年,乃能除此賊。賴太子發其陰謀,不然,幾不見卿。」對曰:「臣昔日固嘗言之。陛下知群臣有不善,則去之;含容太過,故至於此。」上曰:「事亦應十全,不可輕發。」上因言:「朕面屬卿於路嗣恭,而嗣恭取載意,奏卿為虔州別駕。嗣恭初平嶺南,獻琉璃盤,逕九寸,朕以為至寶。及破載家,得嗣恭所遺載琉璃盤,逕尺。俟其至,當與卿議之。」泌曰:「嗣恭為人,小心,善事人,畏權勢,精勤吏事而不知大體。昔為縣令,有能名。陛下未暇知之,而為載所用,故為之盡力。陛下誠知而用之,彼亦為陛下盡力矣。虔州別駕,臣自欲之,非其罪也。且嗣恭新立大功,陛下豈得以一琉璃盤罪之邪!」上意乃解,以嗣恭為兵部尚書。

郭子儀以朔方節度副使張曇性剛率,謂其以武人輕己,銜之;孔目官吳曜為子儀所任,因而構之。子儀怒,誣奏曇扇動軍衆,誅之。掌書記高郢力爭之,子儀不聽,奏貶郢猗氏丞。既而僚佐多以病求去,子儀悔之,悉薦之於朝,曰:「吳曜誤我。」遂逐之。
常袞言於上曰:「陛下久欲用李泌,昔漢宣帝欲用人為公卿,必先試理人,請且以為刺史,使周知人間利病,俟報政而用之。」

 

代宗睿文孝武皇帝中之下大暦十四年(己未、七七九年)

1,春,正月,壬戌,以李泌為澧州刺史。

1.春正月壬戌、李泌を澧州刺史とした。

2.二月,癸未,魏博節度使田承嗣薨。有子十一人,以其侄中軍兵馬使悅為才,使知軍事,而諸子佐之。甲申,以悅為魏博留後。

2.二月癸未、魏博節度使の田承嗣が薨去した。子が十一人おり、その姪で中軍兵馬使の田悦に才能があり、軍事を司らせ、諸子が補佐した。甲申、田悦を魏博留後とした。

淮西節度使李忠臣,貪殘好色,將吏妻女美者,多逼淫之,悉以軍政委妹婿節度副使張惠光。惠光挾勢暴橫,軍州苦之。忠臣復以惠光子為牙將,暴橫甚於其父。左廂都虞候李希烈,忠臣之族子也,為衆所服。希烈因衆心怨怒,三月,丁未,與大將丁暠等殺惠光父子而逐忠臣。忠臣單騎奔京師,上以其有功,使以檢校司空、同平章事留京師;以希烈為蔡州刺史、淮西留後。以永平節度使李勉兼汴州刺史,增領汴、穎二州,徙鎮汴州。

辛酉,以容管經略使王翃為河中少尹、知府事。河東副元帥留後部將凌正暴橫,翃抑之。正與其徒乘夜作亂,翃知之,故縮漏水數刻以差其期,賊驚,潰走,擒正,誅之,軍府乃安。
成徳節度使張寶臣既請複姓,又不自安,更請賜姓;夏,四月,癸未,復賜姓李。
五月,癸卯,上始有疾,辛酉,制皇太子監國。是夕,上崩於紫宸之內殿,遺詔以郭子儀攝塚宰。癸亥,徳宗即位,在諒陰中,動遵禮法;嘗召韓王迥食,食馬齒羹,不設鹽、酪。
常袞性剛急,為政苛細,不合衆心。時群臣朝夕臨,袞哭委頓,從吏或扶之。中書舍人崔祐甫指以示衆曰:「臣哭君前,有扶禮乎!」袞聞,益恨之。會議群臣喪服,袞以為:「禮,臣為君斬衰三年。漢文帝權制,猶三十六日。高宗以來,皆遵漢制。及玄宗、肅宗之喪,始服二十七日。今遺詔云:『天下吏人,三日釋服。』古者卿大夫從君而服,皇帝二十七日而除,在朝群臣亦當如之。」祐甫以為:「遺詔,無朝臣、庶人之別。朝野中外,莫非天下,凡百執事,孰非吏人!皆應三日釋服。」相與力爭,聲色陵厲。袞不能堪。乃奏祐甫率情變禮,請貶潮州刺史;上以為太重,閏月,壬申,貶祐甫為河南少尹。
初,肅宗之世,天下務殷,宰相常有數人,更直決事,或休沐各歸私第,詔直事者代署其名而奏之,自是踵為故事。時郭子儀、朱泚雖以軍功為宰相,皆不預朝政,袞獨居政事堂,代二人署名奏祐甫。祐甫既貶,二人表言其非罪,上問:「卿向言可貶,今雲非罪,何也?」二人對,初不知。上初即位,以袞為欺罔,大駭。甲戌,百官衰絰,序立於月華門,有制,貶袞為潮州刺史,以祐甫為門下侍郎、同平章事,聞者震悚。祐甫至昭應而還。既而群臣喪服竟用袞議。

それより以前、粛宗の治世で、天下は賑やかしく、宰相は常に数人いて、決済のことにあたって、ある者は休んでそれぞれの私第に帰っていたから、詔して事にあたる者はその名を代署して奏上することとし、これよりこの慣例を継承した。当時、郭子儀・朱泚が軍功によって宰相となっていたとはいえ、すべて朝政にあずからず、常袞が一人政事堂にいて、二人に代わって署名して崔祐甫に奏じた。崔祐甫は誹謗したが、二人は上表してそれは罪ではないと言った。お上は、「卿は左遷すべきと言ったり、今、罪ではないと言う。どうしてなのか?」と言い、二人は、「初めは知らなかった」と答えた。お上は即位してから、常袞にあざむかれており、大いに驚いた。甲戌、百官は喪服を着て、月華門に並んで立ち、制があり、常袞を潮州刺史に左遷し、崔祐甫を門下侍郎同平章事(宰相)に任じ、聞く者は震撼した。崔祐甫は昭応に到って帰った。既に群臣は喪服で常袞と議した。

上時居諒陰,庶政皆委於祐甫,所言無不允。初,至徳以後,天下用兵,諸將競論功賞,故官爵不能無濫。及永泰以來,天下稍平,而元載、王縉秉政,四方以賄求官者相屬於門,大者出於載、縉,小者出於卓英倩等,皆如所欲而去。及常袞為相,思革其弊,杜絕僥倖,四方奏請,一切不與;而無所甄別,賢愚同滯。崔祐甫代之,欲收時望,推薦引拔,常無虚日;作相未二百日,除官八百人,前後相矯,終不得其適。上嘗謂佑甫曰:「人或謗卿,所用多渉親故,何也?」對曰:「臣為陛下選擇百官,不敢不詳慎,苟平生未之識,何以諳其才行而用之。」上以為然。
臣光曰:臣聞用人者,無親疏、新故之殊,惟賢、不肖之為察。其人未必賢也,以親故而取之,固非公也;苟賢矣,以親故而捨之,亦非公也。夫天下之賢,固非一人所能盡也,若必待素識熟其才行而用之,所遺亦多矣。古之為相者則不然,舉之以衆,取之以公。衆曰賢矣,己雖不知其詳,姑用之,待其無功,然後退之,有功則進之;所舉得其人則賞之,非其人則罰之。進退賞罰,皆衆人所共然也,己不置豪發之私於其間。苟推是心以行之,又何遺賢曠官之足病哉!
詔罷省四方貢獻之不急者,又罷梨園使及樂工三百餘人,所留者悉隸太常。
郭子儀以司徒、中書令領河中尹、靈州大都督、單于、鎮北大都護、關內、河東副元帥、朔方節度、關內支度、鹽池、六城水運大使、押蕃部並營田及河陽道觀察等使,權任既重,功名復大,性寬大,政令頗不肅,代宗欲分其權而難之,久不決。甲申,詔尊子儀為尚父,加太尉兼中書令,增實封滿二千戶,月給千五百人糧、二百馬食,子弟、諸婿遷官者十餘人,所領副元帥諸使悉罷之;以其裨將河東、朔方都虞候李懷光為河中尹、邠、寧、慶、晉、絳、慈、隰節度使,以朔方留後兼靈州長史常謙光為靈州大都督、西受降城、定遠、天徳、鹽、夏、豐等軍州節度使,振武軍使渾瑊為單于大都護、東、中二受降城、振武、鎮北、綏、銀、麟、勝等軍州節度使,分領其任。
丙戌,詔曰:「澤州刺史李鷃上《慶雲圖》。朕以時和年豐為嘉祥,以進賢顯忠為良瑞,如卿雲、靈芝、珍禽、奇獸、怪草、異木,何益於人!佈告天下,自今有此,無得上獻。」內莊宅使上言諸州有官租萬四千餘斛,上令分給所在充軍儲。先是,諸國屢獻馴象,凡四十有二,上曰:「象費豢養而違物性,將安用之!」命縱於荊山之陽,及豹、貀、鬥雞、獵犬之類,悉縱之;又出宮女數百人。於是中外皆悅,淄青軍士,至投兵相顧曰「明主出矣,吾屬猶反乎!」戊子,以淮西留後李希烈為節度使。
辛卯,以河陽鎮遏使馬燧為河東節度使。河東承百井之敗,騎士單弱,燧悉召牧馬廝役,得數千人,教之數月,皆為精騎。造甲必為長短三等,稱其所衣,以便進趨。又造戰車,行則載兵甲,止則為營陳,或塞險以遏奔沖;器械無不精利。居一年,得選兵三萬。辟兗州人張建封為判官,署李自良代州刺史,委任之。
兵部侍郎黎幹,狡險諛佞,與宦官特進劉忠翼相親善。忠翼本名清潭,恃寵貪縱。二人皆為衆所惡。時人或言幹、忠翼嘗勸代宗立獨孤貴妃為皇后,妃子韓王迥為太子。上即位,幹密乘輿詣忠翼謀事;事覺,丙申、幹、忠翼並除名長流,至藍田,賜死。
以戶部侍郎判度支韓滉為太常卿,以吏部尚書劉晏判度支。先是晏、滉分掌天下財賦,晏掌河南、山南、江淮、嶺南,滉掌關內,河東、劍南,至是,晏始兼之。上素聞滉掊克過甚,故罷其利權,尋出為晉州刺史。
至徳初,第五琦始榷鹽以佐軍用,及劉晏代之,法益精密,初歳入錢六十萬緡,末年所入逾十倍,而人不厭苦。大暦末,計一歳徴賦所入總一千二百萬緡,而鹽利居其太半。以鹽為漕傭,自江、淮至渭橋,率萬斛傭七千緡,自淮以北,列置巡院,擇能吏主之,不煩州縣而集事。
六月,己亥朔,赦天下。
西川節度使崔寧、永平節度使李勉並同平章事。
詔:「天下冤滯,州府不為理,聽詣三司使,以中丞、舍人、給事中各一人,日於朝堂受詞。推決尚未盡者,聽撾登聞鼓。自今無得復奏置寺觀及請度僧尼。」於是撾登聞鼓者甚衆。右金吾將軍裴諝上疏,以為:「訟者所爭皆細故,若天子一一親之,則安用吏理乎!」上乃悉歸之有司。
制:「應山陵制度,務從優厚,當竭帑藏以供其費。」刑部員外郎令孤峘上疏諫,其略曰:「臣伏讀遺詔,務從儉約,若制度優厚,豈顧命之意邪!」上答詔,略曰:「非唯中朕之病,抑亦成朕之美,敢不聞義而徙!」峘,徳棻之玄孫也。
庚子,立皇子誦為宣王,謨為舒王,諶為通王,諒為虔王,詳為肅王。乙巳,立皇弟乃為益王,傀為蜀王。
丙午,舉先天事故,六品以上清望官,雖非供奉、侍衛之官,日令二人更直待制,以備顧問。
庚戌,以朱泚為鳳翔尹。

庚戌、朱泚を鳳翔尹に任じた。

代宗優寵宦官,奉使四方者,不禁其求取。嘗遣中使賜妃族,還,問所得頗少,代宗不悅,以為輕我命。妃懼,遽以私物償之。由是中使公求賂遺,無所忌憚。宰相嘗貯錢於閣中,毎賜一物,宣一旨,無徒還者;出使所歷州縣,移文取貨,與賦稅同,皆重載而歸。上素知其弊。遣中使邵光超賜李希烈旌節;希烈贈之僕、馬及縑七百匹,黄茗二百斤。上聞之,怒,杖光超六十而流之。於是中使之未歸者,皆潛棄所得於山谷,雖與之,莫敢受。
甲子,以神策都知兵馬使、右領軍大將軍王駕鶴為東都園苑使,以司農卿白琇珪代之,更名志貞。駕鶴典禁兵十餘年,權行中外,詔下,上恐其生變;崔祐甫召駕鶴與語,留連久之,琇珪已視事矣。
李正己畏上威名,表獻錢三十萬緡;上欲受之,恐見欺,卻之則無辭。崔祐甫請遣使慰勞淄青將士,因以正己所獻錢賜之,使將士人人戴上恩;又諸道聞之,知朝廷不重貨財。上悅,從之。正己大慚服。天下以為太平之治,庶幾可望焉。
秋,七月,戊辰朔,日有食之。
禮儀使、吏部尚書顏真卿上言:「上元中,政在宮壺,始增祖宗之謚。玄宗末,奸臣竊命,累聖之謚,有加至十一字者。按周之文、武,言文不稱武,言武不稱文,豈盛徳所不優乎?蓋群臣稱其至者故也。故謚多不為褒,少不為貶。今累聖謚號太廣,有逾古制,請自中宗以上皆從初謚,睿宗曰聖真皇帝,玄宗曰孝明皇帝,肅宗曰宣皇帝,以省文尚質,正名敦本。」上命百官集議,儒學之士,皆從真卿議;獨兵部侍郎袁參,官以兵進,奏言:「陵廟玉冊、木主皆已刊勒,不可輕改,」事遂寢。不知陵中玉冊所刻,乃初謚也。
初,代宗之世,事多留滯,四夷使者及四方奏計,或連歳不遣,乃於右銀台門置客省以處之;及上書言事孟浪者、失職未敘者,亦置其中,動經十歳。常有數百人,並部曲、畜產動以千計,度支廩給,其費甚廣。上悉命疏理,拘者出之,事竟者遣之,當敘者任之,歳省谷萬九千二百斛。
壬申,毀元載、馬璘、劉忠翼之第。初,天寶中,貴戚第捨雖極奢麗,而坦屋高下,猶存制度,然李靖家廟已為楊氏馬廄矣。及安、史亂後,法度墮弛,大臣、將帥、宦官競治第捨,各窮其力而後止,時人謂之木妖。上素疾之,故毀其尤者,仍命馬氏獻其園,隸宮司,謂之奉成園。
癸丑,減常貢宮中服用錦千匹、服玩數千事。
庚辰,詔回紇諸胡在京師者,各服其服,無得效華人。先是回紇留京師者常千人,商胡偽服而雜居者又倍之,縣官日給饔餼,殖資產,開第捨,市肆美利皆歸之,日縱暴橫,吏不敢問。或衣華服,誘取妻妾,故禁之。
辛卯,罷天下榷酒收利。
上之在東宮也,國子博士河中張渉為侍讀,即位之夕,召渉入禁中,事無大小皆咨之;明日,置於翰林為學士,親重無比。乙未,以渉為右散騎常侍,仍為學士。

 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年04月23日 13:27
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。