巻第六十

*資治通鑑巻第六十
** 漢紀五十二
**  孝獻皇帝乙

初平二年(辛未、一九一)

1.春、正月、辛丑、天下に赦令を下した。
2.関東諸将はつぎのように議した:以って朝廷が幼沖であるため、董卓に於いて迫られ、遠く(函谷)関(桃林)塞から隔てられてしまい、関塞とは、函谷関、桃林塞のことを謂う也。存否を知らない、幽州牧の劉虞は、宗室の賢であるから、共に立てて主と為そうと欲している、と。曹操曰く:「吾等が兵を挙げ而して遠近からこの響きに応じない者が莫かった所以というのは、義を以って動いたが故にほかならない也。今幼主が微弱であって、姦臣に於いて制されているが、これは昌邑が亡国之釁を有したことに非ず(同じことではない)、昌邑、昌邑王賀のことを謂う也。而して(それなのに)一旦にして改めること易ければ(易々と改めたなら)、天下は其れ孰くにか之に安んぜんか!諸君が北面しようとも、我は自ずと西に向かわん。」幽州は北に在り、長安は西に在った、故に曹操は然るように云ったのである。韓馥、袁紹は書を以って袁術に与えて曰く:「帝は孝靈の子に非ず、欲依絳、灌誅廃少主、迎立代王故事、大司馬である劉虞を奉じて帝と為そう。」袁術は陰ながら不臣之心を有していたため、国家が長君を有することは不利であるとして、乃ち外は公義に託して以って之を拒んだ。袁紹は復たも袁術に書を与えて曰く:「今西の名には幼君が有るが、血脈之属が無い、謂帝は靈帝の子に非ずと謂うことである也。(そのうえ)公卿以下は皆事を(事えることで)董卓に媚びているのだから、安んぞ復た信ず可けんや!但だ当に兵を使って往きて関要に駐屯させるべし、皆自ずと蹙死することだろう。(そうしておいて)東に聖君を立てたなら、太平は冀う可く、何ぞ疑い有る如きであろうか!又室家(我らの家)は戮に見えたのだ、子胥を念じず(#念じないではおれない?)、伍子胥が能く父兄之讎に報いたことを謂う也。復た北面す可きでないか乎?」以って袁隗等を殺した(命令)が帝に於いて出されることに為ったことをいっている。袁術は答えて曰く:「聖主は聡叡であらせられ、周(王朝)の成(王)之質がある、賊の董卓が危乱之際に因って、百寮を威服したが、此は乃ち漢家が小厄之会にあっただけのこと、それなのに乃ち今上を『無血脈之属』だと云うなど、豈に誣としないものだろうか乎!又曰く『室家は戮に見えたのだから、復た北面す可し』とは、此は董卓が為した所である、豈に国家がなしたところだろうか哉!慺慺たらんか(この我が)赤心、志は董卓を滅ぼすに在るのだ、其の他のことなど識らんわ!」韓馥、袁紹は竟に故の楽浪太守である張岐等を遣わして齎議して劉虞に尊号のことを上させた。劉虞は張岐等に見えると、厲色して之を叱して曰く:「今天下は崩乱し、主上は塵を蒙っている、吾は重恩を被っており、未だ国の恥を清め雪ぐこと能わないでいる。諸君は各々が州郡に拠っているのだから、宜しく共に力して王室に心を尽くすべきであるのに、而して反って逆しまに謀を造り以って相垢汙とするのか邪!」固く之を拒んだ。韓馥等は又劉虞に尚書事を領して、承制封拜をおこなうよう請うたが、復たも聴きいれず、匈奴に奔らんことを欲した以って自ら(彼らとの関係を)絶とうとしたのである。(そこで)袁紹等は乃ち止めた。
3.二月、丁丑、董卓を太師とし、位は諸侯王の上にあることとした。
4.孫堅は屯(営)を梁の東に移したところ、董卓の将の徐栄に敗れる所と為った、そこで復た散卒を収めると進んで陽人に駐屯した。賢曰く:梁県は、河南郡に属する、今の汝州県である。陽人聚の故城は、梁県の西に在る。董卓は東郡太守の胡軫を遣わして歩騎五千を督させ、呂布を以って騎督と為して之を撃たせた。胡軫と呂布は相得ないなか、孫堅が出撃してきて、之を大いに破ると、其の都督華雄を梟した。或るひとが袁術に謂いて曰く:「孫堅が若し雒(洛陽)を得たなら、復た制す可からず、此は狼を除いて而して虎を得るようなことを為すことです也。」袁術は之を疑い、軍糧を運ばなかった。孫堅は夜に馳せて袁術に見えると、陽人は魯陽を去ること百余里である。地に畫して校を計って曰く:「(わたしが)身は出ずるとも顧みないことの所以は、上は国家の為に賊を討ち、為、于偽翻。下は将軍の家門がおこなう私讎を慰めんとしているのです。この孫堅は董卓と骨肉之怨みが有るのではありません也、而しながら将軍は浸潤之言を受けいれ、浸潤之譖は、論語に出ている。還って相嫌疑なさっている、何ででしょう也?」袁術は踧踖すると、不自安貌。即ち(即座に)軍糧を調発した。孫堅が屯に還ったところ、董卓が将軍の李傕を遣わして孫堅を説きにきていた、与(孫堅と)和親せんと欲しており、孫堅に子弟を刺史、郡守に任じるよう(任じてもらいたい者)疏すことを令していた、之を用いるよう上表することを許したのである。孫堅は曰く:「董卓は天に逆い無道である、今汝三族を夷して四海に懸示しなければ、則ち吾は死すとも瞑目せず、豈に将に与して乃ち和親しようか邪!」乃、汝也。復た軍を大谷に進めた、雒(洛陽/雒県)から距ること九十里である。賢曰:大谷口は、故の嵩陽の西北八十五里に在る、北に出ると雒陽故城に対する、張衡の東京賦に云う「盟津は其後ろに達し、大谷は其の前を通る」とあるのが是である也。距、至也。董卓は自ら出てくると、孫堅と諸陵の間に於いて戦った、董卓は敗走すると、澠池に卻屯し、陝に於いて兵を聚めた。孫堅は進んで雒陽に至ると、呂布を撃ち、復た破って走らせた。孫堅は乃ち宗廟を掃除し、太牢を以って祠ると、城の南にある甄官の井中に於いて伝国璽を得た。甄官署の井の中である也。晉職官志では:少府に属するものに甄官令が有る、而しながら続漢志には之が無い、蓋し他の署に於いて属されたものだろう、未だ專官を置かなかったとみえる也。甄官は、琢石、陶土之事を掌る。後に建安元年に袁術が璽を奪うことに為った張本。璽、斯氏翻。兵を分けて新安、澠池の間に出ると以って董卓への要とした。董卓は長史の劉艾に謂いて曰く:「関東の軍は何度も敗れたため矣、皆孤<わたし>を畏れていて、能く為すこと無い也。惟だ孫堅のみが小戇(小癪な奴)で、頗る能く人を用いるから、当に諸将に語って、之を忌むよう知ら使めよう。語、牛倨翻。下に同じ。孤は昔周慎と金城に於いて辺章、韓遂を西征したことがあった、孤は張温に語って、求引所将兵為慎作後駐(将いる所の兵を引きつれて周慎には後駐を作らせるよう求めたが)、張温は聴きいれなかった。張温は又孤を使って先零の叛いた羌を討たせようとした、孤は其の克てないことを知っていたが而しながら止むを得ず、遂行することにし、別部司馬の劉靖に歩騎四千を将いさせて安定に駐屯させ留めたのだが以って声勢を為そうとしたのである。叛羌は(われらの)帰る道をせんと欲したが、は、即ち截字である。孤が小撃すると輒ち開けた、これは安定に兵が有るのを畏れた故であった也。虜が謂うには安定には当に数万人がいるとしていた、但だ劉靖だけとは知らなかったのである也。而して孫堅は周慎に随い行くと、周慎に求先ず万兵を将いて金城を造らんことを求め、使って周慎には二万を以って後駐を作るよう謂った。辺章、韓遂は周慎が大兵であることを畏れ、敢えて軽んじて孫堅と戦おうなどとはせず、而して孫堅の兵は以って其の運道を断つに足るものだった。兒曹が其の言を用いたなら、涼州は或いは能く定められたろう也。張温は既に孤を用いること能わず、周慎も又孫堅を用いること能わず、卒用(用を卒して)敗走したのである。孫堅は以佐軍司馬所見略与人同、固自為可。言其才可用也。但無故従諸袁兒(但たんに故無く諸袁兒に従っているからには/諸袁兒に従う故が無い)、終には亦た死すことになろう耳!」乃ち東中郎将の董越を使って澠池に駐屯させ、中郎将の段煨を華陰に駐屯させ、中郎将の牛輔を安邑に駐屯させ、姓譜では:牛(氏)は本もとは殷から(自り)のもので、周が微子を宋に於いて封じた、其の裔で司寇であった牛父が長丘に於いて狄に敗れて、之に死したため、其の子孫は王父の字を以って氏と為したのである。其の余りの諸将を諸県に布在させると、以って山東から(の攻撃を)禦がせた。牛輔は、董卓之である也。董卓は引いて長安に還った。孫堅は諸陵を脩塞する(修繕して塞ぐと)、軍を引きつれて魯陽に還った。
5.夏、四月、董卓が長安に至ると、公卿は皆車下に迎え拝した。董卓は抵手すると御史中丞の皇甫嵩に謂いて曰く:「義真よ、怖未乎?」皇甫嵩は、字を義真という。怖は、普布翻。皇甫嵩は曰く:「明公は徳を以ってして朝廷を輔け、大慶が方じて至ったのですから、何ぞ之を怖れること有りましょう!若し刑に淫することに以って逞しくするなら、将に天下の皆が懼れることになりましょうから、豈に独り嵩のみでしょうか(怖れることになりましょうか)乎!」考異に曰く:范書の皇甫嵩伝及び山陽公載記に記してある皇甫嵩の語は此とは同じでない、今は張璠漢紀に従う。董卓の党は董卓を尊ぶこと太公に比さんとして、尚父と称しようと欲した、董卓は以って蔡邕に問うと、蔡邕は曰く:「明公には威徳がありますから、誠に為すこと巍巍たるものです、然りながら之を太公に比しますと、愚かしい意ではありますが以為<おもえらく>は未だす可きことではありません、宜しく関東を須らく平定されて、車駕を旧<もと>の京に還反なさいまして、然る後に之を議すことにいたしましょう。」董卓は乃ち止めた。董卓は司隸校尉の劉囂を使って民のなか子で不孝を為したもの、臣で不忠を為したもの、吏で不清を為したもの、弟で為すに順わなかった者について吏に籍させて、皆身は誅し、財物は官に没収することにした。是に於いて更めて相誣引しあい、更、工衡翻。冤死した者は以って千を数えることになった。百姓は囂囂として、道路では以って目くばせしあった。囂、五羔翻。韋昭曰:「不敢発言、以目相眄而已。」
6.六月、丙戌、地震があった。
7.秋、七月、司空の种拂が免じられた。光禄大夫で済南出身の淳于嘉を司空とした。太尉の趙謙が罷めた。太常の馬日磾を太尉とした。
8.かつて、何進は雲中出身の張楊を遣わして并州に還して兵を募らせていた。たまたま何進が敗れたため、張楊は上党に留まると、衆を有すること数千人となった。袁紹は河内に在ったことから、張楊は往きて之に帰すと、南単于の於扶羅に与して(と)漳水に駐屯した。濁漳水は上党の長子を出て而して東に鄴を過ぎる、鄴は則ち韓馥が居った所である也。韓馥は豪傑の多くが袁紹に帰心したことを以って、之を忌むと。陰ながら其の軍糧を貶節し、其の衆を離散させ使もうと欲した。韓馥の将である麴義が叛くに会い、姓譜では:漢に平原出身の鞠譚が有った、其の子の閟が難を避けて、改めて曰く麴氏としたのである、後に遂に西平での著姓と為った。韓馥はこれと戦い而して敗れた、袁紹は因ってこれと義を相結んだ。袁紹の客だった逢紀が袁紹に謂いて曰く:「将軍は大事を挙げんとするに而して人に資給を仰いでいます、仰、牛向翻。一州に拠らなければ、以って自ら全うすること無いでしょう。」袁紹は曰く:「冀州の兵は強い、なのに吾が士は飢え乏しい、設不能辦、無所容立。」逢紀曰く:「韓馥は庸才です、可密かに公孫瓚と要し(待ち伏せし)要、読みは曰く邀。使って冀州を取らせることにします、韓馥は必ずや駭懼するでしょうから、因って弁士を遣わして禍福を陳べることを為させれば、為、于偽翻。韓馥は迫られること倉卒に於いてでありますから、必ずや遜讓せんことを肯んずることでしょう。」袁紹は之を然りとし、即ち書を以って公孫瓚に与えた。公孫瓚は遂に兵を引きつれて而して至ると、外は董卓を討つことに託しながら而して陰では韓馥を襲わんことを謀った、韓馥はこれと戦ったが不利であった。董卓が入関するに会うと、袁紹は軍を延津に還した、続漢志では、酸棗県の北に延津が有るとしている。外甥であった陳留出身の高幹及び韓馥が親しくしている所であった潁川出身の辛評、荀諶、郭図等を使って韓馥に説かせて曰く:「公孫瓚は燕、代之卒を将いて勝ちに乗じて南にやって来ました、而して諸郡は之に応じ、其の(鋭)鋒には当たる可くもありません。袁車騎は軍を引きつれて東に向かい、河内から延津に至る、為に東に向かう。其の意は未だ量る可からざるものあります也、竊いますに将軍は之に危うきを為すでしょう!」韓馥は懼れて、曰く:「然則為之柰何?」荀諶曰く:「君は自ら仁容衆を料るに天下が附く所を為すのは、袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「危うきに望んで決を吐き、吐決とは吐奇決策を謂う也。智勇は人に過ぎること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「世に恩徳を布き、天下の家で其の恵みを受けること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」荀諶曰く:「袁氏は一時之傑であり、将軍の資のうち三つが如かざる勢いでありますからには、久しく其の上に処すなら、処、昌呂翻。彼は必ずや将軍の下に為ろうとしないでしょう也。夫れ冀州は、天下之重資であります也、彼が若し公孫瓚と并力して之を取らんとするならば、危亡は立って而して待つ可きものでしょう也。夫れ袁氏は、将軍之旧であります、且つ同盟を為していますからには、謂同盟討董卓。当今之計として、若し冀州を挙げて以って袁氏に譲られたなら、彼は必ずや将軍に徳を厚くすることでしょう、公孫瓚も亦た之と爭うこと能わないでしょう矣。是こそ将軍が讓賢之名を有して、而して身は泰山に於けるように安んずることです也。」韓馥は性は恇怯であったため、因って其の計を然りとしてしまった。恇、去王翻。韓馥の長史である耿武、別駕の閔純、治中(従事)の李歴は聞くや而して諫めて曰く:考異に曰く:九州春秋は「耿彧」と作る、今は范書、魏志、袁紀に従う。又范書では、騎都尉の沮授が諫めたとあり、李歴が無い、今は魏志、袁紀に従う。「冀州は帯甲百万、穀は十年を支えます。袁紹は孤客窮軍しており、我が鼻息を仰ぎますこと、鼻息、気一出入之頃也。鼻気嘘之則温、吸之則寒、故云然。醫書云:血為脈、気為息、脈息之名自是而分。呼吸者、気之橐籥。動応者、血之波瀾。其経以身寸度之、計十六丈二尺。一呼脈再動、一吸脈再動、呼吸定息脈五動、閏以大息則六動。一動一寸、故一息脈行六寸、十息六尺、百息六丈、二百息十二丈、七十息四丈二尺。計二百七十息、漏水下二刻尽十六丈二尺、営周一身。百刻之中得五十営。故曰脈行陽二十五度、行陰二十五度也。息者以呼吸定之、一日計一万三千五百息。呼吸進退既遲於脈、故一日一夜方行尽十六丈二尺経絡、而気周於一身、大会於風府。脈属陰、陰行速、猶太陰一月一周天。息属陽、陽行遲、猶太陽一歲一周天。如是則応天常度。「閏」、当作「間」。譬えるなら股掌之上に在る嬰兒の如きもの、其の哺乳を絶てば、餓え殺す可くも立てられましょう、柰<あなた>は何でまた州を以って之を与えようと欲するのです!」韓馥曰く:「吾は袁氏の故吏である、且つ才は本初に如かず、徳を度<はか>って而して讓るのは、度、徒洛翻。古人が貴ぶ所だ、諸君は独り何で(気に)病むのだ焉!」是に先んじて、韓馥の従事である趙浮、程渙は強弩万張を将いて孟津に駐屯していたが、先、悉薦翻。将、即亮翻。之を聞くや、兵を率いて馳せて還ってきた。時に袁紹は朝歌の清水に在ったが、水経に拠ると、清水は河内の脩武県を出て、獲嘉、汲県を巡って而して河に(于)入るもので、朝歌には至らない。惟だ淇水が則ち朝歌を巡るだけである耳。蓋し俗に亦た淇水を清水と為して呼ぶのであろう。九州春秋に拠れば、袁紹は時に朝歌の清水口に在った、趙浮等は孟津から東に下って、則ち両軍は皆大河を舟行して而して鄴に向かった也。清水口は即ち淇口である、南岸が即ち延津である。趙浮等は後に従って来た、船は数百艘、衆は万余人、兵を整え鼓して、夜に袁紹の営を過ぎたため、袁紹は甚だ之を惡んだ。惡、烏路翻。趙浮等は到ると、韓馥に謂いて曰く:「袁本初の軍には斗糧が無く、各々は已に離散しはじめております、張楊、於扶羅が新たに附いたと雖も、未だ肯用を為すこと肯えず、敵するに足りません也。小従事等(わたしたち従事ら)は請いますのは以って兵を見えて之を拒ましめんことです、見、賢遍翻。旬日之間には、必ずや(袁紹の軍は)土崩瓦解することでしょう。明将軍には但だ当に閤を開き枕を高くしておくだけです、枕、職任翻。何をか憂い何をか懼れるのです!」韓馥は又聴きいれなかった、乃ち避位すると、出て中常侍の趙忠の故舍に居し、子を遣わして印綬を送ると以って袁紹に讓った。袁紹が将に至らんとしたとき、従事十人が爭って韓馥を棄てると去ろうとしたが、独り耿武、閔純のみが刀を杖にして之を拒んで、禁ずること能わなかったため、乃ち止めた。袁紹は皆之を殺した。袁紹は遂に冀州牧を領すると、承制して韓馥を以って奮威将軍と為したが、而しながら将御する所無く、将、即亮翻。将御、猶言統御也。亦た官属も無かった。袁紹は広平出身の沮授を以って奮武将軍と為すと、広平県属鉅鹿郡。沮、千余翻、又音諸、姓也、黃帝史官沮誦之後。使って諸将を監護させ、寵遇すること甚だ厚かった。監、古銜翻。魏郡出身の審配、鉅鹿出身の田豊は並んで以って正直であったため不得志於韓馥に於いて、袁紹は田豊を以って別駕と為し、審配を治中と為し、及んで南陽出身の許攸、逢紀、潁川出身の荀諶を皆謀主と為した。袁紹は河内出身の朱漢を以って都官従事と為した。袁紹が都官従事を置いたのは、則ち猶も司隸校尉を領していたからである也。(ニセクロ注:後漢書百官志に拠ると都官従事と名づけられた従事はただ司隸校尉のみが置く従事職である。そのためこの注がある)朱漢は先に韓馥が(自分に)為した所が不礼であったため、且つ袁紹の意に徼迎せんと欲し、徼、一遙翻。兵を発して韓馥の第を囲守すると、拔刃して屋に登った、韓馥は走って樓に上った、上、時掌翻。(朱漢は)韓馥の大兒を収め得ると、その両脚を槌でうち折った。折、而設翻。袁紹は立って朱漢を収めると、之を殺した。(しかし)韓馥は猶も憂怖していたため、従って袁紹のところから索去し、怖、普布翻。索、山客翻。往きて張邈に依った。後に袁紹が使いを遣わして張邈に詣でさせてきたが、計議する所有って、張邈と耳語した。耳語、附耳而語也。韓馥は坐上に在ったが、坐、徂臥翻。謂為見図、何も無かったのだが、起って溷に至ると、書刀を以って自殺した。溷、戸困翻。圊とは也、廁のことである也。時に雖已に紙が有ったと雖も、猶も多くは刀筆を用いて書した、故に書刀を有していたのである。鮑信は曹操に謂いて曰く:「袁紹は盟主と為ったが、権に因って利を專らにし、将に自ら乱を生んでいる、是は復た一つ董卓があるということだ也。復、扶又翻。若し之を抑えんとしても、則ち力は制すること能わず、祗したとして以って遘難することだろう。遘、与構同。難、乃旦翻。且つは大河之南に規って以って其の変を待つ可きだ。」曹操は之にった。黒山、于毒、白繞、眭固等十余万が東郡を衆略するに会うと、王肱は禦ぐこと能わなかった。曹操は兵を引きつれて東郡に入ると、白繞を濮陽に於いて撃ち、之を破った。眭、息為翻。濮、博木翻。袁紹は因って曹操を上表して東郡太守と為すと、東武陽を治めさせた。東武陽県は、東郡に属する。応劭は曰く:県は武水之陽に在る。水経註に曰く:武水は即ち漯水である。賢曰く:故城が今の魏州莘県の南に在る。守、式又翻。
9.南単于が張楊を劫して以って袁紹に叛き、黎陽に於いて駐屯した。董卓は張楊を以って建義将軍、河内太守と為した。
10.太史が望気して、当に大臣で戮死する者が有るべしと言ったため。董卓は人を使って衛尉の張温が袁術に与して交わり通じていると誣させた、冬、十月、壬戌、市に於いて張温を笞殺し以って之に応じさせた。張温は西征之時に於いて董卓を斬ること能わずして、反って董卓の手に於いて死すことになった、哀れむ可きかな也巳。
11.青州黄巾が勃海を寇した、衆三十万は、黒山と合わさろうと欲した。公孫瓚は歩騎二万人を率いて東光の南に於いて逆撃し、之を大破した、斬首すること三万余級であった。賊は其の輜重を棄てて、重、直用翻。奔走して河を渡った。公孫瓚は其の半ばが之を済薄したことに因って、賊は復た大いに破られた、死者は数万、流れた血で水が丹となり、言水為之丹也。収め得た生口は七万余人、車甲財物は勝算す可からざるものがあり、威名は大いに震わされた。
12.劉虞の子の劉和は侍中と為っており、帝は東帰せんことを思うと、劉和を使って偽わって董卓から逃し、潛かに武関を出して劉虞に詣でさせ、兵を将いて來迎するよう令した。考異に曰く:范書の劉虞伝では、「劉虞は田疇を使って長安に使いさせた、時に劉和は侍中と為ると、因って遣わして武関に従い出させた。」魏志の公孫瓚伝を按ずるに、但だ天子が帰ろうと思ったと云っているだけで、因って田疇が至ったとは云っていない也。若爾、当に劉和に田疇と倶に還るよう令したのだとしたら、武関を出るのに応じなかったであろう。又田疇は未だ還っていないうちに、劉虞は已に死んでいたのである。劉虞が死んだのは初平四年冬に在った、界橋の戦は三年春に在った。范書は誤っている也。劉和は南陽に至ると、袁術は劉虞に利して援けと為そうとし、劉和を留めて遣わさず、兵を(あつめて)倶に西に至らんことを許し、劉和に書を為して劉虞に与えるよう令した。劉虞は書を得ると、数千騎を遣わして劉和に詣でさせた。公孫瓚は袁術に異志有ることを知っていたため、之を止めようとしたが、劉虞は聴きいれなかった。公孫瓚は袁術が聞いて而して之を怨みはしないかと恐れ、亦た其の従弟である公孫越に千騎を将いさせて遣わし袁術に詣でさせた、下同。而して陰ながら袁術に劉和を執らえて、其の兵を奪うよう教えた、是ゆえに劉虞、公孫瓚は有隙(関係が冷却することとなった)。劉虞は先に公孫瓚と有隙(関係が冷却しており)、是に至って而して隙は愈深(益々深まることになったのである)。劉和は袁術から逃れて北に来ると、復た袁紹の為に留められる所となった。是時関東の州、郡は務相兼并以自強大、袁紹、袁術も亦た自ら離貳した。袁術は孫堅を遣わして董卓を撃たせたが未だ返らなかったうちに、袁紹は会稽出身の周昂を以って豫州刺史と為し、孫堅の(いた)陽城を襲って奪った。陽城県は、潁川郡に属する。孫堅は豫州刺史を領して、陽城に駐屯した。孫堅は歎じて曰く:「同じく義兵を挙げたのは、将に社稷を救わんとしてのことであったのに、逆賊が垂破するや而して各々が此の若きこととなってしまった、吾は当に誰と戮力すべきなのか乎!」兵を引きつれて周昂を撃つと、之を走らせた。袁術は公孫越を遣わして孫堅をが周昂を攻めるのを助けさせたところ、公孫越が流矢の中る所と為って死んでしまった。中、竹仲翻。公孫瓚は怒って曰く:「余の弟が死んだのは禍が袁紹に於いて起ったからだ。」遂に出軍して磐河に駐屯した、上書して袁紹の罪惡を数えあげ、数、所具翻。兵を進めて袁紹を攻めた。冀州の諸城の多くが袁紹に叛いて公孫瓚に従った、袁紹は懼れて、以って佩びていた所の勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に授けると、之を郡に遣わしたが、而しながら公孫範は遂に袁紹に背いて、勃海の兵を領すると以って公孫瓚を助けた。背、蒲妹翻。公孫瓚は乃ち自ら其の将帥の厳綱を署して冀州刺史と為し、田楷を青州刺史と為し、単経を兗州刺史と為すと、単、音、姓也。姓譜:周卿士単襄公之後。又郡、県守、令の悉くを改めて置いた。初め、涿郡出身の劉備は、中山靖王之後であった也、蜀書が云うには:劉備は、中山靖王である劉勝の子であった陸城亭侯である劉貞之後である。然るに祖父以上から、世系は攷す可からざるものであった。少なきより孤りで貧しく、母と以って履を販売して業を為した、少、詩照翻。身長は七尺五寸、手を垂らすと膝の下にき、自らを顧みると其の耳を見ることができた。言其有異相也。大志を有して、語言は少なく、喜びあるいは怒っても色に於いて形とならなかった。少、詩沼翻。嘗て公孫瓚と盧植に同じく師事した、是ゆえに往きて公孫瓚に依ったのである。公孫瓚は劉備を使って田楷に与させたところ青州を徇するのに功が有ったため、因って以って平原相と為した。劉備は少なきより河東出身の関羽、涿郡出身の張飛と相友となり。少、詩照翻。関羽、張飛を以って別部司馬と為すと、部曲を分けて統めさせた。劉備と二人は寝るにも則ち(寝室)を同じくし、恩は兄弟の若きであり、而して稠人広坐、坐、徂臥翻。終日にわたり侍立して、劉備に随って周旋し、艱險を避けなかった。常山出身の趙雲が本郡の吏兵を将いて公孫瓚に詣でた、為、于偽翻。将、即亮翻。公孫瓚曰く:「聞くと貴州の人は皆袁氏を願っているとのことだが、願下当有従字。君は何でまた独り迷って而して能く反してきたのかね乎?」趙雲は曰く:「天下は、、許容翻。衆語喧嘵之貌。未だ孰れか是なるかを知りません、民に倒県之厄が有ったため、鄙州は論議しまして、仁政が在る所に従うことにしたわけで、不為忽袁公、私明将軍也。」為、劉備は見えると而して之を奇とし、深く接納を加えたため、趙雲は遂に劉備に従って平原に至ると、劉備の為に騎兵を主<つかさど>った。劉備の事は此に始まる。
13.かつて、袁術が南陽を得るや、戸口は数百万であった、而しながら袁術は奢淫肆欲して、徴斂すること度無く、斂、力贍翻。百姓は之に苦しんで、稍稍として離散していった。既に袁紹とのあいだに隙が有り(関係が冷却しており)、各々が党援を立てて以って相謀を図った。袁術は公孫瓚と結び而して袁紹は劉表と連なり、豪傑の多くが附くこと袁紹に於いてであった。(その様子に)袁術は怒って曰く:「豎不吾従而従吾家奴乎!」袁山松書に拠ると、袁紹は、司空であった袁逢の子であり、出て伯父である袁成の後となった、故に袁術は然るように云ったのである。又公孫瓚と書して曰く:「袁紹は袁氏の子に非ず。」袁紹は聞くと大怒した。袁術は孫堅を使って劉表を撃たせ、劉表は其の将である黄祖を遣わして樊、鄧之間に於いて逆戦させた、鄧県は、南陽郡に属した。樊城は、周の仲山甫之邑である、漢水の北に在る。杜佑は曰く:樊城は、今の襄州安養県である。劉曰く:鄧城県は、漢之鄧県であり、古の樊城である也:宋は改めて安養県とした。天寶元年に改めて臨漢県と為した。貞元二十一年に県を古の鄧城に移して、乃ち改めて鄧城県と為したのである。孫堅は之を撃破して、遂に襄陽を囲んだ。劉表は夜に黄祖を遣わして潛めて兵を出発させ、黄祖は兵を将いて還らんと欲して、孫堅は逆にこれと戦って、黄祖は、竄峴山中に敗走した。峴山去襄陽十里。孫堅は勝ちに乗じて、夜に黄祖を追ったところ、黄祖の部曲の兵が竹木の間に従って孫堅を暗射して、之を殺した。孫堅が孝廉に挙げた所の長沙出身の桓階が劉表に詣でて孫堅の喪を請うたところ、劉表は義として而して之を許した。孫堅の兄の子であった孫賁が其の士(を率いて袁術に就き、袁術は復た孫賁を(上)表して豫州刺史と為した。袁術は是ゆえに劉表に勝つこと能わなかったのである。
14.かつて、董卓が入関すると、朱を留めて雒陽を守らせていた、而して朱は潜かに山東諸将と通謀し、董卓に襲われる所と為ることを懼れ、荊州に出奔した。董卓は弘農出身の楊懿を以って河南尹と為したところ。朱が復た兵を引きつれて雒に還ると、楊懿を撃ち、之を走らせた。朱は河南が殘破していて資する所無いことを以って、乃ち東して中牟に駐屯すると、書を州郡に移して、董卓を討つ帥を請うた。徐州刺史の陶謙が朱のことを行車騎将軍に上(表)して、上、時掌翻。精兵三千を遣わして之を助けさせ、余りの(他の)州郡も亦た給する所有った。陶謙は、丹陽の人である。丹陽県は、丹陽郡に属する、今の潤州県である。朝廷は以って黄巾が徐州を寇乱したため、陶謙を用いて刺史と為したのである。陶謙は至るや、黄巾を撃って、大いに破って之を走らせたため、州境は晏然となったのである。
15.劉焉は益州に在って陰ながら異計を図った。沛の人である張魯は、祖父の張陵以来より世に五斗米道を為しており、張陵が即ち今で謂う所の天師というものである也。後魏寇謙之祖其道。蜀にて客居していた。張魯の母は鬼道を以ってして常に劉焉の家を往来しており、劉焉は乃ち張魯を以って督義司馬と為し、洪氏隸釋に曰く:劉焉は蜀に在って、督義司馬、助義、褒義校尉を創置した。劉表は荊州に在って、亦た綏民校尉を置いた。漢が衰えるや、諸侯は命して、率意して各々が官属を置いたのである。張脩を以って別部司馬と為すと、これと兵を合わせて漢中太守の蘇固を掩殺して、斜谷閣を断絶し、斜谷は、漢中の西北に在る、今は興元府の西北から斜谷路に入る、鳳州界に至ること百五十里、棧閣は二千九百八十九間を有し、板閣は二千八百九十二間である。郡国志に曰く:褒城県の北に褒谷が有り、北口が曰く斜で、南口が曰く褒である、長さは四百七十里、同じ一つの谷を為している。両山は高く峻しく、中間の谷道は、褒水が流れる所で、曹操は斜谷道は五百里の石穴を為したものであるというのは此であったかと謂っている也。余りは班志に拠るが、斜水は衙嶺山から出て、北は郿に至って渭(水)に入る。褒水も亦た衙嶺を出て、南は南鄭に至って沔(水)に入る、則ち褒、斜は同じ一つの谷を為すと雖も、而しながら衙嶺で乃ち其の水を分けている処なのである也。漢の使いを殺害した。劉焉は上書して言うに「米賊が道を絶ったため、復た通じるを得ません」。又他事に託して州中の豪強である王咸、李権等十余人を殺害し、以って威刑を立てた。犍為太守の任岐及び校尉の賈龍は此ゆえに兵を起こして劉焉を攻めたが、劉焉は任岐、賈龍を撃殺した。劉焉の意は漸いに盛んとなり、乗輿車具千余乗を作るようになったため、劉表は「劉焉は子夏に似て西河に在って聖人を疑うこと有る」之論を上(表)した。礼記弓:曾子責子夏曰:吾与子事夫子於洙、泗之間、退帰老於西河之上、使西河之人疑汝於夫子、而罪一也。表蓋言焉在蜀僭擬、使蜀人疑為天子也。上、時掌翻。時に劉焉の子の劉範が左中郎将と為っており、劉誕は治書御史と為っており、続漢志に曰く:治書侍御史は二人、秩六百石である、法律に明らかな者を掌選して之に為す。凡そ天下の諸讞疑事は、掌るに法律を以ってして其の是非に当たらせる。蔡質曰く:御史を高第から選んで之を補う。胡広曰く:宣帝が宣室に御幸したおり、斉居して而して決事したが、御史二人に治書するよう令した、治書御史とは此れに起こるのである。劉璋は奉車都尉と為っていて、皆帝に従って長安に在った、惟だ小子で別部司馬の劉瑁だけが素より劉焉に随っていたのである。帝は劉璋を使って劉焉を曉喩させようとしたが、劉焉は劉璋を留めると遣わさなかった。
16.公孫度の威は海外にまで行われ、中国の人士で乱を避けてきた者の多くが之に帰すことになった、北海出身の管寧、邴原、王烈は皆往くと依ったのである焉。管寧は少なき時に華歆と友と為っていた、嘗て華歆と共に菜を鋤して、地に金が有るのを見た、管寧は揮鋤して顧りみず、瓦石(を見るの)と異ならなかった、華歆は捉えて而して之を擲った、人は是を以って其の優劣を知ったのである。邴原は遠くに遊学に行き、八九年して而して帰った、師友は以って邴原が飲酒しないため、米肉をして之を送ることに会った。邴原曰く:「本より能く飲酒するのですが、但だ以って思を荒ませ業を廃れさせるため、故に之を断っていただけです耳。今当に遠く別れるにあたるわけですから、一つ飲燕するも可でしょう。」是に於いて共に坐して飲酒したが、終日しても醉わなかった。管寧、邴原は倶に操尚を以って称えられた、公孫度は館を虚しくして以って之を候した。管寧は既に公孫度に見えると、乃ち山谷に於いて廬をむすんだが、時に難を避けてくる者の多くが郡の南に居した、而しながら管寧は独り北に居し、還る志が無いことを示した、後に漸いに來て之に従った、旬月して而して邑が成った。管寧は公孫度に見える毎に、語るのは唯だ経典のみで、世事には及ばなかった。山に還ると、詩、書を講じることを専らにし、習俎豆、非学者無見也。是ゆえに公孫度は其の賢に安んじ、民は其の徳に化した。邴原は性は剛直で、清議するに以って格物したため、格、正也。公孫度は以って下心あったため之に不安となった。管寧は邴原に謂いて曰く:「潛む龍は以って徳が成るのに見えないとか。乾:初九、潛龍勿用。孔子曰:君子以成徳為行、潛之為言也、隱而未見、行而未成、是以君子弗用。言いたいのは其の時に非ざれば、皆禍い之道を招いてしまうということだ也。」密かに邴原を遣わして逃がし帰らせた、公孫度は之を聞くと、亦た復して追わせなかった也。王烈の器業は人に過ぎ、少なき時に名は聞こえること邴原、管寧之右に在った。名声所至曰聞。於教誘、郷里に牛を盗んだ者が有り、主が之を得ると、盗(人)は罪を請うて、曰く:「刑戮是れ甘きゆえ、王彦方には知らせ使めないよう乞う也!」とした王烈は、字を彦方という。王烈は聞くと而して人を使って之に謝させると、布一端を遣わした。布帛六丈を曰く端という、一に曰く八丈が曰く端であると。按ずるに古には二丈を以って端と為した。遺、于貴翻。或るひとが其の故を問うと、王烈曰く:「盗(人)は吾が其の過ちを聞くことを懼れた、是は惡を恥じるという心が有るからだ、既に惡を恥じるのを知ったのだから、則ち心が将に生じたことだろう、故に布を与えて以ってを為さんとするのを勧めたのだ也。」後に路に於いて剣を遺した(そのままにしてしまった)老父が有って、行道一人見而守之(その盗人であった男は道を一人で行っていたため落ちている剣(剣が遺されたままなの)を見ると而して、之を(誰かがもっていかないように)守った)、暮れるに至って、老父は(用事を終えて)還ってくると、尋ねて(剣を遺したままであったことに気づいて尋ねまわり)劍を得たが、之を(男がずっと道で遺されていた剣を守っていたことを)怪しみ、事を以って王烈に告げた、王烈が使って推し求めさせたところ、推、尋也。乃ち先に牛を盗んだことがあった者であった也。諸(様々な人で)訟の曲直を争うこと有る人は将に之を王烈に於いて質そうとしていたが(このことが広まると)、質、正也。或るひとは塗に至って而して反り、或るひとは廬を望んで而して還り、皆相推すに直を以ってして、推は、移である也。前書の韓延寿伝に、以って田を相移したとある。即ち此の義(意義)である也。敢えて王烈に之を(自分たちの訴訟のことを)聞かせ使もうとはしなかった。公孫度は以って長史と為そうと欲したが、王烈は之を辞すと、商賈と為って(商売を為すと)以って自らを穢し、乃ち免れたのである。

三年(壬申、一九二)

1.春、正月、丁丑、天下に(大)赦した。
2.董卓は牛輔を遣わし兵を将いさせて陝に駐屯させた、牛輔は校尉である北地出身の李傕、張掖出身の郭汜、武威出身の張済に歩騎数万を将いさせて分遣すると中牟に於いて朱儁を撃破し、傕、古岳翻。汜、音祀、又孚梵翻。因って陳留、潁川諸県を掠し(略奪し)、過ぎる所で殺虜をおこない遺されたものなど無かった。初、荀淑には孫が有った曰く(名を)彧といい、少なくして才名を有した、少、詩照翻。何顒は見えるや而して之を異として、曰く:「王佐才である也!」天下が乱れるに及び、荀彧は父老に謂いて曰く:「潁川は四戦之地です、言其地平、四面受敵。宜しく之を亟避されんことを。」郷人は多くが土(郷里の地)を懐かしんで去ること能わなかったため、荀彧は独りで宗族を率いて去ると韓馥に依ることにした。袁紹が已に韓馥の位を奪う事態に会うと、荀彧を待するに上賓之礼を以ってしたのである。しかし荀彧は袁紹を度<はか>ってみて終に大業を定めること能わないとし、度、徒洛翻。また曹操には雄略が有ると聞いたため、乃ち袁紹のところを去って曹操に従った。曹操はかれと語ると、大いに悦び、曰く:「吾が子房だ也!」といい之を張良に比したのである。以って奮武司馬と為した。曹操は初めて兵を起こすと奮武将軍と為った、故に荀彧を以って奮武司馬と為したのである。其の郷人で留まった者は、多くが李傕、郭汜等に殺される所と為った。
3.袁紹は自ら出ると公孫瓚を拒み、公孫瓚と界橋南二十里に於いて戦った。水経では:大河が瀆に右して東北へむかい鉅鹿郡広宗県の故城の南を巡る、又東北へむかい界城亭の北を巡る、又東北へむかい信都郡武強県故城の東を巡る。此が蓋し河瀆の上に於いて橋を作ったものだろう。註は又た云うに:清河の東北は界城亭の東を巡ると、水上に大梁が有る、之を界城橋と謂う。賢曰く:今の貝州宗城県の側には古の界城が有る、此の城は枯漳水に近く、界橋は当に此の水上に在ったのだろう。杜佑曰く:界橋は貝州宗城県の東に在る。公孫瓚の兵は三万、其の鋒は甚だ鋭かった。袁紹は麴義に令して精兵八百を領させると先ず登らせ、強弩千張が之を夾んで承った。公孫瓚は其の兵が少なかったため軽んじ、騎を縦にして之に騰った。麴義の兵は楯の下に伏して動かずにおり、未だ十数歩に至らずして、一時に同じく発し、讙呼は地を動かした、讙、許元翻。公孫瓚軍は大敗した。其(公孫瓚)の所置した冀州刺史の厳綱を斬り、考異に曰く:九州春秋は「劉綱」と作る。今は范書、魏志に従う。甲首千余級を獲た。追って界橋に至ると、公孫瓚は兵を斂して戦いに還ってきたが、麴義は復た之を破り、復、扶又翻。遂に公孫瓚の営に到って、其の牙門を抜くと、賢曰く:真人水鏡経に曰く:凡そ軍が出るに始まるや、必ず堅きを完うせんよう令するものだ。若し折れること有れば、将軍は不利となる。牙門旗の竿は、軍之精である也、即ち周礼の司職に云う「軍旅会同置旌門」というのが是である也。余りの衆は皆走ってしまった。初め、兗州刺史の劉岱と袁紹、公孫瓚は連和しており、袁紹は妻子に令して劉岱の所に居らせていた、公孫瓚も亦た従事の范方に騎を将いさせて遣わすと劉岱を助けた。及公孫瓚が袁紹軍を撃破するに及び、劉岱に語って袁紹の妻子を遣わすよう令し、語、牛倨翻。別に范方へ敕して:「若し劉岱が袁紹の家を遣わしてこないなら、騎を将いて還ってこい!吾は袁紹を定めてから、将に劉岱に於いて兵を加えん。」劉岱と官属は議したが、日を連ねても決まらなかった、東郡出身の程昱が智謀を有していると(劉岱は)聞いたため、召して而して之(について)を問うた。程昱曰く:「若し袁紹という近い援けを棄てて而して公孫瓚という遠い助けを求めるなら、此は越に於いて人を仮りて以って溺れた子を救わんとする説でしょうな也。言勢不能相及也。越人習水、故以為能救溺。溺、奴歷翻。夫れ公孫瓚は袁紹之敵に非ず也、今は袁紹軍を壊したと雖も、壞、音怪。然るに終には袁紹が禽える所と為るでしょうな。」劉岱は之に従った。范方は其の騎を将いて帰ったが、未だ至らずして而して公孫瓚は敗れた。
4.曹操は頓丘に軍すると、頓丘県は、東郡に属した。師古曰く:丘名を以って県とした也。丘一成為頓丘、謂うに一頓にして而して成ったからだという也。或いは曰く:成は、重である也、一重之丘ということである也。于毒等は東武陽を攻めた。曹操は兵を引きつれて西して入山し、于毒等の本屯を攻めた。于毒等は時に魏郡を掠しており、西山にて駐屯していた。諸将は皆武陽を救わんことを請うた。曹操は曰く:「使って賊に我が西していると聞かせよう而して(賊が)還ったなら、武陽(の囲み)は自ずと解けよう也。(賊が)還らなければ、我能敗其本屯、虜不能拔武陽必矣。」とすると敗、蒲邁翻。遂に行った。于毒は之を聞くと、武陽を棄てて還った。曹操は遂に眭固及び匈奴の於扶羅を内黄に於いて撃つと、内黄県は魏郡に属す。陳留に外黄が有る、故に「内」を加えるのである。皆之を大破した。
5.董卓は其の弟の董旻を以って左将軍と為し、兄の子の董璜を中軍校尉と為すと、皆兵事を典じさせた、宗族の内外は並んで朝廷に列した。董卓に侍る妾が懷抱している中子は皆封侯され、以って金紫を玩んだ。董卓の車服は天子のそれに僭擬し、三台をも召し呼び、三台は:尚書台、御史台、符節台のことである也。晉書に曰く:漢官では:尚書が中台を為し、御史が憲台を為し、謁者が外台を為した、是が謂うところの三台である。尚書以下は皆自ら董卓の府を詣でて啓事した。又郿に於いて塢を築いた、英雄記に曰く:郿は長安を去ること二百六十里。漢書では、郿の、音は媚で、地名である。高さ厚さは皆七丈、穀を積んで三十年の儲えを為し、自ら云うには:「事が成らば、天下に雄拠せん。成らずば、此を守れば以って畢老するに足る。」董卓忍於誅殺、諸将が言い語るに蹉跌する者有れば、蹉、倉何翻。跌、徒結翻。便じて前に於いて戮させたため、人は聊生しなくなった。司徒の王允は司隸校尉の黄琬、僕射の士孫瑞、尚書の楊瓚と董卓を誅することを密謀した。中郎将の呂布は、弓馬を便じ、膂力は人に過ぎた、膂、脊骨也。董卓は自ずと以って人を遇するのに無礼となり、行止は(行動するのに)常以布自、甚だ之を愛信して、誓いをして父子と為った。然るに董卓の性は剛褊であったため、嘗つて卓の意を小失すると、董卓は手戟を抜いて呂布に擲った、手戟は、小さな戟で、便於撃刺者。呂布は拳で捷して(素早く祓って)、勇力為拳、迅疾為捷。之を避け、而して容を改めて顧謝したため、董卓の意は亦た解けた。呂布は是ゆえに陰ながら董卓を<於>怨むことになった。董卓は又呂布に中閣を守ら使めたところ、而して(呂布はその)傅婢を<於>私したため、益すます自ずと安んじなくなった。王允は素より呂布を待していたため、呂布は王允に見えると、自陳卓幾見殺之状(董卓に幾ばくもなく殺される状態になっていると自ら陳べたため)、幾、居希翻。王允は因って以って誅卓之謀(董卓を誅さんとする謀のこと)を呂布に告げ、使って内応を為させようとした。呂布曰く:「父子の如ければ何ぞ(そんなことを)できようか?」(王允)曰く:「君自らの姓は呂であって、本より骨肉に非ず。今や死を憂いて暇さない(休まる時が無い)でいるのに、何ぞまた父子と謂うのか?(董卓が)戟を擲った時には、豈に(何処に)父子の情が有っただろうか邪!」というと呂布は遂に之を許した(内応することを約束した)。夏、四月、丁巳、帝は疾が新愈すること有ったため、未央殿で大会することになった。蕫卓は朝服で乘車して而して入った、魏の祕書監である秦靜は曰く:漢氏は秦が改めた六冕之制を承り、朝服には玄冠、絳衣を倶<とも>にする而已<のみ>とした。晉名では曰く五時の朝服という。四時の朝服というのが有り、又朝服というのが有る。陳兵が夾道して、営自<よ>り宮に至り、左は歩(兵)右は騎(兵)で、に駐屯して周した、、作答翻。令呂布等扞前後。王允は士孫瑞を使って自ら詔を書くと以って呂布に授けさせ、尚書僕射に自ら詔を書かせ使むのは、其が泄れることを懼れたからである也。呂布は同郡出身で騎都尉の李肅に令し考異に曰く:袁紀では「李順」と作る、今は范書、魏志に従う。勇士の秦誼、陳等十余人と偽って士の服を著わし(着用し)、著、陟略翻。北掖門内を守りながら以って蕫卓を待った。蕫卓が入門すると、李肅は戟を以って之を刺した。刺、七亦翻。下同。蕫卓は衷甲していたため、(戟の刃は)入らず、衷甲とは、内に於いて甲を被ったうえで、而して衣を甲の上に加える(重ね着する)ことをいったのである。臂を傷つけられて、車から墮ちた、顧みて大いに呼んで曰く:呼、火故翻。「呂布よいずこに在るか!」呂布曰く:「詔が有る賊臣を討てとさ!」蕫卓は大いに罵って曰く:「庸狗めが、敢えて是の如きまねをするのか邪!」呂布は(その)声に応えて矛を持って蕫卓を刺し、兵を趣かせて之を斬った。趣、読曰促。主簿の田儀及び蕫卓の倉頭が前にでて其の尸に赴いたため、呂布は又之を殺した、凡そ殺した所は三人であった。呂布は即ち懷中の詔版を出すと以って吏士に令して曰く:「詔は蕫卓を討てというだけだ耳、余りについては皆問わない。」吏士は皆正立して動かず、大いに万歳を称えた。百姓は道に於いて歌い舞い、長安中が士女で其の珠玉や衣装を売って酒肉を市し相慶びあう者たちで、填は満ち街じゅうで肆された。弟の蕫旻、蕫璜等及び宗族の老弱なもので郿に在ったものは、皆其の下に斫射する所と為って死んだ。射、而亦翻。蕫卓の尸が市に於いて曝された、暴、薄木翻、又薄報翻。天の時<季節>は熱くなり始めており、蕫卓は素より充分肥えていたため、脂が地に於いて流れた、尸を守っていた吏が大いに炷を為すと、炷、燈也、燼所著者。蕫卓の臍の中に之を然りとして置いた、光明は曙に達し、是の如きにして日を積んだ。諸々袁(家の)門生が董氏之尸<しかばね>を聚めて、焚いて灰にすると之を路に於いて揚げてしまった(ばらまいてしまった)。塢中に有ったのは金二三万斤、銀八九万斤、錦綺奇玩は積むと丘山の如しであった。王允を以って録尚書事とし、呂布は奮威将軍と為り、仮節をえて、儀は三司に比すこととなり、奮威将軍は始めは漢の元帝に於いて用任千秋為之。沈約曰く:呂布が奮武将軍と為り、儀は三司に比した、とあるのは儀同三司の猶しということである也。温侯に封じられ、温県は、河内郡に属す、周の大夫である蘇忿が生まれた邑である。共に朝政を秉すことになった。朝、直遙翻。董卓が死すや也、左中郎将で高陽侯の蔡邕は王允の坐に在ったが、高陽県は、涿郡に属する。又陳留の圉県には高陽亭が有る。坐、徂臥翻。之を聞いて驚き歎じた。王允は勃然として、之を叱して曰く:「董卓は国の大賊であって、漢室を幾亡させんとしたのだ、幾、居希翻。君は王臣と為っているのだから、疾を同じくするを宜う所であるというのに、而して其の私遇を懐かしみ、反って相傷痛した、豈に(董卓と)共に逆しまを為していないなどとできようか哉!」即ち収めて廷尉に付けた。蔡邕は謝して曰く:「身は不忠と雖も、古今の大義について、耳は厭聞とする所です、口は常に玩ぶ所のものですから、豈に当に国に背いて而して董卓を嚮したといえましょうか也!背、蒲妹翻。願わくば黥首刖足にとどめられんことを、漢史を継ぎ成したいのです。」初め、蔡邕は朔方に徙されると、徒中から上書して、続漢書諸志を乞うた、蓋し其の学ぶ所志す所とは此に在ったのである。士大夫の多くが之を矜救しようとしたが、得ること能わなかった。太尉の馬日磾は王允に謂いて曰く:「伯喈は曠世に逸才たるものです、蔡邕は、字を伯喈という。漢事について多くを識っておりまして、当に(漢の)後史を続成すれば、一代の大典と為るべきものでしょう。而しながら坐して徴に至った所で、之を誅するのなら、無乃失人望乎!」王允曰く:「昔武帝は司馬遷を殺さず、作ら使めたため謗書(誹謗の書)が後世に於いて流布することになった。賢曰く:凡そ史官が事を記すさい、惡は必ず書くものだ。司馬遷が記した所は但だ是れ漢家不之事については、皆謗りを為しただけである也、(それは)独り武帝之身を指すに非ず、即ち高祖が家令之言、武帝が算緡榷酤之類が是であると謂う也。班固は集に云う:史遷(史祖たる司馬遷は?)は書を著して一家之言を成したが、至っては以って身は刑に陥った。故に微文譏刺して、当世を貶損したのであり、義士に非ざることである也。今を方ずるに国祚は中衰しており(中途で衰えており)、中、竹仲翻。戎馬が郊に在るのだから、佞臣に筆を執るよう令す可きではない、(その佞臣が)幼主の左右に在って既に聖徳にとって益無いことになっているのだし、復た吾が党に其の訕議を蒙らせさせ使むことになる。」復、扶又翻。馬日磾は退くと而して人に告げて曰く:「王公は其れ後が無いだろう乎!人は、国之紀というもの也。制作は、国之典というもの也。紀を滅して典を廃するなど、其れ能く久しからんか乎!」蔡邕は遂に獄中で死んだ。初め、黄門侍郎の荀攸と尚書の鄭泰、侍中の种輯等は謀して曰く:「董卓は驕忍にして親無し、強兵を資していると雖も、その実は一匹夫であるのみ耳、直ちに刺殺するも可である也。」刺、七亦翻。考異に曰く:魏志は云う、「荀攸と何顒、伍瓊は謀を同じくした。」按ずるに何顒、伍瓊は死して已に久しい、恐らくは誤りであろう。事は垂就して而して(発)覚し、荀攸は収められて獄に繋がれ、鄭泰は袁術のところへ逃奔した。荀攸は言語飲食するに自若としており、董卓が死ぬのに会って、(危機から)免れるを得たのである。
6.青州黄巾が兗州を寇したため、(刺史の)劉岱は之を撃とうと欲した、済北相の鮑信は諫めて曰く:「今賊は衆百万であって、百姓は皆震え恐いており、士卒には志が無いようすです、敵す可きではありません也。然るに賊軍には輜重が無く、唯鈔略を以って資と為しているだけ、重、直用翻。今は士衆之力を蓄えるに若かず、先ず守りを固めんことを為しましょう。彼が戦わんと欲しても得られず、攻めんとして又能わざれば、其の勢いは必ずや離散しましょう、然る後に精鋭を選び、要害に拠って之を撃てば、破ることも可(能)です也。」劉岱は従わず、遂にこれと戦ったが、果たして殺される所と為った。曹操の部将であった東郡出身の陳宮は曹操に謂いて曰く:「州には今や主が無く、而して王命は断絶しています、わたくし宮は州中の綱紀を説かんことを請います、綱紀、即謂州別駕及治中諸従事也。説、輸芮翻。下同。明府には尋ね往きて之に(州に)牧たりてから、牧之、謂為州牧。之を資として以って天下を収めましょう、此が霸王之業というものです也。」宮は因って往くと別駕、治中を説いて曰く:「今天下は分裂しており而して州には主が無い。曹東郡は、命世之才です也、若し迎えて以って州に牧たりせば、必ずや生民を寧んじることでしょう。」鮑信等も亦た以って然りと為し、乃ち州吏の万潛等と東郡に至って、曹操を迎えて兗州刺史を領させた。曹操は遂に兵を進めて黄巾を寿張の東に於いて撃ったが、利がなかった。賊の衆は精悍であり、悍、下罕翻、又侯旰翻。曹操の兵は寡なく弱かったた、曹操は撫循激勵し、賞罰を明らかにして設けると、間を承して奇を設け、間、古莧翻。晝夜会戦した、戦っては輒ち禽獲あったため、賊は遂に退走した。鮑信は戦死し、曹操は其の喪を購い求めたが得られず、乃ち木を刻んで鮑信の状の如きとし、祭って而して哭した焉。京兆出身の金尚を以って兗州刺史と為し、将之に部(するもの)を将いらせるようにと詔あったが、曹操は之を逆撃したため、金尚は袁術のところに奔った。後に為すことだが建安二年に金尚は袁術に於いて屈しなかった張本。
7.五月、大赦があった。征西将軍の皇甫嵩を以って車騎将軍と為した。
8.かつて、呂布は王允に勧めて董卓の部曲を尽く殺そうとしたが、王允曰く:「此の輩には罪は無い、不可である。」としたため呂布は董卓の財物を以って公卿、将校に班賜したいと欲したが、王允は又従わなかった。王允は素より劍客を以って呂布を遇しており、呂布は其の功労を負っていたため、多く自ずと(董卓を)伐したことを誇ることになった、既に意望を失ったため、漸いに相平らかでなくなった。王允は性が剛稜であって惡を疾んでいた、余りで稜と謂うのは、方稜ということである也。剛稜というのは、猶も剛方なことを言う。初め董卓を懼れていたため、故に之が下に節を折ったのである。董卓が既に殲滅されてしまうと、自ずと復た難を患うことは無いと謂い、自ずと頗る驕傲となった、以是下不甚附之。王允は始め士孫瑞と議したとき、特に詔を下して董卓の部曲を赦すようにしてはどうかとなった、既に而して疑って曰く:「部曲は其の主に従っただけのこと耳。(主に従ったことを罪として)今若し之を惡逆と名づけてそのうえで而して之を赦すというのでは、恐らくは自ずと疑いを深くさせ使むに適ってしまうだろうから、以って之を安んずる所に非ざるものだ也。」として乃ち止めてしまった。又悉く其の軍を罷めるよう議したところ、或るひとが王允に説いて曰く:「涼州の人は素より袁氏を憚り而して関東を畏れていました、今若し一旦兵を解いて関を開けば、必ずや人人は自ずと危うくなることでしょう。皇甫義真どのを以って将軍と為して、其の衆を就領させ、因って陝に留まらせ使めて以って之を安撫させる可きです。」王允曰く:「然らず。関東で義兵を挙げたところの者たちは、皆吾が徒である也、今若し險を距って陝に駐屯すれば、涼州は安んじると雖も、而して関東之心を疑わせてしまう、不可である也。」陝、失冉翻。時に百姓が訛言して当に涼州人は悉く誅されてしまうとしたため、董卓の故の将校らは遂に轉じて相恐れ動き(動揺し)、皆兵を擁して自ら守り、更めて相謂いあって曰く:「蔡伯喈は但たんに董公が親しく厚くしたことを以って尚も従坐したのだ。今既に我曹を赦さず而して解兵せ使めんと欲している、今日兵を解いたなら、明日には当に復た魚肉と為るべきことだろう矣。」呂布は李肅を使って陝に至らせると、詔を以って牛輔を誅するよう命じた、牛輔等は逆らって李肅と戦い、李肅は敗れて、弘農に走ったため、呂布が之を誅殺した。牛輔は恇怯して守りを失い、営中にて故も無く自ら(勝手に)驚くに会った、牛輔は走らんと欲し、左右に殺される所と為った。李傕等は(陝に)還ってくると、傕等自陳留、潁川還也。牛輔は已に死んでしまっていた、李傕等は依る所も無く、使いを遣わして長安に詣でさせると赦しを求めた。王允曰く:「一歳に再赦するのは不可である。」として許さなかった。李傕等は益々懼れ、為す所も知らず、各々解散して、間行して郷里に帰ろうと欲したところ、間、古莧翻。討虜校尉で武威出身の賈詡が曰く:「諸君が若し軍を棄てて単行するなら、則ち一亭長でも能く君を束ねることだろう矣。長、知両翻。相率いて而して西するに如かず、以って長安を攻めて、董公の為に報仇せん、為、于偽翻。事が済んだなら、国家を奉じて以って天下を正そう。若し其が合わずば、不合とは、事が済まなかったことを謂う、本々の計とは合わなかったということである也。走ったとしても未だ晩(遅い)ということにはならないだろう也。」李傕等は之を然りとすると、乃ち相与して盟を結び、軍を率いること数千、晨夜(昼夜分かたず)西行した。王允は以って胡文才、楊整脩が皆涼州の大人であったことから、賢曰く:大人とは、大家豪右のことを謂う。又曰く:大人とは、長老之称で、之を尊んだ事を言う也。召すと使って東させ、之を解釋させようとしたが、温顔を以って仮借することもなく、謂いて曰く:「関東の鼠子は、何をか為さんと欲しているのだ邪?卿らは往きて之を呼びつけたまえ!」是に於いて二人は往くや、その実は兵を召して而して還ってくることになったのである。李傕は道に随って兵を収めてきたため、比して長安に至ると、比、必寐翻、及也。已に十余万となっており、董卓の故の部曲である樊稠、李蒙等と合わさって長安城を囲んだ、城は峻しく攻めるに不可であったため、之を守ること八日となった。考異に曰く:魏志は十日と云う、今は范書に従う。呂布軍に有った叟兵が内で反して、賢曰く:叟兵とは即ち蜀兵のことである也。漢代には蜀は叟と為したと謂う。六月、戊午、李傕の衆を引きこみ城に入れた、放たれた兵は虜掠した。呂布はこれらと城中で戦ったが、勝てず、数百騎を将いて以って董卓の頭を馬の鞍に繋ぐと出て走った、青瑣門の外で馬を駐めると、瓘曰く:青瑣とは、戸の辺が青鏤であったからである也。一に曰く:天子の門内は眉格再重を有す、裏は青畫するため曰く瑣である。王允を招いて同じくして去ろうとした。王允曰く:「若し社稷之靈を蒙ったなら、上は国家を安んじるのが、吾之願いであった也。其が獲られない如きなれば、則ち身を奉って以って之に死なん。朝廷は幼少であらせられ、朝廷とは、天子のことを謂う也。我を恃んでいる而已<のみ>である、難に臨んで茍免するのは、吾の忍ばぬところである也。難、乃旦翻。力に努めたまえ関東諸公に謝してくれ、勤んで以って国家の為に念じてくれと!」太常の种拂曰く:「国の為の大臣であるからには、不能禁暴禦侮、使白刃向宮、去将安之!」遂に戦って而して死んだ。李傕、郭汜は南宮掖門に駐屯し、太僕の魯馗、馗、音逵。大鴻臚の周奐、臚、陵如翻。城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎を殺し、頎、音祈。吏民で死んだ者は万余人となり、狼籍は道に満ちた。王允は帝を扶<たす>けて宣平門に上り兵を避けた、三輔黄図に曰く:長安城の東面にある北頭門は宣平門と号する。上、時掌翻。李傕等は城門に於いて下がって地に伏せて叩頭したため、帝は李傕等に謂いて曰く:「卿等は兵を放って縦横しているが、何をか為さんと欲しているのだ乎?」橫、戸孟翻。李傕等は曰く:「(われらが)董卓(さま)は陛下に於いて忠でありましたのに、而しながら故無く呂布に殺される所と為りました、臣等は董卓(さま)の為に報讎せんとしているのでして、為、于偽翻。敢えて逆しまを為そうとしているのではありません也。事が畢わったなら廷尉に詣でて罪を受けんことを請います。」李傕等は門樓を囲むと、共に(上)表して司徒の王允が出てくるように請い、「太師に何ぞ罪あったか?」と問うたため王允は窮蹙して、乃ち下りて之に見えた。己未、天下に赦すと、李傕を以って揚武将軍と為し、郭汜を揚烈将軍と為し、揚武将軍は建武之初めに於いて始まった、馬成が之に為った。揚烈将軍は蓋し是時に於いて始まったのだろう。樊稠等は皆中郎将と為った。李傕等は司隸校尉の黄琬を収めると、之を殺した【章:甲十一行本「殺」上有「下獄」二字。乙十一行本同。】。初め、王允は同郡出身の宋翼を以って左馮翊と為し、王宏を右扶風と為していた、王允は、太原の人である。李傕等は王允を殺したいと欲していたが、二郡が患いを為すことを恐れて、乃ち先ず宋翼、王宏を徴した。王宏は使いを遣わして宋翼に謂いて曰く:「郭汜、李傕は我ら二人が外に在ることを以って、故に未だ王公を危うくしないでいるのだ、危、謂殺也。今日徴に就いたなら、明日には倶に族(滅)されていよう、計将安出?」宋翼曰く:「禍福は量るに難いと雖も、量、音良。然るに王命である、避けるのは得られない所だ也!」王宏曰く:「関東では義兵で鼎が沸きたつようで、董卓を誅そうと欲していた、今や董卓は已に死んでおり、其党は与易制(制するに与し易い)耳。易、以豉翻。挙兵して共に李傕等を討つにあたり、山東に与して相応じるが若きならん、此が禍を転じて福を為す計というものだろう也。」宋翼が従わなかったため、王宏は独立すること能わず、遂に倶に徴に就いた。甲子、李傕は王允及び宋翼、王宏を収めると、之を并殺した。王允の妻子も皆死んだ。王宏は命に臨んで詬して曰く:詬、許候翻、又古候翻、怒って罵しること也。「宋翼は豎儒でしかなく、大計を議すに不足だった!」賢曰:豎者とは、賤劣にして僮豎が如きを言う。李傕は王允を市に於いて尸としたが、敢えて収めようとする者とて莫かったため、故吏で平陵令であった京兆出身の趙戩が官を棄てて(王允の尸を)収めると而して之を葬った。戩、子踐翻。始め、王允は自ら董卓を討ったという労を専らにし、士孫瑞はその功を(王允に)帰して侯としなかった、故に(士孫瑞は)難に於いて免れるを得たのである。難、乃旦翻。臣光(※この資治通鑑の著者である司馬光)は曰く:易は称える「労謙君子有終吉」と、易繫辞曰:労而不伐、有功而不徳、厚之至也。語以其功下人者也。徳言盛、礼言恭。謙也者、致恭以存其位者也。程頤註曰:有労而能謙、又須君子行之、有終則吉。夫楽高喜勝、人之常情。平時能謙、固已鮮矣、況有功労可尊乎!雖使知謙之、勉而為之、若矜負之心不忘、則不能常久、欲其有終不可得也。惟君子安履謙順、故久而不変、乃所謂有終則吉也。士孫瑞は功を有するも伐せられず、以って其の身を保った、可不謂之智乎(之を智と謂わない可きであろうか)!
9.李傕等は賈詡を以って左馮翊と為し、之を侯としようと欲したが、賈詡曰く:「此は救命之計です、何の功を有するのでしょう!」として固辞して受けなかった。又以って尚書僕射と為そうとしたが、賈詡曰く:「尚書僕射は、官之師長で、長、知両翻。天下が所望するもの、この賈詡の名は素より重くないのですから、以って人が服する所に非ざることでしょう也。」として乃ち以って尚書と為った。
10.呂布は武関自り南陽に奔ると、袁術は之を待遇すること甚だ厚かった。呂布は自ずと袁氏に於いて功を有することを恃むようになり、謂殺董卓為袁氏報仇也。兵を恣にして鈔掠した。鈔、楚交翻。袁術は之に患い、呂布は自ずと安んじなくなったため、去って河内に於いて張楊に従うことになった。李傕等は呂布を購い求めること急であったため、呂布は又逃げて袁紹のところに帰した。
11.丙子、前将軍の趙謙を以って司徒と為した。
12.秋、七月、庚子、太尉の馬日磾を以って太傅と為し、録尚書事とした。磾、丁奚翻。八月、車騎将軍の皇甫嵩を以って太尉と為した。
13.詔あって太傅の馬日磾、太僕の趙岐が杖節して関東を鎮撫することになった。
14.九月、李傕を以って車騎将軍、領司隸校尉、仮節と為した。郭汜は後将軍と為り、樊稠は右将軍と為り、張済は驃騎将軍と為り、皆侯に封じられた。驃、匹妙翻。李傕、郭汜、樊稠は朝政を筦することになり、筦、与管同。張済は(外に)出て弘農に駐屯することになった。
15.司徒の趙謙が罷めた。
16.甲申、司空の淳于嘉を以って司徒と為し、光祿大夫の楊彪は司空、録尚書事と為った。
17.かつて、董卓は入関すると、韓遂、馬騰を説いてかれらと共に山東を図ろうとし、説、輸芮翻。韓遂、馬騰は衆を率いて長安に詣でた。董卓が死ぬに会うと、李傕等は以って韓遂を鎮西将軍と為して、遣わすと金城に還させ。馬騰を征西将軍と為して、遺して郿に駐屯させた。晉書の職官志に曰く:四征は漢代に於いて起った、四鎮通於柔遠。
18.冬、十月、荊州刺史の劉表が使いを遣わしてきて貢獻してきた。そこで以って劉表を鎮南将軍荊州牧と為し、成武侯に封じた。成武県は、前漢では山陽郡に属しており、後漢では済陰郡に属している。
19.十二月、太尉の皇甫嵩が免じられ、光祿大夫の周忠を以って太尉と為すと、録尚書事に参じさせた。
20.曹操は黄巾を追って済北に至ると、之を悉く降し、済、子礼翻。降、戶江翻。戎卒三十余万、男女百余万口を得たため、其の精鋭である者を収めて、青州兵と号した。降る所の者は青州黄巾であった也、故に青州兵と号したのである。曹操は陳留出身の毛玠を辟招して治中従事と為したところ、毛玠は曹操に於いて言いて曰く:「今や天下は分崩しておい、乘輿は播蕩をうけ、生民は廃業してしまい、饑饉あって流亡し、公家には経歳之儲けが無く、百姓には安固之志が無く、以って持久するに難いものあります。夫れ兵が義なる者は勝ち、魏相が嘗て引いたのは是言である。位を守るには財を以ってするものです、易大伝に曰く:何をか以って人を聚めんか、曰く財である。何をか以って位を守らんか、曰く仁である。宜しく天子を奉じて以って臣ならざるに令し、脩め耕し植えることで以って軍資を蓄える、操之所以芟雄者、在迎天子都許、屯田積穀而巳。二事乃玠発其謀也。此の如きなれば、則ち霸王之業も成る可きことでしょう也。」曹操は其の言を納れると、使いを遣わして河内太守の張楊に詣でさせた、塗<みち>を仮してもらって西して長安に至ろうと欲したのである。張楊は聴きいれなかった。定陶出身の董昭は張楊に説いて曰く:説、輸芮翻。「袁、曹は一家を為すと雖も、勢いからして久しくすることないでしょう。曹は今は弱いと雖も、然るに実に天下之英雄というものです也、当に故して之と結ぶべきです。故というのは、結交之因ということである也、事に因って而して之と結ぶことを謂う。況んや今や縁が有るわけですから、宜しく其の上事を通じさせ、上、時掌翻。下同。并表して之を薦めておきましょう、若し事が成ること有るなら、深分を永く為すことになりましょう。」分、扶問翻、契分也。張楊は是に於いて曹操の上事を通じさせ、仍ち表して(朝廷に)曹操を薦めた。董昭は曹操の為に書を作って李傕、郭汜等に与えたが、為、于偽翻。それには各々の軽重に随って殷勤を致したのである。李傕、郭汜は曹操の使いに見えると、以為<おもえらく>関東は自ら天子を立てんと欲しているのだから、今曹操が使命を有すると言えども、其は誠実に非ざるとして、使、疏吏翻。曹操の使いを留めんことを議した。黄門侍郎の鍾繇は李傕、郭汜を説いて曰く:「今を方じますに英雄が並び起ち、各々が命を矯めて制を専らにしています、唯だ曹兗州のみが乃ち王室に心よせているだけですのに、而して其の忠款にたいして逆なことをすれば、将來之望に副える所以に非ずというものです也!」李傕、郭汜は乃ち厚く加えて報答した。当に是時、董昭は河内に在り、鍾繇は長安に在って、曹操が使うこと能わざるものであった操也、而しながら各々は曹操の為に地に道した、蓋し其の雄略を聞き、先ず效用を為して以って自ら結ばんとしたのである也。鍾繇は、鍾皓の曾孫である也。鍾皓見五十三巻桓帝建和三年。
21.徐州刺史の陶謙が諸守相と共に奏記し、朱儁を推して太師と為そうとし、守、式又翻。相、悉亮翻。因って檄を牧伯に移して、以って同じくして李傕等を討ち、天子を奉迎しようと欲した。李傕は太尉の周忠、尚書の賈詡の策を用いて、朱儁を入朝するようにと徴するに会ったため、朱儁は乃ち陶謙の議を辞して而して徴に就き、太僕に復為した。
22.公孫瓚は復たも兵を遣わして袁紹を撃とうとし、龍湊に至ったところ、龍湊は、地名である、平原の界(境界線)に在る。漢晉春秋では袁紹が公孫瓚に与えた書を載せており曰く:「龍河之師、羸兵前誘、大兵未済、而足下膽破衆散、不鼓而敗。」とあるから則ち龍湊は蓋し河の津であるのだろう也。袁紹の書を詳しく味わうと、龍湊は勃海界に在ると宜べている。又袁譚は龍湊に軍したところ、曹操が之を攻めて、平原を抜いたため、走って南皮を保ったとあるから、蓋し平原界に在ったことになろう也。復、扶又翻。下同。袁紹は之を撃破した。公孫瓚は遂に幽州に還ると、敢えて復た出ようとはしなかった。
23.揚州刺史で汝南出身の陳温が卒すると、袁紹は袁遺に揚州を領せ使まそうとした。袁術が之を撃破したため、遺走して沛に至り、兵に殺される所と為った。袁術は下邳出身の陳瑀を以って揚州刺史と為した。考異に曰く:獻帝紀では、「四年、三月、袁術は陳温を殺し、淮南に拠った。」とあり魏志の袁術伝が云うには:「袁術は陳温を殺して、其の州を領した。」とある裴松之が按ずるには:英雄記では、陳温が病死していること自り、袁術に殺される所と為らなかった。九州春秋は曰く:「初平三年、揚州刺史の陳禕が死んだため、袁術は以って陳瑀に揚州を領させた。」とある蓋し陳禕は当に陳温と為すべきもので、実は以って三年に卒したのであろう、今は之に従う。

四年(癸酉、一九三)

1.春、正月、甲寅朔、日食が有った。
2.丁卯、天下に赦した。考異に曰く:袁紀では、五月丁卯に赦したとある。今は范書に従う。
連破之。術走九江、揚州剌史陳瑀拒術不納。術退保陰陵、集兵於淮北、復進向壽春。瑀懼、走歸下邳、術遂領其州、兼稱徐州伯。李傕欲結術爲援、以術爲左將軍、封陽翟侯、假節。
3.曹操は甄城に軍していた。袁術は劉表が逼る所を為したため、兵を引きつれて封丘に駐屯したところ、黒山の別部及び匈奴の於扶羅が皆之に附いた。曹操は袁術軍を撃破し、遂に封丘を囲んだ。袁術は襄邑に走り、又寧陵に走った。曹操は追撃すると、之を連破した。袁術は九江に走ったが、揚州刺史の陳瑀は袁術を拒んで納れなかった。袁術は退いて陰陵を保つと、兵を淮北に於いて集め、復た進んで寿春に向かった。陰陵、寿春の二県は、皆九江郡に属する。寿春は、揚州刺史の治所である。復、扶又翻。陳瑀は懼れ、走って下邳に帰ったため、袁術は遂に其の州を領し、徐州伯を兼称した。李傕は袁術と結んで援けと為そうと欲し、袁術を以って左将軍と為し、陽翟侯に封じて、陽翟県は、潁川郡に属する。仮節をあたえた(節を仮した)。
4.袁紹は公孫瓚が所置した青州刺史の田楷と連戦すること二年、士卒は疲れ困じ、糧食は並んで尽き、百姓を互いに掠したため、野には青草とて無かった。袁紹は其の子袁譚を以って青州刺史と為し、田楷はこれと戦ったが、勝てなかった。趙岐が関東へ和解させに来たことに会い、公孫瓚は乃ち袁紹と和親し、各々は兵を引きつれて去ることになった。
5.三月、袁紹は薄落津に在った。続漢志では、安平国の経県の西に漳水津が有って、薄落津という名になっている。鉅鹿郡の癭陶県には薄落亭が有る。水経註では、漳水は鉅鹿県の故城の西を巡る、その水には故の津が有る、之を薄落津と謂うとのことである。魏郡の兵が反して、黒山賊の于毒等数万人と共に鄴城を覆すと、其の太守を殺した。袁紹は還って斥丘に駐屯した。斥丘県は、鉅鹿郡に属する。賢曰く:故城は今の相州成安県東南に在る。十三州志に云うには:土地は斥鹵であったため、故に斥丘と云うのである。
6.夏、曹操は軍を定陶に還した。
7.徐州の治中(従事)であった東海出身の王朗及び別駕で琅邪出身の趙昱は刺史の陶謙に説いて曰く:「諸侯を求めるには勤王に如くは莫いでしょう、左伝にある晉大夫孤偃之言である。説、輸芮翻。今天子が西京に越在しておりますから、宜しく使いを遣わして奉貢されんことを。」陶謙は乃ち趙昱を遣わして章を奉じさせるため長安に至らせた。詔あって陶謙を拝して徐州牧とし、安東将軍が加えられ、溧陽侯に封じられた。溧陽県は丹陽郡に属する。以って趙昱は広陵太守と為り、王朗は会稽太守と為った。是時、徐方の百姓は殷盛であり(甚だ盛んとなっており)、古語では多くが州のことを為して方と謂った、故の八州八伯は之を方伯と謂う。書に曰く「惟此陶唐、有此冀方」、詩に曰く「徐方不庭」というのが是である也。穀は実ること差豊であったため、流民の多くが之に帰した。而して陶謙は讒邪を信用し、忠直を疏遠としたため、遠、于願翻。刑政は治まらず、是ゆえに徐州は漸乱した(次第に乱れることになった)。許劭が地を広陵に避けてきた(避難先の地として広陵にやってきた)、陶謙は之を礼すること甚だ厚かったが、許劭は其の徒に告げて曰く:「陶恭祖は外づらは声名を慕っているが、内では真には正しからず、陶謙、字恭祖。吾を待(遇)すること厚いと雖も、其の勢いは必ずや薄くならん。」として遂に之から去っていった。後に陶謙は果たして諸寓士を捕らえることになったため、人は乃ち(許劭の)其の先識(先見の明)に服したのである。
8.六月、扶風に大雨雹があった。雨、于具翻。
9.華山が崩れ裂けた。華、戶化翻。
10.太尉の周忠が免じられ、太僕の朱儁を以って太尉と為し、録尚書事とした。
11.下邳(出身)の闕宣は衆数千人を聚めると、賢曰く:風俗通に曰く:闕とは、姓である也、闕党童子之後を承ったのである。縱橫家に闕子が有り書を著した。天子を自称した。陶謙は之を撃殺した。考異に曰く:范書の陶謙伝では「閻宣」と作る。今は魏志の武紀及び陶謙伝に従う。魏武紀にも又た曰く:「陶謙と闕宣は挙兵を共にし、泰山の華、費を取って、任城を掠した。」陶謙伝も亦た云う:「陶謙は始めにこれと合従し、後には遂に之を殺して、其の衆を并した。」按ずるに陶謙は徐州を有してそれに拠っており、義に託して勤王せんとしたのだ、何でまた闕宣の数千之衆に藉して而して之に与して合従したということがあろうか!蓋し陶謙の別将が闕宣と共に曹嵩を襲ったのだろう、故に曹操は此を以って陶謙の罪と為して而して之を伐しただけである耳。
12.大雨があり、昼夜わたること二十余日、民居が漂沒することになった。
13.袁紹は出軍して朝歌の鹿腸山に入り、于毒を討った、囲み攻めること五日、之を破ると、于毒及び其の衆万余級を斬った。袁紹は遂に山を尋ねて北に行き、進んで諸賊の左髭丈八等を撃つと、皆之を斬った。又劉石、青牛角、黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根等を撃つと、復た斬ること数万級であり、皆其の屯壁を屠ってしまった。遂に黒山賊の張燕及び四営屠各、鴈門烏桓と常山に於いて戦った。張燕の精兵は万を数え、騎は千匹を数えた。袁紹と呂布は張燕を共撃して、連戦すること十余日、張燕の兵は死傷すること多かったと雖も、袁紹軍も亦た疲れたため、遂に倶に退くことになった。呂布の将士は多くが暴橫であったため、袁紹は之に患わされ、呂布は因って雒陽に還らんことを求めた。袁紹は承制して以って呂布をして司隸校尉を領させると、壮士を遣わして呂布を送らせ、而して陰ながら之を図った。呂布は人を使って帳の中で鼓箏させると、説文では:箏は、楽である也、鼓絃にして竹身である。十三絃であり、蒙恬が造る所である。一説には:秦人は義が薄く、父子は瑟を争って而して之を分けたため、因って以って名と為したのであるという。按ずるに箏制は瑟と同じである、瑟は二十五絃であり而して箏は十三絃である、故に然るように云ったのである。風俗通では:箏は、秦声で、五絃、筑身である。箏者は、上は天を圓象するという、下平象地、中空準六合、絃柱十二擬十二月、乃仁智之器也。今并、涼二州箏形如瑟、不知誰改也。釋名:箏、施絃高、箏箏然、音爭。密かに亡去した、送った者は夜起きると、帳<とばり>を斫<こわ>し皆壊れるを被った。明くる旦、袁紹は呂布が尚も在ることを聞き、懼れると、城を閉じて自ら守った。呂布は軍を引きつれて張楊のところに復帰した。
 14前太尉曹嵩避難在琅邪、其子操令泰山太守應邵迎之。嵩輜重百餘兩、陶謙別將守陰平、士卒利嵩財寶、掩襲嵩於華、費間、殺之、並少子德。秋、操引兵撃謙、攻拔十餘城、至彭城、大戰、謙兵敗、走保郯。初、京、雒遭董卓之亂、民流移東出、多依徐土、遇操至、坑殺男女數十萬口於泗水、水爲不流。操攻郯不能克、乃去、攻取應、睢陵、夏丘、皆暑之、雞犬亦盡、墟邑無復行人。
14.前の太尉の曹嵩は難を避けて琅邪に在った、難、乃旦翻。其の子の曹操が泰山太守の応劭に之を迎えるよう令した。曹嵩の輜重は百余両となっており、陶謙の別将が陰平を守っており、士卒は曹嵩の財寶を利そうとして、曹嵩を華、費の間に於いて掩襲すると、之を殺した、曹操は兵を引きつれて陶謙を撃ち、十余城を攻め抜くと、彭城に至って、大いに戦った、陶謙の兵は敗れ、走って郯を保つことになった。初、京、雒は董卓之乱に遭って、民は流れ移ること東に出て、多くが徐土に依った、曹操が至るに遇って、男女数十万口が泗水に於いて坑殺され、水は為に流れなかった。曹操は郯を攻めたが克つこと能わず、乃ち去ると、取慮、睢陵、夏丘を攻め、三県皆属下邳国。皆之を屠ったため、雞犬も亦た尽き、墟邑(廃墟となった邑)には行きかう人が復することとて無くなったのである。
15.冬、十月、辛丑、京師に地震があった。
16.天市にて星が孛すこと有った。孛、蒲內翻。
17.司空の楊彪が免じられ。丙午、太常の趙温を以って司空と為し、録尚書事とした。
18.劉虞と公孫瓚は相能くしないこと積みましていった、公孫瓚が何度も袁紹と相攻めあったため、数、所角翻。下同。劉虞は之を禁じたが、できなかったため<不可>、而して其の稟仮を稍節した。公孫瓚は怒り、節度を屢違すると、又復たも百姓を侵犯した。劉虞は制すること能わず、乃ち驛使を遣わして章を奉じると其の暴掠之罪を陳べたため、公孫瓚も亦た劉虞が糧を稟して周しないでいる(からだ)と上(表)した。上、時掌翻。(劉虞と公孫瓚の)二奏が交馳し、互いに相毀<こわ>すこと非ざるものであったため、朝廷は違いに依った而已<のみ>であった(劉虞からの奏上には劉虞に都合よいように対応し、公孫瓚からの奏上には公孫瓚に都合よいように対応するだけとして、それぞれの利害の調整や矛盾に対処しようとはしなかった)。依違(違いに依る)とは、甲の奏上は則ち甲に依って而して乙と違えたものとし、乙の奏上は則ち乙に依って而して甲と違えたものとして、決然之是非が無いことを言う也。公孫瓚は乃ち小城を薊城の東南に築くと以って之に居したため、薊県、属広陽国、幽州牧所治也。薊、音計。劉虞は何度も会わんことを請うたが、公孫瓚は輒ち病と称して応じなかった。劉虞は其が終に乱を為すことを恐れ、乃ち所部している兵を合わせて十万人を率いると以って之を討たんとした。時に公孫瓚の部曲は放たれ散って外に在ったため、(公孫瓚は)倉卒として城の東を掘ってそこから走らんと欲した。卒、与猝同。劉虞の兵は伍を部すること無く、戦を習っていなかった、又民の廬舍を愛して、敕して焚燒することを聴きいれず、軍士を戒めて曰く:「余人は傷つけること無かれ、殺すのはただ伯珪一人而已<のみ>とせよ。」としたため公孫瓚は、字を伯珪という。(城を)攻め囲んだが下せなかった。公孫瓚は乃ち鋭い士数百人簡募すると(選り抜いて募ると)、風に因って火を縦とし、直ちに之に衝突したため、劉虞の衆は大いに潰えることになった。劉虞と官属は北して居庸に奔ったが、居庸県は、上谷郡に属する。胡嶠曰く:幽州自り西北へむかうと居庸関に入る。宋祁曰く:唐(代)の媯州懷戎県の東南五十里には居庸塞が有る、東は盧龍、碣石に連なり、西は太行、常山に属する、実に天下之險というものである。公孫瓚は之を追って攻めること、三日、城が陷ちたため、劉虞と并妻子を執らえて薊に還ったが、猶も使って州の文書を領させていた。会するに詔あって使者の段訓が遣わされてきたがそれは劉虞の封邑を増し、督六州事とすること。公孫瓚を拝して前将軍とし、易侯に封ずるということであった。易県は、前漢のころは涿郡に属していた、後漢では省かれていた。公孫瓚は乃ち劉虞は前に袁紹等に与して尊号を称そうと謀ったと誣し、段訓を脅して劉虞及び妻子を薊の市に於いて斬った(斬らせた)。故の常山相であった孫瑾、掾の張逸、張瓚等は相与して劉虞に就き、公孫瓚を罵って口を極め、然る後に死を同じくした。公孫瓚は劉虞の首を京師に於いて伝えようとしたが、故吏の尾敦が路に於いて劉虞の首を劫してきて、之を帰葬した。賢曰く:尾は、姓。敦が、名である。余が按ずるに古に尾生というものが有った。劉虞は以って恩厚かったため衆心を得ており、北州の百姓で幽州に流入してきたものや旧<もと>は籍を幽州に著していたもの(流旧)で痛惜しないものは莫かった。流というのは、他州の人で幽州に流入した者のことである也。旧というのは、旧<もと>幽州に籍を著していた者のことである也。初め、劉虞は使いを遣わして章を奉らせに長安へ詣でさせようと欲した、而しながら其の人(を得るのが)難しいところであった、衆咸が曰く:「右北平出身の田疇は、年二十二ですが、年は少ないと雖も、少、詩照翻。奇材を有していること然るものです。」劉虞は乃ち礼を備えると、以って掾と為すことで請うた。車騎を具えて将に行かせようとするに、田疇は曰く:「今道路は阻絶しており、寇虜が縱横としておりますから、官と称して使を奉じてゆけば、為衆所指。願わくば以って私行せん、期すのは於得達而已(ただ役目を達成するに於けるだけです)。」劉虞は之に従った。田疇は乃ち自ら家客二十騎を選ぶと、倶に西関を上って、塞を出ると、北山を傍らにして、傍、は歩浪翻。西関は、即ち居庸関のことである。北山とは、即ち陰山のことである。直ちに(直接)朔方へ趣き、間道を循にして長安に至って致命(命を果たした)。詔で田疇を拝して騎都尉と為した。田疇は以って天子が塵を蒙って未だ安からざるに方じているため、以って佩を荷し寵に栄する可きではないとして、荷、下可翻。固辞して受けなかった。報(劉虞からの手紙に対する返答)を得ると、馳せて還ったが、比至(もうすぐ至ろうとしたところで)、劉虞は已に死んでいたため、田疇は劉虞の墓に謁し祭すると、章表を陳べ発っし、章表、当依下文作章報。哭泣してから而して去った。公孫瓚は怒って、田疇を獲んとして購い求めて、謂いて曰く:「汝は我に報いるために章を送ろうとしなかった、何ゆえであるか也?」田疇曰く:「漢室が衰頽して、人が異心を懐くなか、唯だ劉公のみが忠節を失わなかったのです。報われた章が言わんとする所は、将軍に於いては未だ美<うま>しからず、恐らくは聞いて楽しむ所には非ざるもの、楽、音洛。故に進まなかったのです也。且つ将軍は既に無罪之君を滅ぼしているわけで、又義を讎守せんとする臣たるこの田疇は、恐らくは燕、趙之士が皆将に東海を踏んで而して死のうとも、将軍に従うこと有ることは莫い者です也。」公孫瓚は乃ち之を釋した。田疇は北して無終へ帰ると、無終県は、右北平郡に属す、春秋のころにあった無終子之国で、田疇は蓋し其の県の人なのであろう。宋白曰く:無終は、唐が薊州玉田県と為したところである。宗族及び他の附従する者数百人を率いて、地を掃いて(清め)而して盟して曰く:「君の仇に報いなかったからには、吾は以って世に(於いて)立つ可からず!」遂に徐無山中に入ると、徐無県は、右北平郡に属する、徐無山が有る。深險に営し敞地を平らげて而して居し、躬耕して以って父母を養ったため、百姓は之に帰し、数年間にして五千余家に至った。田疇は其の父老に謂いて曰く:「今都邑が衆成されたというのに、而して相統一すること莫く、又法制が無いまま以って之を治めんとすれば、治、直之翻。恐らくは久しく安んじてゆく道に非ずというもの。この田疇に愚計が有ります、願わくば諸君と共に之を施したいとおもうが、よろしいでしょうか(可)乎?」皆曰く:「可!」としたため田疇は乃ち約束を為して、相殺傷、犯盗、諍訟する者は、諍、読曰爭。晉王沈釋時論:闟茸勇敢於饕諍。韻平声。その軽重に随って罪に抵てるものとし、重い者は死に至るものとして、凡そ一十余條をつくった。又制して婚姻嫁娶之礼を為すと、学校で講授之業を与えた、衆に於いて班行すると、衆皆は之に便じ、道に至って遺されたものを拾うことなくなったのである。北辺は翕然として其の威信に服し、烏桓、鮮卑は各々が使を遣わして饋を致してきたため、田疇は悉く撫納すると、寇を為さないようにと令した。
19.十二月、辛丑、地震があった。
20.司空の趙温が免じられた。乙巳、衛尉の張喜を以って司空と為した。

翻訳者:ニセクロ

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最終更新:2007年07月18日 11:22
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