武德二年(己卯,六一九)1.十一月。己卯、劉武周が浩州へ入寇した。
1十一月,己卯,劉武周寇浩州。
2秦王世民引兵自龍門乘冰堅渡河,屯柏壁,與宋金剛相持。時河東州縣,俘掠之餘,未有倉廩,人情恇擾,聚入城堡,徴斂無所得,軍中乏食。世民發教諭民,民聞世民爲帥而來,莫不歸附,自近及遠,至者日多,然後漸收其糧食,軍食以充。乃休兵秣馬,唯令偏裨乘間抄掠,大軍堅壁不戰,由是賊勢日衰。2.秦王世民が兵を率いて、凍りついた黄河を龍門から渡り、柏壁に屯営して(劉武周麾下の)宋金剛と対峙した。
世民嘗自帥輕騎覘敵,騎皆四散,世民獨與一甲士登丘而寢。俄而賊兵四合,初不之覺,會有蛇逐鼠,觸甲士之面,甲士驚寤,遂白世民倶上馬,馳百餘歩,爲賊所及,世民以大羽箭射殪其驍將,賊騎乃退。
3李世勣欲歸唐,恐禍及其父,謀於郭孝恪。孝恪曰:「吾新事竇氏,動則見疑,宜先立效以取信,然後可圖也。」世勣從之。襲王世充獲嘉,破之,多所俘獲,以獻建德,建德由是親之。3.李世勣は唐へ帰順したかったが、(竇建徳に捕らわれている)父親が殺されることを懼れ、郭孝恪へ相談した。すると、郭孝恪は言った。
初,漳南人劉黑闥,少驍勇狡獪,與竇建德善,後爲羣盜,轉事郝孝德、李密、王世充。世充以爲騎將,毎見世充所爲,竊笑之。世充使黑闥守新郷,李世勣撃虜之,獻於建德。建德署爲將軍,賜爵漢東公,常使將奇兵東西掩襲,或潛入敵境覘視虚實。黑闥往往乘間奮撃,克獲而還。
4十二月,庚申,上獵於華山。4.十二月。庚申、上(高祖=李淵)が、華山にて猟をした。
5于筠説永安王孝基急攻呂崇茂,獨孤懷恩請先成攻具,然後進,孝基從之。崇茂求救於宋金剛,金剛遣其將善陽尉遲敬德、尋相將兵奄至夏縣。孝基表裏受敵,軍遂大敗,孝基、懷恩、筠、唐儉及行軍總管劉世讓皆爲所虜。敬德名恭,以字行。5.于筠が永安王孝基へ、呂祟茂を急攻するよう説いた。独孤懐恩は、まず攻具を造り、その後に進軍するよう請うた。孝基は、独孤懐恩の策に従った。
上徴裴寂入朝,責其敗軍,下吏,既而釋之,寵待彌厚。
尉遲敬德、尋相將還澮州,秦王世民遣兵部尚書殷開山、總管秦叔寶等邀之於美良川,大破之,斬首二千餘級。頃之,敬德、尋相潛引精騎援王行本於蒲板,世民自將歩騎三千從間道夜趨安邑,邀撃,大破之。敬德、相僅以身免,悉俘其衆,復歸柏壁。
諸將咸請與宋金剛戰,世民曰:「金剛懸軍深入,精兵猛將,咸聚於是。武周據太原,倚金剛爲扞蔽。軍無蓄積,以虜掠爲資,利在速戰。我閉營養鋭以挫其鋒,分兵汾、隰,衡其心腹。彼糧盡計窮,自當遁走。當待此機,未宜速戰。」
永安壯王孝基謀逃歸,劉武周殺之。
6李世勣復遣人説竇建德曰:「曹、戴二州,戸口完實,孟海公竊有其地,與鄭人外合内離;若以大軍臨之,指期可取。既得海公,以臨徐、兗,河南可不戰而定也。」建德以爲然,欲自將徇河南,先遣其行臺曹旦等將兵五萬濟河,世勣引兵三千會之。6.李世勣は再び使者を派遣して、竇建徳へ説いた。
武德三年(庚辰,六二〇)1.春、正月。将軍秦武通が、蒲反の王行本を攻撃した。王行本は、出撃して敗北した。食糧が尽き、救援も途絶えたので、包囲を突破して逃げようとしたが、従う者が居ない。
1春,正月,將軍秦武通攻王行本於蒲反。行本出戰而敗,糧盡援絶,欲突圍走,無隨之者,戊寅,開門出降。辛巳,上幸蒲州,斬行本。秦王世民輕騎謁上於蒲州。宋金剛圍絳州。癸巳,上還長安。
2李世勣謀俟竇建德至河南,掩襲其營,殺之,冀得其父並建德土地以歸唐。會建德妻産,久之不至。2.李世勣は、竇建徳への造反を計画した。その内容は、”竇建徳が河南へ来るのを待って、その陣営を襲撃して殺し、父親と竇建徳の領土を奪ってから唐へ帰る”とゆうものである。だが、竇建徳の妻が出産したので、竇建徳はなかなかやってこなかった。
曹旦,建德之妻兄也,在河南,多所侵擾,諸賊羈屬者皆怨之。賊帥魏郡李文相,號李商胡,聚五千餘人,據孟津中潬;母霍氏,亦善騎射,自稱霍總管。世勣結商胡爲昆弟,入拜商胡之母。母泣謂世勣曰:「竇氏無道,如何事之!」世勣曰:「母無憂,不過一月,當殺之,相與歸唐耳!」世勣辭去,母謂商胡曰:「東海公許我共圖此賊,事久變生,何必待其來,不如速決。」是夜,商胡召曹旦偏裨二十三人,飲之酒,盡殺之。旦別將高雅賢、阮君明尚在河北未濟,商胡以巨舟四艘濟河北之兵三百人,至中流,悉殺之。有獸醫游水得免,至南岸,告曹旦,旦嚴警爲備。商胡既舉事,始遣人告李世勣。世勣與曹旦連營,郭孝恪勸世勣襲旦,世勣未決,聞旦已有備,遂與孝恪帥數十騎來奔。商胡復引精兵二千北襲阮君明,破之。高雅賢收衆去,商胡追之,不及而還。
建德群臣請誅李蓋,建德曰:「世勣,唐臣,爲我所虜,不忘本朝,乃忠臣也,其父何罪!」遂赦之。
甲午,世勣、孝恪至長安。曹旦遂取濟州,復還洺州。
3二月,庚子,上幸華陰。3.二月、庚子、上は華陰へ御幸した。
4劉武周遣兵寇潞州,陷長子、壺關。潞州刺史郭子武不能禦,上以將軍河東王行敏助之。行敏與子武不叶,或言子武將叛,行敏斬子武以徇。乙巳,武周復遣兵寇潞州,行敏撃破之。4.劉武周が、派兵して潞州へ来寇し、長子と壺関を陥とした。潞州刺史郭子武は防ぐことができなかった。上は、将軍河東王行敏へ救援を命じた。
5壬子,開州蠻冉肇則陷通州。5.壬子、開州の蛮族の冉肇則が、通州を陥した。
6甲寅,遣將軍桑顯和等攻呂崇茂於夏縣。6.甲寅、将軍桑顕和等を夏県へ派遣して、呂祟茂を攻撃させた。
7初,工部尚書獨孤懷恩攻蒲反,久不下,失亡多,上數以敕書誚讓之,懷恩由是怨望。上嘗戲謂懷恩曰:「姑之子皆已爲天子,次應至舅之子乎?」懷恩亦頗以此自負,或時扼腕曰:「我家豈女獨貴乎?」遂與麾下元君寶謀反。會懷恩、君寶與唐儉皆沒於尉遲敬德,君寶謂儉曰:「獨孤尚書近謀大事,若能早決,豈有此辱哉!」及秦王世民敗敬德於美良川,懷恩逃歸,上復使之將兵攻蒲反。君寶又謂儉曰:「獨孤尚書遂拔難得還,復在蒲反,可謂王者不死!」儉恐懷恩遂成其謀,乃説尉遲敬德,請使劉世讓還與唐連和,敬德從之,遂以懷恩反状聞。時王行本已降,懷恩入據其城,上方濟河幸懷恩營,已登舟矣,世讓適至。上大驚曰:「吾得免,豈非天也!」乃使召懷恩,懷恩未知事露,輕舟來至;即執以屬吏,分捕黨與。甲寅,誅懷恩及其黨。7.初め、工部尚書独孤懐恩が蒲反を攻撃したが、なかなか落とせず、失敗も多かった。上は、屡々敕書で彼を叱責した。これによって、独孤懐恩は上を怨んだ。
8竇建德攻李商胡,殺之。建德洺州勸課農桑,境内無盜,商旅野宿。8.竇建徳が李商胡を攻撃し、これを殺した。
9突厥處羅可汗迎楊政道,立爲隋王。中國士民在北者,處羅悉以配之,有衆萬人。置百官,皆依隋制,居於定襄。9.突厥の處羅可汗が楊政道を迎え、隋王に立てた。處羅可汗は、北に住んでいた中国の士民を悉く彼へ与えたので、その民は一万を越えた。百官を設置し、制度は全て隋の制度に依った。定襄へ住む。
10三月,乙丑,劉武周遣其將張萬歳寇浩州,李仲文撃走之,俘斬數千人。10.三月、乙丑。劉武周が、その将の張萬歳を浩州へ来寇させた。李仲文が、これを撃退した。数千人を捕斬する。
11改納言爲侍中,内史令爲中書令,給事郎爲給事中。11.納言を侍中と改称する。同様に、内史令は中書令、給事郎は給事中。
12甲戌,以内史侍郎封德彝爲中書令。12.甲戌、内史侍郎封徳彝を中書令とした。
13王世充將帥、州縣來降者,時月相繼。世充乃峻其法,一人亡叛,舉家無少長就戮,父子、兄弟、夫婦許相告而免之。又使五家爲保,有舉家亡者,四鄰不覺,皆坐誅。殺人益多而亡者益甚,至於樵采之人,出入皆有限數;公私愁窘,人不聊生。又以宮城爲大獄,意所忌者,并其家屬收系宮中;諸將出討,亦質其家屬於宮中,禁止者常不減萬口,餒死者日有數十。世充又以臺省官爲司、鄭、管、原、伊、殷、梁、湊、嵩、谷、懷、德等十二州營田使,丞、郎得爲此行者,喜若登仙。13.王世充の将帥が、相継いで、統治している州県ごと降伏してくるようになった。そこで、王世充は法律を厳しくし、一人が亡叛したらその家族は幼長となく殺戮した。ただし、親子、兄弟、夫婦でも、告発したら赦された。また、五家を保となし、誰かが家族ぐるみ逃げ出して残りの四家が気がつかなければ、皆、連座して誅殺された。
14甲申,行軍副總管張倫敗劉武周於浩州,俘斬千餘人。14.甲申、行軍副総管張綸が、浩州にて劉武周を敗り、千余人を捕斬する。
15西河公張綸、真郷公李仲文引兵臨石州,劉季真懼而詐降。乙酉,以季真爲石州總管,賜姓李氏,封彭山郡王。15.西河公張綸と真郷公李仲文が兵を率いて石州へ臨んだ。劉季真は懼れ、偽りの降伏をした。
16蠻酋冉肇則寇信州,趙郡公孝恭與戰,不利。李靖將兵八百,襲撃,斬之,俘五千餘人;己丑,復開、通二州。孝恭又撃蕭銑東平王闍提,斬之。16.蛮酋の冉肇則が信州へ来寇した。趙郡公孝恭と戦ったが、戦況は不利だった。李靖が八百の兵を率いて襲撃を掛け、これを斬り、五千余人を捕らえた。
17夏,四月,丙申,上祠華山;壬寅,還長安。17.夏、四月、丙申。上は華山を祠った。壬寅、長安へ帰った。
18置益州道行臺,以益、利、會、鄜、涇、遂六總管隸焉。18.益州行台を設置し、益、利、会、鄜、涇、遂州の六総管を隷属させた。
19劉武周數攻浩州,爲李仲文所敗。宋金剛軍中食盡;丁未,金剛北走,秦王世民追之。19.劉武周は屡々浩州を攻撃したが、李仲文に敗北した。そのうちに、宋金剛の軍中は兵糧が尽きてしまった。
20羅士信圍慈澗,王世充使太子玄應救之,士信刺玄應墜馬,人救之,得免。20.羅士信が、慈澗(隋志;河南郡、寿安県に慈澗がある。)を包囲した。王世充は、太子の玄應を救援に向かわせた。
21壬子,以顯州道行臺楊士林爲行臺尚書令。21.壬子、顕州道行台楊士林を行台尚書令とした。
22甲寅,加秦王世民益州道行臺尚書令。22.甲寅、秦王世民に益州道行台尚書令を加える。
23秦王世民追及尋相於呂州,大破之,乘勝逐北,一晝夜行二百餘里,戰數十合。至高壁嶺,總管劉弘基執轡諫曰:「大王破賊,逐北至此,功亦足矣。深入不已,不愛身乎!且士卒饑疲,宜留壁於此,俟兵糧畢集,然後復進,未晩也。」世民曰:「金剛計窮而走,衆心離沮;功難成而易敗,機難得而易失,必乘此勢取之。若更淹留,使之計立備成,不可復攻矣。吾竭忠徇國,豈顧身乎!」遂策馬而進,將士不敢復言飢。追及金剛於雀鼠谷,一日八戰,皆破之,俘斬數萬人。夜,宿於雀鼠谷西原,世民不食二日,不解甲三日矣,軍中止有一羊,世民與將士分而食之。丙辰,陝州總管于筠自金剛所逃來。世民引兵趣介休,金剛尚有衆二萬,出西門,背城布陳,南北七里。世民遣總管李世勣等與戰,小卻,爲賊所乘。世民帥精騎撃之,出其陳後,金剛大敗,斬首三千級。金剛輕騎走,世民追之數十里,至張難堡。浩州行軍總管樊伯通、張德政據堡自守,世民免冑示之,堡中喜噪且泣。左右告以王不食,獻濁酒、脱粟飯。23.秦王世民は、呂州まで尋相を追撃し、大いに破った。勝ちに乗じて更に追撃を掛け、一昼夜に二百余里進んで数十回戦った。
尉遲敬德收餘衆守介休,世民遣任城王道宗、宇文士及往諭之,敬德與尋相舉介休及永安降。世民得敬德,甚喜,以爲右一府統軍,使將其舊衆八千,與諸營相參。屈突通慮其變,驟以爲言,世民不聽。
劉武周聞金剛敗,大懼,棄并州走突厥。金剛收其餘衆,欲復戰,衆莫肯從,亦與百餘騎走突厥。
世民至晉陽,武周所署僕射楊伏念以城降。唐儉封府庫以待世民,武周所得州縣皆入於唐。
未幾,金剛謀走上谷,突厥追獲,腰斬之。嵐州總管劉六兒從宋金剛在介休,秦王世民擒斬之。其兄季真,棄石州,奔劉武周將馬邑高滿政,滿政殺之。
武周之南寇也,其内史令苑君璋諫曰:「唐主舉一州之衆,直取長安,所向無敵,此乃天授,非人力也。晉陽以南,道路險隘,縣軍深入,無繼於後,若進戰不利,何以自還!不如北連突厥,南結唐朝,南面稱孤,足爲長策。」武周不聽,留君璋守朔州。及敗,泣謂君璋曰:「不用君言,以至於此。」久之,武周謀亡歸馬邑,事泄,突厥殺之。突厥又以君璋爲大行臺,統其餘衆,仍令郁射設督兵助鎮。
24庚申,懷州總管黄君漢撃王世充太子玄應於西濟州,大破之;熊州行軍總管史萬寶邀之於九曲,又破之。24.庚申、懐州総管黄君漢が、西済州にて王世充の太子玄應を攻撃して大勝利を収めた。熊州行軍総管史萬寶が、九曲にて襲撃し、また、これを破る。
25辛酉,王世充陷鄧州。25.辛酉、王世充が鄧州を陥とす。
26上聞并州平,大悅。壬戌,宴群臣,賜繒帛,使自入御府,盡力取之。復唐儉官爵,仍以爲并州道安撫大使;所籍獨孤懷恩田宅資財,悉以賜之。26.上は、并州平定と聞いて、大いに悦んだ。
世民留李仲文鎮并州,劉武周數遣兵入寇,仲文輒撃破之,下城堡百餘所。詔仲文檢校并州總管。
27五月,竇建德遣高士興撃李藝於幽州,不克,退軍籠火城。藝襲撃,大破之,斬首五千級。建德大將軍王伏寶,勇略冠軍中,諸將疾之,言其謀反,建德殺之,伏寶曰:「大王奈何聽讒言,自斬左右手乎!」27.五月、竇建徳は、高士興を幽州へ派遣して、李芸を攻撃させた。しかし、勝てずに籠火城まで退却した。李芸はこれを攻撃し、大勝利を収め、首級五千を挙げた。
28初,尉遲敬德將兵助呂崇茂守夏縣,上潛遣使赦崇茂罪,拜夏州刺史,使圖敬德,事泄,敬德殺之。敬德去,崇茂餘黨復據夏縣拒守。秦王世民引軍自晉州還攻夏縣,壬午,屠之。28.初め、尉遅敬徳は兵を率いて呂祟茂を助けて夏県を守っていた。上は、密かに使者を派遣して、祟茂の罪を赦し夏州刺史に任命して、敬徳を殺させようと謀った。しかし、事前に洩れ、敬徳は祟茂を殺した。
29辛卯,秦王世民至長安。29.辛卯、秦王世民が、長安へ到着した。
30是月,突厥遣阿史那掲多獻馬千匹於王世充,且求婚;世充以宗女妻之,并與之互市。30.この月、突厥が王世充へ阿史那掲多を使者として派遣し、馬千匹を献上して通婚を求めた。世充は宗族の女を娶らせ、互いに交易をした。
31六月,壬辰,詔以和州總管、東南道行臺尚書令楚王杜伏威爲使持節、總管江淮以南諸軍事、揚州刺史、東南道行臺尚書令、淮南道安撫使,進封呉王,賜姓李氏。以輔公祏爲行臺左僕射,封舒國公。31.六月、壬辰。和州総管、東南道行台尚書令楚王杜伏威へ詔して使持節、総管江・淮以南諸軍事、揚州刺史、東南道行台尚書令、淮南道安撫使とし、呉王へ進封して、李姓を賜下した。
32丙午,立皇子元景爲趙王,元昌爲魯王,元亨爲鄷王。32.丙午、皇子の元景を立てて趙王とした。元昌を魯王、元亨を鄷王とする。
33顯州行臺尚書令楚公楊士林,雖受唐官爵,而北結王世充,南通蕭銑;詔廬江王瑗與安撫使李弘敏討之。兵未行,長史田瓚爲士林所忌,甲寅,瓚殺士林,降於世充,世充以瓚爲顯州總管。33.顕州行台尚書令楚公楊士林は唐の官爵を受けたけれども、北は王世充と結び、南は蕭銑と通じていた。そこで安撫使李弘敏と共にこれを討つよう、廬江王瑗へ詔が降りた。
34秦王世民之討劉武周也,突厥處羅可汗遣其弟歩利設帥二千騎助唐。武周既敗,是月,處羅至晉陽,總管李仲文不能制;又留倫特勒,使將數百人,云助仲文鎮守,自石嶺以北,皆留兵戍之而去。34.秦王世民が劉武周を討伐した時、突厥の處羅可汗は、弟の歩利設へ二千騎を与えて、唐を助けさせた。そして武周は滅亡したが、この月、處羅が晋陽へやって来た。総管の李仲文は、これを制止することができなかった。
35上議撃王世充,世充聞之,選諸州鎮驍勇皆集洛陽,置四鎮將軍,募人分守四城。秋,七月,壬戌,詔秦王世民督諸軍撃世充。陝東道行臺屈突通二子在洛陽,上謂通曰:「今欲使卿東征,如卿二子何?」通曰:「臣昔爲俘囚,分當就死,陛下釋縛,加以恩禮。當是之時,臣心口相誓,期以更生餘年爲陛下盡節,但恐不獲死所耳。今得備先驅,二兒何足顧乎!」上歎曰:「徇義之士,一至此乎!」35.上が、王世充攻撃を言い出した。世充はそれを聞いて、諸鎮から驍勇を選りすぐって、皆、洛陽へ集め、四鎮将軍を設置し、人を募って洛陽の四城を分守した。
36癸亥,突厥遣使潛詣王世充,潞州總管李襲譽邀撃,敗之,虜牛羊萬計。36.癸亥、突厥が、密かに王世充へ使者を派遣した。路州総管李襲誉が、これを攻撃して敗った。牛や羊一万余を捕らえた。
37驃騎大將軍可朱渾定遠告:「并州總管李仲文與突厥通謀,欲俟洛陽兵交,引胡騎直入長安。」甲戌,命皇太子鎮蒲反以備之,又遣禮部尚書唐儉安撫并州,蹔廢并州總管府,徴仲文入朝。37.驃騎大将軍可朱渾定遠が、告発した。
38壬午,秦王世民至新安。王世充遣魏王弘烈鎮襄陽,荊王行本鎮虎牢,宋王泰鎮懷州,齊王世惲檢校南城,楚王世偉守寶城,太子玄應守東城,漢王玄恕守含嘉城,魯王道徇守曜儀城,世充自將戰兵,左輔大將軍楊公卿帥左龍驤二十八府騎兵,右游撃大將軍郭善才帥内軍二十八府歩兵,左游撃大將軍跋野綱帥外軍二十八府歩兵,總三萬人,以備唐。弘烈、行本,世偉之子;泰,世充之兄子也。38.壬午、秦王世民が新安へ到着した。王世充は、魏王弘烈を襄陽へ、荊王行本を虎牢へ、宋王泰を懐州へ、斉王世惲を南城へ、楚王世偉を寶城へ派遣してそれぞれ鎮守させた。太子玄應は東城を、漢王玄恕は含嘉城を、魯王道徇は曜儀城を守り、世充は自ら戦兵を率いた。左輔大将軍楊公卿は左龍驤二十八府の騎兵を、右游撃大将軍郭善才は内軍二十八府の歩兵を、左游撃大将軍跋野綱は外軍二十八府の歩兵を率い、総勢三万で唐へ備えた。
39梁師都引突厥、稽胡兵入寇,行軍總管段德操撃破之,斬首千餘級。39.梁師都が突厥や稽胡の兵を率いて入寇した。行軍総管段徳操が、これを攻撃して破り、千余級を斬首した。
40羅士信將前鋒圍慈澗,世充自將兵三萬救之。己丑,秦王將輕騎前覘世充,猝與之遇,衆寡不敵,道路險阨,爲世充所圍。世民左右馳射,獲其左建威將軍燕琪,世充乃退。世民還營,塵埃覆面,軍不復識,欲拒之,世民免冑自言,乃得入。旦日,帥歩騎五萬進軍慈澗;世充拔慈澗之戍,歸于洛陽。世民遣行軍總管史萬寶自宜陽南據龍門,將軍劉德威自太行東圍河内,上谷公王君廓自洛口斷其餉道,懷州總管黄君漢自河陰攻迴洛城;大軍屯於北邙,連營以逼之。世充洧州長史繁水張公謹與刺史崔樞以州城來降。40.羅士信が前軍を率いて慈澗を包囲した。王世充は、自ら三万の兵を率いてこれを救援に向かった。
41八月,丁酉,南寧西爨蠻遣使入貢。初,隋末蠻酋爨翫反,誅,諸子沒爲官奴,棄其地。帝即位,以翫子弘達爲昆州刺史,令持其父屍歸葬;益州刺史段綸因遣使招諭其部落,皆來降。41.八月、丁酉。南寧の西爨蛮が使者を派遣して入貢した。
42己亥,竇建德共州縣令唐綱殺刺史,以州來降。42.己亥、竇建徳の共州県令唐綱が刺史を殺して、州ごと来降した。
43鄧州土豪執王世充所署剌史來降。43.鄧州の土豪が、王世充の任命した刺史を捕らえて、来降した。
44癸卯,梁師都石堡留守張舉帥千餘人來降。44.癸卯、梁師都の石堡留守張挙が千余人を率いて来降した。
45甲辰,黄君漢遣校尉張夜叉以舟師襲迴洛城,克之,獲其將達奚善定,斷河陽南橋而還,降其堡聚二十餘。世充使太子玄應帥楊公卿等攻迴洛,不克,乃築月城於其西,留兵戍之。45.甲辰、黄君漢が校尉張夜叉へ水軍で迴洛城を襲撃させ、これに勝った。その将の達奚善定を捕らえ、河陽南橋を切断して帰る。従属する堡二十余が降伏した。
世充陳於靑城宮,秦王世民亦置陳當之。世充隔水謂世民曰:「隋室傾覆,唐帝關中,鄭帝河南,世充未嘗西侵,王忽舉兵東來,何也?」世民使宇文士及應之曰:「四海皆仰皇風,唯公獨阻聲教,爲此而來!」世充曰:「相與息兵講好,不亦善乎!」又應之曰:「奉詔取東都,不令講好也!」至暮,各引兵還。
46上遣使與竇建德連和,建德遣同安長公主隨使者倶還。46.上は、竇建徳と連合しようと、使者を派遣した。竇建徳はその使者が帰る時、同安長公主を送り返した。(同安長公主は、上と同母の姉妹である。黎陽が陥落した時以来、竇建徳に捕らえられていた。)
47乙卯,劉德威襲懷州,入其外郭,下其堡聚。47.乙卯、劉徳威が懐州を襲撃した。その外郭へ入り、多くの堡を落とした。
48九月,庚午,梁師都將劉旻以華池來降,以爲林州總管。48.九月、庚午。梁師都の将劉旻が華池ごと来降した。唐は、彼を林州総管に任命した。
49癸酉,王世充顯州總管田瓚以所部二十五州來降;自是襄陽聲問與世充絶。49.癸酉、王世充の顕州総管田瓚が所領二十五州を率いて来降した。これより襄陽は世充との連絡が絶えた。
50史萬寶進軍甘泉宮。丁丑,秦王世民遣右武衞將軍王君廓攻轘轅,拔之。王世充遣其將魏隱等撃君廓,君廓偽遁,設伏,大破之,遂東徇地,至管城而還。先是,王世充將郭士衡、許羅漢掠唐境,君廓以策撃卻之,詔勞之曰:「卿以十三人破賊一萬,自古以少制衆,未之有也。」50.史萬寶が甘泉宮まで進軍した。
世充尉州剌史時德睿帥所部杞、夏、陳、隨、許、潁、尉七州來降。秦王世民以便宜命州縣官並依世充所署,無所變易,改尉州爲南汴州,於是河南州縣相繼來降。
劉武周降將尋相等多叛去。諸將疑尉遲敬德,囚之軍中。行臺左僕射屈突通、尚書殷開山言於世民曰:「敬德驍勇絶倫,今既囚之,心必怨望,留之恐爲後患,不如遂殺之。」世民曰:「不然。敬德若叛,豈在尋相之後邪!」遽命釋之,引入臥内,賜之金,曰:「丈夫意氣相期,勿以小嫌介意,吾終不信讒言以害忠良,公宜體之。必欲去者,以此金相資,表一時共事之情也。」辛巳,世民以五百騎行戰地,登魏宣武陵。王世充帥歩騎萬餘猝至,圍之。單雄信引槊直趨世民,敬德躍馬大呼,橫刺雄信墜馬,世充兵稍卻,敬德翼世民出圍。世民、敬德更帥騎兵還戰,出入世充陳,往返無所礙。屈突通引大兵繼至,世充兵大敗,僅以身免。擒其冠軍大將軍陳智略,斬首千餘級,獲排槊兵六千。世民謂敬德曰:「公何相報之速也!」賜敬德金銀一篋,自是寵遇日隆。
敬德善避矟,毎單騎入敵陳中,敵叢矟刺之,終莫能傷,又能奪敵矟返剌之。齊王元吉以善馬矟自負,聞敬德之能,請各去刃相與校勝負,敬德曰:「敬德謹當去之,王勿去也。」既而元吉刺之,終不能中。秦王世民問敬德曰:「奪矟與避矟,孰難?」敬德曰:「奪矟難。」乃命敬德奪元吉矟。元吉操矟躍馬,志在刺之,敬德須臾三奪其矟;元吉雖面相歎異,内甚恥之。
51叛胡陷嵐州。51.叛胡が嵐州を落とした。
52初,王世充以邴元真爲滑州行臺僕射。濮州刺史杜才幹,李密故將也,恨元真叛密,詐以其衆降之。元真恃其官勢,自往招慰,才幹出迎,延入就坐,執而數之曰:「汝本庸才,魏化置汝元僚,不建毫髮之功,乃構滔天之禍,今來送死,是汝之分!」遂斬之,遣人齎其首至黎陽祭密墓。壬午,以濮州來降。52.初め、王世充は邴元真を滑州行台僕射とした。濮州刺史杜才幹はもとは李密の将で、邴元真が李密に叛いたのを恨んでいたので、衆を率いて降伏すると欺いた。元真は、後ろ盾の勢力を恃んで、自ら招慰に出かけた。才幹は出迎えて室へ招き入れ座に就かせてから捕らえ、その罪状を数え上げた。
53突厥莫賀咄設寇涼州,總管楊恭仁撃之,爲所敗,掠男女數千人而去。53.突厥の莫賀咄設が涼州へ来寇した。総管の楊恭仁がこれを攻撃し、敗北した。莫賀咄設は、男女数千人を掠めて去った。
54丙戌,以田瓚爲顯州總管,賜爵蔡國公。54.丙戌、田瓚を顕州総管とし、蔡国公の爵位を賜下した。
55冬,十月,甲午,王世充大將軍張鎮周來降。55.冬、十月。甲午、王世充の大将軍張鎮周が来降した。
56甲辰,行軍總管羅士信襲王世充硤石堡,拔之。士信又圍千金堡,堡中人罵之。士信夜遣百餘人抱嬰兒數十至堡下,使兒啼呼,詐云「從東都來歸羅總管」。既而相謂曰:「此千金堡也,吾屬誤矣。」即去。堡中以爲士信已去,來者洛陽亡人,出兵追之。士信伏兵於道,伺其門開,突入,屠之。56.甲辰、行軍総管等士信が王世充の硤石堡を襲撃して、これを抜いた。
57竇建德之圍幽州也,李藝告急于高開道,開道帥二千騎救之,建德兵引去,開道因藝遣使來降。戊申,以開道爲蔚州總管,賜姓李氏,封北平郡王。開道有矢鏃在頬,召醫出之,醫曰:「鏃深,不可出。」開道怒,斬之。別召一醫,曰:「出之恐痛。」又斬之。更召一醫,醫曰:「可出。」乃鑿骨,置楔其間,骨裂寸餘,竟出其鏃;開道奏妓進膳不輟。57.竇建徳が幽州を包囲するや、李芸は高開道へ急を告げた。開道が二千騎を率いて救援に来たので、竇建徳は退却した。高開道は、李芸のつてで、長安へ使者を派遣して来降した。
58竇建德帥衆二十萬復攻幽州。建德兵已攀堞,薛萬均、薛萬徹帥敢死士百人從地道出其背,掩撃之,建德兵潰走,斬首千餘級。李藝兵乘勝薄其營,建德陳於營中,填塹而出,奮撃,大破之,建德逐北。至其城下,攻之,不克而還。58.竇建徳は、二十万の大軍を率いて、再び幽州を攻撃した。建徳の兵が(城壁へ飛びつくと?)、薛萬均と薛徹が決死隊百人を率いて、地下道から彼等の背後へ廻って、これを襲撃した。建徳軍は潰走し、官軍は千余の首級を挙げた。李芸は、勝ちに乗じてその陣へ肉薄した。建徳は、営中に陣を布いた。彼等は堀を埋めて出撃し、奮戦して李芸軍を大いに破った。そして、敗走する李芸軍を城下まで追撃したが、攻撃しても勝てないので、退却した。
59李密之敗也,楊慶歸洛陽,復姓楊氏。及王世充稱帝,慶復姓郭氏,世充以爲管州總管,妻以兄女。秦王世民逼洛陽,慶潛遣人請降,世民遣總管李世勣將兵往據其城。慶欲與其妻偕來,妻曰:「主上使妾侍巾櫛者,欲結君之心也。今君既辜付託,徇利求全,妾將如君何!若至長安,則君家一婢耳,君何用爲!願送至洛陽,君之惠也。」慶不許。慶出,妻謂侍者曰:「若唐遂勝鄭,則吾家必滅;鄭若勝唐,則吾夫必死。人生至此,何用生爲!」遂自殺。庚戌,慶來降,復姓楊氏,拜上柱國、郇國公。59.李密が敗北した時、楊慶は洛陽へ帰り、姓をもとの楊氏へ戻した。(楊慶は、李密へ帰属して、改姓していた。)王世充が帝と称すると、慶は、再び姓を郭氏へ戻した。王世充は、彼を管州総管にして、兄の娘を娶せた。
時世充太子玄應鎮虎牢,軍於榮、汴之間,聞之,引兵趣管城,李世勣撃卻之。使郭孝恪爲書説榮州刺史魏陸,陸密請降。玄應遣大將軍張志就陸徴兵,丙辰,陸擒志等四將,舉州來降。陽城令王雄帥諸堡來降,秦王世民使李世勣引兵應之,以雄爲嵩州刺史,嵩南之路始通。魏陸使張志詐爲玄應書,停其東道之兵,令其將張慈寶且還汴州,又密告汴州刺史王要漢使圖慈寶,要漢斬慈寶以降。玄應聞諸州皆叛,大懼,奔還洛陽。詔以要漢爲汴州總管,賜爵郳國公。
60王弘烈據襄陽,上令金州總管府司馬涇陽李大亮安撫樊、鄧以圖之。十一月,庚申,大亮攻樊城鎮,拔之,斬其將國大安,下其城柵十四。60.王弘烈が襄陽へ據っていた。上は、金州総管府司馬涇陽の李大亮へ、樊・鄧地方を安撫して王弘烈を図るよう命じた。
61蕭銑性褊狹,多猜忌。諸將恃功恣橫,好專誅殺,銑患之,乃宣言罷兵營農,實欲奪諸將之權。大司馬董景珍弟爲將軍,怨望,謀作亂;事泄,伏誅。景珍時鎮長沙,銑下詔赦之,召還江陵。景珍懼,甲子,以長沙來降;詔峽州刺史許紹出兵應之。61.蕭銑は、偏狭な性格で猜疑心が強かった。
62雲州總管郭子和,先與突厥、梁師都相連結,既而襲師都寧朔城,克之。又得突厥釁隙,遣使以聞,爲突厥候騎所獲。處羅可汗大怒,囚其弟子升。子和自以孤危,請帥其民南徙,詔以延州故城處之。62.雲州総管郭子和は、突厥や梁師都と連合を結んだが、提携した後、師都の寧朔城を攻撃して、これに勝った。また、突厥間の不調和を聞くと、これを上へ報告しようと使者を放ったが、その使者は突厥へ捕まってしまった。
63張舉、劉旻之降也,梁師都大懼,遣其尚書陸季覽説突厥處羅可汗曰:「比者中原喪亂,分爲數國,勢均力弱,故皆北面歸附突厥。今定楊可汗既亡,天下將悉爲唐有。師都不辭灰滅,亦恐次及可汗。不若及其未定,南取中原,如魏道武所爲,師都請爲郷導。」處羅從之,謀使莫賀咄設入自原州,泥歩設與師都入自延州,突利可汗與奚、霫、契丹、靺鞨入自幽州,會竇建德之師自滏口西入,會于晉、絳。莫賀咄者,處羅之弟咄苾也;突利者,始畢之子什鉢苾也。63.張挙と劉旻が降伏するや、梁師都は大いに懼れ、尚書の陸季覧を突厥へ派遣して處羅可汗を説得した。
處羅又欲取并州以居楊政道,其羣臣多諫,處羅曰:「我父失國,賴隋得立,此恩不可忘!」將出師而卒。義成公主以其子奧射設醜弱,廢之,更立莫賀咄設,號頡利可汗。乙酉,頡利遣使告處羅之喪,上禮之如始畢之喪。
64戊子,安撫大使李大亮取王世充沮、華二州。64.戊子、安撫大使李大亮が、王世充の沮・華二州を取った。
65是月,竇建德濟河撃孟海公。65.この月、竇建徳は黄河を渡って孟海公を攻撃した。
初,王世充侵建德黎陽,建德襲破殷州以報之。自是二國交惡,信使不通。及唐兵逼洛陽,世充遣使求救於建德。建德中書侍郎劉彬説建德曰;「天下大亂,唐得關西,鄭得河南,夏得河北,共成鼎足之勢。今唐舉兵臨鄭,自秋渉冬,唐兵日增,鄭地日蹙,唐強鄭弱,勢必不支。鄭亡,則夏不能獨立矣。不如解仇除忿,發兵救之,夏撃其外,鄭攻其内,破唐必矣。唐師既退,徐觀其變,若鄭可取則取之,并二國之兵,乘唐師之老,天下可取也。」建德從之,遣使詣世充,許以赴援。又遣其禮部侍郎李大師等詣唐,請罷洛陽之兵,秦王世民留之,不答。
66十二月,辛卯,王世充許、亳等十一州皆請降。66.十二月、辛卯。王世充は、許・毫など十一州全てを以て降伏を請うた。
67壬辰,燕郡王李藝又撃竇建德軍於籠火城,破之。67.壬辰、燕郡王李芸が籠火城にて、再び竇建徳軍を攻撃して、これを破った。
68辛丑,王世充隨州總管徐毅舉州降。68.辛丑、王世充の隋州総管徐毅が州を挙げて降伏した。
69癸卯,峽州剌史許紹攻蕭銑荊門鎮,拔之。紹所部與梁、鄭鄰接,二境得紹士卒,皆殺之,紹得二境士卒,皆資給遣之。敵人愧感,不復侵掠,境内以安。69.癸卯、峡州刺史許紹が蕭銑の荊門鎮を攻撃して、これを抜いた。紹の管轄地は梁、鄭と隣接していた。二国の国境警備兵は、紹の士卒を得たら皆殺したが、紹が二国の兵卒を捕らえたら、兵糧を与えて放してやった。すると、敵人は恥を知り、以来、侵掠しなくなった。こうして境内は安定した。
70蕭銑遣其齊王張繍攻長沙,董景珍謂繍曰:「『前年醢彭越,往年殺韓信』,卿不見之乎,何爲相攻!」繍不應,進兵圍之。景珍欲潰圍走,爲麾下所殺;銑以繍爲尚書令。繍恃功驕橫,銑又殺之。由是功臣諸將皆有離心,兵勢益弱。70.蕭銑が、その斉王張繍へ長沙を攻撃させた。董景珍が繍へ言った。
71王世充遣其兄子代王琬、長孫安世詣竇建德報聘,且乞師。71.王世充は、兄の子の代王琬と長孫安世を竇建徳の元へ派遣して、援軍を請うた。
72突厥倫特勒在并州,大爲民患,并州總管劉世讓設策擒之。上聞之,甚喜。張道源從竇建德在河南,密遣人詣長安,請出兵攻洺州以震山東。丙午,詔世讓爲行軍總管,使將兵出土門,趣洺州。72.突厥の倫特勒が并州にいるので、大きな民患となった。そこで并州総管劉世譲は、策を設けてこれを捕らえた。上は、これを聞いて甚だ喜んだ。
73己酉,瓜州刺史賀拔行威執驃騎將軍達奚暠,舉兵反。73.己酉、瓜州刺史賀抜行威が、驃騎将軍達奚暠を捕らえ、挙兵して造反した。
74是歳,李子通渡江攻沈法興,取京口。法興遣其僕射蔣元超拒之,戰於庱亭,元超敗死,法興棄毘陵,奔呉郡。於是丹楊、毘陵等郡皆降於子通。子通以法興府掾李百藥爲内史侍郎、國子祭酒。74.この年、李子通が揚子江を渡って沈法興を攻撃し、京口を取った。
杜伏威遣行臺左僕射輔公祏將卒數千攻子通,以將軍闞稜、王雄誕爲副。公祏渡江攻丹楊,克之,進屯溧水,子通帥衆數萬拒之。公祏簡精甲千人,執長刀爲前鋒;又使千人踵其後,曰:「有退者即斬之。」自帥餘衆,復居其後。子通爲方陳而前,公祏前鋒千人殊死戰,公祏復張左右翼以撃之,子通敗走,公祐逐之,反爲所敗,還,閉壁不出。王雄誕曰:「子通無壁壘,又狃於初勝,乘其無備,撃之可破也。」公祏不從。雄誕以其私屬數百人夜出撃之,因風縱火,子通大敗,降其卒數千人。子通食盡,棄江都,保京口,江西之地盡入於伏威,伏威徙居丹楊。
子通復東走太湖,收合亡散,得二萬人,襲沈法興於呉郡,大破之。法興帥左右數百人棄城走,呉郡賊帥聞人遂安遣其將葉孝辯迎之,法興中塗而悔,欲殺孝辯,更向會稽。孝辯覺之,法興窘迫,赴江溺死。子通軍勢復振,帥其群臣徙都餘杭,盡收法興之地,北自太湖,南至嶺,東包會稽,西距宣城,皆有之。
75廣、新二州賊帥高法澄、沈寶徹殺隋官,據州,附於林士弘,漢陽太守馮盎撃破之。既而寶徹兄子智臣復聚兵於新州,盎引兵撃之。戰始合,盎免冑大呼曰:「爾識我乎?」賊多棄仗肉袒而拜,遂潰,擒寶徹、智臣等,嶺外遂定。75.廣・新二州の賊帥高法澄と沈寶徹が隋の官吏を殺して州に據り、林士弘へ帰属した。
76竇建德行臺尚書令恆山胡大恩請降。76.竇建徳の行台尚書恒山の胡大恩が、降伏を請うてきた。
武德四年(辛巳,六二一)1.春、正月、癸酉。大恩を代州総管として、定襄郡王へ封じ、李姓を賜下した。
1春,正月,癸酉,以大恩爲代州總管,封定襄郡王,賜姓李氏。代州石嶺之北,自劉武周之亂,寇盜充斥,大恩徙鎮雁門,討撃,悉平之。
2稽胡酋帥劉仚成部落數萬,爲邊寇;辛巳,詔太子建成統諸軍討之。2.稽胡の酋帥劉仚成は数万の部落を持ち、辺寇を行っていた。
3王世充梁州總管程嘉會以所部來降。3.王世充の梁州総管程嘉會が所管を以て来降した。
4杜伏威遣其將陳正通、徐紹宗帥精兵二千,來會秦王世民撃王世充,甲申,攻梁,克之。4.杜伏威が、その将陳正通、徐紹宗へ精鋭二千を与えて派遣し、秦王世民と合流して王世充を攻撃した。
5丙戌,黔州刺史田世康攻蕭銑五州、四鎮,皆克之。5.丙戌、黔州刺史田世康が、蕭銑の五州四鎮を攻撃し、全て勝った。
6秦王世民選精鋭千餘騎,皆皀衣玄甲,分爲左右隊,使秦叔寶、程知節、尉遲敬德、翟長孫分將之。毎戰,世民親被玄甲帥之爲前鋒,乘機進撃,所向無不摧破,敵人畏之。行臺僕射屈突通、贊皇公竇軌引兵按行營屯,猝與王世充遇,戰不利。秦王世民帥玄甲救之,世充大敗,獲其騎將葛彦璋,俘斬六千餘人,世充遁歸。6.秦王世民が精鋭千余騎を選び、皆へ引きずるような長い裾と黒い甲をかぶせて左右隊へ分け、秦叔寶、程知節、尉遅敬徳、翟長孫へ分散して指揮させた。戦争のたびに、世民は自ら黒甲隊をかぶり、これを率いて前鋒とし、機会に乗じて進撃したが、向かうところ敵を粉砕しないことはなく、敵人はこれを畏れた。
7李靖説趙郡王孝恭以取蕭銑十策,孝恭上之。二月,辛卯,改信州爲夔州,以孝恭爲總管,使大造舟艦,習水戰。以孝恭未更軍旅,以靖爲行軍總管,兼孝恭長史,委以軍事。靖説孝恭悉召巴、蜀酋長子弟,量才授任,置之左右,外示引擢,實以爲質。7.李靖が趙郡王孝恭へ、蕭銑を取る十策を説いた。孝恭は、これを上へ伝えた。
8王世充太子玄應將兵數千人,自虎牢運糧入洛陽,秦王世民遣將軍李君羨邀撃,大破之,玄應僅以身免。8.王世充の太子玄應が、兵数千人を率いて兵糧を虎牢から洛陽へ運び入れようとした。秦王世民は将軍李君羨を派遣して、これを襲撃させた。君羨は敵を撃破し、玄應は体一つで逃げ出した。
世民使宇文士及奏請進圍東都,上謂士及曰:「歸語爾王:今取洛陽,止欲息兵。克城之日,乘輿法物,圖籍器械,非私家所須者,委汝收之。其餘子女玉帛,並以分賜將士。」
辛丑,世民移軍靑城宮,壁壘未立,王世充帥衆二萬自方諸門出,憑故馬坊垣塹,臨穀水以拒唐兵,諸將皆懼。世民以精騎陳於北邙,登魏宣武陵以望之,謂左右曰:「賊勢窘矣,悉衆而出,徼幸一戰,今日破之,後不敢復出矣!」命屈突通帥歩卒五千渡水撃之,戒通曰:「兵交則縱煙。」煙作,世民引騎南下,身先士卒,與通合勢力戰。世民欲知世充陳厚薄,與精騎數十沖之,直出其背,衆皆披靡,殺傷甚衆。既而限以長堤,與諸騎相失,將軍丘行恭獨從世民,世充數騎追及之,世民馬中流矢而斃。行恭回騎射追者,發無不中,追者不敢前。乃下馬以授世民,行恭於馬前歩執長刀,距躍大呼,斬數人,突陳而出,得入大軍。世充亦帥衆殊死戰,散而復合者數四,自辰至午,世充兵始退。世民縱兵乘之,直抵城下,俘斬七千人,遂圍之。驃騎將軍段志玄與世充兵力戰,深入,馬倒,爲世充兵所擒,兩騎夾持其髻,將渡洛水,志玄踴身而奮,二人倶墜馬。志玄馳歸,追者數百騎,不敢逼。
初,驃騎將軍王懷文爲唐軍斥候,爲世充所獲,世充欲慰悅之,引置左右。壬寅,世充出右掖門,臨洛水爲陳,懷文忽引槊刺世充,世充衷甲,槊折不能入,左右猝出不意,皆愕眙不知所爲。懷文走趣唐軍,至寫口,追獲,殺之。世充歸,解去衷甲,袒示羣臣曰:「懷文以槊刺我,卒不能傷,豈非天所命乎!」
先是,御史大夫鄭頲不樂仕世充,多稱疾不預事,至是謂世充曰:「臣聞佛有金剛不壞身,陛下真是也!臣實多幸,得生佛世,願棄官削髮爲沙門,服勤精進,以資陛下之神武。」世充曰:「國之大臣,聲望素重,一旦入道,將駭物聽。俟兵革休息,當從公志。」頲固請,不許。退謂其妻曰:「吾束髮從官,志慕名節,不幸遭遇亂世,流離至此,側身猜忌之朝,累足危亡之地,智力淺薄,無以自全。人生會有死,早晩何殊,姑從吾所好,死亦無憾!」遂削髮被僧服。世充聞之,大怒曰:「爾以我爲必敗,欲苟免邪?不誅之,何以制衆!」遂斬頲於市。頲言笑自若,觀者壯之。
詔贈王懷文上柱國、朔州刺史。
9并州安撫使唐儉密奏:「眞郷公李仲文與妖僧志覺有謀反語,又娶陶氏之女以應桃李之謠。諂事可汗,甚得其意,可汗許立爲南面可汗。及在并州,贓賄狼藉。」上命裴寂、陳叔達、蕭瑀雜鞫之。乙巳,仲文伏誅。9.并州安撫使唐倹が密かに上奏した。
10庚戌,王泰棄河陽走,其將趙夐等以城來降。別將單雄信、裴孝達與總管王君廓相持於洛口,秦王世民帥歩騎五千援之,至轘轅,雄信等遁去,君廓追敗之。10.庚戌、王泰が、河陽を棄てて逃げた。その将趙夐らは城を以て来降した。
11壬子,延州總管段德操撃劉仚成,破之,斬首千餘級。11.延州総管段徳操が、劉仚成を攻撃して破った。千余級を斬首する。
12乙卯,王世充懷州刺史陸善宗以城降。12.乙卯、王世充の懐州刺史陸善宗が、城を以て降伏した。
13秦王世民圍洛陽宮城,城中守禦甚嚴,大礮飛石重五十斤,擲二百歩,八弓弩箭如車輻,鏃如巨斧,射五百歩。世民四面攻之,晝夜不息,旬餘不克。城中欲翻城者凡十三輩,皆不果發而死。唐將士皆疲弊思歸,總管劉弘基等請班師。世民曰:「今大舉而來,當一勞永逸。東方諸州已望風款服,唯洛陽孤城,勢不能久,功在垂成,奈何棄之而去!」乃下令軍中曰:「洛陽未破,師必不還,敢言班師者斬!」衆乃不敢復言。上聞之,亦密敕世民使還,世民表稱洛陽必可克,又遣參謀軍事封德彝入朝面論形勢。德彝言於上曰:「世充得地雖多,率皆羈屬,號令所行,唯洛陽一城而已,智盡力窮,克在朝夕。今若旋師,賊勢復振,更相連接,後必難圖!」上乃從之。世民遣世充書,諭以禍福;世充不報。13.秦王世民は、洛陽の宮城を包囲した。城中の守備は甚だ厳く、大きな投石機は、重さ五十斤の石を二百歩も投げ飛ばした。八つの弩は、車輪のような箭に巨斧のような鏃の矢を五百歩も飛ばした。世民は、昼夜休まず四面から攻撃したが、十日余りしても勝てない。城中から内応しようとする者は十三人も居たが、全て発覚して殺された。唐の将士はみな疲弊して帰りたがった。
14戊午,王世充鄭州司兵沈悅遣使詣左武候大將軍李世勣請降。左衞將軍王君廓夜引兵襲虎牢,悅爲内應,遂拔之,獲其荊王行本及長史戴冑。悅,君理之孫也。14.戊午、王世充の鄭州司兵沈悦が、左武候大将軍李世勣のもとへ使者を派遣して、降伏を請うた。左衛将軍王君廓が、夜半に兵を率いて虎牢を襲撃すると、悦は内応した。遂に唐軍はこれを抜き、世充の荊王行本と長史の戴冑を捕らえた。
15竇建德克周橋,虜孟海公。
15.竇建徳が周橋に勝ち、孟海公を捕虜にした。
翻訳者: 渡邊 省