巻第六十七

資治通鑑巻第六十七
 漢紀五十九
  孝獻皇帝壬
建安十九年(甲午、二一四)

 春,馬超從張魯求兵,北取涼州,魯遣超還圍祁山。姜敘等告急於夏侯淵,諸將議欲須魏公操節度。淵曰:「公在鄴,反覆四千里,比報,敘等必敗,非救急也。」遂行,使張郃督步騎五千爲前軍。超敗走。韓遂在顯親,淵欲襲取之,遂走。淵追至略陽城,去遂三十餘里,諸將欲攻之,或言當攻興國氐。淵以爲:「遂兵精,興國城固,攻不可卒拔,不如襲長離諸羌。長離諸羌多在遂軍,必歸救其家。若舎羌獨守則孤,救長離則官兵得與野戰,必可虜也。」淵乃留督將守輜重,自將輕兵到長離,攻燒羌屯,遂果救長離。諸將見遂兵眾,欲結營作塹乃與戰。淵曰:「我轉斗千里,今復作營塹,則士眾罷敝,不可復用。賊雖眾,易與耳。」乃鼓之,大破遂軍。進圍興國。氐王千萬奔馬超,餘眾悉降。轉撃高平、屠各,皆破之。
1.春,馬超は張魯に従って兵を求めると,北して涼州を取った,張魯は馬超を遣わして還らせ祁山を囲ませた。姜敘等は夏侯淵に於いて急を告げた,諸将は議して魏公である操の節度を須らくするよう欲した。夏侯淵曰く:「公は鄴に在って,反覆すること四千里である,比報(返報がくるまでには),姜敘等は必ずや敗れていよう,それでは急を救うに非ざることになる也。」として遂に行くと,張郃を使わして歩騎五千を督させて前軍と為した。馬超は敗走した。韓遂は顯親に在ったが,夏侯淵は之を襲い取ろうと欲したため,韓遂は(逃)走した。夏侯淵は追って略陽城に至った,韓遂は去ること三十余里であった,諸将は之を攻めようと欲し,或るひとが言うに当に興國の氐を攻めるべきだとした。夏侯淵は以為(おもへら)く:「韓遂の兵は精(鋭)であり,興國の城は固い,攻めても(倉)卒に拔く可からざることだろう,長離の諸羌を襲うに如かず。長離の諸羌の多くが韓遂の軍に在るから,必ずや帰って其の家を救おうとするだろう。若し羌を捨てて独り守らんとすれば則ち孤<すくな>く,長離を救わんとすれば則ち官兵はこれと<与>野戦するを得ようから,必ず虜とす可からん也。」夏侯淵は乃ち督将を留めて輜重を守らせると,自ら輕兵を将いて長離に到り,羌の屯(営)を焼き攻めた,韓遂は果たして長離を救いにきた。諸将は韓遂の兵が衆<おお>いのを見ると,營を結び塹(壕)を作ってから乃ちこれと<与>戦おうと欲した。夏侯淵曰く:「我らは転じて千里を斗ってきた,今復た營塹を作ったなら,則ち士衆は罷敝してしまい,復た用いる可からざることになろう。賊は衆いと雖も,与すに易し耳。」乃ち之に鼓し,大いに韓遂の軍を破った。それから進んで興國を囲んだ。氐王の千万が馬超のところに奔り,余りの衆は悉く降った。転じて高平、屠各を撃って,皆之を破った。
 三月,詔魏公操位在諸侯王上,改授金璽、赤紱、遠遊冠。
2.三月,詔あって魏公操の位が諸侯王の上に在ることとなり,改めて金璽、赤紱、遠遊冠を授けた。
 夏,四月,旱。五月,雨水。
3.夏,四月,旱があった。五月,雨水があった。
 初,魏公操遣廬江太守朱光屯皖,大開稻田。呂蒙言於孫權曰:「皖田肥美,若一收孰,彼衆必增,宜早除之。」閏月,權親攻皖城。諸將欲作土山,添攻具,呂蒙曰:「治攻具及土山,必歴日乃成;城備既修,外救必至,不可圖也。且吾乘雨水以入,若留經日,水必向盡,還道艱難,蒙竊危之。今觀此城,不能甚固,以三軍鋭氣,四面並攻,不移時可拔;及水以歸,全勝之道也。」權從之。蒙薦甘寧爲升城督,寧手持練,身緣城,爲士卒先;蒙以精鋭繼之,手執枹鼓,士卒皆騰踴。侵晨進攻,食時破之,獲朱光及男女數萬口。既而張遼至夾石,聞城已拔,乃退。權拜呂蒙爲廬江太守,還屯尋陽。
4.初め,魏公操は廬江太守の朱光を遣わして皖に駐屯させ,大いに稻田を開かせた。呂蒙は孫権に於いて言いて曰く:「皖の田は肥えて美しい,若し一たび收孰すれば,彼らの衆は必ずや增しましょう,宜しく早く之を除くべきです。」閏月,孫権は皖城に親攻した。諸将は土山を作ろうと欲し,攻具を添えようとしたため,呂蒙は曰く:「攻具及び土山を治めんとすれば,必ずや日を歴してから乃ち成ることとなろう;そうなれば城の備えは既にして修まっており,外からの救いが必ずや至ろう,図る可からず也。且つ吾らは雨水に乗じて以って(侵)入したのだから,若し留まって日を經てしまえば,水は必ずや尽きるに向かおうし,道を還ろうとしても艱難(を被ることに)なろう,この蒙が竊うに之を危むものです。今此城を観ると,甚だ固くするに能わず,三軍の鋭気を以ってして,四面から並び攻めれば,時を移さずして拔く可けん;そうして水に及んで以って帰す,これが全勝之道であろう也。」孫権は之に従った。呂蒙は甘寧を薦めて升城督と為すと,甘寧は手づから練(った布)を持ち,身づから城に縁って,士卒の先がけと為った;呂蒙は精鋭を以ってして之に継がせ,手づから枹鼓を執ったため,士卒は皆が騰踴した。晨を侵して進攻し,食時に之を破ると,朱光及び男女数万口を獲た。既にして而して張遼が夾石に至ったが,城が已に拔かれたと聞き,乃ち退いた。孫権は呂蒙を拝して廬江太守と為すと,還って尋陽に駐屯した。
 諸葛亮留關羽守荊州,與張飛、趙雲將兵溯流克巴東。至江州,破巴郡太守嚴顏,生獲之。飛呵顏曰:「大軍既至,何以不降,而敢拒戰!」顏曰:「卿等無状,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無降將軍也!」飛怒,令左右牽去斫頭。顏容止不變,曰:「斫頭便斫頭,何爲怒邪!」飛壯而釋之,引爲賓客。分遣趙雲從外水定江陽、犍爲,飛定巴西、德陽。
  劉備圍雒城且一年,龐統爲流矢所中,卒。法正箋與劉璋,爲陳形勢強弱,且曰:「左將軍從舉兵以來,舊心依依,實無薄意。愚以爲可圖變化,以保尊門。」璋不答。雒城潰,備進圍成都。諸葛亮、張飛、趙雲引兵來會。馬超知張魯不足與計事,又魯將楊昂等數害其能,超內懷於邑。備使建寧督郵李恢往說之,超遂從武都逃入氐中,密書請降於備。使人止超,而潛以兵資之。超到,令引軍屯城北,城中震怖。備圍城數十日,使從事中郎涿郡簡雍入説劉璋。時城中尚有精兵三萬人,谷帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城,與簡雍同輿出降,羣下莫不流涕。備遷璋於公安,盡歸其財物,佩振威將軍印綬。
  備入成都,置酒,大饗士卒。取蜀城中金銀,分賜將士,還其谷帛。備領益州牧,以軍師中郎將諸葛亮爲軍師將軍,益州太守南郡董和爲掌軍中郎將,並置左將軍府事,偏將軍馬超爲平西將軍,軍議校尉法正爲蜀郡太守、揚武將軍,裨將軍南陽黃忠爲討虜將軍,從事中郎麋竺爲安漢將軍,簡雍爲昭德將軍,北海孫乾爲秉忠將軍,廣漢長黃權爲偏將軍,汝南許靖爲左將軍長史,龐羲爲司馬,李嚴爲犍爲太守,費觀爲巴郡太守,山陽伊籍爲從事中郎,零陵劉巴爲西曹掾,廣漢彭羕爲益州治中從事。
  初,董和在郡,清儉公直,爲民夷所愛信,蜀中推爲循吏,故備舉而用之。備之自新野奔江南也,荊楚羣士從之如雲,而劉巴獨北詣魏公操。操闢爲掾,遣招納長沙、零陵,桂陽。會備略有三郡,巴事不成,欲由交州道還京師。時諸葛亮在臨蒸,以書招之,巴不從,備深以爲恨。巴遂自交趾入蜀依劉璋。及璋迎備,巴諫曰:「備,雄人也,入必爲害。」既入,巴復諫曰:「若使備討張魯,是放虎於山林也。」璋不聽,巴閉門稱疾。備攻成都,令軍中曰:「有害巴者,誅及三族。」及得巴,甚喜。是時益州郡縣皆望風景附,獨黃權閉城堅守,須璋稽服,乃降。於是董和、黃權、李嚴等,本璋之所授用也;呉懿、費觀等,璋之婚親也;彭羕,璋之所擯棄也;劉巴,宿昔之所忌恨也;備皆處之顯任,盡其器能,有志之士,無不競勸,益州之民,是以大和。初,劉璋以許靖爲蜀郡太守。成都將潰,靖謀踰城降備,備以此薄靖,不用也。法正曰:「天下有獲虛譽而無其實者,許靖是也。然今主公始創大業,天下之人,不可戸説,宜加敬重,以慰遠近之望。」備乃禮而用之。
  成都之圍也,備與士衆約:「若事定,府庫百物,孤無預焉。」及拔成都,士衆皆舎干戈赴諸藏,競取寶物。軍用不足,備甚憂之,劉巴曰:「此易耳。但當鑄直百錢,平諸物價,令吏爲官市。」備從之。數月之間,府庫充實。時議者欲以成都名田宅分賜諸將。趙雲曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家爲。今國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,令安居復業,然後可役調,得其歡心,不宜奪之以私所愛也。」備從之。
  備之襲劉璋也,留中郎將南郡霍峻守葭萌城。張魯遣楊昂誘峻求共守城。峻曰:「小人頭可得,城不可得!」昂乃退。後璋將扶禁、向存等帥萬餘人由閬水上,攻圍峻,且一年。峻城中兵才數百人,伺其怠隙,選精鋭出撃,大破之,斬存。備既定蜀,乃分廣漢爲梓潼郡,以峻爲梓潼太守。
  法正外統都畿,内爲謀主,一飧之德、睚眥之怨,無不報復,擅殺毀傷己者數人。或謂諸葛亮曰:「法正太縱橫,將軍宜啟主公,抑其威福。」亮曰:「主公之在公安也,北畏曹操之強,東憚孫權之逼,近則懼孫夫人生變於肘腋。法孝直爲之輔翼,令翻然翱翔,不可複製。如何禁止孝直,使不得少行其意邪!」諸葛亮佐備治蜀,頗尚嚴峻,人多怨歎者。法正謂亮曰:「昔高祖入關,約法三章,秦民知德。今君假借威力,跨據一州,初有其國,未垂惠撫;且客主之義,宜相降下,願緩刑弛禁以慰其望。」亮曰:「君知其一,未知其二。秦以無道,政苛民怨,匹夫大呼,天下土崩;高祖因之,可以弘濟。劉璋闇弱,自焉已來,有累世之累,文法羈縻,互相承奉,德政不舉,威刑不肅。蜀土人土,專權自恣,君臣之道,漸以陵替。寵之以位,位極則賤;順之以恩,恩竭則慢。所以致敝,實由於此。吾今威之以法,法行則知恩;限之以爵,爵加則知榮。榮恩並濟,上下有節,爲治之要,於斯而著矣。」劉備以零陵蔣琬爲廣都長。備嘗因遊觀,奄至廣都,見琬眾事不治,時又沈醉。備大怒,將加罪戮。諸葛亮請曰:「蔣琬社稷之器,非百里之才也。其爲政以安民爲本,不以修飾爲先,願主公重加察之。」備雅敬亮,乃不加罪,倉卒但免官而已。
5.諸葛亮は関羽を留めて荊州を守らせると,張飛、趙雲と<与>兵を将いて流れを溯り巴東へ克った。江州に至ると,巴郡太守の嚴顔を破って,之を生け獲りにした。張飛は厳顔を呵って曰く:「大軍が既にして至ったのに,何ぞ以って降らず,而して敢えて拒み戦ったのか!」厳顔曰く:「卿等は状など無く,我が州を侵し奪ったのだ,我が州には但だ斷頭将軍が有るのみで,降る将軍など無いわ也!」張飛は怒ると,左右に令して牽去って斫頭しようとした。厳顔の容(色)は止まったまま変わらず,曰く:「頭を斫<き>るならきるで便じて頭を斫<き>ればよいものを,何ぞ為して怒るのか邪!」張飛は壯として而して之を釋すと,引きたてて賓客と為した。趙雲を分遣して外水より<従>江陽、犍為を定めさせ,張飛は巴西、德陽を定めた。
 劉備は雒城を囲んで且つ一年ともなった,龐統が流矢の中る所と為って,卒した。法正は箋<てがみ>して劉璋に与えると,為して形勢の強弱を陳べて,且つ曰く:「左将軍は挙兵してより<従>以來,旧心は依依として,実に意を薄くすることなど無いのです。愚かしくも以って為すに変化を図る可きです,以って尊門を保ちましょう。」劉璋は答えなかった。雒城が潰えると,劉備は進んで成都を囲んだ。諸葛亮、張飛、趙雲が兵を引きつれて來たりて会した。馬超は張魯が与して事を計るに足りないと知り,又た張魯の将である楊昂等が何度も其の能を害うことあったため,馬超は内で邑に於けるを懐くようになった。劉備は建寧の督郵であった李恢を使わして之に往き説かせ,馬超は遂に武都より<従>氐中に逃れて入ると,密書で劉備に於いて降ることを請うてきた。人を使わして馬超を止めると,而して潛かに兵を以って之に資させた。馬超が到ると,軍を引きつれて城北に駐屯するよう令したところ,城中は震え怖いた。劉備が城を囲むこと十日を数えると,従事中郎である涿郡出身の簡雍を使て入らせ劉璋を説かせた。時に城中には尚も精兵三万人が有り,谷(穀物)帛は一年を支えるものであって,吏民は鹹じて戦に死なんと欲した。劉璋は言った:「父子が州に在ること二十余年,恩德など無く以って百姓に加えられた。百姓は攻戦すること三年ともなり,肌は膏にまみれ野(田野)に草むしたのは<者>,以ってこの璋に故があるのだから也,何ぞわが心は能く安んじえようか!」遂に開城すると,簡雍と<与>輿を同じくして出て降り,群下で流涕しないものは莫かった。劉備は劉璋を公安に於けるに遷すと,尽く其の財物を帰してやり,振威将軍の印綬を佩びさせた。
 劉備は成都に入ると,酒を置いて,士卒を大いに饗した。蜀城中の金銀を取って,将士に分賜し,其の谷帛を還させた。劉備は益州牧を領すると,軍師中郎将の諸葛亮を以って軍師将軍と為し,益州太守で南郡出身の董和を掌軍中郎将と為し,並んで左将軍府事に置いた,偏将軍の馬超を平西将軍と為し,軍議校尉の法正を蜀郡太守、揚武将軍と為し,裨将軍である南陽出身の黄忠を討虜将軍と為し,従事中郎である麋竺を安漢将軍と為し,簡雍を昭德将軍と為し,北海出身の孫乾を秉忠将軍と為し,廣漢(県の)長であった黄権を偏将軍と為し,汝南出身の許靖を左将軍長史と為し,龐羲を司馬と為し,李嚴を犍為太守と為し,費観を巴郡太守と為し,山陽出身の伊籍を従事中郎と為し,零陵出身の劉巴を西曹掾と為し,廣漢出身の彭羕を益州治中従事と為した。
 初め,董和が郡に在ったおり,清儉公直であり,民も夷も愛信する所と為ったため,蜀中が推して循吏と為した,故に劉備は挙げて而して之を用いたのである。劉備が<之>新野より<自>江南に奔るや也,荊楚の群士は之に従うこと雲の如くした,而して劉巴は独り北へむかい魏公操を詣でた。曹操は闢して掾と為すと,遣わして長沙、零陵、桂陽を招き納れさせようとした。劉備が三郡を略有するに会ったため,劉巴の事は成らず,交州の道に由って京師に還ろうと欲した。時に諸葛亮が臨蒸に在った,書を以って之を招こうとしたが,劉巴は従わず,劉備は以って恨みと為すこと深かった。劉巴は遂に交趾より<自>蜀に入って劉璋に依った。劉璋が劉備を迎えるに及び,劉巴は諫めて曰く:「劉備は,人に雄たるため也,入れれば必ずや害と為りましょう。」入ること既にして,劉巴は復た諫めて曰く:「若し劉備を使て張魯を討たしまば,是ぞ虎を山林に於いて放つことになりましょう也。」劉璋は聽きいれなかったため,劉巴は門を閉ざして疾<やまい>と称した。劉備が成都を攻めると,軍中に令して曰く:「劉巴を害する者有らば,誅は三族に及ぶものとす。」劉巴を得るに及び,甚だ喜んだ。是の時益州の郡縣は皆が風を望んで景附したが,独り黄権だけは城を閉ざして堅く守り,須く劉璋が稽服してから,乃ち降った。是に於いて董和、黄権、李嚴等は,本もとは劉璋之用を授けし所であった也;呉懿、費観等は,劉璋之婚親であった也;彭羕は,劉璋之擯棄せし所のものであった也;劉巴は,宿昔之忌恨とする所であった也;しかし劉備は(彼らを)皆之を顯任に処させ,其の器能を尽くさせたため,志を有する之士は,競い勧めないものは無く,益州之民は,以って大いに和すを是としたのである。初め,劉璋は許靖を以って蜀郡太守と為していた。成都が将に潰えんとするにあたり,許靖は謀って逾城して(城を乗りこえて)劉備に降ろうとした,そのため劉備は此を以って許靖に薄くあたって,用いなかった也。法正が曰く:「天下には虚譽を獲ておりながら而して其の実の無い者が有ります,許靖が是れです也。然るに今主公は大業を創始せんとしております,天下之人は,戸説す可からず(天下の人々の口に戸を立てることは出来ません),宜しく敬重を加えられるべきです,そうして以って遠近之望みを慰めましょう(慰労しましょう)。」そこで劉備は乃ち禮して而して之を用いた。
 成都之囲まれるや也,劉備は士衆と<与>約した:「若し事が定まったなら,府庫の百物は,孤が焉を預かること無いだろう。」成都を抜くに及び,士衆皆捨干戈赴諸藏,競って寶物を取ることになった。軍用が不足したため,劉備は甚だ之を憂いたが,劉巴曰く:「此は易し耳。但だ当に直ちに百錢を鑄(造)し,諸物價を平らげ,吏に令して官市を為すべきです。」劉備は之に従った。数月之間に,府庫は充実した。時に議者は成都の名だたる田宅を以ってして諸将に分賜させたいと欲した。趙雲曰く:「霍去病は以って匈奴が未だ滅ぼされていないとして,無用家為。今國賊は但だ匈奴のみに非ず,未だ安きを求める可からず也。須く天下の都が定まってから,各々桑梓を反し,本土に帰耕させれば,乃ち其れ宜しいことでしょう耳。益州の人民は,初めに罹兵革めて,田宅は皆帰し還す可きです,そうして令して居に安んじさせて業を復させます,然る後に役調を(課)す可くすれば,其の歓心を得られましょう,之を奪って以って私のものとし愛でる所とするのは宜しくすべきではありません也。」劉備は之に従った。
 劉備之劉璋を襲うや也,中郎将で南郡出身の霍峻を留めて葭萌城を守らせた。張魯は楊昂を遣わして霍峻を誘うと求めて共に城を守ろうとしてきた。霍峻曰く:「小人の頭は得る可くも,城は得る可からざらん!」楊昂は乃ち退いた。後に劉璋の将である扶禁、向存等が万余人を帥して閬水上に由って,霍峻を攻め囲み,且つ一年となった。霍峻の城中の兵才は数百人であったが,其の怠隙(怠惰と隙のできるの)を伺い,精鋭を選んで出撃し,之を大いに破ると,向存を斬った。劉備が蜀を定めること既にしてから,乃ち廣漢を分けて梓潼郡を為し,霍峻を以って梓潼太守と為した。
 法正は外では都畿を統め,内では謀主と為ったため,(自分が益州に寄留していた時期に受けた)一飧之德や、睚眥之怨みについて,報復しないことなど無く,己を毀傷した者数人を擅殺した(専断で殺してしまった)。或るひとが諸葛亮に謂いて曰く:「法正は太<おお>いに縱橫しています(勝手気ままが酷くなっています),将軍は宜しく主公に啓(発)してやり,其の威福を抑えるべきです。」亮曰く:「主公が<之>公安に在るや也,北は曹操之強きを畏れ,東は孫権之逼るを憚り,近くは則ち孫夫人が肘腋に於いて変を生じさせないかと懼れてきた。法孝直が之に輔翼と為るや,令すること翻然として翱翔し,複製す可からざることとなった。如何に孝直(の勝手)を禁止しようとしても,使不得少行其意邪(其の意<きもち>を行うことを少なくするのは得させ<使>られないだろう)!」諸葛亮は劉備を佐<たす>けて蜀を治めると,頗る嚴峻なるを尚んだため,人は多くが怨歎する者となった。法正は諸葛亮に謂いて曰く:「昔高祖が関(中)に入ると,法を約して三章としたため,秦民は德を知ったとか。今君は威力を假借して,一州に跨拠っています,初めて其の國を有したというのに,未だ惠撫を垂れていません;且つ客主之義では,宜しく相降下しあうもの,願わくば刑を緩め禁を弛めて以って其の望を慰める(慰撫す)べきです。」亮曰く:「君は其の一を知るも,未だ其の二を知らず。秦は無道を以ってしたため,政は苛<ひど>く民は怨んだ,それゆえ匹夫が大呼すれば,天下は土崩したのです;高祖は之に因ったため,以って弘濟すること可(能)だったのです。劉璋は闇弱でして,劉焉より<自>已來,累世之累を有し,文法は羈縻し,互いに相承奉しあっており,德政は挙げられず,威刑は肅えられていません。蜀土の人士は,專権して自ら恣とし,君臣之道は,漸いに以って陵替してきていたのです。之を寵するに位を以ってするなら,位極まれば則ち(性根で主を)賤しむようになりましょう;之に順うに恩を以ってするなら,恩が竭ければ則ち(性根で主を)慢ることになりましょう。(劉璋が)敝を致した所以は,実は此に於けるに由るのです。吾は今之を威<おど>すに法を以ってしています,(公平に)法が行われれば則ち恩を知りましょう;之を限るに爵を以ってします,爵が加えられれば則ち榮(達)を知りましょう。榮えと恩とが並び濟されれば,上下は節を有すこととなります,為治之要めは,斯に於いて而して著わされるのです矣。」劉備は零陵出身の蔣琬を以って廣都(県の)長と為した。劉備が嘗て遊観に因って,廣都に奄至したところ,蔣琬が衆事して(仕事を積みあげて)治めていないのに見えた,時に又た沉醉していた。劉備は大いに怒ると,将に罪戮を加えようとした。諸葛亮は請うて曰く:「蔣琬は社稷之器でして,百里之才に非ざるものです也。其れ為政とは安民を以って本を為すものであって,修飾を以って先と為すものではありません,願わくば主公には重ねて加え之を察せられんことを。」劉備は諸葛亮を雅<つね>に敬っていたため,乃ち罪を加えず,倉卒に但だ免官する而已<のみ>とした。
 秋,七月,魏公操撃孫權,留少子臨菑侯植守鄴。操爲諸子高選官屬,以刑顒爲植家丞。顒防閒以禮,無所屈撓,由是不合。庶子劉楨美文辭,植親愛之。楨以書諫植曰:「君侯采庶子之春華,忘家丞之秋實,爲上招謗,其罪不小,愚實懼焉。」
6.秋,七月,魏公操は孫権を撃つことにすると,少子であった臨菑侯の曹植を留めて鄴を守らせた。曹操は諸子の為に官屬を高選し,刑顒を以って曹植の家丞と為した。刑顒は防閒するに禮を以ってし,屈撓する所無かったため,是に由って(曹植との仲が)合わなくなった。庶子の劉楨は文辭を美<うるわ>しくしたため,曹植は之を親愛していた。劉楨は書を以って曹植を諫めて曰く:「君侯は庶子之春華を采りながら,家丞之秋実を忘れて,上に謗りを招くようなことを為しております,其の罪は小さからず,愚かしくも実に焉<これ>を懼れるものです。」
 魏尚書令荀攸卒。攸深密有智防,自從魏公操攻討,常謀謨帷幄,時人及子弟莫知其所言。操嘗稱:「荀文若之進善,不進不休;荀公達之去惡,不去不止。」又稱:「二荀令之論人,久而益信,吾沒世不忘。」
7.魏の尚書令であった荀攸が卒した。荀攸は深密にして智防を有し,魏公操が攻討するに従ってより<自>,常に帷幄にあって謀謨していたが,時の人及び子弟で其の言った所を知るものとて莫かった。曹操は嘗て稱えた:「荀文若の<之>善を進めるや,進まなければ休まないほどのものであった;荀公達の<之>惡を(取り)去るや,去らねば止まないものであった。」又た稱えた:「二荀令の<之>人を論じたものは,久しくすると而して益すます信じられるものとなった,吾は世を沒しても(彼らが亡くなろうと)忘れまい。」
 初,枹罕宋建因涼州亂,自號河首平漢王,改元,置百官,三十餘年。冬,十月,魏公操使夏侯淵自興國討建,圍枹罕,拔之,斬建。淵別遣張郃等渡河,入小湟中,河西諸羌皆降,隴右平。
8.初め,枹罕の宋建が涼州が乱れたのに因って,自号して河首平漢王とし,改元して,百官を置くこと,三十余年となった。冬,十月,魏公操は夏侯淵を使て興國より<自>宋建を討つと,枹罕を囲んで,之を拔き,宋建を斬った。夏侯淵は別に張郃等を遣わして渡河させると,小湟中に入らせた,河西の諸羌は皆降り,隴右は平げられた。
 帝自都許以來,守位而已,左右侍衞莫非曹氏之人者。議郎趙彥嘗爲帝陳言時策,魏公操惡而殺之。操後以事入見殿中,帝不任其懼,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相舎。」操失色,俛仰求出。舊儀:三公領兵,朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背;自後不復朝請。董承女爲貴人,操誅承,求貴人殺之。帝以貴人有妊,累爲請,不能得。伏皇后由是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之状,令密圖之,完不敢發。至是,事乃洩,操大怒,十一月,使御史大夫郗慮持節策收皇后璽綬,以尚書令華歆爲副,勒兵入宮,收後。後閉戶,藏壁中。歆壞戸發壁,就牽後出。時帝在外殿,引慮於坐,後被發,徒跣,行泣,過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪!」遂將后下暴室,以幽死;所生二皇子,皆鴆殺之,兄弟及宗族死者百餘人。
9.帝は許を都として自り以來,位を守る而已<のみ>で,左右の侍衛は曹氏之人に非ざる者は莫かった。議郎の趙彦は嘗て帝の為に時の策を陳言したため,魏公である曹操は惡んで而して之を殺した。曹操は後に事を以って殿中に入り見えたおり,帝不任其懼,因って曰く:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」曹操は失色すると,俛仰して出ることを求めた。旧儀では:三公が兵を領するばあい,朝見すれば,虎賁に刃を執らせて之を挾むよう令したものであった。曹操は出てくると,左右を顧みて,汗が流れること浹背した;これ自り後には朝請すること復たしなかった。董承の女<むすめ>が貴人と為っていた,曹操が董承を誅すると,貴人を求めて之を殺した。帝は以って貴人が妊を有した(妊娠していた)ため,累ねて請うこと為したが,得ること能わなかった。伏皇后は是に由って懼れを懐き,乃ち父の完に書を与え,曹操について殘逼之状を言い,密かに之を図るよう令したが,伏完は敢えて發しなかった。是に至って,事は乃ち洩れた,曹操は大いに怒ると,十一月,御史大夫の郗慮を使て持節させて策にて皇后の璽綬を収めさせると,尚書令の華歆を以って副と為させ,兵を勒して入宮し,後(伏皇后)を収めさせた。【a】後(伏皇后)は戸を閉ざすと,壁中に蔵<かく>れた。華歆は戸を壊し壁を發(掘)し,就きて後(伏皇后)を牽いて出てきた。時に帝は外殿に在ったが,坐に於いて郗慮を引きつれていたが,後(伏皇后)が發(掘)に被って,徒跣してきて,泣きながら行くと,(帝のところを)過ぎるおり訣して曰く:「復た相活かしあうこと能わないのでしょうか邪?」帝曰く:「我も亦た命が何時に在るかを知らないのだ!」顧みて郗慮に謂いて曰く:「郗公,天下に寧んぞ是すること有ろうか邪!」遂に伏皇后を将いて暴室に下すと,以って幽死させたのである;生みし所であった二皇子は,皆之を鴆殺し,兄弟及び宗族で死んだ者は百余人となった。
 10十二月,魏公操至孟津。
10.十二月,魏公操は孟津に至った。
 11操以尚書郎高柔爲理曹掾。舊法:軍征士亡,考竟其妻子。而亡者猶不息。操欲更重其刑,並及父母、兄弟,柔啟曰:「士卒亡軍,誠在可疾,然竊聞基中時有悔者。愚謂乃宜貸其妻子,一可使誘其還心。正如前科,固已絶其意望;而猥復重之,柔恐自今在軍之士,見一人亡逃,誅將及己,亦且相隨而走,不可復得殺也。此重刑非所以止亡,乃所以益走耳!」操曰:「善!」即止不殺。
11.曹操は尚書郎の高柔を以って理曹掾と為していた。旧法では:軍征したおりに士が亡<はし>れば,考は其の妻子に竟<とど>まるとしていた。而して亡る者が猶も息つかなかった。曹操は更めて其の刑を重くしようと欲した,並ぶこと父母、兄弟に及ぶようにしようとしたのである,そこで高柔は啓(発)して曰く:「士卒が軍から亡るは,誠に疾む可きものが在ります,然るに基中を竊い聞きますに時に悔いる者が有るとか。愚かしくも謂いますに乃ち宜しく其の妻子を貸しとして(生かして人質のようにして)おいてやり,一たびは(一えに)其の還らんとする心を誘わ使む可きでしょう。正に前に科したが如くなれば,固より已にして其の意望を絶ってしまうことになります;(そのうえ)而して猥りに復た之を重くする,この柔は恐らく今より<自>在軍之士は,一人が亡逃するを見れば,誅が将に己に及ぶだろうとして,亦た且つ相隨いあって而して走りさってしまい,不可復得殺(復し得て殺す可からざることとなりましょう)也。此は刑を重くしても亡るを止める所以に非ざるうえに,乃ち益すます走らせる所以となるだけ<耳>でしょう!」曹操曰く:「善し!」即ち止めて殺さないこととした。
二十年(乙未、二一五)

 春,正月,甲子,立貴人曹氏爲皇后;魏公操之女也。
1.春,正月,甲子,貴人の曹氏を立てて皇后と為した;魏公である曹操之女<むすめ>である也。
 三月,魏公操自將撃張魯,將自武都入氐,氐人塞道,遣張郃、朱靈等攻破之。夏,四月,操自陳倉出散關至河池,氐王竇茂衆萬餘人恃險不服,五月,攻屠之。四平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。
2.三月,魏公操は自ら将いて張魯を撃たんとし,将に武都より<自>氐に入ろうとしたが,氐人が道を塞いだため,張郃、硃靈等を遣わして之を攻め破った。夏,四月,曹操は陳倉より<自>散関に出て河池に至った,氐王竇茂の衆万余人が險を恃んで服さなかったため,五月,之を攻め屠った。四平、金城の諸将である麴演、蔣石等が共になって韓遂の首を斬って送ってきた。
 初,劉備在荊州,周瑜、甘寧等數勸孫權取蜀。權遣使謂備曰:「劉璋不武,不能自守,若使曹操得蜀,則荊州危矣。今欲先攻取璋,次取張魯,一統南方,雖有十操,無所憂也。」備報曰:「益州民富地險,劉璋雖弱,足以自守。今暴師於蜀、漢,轉運於萬里,欲使戰克攻取,舉不失利,此孫、吳所難也。議者見曹操失利於赤壁,謂其力屈,無復遠念。今操三分天下已有其二,將欲飲馬於滄海,觀兵於呉會,何肯守此坐須老乎!而同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也。且備與璋托爲宗室,冀憑英靈以匡漢朝。今璋得罪於左右,備獨悚懼,非所敢聞,願加寬貸。」權不聽,遣孫瑜率水軍往夏口。備不聽軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾當被發入山,不失信於天下也。」使關羽屯江陵,張飛屯秭歸,諸葛亮據南郡,備自住孱陵,權不得已召瑜還。及備西攻劉璋,權曰:「猾虜,乃敢挾詐如此!」備留關羽守江陵,魯肅與羽鄰界;羽數生疑貳,肅常以歡好撫之。及備已得益州,權令中司馬諸葛瑾以備求荊州諸郡。備不許,曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州相與耳。」權曰:「此假而不反,乃欲以虚辭引歳也。」遂置長沙、零陵、桂陽三郡長吏。關羽盡逐之。權大怒,遣呂蒙督兵二萬以取三郡。蒙移書長沙、桂陽,皆望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降。劉備聞之,自蜀親至公安,遣關羽爭三郡。孫權進住陸口,爲諸軍節度;使魯肅將萬人屯曾陽以拒羽;飛書召呂蒙,使舎零陵急還助肅。蒙得書,秘之,夜,召諸將授以方略;晨,當攻零陵,顧謂郝普故人南陽鄧玄之曰:「郝子太聞世間有忠義事,亦欲爲之,而不知時也。今左將軍在漢中爲夏侯淵所圍;關羽在南郡,至尊身自臨之。彼方首尾倒縣,救死不給,豈有餘力復營此哉!今吾計力度慮而以攻此,曾不移日而城必破,城破之後,身死,何益於事,而令百歳老母戴白受誅,豈不痛哉!度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。君可見之,爲陳禍福。」玄之見普,具宣蒙意,普懼而出降。蒙迎,執其手與倶下船,語畢,出書示之,因拊手大笑。普見書,知備在公安而羽在益陽,慚恨入地。蒙留孫河,委以後事,即日引軍赴益陽。
  魯肅欲與關羽會語,諸將疑恐有變,議不可往。肅曰:「今日之事,宜相開譬。劉備負國,是非未決,羽亦何敢重欲干命!」乃邀羽相見,各駐兵馬百歩上,但諸將軍單刀俱會。肅因責數羽以不返三郡,羽曰:「烏林之役,左將軍身在行間,戮力破敵,豈得徒勞,無一塊土,而足下來欲收地邪!」肅曰:「不然。始與豫州覲於長阪,豫州之衆不當一校,計窮慮極,志勢摧弱,圖欲遠竄,望不及此。主上矜愍豫州之身無有處所,不愛土地士民之力,使有所庇廕以濟其患;而豫州私獨飾情,愆德墮好。今已藉手於西州矣,又欲翦並荊州之土,斯蓋凡夫所不忍行,而況整領人物之主乎!」羽無以答。會聞魏公操將攻漢中,劉備懼失益州,使使求和於權。權令諸葛瑾報命,更尋盟好。遂分荊州,以湘水爲界;長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備。諸葛瑾毎奉使至蜀,與其弟亮但公會相見,退無私面。
3.初め,劉備が荊州に在ったおり,周瑜、甘寧等は何度も孫権に蜀を取るよう勧めた。孫権は使いを遣わして劉備に謂いて曰く:「劉璋は不武であり,自守すること能わず,若し曹操を使て蜀を得させてしまえば,則ち荊州は危うからん矣。今欲して先ず劉璋を攻め取り,次いで張魯を取って,南方を一つに統めん,そうすれば十操(十人の曹操が)有ると雖も,憂うる所無からん也。」劉備は報じて曰く:「益州の民は富み地は險しく,劉璋は弱いと雖も,以って自らを守るに足るものです。今蜀漢に於いて師を暴<さら>さんとすれば,万里に於いて転運することとなりましょう(糧秣を万里に於いて輸送することになりましょう),欲使戦克攻取,挙不失利,此は孫呉の難き所です也。議者は曹操が赤壁に於いて利を失ったのを見て,其の力が屈したのだと謂いましたが,無復遠念(遠くへ思いを致すことを復無くしています)。今曹操は天下を三分して已に其の二を有しておりまして,将に滄海に於いて馬に(水を)飲ませようとしており,呉会に於いて観兵(閲兵)しようと欲しております,何ぞ此の坐を守るを肯んじて須く老いたりしましょう乎!而して同盟しながら故無く自ら相攻伐しあうなら,曹操に於いて借樞させることとなります,敵を使て其の隙を承らせるようにする,長計に非ざることです也。且つこの備と<与>劉璋どのとは托して宗室と為っています,英靈に憑けてを冀い以って漢朝を匡さんとしています。今劉璋どのが罪を左右に於いて得んとするなら,この備は独り悚懼し,敢えて聞く所に非ざることとします,願わくば寬貸を加えられんことを。」孫権は聽きいれず,孫瑜を遣わして水軍を率いさせて夏口に往かせた。劉備は軍が過ぎるのを聴きいれず,孫瑜に謂いて曰く:「汝が蜀を取ろうと欲するなら,吾は当に被發して入山し,天下に於ける信(任)を失わないようにするのだ也。」関羽を使わして江陵に駐屯させ,張飛を秭帰に駐屯させ,諸葛亮を南郡に拠らせ,劉備自らは孱陵に往ったため,孫権は已むを得ず孫瑜を召して還らせた。劉備が西へむかい劉璋を攻めるに及んで,孫権曰く:「猾虜めが,乃ち敢えて挾詐すること此の如しであるか!」劉備は関羽を留めて江陵を守らせた,魯肅は関羽と<与>(境)界を鄰にしていた;関羽は何度も疑貳を生じたが,魯肅は常に歓好を以って之を(慰)撫させた。劉備が已にして益州を得るに及ぶと,孫権は中司馬の諸葛瑾に令して以って劉備から荊州諸郡を求めさせた。劉備は許さずに,曰く:「吾は涼州を方じ図っている,涼州が定まったなら,乃ち尽くするに荊州を以ってして相与えるのみ耳。」孫権曰く:「此は假していたのに而して反さない,乃ち虚辭を以って歳(月)を引きのばそうと欲しているのだ也。」遂に長沙、零陵、桂陽の三郡に長吏を置いた。関羽は之を尽く逐いやった。孫権は大いに怒ると,呂蒙を遣わして兵二万を督させて以って三郡を取らせんとした。呂蒙は書を長沙、桂陽に移したところ,皆風を望んで帰服してきた,惟だ零陵太守の郝普だけは城守して降らなかった。劉備は之を聞くと,蜀より<自>親しく公安に至り,関羽を遣わして三郡を争わせた。孫権は陸口へ進み往き,諸軍に節度を為した;魯肅を使わして万人を将いさせて曾陽に駐屯させ以って関羽を拒ませた;書を飛ばして呂蒙を召すと,零陵を捨てさせ使むと急いで還らせ魯肅を助けさせようとした。呂蒙は書を得ると,之を秘し,夜になって,諸将を召して授けるに方略を以ってした;晨,当に零陵を攻めるべく,顧みて郝普の故人であった南陽出身の鄧玄之に謂いて曰く:「郝子太は世間では忠義の事を有すと聞く,亦た之を為そうと欲しているが,而して時を知らない也。今左将軍は漢中に在って夏侯淵の為に囲まれる所となっており;関羽は南郡に在るが,至尊身ずから自ら之に臨んでいる。彼方首尾倒縣,救死不給,豈有余力復營此哉!今吾が力を計り慮りを度<はか>り而して以って此を攻めるなら,曾て日を移さずして而して城は必ずや破られよう,城が破れし<之>後なら,身は死すとも,何の益が事に於いてあろうか,而して令百歳老母戴白受誅,豈に痛ましくないことあろうか哉!度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。君可見之,為陳禍福。」玄之は郝普に見えると,具さに呂蒙の意を宣べたところ,郝普は懼れて而して出てきて降った。呂蒙は迎えると,其の手を執ってこれと<与>倶に下船し,語り畢わると,書を出して之を示し,因って手を拊いて大笑いした。郝普は書を見て,劉備が公安に在って而して関羽が益陽に在ると知ると,慚じて恨み地に入った。呂蒙は孫河を留めて,以って後事を委ね,即日にして軍を引きつれて益陽に赴いた。
 魯肅が関羽と<与>会語せんと欲したところ,諸将は恐らく変が有ることを疑い,議して往く可きでないとした。魯肅は曰く:「今日之事は,宜しく相開譬すべきなのだ。劉備は國を負い,是非は未だ決していない,関羽も亦た何ぞ敢えて重ねて命を干せんと欲しよう!」乃ち関羽を邀えて相見えると,各々兵馬を駐めること百歩上,但だ諸将軍だけが単刀にて倶に会すこととなった。魯肅は因って関羽を以って三郡を返さないとして何度も責めた,関羽曰く:「烏林之役では,左将軍は身づから行間に在って,戮力して敵を破ったのだ,豈に徒勞を得て,一塊<くれ>の土さえ無いことがあろう,而しながら足下は來たりて地を収め(没収し)ようと欲するのか邪!」魯肅曰く:「然らず。始め(劉)豫州どのは<与>長阪に於いて覲すると,豫州どの之衆は一校にも当らず,計は窮まって慮りは極まり,志と勢いは摧<くじ>かれ弱まっており,図ったことは遠竄とならんと欲することで,望んだことは此に及ばないものであった。わが主上は豫州どの之身が處る所を有すこと無くなったのを矜愍し,不愛土地士民之力,使有所庇廕以濟其患;而して豫州どのは私ごとで独り情を飾りたてて,徳を愆し好みを(地に)墮とした。今已にして西州に於けるを手に藉しておられるというのに矣,又た荊州之土を翦並しようと欲されるとは,斯くは蓋し凡夫も行うを忍ばない所である,而して況んや人物を整領する<之>主においてや(どうであろうか)乎!」羽無以答(関羽は無(言)で以って答えとした。魏公である曹操が将に漢中を攻めようとしていると聞く(事態)に会ったため,劉備は益州を失うことを懼れて,使いを使わして孫権に於いて和を求めさせた。孫権は諸葛瑾に令して報命させると,更めて尋盟と好みをむすんだのである。そうして遂に荊州を分けて,湘水を以って界と為すこととなった;長沙、江夏、桂陽以東は孫権に属すこととなり,南郡、零陵、武陵以西は劉備に属すこととなった。諸葛瑾は奉使して蜀に至る毎に,其の弟である諸葛亮と<与>但だ公で会ったおりに相見えるだけで,退けば私面すること無かった。
 秋,七月,魏公操至陽平。張魯欲舉漢中降,其弟衞不肯,率眾數萬人拒關堅守,橫山築城十餘里。初,操承涼州從事及武都降人之辭,説「張魯易攻,陽平城下南北山相遠,不可守也」,信以爲然。及往臨履,不如所聞,乃歎曰:「他人商度,少如人意。」攻陽平山上諸屯,山峻難登,既不時拔,士卒傷夷者多,軍食且盡,操意沮,便欲拔軍截山而還,遣大將軍夏侯惇、將軍許褚呼山上兵還。會前軍夜迷惑,誤入張衞別營,營中大驚退散。侍中辛毘、主簿劉曄等在兵後,語惇、褚,言「官兵已據得賊要屯,賊已散走」,猶不信之。惇前自見,乃還白操,進兵攻衞,衞等夜遁。張魯聞陽平已陷,欲降,閻圃曰:「今以迫往,功必輕;不如依杜濩赴樸胡,與相拒,然後委質,功必多。」乃奔南山入巴中。左右欲悉燒寶貨倉庫,魯曰:「本欲歸命國家,而意未得達。今之走避鋭鋒,非有惡意。寶貨倉庫,國家之有。」遂封藏而去。操入南鄭,甚嘉之。又以魯本有善意,遣人慰喻之。
  丞相主簿司馬懿言於操曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附,而遠爭江陵,此機不可失也。今克漢中,益州震動,進兵臨之,勢必瓦解。聖人不能違時,亦不可失時也。」操曰:「人苦無足,既得隴,復望蜀邪!」劉曄曰:「劉備,人傑也,有度而遲;得蜀日淺,蜀人未恃也。今破漢中,蜀人震恐,其勢自傾。以公之神明,因其傾而壓之,無不克也。若小緩之,諸葛亮明於治國而爲相,關羽、張飛勇冠三軍而爲將,蜀民既定,據險守要,則不可犯矣。今不取,必爲後憂。」操不從。居七日,蜀降者說「蜀中一日數十驚,守將雖斬之而不能安也。」操問曄曰:「今尚可撃不?」曄曰:「今已小定,未可撃也。」乃還。以夏侯淵爲都護將軍,督張郃、徐晃等守漢中;以丞相長史杜襲爲駙馬都尉,留督漢中事。襲綏懷開導,百姓自樂出徙洛、鄴者八萬餘口。
4.秋,七月,魏公操は陽平に至った。張魯は漢中を挙げて降ろうと欲したが,其の弟である張衛は肯んじず,眾数万人を率いて関で拒み堅守すると,山を横(断)するように築城すること十余里。初め,操承涼州従事及武都降人之辭,說「張魯は攻めるに易く,陽平城下南北山相遠,不可守也」,信じて以って然りと為したのだ。往って臨履するに及び,聞いた所に如かず,乃ち歎じて曰く:「他人が度<はか>ったのを商いしてみると,人の意(見)の如くであったことは少ないものだ。」陽平山上の諸屯を攻めようとした,山は峻しく登るに難しく,既にして拔くに時せず,士卒で傷夷する者が多く,軍の食は且つ尽きんとしたため,曹操の意は沮(喪)し,便じて軍を截山から抜いて而して還ろうと欲し,大将軍の夏侯惇、将軍の許褚を遣わして山上の兵を呼ばせ還らせようとした。前軍が夜になって迷い惑うに会い,誤って張衛の別營に入ったため,營中は大いに驚いて退散した。侍中の辛毘、主簿の劉曄等は兵の後ろに在ったが,夏侯惇、許褚に語った,言うに「官兵は已に賊の要屯を拠得してしまっており,賊は已に散りぢりになって(逃)走してしまいました」としたが,猶ち之を信じなかった。夏侯惇は前にすすんで自ら見にゆくと,乃ち還って曹操に白し(報告し),兵を進めて張衛を攻めたため,張衛等は夜にまぎれて遁れていった。張魯は陽平が已に陷ちたと聞くと,降ろうと欲した,閻圃は曰く:「今以って迫られ往けば,功は必ずや輕いことでしょう;杜濩や赴樸胡に拠るに如かず,これと<与>ともに相拒みあい,然る後に質を委ねれば,功は必ずや多くなりましょう。」乃ち南山に奔って巴中に入った。左右は寶貨や倉庫などを悉く燒いてしまおうと欲したが,張魯は曰く:「本より國家に帰命しようと欲していたのに,而して意は未だ達するを得ないでいた。今之鋭鋒を避けて走っているのは,惡意を有するからに非ず。寶貨をおさめている倉庫は,國家之有すものだ。」遂に藏を封じて而して去った。曹操は南鄭に入ると,甚だ之を嘉した。又た以って張魯は本もと善意を有していたのだからと,人を遣わして之を慰さめ喩させた。
 丞相主簿の司馬懿は曹操に於いて言いて曰く:「劉備は詐力を以ってして劉璋を虜としましたから,蜀人は未だ附かずにいるのですが,而して遠く江陵を争っています,此の機は失う可からず也。今漢中に克ちましたから,益州は震え動いております,兵を進めて之に臨めば,勢いからして必ずや瓦解しましょう。聖人は時を違えること能わないもの,亦た時を失う可からず也。」曹操曰く:「人は足ること無きに苦しむものだ,既にして隴を得たり,復た蜀を望もうというのか邪!」劉曄曰く:「劉備は,人傑です也,有度而遲;蜀を得てから日は淺く,蜀人は未だ恃みとしていません也。今漢中を破ったことで,蜀人は震え恐れており,其の勢いは自ら傾いております。公之神明を以ってして,其の傾くに因って而して之を壓すれば,克たないことは無いでしょう也。若し小しく之を緩めてしまえば,諸葛亮は治國に於いて明たるもので而して相と為っており,関羽、張飛はその勇三軍に冠たりて而して将と為っております,蜀の民が既にして定まってから,險に拠って要を守るなら,則ち犯す可からざることとなりましょう矣。今取らなければ,必ずや後の憂いと為りましょう。」曹操は従わなかった。居ること七日にして,蜀の降ってきた者が説くことに「蜀の中では一日に十驚を数え,守将が之を斬ると雖も而して安んじること能わないでおります也。」曹操は劉曄に問いかけて曰く:「今も尚撃つ可きであろうか不か?」劉曄曰く:「今は已に小し定まってしまいました,未だ撃つ可からずでしょう也。」乃ち還った。夏侯淵を以って都護将軍と為し,張郃、徐晃等を督させて漢中を守らせた;丞相長史の杜襲を以って駙馬都尉と為し,留めて漢中事を(監)督させた。杜襲は綏懷開導したため,百姓で自ら樂んで洛、鄴へ出て徙る者八万余口となった。
 八月,孫權率衆十萬圍合肥。時張遼、李典、樂進將七千餘人屯合肥。魏公操之征張魯也,爲教與合肥護軍薛悌,署函邊曰:「賊至,乃發。」及權至,發教,教曰:「若孫權至者,張、李將軍出戰,樂將軍守,護軍勿得與戰。」諸將以衆寡不敵,疑之。張遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆撃之,折其盛勢,以安衆心,然後可守也。」進等莫對。遼怒曰:「成敗之機,在此一戰。諸君若疑,遼將獨決之。」李典素與遼不睦,慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而忘公義乎!請從君而出。」於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛犒饗。明旦,遼被甲持戟,先登陷陣,殺數十人,斬二大將,大呼自名,衝壘入至權麾下。權大驚,不知所爲,走登高塚,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將眾少,乃聚圍遼數重。遼急撃圍開,將麾下數十人得出。餘眾號呼曰:「將軍棄我乎?」遼復還突圍,拔出餘眾,權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣。乃還修守備,衆心遂安。權守合肥十餘日,城不可拔,徹軍還。兵皆就路,權與諸將在逍遙津北,張遼覘望知之,即將步騎奄至。甘寧與呂蒙等力戰扞敵,凌統率親近扶權出圍,復還與遼戰,左右盡死,身亦被創,度權已免,乃還。權乘駿馬上津橋,橋面已徹,丈餘無版;親近監谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭以助馬勢,遂得超度。賀齊率三千人在津南迎權,權由是得免。權入大船宴飲,賀齊下席涕泣曰:「至尊人主,常當持重,今日之事,幾致禍敗。羣下震怖,若無天地,願以此爲終身之誡!」權自前收其淚曰:「大慚謹已刻心,非但書紳也。」
5.八月,孫権は衆十万を率いると合肥を囲んだ。時に張遼、李典、樂進は七千余人を将いて合肥に駐屯していた。魏公である曹操之張魯を征するや也,教を為して合肥の護軍であった薛悌に与え,函の邊に署して曰く:「賊が至らば,乃ち發<ひら>け。」孫権が至るに及び,教を発<ひら>くと,教は曰く:「若し孫権が至るなら<者>,張、李将軍は出て戦え,樂将軍は守れ,護軍は戦いに与すること得る勿れ。」諸将は以って衆が寡なく敵しなかったため,之を疑った。張遼曰く:「公は遠征して外に在るのだから,比して救いが至ろうにも,彼らは我らを破っていること必ずであろう矣。是ぞ以って教が指すのは其の未だ合わざるに及んで之を逆撃し,其の盛んなる勢いを折りとって,以って衆心を安んじ,然る後に守る可きということだろう也。」楽進等は對すること莫かった。張遼は怒って曰く:「成敗之機は,此の一戦に在る。諸君が疑う若くならば,この遼は将に独りで之を決しよう。」李典は素より張遼と<与>睦じくなかったが,慨然として曰く:「此は國家の大事である,君の計を省みて何如であるかというだけだ<耳>,吾は私憾を以ってして而して公義を忘れる可きだろうか乎!請う、君に従い而して出よう。」是に於いて張遼は夜に敢従之士を募り,八百人を得ると,牛を椎でうちころし犒饗した。明くる旦,張遼は甲を被って戟を持つと,先登となって陣を陷とし,数十人を殺し,二(人)の大将を斬りすて,大呼して自ら名のると,沖壘して入って孫権の麾下に至った。孫権は大いに驚き,為す所を知らず,走って高塚に登り,長戟を以って自らを守った。張遼は孫権に下りてきて戦えと叱ったが,孫権は敢えて動かずにいた,張遼が将いし所の衆が少ないのを望見すると,乃ち聚まって張遼を数重にも囲んだ。張遼は囲みを急撃して開くと,麾下の数十人を将いて出るを得た。余りの衆が号呼して曰く:「将軍は我らを棄てるのか乎?」張遼は復た還って囲みを突き,余りの衆を抜き出した,孫権の人馬は皆披靡(靡くように動き),敢えて当る者が莫かった。旦より<自>戦って日中に至り,呉人は気を奪われた。乃ち還って守りと備えを修めたため,衆心は遂に安んじたのである。孫権は合肥を守ること十余日,城が拔く可からざることとなったため,軍を徹して還ることとなった。兵は皆が路に就くと,孫権と<与>諸将は逍遙津の北に在った,張遼は覘望して之を知ると,即ち歩騎を将いて奄いに至った。甘寧と<与>呂蒙等は力戦して敵に扞い,凌統は親近を率いて孫権を扶け囲みを出ると,復た還って張遼と<与>戦ったところ,左右の尽くが死んでしまい,身づからも亦た創を被ったが,孫権が已にして免れたのを度ると,乃ち還った。孫権は駿馬に乗って津橋の上にいたところ,橋面が已にして徹しており(崩れ落ちており),丈余りは版が無かった;親近の監であった谷利が馬後に在り,孫権を使て鞍を持たせ控を緩ませると,後ろに於いて谷利は鞭を著して以って馬勢を助けさせ,遂に超度するを得たのである。賀齊は三千人を率いて津の南に在って孫権を迎えたため,孫権は是に由って免れるを得たのである。孫権は大船に入って宴飲すると,賀齊は席を下がって涕泣して曰く:「至尊は人主であります,常に持重に当るべきでありますのに,今日之事は,幾らもなく禍ち敗れるを致すところでした。群下は震え怖き,天地が無くなったが若くでありました,願わくば此を以って終身之誡めと為さいますように!」孫権は自ら前にすすんで其の涙を収める(拭いとってやる)と曰く:「大いに慚じて謹しみ已にして心に刻んでいる,但だ紳に書すだけに非ず也。」
 九月,巴、賨夷帥樸胡、杜濩、任約,各舉其衆來附。於是分巴郡,以胡爲巴東太守,濩爲巴西太守,約爲巴郡太守,皆封列侯。
6.九月,巴、賨の夷帥である樸胡、杜濩、任約が,各々其衆を挙げて來たりて附いた。是に於いて巴郡を分けて,樸胡を以って巴東太守と為し,杜濩を巴西太守と為し,任約を巴郡太守と為して,皆列侯に封じた。
 冬,十月,始置名號侯以賞軍功。
7.冬,十月,名号侯を始め置くこととし以って軍功を賞すこととした。
 十一月,張魯將家屬出降。魏公操逆拜魯鎭南將軍,待以客禮,封閬中侯,邑萬戸。封魯五子及閻圃等皆爲列侯。
  習鑿齒論曰:閻圃諫魯勿王,而曹公追封之,將來之人,孰不思順!塞其本源而末流自止,其此之謂與!若乃不明於此,而重焦爛之功,豐爵厚賞止於死戰之士,則民利於有亂,俗競於殺伐,阻兵杖力,干戈不戢矣。曹公之此封,可謂知賞罰之本矣。
8.十一月,張魯が家屬を将いて出てきて降った。魏公である曹操は張魯を逆に拝して鎮南将軍とすると,客禮を以って待(遇)し,閬中侯に封じた,邑万戸である。張魯の五子及び閻圃等を封じて皆列侯と為した。
  習鑿齒は論じて曰く:閻圃は張魯に王となること勿れと諫め,而して曹公は之を追封した,将來之人は,孰んぞ順うことを思わないだろうか!其の本源を塞げば而して末流は自ら止まる,其此之謂与!若乃不明於此,而重焦爛之功,爵を豊かにし賞を厚くして死戦之士(の身の上)に於いて止めれば,則ち民は乱の有るに於けるを利としようし,俗は殺伐に於けるを競うことになろう,阻兵杖力,干戈不戢矣。曹公之此たびの封は,賞罰之本を知っていると謂う可きである矣。
 程銀、侯選、龐德皆隨魯降,魏公操復銀、選官爵,拜德立義將軍。
9.程銀、侯選、龐德が皆張魯に随って降ったため,魏公である曹操は程銀、侯選の官爵を復し,龐德を拝して立義将軍とした。
 10張魯之走巴中也,黃權言於劉備曰:「若失漢中,則三巴不振,此爲割蜀之股臂也。」備乃以權爲護軍,率諸將迎魯;魯已降,權遂撃樸胡、杜濩、任約,破之。魏公操使張郃督諸軍徇三巴,欲徙其民於漢中,進軍宕渠。劉備使巴西太守張飛與郃相拒,五十餘日,飛襲撃郃,大破之。郃走還南鄭,備亦還成都。
  操徙出故韓遂、馬超等兵五千餘人,使平難將軍殷署等督領,以扶風太守趙儼爲關中護軍。操使儼發千二百兵助漢中守禦,殷署督送之,行者不樂。儼護送至斜谷口,還,未至營,署軍叛亂。儼自隨步騎百五十人,皆叛者親黨也,聞之,各驚,被甲持兵,不復自安。儼徐諭以成敗,慰勵懇切,皆慷慨曰:「死生當隨護軍,不敢有二!」前到諸營,各召料簡諸姦結叛者八百餘人,散在原野。儼下令惟取其造謀魁率治之,餘一不問,郡縣所收送皆放遣,乃即相率還降。儼密白:「宜遣將詣大營,請舊兵鎭守關中。」魏公操遣將軍劉柱將二千人往,當須到乃發遣。俄而事露,諸營大駭,不可安諭。儼遂宣言:「當差留新兵之溫厚者千人,鎭守關中,其餘悉遣東。」便見主者內諸營兵名籍,立差別人。留者意定,與儼同心,其當去者亦不敢動。儼一日盡遣上道,因使所留千人分佈羅落之。東兵尋至,乃復脅諭,並徙千人,令相及共東。凡所全致二萬餘口。
10.張魯之巴中に走るや也,黄権は劉備に於いて言いて曰く:「若し漢中を失えば,則ち三巴は振わず,此は蜀之股臂を割くことに為ります也。」劉備は乃ち黄権を以って護軍と為し,諸将を率いて張魯を迎えさせた;張魯が已にして降っていたため,黄権は遂に樸胡、杜濩、任約を撃つと,之を破った。魏公操は張郃を使て諸軍を督させて三巴に徇らせると,其民を漢中に於けるに徙<うつ>そうと欲し,軍を宕渠へ進めた。劉備は巴西太守の張飛を使て張郃と<与>相拒ませあった,五十余日して,張飛は張郃を襲い撃ち,之を大破した。張郃は(逃)走して南鄭に還り,劉備も亦た成都に還った。
 曹操は故の韓遂、馬超等の兵五千余人を徙<うつ>し出そうと欲すると,平難将軍の殷署等を使て督領させ,扶風太守の趙儼を以って関中護軍と為させた。曹操は趙儼を使て千二百の兵を(徴)発させて漢中の守禦を助けさせ,殷署に之を督送させたところ,行くことになった者は樂しまなかった。趙儼は護送して斜谷口に至ると,還ることになったが,未だ營に至らずして,殷署の軍が叛乱した。趙儼は自ら歩騎百五十人を随えていたが,皆叛いた者の親黨であったため也,之を聞いて,(その百五十人)各々は驚き,甲を被って兵を持ち(武器を持ち),復た自ら安んじることなかった。趙儼は成敗を以ってして徐に諭すと,慰め勵ますこと懇切にしたため,皆慷慨として曰く:「死生は当に護軍に随おう,敢えて二つ有ることをしない(二心を有すようなことはしない)!」前にすすんで諸營に到ると,各々諸奸で叛いた者と結んでいたもの八百余人を料り簡(抜)して召すと,原野に散在させた。趙儼は令を下して惟だ取其造謀魁率治之,余りは一つも問わないこととし,郡縣で收送した所は皆放遣することとしたため,乃ち即ちに相率いて還ってきて降った。趙儼は密かに白した:「宜しく将を遣わして大營に詣でさせ,旧兵を請うて関中を鎮守させるべきです。」魏公である曹操は将軍の劉柱を遣わして二千人を将いさせて往かせると,当に須く到ってから乃ち発し遣わすことにした。俄にして而して事が露わとなって,諸營は大いに駭え,安んじ諭す可からざることになった。そこで趙儼は遂に宣言した:「当に差して新兵之温厚なる者千人を留めて,関中を鎮守させ,其の余りは悉く東に遣わすこととする。」便見主者内諸營兵名籍,立差別人。留者意定,与儼同心,其当去者亦不敢動。儼一日尽遣上道,因使所留千人分佈羅落之。東兵尋至,乃復脅諭,並徙千人,令相及共東。凡そ全うする所は二万余口を致すこととなった。
二十一年(丙申、二一六)

 春,二月,魏公操還鄴。
1.春,二月,魏公操は鄴に還った。
 夏,五月,進魏公操爵爲王。
  初,中尉崔琰薦巨鹿楊訓於操,操禮辟之。及操進爵,訓發表稱頌功德。或笑訓希世浮偽,謂琰爲失所舉。琰從訓取表草視之,與訓書曰:「省表,事佳耳。時乎,時乎!會當有變時。」琰本意譏論者好譴呵而不尋情理也,時有與琰宿不平者,白琰「傲世怨謗,意指不遜」,操怒,收琰付獄,髡爲徒隸。前白琰者復白之云:「琰爲徒,對賓客虯鬚直視,若有所瞋。」遂賜琰死。尚書僕射毛玠傷琰無辜,心不悅。人復白玠怨謗,操收玠付獄,侍中桓階、和洽皆爲之陳理,操不聽。階求案實其事。王曰:「言事者白,玠不但謗吾也,乃復爲崔琰觖望。此捐君臣恩義,妄爲死友怨歎,殆不可忍也。」洽曰:「如言事者言,玠罪過深重,非天地所覆載。臣非敢曲理玠以枉大倫也,以玠歷年荷寵,剛直忠公,爲眾所憚,不宜有此。然人情難保,要宜考玠,兩驗其實。今聖恩不忍致之於理,更使曲直之分不明。」操曰:「所以不考,欲兩全玠及言事者耳。」洽對曰:「玠信有謗主之言,當肆之市朝;若玠無此言,言事者加誣大臣以誤主聽,不加檢覈,臣竊不安。」操卒不窮治,玠遂免黜,終於家。是時西曹掾沛國丁儀用事,玠之獲罪,儀有力焉;羣下畏之側目。尚書僕射何夔及東曹屬東莞徐弈獨不事儀,儀譖弈,出爲魏郡太守,賴桓階左右之得免。尚書傅選謂何夔曰:「儀已害毛玠,子宜少下之。」夔曰:「爲不義,適足害其身,焉能害人!且懷姦佞之心,立於明朝,其得久乎!」崔琰從弟林,嘗與陳羣共論冀州人士,稱琰爲首,羣以智不存身貶之。林曰:「大丈夫爲有邂逅耳,即如卿諸人,良足貴乎□」
2.夏,五月,魏公操の爵を進めて王と為した。
 初め,中尉の崔琰は巨鹿出身の楊訓を曹操に於いて薦めたため,曹操は之を禮辟した。曹操が爵を進めるに及び,楊訓は表を発して功徳を稱頌した。或るひとが楊訓のことを世を浮偽することを希っていると笑い,謂わば崔琰は挙げた所を失ったと為したのである。崔琰は楊訓から<従>表草を取って之を視ると,楊訓に書を与えて曰く:「表を省みたが,事は佳きのみ耳。時よ乎,時よ乎!当に変時の有るべきに会ったものだ。」崔琰は本もとの意では論者を譴呵を好んで而して情理を尋ねないと譏り也,時に崔琰と<与>は宿(怨)から平らがない者が有って,崔琰のことを白して「傲世して怨み謗り,意は不遜を指さしている」としたため,曹操は怒って,崔琰を収めて獄に付けると,髠(刑)としてから徒隸と為した。前に崔琰のことを白した者が復た之を白して云った:「崔琰は(刑)徒と為っていながら,賓客に虯鬚のまま対(面)して直視しており,瞋す所が有るかの若くです。」としたため遂に崔琰に死を賜った。尚書僕射の毛玠は崔琰が無辜であったのに傷つけられたために,心では悅ばなかった。人が復た毛玠のことを怨み謗っていると白したため,曹操は毛玠を収めて獄に付けた,侍中の桓階、和洽は皆之の為に理を陳べたが,曹操は聴きいれなかった。桓階は其の事を案実するよう求めた。王曰く:「言事者白,玠不但謗吾也,乃復為崔琰觖望。此は君臣の恩義を捐うものだ,妄りに死んだ友の為に怨み歎くなど,殆んど忍ぶ可からざることだ也。」和洽曰く:「事を言いし者の言の如くでありますなら,毛玠の罪と過ちは深く重く,天地が覆載する所に非ざるものです。臣は毛玠を理めるのを敢えて曲げてまでして以って大倫を枉げんとするに非ず,以って毛玠は歴年にわたり寵を荷ない,剛直にして忠公であって,衆の憚る所と為っておりましたから,此(こうしたこと)が有るのは宜しからず。然るに人情は保ち難いものです,要するに宜しく毛玠を考じるにあたっては,其の実を兩つとも驗めるべきです。今聖恩は理に於いて之を致すこと忍ばず,更使曲直之分不明。」操曰:「所以不考,欲兩全玠及言事者耳。」和洽は對して曰く:「毛玠が信<まこと>に謗主之言を有したのなら,当に之を肆して朝に市すべきです;若し毛玠に此の言が無いのなら,事を言った者は大臣を誣して以って主の聽を誤まらせた(罪)を加えるべきです,檢覈を加えないなど,臣が竊いますに安んじますまい。」曹操は卒として治を窮まっていないとし,毛玠は遂に免黜されて,家に於いて終えることとなった。是時西曹掾であった沛國出身の丁儀が用いられ事えていた,毛玠が<之>罪を獲るにあたり,丁儀が焉<これ>に力<つとめ>ること有ったため;群下は之を畏れて側目した。尚書僕射の何夔及び東曹屬であった東莞出身の徐弈は独り丁儀に事<つか>えなかったため,丁儀は何弈を譖し,出して魏郡太守と為した,賴桓階左右之得免。尚書の傅選が何夔に謂いて曰く:「丁儀は已にして毛玠を害した,子は宜しく少しは之に下るべきだ。」何夔曰く:「為不義,適足害其身,焉んぞ能く人を害しえようか!且つ奸佞之心を懐いて,明朝に於いて立っているのだ,其れ久しきこと得られようか乎!」崔琰の従弟であった崔林は,嘗て陳群と<与>共に冀州の人士を論じたことがあり,崔琰を称えて首と為した,群以智不存身貶之。林曰:「大丈夫為有邂逅耳,即如卿諸人,良足貴乎□」
 五月,己亥朔,日有食之。
3.五月,己亥朔,日蝕が有った。
 代郡烏桓三大人皆稱單于,恃力驕恣,太守不能治。魏王操以丞相倉曹屬裴潛爲太守,欲授以精兵。潛曰:「單于自知放橫日久,今多將兵往,必懼而拒境,少將則不見憚,宜以計謀圖之。」遂單車之郡,單于驚喜。潛撫以恩威,單于讋服。
4.代郡烏桓の三大人は皆が単于と称して,力を恃み驕ること恣ままとしたため,太守は治めること能わなかった。魏王操は丞相倉曹屬の裴潛を以って太守と為すと,精兵を以ってして授けんと欲した。裴潛曰く:「単于は自ら放橫して日久しいことを知っておりましょう,今将いる兵を多くして往くなら,必ずや懼れて而して境で拒みましょう,将いるのを少なくすれば則ち憚るに見えません,宜しく計謀を以って之を図るべきです。」遂に単車にて之で郡にいったため,単于は驚き喜んだ。裴潛は(慰)撫するに恩威を以ってしたため,単于は讋服することになった。
 初,南匈奴久居塞内,與編戸大同而不輸貢賦。議者恐其戸口滋蔓,浸難禁制,宜豫爲之防。秋,七月,南單于呼廚泉入朝於魏,魏王操因留之於鄴,使右賢王去卑監其國。單于歲給綿、絹、錢、谷如列侯,子孫傳襲其號。分其眾爲五部,各立其貴人爲帥,選漢人爲司馬以監督之。
5.初め,南匈奴が久しく塞内に居った,与編戸大同而不輸貢賦。議者恐其戸口滋蔓,浸難禁制,宜豫為之防。秋,七月,南単于の呼廚泉が魏に於いて入朝してきたため,魏王である曹操は因って之を鄴に於いて留めると,右賢王の去卑を使て其の國を監させた。単于は歳ごとに綿、絹、錢、谷を給されること列侯の如くとされ,子孫は其号を伝え襲(名)した。其の衆を分けて五部と為すと,各々其の貴人を立てて帥と為し,漢人を選んで司馬と為して以って之を監督させた。
 八月,魏以大理鐘繇爲相國。
6.八月,魏は大理であった鐘繇を以って(魏の)相國と為した。
 冬,十月,魏王操治兵撃孫權;十一月,至譙。

7.冬,十月,魏王である曹操は兵を治めて孫権を撃つこととした;十一月,譙に至った。


翻訳者:ニセクロ

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最終更新:2007年01月12日 00:17
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