巻第六十五

資治通鑑巻第六十五
 漢紀五十七
  孝獻皇帝庚

 

建安十一年(丙戌、二〇六)

 春,正月,有星孛於北斗。

1.春,正月,星が北斗に於いて孛した。

 

 曹操自將撃高幹,留其世子丕守鄴,使別駕從事崔琰傅之。操圍壺關,三月,壺關降。高幹自入匈奴求救,單于不受。幹獨與數騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉王琰捕斬之,并州悉平。曹操使陳郡梁習以別部司馬領并州刺史。時荒亂之餘,胡、狄雄張,吏民亡叛入其部落,兵家擁眾,各爲寇害。習到官,誘喻招納,皆禮如其豪右,稍稍薦舉,使詣幕府;豪右已盡,次發諸丁強以爲義從;又因大軍出征,令諸將分清以爲勇力。吏兵已去之後,稍移其家,前後送鄴凡數萬口;其不從命者,興兵致討,斬首千數,降附者萬計。單于恭順,名王稽顙,服事供職,同於偏戸。邊境肅清,百姓布野,勤勸農桑,令行禁止。長老稱詠,以爲自所聞識,刺史未有如習者。習乃貢達名士,避地州界者河內常林、楊俊、王象、荀緯及太原王凌之徒,操悉以爲縣長,後皆顯名於世。初,山陽仲長統遊學至并州,過高幹,幹善遇之,訪以世事。統謂幹曰:「君有雄志而無雄才,好士而不能擇人,所以爲君深戒也。」幹雅自多,不悅統言,統遂去之。幹死,荀彧舉統爲尚書郎。著論曰昌言,其言治亂,略曰:「豪傑之當天命者,未始有天下之分者也,無天下之分,故戰爭者競起焉。角智者皆窮,角力者皆負,形不堪復伉,勢不足復校,乃始羈首繋頸,就我之銜紲耳。及繼體之時,豪傑之心既絕,士民之志已定,貴有常家,尊在一人。當此之時,雖下愚之才居之,猶能使恩同天地,威侔鬼神,周、孔數千無所復角其聖,賁、育百萬無所復奮其勇矣。彼後嗣之愚主,見天下莫敢與之違,自謂若天地之不可亡也。乃奔其私嗜,騁其邪欲,君臣宣淫,上下同惡,荒廢庶政,棄忘人物。信任親愛者,盡佞諂容說之人也;寵貴隆豐者,盡后妃姬妾之家也。遂至熬天下之脂膏,斫生民之骨髓,怨毒無聊,禍亂並起,中國擾攘,四夷侵叛,土崩瓦解,一朝而去,昔之爲我哺乳之子孫者,今儘是我飲血之冠讎也。至於運徙勢去,猶不覺悟者,豈非富貴生不仁,沉溺致愚疾邪!存亡以之失代,治亂從此周復,天道常然之大數也。」

2.曹操は自ら将に高幹を撃たんとし,其の世子の曹丕を留めて鄴を守らせると,別駕従事の崔琰を使て之を傅けさせた。曹操は壺関を囲んだところ,三月,壺関は降った。高幹は自ら匈奴に入って救いを求めようとしたが,単于は受けなかった。高幹は独り数騎とともに亡ると,南して荊州に奔らんと欲した,上洛都尉の王琰が之を捕えて斬ったため,并州は悉くが平げられた。曹操は陳郡出身の梁習を使わすと別部司馬を以ってして并州刺史を領させた。時に荒乱之余りあって,胡、狄が雄張しており,吏民の亡叛したものは其の部落に入り,兵家は衆を擁し,各々が寇害を為した。梁習は官に到ると,誘い喩えて招き納れたため,皆禮すこと其の豪右の如くなった,稍稍して薦挙すると,使いさせ幕府に詣でさせた;豪右が已に尽きると,次いで諸丁強を徴発して以って義従と為させた;又大軍が出征するのに因ると,諸将に分清するよう令して以って勇力と為した。吏兵が已にして去ってから之後は,稍して其の家を移し,前後して鄴に送ること凡そ万口を数えた;其の命に従わざる者は,兵を興こして討(伐)を致し,斬首すること千数え,降り附いた者は万計となった。単于が恭順してきたため,名王稽顙,服事供職,同於偏戸。邊境は肅清され,百姓は野に布かれ,農桑を勤め勧め,令行禁止。長老は詠を称え,以って為すに自ら聞き識る所となったが,刺史で未だ梁習の如き者が有ったことはなかったとした。梁習は乃ち名士を貢達した,地を州界に避けてきた者に河内常林、楊俊、王象、荀緯及び太原出身の王凌之徒があったが,曹操は悉く以って県長と為し,後皆世に於いて顯名となった。初め,山陽の仲長統は遊學して并州に至ると,高幹のところで過ごしたが,高幹は之を善く遇し,訪れるにあたり世事を以ってした。仲長統は高幹に謂いて曰く:「君は雄志有れど而して雄才無し,士を好めど而して人を擇ぶを能くせず,君が為に深く戒めとする所以である也。」高幹は雅自多,仲長統の言を悦ばなかったため,仲長統は遂に之を去った。高幹が死ぬと,荀彧は仲長統を挙げて尚書郎と為した。論を著わして曰く《昌言》,其の言は治乱におよび,略して曰く:「豪傑之当に天命たるべき者は,未始有天下之分者也,無天下之分,故に戦い争う者が競って焉に起ったのである。智を角した者は皆窮し,力を角した者は皆負け,形は復伉するに堪えず,勢は復校するに足らず,乃ち始まりは羈首繋頸し,就我之銜紲のみであった耳。継體之時に及び,豪傑之心は既にして絶え,士民之志は已に定まった,貴ぶには常家が有り,尊ばれるには一人が在るもの。当に此之時にあたり,下愚之才が之に居ると雖も,猶も能く恩を使て天地を同じくさせ,威をして鬼神を侔させるもの,周、孔は千を数えようとも其の聖を復た角す所など無く,孟賁、夏育が百万あろうとも其の勇を復た奮う所など無くなろう矣。彼の後嗣之愚主,見天下莫敢與之違(天下を見るに敢えて之と違えるもの莫いのは),自謂若天地之不可亡(自ずから天地の亡ぶ可からざるが若くを謂うのである)也。乃ち其の私嗜に奔り,其の邪欲を騁し,君臣宣しく淫し,上下が惡を同じくすべくなれば,庶政を荒廃させ,人物を棄て忘れてしまうだろう。信任されて親愛なる者は,尽く佞諂容説之人である也;寵貴されて隆豊なる者は,尽く后妃姫妾之家である也。そして遂に天下之脂膏を熬し,生民之骨髓を斫<こわ>すに至るならば,怨み毒づいて聊無く,禍乱が並び起ち,中國が擾攘して,四夷が侵叛することになる,そうなれば土崩瓦解し,一朝にして而して去ってしまうだろう,昔之為我哺乳之子孫者,今儘是我飲血之冠讎也。運が徙り勢いが去るに於けるに至って,猶も覚悟しない者は,豈に富貴は不仁を生ずるに非ずとできようか,沉溺して愚疾を致すのである邪!存亡は之を以ってして代を失うものである,治乱は此に従って周<めぐ>り復すものである,天道は常然之大数である也。」

 秋,七月,武威太守張猛殺雍州刺史邯鄲商;州兵討誅之。猛,奐之子也。

3.秋,七月,武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺した;州兵が討って之を誅した。張猛は,張奐之子である也。

 八月,曹操東討海賊管承,至淳於,遣將樂進、李典撃破之,承走入海島。

4.八月,曹操は東して海賊の管承を討ち,淳於(淳于)に至った,将の樂進、李典を遣わして之を撃破させたところ,管承は走って海島に入った。

 昌豨復叛,操遣于禁討斬之。

5.昌豨が復た叛いたため,曹操は于禁を遣わして討たせ之を斬った。

 是歳,立故琅邪王容子熙爲琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、平原八國皆除。

6.是歳,故の琅邪王である劉容の子の劉熙を立てて琅邪王と為した。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済陰、平原八國は皆除かれた。

 烏桓乘天下亂,略有漢民十餘萬戸,袁紹皆立其酋豪爲單于,以家人子爲己女,妻焉。遼西烏桓蹋頓尤強,爲紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞爲寇,欲助尚復故地。曹操將撃之,鑿平虜渠、泉州渠以通運。

7.烏桓は天下が乱れたのに乗じて,漢民十余万戸を略し有すことになった,袁紹は皆其の酋豪を立てて単于と為すと,家人の子を以ってして己の女<むすめ>と為し,焉<これ>を妻にさせた。遼西烏桓の蹋頓が尤も強かったため,袁紹が厚くする所と為っていた,故に袁尚兄弟は之に帰すことになり,何度も塞に入って寇を為し,欲助尚復故地。曹操は将に之を撃たんとして,平虜渠、泉州渠を鑿<うが>って以って運を通じさせた。

 孫權撃山賊麻、保二屯,平之。

8.孫権は山賊の麻、保二屯を撃つと,之を平げた。

十二年(丁亥、二〇七)

 春,二月,曹操自淳于還鄴。丁酉,操奏封大功臣二十餘人,皆爲列侯。因表萬歳亭侯荀彧功狀;三月,增封彧千戸。又欲授以三公,彧使荀攸深自陳讓,至於十數,乃止。

1.春,二月,曹操は淳于より鄴に還った。丁酉,曹操は大功あった臣二十余人を封ずるよう奏上し,皆列侯と為した。因って万歳亭侯である荀彧の功状を(上)表した;三月,荀彧に千戸を増封した。又以って三公を授けようと欲したが,荀彧は荀攸を使わして深く自ら讓ることを陳べさせ,十数に於けるに至ったため,乃ち止めた。

 曹操將撃烏桓,諸將皆曰:「袁尚亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能爲尚用!今深入征之,劉備必說劉表以襲許,萬一爲變,事不可悔。」郭嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其遠,必不設備,因其無備,卒然撃之,可破滅也。且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存。今四州之民,徒以威附,德施未加,舎而南征,尚因烏桓之資,招其死主之臣,胡人一動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成凱覦之計,恐靑、冀非己之有也。表坐談客耳,自知才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不爲用,雖虚國遠征,公無憂矣。」操從之。行至易,郭嘉曰:「兵貴神速。今千里襲人,輜重多,難以趨利,且彼聞之,必爲備。不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意。」
  初,袁紹數遣使召田疇於無終,又即綬將軍印,使安輯所統,疇皆拒之。及曹操定冀州,河間邢顒謂疇曰:「黄巾起來,二十餘年,海内鼎沸,百姓流離。今聞曹公法令嚴。民厭亂矣,亂極則平,請以身先。」遂裝還鄉里。疇曰:「邢顒,天民之先覺者也。」操以顒爲冀州從事。疇忿烏桓多殺其本郡冠蓋,意欲討之而力未能。操遣使辟疇,疇戒其門下趣治嚴。門人曰:「昔袁公慕君,禮命五至,君義不屈。今曹公使一來而君若恐弗及者,何也?」疇笑曰:「此非君所識也。」遂隨使者到軍,拜爲蓨令,隨軍次無終。
  時方夏水雨,而濱海洿下,濘滯不通,虜亦遮守蹊要,軍不得進。操患之,以問田疇。疇曰:「此道,秋夏每常有水,淺不通車馬,深不載舟船,爲難久矣。舊北平郡治在平岡,道出盧龍,達於柳城。自建武以來,陷壞斷絕,垂二百載,而尚有微徑可從。今虜將以大軍當由無終,不得進而退,懈弛無備。若嘿回軍,從盧龍口越白檀之險,出空虛之地,路近而便,掩其不備,蹋頓可不戰而禽也。」操曰:「善!」乃引軍還,而署大木表於水側路傍曰:「方今夏暑,道路不通,且俟秋冬,乃復進軍」。虜候騎見之,誠以爲大軍去也。
  操令疇將其衆爲郷導,上徐無山,塹山堙谷,五百餘里,經白檀,歴平岡,步鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓及遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。八月,操登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。操車重在後,被甲者少,左右皆懼。操登高,望虜陣不整,乃縱兵撃之,使張遼爲先鋒,虜眾大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸與尚、熙奔遼東太守公孫康,其眾尚有教千騎。或勸操遂撃之,操曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,操引兵自柳城還。公孫康欲取尚、熙以爲功,乃先置精勇於廄中,然後請尚、熙入,未及坐,康叱伏兵禽之,遂斬尚、熙,並速僕丸首送之。諸將或問操:「公還而康斬尚、熙,何也?」操曰:「彼素畏尚、熙,吾急之則並力,緩之則自相圖,其勢然也。」操梟尚首,令三軍:「敢有哭之者斬!」牽招獨設祭悲哭,操義之,舉爲茂才。時天寒且旱,二百里無水,軍又乏食,殺馬數千匹以爲糧,鑿地入三十餘丈方得水。既還,科問前諫者,衆莫知其故,人人皆懼。操皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼幸。雖得之,天所佐也,顧不可以爲常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」

2.曹操は将に烏桓を撃たんとしたところ,諸将は皆曰く:「袁尚は亡虜なるのみ耳,夷狄が貪らんとも而して親無からん,豈に能く袁尚の為に用いられようか!今深く入りて之を征さんとするに,劉備は必ずや劉表を説きて以って許を襲わしめん,万が一にも変為らば,事は悔いる可からざらん。」郭嘉曰く:「公は天下を威震すると雖も,胡は其の遠きを恃み,必ずや備えを設けざりき,なれば其の備え無きに因って,卒然として之を撃てば,破り滅ぼす可けん也。且つ袁紹は民や夷に於いて恩有りて,而して袁尚兄弟は生存せり。今四州之民,威を以って附かせること徒にし,徳施すも未だ加えざるに,捨てて而して南征すれば,袁尚は烏桓之資に因って,其の死主之臣を招きいれよう,胡人が一たび動けば,民や夷は倶<とも>に応じようから,以って蹋頓之心に生ぜしめ,凱覦之計を成させれば,恐らくは青、冀は己之有するに非ざらん也。劉表は坐して客と談ずるのみ耳,自ら才は以って劉備を御すに足らざりきを知っていよう,之を重任すれば則ち制すこと能わざるを恐れ,之を軽任すれば則ち劉備は用を為すまい,國を虚しくして遠征すると雖も,公は憂うこと無からん矣。」曹操は之に従った。行って易に至ると,郭嘉曰く:「兵は神速を貴ぶもの。今千里をゆきて人を襲わんとするに,輜重は多く,以って利に趨かんとするは難し,且つ彼が之を聞けば,必ずや備えを為さん。輜重を留めるに如かず,兵を軽くし道を兼ねて以って出でさせるなら,其の不意を掩うことだろう。」
 初め,袁紹は何度も使いを使わして無終に於ける田疇を召そうとした,又綬や将軍の印を即<つ>け,使安輯所統,田疇は皆之を拒んだ。曹操が冀州を定めるに及び,河間の邢顒が田疇に謂いて曰く:「黄巾が起って来り,二十余年,海内は鼎が沸きたち,百姓は流離せり。今聞くに曹公は法令が厳しいとか。民は乱に厭いていよう矣,乱極まれば則ち平らぐもの,身を以ってして先んぜんことを請わん。」遂に裝えると郷里に還った。田疇曰く:「邢顒は,天民之先覚者である也。」曹操は以って邢顒を冀州従事と為した。田疇は烏桓が其の本郡の冠蓋を多殺したことに忿っており,意<きもち>は之を討たんと欲するも而して力は未だ能わなかった。曹操は使いを遣わして田疇を辟召すると,田疇は其の門下に治を厳しく趣くよう戒めた。門人曰く:「昔袁公は君を慕い,禮命すること五たび至ったが,君の義は屈しなかった。今曹公の使いが一たび来たると而して君は弗及を恐れる若くなのは<者>,何ぞや也?」田疇は笑って曰く:「此は君の識る所に非ず也。」遂に使者に隨って軍に到ると,拝して蓚の(県)令と為り,軍に隨って無終に次いだ。
 時は夏を方じて水雨おおく,而して濱海洿下は,濘滞して(泥濘となって滞ってしまい)通じず,虜も亦た蹊要を遮守したため,軍は進むことを得なかった。曹操は之に患い,以って田疇に問うた。田疇曰く:「此道は,秋夏には毎常有水(毎々常に水が有りまして),浅くとも車馬を通さず,深くとも舟船を載せず,難を為して(難所となって)久しいものです矣。旧<もと>の北平郡治が平岡に在り,道が盧龍を出て,柳城に於けるまで達しております。建武以来より<自>,陷壞して断絶しており,垂しこと二百載,而しながら尚も微徑<かすかなこみち>が有って従うこと可(能)です。今虜将のほうでは以って大軍であるから当に無終由<よ>りきたるだろうとし,進むを得ざれば而して退くだろうからと,懈弛して備えが無いことでしょう。若し軍を嘿回<黙回>し,盧龍口より<従>白檀之険を越えて,空虚之地に出ますなら,路は近く而して便じましょうし,其の不備を掩うことになりますから,蹋頓は戦わずして而して禽える可きものとなりましょう也。」曹操曰く:「善し!」乃ち軍を引きつれて還ると,而して大木を署すと水の側の路傍に於いて表して曰く:「方ずるに今夏は暑く,道路は通じないでいる,且つは秋冬を俟<ま>って,乃ち復た軍を進めん」。虜は騎で候してきて之を見ると,誠だとして以為<おもへら>く大軍は去るのだろうとした也。
 曹操は田疇に令して其の衆を将いさせて郷導と為すと,徐無山に上り,山を塹<くず>し谷を堙<う>めること,五百余里,白檀を経て,平岡を歴し,鮮卑の庭を歩んで,東して柳城を(目)指した。未だ二百里に至らずして,虜は乃ち之を知った。袁尚、袁熙は蹋頓及び遼西単于の樓班、右北平単于の能臣抵之等と数万騎を将いて軍に逆らった。八月,曹操が白狼山に登ったところで,卒と虜が(遭)遇し,衆は甚だ盛んであった。曹操の車重は後ろに在り,甲を被った者は少なかったため,左右は皆懼れた。曹操は高みに登って,虜を望んだところ陣が整っていなかったため,乃ち兵を縱にして之を撃った,張遼を使て先鋒と為したところ,虜(の側の)衆は大いに崩れた,蹋頓及び名王已下を斬りすて,胡、漢で降った者は二十余万口となった。遼東単于の速僕丸は袁尚、袁熙と遼東太守の公孫康のところへ奔った,其の衆は尚も教千騎を有していた。或るひとが曹操に勧めて之を遂撃するようにとしたところ,曹操は曰く:「吾が方ずるは公孫康が袁尚、袁熙の首を斬って送ら使まんことだ,兵を煩わすまい矣。」九月,曹操は兵を引きつれて柳城より<自>還った。公孫康は袁尚、袁熙を取って以って功を為そうと欲し,乃ち先ず精勇を(廏)廄中に於いて置くと,然る後に袁尚、袁熙に入ってくるよう請うた,未だ坐に及ばずして,公孫康は伏兵に叱って之を禽<とら>え,遂に袁尚、袁熙を斬ると,速僕丸の首を並べて之を送った。諸将は或るいは曹操に問うた:「公が還るや而して公孫康は尚、熙を斬ったのですが,何ででしょうか也?」曹操曰く:「彼は素より尚、熙を畏れていた,吾が之に急げば則ち力を並べようし,之を緩めれば則ち自ら相図ろうから,其の勢いは然るものとなる也。」曹操は袁尚の首を梟すると,三軍に令した:「敢えて之に哭す者有れば斬る!」牽招は独り祭を設けて悲しみ哭したが,曹操は之を義として,挙げて茂才と為した。時に天は寒く且つ旱であったため,二百里にして水が無く,軍も又た食に乏しく,馬数千匹を殺して以って糧と為し,地を鑿ちて入ること三十余丈して水を得るを方じたのである。既にして還ると,前に諫めた者を科問したが,衆で其故を知るものが莫く,人人は皆懼れた。曹操は皆之に厚く賞して,曰く:「孤が前に行ったことは,危うきに乗じて以って幸を徼んというものであった。之を得たと雖も,それは天が佐<たすけ>し所なのだ也,顧みるに以って常と為す可きではない。諸君之諫めは,万安之計であった,是ぞ以って相賞すもの,後に之を言うを難ずること勿れ。」

 冬,十月,辛卯,有星孛於鶉尾。

3.冬,十月,辛卯,星が鶉尾に於いて孛すこと有った。

 乙巳,黄巾殺濟南王贇。

4.乙巳,黄巾が済南王贇を殺した。

 十一月,曹操至易水,烏桓單于代郡普富盧、上郡那樓皆來賀。師還,論功行賞,以五百戸封田疇爲亭侯。疇曰:「吾始爲劉公報仇,率衆遁逃,志義不立,反以爲利,非本志也。」固讓不受。操知其至心,許而不奪。
  操之北伐也,劉備説劉表襲許,表不能用。及聞操還,表謂備曰:「不用君言,故爲失此大會。」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於後者,則此未足爲恨也。」

5.十一月,曹操が易水に至ると,烏桓単于である代郡の普富盧、上郡の那樓が皆来たりて賀した。師還ると,論功行賞あり,五百戸を以って田疇を封じて亭侯と為した。田疇曰く:「吾が始めしは劉公の報仇の為でありました,しかし衆を率いて遁れ逃げ,志義が立たず,反って以って利を為させたのは,本志に非ず也。」固讓して受けなかった。曹操は其の至心を知り,許して而して奪わなかった。
 曹操之北伐するや也,劉備は劉表に許を襲うよう説いたが,劉表は用いること能わなかった。曹操が還ると聞くに及び,劉表は劉備に謂いて曰く:「君の言を用いず,故に此の大会を失うを為した。」劉備曰く:「今天下は分裂しておりまして,日ごと干戈を尋ねております,事会之来たるは,豈に終え極まること有りましょうか乎?若し後に於いて之に能く応ずるなら<者>,則ち此は未だ恨みと為すには足りません也。」

 是歳,孫權西撃黄祖,虜其人民而還。

6.是歳,孫権は西して黄祖を撃ち,其の人民を虜にして而して還った。

 權母呉氏疾篤,引見張昭等,屬以後事而卒。

7.孫権の母の呉氏は疾篤く,張昭等を引見すると,以って後事を属させて而して卒した。

 初,琅邪諸葛亮寓居襄陽隆中,毎自比管仲、樂毅。時人莫之許也,惟穎川徐庶與崔州平謂爲信然。州平,烈之子也。
  劉備在荊州,訪士於襄陽司馬徽。徽曰:「儒生俗士,豈識時務,識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問爲誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」徐庶見備於新野,備器之。庶謂備曰:「諸葛孔明,臥龍也,將軍豈願見之乎?」備曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也,將軍宜枉駕顧之。」備由是詣亮,凡三往,乃見。因屏人曰:「漢室傾頹,姦臣竊命,孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖蹶,至於今日。然志猶未已,君謂計將安出?」亮曰:「今曹操已擁百萬之衆,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。孫權據有江東,已歴三世,國險而民附,賢能爲之用,此可與爲援而不可圖也。荊州並據漢、沔,利盡南海,東連呉會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍也。益州險塞,沃野千里,天府之土;劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存恤,智能之士思得明君。將軍既帝室之冑,信義著於四海,若跨有荊、益,保其巖阻,撫和戎、越,結好孫權,内修政治,外觀時變,則霸業可成,漢室可興矣。」備曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛不悅,備解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。
  司馬徽,清雅有知人之鑒。同縣龐德公素有重名,徽兄事之。諸葛亮毎至德公家,獨拜床下,德公初不令止。德公從子統,少時樸鈍,未有識者,惟德公與徽重之。德公常謂孔明爲臥龍,士元爲鳳雛,德操爲水鑒;故德操與劉備語而稱之。

8.初め,琅邪の諸葛亮は襄陽の隆中に寓居しており,毎々自らを管仲、樂毅に比していた。時の人で莫之許也,惟<た>だ穎川の徐庶と崔州平のみは信<まこと>に然りと為すと謂った。州平は,崔烈之子である也。
 劉備が荊州に在ったおり,襄陽の司馬徽のところに於いて士を訪ねんとした。司馬徽は曰く:「儒生や俗士など,豈に時務を識ろうか,時務を識る者は俊傑に<乎>在り。此の間には自ずから伏龍、鳳雛有り。」劉備は誰を為していうのかと問うたところ,曰く:「諸葛孔明、龐士元である也。」徐庶は新野に於いて劉備に見えると,劉備は之を器とした。徐庶は劉備に謂いて曰く:「諸葛孔明は,臥龍です也,将軍は豈に之に見えんことを願いますか乎?」劉備曰く:「君はこれと<与>倶に来てくれないか。」徐庶曰く:「此人は見えるに就く可き,屈致す可からず也,将軍は宜しく駕を枉げて之を顧みられますように。」劉備は是に由って諸葛亮を詣でると,凡そ三たび往きて,乃ち見えた。因って屏人して曰く:「漢室は傾頽し,奸臣が命を竊っている,孤は不度徳量力(徳を度ることも力を量ることもなく),天下に於いて大義を信ぜんと欲しながら,而して智術は浅く短く,遂に猖蹶に用いられ,今日に於けるに至った。然るに志は猶も未だ已まない,君謂計将安出?」諸葛亮曰く:「今曹操は已<すで>に百万之衆を擁し,天子を挟んで而して諸侯に令せり,此は誠にこれと<與>鋒を争う可からず。孫権は江東を拠有し,已に歴すこと三世,國は険しく而して民は附き,賢能が之の為に用いられている,此はこれと<与>援けを為す可きもので而して図る可からざるもの也。荊州は漢(水)、沔(水)に並び拠り,利ろしきことに南海に尽き,東は呉会に連なり,西は巴、蜀に通ず,此は用武之國である,而しながら其の主は守ること能わざりき,此は殆んど天が以って将軍に資とさせんとしている所です也。益州は険塞にして,沃野は千里,天府之土であります;劉璋は闇弱でありまして,張魯が北に在るため,民は殷し國は富めど而して恤存すを知らず,智能之士は明君を得んことを思っています。将軍は既にして帝室之冑たりて,信義は四海に於いて著わされております,若し荊(州)、益(州)を跨ぎ有し,其の巖阻を保ち,戎、越を撫和し(慰撫懐柔し),孫権と好を結んだうえで,内は政治を修め,外は時変を観るようにすれば,則ち霸業は成る可く,漢室も興る可きことかと矣。」劉備曰く:「善し!」是に於いて諸葛亮と<与>情好すること日ごとに密となった。関羽、張飛は悦ばなかったため,劉備は之を解いて曰く:「孤之孔明有るは,猶も魚之水有るがごとしである也。願わくば諸君は復言すること勿れ。」関羽、張飛は乃ち止めた。
 司馬徽は,清雅にして知人之鑒を有していた。同県の龐徳公は素より重名を有していたため,司馬徽は之に兄事していた。諸葛亮は龐徳公の家に至る毎に,独り床下に拝したが,徳公は初めから止めるよう令しなかった。徳公の従子の統は,少なき時は樸鈍であって,未だ識る者を有しなかった,惟だ徳公と司馬徽のみが之を重んじた。徳公は常に孔明は臥龍と為る,士元は鳳雛と為ると謂い,徳操は水鑒を為すとした;故に徳操は劉備に語を与えて而して之を稱えたのである。

十三年(戊子、二〇八)

 春,正月,司徒趙温辟曹操子丕。操表「温辟臣子弟,選舉故不以實」,策免之。

1.春,正月,司徒の趙温が曹操の子の曹丕を辟召した。曹操は表して「趙温は臣の子弟を辟召した,選挙故不以実」,策して之を免じた。

 曹操還鄴,作玄武池以肄舟師。

2.曹操は鄴に還ると,玄武池を作り以って舟師を肄した。

 初,巴郡甘寧將僮客八百人歸劉表,表儒人,不習軍事,寧觀表事勢終必無成,恐一朝衆散,並受其禍,欲東入呉。黄祖在夏口,軍不得過,乃留,依祖三年,祖以凡人畜之。孫權撃祖,祖軍敗走,權校尉凌操將兵急追之。寧善射,將兵在後,射殺操,祖由是得免。軍罷,還營,待寧如初。祖都督蘇飛數薦寧,祖不用。寧欲去,恐不免;飛乃白祖,以寧爲邾長。寧遂亡奔孫權。周瑜、呂蒙共薦達之,權禮異,同於舊臣。寧獻策於權曰:「今漢祚日微,曹操終爲篡盜。南荊之地,山川形便,誠國之西勢也。寧觀劉表,慮既不遠,兒子又劣,非能承業傳基者也。至尊當早圖之,不可後操。圖之之計,宜先取黄祖。祖今昏耄已甚,財谷並乏,左右貪縱,吏士心怨,舟船戰具,頓廢不修,怠於耕農,軍無法伍。至尊今往,其破可必。一破祖軍,鼓行而西,據楚關,大勢彌廣,即可漸規巴、蜀矣。」權深納之。張昭時在坐,難曰:「今吳下業業,若軍果行,恐必致亂。」寧謂昭曰:「國家以蕭何之任付君,君居守而憂亂,奚以希慕古人乎!」權舉酒屬寧曰:「興霸,今年行討,如此酒矣,決以付卿。卿但當勉建方略,令必克祖,則卿之功,何嫌張長史之言乎!」
  權遂西撃黄祖。祖橫兩蒙衝,挾守沔口,以拼閭大紲繋石爲釘,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前。偏將軍董襲與別部司馬凌統俱爲前部,各將敢死百人,人被兩鎧,乘大舸,突入蒙衝里。襲身以刀斷兩紲,蒙衝乃橫流,大兵遂進。祖令都督陳就以水軍逆戰。平北都尉呂蒙勒前鋒,親梟就首。於是將士乘勝,水陸並進,傅其城,盡銳攻之,遂屠其城。祖挺身走,追斬之,虜其男女數萬口。
  權先作兩函,欲以盛祖及蘇飛首。權爲諸將置酒,甘寧下席叩頭,血涕交流,爲權言飛疇昔舊恩,「寧不値飛,固已損骸於溝壑,不得致命於麾下。今飛罪當夷戮,特從將軍乞其首領。」權感其言,謂曰:「今爲君置之。若走去何?」寧曰:「飛免分裂之禍,受更生之恩,逐之尚必不走,豈當圖亡哉!若爾,寧頭當代入函。」權乃赦之。凌統怨寧殺其父操,常欲殺寧,權命統不得仇之,令寧將兵屯於它所。

3.初め,巴郡出身の甘寧は僮客八百人を将<ひき>いて劉表に帰した,劉表は儒人であって,軍事を習わなかったため,甘寧は劉表の事勢を観て終には必ず成すこと無からん,恐らくは一朝にして衆は散りぢりとなり,並んで其の禍ちを受くことになろうとみると,東して呉に入ろうと欲した。黄祖が夏口に在ったため,軍は過ぐるを得ず,乃ち留められて,黄祖に依ること三年,黄祖は凡人を以ってして之を畜<やしな>った。孫権が黄祖を撃つと,黄祖の軍は敗走した,孫権の校尉である凌操が兵を将いて之を急追した。甘寧は射を善くし,兵を将いて後ろに在ると,凌操を射殺した,黄祖は是に由って免れるを得た。軍が罷め,営に還ると,甘寧を待(遇)すること初めの如くであった。黄祖の都督である蘇飛は何度も甘寧を薦めたが,黄祖は用いなかった。甘寧は去ろうと欲したものの,(追跡から)免れられないことを恐れた;蘇飛は乃ち黄祖に(建)白して,甘寧を以って邾長と為した。甘寧は遂に孫権のところへ亡奔した。周瑜、呂蒙は共に之を薦達したため,孫権は異に礼し,旧臣に於いてと同じくした。甘寧は孫権に於いて獻策して曰く:「今や漢祚は日ごとに微かとなっております,曹操が終には篡盜を為すでしょう。南荊之地は,山川が便ずるよう形なし,誠に國之西勢です也。この寧が劉表を観るに,慮りは既にして遠からず,兒子も又た劣っており,承業や伝基を能くする者に非ず也。至尊は当に之を早く図るべし,曹操に後れる可からず。図之之計は(之を図るという計とは),宜しく先ず黄祖を取らん。黄祖は今や昏耄すること已に甚だしく,財谷<穀,通鑑では穀を谷と記す>も並んで乏しく,左右が貪り縱にしておりますから,吏士の心は怨んでいます,舟船や戦具も,頓廃して修められず,耕農に於いても怠っており,軍には法伍が無いのです。至尊が今往けば,其の破るは必ず可くならん。一たび黄祖の軍を破れば,鼓して行きて而して西し,楚関に拠るのです,勢いを大きくして彌廣げれば,即ち漸(々)に巴、蜀を規るようにできましょう<可>矣。」孫権は深く之を納れた。張昭は時に坐に在ったが,難じて曰く:「今呉下は業業たり,若し軍が果たさんとして行かば,恐らくは必ずや乱を致されん。」甘寧は張昭に謂いて曰く:「國家は蕭何之任を以ってせんとして君を付けたというのに,君は居守にあって而して乱を憂うるのか,奚<いずく>んぞ以って古人を慕うことを希っているとできようか乎!」孫権は酒を挙げて甘寧に屬させて曰く:「興霸よ,今年討(伐)を行うのは,此の酒の如く矣,以って卿に付けて決さん。卿は但だ当に方略を勉め建てるべきのみ,必ずせんことを令しよう黄祖に克てば,則ち卿之功なり,何ぞ張長史之言を嫌うものだろうか乎!」
 孫権は遂に西して黄祖を撃った。黄祖は両蒙沖(二つの蒙船)を横おきし,沔口を挟み守ると,以拼閭大紲系石為釘(以って大きな紲<もやいづな>に石を係留して釘と為して船を留め置いた),上には千人が有り,弩を以って交射したため,飛矢が雨のごとく下り,軍は前にすすむを得なかった。偏将軍の董襲と別部司馬の凌統は前部を倶<とも>に為していたが,各々敢死百人を将い,人は両鎧<二つの鎧>を被り,大舸に乗って,蒙沖の裡に突入した。董襲は身づから刀を以ってして両紲を断つと(船を留めていた二つのもやいを共に断つと),蒙沖は乃ち横むいて流れていき,大兵は遂に進んだ。黄祖は都督の陳就に(命)令して水軍を以って逆戦した。平北都尉の呂蒙は前鋒を勒して,陳就の首を親梟した。是に於いて将士は勝ちに乗じて,水陸並び進み,其城に伝わると,尽く之を鋭く攻め,遂に其の城を屠った。黄祖は身を挺して走りのがれたが,追って之を斬り,其の男女数万口を虜にした。
 孫権は先に両函(二つの函)を作っており,以って黄祖及び蘇飛の首を盛らんと欲した。孫権は諸将の為に酒を置くと,甘寧は席を下って叩頭し,血涕が交わり流れた,為権言飛疇昔旧恩,「この甘寧は蘇飛に値せずば,固<もと>より已に溝壑に於いて骸を損ねており,麾下に於いて命を致すを得なかったものです。今蘇飛の罪は当に夷戮すべきものですが,特に将軍より<従>其の首領を乞いたいのです。」孫権は其の言に感じ,謂いて曰く:「今は君の為に之を置こう。しかし若し(彼が)走り去ってしまったなら何とするね?」甘寧曰く:「飛は分裂之禍いを免れ,更生之恩を受けますからには,之を逐おうとも尚も必ずや走りさりますまい,豈に当に亡びを図ることでしょうか哉!若し爾くなれば,この甘寧の頭が当に代わって函に入ることでしょう。」孫権は乃ち之を赦した。凌統は甘寧が其の父の操を殺したことを怨み,常に甘寧を殺そうと欲していた,孫権は凌統に之を仇に得ないようにと命ずると,甘寧には兵を将いて它<他>所に於いて駐屯するよう令した。

 夏,六月,罷三公官,復置丞相、御史大夫。癸巳。以曹操爲丞相。操以冀州別駕從事崔琰爲丞相西曹掾,司空東曹掾陳留毛玠爲丞相東曹掾,元城令河内司馬朗爲主簿,弟懿爲文學掾,冀州主簿盧毓爲法曹議令史。毓,植之子也。琰、玠並典選舉,其所舉用皆清正之士,雖於時有盛名而行不由本者,終莫得進。拔敦實,斥華偽,進衝遜,抑阿黨。由是天下之士莫不以廉節自勵,雖貴寵之臣,輿服不敢過度,至乃長吏還者,垢面羸衣,獨乘柴車,軍吏入府,朝服徒行。吏潔於上,俗移於下。操聞之,歎曰:「用人如此,使天下人自治,吾復何爲哉!」
  司馬懿,少聰達,多大略。崔琰謂其兄朗曰:「君弟聰亮明允,剛斷英特,非子所及也。」操聞而辟之,懿辭以風痺。操怒,欲收之,懿懼,就職。

4.夏,六月,三公の官を罷めると,丞相、御史大夫を復置した。癸巳。曹操を以ってして丞相と為した。曹操は冀州別駕従事の崔琰を以ってして丞相西曹掾と為し,司空東曹掾である陳留出身の毛玠を丞相東曹掾と為し,元城令である河内出身の司馬朗を主簿と為し,弟の司馬懿を文學掾と為し,冀州主簿の盧毓を法曹議令史と為した。盧毓は,盧植之子である也。崔琰、毛玠は並んで選挙を典じ,其の挙用した所は皆清正之士であり,時に於いて盛名を有したと雖も而して行が本に由らない者は,終に進むこと得られるもの莫かった。敦実を抜(擢)し,華偽を斥け,沖遜を進め,阿党を抑えた。是に由って天下之士で廉節を以ってして自ら勵<はげ>まないものは莫く,貴寵之臣と雖も,輿服不敢過度,至乃長吏還者,垢面羸衣して,独り柴車に乗って,軍吏が入府すると,朝服が徒行した。吏は上に於いて潔く,俗は下に於いて移った。曹操は之を聞くと,歎じて曰く:「人を用いること此の如し,天下の人を使て自ら治めしむとは,吾は復た何をか為さんか哉!」
 司馬懿は,少なきより聰達しており,大略が多かった。崔琰は其の兄の司馬朗に謂いて曰く:「君の弟は聰亮にして明允である,剛断すること英特しており,子の及ぶ所に非ざるなり也。」曹操は聞くと而して之を辟召しようとしたが,司馬懿は辞すに風痺を以ってした。曹操は怒ると,之を收めんと欲したため,司馬懿は懼れて,職に就いたのである。

 操使張遼屯長社,臨發,軍中有謀反者,夜,驚亂起火,一軍盡擾。遼謂左右曰:「勿動!是不一營盡反,必有造變者,欲以驚動人耳。」乃令軍中:「其不反者安坐!」遼將親兵數十人中陳而立,有頃,皆定,即得首謀者,殺之。遼在長社,於禁頓穎陰,樂進屯陽翟,三將任氣,多共不協。操使司空主簿趙儼並參三軍,毎事訓諭,遂相親睦。

5.曹操は張遼を使て長社に駐屯させたが,臨発,軍中に謀反者が有った,夜,驚き乱れて火が起ったため,一軍は尽く擾いた。張遼は左右に謂いて曰く:「動くこと勿れ!是は一営が尽く反したのではない,必ずや変を造りし者が有って,以って人を驚かせ動かそうと欲しているだけだ耳。」乃ち軍中に令して:「其の反していない者は安坐せよ!」とし張遼は親兵数十人を将いて陳の中にゆくと而して立った,有頃(しばらくして),皆定まり,即ち首謀者を得たため,之を殺した。張遼が長社に在ったおり,于禁が穎陰に駐屯し,樂進が陽翟に駐屯していた,三将は任氣であったため,共に協けあわないことが多かった。曹操は司空主簿の趙儼を使わして並んで三軍に参じさせ,事毎に訓諭したため,遂に相親睦しあうようになった。

 初,前將軍馬騰與鎭西將軍韓遂結爲異姓兄弟,後以部曲相侵,更爲仇敵。朝廷使司隸校尉鐘繇、涼州刺史韋端和解之,征騰入屯槐里。曹操將征荊州,使張既說騰,令釋部曲還朝,騰許之。已而更猶豫,既恐其爲變,乃移諸縣促儲人待,二千石郊迎,騰不得已,發東。操表騰爲衞尉,以其子超爲偏將軍,統其眾,悉徙其家屬詣鄴。

6.初め,前将軍の馬騰は鎮西将軍の韓遂と結んで異姓の兄弟と為った,後に部曲を以ってして相侵しあい,更めて仇敵と為った。朝廷は司隸校尉の鐘繇、涼州刺史の韋端を使て之を和解させると,征騰入屯槐裡。曹操が将に荊州を征そうとしたおり,張既を使て說騰,令釋部曲還朝,騰許之。已にして而して更めて猶豫,張既は其の変を為すを恐れ,乃ち移諸県促儲人待,二千石郊迎,馬騰は已むを得ず,東に発した。曹操は馬騰を衛尉と為すよう(上)表し,其の子の馬超を以ってして偏将軍と為すと,其の衆を統めさせ,其の家屬を悉く徙して鄴に詣でさせた。

 秋,七月,曹操南撃劉表。

7.秋,七月,曹操は南して劉表を撃った。

 八月,丁未,以光祿勳山陽郗慮爲御史大夫。

8.八月,丁未,光祿勳である山陽の郗慮を以って御史大夫と為した。

 壬子,太中大夫孔融棄市。融恃其才望,數戲侮曹操,發辭偏宕,多致乖忤。操以融名重天下,外相容忍而内甚嫌之。融又上書言:「宜准古王畿之制,千里寰内不以封建諸侯。」操疑融所論建漸廣,益憚之。融與郗慮有隙,慮承操風旨,構成其罪,令丞相軍謀祭酒路粹奏:「融昔在北海,見王室不靜,而招合徒眾,欲規不軌。及與孫權使語,謗訕朝廷。又,前與白衣檷衡跌蕩放言,更相讚揚。衡謂融曰『仲尼不死』,融答『顏回復生』,大逆不道,宜極重誅。」操遂收融,並其妻子皆殺之。初,京兆脂習與融善,每戒融剛直太過,必罹世患。及融死,許下莫敢收者。習往撫屍曰:「文舉舎我死,吾何用生爲!」操收習,欲殺之,既而赦之。

9.壬子,太中大夫の孔融が棄市された。孔融は其の才望を恃み,何度も曹操を戲侮した,辞を発すること偏宕し,多く乖忤を致した。曹操は孔融の名が天下に重かりしことを以ってして,外では相容忍ぶとも而して內甚だ之を嫌った。孔融は又上書して言うに:「宜しく准古王畿之制,千里寰內不以封建諸侯。」操疑融所論建漸廣,益すます之を憚った。孔融は郗慮とのあいだに隙が有り,郗慮は曹操の風旨を承って,其の罪を構成すると,丞相軍謀祭酒の路粹に令して奏じさせた:「孔融は昔北海に在ましおり,王室が靜かならざるを見るや,而して徒衆を招き合わせましたが,不軌を規さんと欲したのです。孫権の使いと<与>語るに及んでは,朝廷を謗訕しました。又,前に白衣の禰衡と<与>跌蕩放言し,更めて相讚揚しあいました。禰衡は孔融に謂いて曰く『仲尼は死せず』,孔融は答えました『顔回が復た生きかえった』,大逆不道であります,宜しく重誅を極めるべきです。」曹操は遂に孔融を収めると,其の妻子を並べ皆之を殺した。初め,京兆の脂習は孔融と善くしていた,孔融が剛直太過である毎に戒めると,必ずや世の患いを罹すだろうとした。孔融が死すに及び,許下で敢えて收めようとする者は莫かった。脂習は往くと屍を撫でて曰く:「文挙は我を捨てて死せり,吾何ぞ生を用いて為さんか!」曹操は脂習を収めると,之を殺そうと欲したが,既にして而して之を赦した。

 10初,劉表二子琦、琮,表爲琮娶其後妻蔡氏之侄,蔡氏遂愛琮而惡琦。表妻弟蔡瑁、外甥張允並得幸於表,日相與毀琦而譽琮。琦不自寧,與諸葛亮謀自安之術,亮不對。後乃共升高樓,因令去梯,謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口,而入吾耳,可以言未?」亮曰:「君不見申生在内而危,重耳居外而安乎?」琦意感悟,陰規出計。會黄祖死,琦求代其任,表乃以琦爲江夏太守。表病甚,琦歸省疾。瑁、允恐其見表而父子相感,更有托後之意,乃謂琦曰:「將軍命君撫臨江夏,其任至重;今釋眾擅來,必見譴怒。傷親之歡,重增其疾,非孝敬之道也。」遂遏於戶外,使不得見。琦流涕而去。表卒,瑁、允等遂以琮爲嗣。琮以侯印授琦。琦怒,投之地,將因奔喪作難。會曹操軍至,琦奔江南。
  章陵太守蒯越及東曹掾傅巽等勸劉琮降操,曰:「逆順有大體,強弱有定勢。以人臣而拒人主,逆道也;以新造之楚而御中國,必危也;以劉備而敵曹公,不當也。三者皆短,將何以待敵?且將軍自料何如劉備?若備不足御曹公,則雖全楚不能以自存也;若足御曹公,則備不爲將軍下也。」琮從之。九月,操至新野,琮遂舉州降,以節迎操。諸將皆疑其詐,婁圭曰:「天下擾攘,各貪王命以自重,今以節來,是必至誠。」操遂進兵。時劉備屯樊,琮不敢告備。備久之乃覺,遣所親問琮,琮令其官屬宋忠詣備宣旨。時曹操已在宛,備乃大驚駭,謂忠曰:「卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎!」引刀向忠曰:「今斷卿頭,不足以解忿,亦恥丈夫臨別復殺卿輩。」遣忠去。乃呼部曲共議。或勸備攻琮,荊州可得。備曰:「劉荊州臨亡托我以孤遺,背信自濟,吾所不爲,死何面目以見劉荊州乎!」備將其眾去,過襄陽,駐馬呼琮;琮懼,不能起。琮左右及荊州人多歸備。備過辭表墓,涕泣而去。比到當陽,眾十餘萬人,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵。或謂備曰:「宜速行保江陵,今雖擁大衆,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之!」備曰:「夫濟大事必以人爲本,今人歸吾,吾何忍棄去!」
  習鑿齒論曰:劉玄德雖顛沛險難而信義愈明,勢逼事危而言不失道。追景升之顧,則情感三軍;戀赴義之士,則甘與同敗。終濟大業,不亦宜乎!

10.初め,劉表の二子に劉琦、劉琮がいた,劉表は劉琮に其の後妻である蔡氏之侄を娶るを為したため,蔡氏は遂に劉琮を愛で而して劉琦を悪んだ。劉表の妻の弟である蔡瑁、外甥である張允は並んで劉表に於いて幸ぜられるを得たため,日ごとに劉琦を相與毀しあって而して劉琮を誉めた。劉琦は自ずと寧んじなくなり,諸葛亮に自安之術を謀ろうとしたが,諸葛亮は對さなかった。後に乃ち共に高樓に升<のぼ>ると,因って梯をとり去るよう令すると,諸葛亮に謂いて曰く:「今日は上は天に至らず,下は地に至らず,言は子の口を出でて,而して吾が耳に入るのみ,可以言未?(未だ何も言ってくれないのかね?)」諸葛亮曰く:「君は申生が內に在って而して危くなり,重耳が外に居って而して安んじたのを見なかったのですか乎?」劉琦の意は感悟すると,陰ながら出計を規った。黄祖が死すに会うと,劉琦は其の任を代わらんと求め,劉表は乃ち劉琦を以ってして江夏太守と為した。劉表の病は甚だしく,劉琦は帰って疾を省みんとした。蔡瑁、張允は其の劉表に見えて而して父子が相感じあい,更めて托後之意を有すことになるのを恐れ,乃ち劉琦に謂いて曰く:「将軍は君に江夏を(慰)撫し臨むよう命じられたのです,其の任は至重です;今釋衆擅来すれば,必ずや譴怒に見えましょう。傷親之歎きは,其の疾を重ね増すもので,孝敬之道に非ざることです也。」遂に戶外に於いて遏すと,使わして見えること得させなかった。劉琦は流涕すると而して去った。劉表が卒すると,蔡瑁、張允等は遂に劉琮を以ってして嗣と為した。劉琮は侯の印を以ってして劉琦に授けた。劉琦は怒ると,之を地に投げうち,将に因って喪に奔り難を作そうとした。曹操の軍が至るに会い,劉琦は江南に奔ったのである。
 章陵太守の蒯越及び東曹掾の傅巽等は劉琮に曹操へ降るよう勧めて,曰く:「逆順には大體が有り,強弱には定勢が有ります。人臣を以ってして而して人主を拒むは,道に逆らうものです也;新造之楚を以ってして而して中國を御さんとするは,必ず危かるものです也;劉備を以ってして而して曹公に敵さんとするは,当らざるものです也。三者は皆短いのに,将に何をか以ってして敵に待さんとするのです?且つ将軍は自らを料りますに劉備とくらべて如何でしょうか?若し劉備が曹公を御すに足らざれば,則ち楚を全うすると雖も以って自存すること能わず也;若し曹公を御すに足るなら,則ち劉備は将軍の下と為らないでしょう也。」劉琮は之に従った。九月,曹操が新野に至ると,劉琮は遂に州を挙げて降り,節を以って曹操を迎えた。諸将は皆其の詐を疑ったが,婁圭は曰く:「天下が擾攘すると,各々が王命を貪って以って自らを重くしてきた,今節を以って来たるは,是ぞ必ず至誠であろう。」曹操は遂に兵を進めた。時に劉備は樊に駐屯していたが,劉琮は敢えて劉備に(降伏のことを)告げなかった。劉備は之を久しくしてから乃ち覚ると,親しい所を遣わして劉琮に問わせた,劉琮は其の官屬である宋忠に令して劉備に旨を宣うよう詣でさせた。時に曹操は已に宛に在ったため,劉備は乃ち大いに驚駭すると,宗忠に謂いて曰く:「卿ら諸人が事を作すこと此の如くなのか,相語ること早くせず,今や禍いが至ってから我に告げんことを方じようとは,亦た太劇ならずや乎!」刀を引き宗忠に向かって曰く:「今卿の頭を断とうとも,以って忿りを解くに足らず,亦た丈夫が別れに臨み卿のような輩を復殺するのも恥とするものだ。」宗忠を遣わして去らせた。乃ち部曲を呼ぶと共議した。或るひとは劉備に劉琮を攻めれば,荊州は得らる可きと勧めた。劉備は曰く:「劉荊州は亡ぶに臨み我に以って孤遺を託されたのだ,背信自済,吾の為さざる所,死して何の面目あって以って劉荊州に見えられよう乎!」劉備は其の衆を将いて去ることとし,襄陽を過ぎんとしたおり,馬を駐<と>めて劉琮を呼んだ;劉琮は懼れて,起つこと能わなかった。劉琮の左右及び荊州の人の多くが劉備に帰した。劉備は過ぎゆくと劉表の墓で辞し,涕泣して而して去った。比して当陽に到らんとするに,衆は十余万人,輜重は数千両,日に行くこと十余里となった,別に関羽を遣わして船数百艘に乗せ,使わして江陵で会すこととした。或るひとが劉備に謂いて曰く:「宜しく速やかに行きて江陵を保つべし,今大衆を擁すると雖も,甲を被る者は少なし,若し曹公の兵が至らば,何をか以って之を拒まんか!」劉備曰く:「夫れ大事を(決)済すには必ず人を以って本を為すものだ,今人が吾に帰したのに,吾は何ぞ忍んで棄て去ろうか!」
  習鑿歯は論じて曰く:劉玄徳は険難に顛沛すると雖も而して信義は愈<いよいよ>明らかになった,勢い逼まられ事危うくなったが而して言うことは道を失わなかった。(劉)景升之顧を追(憶)っては,則ち三軍を情感させた;赴義之士に恋し,則ち与するを甘んじ敗れるを同じくした。終に大業を(決)済したのも,亦た宜しからずや乎!

 11劉琮將王威説琮曰:「曹操聞將軍既降,劉備已走,必懈弛無備,輕先單進。若給威奇兵數千,徼之於險,操可獲也。獲操,即威震四海,非徒保守今日而已。」琮不納。操以江陵有軍實,恐劉備據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞備已過,操將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長板。備棄妻子,與諸葛亮、張飛、趙雲等數十騎走,操大獲其人衆輜重。
  徐庶母爲操所獲,庶辭備,指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣操。張飛將二十騎拒後,飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」操兵無敢近者。或謂備:「趙雲已北走。」備以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲身抱備子禪,與關羽船會,得濟沔,遇劉琦衆萬餘人,與俱到夏口。曹操進軍江陵,以劉琮爲靑州刺史,封列侯,並蒯越等,侯者凡十五人。釋韓嵩之囚,待以交友之禮,使條品州人優劣,皆擢而用之。以嵩爲大鴻臚,蒯越爲光祿勳,劉先爲尚書,鄧羲爲侍中。荊州大將南陽文聘別屯在外,琮之降也,呼聘,欲與俱。聘曰:「聘不能全州,當待罪而已!」操濟漢,聘乃詣操。操曰:「來何遲邪?」聘曰:「先日不能輔弼劉荊州以奉國家;荊州雖沒,常願據守漢川,保全土境。生不負於孤弱,死無愧於地下。而計不在己,以至於此,實懷悲慚,無顏早見耳!」遂歔欷流涕。操爲之愴然,字謂之曰:「仲業,卿眞忠臣也!」厚禮待之,使統本兵,爲江夏太守。
  初,袁紹在冀州,遣使迎汝南士大夫。西平和洽,以爲冀州土平民強,英桀所利,四戰之地,不如荊州土險民弱,易依倚也,遂從劉表。表以上客待之。洽曰:「所以不從本初,辟爭地也。昏世之主,不可黷近,久而不去,讒慝將興。」遂南之武陵。表辟南陽劉望之爲從事,而其友二人皆以讒毀爲表所誅,望之又以正諫不合,投傳告歸。望之弟廙謂望之曰:「趙殺鳴犢,仲尼回輪。今兄既不能法柳下惠和光同塵於内,則宜模範蠡遷化於外,坐而自絕於時,殆不可也。」望之不從,尋復見害,廙奔揚州。南陽韓暨避袁術之命,徙居山都山。劉表又辟之,遂遁居孱陵。表深恨之,暨懼,應命,除宜城長。河東裴潛亦爲表所禮重,潛私謂王暢之子粲及河內司馬芝曰:「劉牧非霸王之才,乃欲西伯自處,其敗無日矣!」遂南適長沙。於是操以暨爲丞相士曹屬,潛參丞相軍事,洽、廙、粲皆爲掾屬,芝爲管令,從人望也。

11.劉琮の将である王威は劉琮に説いて曰く:「曹操は将軍が既に降り,劉備が已に走ったと聞くと,必ずや懈弛して備えを無くし,軽先単進(軽率にも先んじようとし単身進んでくるでしょう)。若しこの王威に奇兵数千を給わられますなら,之を険(阻)に於いて徼<むかえ>うちましょう,曹操は獲らる可きかと也。曹操を獲たなら,即ち四海を威震できましょうから,徒らに今日を保ち守る而已<のみ>に非ざることになります。」劉琮は納れなかった。曹操は以って江陵には軍実が有るため,劉備が之に拠るのを恐れると,乃ち輜重を釋し,軍を軽くして襄陽に到った。劉備が已に過ぎさったと聞くと,曹操は精騎五千を将いて之を急追し,一日一夜行くこと三百余里,当陽之長板に於いて及ぶことになった。劉備は妻子を棄て,諸葛亮、張飛、趙雲等数十騎と走りさり,曹操は其の人衆と輜重を大いに獲たのである。
 徐庶の母が曹操の獲る所と為り,徐庶は劉備に辞し,其の心(臓)を指して曰く:「本より将軍と共に王霸之業を図らんと欲したのは<者>,此の方寸之地(即ち心臓)を以ってしてです也。今已に老母を失い,方寸は乱れおり矣,事に於いて無益です,此より<従>別れんことを請うものです。」遂に曹操に詣でた。張飛は二十騎を将いて後ろで拒まんとし,張飛は水に拠って橋を断つと,目を瞋して矛を横ざまにし曰く:「わが身は是れ張益徳なるぞ也,来たりて共に死を決す可し!」曹操の兵で敢えて近づく者は無かった。或るひとが劉備に謂った:「趙雲已に北に走る。」劉備は手戟を以って之に擿つと曰く:「子龍は我を棄てて走らず也。」頃之(このころ),趙雲は身づから劉備の子の禪を抱きかかえ,関羽の船と会い,沔(水)を済さんことを得た,劉琦の衆万余人と遇い,與俱到夏口。曹操は軍を江陵に進めると,劉琮を以って青州刺史と為し,列侯に封じた,並んで蒯越等,侯となった者は凡そ十五人。韓嵩之囚を釋<ゆる>し,待(遇)するに交友之禮を以ってし,使條品州人優劣,皆擢んで而して之を用いた。韓嵩を以ってして大鴻臚と為し,蒯越は光祿勳と為り,劉先が尚書と為り,鄧羲が侍中と為った。荊州の大将である南陽出身の文聘は外に在って別に駐屯していた,劉琮之降るや也,文聘を呼んで,欲與俱。文聘は曰く:「この聘は州を全うすること能わず,当に罪を待つ而已<のみ>!」曹操が漢を(救)済すると,文聘は乃ち曹操に詣でた。曹操曰く:「来たるに何ぞ遲かりしか邪?」文聘曰く:「先だっての日は劉荊州を輔弼し以って國家を奉ずること能わず;荊州が沒すると雖も,常に願うは漢川に拠り守り,土境を保ち全うすることでした。生きては孤弱に於いて負うことなく,死しては地下に於いて愧じること無からん。而して計は己に在らず,以って此に於けるに到った,実に悲慚を懐き,無顔早見耳(早々と(曹操に)見えようとする顔などどこにありましょうか)!」遂に歔欷流涕した。曹操は之の為に愴然となり,之に字謂して(感慨を込めてわざわざ字で謂いて)曰く:「仲業よ,卿は真の忠臣なり也!」厚く禮して之を待(遇)すると,使って本の兵を統めさせ,江夏太守と為したのである。
 初め,袁紹が冀州に在ると,使いを遣わして汝南の士大夫を迎えさせた。西平の和洽は,以為<おもへら>く冀州の土は平らかで民は強く,英桀が利さんとする所であるから,四戦之地である,荊州の土は険しく民弱きに如かず,依るに易く倚である也とすると,遂に劉表に従った。劉表は上客を以って之を待(遇)した。和洽曰く:「本初に従わざる所以は,争地を避ければなり也。昏世之主は,黷近す可からず,久しくして而して去らざれば,讒慝が将に興こらん。」遂に之を武陵に南した。劉表は南陽出身の劉望之を辟召して従事と為すと,而して其の友二人は皆讒毀を以ってして劉表に誅される所と為ったが,劉望之は又た正諫を以ってして合わなかったため,伝を投げて帰ることを告げた。劉望之弟の劉廙は望之に謂いて曰く:「趙が鳴犢を殺すと,仲尼は輪を回したとか。今兄は既にして不能法柳下惠和光同塵於内,則ち宜しく範蠡を模して外に於いて遷り化すべきです,坐して而して自ら時を<於>絶つなど,殆んど不可です也。」望之は従わず,尋だ復た害されるに見えたため,劉廙<い>は揚州に奔った。南陽出身の韓暨は袁術之命を避けて,山都山に徙り居した。劉表も又之を辟召したが,遂に孱陵に遁居した。劉表は之を深く恨んだため,韓暨は懼れて,命に応じ,宜城の(県)長を除(叙任)された。河東の裴潛も亦た劉表に禮重される所と為った,潛かに私ごとで王暢之子である王粲及び河内出身の司馬芝に謂いて曰く:「劉牧は霸王之才に非ず,乃ち西伯たりて自ら処さんと欲しているが,其の敗れる日をおかないだろう矣!」遂に南して長沙に適った。是に於いて曹操は韓暨を以ってして丞相士曹屬とし,丞相軍事に潛み参じさせた,和洽、劉廙、王粲は皆掾屬と為り,司馬芝は管の(県)令と為り,人望に従うことになった也。

 12冬,十月,癸未朔,日有食之。

12.冬,十月,癸未朔,日食が有った。

 13初,魯肅聞劉表卒,言於孫權曰:「荊州與國鄰接,江山險固,沃野萬里,士民殷富,若據而有之,此帝王之資也。今劉表新亡,二子不協,軍中諸將,各有彼此。劉備天下梟雄,與操有隙,寄寓於表,表惡其能而不能用也。若備與彼協心,上下齊同,則宜撫安,與結盟好;如有離違,宜別圖之,以濟大事。肅請得奉命吊表二子,並慰勞其軍中用事者,及説備使撫表衆,同心一意,共治曹操,備必喜而從命。如其克諧,天下可定也。今不速往,恐爲操所先。」權即遣肅行。到夏口,聞操已向荊州,晨夜兼道,比至南郡,而琮已降,備南走,肅徑迎之,與備會於當陽長板。肅宣權旨,論天下事勢,致殷勤之意,且問備曰:「豫州今欲何至?」備曰:「與蒼梧太守呉巨有舊,欲往投之。」肅曰:「孫討虜聰明仁惠,敬賢禮士,江表英豪,咸歸附之,已據有六郡,兵精糧多,足以立事。今爲君計,莫若遣腹心自結於東,以共濟世業。而欲投吳巨,巨是凡人,偏在遠郡,行將爲人所並,豈足托乎!」備甚悅。肅又謂諸葛亮曰:「我,子瑜友也。」即共定交。子瑜者,亮兄瑾也,避亂江東,爲孫權長史。備用肅計,進住鄂縣之樊口。
  曹操自江陵將順江東下。諸葛亮謂劉備曰:「事急矣,請奉命求救於孫將軍。」遂與魯肅俱詣孫權。亮見權於柴桑,說權曰:「海内大亂,將軍起兵江東,劉豫州收眾漢南,與曹操並爭天下。今操芟夷大難,略已平矣,遂破荊州,威震四海。英雄無用武之地,故豫州遁逃至此,願將軍量力而處之。若能以呉、越之衆與中國抗衡,不如早與之絶;若不能,何不按兵束甲,北面而事之!今將軍外托服從之名,而内懷猶豫之計,事急而不斷,禍至無日矣。」權曰:「苟如君言,劉豫州何不遂事之乎!」亮曰:「田橫,齊之壯士耳,猶守義不辱;況劉豫州王室之冑,英才蓋世,眾士慕仰,若水之歸海!若事之不濟,此乃天也,安能抗此難乎!」權勃然曰:「吾不能舉全吳之地,十萬之衆,受制於人。吾計決矣!非劉豫州莫可以當曹操者;然豫州新敗之後,安能抗此難乎!」亮曰:「豫州軍雖敗於長板,今戰士還者及關羽水軍精甲萬人,劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之眾,遠來疲敝,聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂『強弩之末勢不能穿魯縞』者也。故兵法忌之,曰『必蹶上將軍』。且北方之人,不習水戰;又,荊州之民附操者,逼近勢耳,非心服也。今將軍誠能命猛將統兵數萬,與豫州協規同力,破操軍必矣。操軍破,必北還;如此,則荊、吳之勢強,鼎足之形成矣。成敗之機,在於今日!」權大悅,與其羣下謀之。
  是時,曹操遺權書曰:「近者奉辭伐罪,旄麾南指,劉琮束手。今治水軍八十萬衆,方與將軍會獵於呉。」權以示羣下,莫不響震失色。長史張昭等曰:「曹公,豺虎也,挾天子以征四方,動以朝廷爲辭;今日拒之,事更不順。且將軍大勢可以拒操者,長江也。今操得荊州,奄有其地,劉表治水軍,蒙衝鬥艦乃以千數,操悉浮以沿江,兼有步兵,水陸倶下,此爲長江之險已與我共之矣,而勢力衆寡又不可論。愚謂大計不如迎之。」魯肅獨不言。權起更衣,肅追於宇下。權知其意,執肅手曰:「卿欲何言?」肅曰:「向察衆人之議,專欲誤將軍,不足與圖大事。今肅可迎操耳,如將軍不可也。何以言之?今肅迎操,操當以肅還付鄉黨,品其名位,猶不失下曹從事,乘犢車,從吏卒,交遊士林,累官故不失州郡也。將軍迎操,欲安所歸乎?願早定大計,莫用眾人之議也!」權歎息曰:「諸人持議,甚失孤望。今卿廓開大計,正與孤同。」
  時周瑜受使至番陽,肅勸權召瑜還。瑜至,謂權曰:「操雖托名漢相,其實漢賊也。將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業,當橫行天下,爲漢家除殘去穢;況操自送死,而可迎之邪?請爲將軍籌之:今北土未平、馬超、韓遂尚在關西,爲操後患;而操舎鞍馬,杖舟楫,與呉、越爭衡;今又盛寒,馬無蒿草,驅中國士衆遠渉江湖之間,不習水土,必生疾病。此數者用兵之患也,而操皆冒行之。將軍禽操,宜在今日。瑜請得精兵數萬人,進住夏口,保爲將軍破之!」權曰:「老賊欲廢漢自立久矣,徒忌二袁、呂布、劉表與孤耳;今數雄已滅,惟孤尚存。孤與老賊勢不兩立,君言當撃,甚與孤合,此天以君授孤也。」因拔刀斫前奏案曰:「諸將吏敢復有言當迎操者,與此案同!」乃罷會。
  是夜,瑜復見權曰:「諸人徒見操書言水步八十萬而各恐懾,不復料其虛實,便開此議,甚無謂也。今以實校之:彼所將中國人不過十五六萬,且已久疲;所得表衆亦極七八萬耳,尚懷狐疑。夫以疲病之卒御狐疑之衆,衆數雖多,甚未足畏。瑜得精兵五萬,自足制之,願將軍勿慮!」權撫其背曰:「公瑾,卿言至此,甚合孤心。子布、元表諸人,各顧妻子,挾持私慮,深失所望;獨卿與子敬與孤同耳,此天以卿二人讚孤也。五萬兵難卒合,已選三萬人,船糧戰具倶辦。卿與子敬、程公便在前發,孤當續發人衆,多載資糧,爲卿後援。卿能辦之者誠決,邂逅不如意,便還就孤,孤當與孟德決之。」遂以周瑜、程普爲左右督,將兵與備並力逆操;以魯肅爲贊軍校尉,助畫方略。
  劉備在樊口,日遣邏吏於水次候望權軍。吏望見瑜船,馳往白備,備遣人慰勞之。瑜曰:「有軍任,不可得委署;儻能屈威,誠副其所望。」備乃乘單舸往見瑜問曰:「今拒曹公,深爲得計。戰卒有幾?」瑜曰:「三萬人。」備曰:「恨少。」瑜曰:「此自足用,豫州但觀瑜破之。」備欲呼魯肅等共會語,瑜曰:「受命不得妄委署。若欲見子敬,可別過之。」備深愧喜。
  進,與操遇於赤壁。時操軍衆已有疾疫,初一交戰,操軍不利,引次江北。瑜等在南岸,瑜部將黄蓋曰:「今寇衆我寡,難與持久。操軍方連船艦,首尾相接,可燒而走也。」乃取蒙衝鬥艦十艘,載燥荻、枯柴、灌油其中,裹以帷幕,上建旌旗,預備走舸,繋於其尾。先以書遺操,詐雲欲降。時東南風急,蓋以十艦最著前,中江舉帆,餘船以次俱進。操軍吏士皆出營立觀,指言蓋降。去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,船往如箭,燒盡北船,延及岸上營落。頃之,煙炎張天,人馬燒溺死者甚眾。瑜等率輕銳繼其後,雷鼓大進,北軍大壞。操引軍從華容道步走,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。羸兵爲人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚眾。劉備、周瑜水陸並進,追操至南郡。時操軍兼以飢疫,死者太半。操乃留征南將軍曹仁、橫野將軍徐晃守江陵,折衝將軍樂進守襄陽,引軍北還。
  周瑜、程普將數萬衆,與曹仁隔江未戰。甘寧請先徑進取夷陵,往,即得其城,因入守之。益州將襲肅舉軍降,周瑜表以肅兵益橫野中郎將呂蒙。蒙盛稱:「肅有膽用,且慕化遠來,於義宜益,不宜奪也。」權善其言,還肅兵。曹仁遣兵圍甘寧,寧困急,求救於周瑜,諸將以爲兵少不足分,呂蒙謂周瑜、程普曰:「留凌公績於江陵,蒙與君行,解圍釋急,勢亦不久。蒙保公績能十日守也。」瑜從之,大破仁兵於夷陵,獲馬三百匹而還。於是將士形勢自倍。瑜乃渡江,頓北岸,與仁相距。十二月,孫權自將圍合肥,使張昭攻九江之當塗,不克。
  劉備表劉琦爲荊州刺史,引兵南徇四郡,武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙范、零陵太守劉度皆降。廬江營帥雷緒率部曲數萬口歸備。備以諸葛亮爲軍師中郎將,使督零陵、桂陽、長沙三郡,調其賦税以充軍實;以偏將軍趙去領桂陽太守。

13.初め,魯肅は劉表が卒したと聞くと,孫権に於いて言いて曰く:「荊州と(わが)國は鄰接しており,江山は険固であり,沃野万里,士民は殷富です,若し拠って而して之を有せば,此は帝王之資です也。今劉表が新たに亡くなり,二子は協けあっていません,軍中の諸将は,各有彼此。劉備は天下の梟雄でして,曹操とは有隙(仲が良くなく),劉表に於いて寄寓しております,劉表は其の能を悪み而して用いること能わず也。若し劉備と彼が心を協けあい,上下が齊しく同じくすれば,則ち宜しく撫安し,これと盟や好みを結ぶべきです;如有離違,宜しく別に之を図り,以って大事を(決)済すべきです。この魯肅は請得奉命吊表二子,並慰労其軍中用事者,及說備使撫表衆,心を同じくして意を一つにし,共に曹操を治めることにすれば,劉備は必ずや喜んで而して命に従うでしょう。其の克諧の如くなれば,天下は定める可きことになろうかと也。今速やかに往かざれば,恐らくは曹操が先んじる所に為るかと。」孫権は即ち魯肅を遣わして行かせた。夏口に到って,曹操が已に荊州へ向かったと聞き,晨夜兼道して,南郡に至らんと比したおり,而して劉琮は已に降り,劉備は南へ走ったため,魯肅は之を径<みち>して迎えることにし,劉備と当陽の長板に於いて会ったのである。魯肅は孫権の旨を宣べると,天下の事勢を論じ,殷勤之意を致さんとして,且つ劉備に問うて曰く:「豫州どのは今は何に至らんと欲するのか?」劉備曰く:「蒼梧太守の呉巨どのと<与>は旧なじみが有る,之に往き(身を)投じんと欲している。」魯肅曰く:「孫討虜(将軍)さまは聰明にして仁惠です,賢を敬い士を禮しており,江表の英豪は,之に鹹じて帰し附くことになりまして,已に六郡を拠有しています,兵は精(鋭)で糧(秣)は多く,以って事を立てるに足るものです。今君の為に計るならば,腹心を遣わして自ら東に於いて結ぶに若くは莫し,以って世業を共済しましょう。而して呉巨に(身を)投ぜんと欲するとは,呉巨は是ぞ凡人というもの,遠郡に偏在し,行将為人所並(その行いや将いることや人となりは(他人と)並ぶ所です),豈に託すに足りましょうぞ乎!」劉備は甚だ悦んだ。魯肅は又た諸葛亮に謂いて曰く:「我は,子瑜の友なり也。」即ち共に交わりを定めた。子瑜とは<者>,諸葛亮の兄である瑾のことである也,乱を江東に避けて,孫権の長史と為っていた。劉備は魯肅の計を用い,進んで鄂県之樊口に往いた。
 曹操は江陵より将に江東に順い下ろうとした。諸葛亮は劉備に謂いて曰く:「事は急です矣,請奉命を奉じて孫将軍に於いて救いを求めんことを請うものです。」遂に魯肅と倶に孫権に詣でた。諸葛亮は孫権と柴桑に於いて見えると,孫権に説いて曰く:「海内は大いに乱れまして,将軍は兵を江東に起こされ,劉豫州は衆を漢南に収め,曹操と並んで天下を争おうとしています。今曹操は芟夷大難,略已平矣,遂に荊州を破り,四海を威震させました。英雄は用武之地に無く,故に豫州さまは遁逃して此に至ったのです,願わくば将軍には力を量って而して之に処されんことを。若し呉、越之衆を以ってして中國と<与>抗衡せんとすること能うるならば,早く之と<与>絶つに如かず;若し能わずば,何ぞ兵を按じて甲を束ね,北面して而して之に事えないでいるのでしょうか!今将軍は外は服従之名に託しながら,而して内では猶豫之計を懐いておられますが,事が急なのに而して(決)断されないとは,禍は日も無くして至るでしょう矣。」孫権曰く:「苟くも君の言の如くなれば,劉豫州どのは何ぞ之に事を遂げんとするのか乎!」諸葛亮曰く:「田横は,齊之壮士というだけでした耳,しかし猶も義を守って辱しめられませんでした;況んや劉豫州は王室之冑でありまして,その英才は世を蓋い,衆士が慕い仰ぐさまは,水が海に帰すが若くです!事が済まざる若ければ,此は乃ち天(命)というもの也,安んぞ能く此の難に抗わんか乎!」孫権は勃然として曰く:「吾は全ての呉之地を挙げること能わず,十万之衆も,人に於いて制を受けるものだ。吾が計は決した矣!劉豫州どのに非ざれば以って曹操に当る可き者は莫い;然るに豫州どのは新たに敗れた<之>後である,安んぞ能く此の難に抗えようか乎!」諸葛亮曰く:「豫州の軍は長板に於いて敗れたと雖も,今戦士で還ってきた者及び関羽の水軍である精甲万人,劉琦が合した江夏の戦士も亦た万人を下らず。曹操之衆は,遠くより来たりて疲敝しております,聞けば豫州を追いかけて,軽騎が一日一夜行くこと三百余里であったとか,此は所謂<いわゆる>『強弩之末勢は魯縞を穿つこと能わず』というもの<者>也。故より《兵法》は之を忌むもの,曰く『必ずや上将軍を蹶されん』と。且つ北方之人は,水戦を習わず;又,荊州之民で曹操に附いた者は,近勢に逼られたのみ<耳>であって,心服しているに非ず也。今将軍が誠に猛将に兵数万を統<まと>めるよう命じ,豫州と協規して(規を協<たす>けあい)力を同じくすこと能わるなら,曹操の軍を破ること必ずならん矣。曹操の軍は破れれば,必ずや北へ還らん;此の如くなれば,則ち荊、呉之勢いは強まり,鼎足之形が成るでしょう矣。成敗之機は,今日に於けるに在るのです!」孫権は大いに悦び,其の群下と<与>之を謀ることにした。
 是時,曹操は孫権に書を遣わして曰く:「近くは<者>辞を奉じて罪を伐たんとし,旄麾が南して指すと,劉琮は手を束ねた。今や水軍八十万衆を治め,将軍と<与>呉に於いて会獵せんことを方じている。」孫権は以って群下に示すと,響き震え失色しないものは莫かった。長史の張昭等が曰く:「曹公は,豺虎です也,天子を挟んで以って四方を征し,動くにあたり朝廷を以ってして辞を為させています;今日之を拒めば,事は更めて順えないでしょう。且つ将軍が勢いを大にして以って曹操を拒んでこれた<可>のは<者>,長江ゆえです也。今や曹操は荊州を得て,其地を奄有しています,劉表は水軍を治め,蒙沖鬥艦は乃ち以って千を数えていました,曹操は悉く以って江に沿って浮かべます,歩兵を兼ね有していますから,水陸倶に下れば,此は為長江之険已與我共之矣,而勢力衆寡又不可論。愚かしくも謂いますが大いに計るに之を迎えるに如かず。」魯肅だけは独り言わなかった。孫権は起つと衣を更めんとし,魯肅は宇下に於いて追いかけた。孫権は其の意を知ると,魯肅の手を執って曰く:「卿は何をか言わんと欲するか?」魯肅曰く:「衆人之議を向察しますに,專ら欲するのは将軍を誤らせようとのこと,かれらと<与>大事を図るに足りません。今この魯肅については曹操を迎える可きのみ耳ですが,将軍に如いては不可です也。何をか以って之を言おうとするのか(といいますと)?今この魯肅が曹操を迎えるなら,曹操は当にこの魯肅を以ってして郷党に還付させ,其の名位を品さだめさせましょう,猶も下は曹従事を失わず,犢車に乗り,吏卒を従え,士林と交友し,官を累ねれば故より州郡を失わず也(州刺史、州牧や郡太守の官に至らないことはありません)。将軍が曹操を迎えれば,欲するとも安んぞ帰す所あらんや乎?願わくば早く大計を定められんことを,衆人之議を用いること莫かれ也!」孫権は歎息して曰く:「諸人が持議するに,孤が望みを甚だ失ったものだった。今卿は大計を廓開した,正に孤と<与>同じくせん。」
 時に周瑜は使いを受けて番陽(鄱陽)に至っていた,魯肅は孫権に周瑜を還すよう勧めた。周瑜は至ると,孫権に謂いて曰く:「曹操は名を漢相(漢の丞相)に託していると雖も,其の実は漢賊なり也。将軍は神武雄才を以ってして,父兄之烈<はげ>しさを兼仗し,江東に割拠して,地は方数千里,兵は精(鋭)で用いるに足りています,雄に英<すぐ>れて業を楽しみ,当に天下を横行し,漢家の為に殘を除き穢れを(取り)去るべきでしょう;況んや曹操自ら死を送らんとしているのに,而して之を迎える可きかとは(どういうことでしょうか)邪?請うらくは将軍が為に之を籌さん:今北土は未だ平らがず、馬超、韓遂は尚も関西に在りて,曹操の後患を為しています;而して曹操は鞍馬を捨てて,舟楫を杖にし,呉、越と<与>衡を争わんとしています;今又た寒さが盛んであり,馬には蒿草とて無く,中國の士衆を驅って遠く江湖之間を渉らせていますが,水土を習っていないのですから,必ずや疾病を生じましょう。此らの数えるところ<者>は用兵之患いとするもの也,而して曹操は皆之を冒し行っています。将軍が曹操を禽えるは,宜しく今日に在るべし。この周瑜は精兵数万人を得んことを請います,夏口に進み住み,(その地を)保って将軍の為に之を破ってみせましょう!」孫権曰く:「老賊が漢を廃して自た立たんと欲すること久しいものがある矣,徒忌(それを忌んでいたのは)二袁、呂布、劉表と孤<われ>のみだ耳;今数えし(英)雄は已にして滅び,惟だ孤が尚も存すのみ。孤と老賊とは勢いからして両立せず,君の言は当に撃つべしとのことだが,甚だ孤と<与>合うものだ,此は天が君を以ってして孤に授けてくれたのであろう也。」因って拔刀して前の奏案を斫<こわ>して曰く:「諸将吏で敢えて復た当に曹操を迎えるべし<者>と言うもの有らば,此の案と<与>同じくなろう!」乃ち会を罷めた。
 是夜,周瑜は復た孫権に見えて曰く:「諸人は徒らに曹操の書が水歩八十万と言うのを見て而して各々恐懾していますが,其の虚実を復して科ろうとしていません,此の議を便じ開きますに,甚だ謂われの無いものなのです也。今実を以ってして之を校じましょう:彼が将いし所の中國人は十五六万を過ぎず,且つ已に久しく疲れております;得し所となった劉表の衆も亦た七八万を極むのみ耳であって,尚も狐疑を懐いております。夫れ疲病之卒を以ってして狐疑之衆を御さしめるなど,衆の数は多いと雖も,甚だ未だ畏れるに足りません。この周瑜が精兵五万を得たなら,自ら之を制するに足りるのです,願わくば将軍は慮ること勿れ!」孫権は其の背を撫でて曰く:「公瑾,卿の言が此に至るは,甚だ孤心に合うものだ。子布、元表らの諸人は,各々が妻子を顧みて,私慮を挟み持ってしまっており,深失所望(失望を深くしていた所だ);独り卿と子敬と孤が同じくしているのみだ耳,此は天が卿ら二人を以ってして孤を讚じさせてくれようとしているのだろう也。五万の兵は(倉)卒には合わせ難いが,已に三万人を選んでいる,船や糧や戦具も倶に辦わえられている。卿と子敬、程公は便じて在前に發し(出発し)てくれ,孤は当に續いて人衆を(徴)発し,資糧を多載し,卿の後援と為ろう。卿能辦之者誠決,邂逅不如意,便還就孤,孤は当に孟徳と<与>之を決さん。」遂に周瑜、程普を以って左右の督と為し,兵を将いて劉備と<与>力を並べて曹操に逆らった;魯肅を以って贊軍校尉と為すと,方略を助畫させた。
 劉備は樊口に在って,日ごと邏吏を遣わし水次に於いて孫権の軍を候望していた。吏は周瑜の船を望見したため,馳せ往きて劉備に白し,劉備は人を遣わして之を慰労させようとした。周瑜は曰く:「軍の任に有ります,不可得委署(部署を委ねること得られません);儻<すぐ>れて能く威を屈されるなら,誠に其の所望に副えるようにしましょう。」劉備は乃ち単舸に乗って往きて周瑜に見えて問うて曰く:「今曹公を拒もうとするにあたり,深く為すは計を得ることでしょう(計を得んことを深く為しましょう)。戦卒は幾ら有るでしょう?」周瑜曰く:「三万人です。」劉備曰く:「恨むらくは少ないかな。」周瑜曰く:「此で自ずと用いるに足ります,豫州どのは但だこの瑜が之を破るのを観られればよい。」劉備は魯肅等を呼び共に会語しようと欲したが,周瑜曰く:「命を受けては妄りに(部)署を委ねることを得ないもの。若し子敬に見えんと欲するなら,可別過之(私とは別れてここで日を過ごすといいでしょう)。」劉備は深く愧<は>じながらも喜んだ。
 (周瑜は)進んで,曹操と<与>赤壁に於いて遇った。時に曹操の軍衆は已に疾疫を有していた,初め一たび交戦すると,曹操の軍には利なく,引いて江北に次いだ。周瑜等は南岸に在ったことから,周瑜の部将の黄蓋は曰く:「今寇は衆く我は寡なし,これと<与>持久し難い。曹操軍は方じて船艦を連ね,首尾相接している,燒く可ければ而して走らん也。」乃ち蒙沖や鬥艦十艘を取りて,燥荻、枯柴、灌油を其の中に載せ,帷幕を以って裏とし,上は旌旗を建て,備えに走舸を預けて,其の尾に<於>繋いだ。それから先んじて書を以ってして曹操に遣わし,詐雲して降らんことを欲しているとした。時に東南の風が急にあった,黄蓋は十艦を以ってして最著前(その最先頭の艦に姿を著わし),江を中ばにして帆を挙げて,余船は以って次いで倶に進んだ。曹操の軍吏士は皆営を出て立って觀ると,指さして黄蓋が降ったと言った。北へ軍を去ること二里余,時を同じくして火を発した,火は烈しく風も猛しく,船は往くこと箭の如くして,北の船を焼き尽くし,延(焼)して岸に及び営を上って落とした。頃之(このころ),煙炎は天を張りめぐらし,人馬で燒け溺れ死んだ者は甚だ衆<おお>かった。周瑜等は軽鋭を率いて其後ろを継ぎ,雷鼓し大いに進んだため,北軍は大壞した。曹操は軍を引きつれて華容道より<従>歩きで走りのがれようとしたが,泥濘に遇って,道は通じず,天も又た大いに風をおこしていた,そこで羸兵を悉く使わして草を負わせて之を填めさせ,騎は乃ち過ぐるを得た。羸兵は人馬に蹈藉される所と為って,泥の中に陷ち,死者は甚だ衆<おお>かった。劉備、周瑜は水陸並進し,曹操を追って南郡に至った。時に曹操の軍は以って饑疫を兼ねており,死者が太半となった。曹操は乃ち征南将軍の曹仁、横野将軍の徐晃を留めて江陵を守らせ,折衝将軍の樂進に襄陽を守らせて,軍を引きつれて北へ還った。
 周瑜、程普は数万の衆を将い,曹仁と江を隔てて未だ戦わなかった。甘寧は先んじて徑進して夷陵を取るよう請い,往くと,即ち其の城を得たため,因って入りて之を守った。益州の将である襲肅が軍を挙げて降ったため,周瑜は表して襲肅の兵を以って横野中郎将の呂蒙に益しあたえんとした。呂蒙は盛稱し:「肅は膽用を有し,且つ(王)化を慕って遠くより来たったのです,義に於いて宜しく益すべきです,宜しく奪うべきではありません也。」孫権は其の言を善しとすると,襲肅の兵を還した。曹仁は兵を遣わして甘寧を囲ませたため,甘寧は困急し,周瑜に於いて救いを求めた,諸将は以為<おもへら>く兵が少ないため分けるに不足しているとしたところ,呂蒙は周瑜、程普に謂いて曰く:「凌公績を江陵に於いて留めん,この呂蒙と君が行き,解囲釋急,勢亦不久。この蒙は公績が能く十日を守ることを保(証)しましょう也。」周瑜は之に従い,曹仁の兵を夷陵に於いて大いに破ると,馬三百匹を獲て而して還った。是に於いて将士の形勢は自ら倍となった。周瑜は乃ち渡江し,北岸に頓すると,曹仁と相距みあうこととなった。十二月,孫権は自ら将いて合肥を囲み,張昭を使て九江之当塗を攻めさせたが,克てなかった。
 劉備は劉琦を表して荊州刺史と為すと,兵を引きつれて南して四郡を徇ったところ,武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙范、零陵太守の劉度は皆降った。廬江の営帥の雷緒が部曲数万口を率いて劉備に帰した。劉備は諸葛亮を以って軍師中郎将と為し,零陵、桂陽、長沙三郡を督さ使むと,其の賦税を調えさせて以って軍実を充たさせた;偏将軍の趙去を以って領桂陽太守とした。

 14益州牧劉璋聞曹操克荊州,遣別駕張松致敬於操。松爲人短小放蕩,然識達精果。操時已定荊州,走劉備,不復存錄松。主簿楊修白操辟松,操不納;松以此怨,歸,勸劉璋絕操,與劉備相結,璋從之。
  習鑿齒論曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分。皆勤之於數十年之内,而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎!

14.益州牧の劉璋は曹操が荊州に克ったと聞くと,別駕の張松を遣わして曹操に於いて敬いを致させた。張松の為人は短小放蕩であったが,然るに精果に識達していた。曹操は時に已に荊州を定めたところで,劉備を走らせていたため,不復存録松(張松に録を存すこと復さなかった)。主簿の楊修は曹操に張松を辟(召)するよう白したが,曹操は納れなかった;張松は此を以ってして怨むこととなり,帰ると,劉璋に曹操と(関係を)絶って,劉備と相結ぶよう勧め,劉璋は之に従うことになった。
  習鑿歯は論じて曰く:昔斉の桓(公)は一たび其の功を矜<ほこ>ると而して叛きし者は九國ともなった,曹操は暫くして自ら驕り伐したところ而して天下は三分した。皆之を勤めること十年を数える<之>内に於けるものであったのに,而して之を棄てること俯仰之頃(つまり僅かな間の内)に於けるものであった,豈に惜しまずにいられようか乎!

 15曹操追念田疇功,恨前聽其讓,曰:「是成一人之志而虧王法大制也。」乃復以前爵封疇。疇上疏陳誠,以死自誓。操不聽,欲引拜之,至於數四,終不受。有司劾疇:「狷介違道,苟立小節,宜免官加刑。」操下世子及大臣博議。世子丕以「疇同於子文辭祿,由胥逃賞,宜勿奪以優其節。」尚書令荀彧、司隸校尉鐘繇,亦以爲可聽。操猶欲侯之,疇素與夏侯惇善,操使惇自以其情喻之。惇就疇宿而勸之,疇揣知其指,不復發言。惇臨去,固邀疇,疇曰:「疇,負義逃竄之人耳;蒙恩全活,爲幸多矣,豈可賣盧龍之塞以易賞祿哉!縱國私疇,疇獨不愧於心乎!將軍雅知疇者,猶復如此,若必不得已,請願效死,刎首於前。」言未卒,涕泣橫流。惇具以答操,操喟然,知不可屈,乃拜爲議郎。

15.曹操は田疇の功を追念すると,前に其の譲を聴きいれてしまったことを恨み,曰く:「是は一人之志を成したものであるが而して王法大制を虧してしまうことになった也。」乃ち復して前爵を以ってして田疇を封じた。田疇は上疏して誠を陳べ,死を以ってして自ら誓いとした。曹操は聴きれず,之を引きたて拜そうと欲し,(その招きは)四たびを数えるに於けるに至ったが,終に受けなかった。有司は田疇を(弾)劾した:「狷介にして道を違え,苟くも小節を立てんとす,宜しく免官して刑を加えるべし。」曹操は世子及び大臣に下して博く議させた。世子の曹丕は以って「疇同於子文辞祿,胥に由って賞を逃れんとしているものですが,宜しく其の節に優ることを以ってして奪うこと勿れ。」尚書令の荀彧、司隸校尉の鐘繇,も亦た以って為すに聴きいれる可きであるとした。曹操は猶も之を侯にせんと欲していた,田疇は素より夏侯惇と<与>善くしていた,そこで曹操は夏侯惇を使て自らさせんとして其の情を以って之を喩えさせた。夏侯惇は田疇の宿に就くと而して之を勧めたところ,田疇は其の指を揣知して,不復發言(再び発言しようとしなかった)。夏侯惇は去るに臨み,固く田疇を邀<むかえ>ようとしたが,田疇曰く:「この疇は,負義逃竄之人であるのみです耳;恩を蒙り活を全うし,幸を為すこと多からんとも矣,豈に盧龍之塞を売り以って賞祿に易<か>える可けんか哉(易えることが出来ようか)!縱國私疇(国を私疇に縦にする/国を縦にしてこの疇に私するなど),(豈に)この疇独り心に於いて愧じないものだろうか乎!将軍はわたくし疇を雅知する者でありますのに,猶も復すこと((猶も爵録を受けるよう)繰り返すこと)此の如し,必ずして已むを得ざるが若くなれば,請願するは效死せんこと,前に於いて首を刎ねられん。」言うや未だ卒せずして,涕泣して横に流れた。夏侯惇は具さにして以って曹操に答えると,曹操は喟然として,知不可屈(屈服出来ないことを知り),乃ち拜して議郎と為した。

 16操幼子倉舒卒,操傷惜之甚。司空掾邴原女早亡,操欲求與倉舒合葬,原辭曰:「嫁殤,非禮也。原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也。若聽明公之命,則是凡庸也,明公焉以爲哉!」操乃止。

16.曹操の幼い子である倉舒が卒した,曹操は之を傷み惜しむこと甚しかった。司空掾である邴原の女<むすめ>も早く亡くなっていたことから,曹操は倉舒と<与>合葬せんことを求めようと欲したが,邴原は辞して曰く:「嫁殤は,禮に非ざることです也。わたくし原が<之>明公に於いて容れられし所以<自>,公が<之>わたくし原を待(遇)する所以とは<者>,以って能く訓典を守り而して易えないからです也。若し明公之命を聴きいれましたなら,則ち是ぞ凡庸というものです也,明公は焉<なん>ぞ以って為させんというのでしょうか哉!」曹操は乃ち止めた。

 17孫權使威武中郎將賀齊討丹楊黟、歙賊。黟帥陳僕、祖山等二萬戸屯林歴山,四面壁立,不可得攻,軍住經月。齊陰募輕捷士,於隱險處,夜以鐵戈拓山潛上,縣布以援下人。得上者百餘人,令分佈四面,鳴鼓角。賊大驚,守路者皆逆走,還依衆。大軍因是得上,大破之。權乃分其地爲新都郡,以齊爲太守。

17.孫権は威武中郎将の賀斉を使わして丹楊(郡の)黟、歙の賊を討たせた。黟帥の陳僕、祖山等二万戸が林歴山に(駐)屯しており,そこは四面が壁立し,攻め得る可からざるものであったため,軍が住んで月を經た。賀齊は陰ながら軽捷の士を募ると,隱険に於いて処し,夜には鐵戈を以ってして山を拓いて潛み上り,布を県けて以って下の人を(上ってくるのを)援<たす>けさせた。上ること得た者百余人,四面に分佈するよう令し,鼓角が鳴らされた。賊は大いに驚くと,路を守っていた者は皆逆走し,還って衆に依った。大軍は是に因って上ることを得て,之を大いに破ったのである。孫権は乃ち其の地を分かち新都郡を為すと,賀齊を以って太守と為した。

 

翻訳者:ニセクロ

 

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最終更新:2022年12月26日 14:25
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