巻第六十九

資治通鑑巻第六十九
 魏紀一
  世祖文皇帝上
黃初元年(庚子、二二〇)

 春,正月,武王至洛陽;庚子,薨。王知人善察,難眩以偽。識拔奇才,不拘微賤,隨能任使,皆獲其用。與敵對陳,意思安閒,如不欲戰然;及至決機乘勝,氣勢盈溢。勳勞宜賞,不吝千金;無功望施,分豪不與。用法峻急,有犯必戮,或對之流涕,然終無所赦。雅性節儉,不好華麗。故能芟刈羣雄,幾平海內。是時太子在鄴,軍中騷動。羣僚欲秘不發喪,諫議大夫賈逵以爲事不可秘,乃發喪。或言宜諸城守,悉用譙、沛人。魏郡太守廣陵徐宣厲聲曰:「今者遠近一統,人懷效節,何必專任譙、沛以沮宿衞者之心!」乃止。靑州兵擅撃鼓相引去,衆人以爲宜禁止之,不從者討之。賈逵曰:「不可。」爲作長檄,令所在給其稟食。鄢陵侯彰從長安來赴,問逵先王璽綬所在,逵正色曰:「國有儲副,先王璽綬非君侯所宜問也。」凶問至鄴,太子號哭不已。中庶子司馬孚諫曰:「君王晏駕,天下恃殿下爲命。當上爲宗廟,下爲萬國,奈何效匹夫孝也!」太子良久乃止,曰:「卿言是也。」時羣臣初聞王薨,相聚哭,無復行列。孚厲聲於朝曰:「今君王違世,天下震動,當早拜嗣君,以鎭萬國,而但哭邪!」乃罷羣臣,備禁衞,治喪事。孚,懿之弟也。羣臣以爲太子即位,當須詔命。尚書陳矯曰:「王薨於外,天下惶懼。太子宜割哀即位,以繋遠近之望。且又愛子在側,彼此生變,則社稷危也。」即具官備禮,一日皆辦。明旦,以王后令,策太子即王位,大赦。漢帝尋遣御史大夫華歆奉策詔,授太子丞相印、綬,魏王璽、綬,領冀州牧。於是尊王后曰王太后。
1.春,正月,武王(曹操)は洛陽に至った;庚子,薨じられた。王は人を知ること善く察したため,偽りを以って眩ますことは難しかった。識れば奇才を抜(擢)し,微賤かどうかには拘らず,能に随って任せ使ったため,皆其の用を獲たのである。敵と陳<陣>を対しても,意<きもち>は安間を思い,如不欲戦然;機を決すに至って勝ちに乗ずるに及んでは,気勢は盈ち溢れたものであった。勳労には宜しく賞し,千金を吝らなかった;功無くば施しを望もうとも,分豪さえ与えなかった。法を用いること峻急であり,犯すこと有れば必ず戮した,或るいは之に対して流涕すれど,然るに終には赦す所など無かった。雅性(その性格)は節儉であり,華麗を好まなかった。故に能く群雄を芟刈し,海内を幾らもなく平げたのである。是の時太子は鄴に在って,軍中は騷動することになった。群僚は秘して喪を発しないことを欲したが,諫議大夫の賈逵が以って為すに事は秘すことできない<不可>のだからとしたため,乃ち喪を発した。或るひとが宜しく諸城守には,悉く譙、沛の人を用いるべきだと言った。魏郡太守で広陵出身の徐宣は声を厲して(荒げて)曰く:「今は<者>遠近が一統され,人は效節せんことを懐いているのだ,何ぞ必ず譙、沛(のものたち)に専任させ以って宿衛者之心を沮(喪)させることができようか!」としたため乃ち止めた。青州兵は鼓を擅撃すると相引きつれあって去っていった,眾人は以って為すに宜しく之を禁止ずべし,従わざる者は之を討つべしとした。賈逵曰く:「不可。(だめだ)」為して長檄を作らせ,(かれらが)在る所では其に稟食を給わるよう令した。鄢陵侯の曹彰が長安から<従>来たり赴くと,賈逵に先王の璽綬の所在を問うたため,賈逵は色を正して曰く:「國には儲副が有るもの,先王の璽綬は君侯が宜しく問うべき所ではありません<非>也。」凶問が鄴に至ると,太子は号哭して已まなかった。中庶子の司馬孚が諫めて曰く:「君王が晏駕されましたからには,天下は殿下が命を為してくれることを恃んでいるのです。当に上は宗廟の為,下は万國の為にすべきことがありますのに,奈<あなた>は何でまた匹夫の孝を效しているのです也!」太子は良く久しくして乃ち止めると,曰く:「卿の言は是<もっとも>である也。」時に群臣は初めて王が薨じたと聞くと,相聚まって哭し,復た行列すること無かった。司馬孚は朝(廷)に於いて声を厲<はげ>まして曰く:「今君王は世を違えられ,天下は震え動いています,当に嗣君を早く拝し,以って万國を鎮めるべきだというのに,而して但だ哭くばかりとは邪!」乃ち群臣を罷めさせ,禁衛を備えさせると,喪事を治めた。司馬孚は,司馬懿之弟である也。群臣は以って為すに太子が即位してから,当に須く詔命すべきであるとした。尚書の陳矯は曰く:「王が外に於いて薨じられたため,天下は惶懼としている。太子は宜しく哀を割いて即位すべきです,それを以って遠近之望を系(繋)ぎましょう。且つ又た愛でられていた子が側に在るわけですから,彼と此とで変が生じれば,則ち社稷が危うくありましょう也。」即ち官を具さにして礼を備えると,一日にして皆辦じた。明くる旦,王后の令を以って,太子に策し王位に即すこととすると,大赦した。漢帝は御史大夫の華歆を尋ね遣わすと策詔を奉じ,太子に丞相の印綬,魏王の璽綬を授け,領冀州牧とした。是に於いて王后を尊んで曰く王太后とした。
 改元延康。
2.延康と改元した。
 二月,丁未朔,日有食之。
3.二月,丁未朔,日食が有った。
 壬戌,以太中大夫賈詡爲太尉,御史大夫華歆爲相國,大理王朗爲御史大夫。
4.壬戌,太中大夫の賈詡を以って太尉と為し,御史大夫の華歆を相國と為し,大理の王朗が御史大夫と為った。
 丁卯,葬武王於高陵。
5.丁卯,武王を高陵に於いて葬った。
 王弟鄢陵侯彰等皆就國。臨菑臨國謁者灌均,希指奏:「臨菑侯植醉酒悖慢,劫脅使者。」王貶植爲安鄉侯,誅右刺姦掾沛國丁儀及弟黄門侍郎廙並其男口,皆植之黨也。
   魚豢論曰:諺言:「貧不學儉,卑不學恭。」非人性分殊也,勢使然耳。假令太祖防遏植等在於疇昔,此賢之心,何縁有窺望乎!彰之挾恨,尚無所至;至於植者,豈能興難!乃令楊修以倚注遇害,丁儀以希意族滅,哀夫!
6.王弟である鄢陵侯の曹彰等が皆國に就いた。臨菑(の)臨國謁者である灌均が,指奏せんことを希った:「臨菑侯の曹植は酒に醉って悖慢となり,使者を劫脅しました。」王は曹植を貶め安郷侯と為すと,右刺奸掾である沛國出身の丁儀及び弟で黄門侍郎の丁廙並びに其の男口を誅した,かれらは皆曹植之党であった也。
  魚豢は論じて曰く:諺に言う:「貧しければ儉を学ばず,卑しければ恭を学ばないものである。」人の性は分殊するものに非ざるのであって也,勢いからして然ら使むだけなのである耳。假に令するに太祖に曹植等を防遏させて疇昔に於けるに在るようさせていたなら,此の賢之心からして(曹植らの知性から見て),何ぞ縁って望みを窺うこと有ったろうか乎!曹彰が恨みを挟んだことについては,尚も至る所無かったのであるし;曹植に於いて至ったことについては<者>,豈に能く難を興しえたであろうか!乃ち令するに楊修は倚注を以ってして害されるに遇い,丁儀は希意を以ってして族滅された,哀夫!(なんと哀れなことであろうか!)
 初置散騎常侍、侍郎各四人。其宦人爲官者不得過諸署令。爲金策,藏之石室。時當選侍中、常侍,王左右舊人諷主者,便欲就用,不調餘人。司馬孚曰:「今嗣王新立,當進用海内英賢,如何欲因際會,自相薦舉邪!官失其任,得者亦不足貴也。」遂他選。
7.初めて散騎常侍、侍郎を置くこととした各四人である。其れ宦人が官者と為って諸署令に過ちを得させないようにしたのである。為金策,藏之石室。時に侍中、常侍を当選させるにあたって,王の左右にあった旧人諷主者が,便じて用に就き,余人を調えないようにしようと欲した。司馬孚は曰く:「今嗣王が新たに立ったばかりである,当に海内の英賢を進んで用いるべきであるのに,如何欲因際会,自相薦挙邪!(何をかこの機会に因ろうと欲するかの如くして,自ら相薦め挙げあおうとするのか!)官が其の任を失えば,得た者も亦た貴ぶに足らなくなろう也。」遂に他選した。
 尚書陳羣,以天朝選用不盡人才,乃立九品官人之法;州郡皆置中正以定其選,擇州郡之賢有識鑒者爲之,區別人物,第其高下。
8.尚書の陳群は,以って天朝が選び用いるに人才を尽くさないため,乃ち九品官人之法を立てた;州郡には皆中正を置いて以って其の選を定め,州郡之賢や有識鑒なる者を擇んで之を為させ,人物を區別<区別>して,其の高下を第すこととなった。
 夏,五月,戊寅,漢帝追尊王祖太尉曰太王,夫人丁氏曰太王后。
9.夏,五月,戊寅,漢帝は王祖太尉を追尊して曰く太王とし,夫人丁氏を曰く太王后とした。
 10王以安定太守鄒岐爲涼州刺史,西平麴演結旁郡作亂以拒岐。張掖張進執太守杜通,酒泉黄華不受太守辛機,皆自稱太守以應演。武威三種胡復叛。武威太守毋丘興告急於金城太守、護羌校尉扶風蘇則,則將救之,郡人皆以爲賊勢方盛,宜須大軍。時將軍郝昭、魏平先屯金城,受詔不得西度。則乃見郡中大吏及昭等謀曰:「今賊雖盛,然皆新合,或有脅從,未必同心。因釁撃之,善惡必離,離而歸我,我增而彼損矣。既獲益眾之實,且有倍氣之勢,率以進討,破之必矣。若待大軍,曠日彌久,善人無歸,必合於惡,善惡就合,勢難卒離。雖有詔命,違而合權,專之可也。」昭等從之,乃發兵救武威,降其三種胡,與毋丘興撃張進於張掖。麴演聞之,將步騎三千迎則,辭來助軍,實欲爲變,則誘而斬之,出以徇軍,其黨皆散走。則遂與諸軍圍張掖,破之,斬進。黄華懼,乞降,河西平。初,敦煌太守馬艾卒官,郡人推功曹張恭行長史事;恭遣其子就詣朝廷請太守。會黃華、張進叛,欲與敦煌並勢,執就,劫以白刃。就終不回,私與恭疏曰:「大人率厲敦煌,忠義顯然,豈以就在困厄之中而替之哉!令大軍垂至,但當促兵以掎之耳。願不以下流之愛,使就有恨於黄壤也。」恭即引兵攻酒泉,別遣鐵騎二百及官屬,緣酒泉北塞,東迎太守尹奉。黃華欲救張進,而西顧恭兵,恐撃其後,故不得往而降。就卒平安,奉得之郡,詔賜恭爵關内侯。
10.王は安定太守の鄒岐を以って涼州刺史と為したところ,西平の麴演が旁郡と結んで乱を作り以って鄒岐を拒んできた。張掖の張進は太守の杜通を執らえ,酒泉の黄華は太守の辛機を受けいれず,皆太守を自称して以って麴演に応じた。武威の三種胡が復た叛いた。武威太守の毋丘興は金城太守、護羌校尉で扶風出身の蘇則に<於>急を告げてきたため,則ち将に之を救おうとしたところ,郡人は皆が以って為すに賊の勢いが盛んとなっていることを方じ,宜しく須く大いに軍をおこすべきとした。時に将軍の郝昭、魏平が先んじて金城に駐屯していたが,詔を受けても西に度ることを得なかった。則ち乃ち郡中の大吏及び郝昭等に見えると謀って曰く:「今賊は盛んであると雖も,然るに皆新たに合わさったばかり,或るいは脅されて従っていることも有り,未だ必ずしも心を同じくしていない。因って之を釁撃すれば,善惡からして必ずや離れよう,離れたものが而して我らに帰せば,我らは増し而して彼らは損なわれる矣。既に益眾之実を獲て,且つ倍気之勢が有るのだから,率いて以って進んで討てば,之を破ること必ずならん矣。若し大軍を待てば,日を曠ずること彌久しくなれば,善人も帰すこと無くなって,必ず惡に於いて合わさろう,善惡が合わさるに就けば,勢いからして(倉)卒に離れること難しくなる。詔命有ると雖も,それに違えて而して権を合わせ,之を専らにす可きであろう也。」郝昭等は之に従うと,乃ち兵を発して武威を救いにでて,其の三種胡を降し,毋丘興と張掖に於いて張進を撃った。麴演は之を聞くと,歩騎三千を将いて蘇則を迎えにきた,辞すことには軍を助けに来たとしたが,実は変を為そうと欲してのことであった,そこで蘇則は誘って而して之を斬りすて,出て以って軍を徇したところ,其の党は皆散りぢりに走った。蘇則は遂に諸軍と張掖を囲み,之を破ると,斬って進んだ。黄華は懼れて,降らんことを乞うてき,河西は平らげられた。初め,敦煌太守の馬艾が官にあったまま卒したため,郡人は功曹の張恭を推して行長史事とした;張恭は其の子の張就を遣わして朝廷に詣でさせると太守を(派遣してくれるよう)請うた。黄華、張進が叛くことに会うと,敦煌と勢いを並べようと欲し,張就を執らえると,白刃を以って劫した。張就は終に回さず,私ごととして張恭と疏して曰く:「大人は敦煌を率い厲まして,忠義は顯然としております,豈に困厄之中に就き在るを以ってして而して之を替えようとするのです哉!大軍に垂至するよう令し,但だ当に兵を促して以って之を掎とすべきだけです耳。願わくば下流之愛を以ってして,この張就に黄壤に於いて恨み有ら使ませないように也。」張恭は即ち兵を引きつれて酒泉を攻めると,別に鉄騎二百及び官属を遣わして,酒泉の北塞に縁らせ,東して太守の尹奉を迎えさせた。黄華は張進を救おうと欲したが,而して西は張恭の兵を顧みて,其の後ろを撃たれることを恐れて,故に往くことを得ずに而して降った。張就は卒平安,奉得之郡,詔あって張恭に爵を賜り関内侯とした。
 11六月,康午,王引軍南巡。
11.六月,康午,王は軍を引きつれ南に巡った。
 12秋,七月,孫權遣使奉獻。
12.秋,七月,孫権が使いを遣わして奉獻してきた。
 13蜀將軍孟達屯上庸,與副軍中郎將劉封不協;封侵陵之,達率部曲四千餘家來降。達有容止才觀,王甚器愛之,引與同輦,以達爲散騎常侍、建武將軍,封平陽亭侯。合房陵、上庸、西城三郡爲新城,以達領新城太守,委以西南之任。行軍長史劉曄曰:「達有苟得之心,而恃才好術,必不能感恩懷義。新城與孫、劉接連,若有變態,爲國生患。」王不聽。遣征南將軍夏侯尚、右將軍徐晃與達共襲劉封。上庸太守申耽叛封來降,封破,走還成都。初,封本羅侯寇氏之子,漢中王初至荊州,以未有繼嗣,養之爲子。諸葛亮慮封剛猛,易世之後,終難制御,勸漢中王因此際除之;遂賜封死。
13.蜀の将軍の孟達は上庸に駐屯していたが,副軍中郎将の劉封と不協であった;劉封が之を侵陵したため,孟達は部曲四千余家を率いて来降した。孟達は容止才観を有したため,王は之を甚だ器愛し,引いてこれと輦を同じくし,孟達を以って散騎常侍、建武将軍と為すと,平陽亭侯に封じた。房陵、上庸、西城の三郡を合わせて新城(郡)と為すと,孟達を以って新城太守を領させ,以って西南之任を委ねたのである。行軍長史の劉曄は曰く:「孟達には苟得之心が有る,而して才を恃んで術を好むのだから,必ずや恩を感じて義に懐くこと能わないだろう。新城と孫、劉とは接し連なっている,若し態(度)を変えること有れば,國の為に患いを生じよう。」王は聴きいれなかった。征南将軍の夏侯尚、右将軍の徐晃と孟達を遣わして共に劉封を襲わせた。上庸太守の申耽は劉封に叛いて来降したため,劉封は破れて,走って成都に還った。初め,劉封は本は羅侯である寇氏之子であった,漢中王が初めて荊州に至ったおり,未だ繼嗣を有さなかったことを以って,之を養って子と為したのである。諸葛亮は劉封が剛猛であることを慮り,世を易えてから後となれば,終に制御すること難くなるとして,漢中王に此の際に因って之を除くよう勧めたため;遂に劉封に死を賜ったのである。
 14武都氐王楊僕率種人内附。
14.武都の氐王楊僕が種人を率いて内に附いた。
 15甲午,王次於譙,大饗六軍及譙父老於邑東,設伎樂百戲,吏民上壽,日夕而罷。
   孫盛曰:三年之喪,自天子達於庶人。故雖三季之末,七雄之敝,猶未有廢衰斬於旬朔之間,釋麻杖於反哭之日者也。逮於漢文,變易古制,人道之紀,一旦而廢,固已道薄於當年,風頹於百代矣。魏王既追漢制,替其大禮,處莫重之哀而設饗宴之樂,居貽厥之始而墮王化之基,及至受禪,顯納二女,是以知王齡之不遐,卜世之期促也。
15.甲午,王は次いで譙に於けると,六軍及び譙の父老たちを邑の東に於いて大いに饗した,伎楽百戲を設け,吏民は上壽した,日夕にして而して罷めた。
  孫盛曰く:三年之喪は,天子から<自>(はじまり)庶人に於いて達するものである。故に三季之末と雖も,七雄之敝は,猶も未だ旬朔之間に於いて廃れ衰え斬られること有らざるがごときであった,釋麻杖於反哭之日者也。逮於漢文,変易古制,人道之紀,一旦而廃,固已道薄於当年,風は百代に於いて頽れるものである矣。魏王は既にして漢の制を追いやり,其の大礼を替えた,莫重之哀に処して而して饗宴之楽を設けたのは,貽厥之始めに居りながら而して王化之基を堕(落)させたものであった,受禅に至るに及び,二女を顯納した,是ぞ以って王齡之不遐を知るものであり,卜世之期が促されるのである也。
 16王以丞相祭酒賈逵爲豫州刺史。是時天下初定,刺史多不能攝郡。逵曰:「州本以六條詔書察二千石以下,故其狀皆言嚴能鷹揚,有督察之才,不言安靜寬仁,有愷悌之德也。今長吏慢法,盜賊公行,州知而不糾,天下復何取正乎!」其二千石以下,阿縱不如法者,皆舉奏免之。外修軍旅,內治民事,興陂田,通運渠,吏民稱之。王曰:「逵眞刺史矣。」布告天下,當以豫州爲法;賜逵爵關內侯。
16.王は丞相祭酒の賈逵を以って豫州刺史と為した。是時天下は初めて定まったばかりで,刺史の多くが郡を攝すること能わなかった。賈逵は曰く:「州は(州の刺史は)本もとは六條の詔書を以ってして二千石以下を察すものです,故に其の状は皆、厳能鷹揚なら,督察之才が有ると言い,安靜寬仁なら,愷悌之徳が有るとは言いません也。今や長吏が法を慢と(漫然と施行)しているため,盜賊が公に行われているというのに,州は知りながら而して糾していません,天下は復すに何をか取って正しいとするのです乎!」其の二千石以下,阿り縱にして法の如からざる者は,皆挙げて奏じ之を免じた。外は軍旅を修め,内は民事を治め,陂田を興して,運渠を通じさせたところ,吏民は之を称えた。王曰く:「賈逵は真<まこと>の刺史である矣。」天下に佈告し,当に豫州を以って法と為すべしとした;賈逵に爵を賜り関内侯とした。
 17左中郎將李伏、太史丞許芝表言:「魏當代漢,見於圖緯,其事衆甚。」羣臣因上表勸王順天人之望,王不許。冬,十月,乙卯,漢帝告祠高廟,使行御史大夫張音持節奉璽綬詔冊,禪位於魏。王三上書辭讓,乃爲壇於繁陽,辛未,升壇受璽綬,即皇帝位,燎祭天地、岳瀆,改元,大赦。十一月,癸酉,奉漢帝爲山陽公,行漢正朔,用天子禮樂;封公四子爲列侯。追尊太王曰太皇帝;武王曰武皇帝,廟號太祖;尊王太后曰皇太后。以漢諸侯王爲崇德侯,列侯爲關中侯。羣臣封爵、增位各有差。改相國爲司徒,御史大夫爲司空。山陽公奉二女以嬪於魏。帝欲改正朔,侍中辛毘曰:「魏氏遵舜、禹之統,應天順民;至於湯、武,以戰伐定天下,乃改正朔。孔子曰:『行夏之時,』左氏傳曰:『夏數爲得天正,』何必期於相反!」帝善而從之。時羣臣並頌魏德,多抑損前朝;散騎常侍衞臻獨明禪授之義,稱揚漢美。帝數目臻曰:「天下之珍,當與山陽共之。」帝欲追封太后父、母,尚書陳羣奏曰:「陛下以聖德應運受命,創業革制,當永爲後式。案典籍之文,無婦人分土命爵之制。在禮典,婦因夫爵。秦違古法,漢氏因之,非先王之令典也。」帝曰:「此議是也,其勿施行。」仍著定制,藏之臺閣。
17.左中郎将の李伏、太史丞の許芝が表して言った:「魏は当に漢に代わるべし,図緯に於いて見ると,其の事は眾甚としています。」群臣は因って上表して王に天人之望みに順うよう勧めたが,王は許さなかった。冬,十月,乙卯,漢帝は高廟に告祠し,使って御史大夫の張音を行かせ持節させて璽綬を奉じさせて詔冊させ,魏に於いて禅位した。王は三たび上書して辞し讓じていたが,乃ち繁陽に於いた壇を為すと,辛未,升壇して璽綬を受け,皇帝に即位し,天地、岳瀆を燎祭すると,改元して,大赦した。十一月,癸酉,漢帝を奉って山陽公と為すと,漢の正朔を行い,天子の礼楽を用いてよいこととした;公の四子を封じて列侯と為した。太王を追尊して曰く太皇帝とした;武王は曰く武皇帝とした,廟号は太祖である;王太后を尊んで曰く皇太后とした。漢の諸侯王を以って崇徳侯と為し,列侯は関中侯と為した。群臣への封爵、増位には各々差が有った。相國を改めて司徒と為し,御史大夫は司空と為った。山陽公は二女を奉じると以って魏に於ける嬪とした。帝は正朔を改めようと欲したが,侍中の辛毘は曰く:「魏氏は舜、禹之統を遵んで,天に応じて民に順っております;湯、武に於けるに至っては,戦を以ってして天下を伐定したため,乃ち正朔を改めたのです。孔子は曰く:『夏之時を行う,』《左氏伝》に曰く:『夏は何度も天正を得るを為した,』何必期於相反!」帝は善しとして而して之に従った。時に群臣は並んで魏の徳を頌したが,多くが前朝を抑損するものであった;散騎常侍の衛臻は独り禅授之義を明らかにして,漢の美しきを称揚した。帝は衛臻を数目して曰く:「天下之珍である,当に山陽に与して之と共にすべきだろうな。」帝は太后の父、母を追封しようと欲したが,尚書の陳群が奏して曰く:「陛下には聖徳を以ってして(天)運に応じて(天)命を受けられました,創業あって革制されたのですから,当に後式を永為すべきです。典籍之文を案じますに,婦人への分土命爵之制は無いのです。礼典に在るのは,婦は夫の爵に因るということ。秦は古法を違え,漢氏が之に因ったのですが,先王之令典には非ざるものです也。」帝曰:「此の議は是<もっとも>である也,其れ施行すること勿れ。」仍ち著して制を定め,之を台閣に蔵した。
 18十二月,初營洛陽宮。戊午,帝如洛陽。
18.十二月,初めて洛陽宮を造営した。戊午,帝は洛陽についた。
 19帝謂侍中蘇則曰:「前破酒泉、張掖,西域通使敦煌,獻徑寸大珠,可復求市益得不?」則對曰:「若陛下化洽中國,德流沙幕,即不求自至。求而得之,不足貴也。」帝嘿然。
19.帝は侍中の蘇則に謂いて曰く:「前に酒泉、張掖を破ったおり,西域は使いを敦煌に通じさせ,徑寸の大珠を献じてきたが,可復た求市に益を求めて得られるか不か?」蘇則は対して曰く:「若し陛下が中國に王化を洽めれば,徳は沙幕にまで流れましょうから,即ち求めなくとも自ずと至りましょう。求めて而して之を得るのは,貴ぶに足らざることです也。」帝は嘿然とした。
 20帝召東中郎將蔣濟爲散騎常侍。時有詔賜征南將軍夏侯尚曰:「卿腹心重將,特當任使,作威作福,殺人活人。」尚以示濟。濟至,帝問以所聞見,對曰:「未有他善,但見亡國之語耳。」帝忿然作色而問其故,濟具以答,因曰:「夫『作威作福』,書之明誡。天子無戲言,古人所愼,惟陛下察之!」帝即遣追取前詔。
20.帝は東中郎将の蔣済を召すと散騎常侍と為した。時に詔を征南将軍夏侯尚に賜ることが有って曰く:「卿は腹心にして重将である,特当任使,作威作福,殺人活人。(作威作福、殺人活人について使うを任せ特当とする)」夏侯尚は以って蔣済に示した。蔣済が至ると,帝は(蔣済が)見聞した所を問うたところ,対して曰く:「未だ他に善なるものが有るのでもなし,但だ亡國之語に見えただけです耳。」帝は忿然として色を作ると而して其の故を問うたため,蔣済は具さに以って答え,因って曰く:「夫れ『作威作福』とは,《書》が明らかに誡としたことです。天子には戲言など無いのです,古人が慎んだ所ですから,惟だただ陛下には之を察せられますよう!」帝は即ち遣わすと追って前の詔を取りあげさせた。
 21帝欲徙冀州士卒家十萬戶實河南,時天旱,蝗,民飢,羣司以爲不可,而帝意甚盛。侍中辛毘與朝臣俱求見,帝知其欲諫,作色以待之,皆莫敢言。毘曰:「陛下欲徙士家,其計安出?」帝曰:「卿謂我徙之非邪?」毘曰:「誠以爲非也。」帝曰:「吾不與卿議也。」毘曰:「陛下不以臣不肖,置之左右,廁之謀議之官,安能不與臣議邪!臣所言非私也,乃社稷之慮也,安得怒臣!」帝不答,起入内。毘隨而引其裾,帝遂奮衣不還,良久乃出,曰:「佐治,卿持我何太急邪!」毘曰:「今徙,既失民心,又無以食也,故臣不敢不力爭。」帝乃徙其半。帝嘗出射雉,顧羣臣曰:「射雉樂哉!」毘對曰:「於陛下甚樂,於羣下甚苦。」帝默然,後遂爲之稀出。
21.帝は冀州の士卒家十万戸を徙して河南を実らせようと欲した,時に天は旱となり,蝗がわき,民は饑えていたため,群司は以って為すに不可としたが,而して帝の意<きもち>は甚だ盛んであった。侍中の辛毘は朝臣と倶に見えんことを求めたところ,帝は其が諫めようと欲していることを知っていたため,色を作って以って之に待(遇)したため,皆敢えて言うものなど莫かった。辛毘は曰く:「陛下には士家を徙そうと欲されているとか,其の計は安れにか出たのです?」帝曰く:「卿は我に之を徙すことを非と謂うのか邪?」辛毘曰く:「誠に以って非と為すものです也。」帝曰く:「吾は卿とは議すことなどない也。」辛毘曰く:「陛下は臣を以って不肖となさらず,之を左右に置かれました,廁之謀議之官,安んぞ能く臣を議に与らせないままでおれましょう邪!臣が言いし所は私ごとに非ず也,乃ち社稷之慮りなのです也,安んぞ臣に怒ること得ましょうか!」帝は答えず,起って内に入った。辛毘は隨うと而して其の裾を引っぱったため,帝は遂に衣を奮って還らなかった,良く久しくして乃ち出てくると,曰く:「佐治よ,卿持我何太急邪!」辛毘曰く:「今徙せば,既にして民心を失いましょう,又た以って食べさせることもできません<無>也,故に臣は敢えて力爭しないわけにはいかないのです。」帝は乃ち其の半ばを徙した。帝は嘗つて雉を射ちに出ることがあり,群臣を顧みて曰く:「雉を射つのは楽しいものだな哉!」辛毘は対して曰く:「陛下に於かれましては甚だ楽しいことでしょうが,群下に於いては甚だ苦しんでいるものです。」帝は默然とすると,後には遂に之が為に出ることは稀となった。
二年(辛丑、二二一)

 春,正月,以議郎孔羨爲宗聖侯,奉孔子祀。
1.春,正月,議郎の孔羨を以って宗聖侯と為すと,孔子の祀を奉じさせた。
 三月,加遼東太守公孫恭車騎將軍。
2.三月,遼東太守の公孫恭に車騎将軍(の位)を加えた。
 初復五銖錢。
3.初めて五銖錢を復活させた。
 蜀中傳言漢帝已遇害,於是漢中王發喪制服,謚曰孝愍皇帝。羣下競言符瑞,勸漢中王稱尊號。前部司馬費詩上疏曰:「殿下以曹操父子逼主簒位,故乃羈旅萬里,糾合士衆,將以討賊。今大敵未克而先自立,恐人心疑惑。昔高祖與楚約,先破秦者王之。及屠咸陽,獲子嬰,猶懷推讓。況今殿下未出門庭,便欲自立邪!愚臣誠不爲殿下取也。」王不悅,左遷詩爲部永昌從事。夏,四月,丙午,漢中王即皇帝位於武擔之南,大赦,改元章武。以諸葛亮爲丞相,許靖爲司徒。
   臣光曰:天生烝民,其勢不能自治,必相與戴君以治之。苟能禁暴除害以保全其生,賞善罰惡使不至於亂,斯可謂之君矣。是以三代之前,海内諸侯,何啻萬國,有民人、社稷者,通謂之君。合萬國而君之,立法度,班號令,而天下莫敢違者,乃謂之王。王德既衰,強大之國能帥諸侯以尊天子者,則謂之霸。故自古天下無道,諸侯力爭,或曠世無王者,固亦多矣。秦焚書坑儒,漢興,學者始推五德生、勝,以秦爲閏位,在木火之間,霸而不王,於是正閏之論興矣。及漢室顛覆,三國鼎跱。晉氏失馭,五胡雲擾。宋、魏以降,南北分治,各有國史,互相排黜,南謂北爲索虜,北謂南爲島夷。朱氏代唐,四方幅裂,朱邪入汴,比之窮、新,運暦年紀,皆棄而不數,此皆私己之偏辭,非大公之通論也。
   臣愚誠不足以識前代之正閏,竊以爲苟不能使九州合爲一統,皆有天子之名,而無其實者也。雖華夷仁暴,大小強弱,或時不同,要皆與古之列國無異,豈得獨尊獎一國謂之正統,而其餘皆爲僭偽哉!若以自上相授受者爲正邪,則陳氏何所授?拓跋氏何所受?若以居中夏者爲正邪,則劉、石、慕容、苻、姚、赫連所得之土,皆五帝、三王之舊都也。若有以道德者爲正邪,則蕞爾之國,必有令主,三代之季,豈無僻王!是以正閏之論,自古及今,未有能通其義,確然使人不可移奪者也。臣今所述,止欲敘國家之興衰,著生民之休戚,使觀者自擇其善惡得失,以爲勸戒,非若春秋立褒貶之法,拔亂世反諸正也。正閏之際,非所敢知,但據其功業之實而言之。周、秦、漢、晉、隋、唐,皆嘗混壹九州,傳祚於後,子孫雖微弱播遷,猶承祖宗之業,有紹復之望,四方與之爭衡者,皆其故臣也,故全用天子之制以臨之。其餘地丑德齊,莫能相壹,名號不異,本非君臣者,皆以列國之制處之,彼此鈞敵,無所抑揚,庶幾不誣事實,近於至公。然天下離析之際,不可無歲、時、月、日以識事之先後。據漢傳於魏而晉受之,晉傳於宋以至於陳而隋取之,唐傳於梁以至於周而大宋承之,故不得不取魏、宋、齊、梁、陳、後梁、後唐、後晉、後漢、後週年號,以紀諸國之事,非尊此而卑彼,有正閏之辨也。昭烈之漢,雖雲中山靖王之後,而族屬疏遠,不能紀其世數名位,亦猶宋高祖稱楚元王后,南唐烈祖稱呉王恪後,是非難辨,故不敢以光武及晉元帝爲比,使得紹漢氏之遺統也。
4.蜀の中では漢帝が已に害に遇われたとの伝言があり,是に於いて漢中王は喪を発して服を制すると,謚して曰く孝愍皇帝とした。群下は競って符瑞あることを言い,漢中王に尊号を称するよう勧めた。前部司馬の費詩は上疏して曰く:「殿下は以って曹操父子が主に逼って位を簒(奪)したからこそ,故に乃ち万里を羈旅して,士眾を糾合し,将いて以って賊を討つことにしたのでしょう。今大敵には未だ克てずして而して先ず自ら立とうとされる,恐らくは人心が疑い惑うことでしょう。昔高祖が楚と約(束)したとき,先に秦を破った者が之に王となるとしました。咸陽を屠り,子嬰を獲るに及んでも,猶も推讓を懐いたのです。況んや今殿下は未だ門庭を出でずして,便じて自ら立とうと欲するなど邪!愚臣誠不為殿下取也。」王は悦ばず,費詩を左遷して永昌従事を部すよう為した。夏,四月,丙午,漢中王は武擔之南に於いて皇帝に即位し,大赦すると,章武と改元した。諸葛亮を以って丞相と為し,許靖を司徒と為した。
  臣(司馬)光曰く:天は烝民を生んだ,其の勢いが自らを治めること能わざることから,必ず相与えて君を戴いて以って之を治めさせたのである。苟しくも能く暴を禁じて害を除き以って其の生を保ち全うさせ,善を賞して惡を罰し使って乱に於けるに至らせないようにする,斯くは之を君と謂う可きであろう矣。是が以って三代之前,海内諸侯,何啻万國で,民人、社稷を有する者が,通じて之を君と謂ったのである。万國を合わせて而して之に君たらんとし,法度を立てて,号令を班す,而して天下で(それに)敢えて違える者が莫ければ,乃ち之を王と謂う。王の徳が既にして衰えたなか,強大な國で能く諸侯を帥して以って天子を尊ぶ者が,則ち之を霸と謂う。故に古より<自>天下が無道となれば,諸侯は力めて争い,或るいは曠世となって王の無い者,固より亦た多からん矣。秦は焚書坑儒したが,漢が興って,学者は五徳の生、勝を始め推し,以って秦を閏位と為し,木火之間に在るとし,霸であっても而して王でないとした,是に於いて正閏之論が興ったのである矣。漢室が顛覆するに及び,三國が鼎跱した。晉氏が馭を失って,五胡が雲擾した。宋、魏以降は,南北が分治することとなり,各々が國史を有して,互いに相排黜しあった,南では北は索虜を為していると謂い,北では南は島夷と為ったと謂った。硃氏が唐に代わると,四方が幅裂し,硃邪が汴に入ったあと,之で窮し、新めるに比した,運歴年紀については,皆棄てて而して数えない,此は皆私己之偏辞であって,大公之通論に非ざるなり也。
  臣は愚かしくも誠に以って前代之正閏を識るに不足しており,竊うに以為<おもえら>くは苟しくも九州をして合わて一統と為さ使むに能わざれば,皆天子之名を有するとしても,而して其の実など無い者である也。華夷仁暴と雖も,大小強弱がある,或るいは時が同じからず,要は皆古之列國と異なることなど無い,豈に独り一國を尊獎して之を正統と謂えようか,而して其の余りは皆僭偽を為したにすぎない哉!若<けだ>し以って上より<自>相授受しあってきた者が正しきを為すのか邪,ならば則ち陳氏は何所授(どこに天命を授けたというのか)?拓跋氏は何所受(どこから天命を受けたというのか)?若し中夏に居る者を以ってして正しきと為すのか邪,ならば則ち劉、石、慕容、苻、姚、赫連が得た所の土(地)は,皆五帝、三王之旧都であろう也。若し道徳ある者を以ってして正しきを為すのか邪,ならば則ち蕞爾之國には,必有令主,三代之季,豈に王を僻すことなど無いだろうか!是とするのは正閏之論を以ってしては,古より<自>今に及ぶまで,未だ其の義に通じること能うるものなど有らず,確然としているのは人をして移し奪わ使むこと可からざるということ<者>である也。臣が今述べし所は,止欲敘國家之興衰,著生民之休戚,観る者をして自ずと其の善惡得失を擇ば使め,以って勧戒と為させるもので,《春秋》が褒貶之法を立てた若くに非ず,乱世を抜いて諸正に反そうとしてのことである也。正閏之際は,敢えて知る所に非ず,但だ其の功業之実に拠って而して之を言うだけである。周、秦、漢、晉、隋、唐は,皆嘗て九州を混壹し,後に於いて祚を伝えた,子孫は微弱にして播遷したと雖も,猶も祖宗之業を承り,紹復之望みが有った,四方で之と衡を争った者たちは,皆其の故臣であったのだ也,故に天子之制を全用して以って之に臨むこととした。其の余りは地丑して徳斉しく,能く相壹すこと莫かったから,名号は異ならずとも,本より君臣に非ざる者は,皆列國之制を以ってして之に処した,彼此鈞敵すれば,抑揚する所とて無くした,庶幾不誣事実,近於至公。然るに天下離析之際には,歳、時、月、日が無くば以って事之先後を識る可からず。拠ってみると漢は魏に於いて伝え而して晉が之を受けた,晉は宋に於いて伝え陳に於けるに至ったのを以ってして而して隋が之を取り,唐が梁に於いて伝えて周に於けるに至るを以ってして而して大宋が之を承った,故に魏、宋、斉、梁、陳、後梁、後唐、後晉、後漢、後週の年号を取らざるを得ないのである,諸國之事を紀すを以ってするに,此を尊び而して彼を卑しむに非ず,正閏之辨が有るだけであろう也。昭烈之漢は,中山靖王之後を雲したと雖も,而して族属は疏遠であって,其の世数名位を紀すこと能わず,亦た猶も宋の高祖が楚の元王の后を称し,南唐の烈祖が呉王恪の後を称すがごときは,是非難辨するというものであろう,故に敢えて光武及び晉の元帝を以ってして比べ為すことせず,漢氏之遺統を紹すること得させ使めることにした也。
 孫權自公安徙都鄂,更名鄂曰武昌。
5.孫権は都を公安から<自>鄂に徙すと,名を更めて鄂を曰く武昌とした。
 五月,辛巳,漢主立夫人呉氏爲皇后。後,偏將軍懿之妹,故劉璋兄瑁之妻也。立子禪爲皇太子。娶車騎將軍張飛女爲太子妃。
6.五月,辛巳,漢主は夫人の呉氏を立てて皇后と為した。後,偏将軍の呉懿之妹で,故の劉璋の兄である劉瑁之妻であった也。子の劉禅を立てて皇太子と為した。車騎将軍張飛の女<むすめ>を娶って太子の妃と為した。
 太祖之入鄴也,帝爲五官中郎將,見袁熙妻中山甄氏美而悅之,太祖爲之聘焉,生子叡。及即皇帝位,安平郭貴嬪有寵,甄夫人留鄴不得見。失意,有怨言。郭貴嬪譖之,帝大怒。六月,丁卯,遣使賜夫人死。
7.太祖が鄴に入るや也,帝は五官中郎将と為っていたが,袁熙の妻であった中山出身の甄氏に見えて美しかったため而して之を悦び,太祖は之に焉を聘すを為したところ,子の叡を生んだ。皇帝に即位するに及び,安平出身の郭貴嬪に寵が有るようになり,甄夫人は鄴に留められて見えるを得なかった。そのため失意して,怨み言が有った。郭貴嬪が之を譖じたため,帝は大いに怒った。六月,丁卯,使いを遣わして夫人に死を賜った。
 帝以宗廟在鄴,祀太祖於洛陽建始殿,如家人禮。
8.帝は以って宗廟が鄴に在ったことから,太祖を洛陽建始殿に於いて祀ったが,家人の礼の如くした。
 戊辰晦,日有食之。有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱,豈禹、湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地之眚,勿復劾三公。」
9.戊辰晦,日食が有った。有司が太尉を免じるよう奏上した,詔あって曰く:「災異之作るや,以って元首を譴すものである,而して過を股肱に帰すなど,豈に禹、湯罪己之義乎!其れ百官に令す各々職に虔厥するように。後に天地之眚が有ったとしても,復た三公を(弾)劾すること勿れ。」
 10漢主立其子永爲魯王,理爲梁王。
10.漢主は其の子劉永を立てて魯王と為し,劉理を梁王と為した。
 11漢主恥關羽之沒,將撃孫權。翊軍將軍趙雲曰:「國賊,曹操,非孫權也。若先滅魏,則權自服。今操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與呉戰。兵勢一交,不得卒解,非策之上也。」羣臣諫者甚衆,漢主皆不聽。廣漢處士秦宓陳天時必無利,坐下獄幽閉,然後貸出。
  初,車騎將軍張飛,雄壯威猛亞於關羽;羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛禮君子而不恤軍人。漢主常戒飛曰:「卿刑殺既過差,又日鞭撾健兒而令在左右,此取禍之道也。」飛猶不悛。漢主將伐孫權,飛當率兵萬人自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,以其首順流奔孫權。漢主聞飛營都督有表,曰:「噫,飛死矣!」
   陳壽評曰:關羽、張飛皆稱萬人之敵,爲世虎臣。羽報效曹公,飛義釋嚴顏,並有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也。
11.漢主は関羽が沒したことを恥じて,将に孫権を撃とうとした。翊軍将軍の趙雲は曰く:「國賊は,曹操であって,孫権に非ず也。先ず魏を滅ぼすが若くなれば,則ち孫権は自ずと服しましょう。今曹操の身は斃れたと雖も,子の曹丕が(位を)簒(奪)して盜みとったのですから,当に眾心に因って,早く関中を図るべきです,黄河、渭水の上流に居って以って凶逆を討つべきです,関東の義士は必ずや糧を裹し馬を策して以って王師を迎えるでありましょう。それなのに應じずに魏を置いて,先ず呉と戦おうとなさる。兵勢が一たび交われば,(倉)卒に解くこと得られません,策之上に非ざることです也。」群臣で諫めた者は甚だ眾かったが(多かったが),漢主は皆聴きいれなかった。広漢の処士である秦宓は天の時からして必ずや利は無いということを陳べたため,坐して獄に下されて幽閉され,然る後に貸出された。
  初め,車騎将軍の張飛は,雄壯にして威猛なること関羽に於いて亜ぐものであった;関羽は卒伍を善く待(遇)したが而して士大夫に於いては驕(慢)であった,張飛は君子を愛し礼したが而して軍人には不恤であった。漢主は常に張飛を戒めて曰く:「卿は刑殺すること既に差を過ぎる,又た日ごと健兒を鞭撾しているのに而して令して左右に在るようにしている,此は禍之道を取ることだぞ也。」しかし張飛は猶も不悛であった。漢主が将に孫権を伐そうとすると,張飛は当に兵万人を率いるべく閬中から<自>江州へ会しにいこうとした。発する(出立)に臨み,其の帳下の将である張達、范彊が張飛を殺し,其の首を以って流れに順い孫権のところへ奔った。漢主は張飛の営の都督から表が有ると聞くと,曰く:「噫(なんということだ),張飛が死んだ矣!」
  陳壽は評して曰く:関羽、張飛は皆万人之敵と称えられ,世の虎臣と為った。関羽は曹公にたいしてその效しに報い,張飛の義は厳顔を釋し,並んで國士之風が有った。然るに関羽は剛ゆえに而して自らを矜り,張飛は暴ゆえに而して恩は無かったため,その短を以ってして敗れることとなった<取>のは,理数之常というものであろう也。
 12秋,七月,漢主自率諸軍撃孫權,權遣使求和於漢。南郡太守諸葛瑾遺漢主箋曰:「陛下以關羽之親,何如先帝?荊州大小,孰與海内?倶應仇疾,誰當先後?若審此數,易於反掌矣。」漢主不聽。時或言瑾別遣親人與漢主相聞者,權曰:「孤與子瑜,有死生不易之誓,子瑜之不負孤,猶孤之不負子瑜也。」然謗言流聞於外,陸遜表明瑾必無此,宜有以散其意。權報曰:「子瑜與孤從事積年,恩如骨肉,深相明究。其爲人,非道不行,非義不言。玄德昔遣孔明至呉,孤嘗語子瑜曰:『卿與孔明同産,且弟隨兄,於義爲順,何以不留孔明?孔明若留從卿者,孤當以書解玄德,意自隨人耳。』子瑜答孤言:『弟亮已失身於人。委質定分,義無二心。弟之不留,猶瑾之不往也。』其言足貫神明,今豈當有此乎!前得妄語文疏,即封示子瑜,並手筆與之。孤與子瑜可謂神交,非外言所間,知卿意至,輒封來表以示子瑜,使知卿意。」漢主遣將軍呉班、馮習攻破權將李異、劉阿等於巫,進軍秭歸,兵四萬餘人,武陵蠻夷皆遣使往請兵。權以鎭西將軍陸遜爲大都督、假節,督將軍朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮於丹、孫桓等五萬人拒之。
12.秋,七月,漢主は自ら諸軍を率いて孫権を撃ちにでたため,孫権は使いを遣わして漢に於いて和を求めてきた。南郡太守の諸葛瑾は漢主に箋を遣わして曰く:「陛下には関羽之親を以ってして,何如先帝?荊州の大小は,海内と孰くでしょうか?倶に仇疾に応じるにあたり,誰が当に先後すべきでしょうか?若し此の数を審らかにするならば,易きこと掌を反すに於けることでしょう矣。」としたが漢主は聴きいれなかった。時に或るひとが諸葛瑾は別に親しい人を遣わして漢主と相聞こえあっている<者>と言ってきたが,孫権は曰く:「孤と子瑜には,死生不易之誓いが有るのだ,子瑜が孤に負わないのは,猶も孤が子瑜に負わないがごとしなのだ也。」然るに謗言が外に於いて流れ聞こえ,陸遜が諸葛瑾(の無実)を明らかにして必ずや此のようなことは無いと表し,宜しく以って其の意を散らしめんこと有るようにとしてきた。孫権は報いて曰く:「子瑜と孤とが従事して積年しており,恩は骨肉の如く,深く相明究しあっている。其の為人は,道に非ざれば行わず,義に非ざれば言わない。玄徳が昔孔明を遣わして呉に至らせたおり,孤は嘗て子瑜に語って曰く:『卿は孔明とは産まれを同じくするとか,且つ弟は兄に隨うものなのだから,義に於いて順うこと為せるだろう,何ぞ以って孔明を留めないのだ?孔明が若し卿に従って留まること<者>になったら,孤は当に書を以って玄徳を解こう,意自隨人耳。』とすると子瑜は孤に答えて言ったのだ:『弟の亮は已に人に於いて身を失ったものです。質を委ねて分を定めようとも,義には二心など無いものです。弟が留まらないのは,猶もこの瑾が往かないようなものなのです也。』其の言は神明を貫くに足るものだった,今豈に当に此のようなことが有るものだろうか乎!前に得た妄語文疏については,即封示子瑜(即座に封をして子瑜に示してある),並んで手づから筆をとって之を与えた。孤と子瑜とは神交とも謂う可きもので,外の言が間をあける所に非ず,卿の意が至るを知った,輒ち来た表を封じて以って子瑜に示し,卿の意を知ら使めることとする。」漢主は将軍の呉班、馮習を遣わして孫権の将である李異、劉阿等を巫に於いて攻め破ると,軍を秭帰に進めた,兵は四万余人,武陵蛮夷が皆使いを遣わして往きて兵を請うてきた。孫権は鎮西将軍の陸遜を以って大都督と為すと、假節とし,将軍の硃然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮於丹、孫桓等五万人を督させて之を拒ませた。
 13皇弟鄢陵侯彰、宛侯據、魯陽侯宇、譙侯林、贊侯兗、襄邑侯峻、弘農侯斡、壽春侯彪、歴城侯徽、平輿侯茂皆進爵爲公;安郷侯植改封鄄城侯。
13.皇弟である鄢陵侯の曹彰、宛侯の曹拠、魯陽侯の曹宇、譙侯の曹林、贊侯の曹兗、襄邑侯の曹峻、弘農侯の曹斡、壽春侯の曹彪、歴城侯の曹徽、平輿侯の曹茂は皆進爵して公と為った;安郷侯の曹植は改封されて鄄城侯となった。
 14築陵雲臺。
14.陵雲台を築いた。
 15初,帝詔羣臣,令料劉備當爲關羽出報孫權否,衆議咸云:「蜀小國耳,名將唯羽。羽死軍破,國内憂懼,無縁復出。」侍中劉曄獨曰:「蜀雖狹弱,而備之謀欲以威武自強,勢必用眾以示有餘。且關羽與備,義爲君臣,恩猶父子。羽死,不能爲興軍報敵,於終始之分不足矣。」八月,孫權遣使稱臣,卑辭奉章,並送於禁等還。朝臣皆賀,劉曄獨曰:「權無故求降,必內有急。權前襲殺關羽,劉備必大興師伐之。外有強寇,衆心不安,又恐中國往乘其釁,故委地求降,一以卻中國之兵,二假中國之援,以強其眾而疑敵人耳。天下三分,中國十有其八。呉、蜀各保一州,阻山依水,有急相救,此小國之利也。今還自相攻,天亡之也,宜大興師,逕渡江襲之。蜀攻其外,我襲其内,呉之亡不出旬月矣。呉亡則蜀孤,若割呉之半以與蜀,蜀固不能久存,況蜀得其外,我得其内乎!」帝曰:「人稱臣降而伐之,疑天下欲來者心,不若且受呉降而襲蜀之後也。」對曰:「蜀遠呉近,又聞中國伐之,便還軍,不能止也。今備已怒,興兵撃呉,聞我伐呉,知呉必亡,將喜而進與我爭割呉地,必不改計抑怒救呉也。」帝不聽,遂受呉降。
  于禁鬚髮皓白,形容憔悴,見帝,泣涕頓首。帝慰喻以荀林父、孟明視故事,拜安遠將軍,令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋畫關羽戰克、龐德憤怒、禁降服之状。禁見,慚恚發病死。
  臣光曰:于禁將數萬衆,敗不能死,生降於敵,既而復歸。文帝廢之可也,殺之可也,乃畫陵屋以辱之,斯爲不君矣!
15.初,帝は群臣に詔すると,劉備は当に関羽の為に出て孫権に報いるか否かを料るよう令した,眾議が鹹じて云うことに:「蜀は小國にすぎず耳,名将は唯だ関羽のみ。関羽は死んで軍は破れ,國内は憂懼していよう,縁って復た出ること無いだろう。」侍中の劉曄は独り曰く:「蜀は狹弱であると雖も,而して劉備之謀は威武を以ってして自らと強くなることを欲している,勢いからして必ずや眾を用いて以って有余を示すだろう。且つ関羽と劉備は,義では君臣と為るとも,恩は父子の猶<ごと>し。関羽が死に,軍を興して敵に報いを為すこと能わなければ,終始之分に於いて足らざることとなろう矣。」八月,孫権は使いを遣わして臣と称すると,辞を卑しくして章を奉じ,並んで于禁等を送って還してきた。朝臣は皆賀したが,劉曄は独り曰く:「孫権が故も無く降らんことを求めてきたのは,必ずや内に急が有るからだろう。孫権は前に関羽を襲って殺しているのだから,劉備は必ずや大いに師を興して之を伐するだろう。外に強寇が有れば,眾心は安んじない,又中國が往きて其の釁に乗じるを恐れ,故に地を委ねて降を求めてきたのだ,一つには以って中國之兵を卻さんとして,二つには中國之援けを假りんとして,以って其眾を強めて而して敵人を疑わせようとするのだろう耳。天下三分するとも,中國は十のうち其の八を有せり。呉、蜀は各々一州を保ち,山に阻んで水に依っており,急有れば相救おうとする,此が小國之利である也。今還って自ら相攻めあうなど,天が之を亡ぼさんとしているのだ也,宜しく大いに師を興し,江を逕渡して之を襲うべきだ。蜀が其の外を攻め,我らが其の内を襲う,呉之亡ぶのは旬月を出まい矣。呉が亡べば則ち蜀は孤りとなろう,若し呉の半ばを割いて以って蜀に与えたとしても,蜀は固より久しく存すこと能うるまい,況んや蜀が得しは其の外であり,我らが得るのは其の内におけるのだ乎!」帝曰く:「人が臣と称して降ってきたものを而して之を伐すれば,天下で来ようと欲している者の心を疑わせてしまう,且つは呉の降ったことを受けいれて而して蜀之後ろを襲うに若かず也。」対して曰く:「蜀は遠く呉は近いのです,又中國が之を伐すると聞けば,便じて軍を還しましょうが,それを止めること能いません也。今劉備は已に怒っており,兵を興して呉を撃とうとしていますが,我らが呉を伐そうとしていると聞けば,呉が必ず亡ぶことを知りましょうから,将に喜んで而して進み我らと呉の地を争い割くことでしょう,必ずや計を改めたり怒りを抑えて呉を救うことなどしないでしょう也。」帝は聴きいれず,遂に呉の降るを受けいれた。
  于禁の鬚髮は皓白とし,形容は憔悴していた,帝に見えると,泣涕して頓首した。帝は慰め喩すと荀林父、孟明が故のように事を視たことを以って,拜して安遠将軍とし,令して北は鄴に詣でて高陵に謁するようにとした。帝は豫め陵屋に於いて関羽が戦い克ち、龐徳が憤怒し、于禁が降服した状(況)を畫かせ使めた。于禁は見ると,慚じて恚り病を発して死んだ。
  臣光曰く:于禁は数万の衆を将いていた,敗れても死すこと能わず,生きて敵に<於>降った,既にして而して復た帰してきた。文帝は之を廃す可きか也,之を殺す可きであったのだ也,それなのに乃ち陵屋に畫して以って之を辱しめた,斯く不君(君子がやることでないこと)を為すなどどういうことなのか矣!
 16丁巳,遣太常邢貞奉策即拜孫權爲吳王,加九錫。劉曄曰:「不可。先帝征伐天下,十兼其八,威震海内;陛下受禪即眞,德合天地,聲曁四遠。權雖有雄才,故漢票騎帆軍、南昌侯耳,官輕勢卑。士民有畏中國心,不可強迫與成所謀也。不得已受其降,可進其將軍號,封十萬戸侯,不可即以爲王也。夫王位去天子一階耳,其禮秩服御相亂也。彼直爲侯,江南士民未有君臣之分。我信其偽降,就封殖之,崇其位號,定其君臣,是爲虎傅翼也。權既受王位,卻蜀兵之後,外盡禮以事中國,使其國内皆聞,内爲無禮以怒陛下;陛下赫然發怒,興兵討之,乃徐告其民曰:『我委身事中國,不愛珍貨重寶,隨時貢獻,不敢失臣禮,而無故伐我,必欲殘我國家,俘我人民認爲僕妾。』呉民無縁不信其言也。信其言而感怒,上下同心,戰加十倍矣。」又不聽。諸將以呉内附,意皆縱緩,獨征南大將軍夏侯尚益修攻守之備。山陽曹偉,素有才名,聞呉稱藩,以白衣與吳王交書求賂,欲以交結京師,帝聞而誅之。
16.丁巳,太常の邢貞を遣わして策を奉じて孫権を即拜して呉王と為すと,九錫を加えることになった。劉曄は曰く:「不可です。先帝が天下を征伐されて,十のうち其の八を兼ね,海内を威震させました;陛下は受禅されて即真され(皇帝に即位され),徳は天地を合わせ,声は四遠にまで暨しています。孫権は雄才を有すと雖も,故は漢の票騎帆軍、南昌侯であるだけです耳,官は輕く勢いは卑しいのです。士民は中國を畏れる心が有り,不可強迫与成所謀也。已むを得ずして其の降を受けたのですから,其の将軍号を進めて,十万戸の侯に封ずべきであって,不可即して以って王と為す可きではありません也。夫れ王の位は天子を去ること一階のみです耳,其の礼秩や服御は相乱れています也(皇帝と混同できるものです)。彼が直ちに侯と為ろうと,江南の士民には未だ君臣之分が有りません。我が信じているのは其が偽降ではないかということです,封に就いて之を殖やし,其の位号を崇め,其の君臣が定まれば,是ぞ虎に傅翼を為すことです也。孫権が既にして王位を受けてしまったうえに,蜀兵を卻してしまった後には,外では礼を尽くして以って中國に事えれば,其の國内に皆聞かさ使め,内では無礼を為して以って陛下を怒らせます;陛下が赫然として怒りを発され,兵を興こして之を討たんとしてから,乃ち徐ろに其の民に告げて曰く:『我は身を委ねて中國に事えると,珍貨や重寶を愛さず,隨時貢獻して,敢えて臣礼を失わなかった,而して故無く我を伐そうとする,必ずや我が國家を残(滅)しようと欲してのこと,我が人民を俘(虜)とし認為僕妾(僕の妾らをそのまま妾と為して認めようとしているのだろう)。』としましたならば呉の民は其の言を信<まこと>でないと縁ることが無いでしょう也。そして其の言を信じて而して怒りを感じ,上下が心を同じくすれば,戦いでは十倍を加えることになります矣。」としたが又聴きいれられなかった。諸将は以って呉が内に附いたのだからとして,意皆縱緩(皆の意<きもち>は緩めることを縦としたが),独り征南大将軍の夏侯尚だけは攻守之備えを益し修めた。山陽の曹偉は,素より才名を有した,呉が藩(屏)と称したと聞き,白衣を以って呉王に与えて書を交わし賂を求めた,そのことを以って京師(の有力者たち)と交わり結ばんと欲したのである,帝は聞くと而して之を誅した。
 17呉人城武昌。
17.呉人が武昌に(築)城した。
 18初,帝欲以楊彪爲太尉,彪辭曰:「嘗爲漢朝三公,値世衰亂,不能立尺寸之益,若復爲魏臣,於國之選,亦不爲榮也。」帝乃止。冬,十月,己亥,公卿朝朔旦,並引彪,待以客禮。賜延年杖、馮幾,使著布單衣、皮弁以見;拜光祿大夫,秩中二千石;朝見,位次三公;又令門施行馬,置吏卒,以優崇之。年八十四而卒。
18.初め,帝は楊彪を以って太尉と為そうと欲したが,楊彪は辞して曰く:「嘗て漢朝の三公と為ったおり,世は衰乱に値し,尺寸之益も立てること能わなかったのです,若し復た魏の臣と為り,國之選に於けるならば,亦た栄えを為さないことでしょう也。」帝は乃ち止めた。冬,十月,己亥,公卿朝朔旦,並んで楊彪を引きつれ,待(遇)するのに客礼を以ってした。延年杖、馮幾を賜ると,使著布單衣、皮弁以見(単衣、皮弁を著し布<ほどこ>させ以って見えさせた);拜して光祿大夫とした,秩は中二千石である;朝に見えると,位は三公に次ぐものとした;又令門施行馬,吏卒を置き,以って之を優崇した。年八十四にして而して卒した。
 19以穀貴,罷五銖錢。
19.穀を以って貴ぶこととし,五銖錢を罷めた。
 20涼州盧水胡治元多等反,河西大擾。帝召鄒岐還,以京兆尹張既爲涼州刺史,遣護軍夏侯儒、將軍費曜等繼其後。胡七千餘騎逆拒既於鸇陰口,既揚聲軍從鸇陰,乃潛由且次出武威。胡以爲神,引還顯美。既已據武威,曜乃至,儒等猶未達。既勞賜將士,欲進軍撃胡,諸將皆曰:「士卒疲倦,虜衆氣鋭,難與爭鋒。」既曰:「今軍無見糧,當因敵爲資。若虜見兵合,退依深山,追之則道險窮餓,兵還則出候寇鈔,如此,兵不得解,所謂一日縱敵,患在數世也。」遂前軍顯美。十一月,胡騎數千,因大風欲放火燒營,將士皆恐。既夜藏精卒三千人爲伏,使參軍成公英督千餘騎挑戰,敕使陽退。胡果爭奔之,因發伏截其後,首尾進撃,大破之,斬首獲生以萬數,河西悉平。後西平麴光反,殺其郡守。諸將欲撃之,既曰:「唯光等造反,郡人未必悉同。若便以軍臨之,吏民、羌、胡必謂國家不別是非,更使皆相持著,此爲虎傅翼也。光等欲以羌、胡爲援,今先使羌、胡鈔撃,重其賞募,所虜獲者,皆以畀之。外沮其勢,内離其交,必不戰而定。」乃移檄告諭諸羌,爲光等所詿誤者原之,能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨斬送光首,其餘皆安堵如故。
20.涼州盧水胡の治元多等が反し,河西は大いに擾えることとなった。帝は鄒岐を召して還すと,京兆尹の張既を以ってして涼州刺史と為し,護軍の夏侯儒、将軍の費曜等を遣わして其の後ろを継がせた。胡七千余騎が張既を鸇陰口に於いて逆らい拒んだ,張既は声を揚げて鸇陰より<従>軍するとして,乃ち潛かに且次に由って武威に出た。胡は以って為すに神だとすると,顯美に引き還した。張既は已に武威に拠り,費曜が乃ち至ったが,夏侯儒等は猶も未だ達していなかった。張既は将士を労り賜ると,進軍して胡を撃とうと欲した,諸将は皆曰く:「士卒は疲れ倦んでいまして,虜眾の気は鋭いのですから,これと鋒を争うことは難いのでは。」張既曰く:「今軍には糧を見ること無い,当に敵に因って資を為すべきだ。若し虜は兵が合わさるのを見れば,退いて深山に依るだろう,之を追えば則ち道は險しく餓えを窮めよう,兵が還れば則ち出候してきて寇鈔する,それは此の如きであって,兵は解くこと得まい,所謂一日おいたために敵を縱とすることとなり,患は数世に在ることになろう也。」遂に軍を前にすすめ顯美にむかった。十一月,胡騎数千が,大風に因って放火して営むを焼こうと欲したため,将士は皆恐れた。張既は夜に精卒三千人を蔵して伏と為すと,参軍の成公英を使わして千余騎を督させ戦いを挑ませるとともに,敕使して費陽を退かせた。胡は果たして爭って之に奔ってきたため,因って伏(兵)発(現)して其の後ろに截りかかり,首尾ともに進んで撃って,之を大いに破った,斬首し獲生したものは以って万を数え,河西は悉く平らげられた。後に西平の麴光が反し,其の郡守を殺した。諸将は之を撃とうと欲したが,張既曰く:「唯だ麴光等が造反したのみであって,郡人は未だ必ずしも悉くが同じではないだろう。若し便じて軍を以って之に臨めば,吏民、羌、胡が必ずや國家は是非を別にしていないと謂って,更めて使って皆が相持著しあうようになる,此では虎に翼を傅すようなことを為すばかりだ也。麴光等が欲しているのは羌、胡を以って援けと為そうとするものだが,今は先ず羌、胡の鈔をして撃たさ使め,其の賞募を重ねて,虜獲する所となった者は,皆以って之を畀させよう。外で其の勢いが沮(喪)し,内で其の交わりが離れれば,必ずや戦わずして而して定まろう。」乃ち檄を移して諸羌に告げ諭すと,麴光等の為に詿誤する所となった者は之を原<ゆる>すとし,能く賊帥を斬って首を送ってきた者には当に封賞を加えるとした。是に於いて麴光の部党が麴光の首を斬って送ってき,其の余りは皆が安堵すること故<もと>の如くとなった。
 21邢貞至呉,呉人以爲宜稱上將軍、九州伯,不當受魏封。呉王曰:「九州伯,於古未聞也。昔沛公亦受項羽封爲漢王,蓋時宜耳,復何損邪!」遂受之。呉王出都亭候邢貞,貞入門,不下車。張昭謂貞曰:「夫禮無不敬,法無不行。而君敢自尊大,豈以江南寡弱,無方寸之刃故乎!」貞即遽下車。中郎將琅邪徐盛忿憤,顧謂同列曰:「盛等不能奮身出命,爲國家並許、洛,呑巴、蜀,而令吾君與貞盟,不亦辱乎!」因涕泣橫流。貞聞之,謂其徒曰:「江東將相如此,非久下人者也。」呉王遣中大夫南陽趙咨入謝。帝問曰:「呉王何等主也?」對曰:「聰明、仁智、雄略之主也。」帝問其状,對曰:「納魯肅於凡品,是其聰也;拔呂蒙於行陳,是其明也;獲於禁而不害,是其仁也;取荊州兵不血刃,是其智也;據三州虎視於天下,是其雄也;屈身於陛下,是其略也。」帝曰:「呉王頗知學乎?」咨曰:「呉王浮江萬艘,帶甲百萬,任賢使能,志存經略,雖有餘閒,博覽書傳,歴史籍,采奇異,不效書生尋章摘句而已。」帝曰:「呉可征否?」對曰:「大國有征伐之兵,小國有備御之固。」帝曰:「呉難魏乎?」對曰:「帶甲百萬,江、漢爲池,何難之有!」帝曰:「呉如大夫者幾人?」對曰:「聰明特達者,八九十人;如臣之比,車載斗量,不可勝數。」帝遣使求雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、玳瑁、孔雀、翡翠、斗鴨、長鳴雞於呉。呉羣臣曰:「荊、揚二州,貢有常典。魏所求珍玩之物,非禮也,宜勿與。」呉王曰:「方有事於西北,江表元元,恃主爲命。彼所求者,於我瓦石耳,孤何惜焉!且彼在諒闇之中,而所求若此,寧可與言禮哉!」皆具以與之。
21.邢貞は呉に至ると,呉人は以って為すに上将軍、九州伯を宜しく称えるべきであり,当に魏の封を受けるべきでないとした。呉王曰く:「九州伯とは,古に於いて未だ聞かない也。昔沛公も亦た項羽の封を受けて漢王と為ったが,蓋し時宜であっただけなのだろう耳,復た何ぞ損うものだろうか邪!」遂に之を受けた。呉王は都亭に出て邢貞を候とした,邢貞は門に入っても,下車しなかった。張昭は邢貞に謂いて曰く:「夫れ礼には敬わないことなど無く,法には行わないことなど無い。而して君は敢えて自ら尊大としたが,豈に以って江南を寡弱とするのか,方寸之刃とて無いとする故なのか乎!」邢貞は即ち遽って下車した。中郎将である琅邪出身の徐盛も忿り憤って,顧みて同列に謂いて曰く:「この盛等が身を奮って出命し,國家の為に許、洛を並べ,巴、蜀を呑むこと能わずして,而して吾が君に邢貞なぞと盟するよう令させてしまった,亦た辱しからずや乎!」因って涕泣横流(涙を流すとそれは滂沱となって顔を伝った)。邢貞は之を聞いて,其の徒に謂いて曰く:「江東の将相が此の如くなれば,久しく人の下になるもの<者>に非ず也。」呉王は中大夫である南陽出身の趙咨を遣わして謝を入れさせてきた。帝は問うて曰く:「呉王は何等の主であるか也?」対して曰く:「聰明、仁智、雄略之主でございます也。」帝は其の状を問うと,対して曰く:「凡品に於いて魯肅を納れり,是ぞ其の聰なり也;行陳に於いて呂蒙を抜(擢)せり,是ぞ其の明なり也;于禁を獲しも而して害さず,是ぞ其の仁なり也;荊州を取るに兵あれど刃に血ぬらず,是ぞ其の智なり也;三州に拠りて天下を<於>虎視す,是ぞ其の雄なり也;陛下に於いて身を屈すは,是ぞ其の略なり也。」帝曰く:「呉王は頗る学を知るというが乎?」趙咨曰く:「呉王は江に万艘を浮かべて,帯甲百万,賢に任せ能を使い,志は経略に存す,余間有ると雖も,書伝を博覽し,史籍を歴し,奇異を采っており,書生が章を尋ねて句を摘むを效じない而已<のみ>。」帝曰く:「呉は征す可きか否か?」対して曰く:「大國に征伐之兵が有れば,小國に備御之固め有りかと。」帝曰く:「呉の難は魏といえようか乎?」対して曰:「帯甲百万,江、漢が池を為せり,何の難が之に有らんか!」帝曰く:「呉には大夫の如き者は幾人おるか?」対して曰く:「聰明にして特達せる者は,八九十人;臣に比すが如きは,車に載せ斗で量らんとしても,数えること勝る可からず。」帝は使いを遣わして雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、玳瑁、孔雀、翡翠、斗鴨、長鳴雞を呉に於いて求めさせた。呉の群臣は曰く:「荊、揚二州には,貢ぐに常典というものが有ります。魏が求める所の珍玩之物は,礼に非ず也,宜しく与えること勿るべし。」呉王曰く:「西北に於ける有事を方ずるに,江表は元元たるものゆえ,主を恃んで命を為そう。彼が求めし所の者は,我に於いては瓦石というだけ耳,孤は何ぞ焉を惜しまんか!且つ彼は諒闇之中に在って,而して求める所が此の若ければ,寧んぞ可与言礼哉!」皆具えて以って之を与えた。
 22呉王以其子登爲太子,妙選師友,以南郡太守諸葛瑾之子恪、綏遠將軍張昭之子休、大理呉郡顧雍之子譚、偏將軍廬江陳武之子表皆爲中庶子,入講詩書,出從騎射,謂之四友。登接待僚屬,略用布衣之禮。
22.呉王は其の子の孫登を以って太子と為すと,師友を妙選するにあたり,南郡太守である諸葛瑾之子の諸葛恪、綏遠将軍である張昭之子の張休、大理である呉郡出身の顧雍之子の顧譚、偏将軍で廬江出身の陳武之子陳表を以ってして皆中庶子と為すと,入っては詩書を講じさせ,出ては騎射に従わせ,之を謂うに四友とした。孫登は僚属を接待し,布衣之礼を略用した。
 23十二月,帝行東巡。
23.十二月,帝は東巡を行った。
 24帝欲封呉王子登爲萬戸侯,呉王以登年幼,上書辭不受;復遣西曹掾呉郡沈珩入謝,並獻方物。帝問曰:「呉嫌魏東向乎?」珩曰:「不嫌。」曰:「何以?」曰:「信恃舊盟,言歸於好,是以不嫌;若魏渝盟,自有豫備。」又問:「聞太子當來,寧然乎?」珩曰:「臣在東朝,朝不坐,宴不與,若此之議,無所聞也。」帝善之。
  呉王於武昌臨釣臺飲酒,大醉,使人以水灑羣臣曰:「今日酣飲,惟醉墮臺中,乃當止耳!」張昭正色不言,出外,車中坐。王遣人呼昭還入,謂曰:「爲共作樂耳,公何爲怒乎?」昭對曰:「昔紂爲糟丘酒池,長夜之飲,當時亦以爲榮,不以爲惡也。」王默然慚,遂罷酒。呉王與羣臣飲,自起行酒,虞翻伏地,陽醉不持;王去,翻起坐。王大怒,手劍欲撃之,侍坐者莫不惶遽。惟大司農劉基起抱王,諫曰:「大王以三爵之後,手殺善士,雖翻有罪,天下孰知之!且大王以能容賢蓄衆,故海内望風;今一朝棄之,可乎!」王曰:「曹孟德尚殺孔文舉,孤於虞翻何有哉!」基曰:「孟德輕害士人,天下非之。大王躬行德義,欲與堯、舜比隆,何得自喻於彼乎?」翻由是得免。王因敕左右:「自今酒後言殺,皆不得殺。」基,繇之子。
24.帝は呉王の子の孫登を封じて万戸侯と為したが,呉王は以って孫登が年幼いため,上書して辞して受けなかった;復して西曹掾で呉郡出身の沈珩を遣わして入謝させ,並んで方物を献じさせた。帝は問うて曰く:「呉は魏が東に向かうのを嫌うか乎?」沈珩曰く:「嫌いません。」曰く:「何を以ってか?」曰く:「旧盟を信じ恃んでいるからです,好みに於いて帰したと言う,是が以って嫌っていないとするところです;そして若し魏が盟を渝すなら,自ら豫備を有するでしょう。」又問うた:「聞けば太子が当に来るようだが,寧んぞ然るとするのか乎?」沈珩曰く:「臣は東朝に在っては,朝には坐していませんし,宴があっても与っていません,若し此之議があったとしても,聞く所とて無いことです也。」帝は之を善しとした。
 呉王は武昌に於いて釣台に臨み飲酒すると,大いに醉い,人を使わして以って群臣に水灑して曰く:「今日酣飲,惟醉墮台中,乃当止耳!」張昭は色を正して言わず,外に出ると,車中に坐した。王は人を遣わして張昭を呼んだため還って入った,謂うに曰く:「共に作楽を為そうとしただけだ耳,公は何ぞ怒りを為すのか乎?」張昭は対して曰く:「昔紂は糟丘酒池を為し,長夜にわたって飲みあかしました,当時も亦た以って栄えを為そうとしたのであり,以って惡を為そうとしたのではありません也。」王は默然として慚じると,遂に酒を罷めた。呉王は群臣と飲むと,自ら起って酒を行ったが,虞翻が地に伏せて,陽醉して持たなかった;王が去ると,虞翻は起坐した。そのため王は大いに怒り,手づから劍をとって之を撃とうと欲し,坐に侍っていた者で惶遽しないものは莫かった。惟だ大司農の劉基だけが起って王を抱えると,諫めて曰く:「大王が三爵之後を以って,手づから善士を殺すなど,虞翻に罪が有ると雖も,天下は孰くにか之を知りましょうか!且つ大王は能く賢を容れ眾を蓄うを以ってしているため,故に海内はその風を望んでいるのです;今一朝にして之を棄てるなど,できることですか(可乎)!」王曰く:「曹孟徳は尚も孔文挙を殺した,孤が虞翻に於いて(同じ事をしてところで)何のことが有ろう哉!」劉基曰く:「孟徳が軽々しく士人を害したため,天下は之を非としたのです。大王は躬づから徳義を行い,堯、舜と比して隆まろうと欲しているのに,何でまた自らを彼に<於>喩え得ようとするのです乎?」虞翻は是に由って免れるを得た。王は因って左右に敕した:「今より<自>酒の後で殺すと言うのは,皆殺すこと得ないよう。」劉基は,劉繇之子である。
 25初,太祖既克蹋頓,而烏桓浸衰,鮮卑大人步度根、軻比能、素利、彌加、厥機等因閻柔上貢獻,求通市,太祖皆表寵以爲王。軻比能本小種鮮卑,以勇健廉平爲衆所服,由是能威制餘部,最爲強盛。自雲中、五原以東抵遼水,皆爲鮮卑庭,軻比能與素利、彌加割地統御,各有分界。軻比能部落近塞,中國人多亡叛歸之;素利等在遼西、右北平、漁陽塞外,道遠,故不爲邊患。帝以平虜校尉牽招爲護鮮卑校尉,南陽太守田豫爲護烏桓校尉,使鎭撫之。
25.
三年(壬寅、二二二)

 春,正月,丙寅朔,日有食之。
1.春,正月,丙寅朔,日食が有った。
 庚午,帝行如許昌。
2.庚午,帝は許昌に御幸した。
 詔曰:「今之計、孝,古之貢士也;若限年然後取士,是呂尚、周晉不顯於前世也。其令郡國所選,勿拘老幼;儒通經術,吏達文法,到皆試用。有司糾故不以實者。」
3.詔に曰く:「今之計、孝は,古之貢士である也;若し年を限って然る後に士を取らんとすれば,是では呂尚、周晉は前世に於いて顯らかとならなかったことだろう也。其れ郡國に令す選ぶ所,老幼に拘ること勿れ;儒で経術に通じるもの,吏で文法に達するもの,皆試用に到るように。有司糾故不以実者。」
 二月,鄯善、龜茲、于闐王各遣使奉獻。是後西域復通,置戊己校尉。
4.二月,鄯善、亀茲、于闐の王らが各々使いを遣わして奉獻してきた。是後西域が復た通じるようになったため,戊己校尉を置いた。
 漢主自秭歸將進撃呉,治中從事黄權諫曰:「呉人悍戰,而水軍沿流,進易退難。臣請爲先驅以當寇,陛下宜爲後鎭。」漢主不從,以權爲鎭北將軍,使督江北諸軍;自率諸將,自江南緣山截嶺,軍於夷道猇亭。呉將皆欲迎撃之。陸遜曰:「備舉軍東下,鋭氣始盛;且乘高守險,難可卒攻。攻之縱下,猶難盡克,若有不利,損我太勢,非小故也。今但且獎厲將士,廣施方略,以觀其變。若此間是平原曠野,當恐有顛沛交逐之憂;今縁山行軍,勢不得展,自當罷於木石之間,徐制其敝耳。」諸將不解,以爲遜畏之,各懷憤恨。漢人自佷山通武陵,使侍中襄陽馬良以金錦賜五谿諸蠻夷,授以官爵。
5.漢主は秭帰より<自>将に進んで呉を撃とうとした,治中従事の黄権が諫めて曰く:「呉人は戦いに悍しく,而して水軍が流れに沿っております,進み易く退き難いのです。臣が先驅と為って以って寇に当たろうと請います,陛下には宜しく後鎮と為るべきかと。」漢主は従わず,黄権を以って鎮北将軍と為すと,使って江北の諸軍を督させ;自らは諸将を率いて,江南より<自>山に縁って嶺を截き,夷道の猇亭に<於>軍した。呉将は皆之を迎撃しようと欲した。陸遜曰く:「劉備は軍を挙げて東下してきており,鋭気の始めで盛んである;且つ高きに乗じて險を守っているのだから,(倉)卒に攻めることはでき難い。攻之縱下(之を攻めんとすれば下からということになる),(それでは)猶も尽く克ち難いのに,若し利せぬこと有れば,我が太勢を損うのだから,小故に非ざることであろう也。今は但だ且つ将士を獎厲して,方略を広げ施し,以って其の変を観よう。若此間是平原曠野,当恐有顛沛交逐之憂;今山に縁って行軍すれば,勢いからして展ずるを得まい,自ずと当に木石之間に於いて罷むべきこととなろうから,徐ろに其の敝を制するのみである耳。」諸将は解さず,以って為すに陸遜は之を畏れているのだとして,各々が憤恨を懐いた。漢人は佷山より<自>武陵に通じると,侍中である襄陽出身の馬良を使わして金錦を以って五谿諸蛮夷に賜り,官爵を以って授けた。
 三月,乙丑,立皇子齊公睿爲平原王、皇弟鄢陵公彰等皆進爵爲王。甲戌,立皇子霖爲河東王。
6.三月,乙丑,皇子である斉公の曹睿を立てて平原王と為すと、皇弟である鄢陵公の曹彰等は皆爵を進めて王と為った。甲戌,皇子の曹霖を立てて河東王と為した。
 甲午,帝行如襄邑。
7.甲午,帝は襄邑に行如した。
 夏,四月,戊申,立鄄城侯植爲鄄城王。是時,諸侯王皆寄地空名而無其實;王國各有老兵百餘人以爲守衞;隔絶千里之外,不聽朝聘,爲設防輔監國之官以伺察之。雖有王侯之號而儕於匹夫,皆思爲布衣而不能得。法既峻切,諸侯王過惡日聞;獨北海王兗謹愼好學,未嘗有失。文學、防輔相與言曰:「受詔察王舉措,有過當奏,及有善亦宜以聞。」遂共表稱陳兗美。兗聞之,大驚懼,責讓文學曰:「修身自守,常人之行耳,而諸君乃以上聞,是適所以增其負累也。且如有善,何患不聞,而遽共如是,是非所以爲益也。」
8.夏,四月,戊申,鄄城侯の曹植を立てて鄄城王と為した。是時,諸侯王は皆寄る地は名が空しく而して其の実など無かった;王國には各々老兵百余人を有すばかりでそれで以って守衛と為していた;千里之外に隔絶されて,朝聘を聴かず,為設防輔監國之官以伺察之。王侯之号が有ると雖も而して儕すこと匹夫に於けるものだったため,皆思うことは布衣と為らんことであったが而して得ること能わなかった。法は既にして峻切であり,諸侯王の過惡が日ごと聞こえた;独り北海王の曹兗だけが謹慎して学を好み,未だ嘗て失を有しなかった。文学、防輔は相与言して曰く:「詔を受けて王の挙措を察し,過ちが有れば当に奏すべきとされたが,善が有るに及んでも亦た宜しく以って聞かせるべきだろう。」遂に共に表して兗の美を陳べて称えた。兗は之を聞くと,大いに驚き懼れ,文学を責讓して曰く:「修身して自らを守るなど,常人の行いというだけだ耳,而して諸君は乃ち以って上聞させた,是適所以増其負累也。且つ善を有すに如ければ,何ぞ聞かざるを患わん,而遽共如是,是非所以為益也。」
 癸亥,帝還許昌。
9.癸亥,帝は許昌に還った。
 10五月,以江南八郡爲荊州,江北諸郡爲郢州。
10.五月,江南八郡を以って荊州と為し,江北の諸郡は郢州と為した。
 11漢人自巫峽建平連營至夷陵界,立數十屯,以馮習爲大督,張南爲前部督,自正月與呉相拒,至六月不決。漢主遣吳班將數千人於平地立營,呉將帥皆欲撃之,陸遜曰:「此必有譎,且觀之。」漢主知其計不行,乃引伏兵八千從谷中出。遜曰:「所以不聽諸君撃班者,揣之必有巧故也。」遜上疏於吳王曰:「夷陵要害,國之關限,雖爲易得,亦復易失。失之,非徒損一郡之地,荊州可憂,今日爭之,當令必諧。備干天常,不守窟穴而敢自送,臣雖不材,憑奉威靈,以順討逆,破壞在近,無可憂者。臣初嫌之水陸俱進,今反舎船就步,處處結營,察其佈置,必無他變。伏願至尊高枕,不以爲念也。」閏月,遜將進攻漢軍,諸將並曰:「攻備當在初,今乃令入五六百里,相守經七八月,其諸要害皆已固守,撃之必無利矣。」遜曰:「備是猾虜,更嘗事多,其軍始集,思慮精專,未可干也。今住已久,不得我便,兵疲意沮,計不復生。掎角此寇,正在今日。」乃先攻一營,不利,諸將皆曰:「空殺兵耳!」遜曰:「吾已曉破之之術。」乃敕各持一把茅,以火攻,拔之;一爾勢成,通率諸軍,同時倶攻,斬張南、馮習及胡王沙摩柯等首,破其四十餘營。漢將杜路、劉寧等窮逼請降。漢主升馬鞍山,陳兵自繞,遜督促諸軍,四面蹙之,土崩瓦解,死者萬數。漢主夜遁,驛人自擔燒鐃鎧斷後,僅得入白帝城,其舟船、器械,水、步軍資,一時略盡,屍骸塞江而下。漢主大慚恚曰:「吾乃爲陸遜所折辱,豈非天耶!」將軍義陽傅肜爲後殿,兵眾盡死,肜氣益烈。呉人諭之使降,肜罵曰:「呉狗,安有漢將軍而降者!」遂死之。從事祭酒程畿溯江而退,衆曰:「後追將至,宜解舫輕行。」畿曰:「吾在軍,未習爲敵之走也。」亦死之。
  初,呉安東中郎將孫桓別撃漢前鋒於夷道,爲漢所圍,求救於陸遜,遜曰:「未可。」諸將曰:「孫安東,公族,見圍已困,奈何不救!」遜曰:「安東得士衆心,城牢糧足,無可憂也。待吾計展,欲不救安東,安東自解。」及方略大施,漢果奔潰。桓後見遜曰:「前實怨不見救;定至今日,乃知調度自有方耳!」初,遜爲大都督,諸將或討逆時舊將,或公室貴戚,各自矜恃,不相聽從。遜按劍曰:「劉備天下知名,曹操所憚,今在境界,此強對也。諸君並荷國恩,當相輯睦,共翦此虜,上報所受,而不相順,何也?僕雖書生,受命主上,國家所以屈諸君使相承望者,以僕尺寸可稱,能忍辱負重故也。各在其事,豈復得辭!軍令有常,不可犯也!」及至破備,計多出遜,諸將乃服。吳王聞之曰:「公何以初不啟諸將違節度者邪?」對曰:「受恩深重,此諸將或任腹心,或堪爪牙,或是功臣,皆國家所當與共克定大事者,臣竊慕相如、寇恂相下之義以濟國事。」王大笑稱善,加遜輔國將軍,領荊州牧,改封江陵侯。
  初,諸葛亮與尚書令法正好尚不同,而以公義相取,亮每奇正智術。及漢主伐呉而敗,時正已卒,亮歎曰:「孝直若在,必能制主上東行。就使東行,必不傾危矣。」漢主在白帝,徐盛、潘璋、宋謙等各競表言「備必可禽,乞復攻之。」呉王以問陸遜。遜與朱然、駱統上言曰:「曹丕大合士衆,外托助國討備,内實有姦心,謹決計輒還。」初,帝聞漢兵樹柵連營七百餘里,謂羣臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!『苞原隰險阻而爲軍者爲敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」後七日,呉破漢書到。
11.漢人自巫峽建平連営至夷陵界,数十屯を立て,馮習を以って大督と為し,張南を前部督と為し,正月より<自>呉と相拒みあって,六月に至っても決しなかった。漢主は呉班をに数千人を将いさせて遣わすと平地に於いて営を立てさせた,呉の将帥は皆が之を撃とうと欲したが,陸遜は曰く:「此には必ずや譎しが有ろう,且つは之を観ん。」漢主は其の計が行えなかったことを知ると,乃ち伏兵八千を引きつれて谷中より<従>出てきた。陸遜曰く:「諸君の呉班を討とうとするのを聴かなかった所以というのは<者>,揣之必有巧故也。」陸遜は呉王に於いて上疏すると曰く:「夷陵は要害でありまして,國之関限であります,為して得ること易いと雖も,亦た復して失うことも易いのです。しかしながら之を失えば,徒らに一郡之地を損ったというだけに非ずして,荊州が憂うる可きこととなります,今日之を争うのは,当に必ず諧さんと令すべきだからです。劉備は天常を干し,窟穴を守らずして而して敢えて自ら送ってきました,臣は不材と雖も,威靈を憑奉しております,順を以ってして逆を討つのですから,破壊するは近くに在り,憂う可きこと<者>など無からん。臣は初め之に水陸倶進するを嫌っておりましたが,今は反って船を捨てて歩に就いており,処処で営を結んでいます,其の佈置を察しますに,必ずや他の変など無いことでしょう。伏して願いますのは至尊には枕を高くなさって,念を為すなど以ってしないでください也。」閏月,陸遜は将に進んで漢軍を攻めんとした,諸将は並んで曰く:「劉備を攻めんとするなら当に初めに在るべきだった,今や乃ち令五六百里を入り,相守って七八月も経てしまった,其の諸要害も皆已に固く守られている,之を撃っても必ずや利など無からん矣。」陸遜曰く:「劉備は是れ猾虜である,更嘗事多,其の軍は始め集ったばかりであったし,思慮も精専であったため,未だ干す可きでなかったのだ也。今は住くこと已にして久しく,我を便ずること得ず,兵は疲れて意は沮(喪)し,計も復た生じていない。掎角で此の寇をおこなう,正に今日に在る。」乃ち先ず一営を攻めたが,利なかった,諸将は皆曰く:「空しく兵を殺しただけだ耳!」陸遜曰く:「吾には已に之を曉破する術がある。」乃ち敕して各々に一把の茅を持たせると,火を以って攻めて,之を拔いた;一爾に勢成すと,通じて諸軍を率いて,時を同じくして倶に攻め,張南、馮習及び胡王である沙摩柯等の首を斬りすて,其の四十余営を破った。漢の将である杜路、劉寧等は窮逼して降らんことを請うてきた。漢主は馬鞍山に升ると,兵を陳して自ら繞したが,陸遜は諸軍に督促して,四面より之を蹙めたため,土崩瓦解し,死者万を数えた。漢主は夜に遁れて,驛人が自ら擔じて鎧を燒鐃して後ろを断ったため,僅かに白帝城に入るを得られた,其の舟船、器械,水、歩の軍資は,一時のうちに略され尽き,屍骸は江を塞いで而して下っていった。漢主は大いに慚じ恚って曰く:「吾は乃ち陸遜の為に折辱する所となったのは,豈に天に非ざるか耶!」将軍である義陽出身の傅肜が後殿と為って,兵眾は尽く死んだが,傅肜の気は烈しさを益した。呉人は之を諭して降らせ使もうとしたが,傅肜は罵って曰く:「呉の狗どもめ,安んぞ漢の将軍で而して降る者が有ろうか!」遂に之に死んだ。従事祭酒の程畿は江を溯って而して退いていたが,眾が曰く:「後ろからの追ってが将に至らんとす,宜しく舫を解きて輕行すべし。」程畿曰く:「吾は軍に在って,未だ敵之走と為るを習わず也。」亦た之に死んだ。
 初め,呉の安東中郎将である孫桓は漢の前鋒を夷道に於いて別に撃っていたが,漢に圍まれる所と為り,陸遜に<於>救いを求めてきた,陸遜曰く:「未だ(救う)可きでない。」諸将曰く:「孫安東は,公族ですぞ,圍まれるに見えて已に困っているというのに,奈<あなた>は何で救わないのか!」陸遜曰く:「安東は士眾の心を得ている,城は(堅)牢で糧も足りている,憂う可きことなど無からん也。吾が計が展ずるを待たれよ,安東を救おうと欲せずとも,安東は自ら解くであろう。」方略が大いに施されるに及んで,漢は果たして奔り潰えた。孫桓は後に陸遜に見えて曰く:「前には実に救いが見えないのを怨んでいたが;定まって今日に至ってみると,乃ち知調度自有方耳!」初め,陸遜が大都督と為ると,諸将は或るいは討逆(将軍つまり孫策)の時からの旧将であり,或るいは公室や貴戚であって,各々が自ら矜り恃んでいて,相聴きいれも従いもしなかった。陸遜は劍を按じて曰く:「劉備は天下に名を知られており,曹操が憚った所である,今境界に在って,此が強いて対している也。諸君は並んで國恩を荷っており,当に相輯睦して,此の虜りを共翦すべきであろう,なのに上は受けし所に報いんとしながら,而して相順わざるは,何ぞや也?僕は書生と雖も,命を主上に受け,國家所以屈諸君使相承望者(国家が諸君を屈させて使って相承望させようとした所以というのは<者>),僕の尺寸を以ってして称す可けば,能く辱しめを忍び重きを負う故である也。各々は其の事に在って,豈に復た辞すこと得ん!軍令には常有り,犯す可からず也!」劉備を破るに至るに及び,計の多くが陸遜から出たため,諸将は乃ち服したのである。呉王は之を聞いて曰く:「公は何をか以って初め諸将で節度を違えた者でも啓しなかったのか邪?」対して曰く:「恩を受けること深く重く,此は諸将が或いは腹心として任され,或るいは爪牙に堪えるもの,或るいは是ぞ功臣たるものでして,皆國家が当にこれと共に大事を克ち定めんとすべき所の者です,臣が竊いますのは相如、寇恂が相下之義で以って國事を(救)済したことを慕おうとしたのです。」王は大笑してその善を称え,陸遜に輔國将軍(の位)を加え,荊州牧を領させ,江陵侯に改封した。
 初め,諸葛亮は尚書令の法正と好みをむすんだが尚も同じではなかった,而しながら公義を以ってして相取ると,諸葛亮はことごとに法正の智術を奇としたのである。漢主が呉を伐して而して敗れるに及んで,時に法正は已に卒していた,諸葛亮は歎じて曰く:「孝直が若し在ったなら,必ずや能く主上の東行を制したであろう。就いて使って東行させられていたなら,必ずや傾危にさせなかったろう矣。」漢主は白帝に在ったため,徐盛、潘璋、宋謙等は各々が競って表して言うことに「劉備は必ずや禽えることできましょう<可>,乞うらくは復た之を攻めん。」呉王は以って陸遜に問うた。陸遜と硃然、駱統は上言して曰く:「曹丕が士衆を大いに合わせておりまして,外づらはわが國を助けて劉備を討つと托していますが,内では実は奸心を有しております,謹んで計を決し輒ち還されますよう。」初め,帝は漢兵が柵を樹てて営を連ねること七百余里にもなっていると聞くと,群臣に謂いて曰く:「劉備は兵(事)に(通)暁していない,豈に七百里の営を有して以って敵を拒む可けん<者>か乎!『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』とあるが,此は兵が忌むものだ也。孫権の上事が今にも至ろう矣。」後れること七日して,呉が漢を破ったとの書が到った。
 12秋,七月,冀州大蝗,飢。
12.秋,七月,冀州で大いに蝗がわき,饑えとなった。
 13漢主既敗走,黄權在江北,道絶,不得還,八月,率其衆來降。漢有司請收權妻子,漢主曰:「孤負黄權,權不負孤也。」待之如初。帝謂權曰:「君舎逆效順,欲追蹤陳、韓邪?」對曰:「臣過受劉主殊遇,降呉不可,還蜀無路,是以歸命。且敗軍之將,免死爲幸,何古人之可慕也!」帝善之,拜爲鎭南將軍,封育陽侯,加侍中,使陪乘。蜀降人或雲漢誅權妻子,帝詔權發喪。權曰:「臣與劉、葛推誠相信,明臣本志。竊疑未實,請須。」後得審問,果如所言。馬良亦死於五谿。
13.漢主が既にして敗走すると,黄権は江北に在ったため,道は絶たれて,還ること得られなかった,八月,其の眾を率いて来降してきた。漢では有司が黄権の妻子を収めんことを請うてきたが,漢主は曰く:「孤<わたし>が黄権に負うたのだ,権が孤に負うたのではない也。」として之を待(遇)すること初めの如くであった。帝は黄権に謂いて曰く:「君が逆效を捨てて順ってきたのは,陳、韓<陳平、韓信>に追蹤しようと欲してのことかね邪?」対して曰く:「臣は劉主より殊遇を過ぎ受けており,呉に降ることなどできず<不可>,蜀に還ろうにも路が無かった,是が以って帰命したところです。且つ敗軍之将は,死を免れれば幸いを為すものです,何ぞ古人之慕う可くなどありましょうか也!」帝は之を善しとし,拜して鎮南将軍と為すと,育陽侯に封じ,侍中を加え,陪乗させ使めた。蜀の降人が漢では黄権の妻子を誅したと或雲してきたため,帝は黄権に喪を発するよう詔をやった。黄権曰く:「臣と劉、葛とは推しますに誠に相信じあっていますから,臣の本志は明らかでしょう。竊いますに未だ実でないのではと疑っております,請須(しばらく時間をくださいませんか)。」後に審問を得たところ,果たして言う所の如くであった。馬良も亦た五谿に於いて死んだ。
 14九月,甲午,詔曰:「夫婦人與政,亂之本也。自今以後,羣臣不得奏事太后,後族之家不得當輔政之任,又不得橫受茅士之爵。以此詔傳之後世,若有背違,天下共誅之。」卞太后每見外親,不假以顏色,常言:「居處當節儉,不當望賞,念自佚也。外舎當怪吾遇之太薄,吾自有常度故也。吾事武帝四五十年,行儉日久,不能自變爲奢。有犯科禁者,吾且能加罪一等耳,莫望錢米恩貸也。」
14.九月,甲午,詔に曰く:「夫れ婦人が政に与るのは,乱之本である也。今より<自>以後,群臣は太后に事を奏上すること得ないように,後族之家が輔政之任に当たること得ないように,又茅士之爵を横ざまに受けること得ないように。此の詔を以ってして之を後世に伝えるものとする,若し背き違えること有れば,天下は之を共に誅せ。」卞太后は外親が見えにくる毎に,顔色を以ってして假さず,常に言うことに:「居処<そなたら>は当に節儉すべきですし,当に賞を望むべきではありません,自らの佚を念じなさい也。外捨は当に吾が遇の太いに薄いことを怪しんでいますが,吾に自ら常に度ることが有る故なのです也。吾は武帝に事えて四五十年になります,儉を行うこと日久しく,自ら変わって奢を為すなど能わないことです。科禁を犯すこと有った者について,吾に(できるの)は且つ能く罪一等を加えるのみです耳,錢や米や恩や貸しなどを望むこと莫いように也。」
 15帝將立郭貴嬪爲后,中郎棧潛上疏曰:「夫后妃之德,盛衰治亂所由生也。是以聖哲愼立元妃,必取先代世族之家,擇其令淑,以統六宮,虔奉宗廟。易曰:『家道正而天下定。』由内及外,先王之令典也。春秋書宗人釁夏云:『無以妾爲夫人之禮。』齊桓誓命於葵丘,亦曰:『無以妾爲妻。』令後宮嬖寵,常亞乘輿,若因愛登后,使賤人暴貴,臣恐後世下陵上替,開張非度,亂自上起。」帝不從。庚子,立皇后郭氏。
15.帝は将に郭貴嬪を立てて後と為そうとした,中郎の棧潛が上疏して曰く:「夫れ后妃之徳は,盛衰治乱が生ずる所由<ゆえん>です也。是ぞ以って聖哲が元妃を立てるを慎んで,必ず先の代の世族之家を取って,其の令淑を擇び,以って六宮を統めさせ,宗廟を虔奉させたところなのです。《易》に曰く:『家道が正されれば而して天下は定まる。』とあるのは内が外に及ぶゆえ<由>でして,先王之令典であります也。《春秋》の書宗人釁夏に云うことには:『以って妾に夫人之礼を為すこと無いように。』とありますし斉の桓(公)は葵丘に於いて誓命して,亦た曰く:『妾を以って妻と為すこと無いように。』とありますからには令後宮嬖寵,常亞乗輿,若し愛に因って後に登ることとなり,賤人をして貴きに暴させ使ますなら,臣が恐れますのは後世下が陵して上が替わることです,開張非度,乱が上より<自>起こることとなりましょう。」帝は従わなかった。庚子,皇后に郭氏を立てた。
 16初,呉王遣于禁護軍浩周、軍司馬東里袞詣帝,自陳誠款,辭甚恭愨。帝問周等:「權可信乎?」周以爲權必臣服,而袞謂其不可必服。帝悅周言,以爲有以知之,故立爲呉王,復使周至呉。周謂呉王曰:「陛下未信王遣子入侍,周以闔門百口明之。」呉王爲之流涕沾襟,指天爲誓。周還而侍子不至,但多設虚辭。帝欲遣侍中辛毘、尚書桓階往與盟誓,並責任子,呉王辭讓不受。帝怒,欲伐之,劉曄曰:「彼新得志,上下齊心,而阻帶江湖,不可倉卒制也。」帝不從。九月,命征東大將軍曹休、前將軍張遼、鎭東將軍臧霸出洞口,大將軍曹仁出濡須,上軍大將軍曹眞、征南大將軍夏侯尚、左將軍張郃、右將軍徐晃圍南郡。呉建威將軍呂范督五軍,以舟軍拒休等,左將軍諸葛瑾、平北將軍潘璋、將軍楊粲救南郡,裨將軍朱桓以濡須督拒曹仁。
16.初め,呉王は于禁の護軍であった浩周、軍司馬であった東裡袞を遣わして帝に詣でさせ,自ら誠款を陳べさせ,辞は甚だ恭愨であった。帝は浩周等に問うた:「孫権は信ず可きだろうか乎?」浩周は以って為すに孫権は必ず臣服しましょうとしたが,而して東裡袞は其が必ずや服すことできまい<不可>と謂った。帝は浩周の言を悦んで,以って為すに(その言が)有るのは以って之を知っているからだろうとして,故に(孫権を)立てて呉王と為し,復た浩周を使わして呉に至らせた。浩周は呉王に謂いて曰く:「陛下は未だ王を信じておりませんので子を遣わして入侍させ,浩周以闔門百口明之。」呉王は之が為に流涕して沾襟,天を指さして誓いを為した。浩周は還ったが而して侍子は至らず,但だ虚辞を多く設けただけだった。帝は侍中の辛毘、尚書の桓階を遣わして往かせ盟誓を与えると,並んで任子を責めたが,呉王は辞讓して受けなかった。帝は怒り,之を伐さんと欲したところ,劉曄曰く:「彼は新たに志を得まして,上下が心を斉しくしております,而して江湖が帯となり阻んでおりますから,倉卒には制すことできません<不可>也。」としたが帝は従わなかった。九月,命じて征東大将軍の曹休、前将軍の張遼、鎮東将軍の臧霸には洞口へ出てゆかせ,大将軍の曹仁には濡須に出てゆかせ,上軍大将軍の曹真、征南大将軍の夏侯尚、左将軍の張郃、右将軍の徐晃には南郡を囲ませた。呉の建威将軍の呂范は五軍を督すと,舟軍を以ってして曹休等を拒ませた,左将軍の諸葛瑾、平北将軍の潘璋、将軍の楊粲が南郡を救い,裨将軍の朱桓が以って濡須督となり曹仁を拒んだ。
 17冬,十月,甲子,表首陽山東爲壽陵,作終制,務從儉薄,不藏金玉,一用瓦器。令以此詔藏之宗廟,副在尚書、秘書、三府。
17.冬,十月,甲子,表して首陽山の東に壽陵を為すと,作終制,務めて儉薄に従い,金玉を蔵せず,一えに瓦器を用いた。令するに此の詔を以ってして之を宗廟に蔵すこととし,副を尚書、秘書、三府に在ることとした。
 18呉王以揚越蠻夷多未平集,乃卑辭上書,求自改厲;「若罪在難除,必不見置,當奉還土地民人,寄命交州以終餘年。」又與浩周書云:「欲爲子登求昏宗室。」又云:「以登年弱,欲遣孫長緒、張子布隨登倶來。」帝報曰:「朕之與君,大義已定,豈樂勞師遠臨江、漢!若登身朝到,夕召兵還耳。」於是呉王改元黄武,臨江拒守。帝自許昌南征,復郢州爲荊州。十一月,辛丑,帝如宛。曹休在洞口,自陳:「願將鋭卒虎歩江南,因敵取資,事必克捷,若其無臣,不須爲念。」帝恐休便渡江,驛馬止之。侍中董昭侍側,曰:「竊見陛下有憂色,獨以休濟江故乎?今者渡江,人情所難,就休有此志,勢不獨行,當須諸將。臧霸等既富且貴,無復他望,但欲終其天年,保守祿祚而已,何肯乘危自投死地以求徼倖!苟霸等不進,休意自沮。臣恐陛下雖有敕渡之詔,猶必沈吟,未便從命也。」頃之,會暴風吹吳呂范等船,綆纜悉斷,直詣休等營下,斬首獲生以千數,呉兵迸散。帝聞之,敕諸軍促渡。軍未時進,呉救船遂至,收軍還江南。曹休使臧霸追之,不利,將軍尹盧戰死。
18.呉王は揚越の蛮夷の多くが未だ平集しないことを以って,乃ち辞を卑しくして上書すると,自ら改厲せんことを求めた;「若し罪在って除くこと難しい,必ずや置くこと見えず,当に土地と民人を奉り還すべくして,交州に寄命して以って余年を終えん。」又浩周に書を与えて云うことに:「わが子の孫登について宗室と求昏を為したいと欲している。」又云うことに:「以って登が年弱であるため,孫長緒、張子布を遣わして孫登に随えさせ倶に来させたいと欲している。」帝は報いて曰く:「朕が君に与えるのは,大義が已に定まった,豈楽労師遠臨江、漢!若し孫登の身が朝到るならば,夕には兵を召して還すだけだ耳。」是に於いて呉王は改元して黄武とし,江に臨んで拒み守った。帝は許昌より<自>南征すると,郢州を復して荊州と為した。十一月,辛丑,帝如宛(帝は宛についた)。曹休は洞口に在って,自ら陳べた:「願うらくは鋭卒を将いて江南を虎歩せん,敵に因って資を取れば,事は必ずや克捷ならん,其れ臣が無くなる若くとも,須く念を為すべからず。」帝は曹休が便じて江を渡ってしまうことを恐れ,馬を驛して之を止めた。侍中の董昭が側に侍って,曰く:「竊い見ますに陛下には憂色がお有りのようですが,独り以って曹休が江を済らんとする故でしょうか乎?今のところ<者>渡江しようとしましても,人情からして難しい所です,就きましては曹休に此の志が有ろうとも,勢いからして独りでは行えず,須く諸将と当たろうとするでしょう。臧霸等は既にして富み且つ貴ばれておりますから,復た他に望むこととて無く,但だ欲するのは其の天年を終え,祿祚を保ち守ること而已<のみ>でしょうから,何ぞ危うきに乗じて自ら死地に(身を)投げこみ以って徼倖を求めることを肯んじましょうか!苟しくも臧霸等が進まず,曹休の意が自ずと沮すことになろうかと。臣が恐れますのは陛下から之を渡るようにとの詔敕が有ったとしても<雖>,猶も必ずや沈吟し,未だ便じて命に従わないのではないかということです也。」頃之,暴風が呉の呂范等の船に吹くことが会った,綆纜が悉く断たれたため,直ちに曹休等の営下に詣で,斬首獲生すること以って千を数えた,呉兵は迸散した。帝は之を聞くと,敕して諸軍に渡(河)するよう促した。軍が未だ進まない時に,呉の救船が遂に至り,軍を収めて江南に還っていった。曹休は臧霸をして之を追わ使めたが,利なく,将軍の尹盧が戦死した。
 19庚申晦,日有食之。
19.庚申晦,日食が有った。
 20呉王使太中大夫鄭泉聘於漢,漢太中大夫宗瑋報之,呉、漢復通。
20.呉王は太中大夫の鄭泉を使わして漢に於いて聘(問)させたため,漢の太中大夫の宗瑋が之に報じ,呉、漢は復た通じあうことになった。
 21漢主聞魏師大出,遺陸遜書曰:「賊今已在江、漢,吾將復東,將軍謂其能然否?」遜答曰:「但恐軍新破,創夷未復,始求通親;且當自補,未暇窮兵耳。若不推算,欲復以傾覆之餘遠送以來者,無所逃命。」
21.漢主は魏師が大いに出たと聞くと,陸遜に書を遣わして曰く:「賊が今や已に江、漢に在るとか,吾らは将に復た東せんとおもうが,将軍は其の能く然るか否かを謂ってくれまいか?」陸遜は答えて曰く:「但だ恐れますのは軍が新たに破れたばかりで,創夷が未だ復していず,親しく通じあうことを求め始めたばかりなのに(そういうことをなさるのですか?);且つこれは当に自ら補うべきことであって,未だ窮兵となるほどの暇はありません耳。若し推算しないなら,欲復以傾覆之余遠送以来者,無所逃命。」
 22漢漢嘉太守黄元叛。
22.漢の漢嘉太守である黄元が叛いた。
 23呉將孫盛督萬人據江陵中州,以爲南郡外援。
23.呉将の孫盛が万人を督して江陵の中州に拠ると,以って南郡の外援と為った。

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最終更新:2007年01月12日 00:23
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