巻第一百九十

資治通鑑巻第一百九十
 唐紀六
  高祖神堯大聖光孝皇帝中之下
武德五年(壬午、六二二)

 春,正月,劉黑闥自稱漢東王,改元天造,定都洺州。以范願爲左僕射,董康買爲兵部尚書,高雅賢爲右領軍;徴王琮爲中書令,劉斌爲中書侍郎;竇建德時文武悉復本位。其設法行政,悉師建德,而攻戰勇決過之。
1.春、正月。劉黒闥は漢東王と自称して天造と改元し、洺州を都に定めた。范願を左僕射、董康買を兵部尚書、高雅賢を右領軍とした。また、王琮と劉斌を召して、それぞれ中書令と中書侍郎にした。竇建徳の頃の文武官は、全てもとの官位へ復帰させる。彼等の法律や行政は全て建徳に倣ったが、戦争の時の勇猛果敢さはそれを上回っていた。
 丙戌,同安賊帥殷恭邃以舒州來降。
2.丙戌、同安の賊帥殷恭邃が舒州を以て来降した。
 丁亥,濟州別駕劉伯通執刺史竇務本,以州附徐圓朗。
3.丁亥、済州別駕劉伯通が刺史の竇務本を捕らえ、州を以て徐圓朗へ帰属した。
 庚寅,東鹽州治中王才藝殺刺史田華,以城應劉黑闥。
4.庚寅、東塩州治中王才藝が刺史の田華を殺し、城を以て劉黒闥へ応じた。
 秦王世民軍至獲嘉,劉黑闥棄相州,退保洺州。丙申,世民復取相州,進軍肥郷,列營洺水之上以逼之。
5.秦王世民の軍が獲嘉まで進軍した。劉黒闥は相州を棄て、退却して洺州を保った。丙申、世民は再び相州を取った。更に肥郷まで進軍し、洺水の上へ陣を布いて敵へ迫った。
 蕭銑既敗,散兵多歸林士弘,軍勢復振。
6.蕭銑が滅亡すると、その兵卒達の大半は林士弘へ帰順したので、その勢力は再び増大した。
 己酉,嶺南俚帥楊世略以循、潮二州來降。
7.己酉、嶺南俚の帥楊世略が、循・潮二州を以て来降した。
 唐使者王義童下泉、睦、建三州。
8.唐の使者王義童が泉・睦・建の三州を下した。
 幽州總管李藝將所部兵數萬會秦王世民討劉黑闥,黑闥聞之,留兵萬人,使范願守洺州,自將兵拒藝。夜,宿沙河,程名振載鼓六十具,於城西二里隄上急撃之,城中地皆震動。范願驚懼,馳告黑闥;黑闥遽還,遣其弟十善與行臺張君立將兵一萬撃藝於鼓城。壬子,戰於徐河,十善、君立大敗,所失亡八千人。
9.幽州総管李藝が、劉黒闥討伐の為、手勢数万で秦王世民と合流した。 黒闥はこれを聞くと、范願へ兵一万を与えて洺州を鎮守させ、自身は兵を率いて藝を拒んだ。
 夜、沙河へ宿を取る。程名振が軍鼓六十を載せ、鼓城の西二里の堤の上からこれを急襲した。城中は皆、震動した。范願は驚懼し、黒闥へ急使を出した。黒闥はすぐに引き返し、その弟の十善と行台張君立へ一万の兵を与えて鼓城の藝を攻撃させた。
 壬子、両軍は徐河で戦った。十善・君立は大敗し、八千の兵を失った。
 10洺水人李去惑據城來降,秦王世民遣彭公王君廓將千五百騎赴之,入城共守。二月,劉黑闥引兵還攻洺水,癸亥,行至列人,秦王世民使秦叔寶邀撃破之。
10.洺水の住民李去惑が城を占拠して来降した。秦王世民は彭公王君廓へ千五百騎を与えてこれへ派遣し、入城して共に守らせた。
 二月、劉黒闥は兵を率いて洺水攻撃に出かけた。癸亥、列人まで進軍する。秦王世民は秦叔寶へ攻撃させ、これを破った。
 11豫章賊帥張善安以虔、吉等五州來降,拜洪州總管。
11.豫章の賊帥張善安が虔、吉等五州を以て来降した。洪州総管へ任命する。
 12戊辰,金郷人陽孝誠叛徐圓朗,以城來降。
12.戊辰、金郷の人陽孝誠が徐圓朗に背き、城を以て来降した。
 13己巳,秦王世民復取邢州。辛未,井州人馮伯讓以城來降。
13.己巳、秦王世民が再び邢州を取った。
 辛未、井州の住民馮伯譲が城を以て来降した。
 14丙子,李藝取劉黑闥定、欒、廉、趙四州,獲黑闥尚書劉希道,引兵與秦王世民會洺州。
14.丙子、李藝が劉黒闥の定、欒、廉、趙の四州を取った。黒闥の尚書劉希道を捕らえ、兵を率いて洺州にて秦王世民と合流した。
 15劉黑闥攻洺水甚急。城四旁皆有水,廣五十餘歩,黑闥於城東北築二甬道以攻之;世民三引兵救之,黑闥拒之,不得進。世民恐王君廓不能守,召諸將謀之,李世勣曰:「若甬道達城下,城必不守。」行軍總管郯勇公羅士信請代君廓守之。世民乃登城西南高塚,以旗招君廓,君廓帥其徒力戰,潰圍而出。士信帥左右二百人乘之入城,代君廓固守。黑闥晝夜急攻,會大雪,救兵不得往,凡八日,丁丑,城陷。黑闥素聞其勇,欲生之,士信詞色不屈,乃殺之,時年二十。
15.劉黒闥は洺水を性急に攻め立てた。洺水城は、城の周りは全て水で、その広さは五十余歩。黒闥は、城の東北へ二本のトンネルを築き、これを攻めた。
 世民は兵を率いて救援に向かったが、黒闥軍がこれを拒み、進軍できなかった。世民は、王君廓が守りきれないのではないかと懼れ、諸将を集めて軍議を開いた。
 李世勣が言った。
「もしもトンネルが城下へ達したら、絶対守りきれません。」
 行軍総管の郯勇公羅士信が君廓と交代して守ろうと申し出た。世民は城南の高台へ登って旗を以て君廓を招いた。君廓は手勢を率いて力戦し、包囲の一角を破って出てきた。士信は左右二百人を率いてその機に乗じて入城し、君廓に代わって固く守った。
 黒闥は、昼夜の別無く攻め立てた。丁度大雪が降って、救援軍は駆けつけることができず、およそ八日経った丁丑の日、城は落ちた。黒闥は、もともと士信の武勇を聞いていたので、何とか彼を手下にしたがったが、士信は言葉も顔色も屈しなかったので、遂にこれを殺した。享年二十。
 16戊寅,汴州總管王要漢攻徐圓朗杞州,拔之,獲其將周文舉。
16.戊寅、汴州総管王要漢が徐圓朗の杞州を攻撃して、これを抜いた。その将周文挙を捕らえる。
 17庚辰,延州道行軍總管段德操撃梁師都石堡城,師都自將救之;德操與戰,大破之,師都以十六騎遁去。上益其兵,使乘勝進攻夏州,克其東城,師都以數百人保西城。會突厥救至,詔德操引還。
17.庚辰、延州道行軍総管段徳操が梁師都の石堡城を攻撃した。梁師都が自ら兵を率いて救援に向かったが、徳操はこれと戦い大いに破る。師都は十六騎で逃げ去った。
 上は徳操軍を増員し、勝ちに乗じて夏州へ進攻させた。徳操は、その東城に勝つ。師都は、数百人で西城を保った。
 突厥が救援に来たので、徳操へ引き返すよう詔が降りた。
 18辛巳,秦王世民拔洺水。三月,世民與李藝營於洺水之南,分兵屯水北。黑闥數挑戰,世民堅壁不應,別遣奇兵絶其糧道。壬辰,黑闥以高雅賢爲左僕射,軍中高會。李世勣引兵逼其營,雅賢乘醉,單騎逐之,世勣部將潘毛刺之墜馬;左右繼至,扶歸,未至營而卒。甲午,諸將復往逼其營,潘毛爲王小胡所擒。黑闥運糧於冀、貝、滄、瀛諸州,水陸倶進,程名振以千餘人邀之,沈其舟,焚其車。
18.辛巳、秦王世民が洺水を抜いた。
 三月、世民と李藝が洺水の南へ陣営し、兵を分けて水北へも屯営した。黒闥は屡々挑戦したが、世民は守備を固めて応じない。その傍ら、別働隊を出して、敵の糧道を絶った。
 壬辰、黒闥は高雅賢を左僕射にして、軍中で宴会を開いた。李世勣は兵を率いて、その陣へ迫る。雅賢は酔いで気が大きくなっており、単騎で追撃した。世勣の部将潘毛が、これを刺して馬から突き落とした。雅賢の左右が駆けつけてきて助けて帰ったが、陣へ戻る前に卒した。
 甲午、諸将が再び敵陣へ迫った。潘毛は、王小胡に捕らえられた。
 黒闥は、冀・貝・滄・瀛の諸州から兵糧を運んだ。その輜重隊は、水陸から連携しながら進軍する。程名振が千余人で攻撃し、その船を沈め車は焼き払った。
 19宋州總管盛彦師帥齊州總管王薄攻須昌,徴軍糧於潭州;刺史李義滿與薄有隙,閉倉不與。及須昌降,彦師收義滿,繋齊州獄,詔釋之。使者未至,義滿憂憤,死獄中。薄還,過潭州,戊戌夜,義滿兄子武意執薄,殺之;彦師亦坐死。
19.宋州総管盛彦師が斉州総管王薄を率いて須昌を攻撃した。この時、潭州から軍糧を徴発したが、刺史の李義満は薄へ含むところがあり、倉を閉じて兵糧を与えなかった。
 須昌が降伏すると、彦師は義満を捕らえて斉州の牢獄へぶち込んだ。やがて、これを赦すよう詔が降りたが、その使者が到着する前に、義満は獄中にて憤死していた。
 薄は任地へ戻る途中潭州を通過した。戊戌の夜、義満の兄の子の武意が薄を捕らえ、殺した。
 義満の死は彦師の罪とみなされ、彦師も死刑となった。
 20上遣使賂突厥頡利可汗,且許結婚。頡利乃遣漢陽公瓌、鄭元璹、長孫順德等還,庚子,復遣使來修好,上亦遣其使者特勒熱寒、阿史那德等還。并州總管劉世讓屯雁門,頡利與高開道、苑君璋合衆攻之,月餘,乃退。
20.上は突厥へ使者を派遣し、頡利可汗へ賄賂を贈り、結婚を許諾した。頡利は漢陽公瓌、鄭元璹、長孫順徳等を唐へ返還した。
 庚子、再び修好の使者を派遣する。上は、特勒熱寒、阿史那徳らへも使者を派遣した。
 并州総管劉世譲が雁門に屯営した。頡利は高開道、苑君璋と連合してこれを攻撃したが、一ヶ月余りで撤退した。
 21甲辰,以隋交趾太守丘和爲交州總管。和遣司馬高士廉奉表請入朝,詔許之,遣其子師利迎之。
21.甲辰、隋の交趾太守丘和を交州総管とする。和は、司馬の高士廉を派遣して表を奉じ、入朝を請うた。詔してこれを許し、その子の師利を派遣して彼を迎えた。
 22秦王世民與劉黑闥相持六十餘日。黑闥潛師襲李世勣營,世民引兵掩其後以救之,爲黑闥所圍。尉遲敬德帥壯士犯圍而入,世民與略陽公道宗乘之得出。道宗,帝之從子也。世民度黑闥糧盡,必來決戰,乃使人堰洺水上流,謂守吏曰:「待我與賊戰,乃決之。」丁未,黑闥帥歩騎二萬南度洺水,壓唐營而陳。世民自將精騎撃其騎兵,破之,乘勝蹂其歩兵。黑闥帥衆殊死戰,自午至昏,戰數合,黑闥勢不能支。王小胡謂黑闥曰:「智力盡矣,宜早亡去。」遂與黑闥先遁,餘衆不知,猶格戰。守吏決堰,洺水大至,深丈餘,黑闥衆大潰,斬首萬餘級,溺死數千人,黑闥與范願等二百騎奔突厥,山東悉平。
22.秦王世民と劉黒闥は、六十日余り対峙した。黒闥は密かに兵を動かして李世勣の陣を攻撃した。生民は兵を率いて彼等の背後を絶ち救援しようとしたが、黒闥に包囲されてしまった。尉遅敬徳は壮士を率いて包囲へ突入した。世民と略陽公道宗は、その機に乗じて脱出できた。道宗は、帝の従子である。
 世民は、黒闥軍の兵糧がそろそろ底を尽きる頃だと計算し、奴等は必ず決戦に来ると考えた。そこで、洺水の上流へ堰を築かせ、それを吏へ守らせて言った。
「我が賊と戦うのを待って、これを決壊せよ。」
 丁未、黒闥は歩騎二万を率いて洺水を渡り、唐営を抑えつけて陣を布いた。世民は自ら精騎を率いて敵の騎兵を攻撃し、これを破る。勝ちに乗じて、敵の歩兵も揉み潰した。黒闥は衆を率いて決死に戦った。正午から黄昏まで数合戦ったが、黒闥勢は支えきれなかった。王小胡が黒闥へ言った。
「智力尽きました。早くお逃げください。」
 そして黒闥を先に逃がした。
 皆はこれを知らずにまだ戦っていた。すると、吏が堰を切った。たちまち洺水の水が押し寄せ、一丈余りの深さになった。黒闥軍は大いに潰れた。一万余の首級を挙げられ、数千人が溺死した。
 黒闥は范願等二百騎で突厥へ亡命。山東は平定した。
 23高開道寇易州,殺刺史慕容孝幹。
23.高開道が易州へ来寇した。刺史の慕容孝幹を殺す。
 24夏,四月,己未,隋鴻臚卿甯長眞以寧越、鬱林之地請降於李靖,交、愛之道始通;以長眞爲欽州總管。
24.夏、四月、己未、隋の鴻臚卿甯長真が寧越、鬱林の土地を以て李靖へ降伏を請うた。これによって、交・愛への道が、始めて開通した。
 長真を欽州総管とする。
 25以夔州總管趙郡王孝恭爲荊州總管。
25.夔州総管趙郡王孝恭を荊州総管とする。
 26徐圓朗聞劉黑闥敗,大懼,不知所出。河間人劉復禮説圓朗曰:「有劉世徹者,其才不世出,名高東夏,且有非常之相,眞帝王之器。將軍若自立,恐終無成;若迎世徹而奉之,天下指揮可定。」圓朗然之,使復禮迎世徹於浚儀。或説圓朗曰:「將軍爲人所惑,欲迎劉世徹而奉之,世徹若得志,將軍豈有全地乎!僕不敢遠引前古,將軍獨不見翟讓之於李密乎?」圓朗復以爲然。世徹至,已有衆數千人,頓於城外,以待圓朗出迎;圓朗不出,使人召之。世徹知事變,欲亡走,恐不免,乃入謁;圓朗悉奪其兵,以爲司馬,使徇譙、杞二州。東人素聞其名,所向皆下,圓朗遂殺之。
  秦王世民自河北引兵將撃圓朗,會上召之,使馳傳入朝,乃以兵屬齊王元吉。庚申,世民至長安,上迎之於長樂。世民具陳取圓朗形勢,上復遣之詣黎陽,會大軍趨濟陰。
26.徐圓朗は劉黒闥が大敗したと聞き、大いに懼れて為す術を知らなかった。
 河間の住民劉復禮が圓朗へ説いた。
「劉世徹とゆう者がいます。不世出の才覚を持ち、東夏では有名です。その上彼は非常の相を持ち、真に帝王の器です。将軍がもしも自立しようとしても、結局は失敗するでしょうが、世徹を迎え入れて奉じれば、天下を平定することもできましょう。」
 圓朗は納得し、世徹を迎えようと復禮を凌儀へ派遣した。
 すると、ある者が圓朗へ言った。
「将軍は誑かされて世徹を推戴しようとしていますが、世徹がもしも志を得たら、将軍の領土がどうして保全されましょうか!僕が昔の話を引き合いに出さなくても、将軍も翟譲と李密をご存知でしょうに。」
 圓朗は、これにも同意した。
 やがて世徹はやって来た。数千人の衆を率いて城外に屯営し、圓朗が出迎えるのを待った。だが圓朗は出てこないで、使者がやってきて世徹を徴召した。世徹は変事が起こったと察知し、逃げ出したかったが、逃げ切れないことを恐れ、入って謁見した。圓朗は、その兵を悉く奪って世徹を司馬とし、譙、杞二州を治めさせた。ところが、東方の人々は、もともと彼の名前を聞いていたので、世徹の行く先々、皆が降伏してきた。遂に、圓朗は世徹を殺した。
 秦王世民は河北から兵を退き圓朗を攻撃しようとしていたが、上がこれを呼び戻した。そこで世民は朝廷へ馳せ参じ、兵卒は斉王元吉へ預けた。
 庚申、世民は長安へ到着した。上は、これを長楽にて出迎えた。
 世民が圓朗の情勢を具に伝えると、上は彼をふたたび黎陽へ派遣した。世民は、そこで大軍を手にすると、済陰へ向かった。
 27丁卯,廢山東行臺。
27.丁卯、山東行台が廃された。
 28壬申,代州總管定襄王李大恩爲突厥所殺。先是,大恩奏稱突厥饑饉,馬邑可取,詔殿内少監獨孤晟將兵與大恩共撃苑君璋,期以二月會馬邑;失期不至,大恩不能獨進,頓兵新城。頡利可汗遣數萬騎與劉黑闥共圍大恩,上遣右驍衞大將軍李高遷救之。未至,大恩糧盡,夜遁,突厥邀之,衆潰而死,上惜之。獨孤晟坐減死徙邊。
28.壬申、代州総管定襄王李大恩が突厥に殺された。その経緯は、以下の通り。
 大恩は、突厥が飢饉なので、馬邑を奪えると上奏していた。そこで、殿内少監の独孤晟へ、兵を率いて大恩と共に苑君璋を攻撃するよう詔が降りた。二月に馬邑にて合流する手筈だったが、独孤晟は期限に間に合わなかった。大恩は孤軍で前進するわけにも行かずに、新城へ屯営していた。すると頡利可汗は、数万の騎兵を派遣し、劉黒闥と共に大恩を包囲した。
 上は、右驍衛大将軍李高遷を救援に派遣したが、彼が到着する前に、大恩軍は兵糧が底を尽きて、夜半、逃げ出した。突厥はこれを攻撃した。大恩軍は潰滅し、大恩は戦死したのである。
 上は、これを惜しんだ。独孤晟は罪に当たったが、死一等を減じられて遠流となった。
 29丙子,行臺民部尚書史萬寶攻徐圓朗陳州,拔之。
29.丙子、行台民部尚書史萬寶が徐圓朗の陳州を攻撃して、これを抜いた。
 30戊寅,廣州賊帥鄧文進、隋合浦太守甯宣、日南太守李晙並來降。
30.戊寅、広州の賊帥鄧文進、隋の合浦太守甯宣、日南太守李晙が来降した。
 31五月,庚寅,瓜州士豪王幹斬賀拔行威以降,瓜州平。
31.五月、庚寅、瓜州の土豪王幹が駕抜行威を斬って降伏した。これによって、瓜州は平定した。
 32突厥寇忻州,李高遷撃破之。
32.突厥が忻州へ来寇したが、李高遷が撃破した。
 33六月,辛亥,劉黑闥引突厥寇山東,詔燕郡王李藝撃之。
33.六月。辛亥、劉黒闥が突厥を率いて山東へ来寇した。燕郡王李藝へ、これを迎撃するよう詔が降りる。
 34癸丑,吐谷渾寇洮、旭、疊三州,岷州總管李長卿?破之。
34.癸丑、吐谷渾が洮、旭、畳の三州へ来寇した。岷州総管李長卿が、これを撃破する。
 35乙卯,遣淮安王神通撃徐圓朗。
35.乙卯、淮安王神通を徐圓朗攻撃に派遣した。
 36丁卯,劉黑闥引突厥寇定州。
36.丁卯、劉黒闥が突厥を率いて定州へ来寇した。
 37秋,七月,甲申,爲秦王世民營弘義宮,使居之。世民撃徐圓朗,下十餘城,聲震淮、泗,杜伏威懼,請入朝。世民以淮、濟之間略定,使淮安王神通、行軍總管任瓌、李世勣攻圓朗;乙酉,班師。
37.秋、七月、甲申。秦王世民の為に弘義宮を造営し、これに住ませた。
 世民は徐圓朗を攻撃して十余城を下し、その名声は淮・泗を震駭させた。杜伏威は、恐れて入朝を請うた。世民は、淮・済の間がほぼ平定したと考え、淮安王神通、行軍総管任瓌、李世勣等へ圓朗を攻撃させた。
 乙酉、軍を編成した。
 38丁亥,杜伏威入朝,延升御榻,拜太子太保,仍兼行臺尚書令,留長安,位在齊王元吉上,以寵異之。以闞稜爲左領軍將軍。
  李子通謂樂伯通曰:「伏威既來,江東未定,我往收舊兵,可以立大功。」遂相與亡至藍田關,爲吏所獲,倶伏誅。
38.丁亥、杜伏威が入朝した。上の御長椅子まで登り、太子太保を拝受し、行台尚書令を兼任する。長安へ留まらせ、官位は斉王元吉の上に置くなど、破格の寵遇だった。
 闞稜を左領軍将軍とする。
 李子通が、楽伯通へ言った。
「伏威がやって来たが、江東は未だ平定していまい。我等が行って昔の兵卒達をかき集めたら、大功を建てることができるぞ。」
 遂に、共に逃亡したが、藍田関で官吏に捕まり、誅殺された。
 39劉黑闥至定州,其故將曹湛、董康買亡命在鮮虞,復聚兵應之。甲午,以淮陽王道玄爲河北道行軍總管以討之。
39.劉黒闥が定州まで進軍した。彼の元の部下の曹湛と董康買は亡命して鮮虞に潜んでいたが、兵をかき集めてこれに応じた。
 甲午、淮南王道玄を河北道行軍総管としてこれを討伐させた。
 40丙申,遷州人鄧士政執刺史李敬昂以反。
40.丙申、遷州の住人鄧士政が刺史の李敬昴を捕らえて造反した。
 41丁酉,隋漢陽太守馮盎承李靖檄,帥所部來降,以其地爲高、羅、春、白、崖、儋、林、振八州,以盎爲高州總管,封耿國公。先是,或説盎曰:「唐始定中原,未能及遠,公所領二十餘州地,已廣於趙佗,宜自稱南越王。」盎曰:「吾家居此五世矣,爲牧伯者不出吾門,富貴極矣。常懼不克負荷,爲先人羞,敢効趙佗自王一方乎!」遂來降。於是嶺南悉平。
41.丁酉、隋の漢陽太守馮盎が李靖の檄文を読み、手勢を率いて来降した。そこで、その領土を高、羅、春、白、崖、儋、林、振の八州とし、盎は高州総管として耿国公へ封じた。
 話は遡るが、ある人が盎へ説いた。
「唐は中原を平定したばかりで、その支配力は遠方へは及んでいません。公の所領は、既に二十州。その領土はかつての趙佗(漢紀に出てくる。)よりも広いのです。南越王と自称されれば宜しい。」
 すると、盎は言った。
「我が家は、ここで暮らすようになって、私で五代目だ。だが、牧や伯となった者は、吾が一門には一人も居ない。富貴は極めたけれども、負荷に耐えられずにご先祖へ顔向けできなくなるのではないかと常に恐れているのだ。なんで趙佗に倣って一方の王になったりできようか!」
 遂に来降した。
 ここにおいて、嶺南はすっかり平定した。
 42八月,辛亥,以洺、荊、交、并、幽五州爲大總管府。
42.八月。辛亥、洺、荊、交、并、幽の五州を大総管府とする。
 43改葬隋煬帝於揚州雷塘。
43.隋の煬帝を揚州の雷塘へ改葬した。
 44甲戌,吐谷渾寇岷州,敗總管李長卿。詔益州行臺右僕射竇軌、渭州刺史且洛生救之。
44.甲戌、吐谷渾が岷州へ来寇し、総管の李長卿を破る。
 益州行台右僕射竇軌と渭州刺史且洛生へ、これを救うよう詔が降りる。
 45乙卯,突厥頡利可汗寇邊,遣左武衞將軍段德操、雲州總管李子和將兵拒之。子和本姓郭,以討劉黑闥有功,賜姓。丙辰,頡利十五萬騎入雁門,己未,寇并州,別遣兵寇原州;庚子,命太子出幽州道,秦王世民出秦州道以禦之。李子和趨雲中,掩撃可汗,段德操趨夏州,邀其歸路。
  辛酉,上謂羣臣曰:「突厥入寇而復求和,和與戰孰利?」太常卿鄭元璹曰:「戰則怨深,不如和利。」中書令封德彝曰:「突厥恃犬羊之衆,有輕中國之意,若不戰而和,示之以弱,明年將復來。臣愚以為不如撃之,既勝而後與和,則恩威兼著矣。」上從之。
  己巳,并州大總管襄邑王神符破突厥於汾東;汾州刺史蕭顗破突厥,斬首五千餘級。
45.乙卯、突厥の頡利可汗が辺域へ入寇した。左武衛将軍段徳操と雲州総管李子和を派遣して、拒戦させた。
 子和は、もともとの姓は郭だったが、劉黒闥討伐で功績を建てたので、李姓を賜った。
 丙辰、頡利は十五万騎で雁門へ入った。己未、并州へ来寇し、別働隊を原州へ来寇させる。
 庚子、太子は幽州道から出陣し、秦王世民は秦州道から出陣してこれを防ぐよう命じた。李子和は雲中へ赴いて可汗を襲撃し、段徳操は夏州へ赴いて敵の帰路を断った。
 辛酉、上は群臣へ言った。
「突厥は入寇しては、講和を求めている。講和と戦争と、どちらが有利だろうか?」
 すると、太常卿の鄭元璹が言った。
「突厥は犬や羊のような兵卒達を恃んで、中国を軽視しています。もしも戦わずに和平を結べば、彼等は我等を弱いと侮り、来年も又来寇するでしょう。臣は、まず一撃を与えるべきと愚考いたします。既に勝った後に和平すれば、恩威共に顕著であります。」
 上は、これに従った。
 己巳、并州大総管襄邑王神符が汾東で突厥を撃破した。汾州刺史蕭顗も突厥を破り、五千余級を斬首した。
 46吐谷渾寇洮州,遣武州刺史賀亮禦之。
46.吐谷渾が洮州へ入寇した。武州刺史賀亮を派遣して防御させた。
 47丙子,突厥寇廉州;戊寅,陷大震關。上遣鄭元璹詣頡利。是時,突厥精騎數十萬,自介休至晉州,數百里間,填溢山谷。元璹見頡利,責以負約,與相辨詰,頡利頗慚。元璹因説頡利曰:「唐與突厥,風俗不同,突厥雖得唐地,不能居也。今虜掠所得,皆入國人,於可汗何有?不如旋師,復脩和親,可無跋渉之勞,坐受金幣,又皆入可汗府庫,孰與棄昆弟積年之歡,而結子孫無窮之怨乎!」頡利悅,引兵還。元璹自義寧以來,五使突厥,幾死者數焉。
47.丙子、突厥が廉州へ来寇した。戊寅、大震関を落とす。上は、鄭元璹を頡利のもとへ派遣した。
 この時、突厥の精騎は数十万。介休から晋州へ至るまで数百里の間、騎兵達は山谷を埋め尽くしていた。元璹は頡利へ会うと、約束違反を責め立てた。二人は共に弁詰しあったが、頡利の廉恥心は中華の民とは基準が全然違っていた。そこで、元璹は頡利へ言った。
「唐と突厥は、風俗が違います。突厥が唐の土地を得たところで、住むことはできません。今、吾が民を略奪して突厥へ連れていったとて、可汗にとって何の役に立つのですか?それよりも、軍を帰して和親を修好したならば、略奪をしなくても、座したまま金幣が受け取れるのです。これは皆、可汗の財産になりますよ。同胞達の積年の歓楽を棄てて子孫まで無窮の怨みを結ぶのと、どちらがよいでしょうか!」
 頡利は喜んで軍を返した。
 元璹は、義寧以来、突厥へ使者として五回往来し、死ぬような目にあったことは数え切れなかった。
 48九月,癸巳,交州刺史權士通、弘州總管宇文歆、靈州總管楊師道撃突厥於三觀山,破之。乙未,太子班師。丙申,宇文歆邀突厥於崇崗鎮,大破之,斬首千餘級。壬寅,定州總管雙士洛撃突厥於恆山之南,丙午,領軍將軍安興貴撃突厥於甘州,皆破之。
48.九月、癸巳、交州刺史権士通、弘州総管宇文歆、霊州総管楊師道が三観山にて突厥を攻撃し、破った。
 乙未、太子が軍を編成した。
 丙申、宇文歆が祟崗鎮にて突厥と戦い、大勝利を収めた。千余級を斬首する。
 壬寅、定州総管雙士洛が恒山の南で突厥を攻撃した。丙午、領軍将軍安興貴が甘州にて突厥を攻撃した。どちらも敵を破る。
 49劉黑闥陷瀛州,殺刺史馬匡武。鹽州人馬君德以城叛附黑闥。高開道寇蠡州。
49.劉黒闥が瀛州を落とし、刺史の馬匡武を殺した。
 鹽州の住民馬君徳が城を以て黒闥へ帰順した。
 高開道が蠡州へ来寇した。
 50冬,十月,己酉,詔齊王元吉討劉黑闥於山東。壬子,以元吉爲領軍大將軍、并州大總管。癸丑,貝州刺史許善護與黑闥弟十善戰於鄃縣,善護全軍皆沒。甲寅,右武候將軍桑顯和撃黑闥於晏城,破之。觀州刺史劉會以城叛附黑闥。
50.冬、十月、己酉、斉王元吉へ山東にて劉黒闥を討伐するよう詔が降りる。壬子、元吉を領軍大将軍、并州大総管とする。
 癸丑、貝州刺史許善護が黒闥の弟の十善と鄃県にて戦い、善護の軍は全滅した。
 甲寅、右武候将軍桑顕和が晏城にて黒闥を攻撃し、これを破る。
 観州刺史劉會が、城を以て黒闥へ帰順した。
 51契丹寇北平。
51.契丹が北平へ来寇した。
 52甲子,以秦王世民領左、右十二衞大將軍。
52.甲子、秦王世民を領左、右十二衛大将軍とした。
 53乙丑,行軍總管淮陽壯王道玄與劉黑闥戰於下博,軍敗,爲黑闥所殺。時道玄將兵三萬,與副將史萬寶不協;道玄帥輕騎先出犯陳,使萬寶將大軍繼之。萬寶擁兵不進,謂所親曰:「我奉手敕云,淮陽小兒,軍事皆委老夫。今王輕脱妄進,若與之倶,必同敗沒,不如以王餌賊,王敗,賊必爭進,我堅陳以待之,破之必矣。」由是道玄獨進敗沒。萬寶勒兵將戰,士卒皆無鬭志,軍遂大潰,萬寶逃歸。道玄數從秦王世民征伐,死時年十九,世民深惜之,謂人曰:「道玄常從吾征伐,見吾深入賊陳,心慕効之,以至於此。」爲之流涕。世民自起兵以來,前後數十戰,常身先士卒,輕騎深入,雖屢危殆而未嘗爲矢刃所傷。
53.乙丑、行軍総管淮陽壮王道玄が劉黒闥と下博で戦い、敗北。道玄は黒闥に殺された。その経緯は、以下の通り。
 道玄は三万の兵を率いていたが、副将の史萬寶と協力できていなかった。萬寶は兵を抱えたまま進軍せず、親しい者へ言った。
「我が奉った手敕には、淮陽は小児だから軍事は全て老夫へ委ねる、と書いてあったのだ。今、王は軽々しく妄進している。もしも共に進んだら、必ず一緒に敗北してとまう。ここは、王を賊の餌にする方が良い。王が敗北すれば、賊は必ず争って前進する。我は陣を固めて待ち受ければ、必ず破れる。」
 こうして道玄は単独で前進して敗北した。
 萬寶は兵を指揮して戦おうとしたが、士卒達に闘志が無く、軍は遂に潰滅した。萬寶は逃げ去った。
 道玄はしばしば秦王世民に従って征伐していた。享年十九。世民は深く惜しみ、人へ言った。
「道玄は、いつも我に従って征伐していた。我が賊陣深く突撃するのを見て、同じように戦いたがっていたのだろう。おかげで、こんな結果になってしまった。」
 そして、道玄の為に涙を零した。
 世民は、起兵以来前後数十回戦ったが、常に士卒に率先して軽騎で深入りしていた。だから、屡々危険な目にあったが、いまだかつて矢や刃で傷ついたことはなかった。
 54林士弘遣其弟鄱陽王藥師攻循州,刺史楊略與戰,斬之,其將王戎以南昌州降。士弘懼,己巳,請降。尋復走保安成山洞,袁州人相聚應之;洪州總管若干則遣兵撃破之。會士弘死,其衆遂散。
54.林士弘が、その弟の鄱陽王薬師を派遣して、循州を攻撃した。刺史楊略がこれと戦い、薬師を斬る。その将王戎は、南昌州を以て降伏した。
 士弘は懼れ、己巳、降伏を請うたが、やがて逃げ出して安成山洞を確保した。袁州の人々が集まって、これに呼応する。
 洪州総管若干則が派兵してこれを攻撃し、破った。
 士弘が死んだので、その部下達は散り散りに逃げた。
 55淮陽王道玄之敗也,山東震駭,洺州總管廬江王瑗棄城西走,州縣皆叛附於黑闥,旬日間,黑闥盡復故地,乙亥,進據洺州。十一月,庚辰,滄州刺史程大買爲黑闥所迫,棄城走。齊王元吉畏黑闥兵強,不敢進。
  上之起兵晉陽也,皆秦王世民之謀,上謂世民曰:「若事成,則天下皆汝所致,當以汝爲太子。」世民拜且辭。及爲唐王,將佐亦請以世民爲世子,上將立之,世民固辭而止。太子建成,性寬簡,喜酒色游畋;齊王元吉,多過失;皆無寵於上。世民功名日盛,上常有意以代建成,建成内不自安,乃與元吉協謀,共傾世民,各引樹黨友。
  上晩年多内寵,小王且二十人,其母競交結諸長子以自固。建成與元吉曲意事諸妃嬪,諂諛賂遺,無所不至,以求媚於上。或言蒸於張婕妤、尹德妃,宮禁深秘,莫能明也。是時,東宮、諸王公、妃主之家及後宮親戚橫長安中,恣爲非法,有司不敢詰。世民居承乾殿,元吉居武德殿後院,與上臺、東宮晝夜通行,無復禁限。太子、二王出入上臺,皆乘馬、攜弓刀雜物,相遇如家人禮。太子令、秦・齊王教與詔敕並行,有司莫知所從,唯據得之先後爲定。世民獨不奉事諸妃嬪,諸妃嬪爭譽建成、元吉而短世民。
  世民平洛陽,上使貴妃等數人詣洛陽選閲隋宮人及收府庫珍物。貴妃等私從世民求寶貨及爲其親屬求官,世民曰:「寶貨皆已籍奏,官當授賢才有功者。」皆不許,由是益怨。世民以淮安王神通有功,給田數十頃。張婕妤之父因婕妤求之於上,上手敕賜之,神通以教給在先,不與。婕妤訴於上曰:「敕賜妾父田,秦王奪之以與神通。」上遂發怒,責世民曰:「我手敕不如汝教邪!」他日,謂左僕射裴寂曰:「此兒久典兵在外,爲書生所教,非復昔日子也。」尹德妃父阿鼠驕橫,秦王府屬杜如晦過其門,阿鼠家童數人曳如晦墜馬,毆之,折一指,曰:「汝何人,敢過我門而不下馬!」阿鼠恐世民訴於上,先使德妃奏云:「秦王左右陵暴妾家。」上復怒責世民曰:「我妃嬪家猶爲汝左右所陵,況小民乎!」世民深自辯析,上終不信。
  世民毎侍宴宮中,對諸妃嬪,思太穆皇后早終,不得見上有天下,或歔欷流涕,上顧之不樂。諸妃嬪因密共譖世民曰:「海内幸無事,陛下春秋高,唯宜相娯樂,而秦王毎獨涕泣,正是憎疾妾等。陛下萬歳後,妾母子必不爲秦王所容,無孑遺矣!」因相與泣,且曰:「皇太子仁孝,陛下以妾母子屬之,必能保全。」上爲之愴然。由是無易太子意,待世民浸疏,而建成、元吉日親矣。
  太子中允王珪、洗馬魏徴説太子曰:「秦王功蓋天下,中外歸心;殿下但以年長位居東宮,無大功以鎮服海内。今劉黑闥散亡之餘,衆不滿萬,資糧匱乏,以大軍臨之,勢如拉朽,殿下宜自撃之以取功名,因結納山東豪傑,庶可自安。」太子乃請行於上,上許之。珪,頍之兄子也。甲申,詔太子建成將兵討黑闥,其陝東道大行臺及山東道行軍元帥、河南・河北諸州並受建成處分,得以便宜從事。
55.淮陽王道玄が敗北するや、山東は震駭した。洺州総管廬江王瑗は、城を棄てて西へ逃げた。州県は皆、唐へ背いて黒闥へ帰順した。旬日のうちに、黒闥は元の領土を恢復する。乙亥、黒闥は進軍して洺州を占拠した。
 十一月、庚辰、滄州刺史程大買が黒闥に迫られ、城を棄てて逃げた。斉王元吉は、黒闥の兵の強さを畏れ、敢えて進まなかった。
 上の晋陽での起兵は、全て秦王世民のはかりごとだった。この時、上は世民へ言った。
「もしも事が成就したら、天下は全て汝から貰った物。汝が太子となるべきだ。」
 だが、世民は拝礼して、辞退した。
 上が唐王となるに及んで、将佐はまた、世民を世子とするよう請うた。上もその気になったが、世民が固辞したので、沙汰止みとなった。
 太子の建成は、寛簡な性格で酒色や狩猟を喜び、斉王元吉は過失が多かったので、どちらも上から寵愛されていなかった。
 世民の功名は日々盛んになってゆく。上はいつも建成に代えて太子にしようと思っていた。建成は内心不安で、元吉と共謀して世民を失脚させようと、各々人を引き込んで党友を樹立した。
 上は晩年、寵姫が増え、小王は二十人にも及んだ。その母親達は、自分達の地位を固めようと、競って長子と結託した。建成と元吉は、自分の想いを曲げて諸妃嬪へ取り入った。彼等は、阿諛追従や贈賄など、あらゆる手段で上へ媚びを求めた。この時期、彼等と張婕妤や尹徳妃が姦通しているとの噂まで流れたが、宮廷の深窓のことで、真実は判らない。
 この頃、東宮、諸王公、妃主の家及び後宮の親戚達は、長安で勝手放題に法を破っていたが、役人は何もしなかった。世民は承乾殿に、元吉は武徳殿後院に住んで居り、彼等は上台や東宮と昼夜行き来していたが、誰も禁じなかった。太子や二王が上台へ出入りする時は、皆、馬に乗って弓刀を持っており、まるで普通の家を行き来するような有様だった。太子の令と、斉王や秦王の教が詔を無視して出されたので、役人達はどれに従って良いか判らず、ただ、新しいおふれに従った。
 世民は太子や斉王と違って妃嬪へ取り入らなかったので、諸妃嬪は争って建成や元吉を褒め、世民を譏った。
 世民が洛陽を平定すると、上は、隋の宮人を選閲させたり府庫の財物を没収させたりする為に、貴妃等数人を洛陽へ派遣した。すると貴妃達は、私的に世民へ取り入って、財貨を求めたり、親戚の就官運動を行ったりしたが、世民は言った。
「ここにある寶貨は、既に全ての目録を上へ送っている。また、官職は賢才や功績を建てた者へ与えるべきものだ。」
 そして、全て拒否した。これによって、ますます怨みを買った。
 世民は、淮南王神通の功績を認めて数十頃の田を賜下した。ところが、上は、張婕妤がお気に入りで、彼女の父親へ、土地を賜下するとの手敕を下した。しかし、神通は、既に自分が貰ったものだと言って、土地を与えなかった。すると、婕ウ妤は上へ訴えた。
「妾の父へ田を賜るとの敕をいただきましたのに、秦王がこれを奪って神通へ与えてしまったのです。」
 上は遂に怒りを発して世民を責めた。
「我が手敕が、お前の教より劣るのか!」
 他日、左僕射裴寂へ言った。
「あいつは長い間、外で戦争をしていた。その間に書生からあれこれ吹き込まれ、すっかり別人になってしまった。」
 尹徳妃の父親の阿鼠は驕慢専横な男だった。ある時、秦王府属の杜如晦がその門の前を行き過ぎていると、阿鼠の家童数人が襲いかかり、如晦を馬から引きずり降ろしてその馬を奪い、あまつさえ如晦の指を一本折って言った。
「てめえ、我が門の前を馬に乗ったまま行き過ぎるとは、一体何様だ!」
 これを知った阿鼠は、世民が上へ訴えることを恐れ、先手を打って徳妃へ上奏させた。
「秦王の近習が、妾の家で狼藉を働いたのです。」
 上はまた怒り、世民を責めた。
「おまえの近習は、我が妃嬪の家でさえ狼藉を働くのだ!ましてや庶民には何をしているか!」
 世民はありのままを伝えて弁護したが、上は信じなかった。
 世民は、宮中の宴会へ侍って諸妃嬪と対するたびに、太穆皇后が若死にして上が天下を取る姿を見ることができなかったことを思い、涙を流すことも屡々だったが、上はそれを見て不愉快だった。そこで、諸妃嬪達は、共謀して世民を讒言した。
「海内は幸いにして無事ですし、陛下も御壮年。ですからみんなで楽しもうとしていますのに、秦王だけは涙を流しています。きっと、妾達を憎んでおられるのですわ。これでは陛下万歳の後、妾達母子は必ず秦王から受け入れられず、遂には皆殺しとなってしまうでしょう!」
 そして、みんなして泣き崩れ、更に言った。
「皇太子は仁孝です。陛下が妾達母子を託してくださいましたら、きっと無事でしょう。」
 上は、彼女達を思って悲しそうだった。
 そんなこんなで、上は皇太子を替える気がなくなり、建成や元吉を寵愛し、世民を疎んじるようになった。
 太子中允王珪と洗馬魏徴が、太子へ説いた。
「秦王の功績は天下を覆っており、中外から信奉されています。陛下は、ただ年長とゆうだけで東宮へ住まれていますが、海内を鎮服させる大功がありません。今、劉黒闥は敗残兵の寄せ集まりで、その兵力も一万もおりませんし、資糧も欠乏しています。大軍で臨めば、枯れ木を蹴散らすようなもの。殿下自ら功名を建て、山東の豪傑達を招き寄せれば、その地位も安泰になるでしょう。」
 そこで太子は行軍を請願し、上はこれを許した。
 珪は、頍の兄の子である。
 甲申、太子建成へ兵を率いて黒闥を討つよう詔が降りた。陜東道大行台、山東道行軍元帥、河南・河北諸州は全てその指揮下へ入れ、従軍の便宜を図った。
 56乙酉,封宗室略陽公道宗等十八人爲郡王。道宗,道玄從父弟也,爲靈州總管,梁師都遣弟洛兒引突厥數萬圍之,道宗乘間出撃,大破之。突厥與師都相結,遣其郁射設入居故五原,道宗逐出之,斥地千餘里。上以道宗武幹如魏任城王彰,乃立爲任城郡王。
56.乙酉、宗室の略陽公道宗等十八人を郡王とした。
 道宗は、道玄の従父弟である。彼が霊州総管だった時、梁師都は弟の洛児へ突厥数万の兵を与えてこれを包囲させたが、道宗は隙を見て出撃し、大いに破った。また、突厥が梁師都と手を結んでその郁射設を五原へ入居させた時、道宗はこれを追い出し、唐の領土を千余里広げた。上は、道宗の武幹は魏の任城王彰にも劣らないと思い、彼を任城郡王に立てた。
 57丙申,上幸宜州。
57.丙申、上が宜州へ御幸した。
 58己亥,齊王元吉遣兵撃劉十善於魏州,破之。
58.己亥、斉王元吉が魏州へ派兵して劉十善を攻撃し、これを破った。
 59癸卯,上校獵於富平。
59.癸卯、上が富平にて狩猟を行った。
 60劉黑闥擁兵而南,自相州以北州縣皆附之,唯魏州總管田留安勒兵拒守。黑闥攻之,不下,引兵南拔元城,復還攻之。
60.劉黒闥は、兵を擁して南下した。すると、相州以北の州県は、全てこれに帰属した。ただ、魏州総管田留安だけは、兵を指揮してこれを拒んだ。黒闥はこれを攻撃したが、落ちない。そこで兵を率いて南の元城を攻撃し、これを落とすと再び魏州へ戻ってきて攻撃した。
 61十二月,庚戌,立宗室孝友等八人爲郡王。孝友,神通之子也。
61.十二月、庚戌、宗室の孝友ら八人を郡王へ立てる。孝友は神通の子息である。
 62丙辰,上校獵於華池。
62.丙辰、上が、華池にて狩猟をした。
 63戊午,劉黑闥陷恆州,殺刺史王公政。
63.戊午、劉黒闥は恒州を落とし、刺史の王公政を殺した。
 64庚申,車駕至長安。
64.庚申、車駕が長安へ戻った。
 65癸亥,幽州大總管李藝復廉、定二州。
65.癸亥、幽州大総管李藝が、廉、定二州を恢復した。
 66甲子,田留安撃劉黑闥,破之,獲其莘州刺史孟柱,降將卒六千人。是時,山東豪傑多殺長吏以應黑闥,上下相猜,人益離怨;留安待吏民獨坦然無疑,白事者無問親疏,皆聽直入臥内,毎謂吏民曰:「吾與爾曹倶爲國禦賊,固宜同心協力,必欲棄順從逆者,但自斬吾首去。」吏民皆相戒曰:「田公推至誠以待人,當共竭死力報之,必不可負。」有苑竹林者,本黑闥之黨,潛有異志。留安知之,不發其事,引置左右,委以管鑰;竹林感激,遂更歸心,卒收其用。以功進封道國公。
  乙丑,并州刺史成仁重撃范願,破之。
66.甲子、田留安が劉黒闥を撃って、これを破り、その莘州刺史孟柱を捕らえた。六千人の将卒が降伏する。
 この時、山東の豪傑達は、長史を殺して黒闥へ応じる者が多かったので、上下互いに猜疑して人心は益々離怨していた。だが、留安のみは、吏民を疑わなかった。進言する者がいれば親疎を問わずにすぐに伏内へ入れた。
 彼は、いつも吏民へ言っていた。
「我と汝等は、共に国のために賊を防いでいるのだ。心を一つにして協力しなければならない。順を棄てて逆に従いたい者は、我が首を斬って、去れ。」
 だから、吏民は共に戒めあっていた。
「田公は至誠を推して我等へ接してくれる。だから我等は死力を尽くして報いなければ。決して背いてはならないぞ。」
 さて、苑竹林とゆう男が居た。彼はもともと黒闥の党類で、密かに異心を抱いていた。留安はこれを知ったが、暴き立てずに近習へ取り立て、吏事を委ねた。竹林は感激して、遂に心を入れ替えて留安へ仕えた。
 留安は、功績を認められて道国公へ進爵した。
 乙丑、并州刺史成仁重が范願を撃ち、これを破る。
 67劉黑闥攻魏州未下,太子建成、齊王元吉大軍至昌樂,黑闥引兵拒之,再陳,皆不戰而罷。魏徴言於太子曰:「前破黑闥,其將帥皆懸名處死,妻子係虜;故齊王之來,雖有詔書赦其黨與之罪,皆莫之信。今宜悉解其囚俘,慰諭遣之,則可坐視其離散矣!」太子從之。黑闥食盡,衆多亡,或縛其渠帥以降。黑闥恐城中兵出,與大軍表裏撃之,遂夜遁。至館陶,永濟橋未成,不得度。壬申,太子、齊王以大軍至,黑闥使王小胡背水而陳,自視作橋成,即過橋西,衆遂大潰,捨仗來降。大軍度橋追黑闥,度者纔千餘騎,橋壞,由是黑闥得與數百騎亡去。
67.劉黒闥が魏州を責めたが、まだ落とせないうちに太子建成と斉王元吉の大軍が昌楽へ到着した。黒闥は兵を率いてこれを拒んだが、陣を布くだけで戦いにはならなかった。
 魏徴が太子へ言った。
「前に黒闥を破った時、我が方から寝返っていた将帥は皆殺しにして、妻子は捕らえました。ですから、今回斉王が来ましたので、その党与の罪を赦すとゆう詔書があっても、誰も信じないのです。今、捕らえていた妻子達を解き放ち、慰諭して敵方へ遣れば、座視していても敵が離散してくれますぞ!」
 太子はこれに従った。
 黒闥は食糧が尽き、部下も大勢逃げ出した。中には、隊長を縛り上げて降伏する者も居た。黒闥は、城中の兵が出撃して大軍と表裏から攻めて来ることを恐れ、遂に、夜、逃げた。館陶へ到着すると、永済橋がまだ完成していなかったので、渡ることができなかった。
 壬申、太子と斉王の大軍が追いついた。黒闥は、王小胡へ、背水の陣を布かせた。だが、橋が完成したのを見ると、すぐに橋を渡って西へ向かったので、軍は潰滅し、大勢の兵卒が武装解除して降伏してきた。
大軍は橋を渡って黒闥を追う。だが、千余騎が渡ったところで、橋が壊れてしまった。こうして、黒闥は数百騎と共に逃れることができた。
 68上以隋末戰士多沒於高麗,是歳,賜高麗王建武書,使悉遣還;亦使州縣索高麗人在中土者,遣歸其國。建武奉詔,遣還中國民前後以萬數。
68.隋の末期に、大勢の戦士が高麗の捕虜となった。この年、上は高麗王建武へ書を賜り、捕虜を全員返還させた。また、中国に住んでいる高麗人を各州県に探させ、帰国させた。
 建武は詔を奉じ、中国の民を返還した。その数は、合計で一万人ほどだった。
六年(癸未、六二三)

 春,正月,己卯,劉黑闥所署饒州刺史諸葛德威執黑闥,舉城降。時太子遣騎將劉弘基追黑闥,黑闥爲官軍所迫,奔走不得休息,至饒陽,從者纔百餘人,餒甚。德威出迎,延黑闥入城,黑闥不可;德威涕泣固請,黑闥乃從之。至城旁市中憩止,德威饋之食;食未畢,德威勒兵執之,送詣太子,并其弟十善斬於洺州。黑闥臨刑歎曰:「我幸在家鉏菜,爲高雅賢輩所誤至此!」
1.春、正月、己卯。劉黒闥の饒州刺史諸葛徳威が黒闥を捕らえ、城を挙げて降伏した。
 この時、太子は騎将劉弘基に黒闥を追撃させていた。黒闥は官軍に追われて、休むこともできずに奔走して饒陽へ到着した。従う者は、わずか百人余りで、(とても餓えていた?)。徳威は出迎え、黒闥へ入城するよう請うた。黒闥は断ったが、徳威が涕泣して固く請うたので、黒闥はこれに従った。城の傍らの市中にて憩わせ、徳威は食事を振る舞った。だが、その食事を食べ終わらない内に徳威は兵を指揮してこれを捕らえたのである。そして徳威は、黒闥の身柄を太子へ送った。太子は黒闥を、弟の十善と共に洺州にて斬った。
 黒闥は、刑に臨んで嘆いて言った。
「我は家にいれば粗末ながらも生きていられたのに、高雅賢等に誘惑されて、こんな羽目になってしまった!」
 壬午,雟州人王摩沙舉兵,自稱元帥,改元進通;遣驃騎將軍衞彦討之。
2.壬午、雟州の人王摩沙が挙兵した。元帥と自称し、進通と改元する。驃騎将軍衛彦に、これを討伐させた。
 庚子,以呉王杜伏威爲太保。
3.庚子、呉王杜伏威を太保とした。
 二月,庚戌,上幸驪山温湯;甲寅,還宮。
4.二月、庚戌、上は驪山の温泉へ御幸した。甲寅、宮殿へ帰る。
 平陽昭公主薨。戊午,葬公主。詔加前後部鼓吹、班劍四十人,武賁甲卒。太常奏:「禮,婦人無鼓吹。」上曰:「鼓吹,軍樂也。公主親執金鼓,興義兵以輔成大業,豈與常婦人比乎!」
5.平陽昭公主が卒した。戊午、公主を葬う。その葬式の時、前後にて鼓吹を奏でさせた。また、武装した兵士四十人が道を挟んで列を造った。
 太常が上奏した。
「禮では、婦人の葬式に鼓吹はありません。」
 すると、上は言った。
「鼓吹は軍楽だ。公主は自ら金鼓を執り、義兵を起こして大業成就を助けてくれた(185巻)。なんで普通の婦人のように扱えようか!」
 丙寅,徐圓朗窮蹙,與數騎棄城走,爲野人所殺,其地悉平。
6.丙寅、徐圓朗が切羽詰まって、数騎と共に城を棄てて逃げたが、野人に殺された。こうして、その地は悉く平定した。
 林邑王梵志遣使入貢。初,隋人破林邑,分其地爲三郡。及中原喪亂,林邑復國,至是始入貢。
7.林邑王梵志が、使者を派遣して入貢した。
 もともと、隋の人間が林邑を破り、その土地を三郡にした。だが、中原で騒乱が起こると、林邑は再び独立した。ここに至って、始めて入貢したのである。
 幽州總管李藝請入朝;庚午,以藝爲左翊衞大將軍。
8.幽州総管李藝が入朝を請うた。庚午、藝を左翊衛大将軍とした。
 廢參旗等十二軍。
9.参旗等十二軍を廃止する。
 10三月,癸未,高開道掠文安、魯城,驃騎將軍平善政邀撃,破之。
10.三月、癸未、高開道が文安、魯城を掠めた。驃騎将軍平善政がこれを攻撃して破った。
 11庚子,梁師都將賀遂、索同以所部十二州來降。
11.庚子、梁師都の将賀遂と索同が、所領十二州を以て来降した。
 12乙巳,前洪州總管張善安反,遣舒州總管張鎮周等撃之。
12.乙巳、前の洪州総管張善安が造反した。舒州総管張鎮周等へ、これを撃たせた。
 13夏,四月,吐谷渾寇芳州,刺史房當樹奔松州。
13.夏、四月。吐谷渾が芳州へ来寇した。刺史の房當樹は松州へ逃げた。
 14張善安陷孫州,執總管王戎而去。
14.張善安が孫州を落とした。総管の王戎を捕らえ、去った。
 15乙丑,鄜州道行軍總管段德操撃梁師都,至夏州,俘其民畜而還。
15.乙丑、鄜州道行軍総管段徳操が梁師都を攻撃した。夏州まで進軍し、その民や家畜を捕らえて帰った。
 16丙寅,吐谷渾寇洮、岷二州。
16.丙寅、吐谷渾が、洮、岷二州へ来寇した。
 17丁卯,南州刺史龐孝恭、南越州民甯道明、高州首領馮暄倶反,陷南越州,進攻姜州;合州刺史甯純引兵救之。
17.丁卯、南州刺史龐孝恭、南越州の住民甯道明、高州首領馮暄が手を組んで造反した。南越州を落とし、姜州へ進攻する。
 合州刺史甯純が、兵を率いて救援に向かった。
 18壬申,立皇子元軌爲蜀王、鳳爲豳王、元慶爲漢王。
18.壬申、皇子元軌を蜀王、鳳を豳王、元慶を漢王に立てる。
 19癸酉,以裴寂爲左僕射,蕭瑀爲右僕射,楊恭仁爲吏部尚書兼中書令,封德彝爲中書令。
19.癸酉、裴寂を左僕射、蕭瑀を右僕射、楊恭仁を吏部尚書兼中書令、封徳彝を中書令とした。
 20五月,庚辰,遣岐州刺史柴紹救岷州。
20.五月、庚辰、岐州刺史柴紹を、岷州救援に派遣した。
 21庚寅,吐谷渾及党項寇河州,刺史盧士良撃破之。
21.吐谷渾と党項が河州へ来寇した。刺史の盧士良がこれを撃破する。
 22丙申,梁師都將辛獠兒引突厥寇林州。
22.丙申、梁師都の将辛獠児が突厥を率いて林州へ来寇した。
 23戊戌,苑君彰將高滿政寇代州,驃騎將軍林寶言撃走之。
23.戊戌、苑君璋(原文は「彰」だったが、多分誤植でしょう)の将高満政が代州へ来寇したが、驃騎将軍林宝言が撃退した。
 24癸卯,高開道引奚騎寇幽州,長史王詵撃破之。劉黑闥之叛也,突地稽引兵助唐,徙其部落於幽州之昌平城;高開道引突厥寇幽州,突地稽將兵邀撃,破之。
24.癸卯、高開道が奚の騎兵を率いて幽州へ来寇した。長史の王詵が、これを撃破する。
 劉黒闥が造反した時、突地稽は兵を率いて唐を助け、その部落を幽州の昌平城へ移住させた。高開道が突厥を率いて幽州へ来寇すると、突地稽は兵を率いてこれを撃破した。
 25六月,戊午,高滿政以馬邑來降。先是,前并州總管劉世讓除廣州總管,將之官,上問以備邊之策,世讓對曰:「突厥比數爲寇,良以馬邑爲之中頓故也。請以勇將戍崞城,多貯金帛,募有降者厚賞之,數出騎兵掠其城下,蹂其禾稼,敗其生業,不出歳餘,彼無所食,必降矣。」上然其計,曰:「非公,誰爲勇將!」即命世讓戍崞城,馬邑病之。是時,馬邑人多不願屬突厥,上復遣人招諭苑君璋。高滿政説君璋盡殺突厥戍兵降唐,君璋不從。滿政因衆心所欲,夜襲君璋,君璋覺之,亡奔突厥,滿政殺君璋之子及突厥戍兵二百人而降。
25.六月、戊午、高満政が馬邑を以て来降した。
 話は前後するが、前の并州総管劉世譲が広州総管となって任地へ向かおうとした時、上は辺境の防備について尋ねた。すると、世譲は言った。
「突厥が屡々来寇するようになったのは、馬邑が中継基地として機能しているからです。ですから、勇将を選んで崞城を守らせるのです。そして金帛を多量に蓄え、多大な報酬で馬邑から降伏する者を募るかたわら、しばしば騎兵を出して馬邑の田畑を蹂躙して、やつらの生業を破ります。こうしておけば、一年も経たないうちに奴らは食糧がなくなり、必ず降伏します。」
 上は、その計に得心し、言った。
「公以外、誰が勇将だろうか!」
 即座に世譲へ崞城の守備を命じた。彼が赴任すると、馬邑は困窮した。この時、馬邑の住民の大半は、突厥に属するのを嫌がった。そこで上はふたたび使者を派遣して苑君璋を招諭した。高満政は、苑君璋へ、突厥を皆殺しにして唐へ降伏するよう説いたが、君璋は従わなかった。
 満政は、皆の望みに従って君璋へ夜襲を掛けたが、君璋はこれを察知して突厥へ亡命した。満政は、君璋の子息と突厥の守備兵二百人を殺して降伏した。
 26壬戌,梁師都以突厥寇匡州。
26.壬戌、梁師都が突厥を率いて匡州へ来寇した。
 27丁卯,苑君璋與突厥吐屯設寇馬邑,高滿政與戰,破之。以滿政爲朔州總管,封榮國公。
27.丁卯、苑君璋と突厥の吐屯設が馬邑へ来寇した。高満政がこれと戦い、破った。満政を朔州総管として、栄国公へ封じた。
 28瓜州總管賀若懷廣按部至沙州,値州人張護、李通反,懷廣以數百人保子城;涼州總管楊恭仁遣兵救之,爲護等所敗。
28.瓜州総管賀若懐広が領内を巡撫して沙州へ行った時、同州の住民張譲と李通が造反した。懐廣は数百人で子城へ立て籠もった。
 涼州総管楊恭仁が救援軍を派遣したが、護等に敗北した。
 29癸酉,柴紹與吐谷渾戰,爲其所圍,虜乘高射之,矢下如雨。紹遣人彈胡琵琶,二女子對舞。虜怪之,駐弓矢相與聚觀,紹察其無備,潛遣精騎出虜陳後,撃之,虜衆大潰。
29.癸酉、柴紹が吐谷渾と戦い、包囲されてしまった。虜は、高いところから射撃したので、矢は雨のように降ってきた。
 すると、紹は人を派遣して胡琵琶を弾かせた。それに併せて二人の女子が舞う。虜は怪しみ、弓矢を休めてこれを注視した。紹は、敵方が油断したことを察し、精騎を密かに虜の背後へ廻らせて、攻撃した。虜軍は大いに潰れた。
 30秋,七月,丙子,苑君璋以突厥寇馬邑,右武候大將軍李高遷及高滿政禦之,戰于臘河谷,破之。
30.秋、七月、丙子、苑君璋が突厥を率いて馬邑へ来寇した。
 右武候大将軍李高遷と高満政が、これを阻んで臘河谷にて戦い、撃破する。
 31張護、李通殺賀抜懷廣,立汝州別駕竇伏明爲主,進逼瓜州;長史趙孝倫撃卻之。
31.張護と李通は賀若懐広(「賀抜」と書いてあったが、多分「賀若」の誤植だと思います。)を殺し、汝州別駕竇伏明を盟主に推戴して瓜州へ進軍した。長史の趙孝倫が、これを撃退する。
 32高開道掠赤岸鎮及靈壽、九門、行唐三縣而去。
32.高開道が赤岸鎮及び霊寿、九門、行唐の三県を掠めて去った。
 33丁丑,崗州刺史馮士翽據新會反,廣州刺史劉感討降之,使復其位。
33.丁丑、岡州刺史馮士翽が新会に拠って造反した。廣州刺史劉感が討伐した。士羽が降伏したので、官位を復旧した。
 34辛巳,高開道所部弘陽、統漢二鎮來降。
34.辛巳、高開道麾下の弘陽と統漢の二鎮が、来降した。
 35癸未,突厥寇原州;乙酉,寇朔州。李高遷爲虜所敗,行軍總管尉遲敬德將兵救之。己亥,遣太子將兵屯北邊,秦王世民屯并州,以備突厥。八月,丙辰,突厥寇眞州,又寇馬邑。
35.癸未、突厥が原州へ来寇した。
 乙酉、朔州へ来寇した。李高遷は敗北した。行軍総管尉遅敬徳が兵を率いて救援した。
 己亥、太子へ兵を与えて北辺へ派遣した。秦王世民は并州へ屯営させて、突厥へ備えさせる。
 八月、丙辰、突厥が真州と馬邑へ来寇した。
 36壬子,淮南道行臺僕射輔公祏反。初,杜伏威與公祏相友善,公祏年長,伏威兄事之,軍中謂之伯父,畏敬與伏威等。伏威浸忌之,乃署其養子闞稜爲左將軍,王雄誕爲右將軍,潛奪其兵權。公祏知之,怏怏不平,與其故人左游仙陽爲學道、辟穀以自晦。及伏威入朝,留公祏守丹楊,令雄誕典兵爲之副,陰謂雄誕曰:「吾至長安,苟不失職,勿令公祏為變。」伏威既行,左游仙説公祏謀反;而雄誕握兵,公祏不得發。乃詐稱得伏威書,疑雄誕有貳心,雄誕聞之不悅,稱疾不視事;公祏因奪其兵,使其黨西門君儀諭以反計。雄誕始寤而悔之,曰:「今天下方平定,呉王又在京師,大唐兵威,所向無敵,奈何無故自求族滅乎!雄誕有死而已,不敢聞命。今從公爲逆,不過延百日之命耳,大丈夫安能愛斯須之死而自陷於不義乎!」公祏知不可屈,縊殺之。雄誕善撫士卒,得其死力,又約束嚴整,毎破城邑,秋毫無犯。死之日,江南軍中及民間皆爲之流涕。公祏又詐稱伏威不得還江南,貽書令其起兵,大修鎧仗,運糧儲。尋稱帝於丹楊,國號宋,修陳故宮室而居之。署置百官,以左游仙爲兵部尚書、東南道大使、越州總管,與張善安連兵,以善安爲西南道大行臺。
36.壬子、淮南道行台僕射輔公祏が造反した。
 初め、杜伏威と公祏は仲が善く、公祏が年長だったので、伏威は弟として接しており、軍中では「伯父」と呼ばれ、伏威らから畏敬されていた。だが、伏威は次第にこれが疎ましくなり、やがて養子の闞稜を左将軍、王雄誕を右将軍として、ひそかに輔公祏の兵権を奪った。公祏はこれを知って、怏々と不満を持ったが、旧友の左遊仙と共に道学を学んだり辟穀(穀物の摂取を避ける、道教の修業の一種。)をしたりして韜晦していた。
 伏威が入朝する時、公祏を留めて丹陽を守らせた。そして、雄誕を副官として、密かに言いつけた。
「我が長安へ行っている間に公祏が変事を起こしたら、官職を剥奪されてしまうぞ。よく監視しておけ。」
 伏威が出発すると、左遊仙は公祏へ謀反を説いた。だが、雄誕が兵卒を握っていたので、公祏は実行できなかった。そこで公石は、伏威から書を貰ったと詐称し、”伏威は雄誕の裏切るのではないかと、心配している。”と吹聴した。雄誕はこれを聞いて不快になり、病気と称して公務を見なくなった。その隙を衝いて公祏は兵権を奪った。そして、一党の西門君儀を雄誕の元へ派遣して、造反への加担を諭した。そこで始めて雄誕は騙されていたことを覚り、後悔して言った。
「天下は既に平定されたのだ。そして呉王は京師に居る。大唐の軍隊は向かうところ敵なしだ。なんで一族を滅ぼすような真似を、理由もないのに自ら行うのか!雄誕は、死んでも命令を聞かないぞ。今、公に従って叛逆したところで、たかだか百日寿命が延びるだけだ。大丈夫が、なんで僅かの生を貪って不義に陥ったりするものか!」
 公祏は屈服させられないと覚り、縊り殺した。
 雄誕は、士卒を善く慰撫し、彼等へ死力を尽くさせることができた。又、約束は厳正で、城邑を破っても秋毫も犯さなかった。だから彼が死んだときは、江南の軍中も民間人も、みんな涙を零した。
 公祏は、今度は”伏威は江南へ帰って来られない。そこで密かに書を遣って造反を指示したのだ。”と詐称して、武器を大いに整備し、兵糧を蓄えさせた。
 次いで公祏は、丹陽にて帝と称し、国号を「宋」とした。陳時代の宮殿を修復して居城とする。百官を設置して、左遊仙を兵部尚書、東南道大使、越州総管とした。張善安と連合し、善安を西南道大行台とした。
 37己未,突厥寇原州。
37.己未、突厥が原州へ来寇した。
 38乙丑,詔襄州道行臺僕射趙郡王孝恭以舟師趣江州,嶺南道大使李靖以交、廣、泉、桂之衆趣宣州,懷州總管黄君漢出譙、亳,齊州總管李世勣出淮、泗,以討輔公祏。孝恭將發,與諸將宴集,命取水,忽變爲血,在坐皆失色,孝恭舉止自若,曰:「此乃公祏授首之徴也!」飲而盡之,衆皆悅服。
38.乙丑、輔公祏討伐の詔がおり、襄州道行台僕射趙郡王孝恭は水軍を率いて江州へ赴き、嶺南大使李靖は交・広・泉・桂の兵を率いて宣州へ赴き、懐州総管黄君道は譙・亳から出陣し、斉州総管李世勣は淮・泗から出陣するよう命じた。
 孝恭は、出発前に諸将と宴会を開いた。その時、水を持ってこさせたら、その水が、突然、血に変わった。一同は顔色を失ったが、孝恭はまるで動じないで言った。
「これは、公祏の首を取れる前兆だ!」
 そして、その血を全て飲み干したので、衆人は皆、悦び感服した。
 39丙寅,吐谷渾内附。
39.丙寅、吐谷渾が内附した。
 40辛未,突厥陷原州之善和鎮;癸酉,又寇渭州。
40.辛未、突厥が原州の善和鎮を落とした。癸酉、今度は渭州へ来寇した。
 41高開道以奚侵幽州,州兵撃卻之。
41.高開道が奚を率いて幽州へ侵略したが、州兵がこれを撃退した。
 42九月,太子班師。
42.九月、太子が兵を編成した。
 43戊子,輔公祏遣其將徐紹宗寇海州,陳政通寇壽陽。
43.戊子、輔公石が、その将徐紹宗に海州を、陳政通には寿陽を攻撃させた。
 44邛州獠反,遣沛公鄭元璹討之。
44.邛州の獠が造反したので、沛公鄭元璹に討伐させた。
 45庚寅,突厥寇幽州。
45.庚寅、突厥が幽州へ来寇した。
 46壬辰,詔以秦王世民爲江州道行軍元帥。
46.壬辰、秦王世民を江州道行軍元帥とすると詔が降りた。
 47乙未,竇伏明以沙州降。
47.乙未、竇伏明が沙州を以て来降した。
 48高昌王麹伯雅卒,子文泰立。
48.高昌王麹伯雅が卒し、子の文泰が立った。
 49丙申,渝州人張大智反,刺史薛敬仁棄城走。
49.丙申、渝州の住民張大智が造反した。刺史の薛敬仁は、城を棄てて逃げた。
 50壬寅,高開道引突厥二萬騎寇幽州。
50.壬寅、高開道が突厥二万騎を率いて幽州へ来寇した。
 51突厥惡弘農公劉世讓爲己患,遣其臣曹般陁來,言世讓與可汗通謀,欲爲亂,上信之。冬,十月,丙午,殺世讓,籍其家。
51.突厥は、弘農公劉世譲のせいで戦況が不利になったことを怨んでいた。そこで、臣下の曹般陁を唐へ派遣し、世譲が可汗と内通して造反を企んでいると告げさせたところ、上はこれを信じ込んだ。
 冬、十月、丙午、世譲を殺して、その家を潰す。
 52秦王世民猶在并州,己未,詔世民引兵還。
52.秦王世民は、まだ并州へいた。己未、世民へ、帰ってくるように詔する。
 53上幸華陰。
53.上が華陰へ御幸した。
 54張大智侵涪州,刺史田世康等討之,大智以衆降。
54.張大智が涪州へ侵入した。刺史の田世康等がこれを討つと、大智は衆を率いて降伏した。
 55初,上遣右武候大將軍李高遷助朔州總管高滿政守馬邑,苑君璋引突厥萬餘騎至城下,滿政撃破之。頡利可汗怒,大發兵攻馬邑。高遷懼,帥所部二千人斬關宵遁,虜邀之,失亡者半。頡利自帥衆攻城,滿政出兵禦之,或一日戰十餘合。上命行軍總管劉世讓救之,至松子嶺,不敢進,還保崞城。會頡利遣使求婚,上曰:「釋馬邑之圍,乃可議婚。」頡利欲解兵,義成公主固請攻之。頡利以高開道善爲攻具,召開道,與之攻馬邑甚急。頡利誘滿政使降,滿政罵之。糧且盡,救兵未至,滿政欲潰圍走朔州,右虞候杜士遠以虜兵盛,恐不免,壬戌,殺滿政降於突厥,苑君璋復殺城中豪傑與滿政同謀者三十餘人。上以滿政子玄積爲上柱國,襲爵。丁卯,突厥復請和親,以馬邑歸唐;上以將軍秦武通爲朔州總管。
55.話は遡るが、上は馬邑を守る為、右武候大将軍李高遷を派遣して朔州総管高満政を助けさせた。苑君璋が突厥を萬余騎率いて城下へ来たが、満政はこれを撃破した。
 頡利可汗は怒り、大軍を繰り出して馬邑を攻めた。高遷は懼れ、手勢二千を率いて関を斬って夜逃げしたが、虜の追撃を受けて、ほぼ半数を失った。
 頡利は自ら衆を率いて城を攻撃した。満政は兵を出して防戦し、時には一日に十余合も戦った。上は行軍総管劉世譲を救援に向かわせたが、世譲は松子嶺へ至ると敢えて進まず、崞城へ戻って、ここを確保した。
 やがて頡利が使者を派遣して通婚を求めると、上は言った。
「馬邑の包囲を解いたなら、通婚を考えよう。」
 そこで頡利は包囲を解こうとしたが、義成公主が固く攻撃を請うた。
 頡利は、高開道が城攻めの道具の作成が巧いと聞き、開道を召しだして、益々激しく馬邑を攻撃した。そして頡利は満政の元へ使者を派遣して降伏を勧告したが、満政はこれを罵った。
 やがて、馬邑の食糧が尽き始めたが、援軍は来ない。満政は囲みを破って朔州へ逃げようと思った。だが、右虞候杜士遠は、虜の勢力があまりに強かったので、逃げ出せないことを懼れた。壬戌、士遠は満政を殺して突厥へ降伏した。苑君璋は、城中の豪傑や、満政の共謀者三十余人を殺した。
 上は、満政の子息の玄積を上国柱として、爵位を襲爵させた。
 丁卯、突厥は再び和親を請うて、馬邑を唐へ返した。そこで上は、将軍秦武通を朔州総管とした。
 56突厥數爲邊患,并州大總管府長史竇靜表請於太原置屯田以省餽運;議者以爲煩擾,不許。靜切論不已,敕徴靜入朝,使與裴寂、蕭瑀、封德彝相論難於上前,寂等不能屈,乃從靜議,歳收穀數千斛,上善之,命檢校并州大總管。靜,抗之子也。十一月,辛巳,秦王世民復請增置屯田於并州之境,從之。
56.突厥が屡々辺患となるので、并州大総管府長史竇静が、食糧運輸を省く為に太原に屯田を設置するよう請願した。これを議論させたところ、民を苦労させるだけだとして許さなかった。だが、静は切に論じて止まない。そこで、敕して静を入朝させ、裴寂、蕭瑀、封徳彝等と、上の前で討論させた。静は、抗の子息である。
 十一月、秦王世民もまた、并州の国境へ屯田を増設するよう請願したので、これに従った。
 57黄州總管周法明將兵撃輔公祏,張善安據夏口,拒之。法明屯荊口鎮,壬午,法明登戰艦飲酒,善安遣刺客數人詐乘魚鰈而至,見者不以爲虞,遂殺法明而去。
57.黄州総管周法明が、兵を率いて輔公祏を攻撃した。対して、張善安が夏口に據って、これを拒んだ。法明は荊口鎮に屯営する。
 壬午、法明が戦艦に登って酒を飲んだ。善安は刺客数人を漁船に乗せて近づかせた。監視者は、別に不審にも思わなかった。遂に、彼等は法明を殺して去った。
 58甲申,舒州總管張鎮周等撃輔公祏將陳當世於猷州之黄沙,大破之。
58.甲申、舒州総管張鎮周等が、輔公祏の将陳當世を猷州の黄沙にて攻撃し、大いに破った。
 59丁亥,上校獵於華陰。己丑,迎勞秦王世民於忠武頓。
59.丁亥、上が華陰で狩猟をした。
 己丑、忠武頓にて秦王世民を迎え、労った。
 60十二月,癸卯,安撫使李大亮誘張善安,執之。大亮撃善安於洪州,與善安隔水而陳,遙相與語。大亮諭以禍福,善安曰:「善安初無反心,正爲將士所誤;欲降又恐不免。」大亮曰:「張總管有降心,則與我一家耳。」因單騎渡水入其陳,與善安執手共語,示無猜間。善安大悅,遂許之降。既而善安將數十騎詣大亮營,大亮止其騎於門外,引善安入,與語,久之,善安辭去,大亮命武士執之,從騎皆走。善安營中聞之,大怒,悉衆而來,將攻大亮。大亮使人諭之曰:「吾不留總管。總管赤心歸國,謂我曰:『若還營,恐將士或有異同,爲其所制。』故自留不去耳,卿輩何怒於我!」其黨復大罵曰:「張總管賣我以自媚於人。」遂皆潰去。大亮追撃,多所虜獲。送善安於長安,善安自稱不與輔公祏交通,上赦其罪,善遇之;及公祏敗,得所與往還書,乃殺之。
60.十二月、癸卯、安撫使李大亮が張善安を誘って、これを捕らえた。
 大亮は洪州にて善安と戦い、川を距てて陣を布いていた。川越しに語り合い、大亮が禍福を諭したところ、善安は言った。
「善安は、もともと造反するつもりはなかったが、将士から誤らされたのだ。だが、今更降伏しても、罪を免れないのではないか?」
 大亮は言った。
「張善安に降伏する心があるのなら、もう、お前は俺の家族同然だ。」
 そして単騎で川を渡って敵陣へ入り、善安の手を執って共に語り、信頼していることを示した。善安は大いに悦び、遂に降伏を許諾した。
 善安が数十騎を率いて大亮の陣へやって来ると、大亮は騎兵達を門外へ待たせて、善安だけを陣内へ引き入れ、共に語った。しばらくして善安が帰ろうとすると、大亮は武士達へ、これを捕まえさせた。従者の騎兵達は、皆、逃げ帰った。
 善安の営中は、これを聞いて大いに怒り、大亮へ総攻撃を掛けようとしたが、大亮が使者を派遣して言った。
「我が総管を留めたのではない。総管が本心から帰国したかったから、我へ言ったのだ。『もしも陣営へ帰ったら、反対する将士が我を力尽くで抑留するかも知れない。』そして、自ら留まって去らなかったのだ。お前達は、何で俺を怒るのか!」
 すると、敵方の党類は大いに罵った。
「張総管は、我等を売って自分だけ媚びるのか。」
 遂に、皆、潰れ去った。大亮はこれを追撃して、大勢の将士を捕らえた。
 善安は、長安へ送られた。彼は、輔公祏とは交遊がなかったと自称したので、上はその罪を赦し、善く優遇した。だが、公祏が敗北した後、彼とやりとりした書簡が見つかったので、これを殺した。
 61甲寅,車駕至長安。
61.甲寅、車駕が長安へ戻った。
 62己巳,突厥寇定州,州兵撃走之。
62.己巳、突厥が定州へ来寇したが、州兵が撃退した。
 63庚申,白簡、白狗羌並遣使入貢。
63.庚寅、白簡と白狗羌が、共に使者を派遣して入貢した。
七年(甲申、六二四)

 春,正月,依周、齊舊制,毎州置大中正一人,掌知州内人物,品量望第,以本州門望高者領之,無品秩。
1.春、周、斉の旧制度を踏襲して、州ごとに大中正一人を設置した。これに州内の人物を掌握させて、(品量望第?)。大中正は、本州の門望の高い者を任命し、品秩はなしとした。
 壬午,趙郡王孝恭撃輔公祏別將於樅陽,破之。
2.壬午、趙郡王孝恭が輔公祏の別将を樅陽にて撃破した。
 庚寅,鄒州人鄧同穎殺刺史李士衡反。
3.庚寅、鄒州の住民鄧同穎が刺史の李士衡を殺して造反した。
 丙申,以白狗等羌地置維、恭二州。
4.丙申、白狗ら羌の土地に維、恭二州を設置した。
 二月,輔公祏遣兵圍猷州,刺史左難當嬰城自守。安撫使李大亮引兵撃公祏,破之。趙郡王孝恭攻公祏鵲頭鎮,拔之。
5.二月、輔公祏が兵を派遣して猷州を包囲した。刺史の左難當が籠城する。安撫使李大亮が兵を率いて公祏を撃破した。
 趙郡王孝恭が公祏の鵲頭鎮を攻撃して、抜いた。
 丁未,高麗王建武遣使來請班暦。遣使册建武爲遼東郡王、高麗王;以百濟王夫餘璋爲帶方郡王,新羅王金眞平爲樂浪郡王。
6.丁未、高麗王建武が使者を派遣し、暦を奉じることを請願した。そこで、高麗へ使者を派遣して、建武を遼東郡王、高麗王とした。
 百済王扶餘璋を帯方郡王、新羅王金真平を楽浪郡王とした。
 始州獠反,遣行臺僕射竇軌討之。
7.始州の獠が造反したので、行台僕射竇軌を派遣してこれを討たせた。
 己酉,詔:「諸州有明一經以上未仕者,咸以名聞;州縣及郷皆置學。」
8.己酉、詔する。
「諸州に、一経を明確に知っている以上の能力を持ちながらまだ仕官していない者が居たら、その名を上奏せよ。また、州県及び郷には、皆、学校を設置せよ。」
 壬子,行軍副總管權文誕破輔公祏之黨於猷州,拔其枚洄等四鎮。
9.壬子、行軍副総管権文誕が輔公祏の党を猷州にて破り、その枚洄等四鎮を抜いた。
 10丁巳,上幸國子監,釋奠;詔諸王公子弟各就學。
10.丁巳、上が国子監へ御幸し、(死者への礼について講釈を受けた?)諸王公子弟へ、各々就学するよう詔する。
 11戊午,改大總管爲大都督府。
11.戊午、大総管を大都督府と改称する。
 12己未,高開道將張金樹殺開道來降。開道見天下皆定,欲降,自以數反覆不敢;且恃突厥之衆,遂無降意。其將卒皆山東人,思郷里,咸有離心。開道選勇敢士數百,謂之假子,常直閣内,使金樹領之。故劉黑闥將張君立亡在開道所,與金樹密謀取開道。金樹遣其黨數人入閣内,與假子遊戲,向夕,潛斷其弓弦,藏刀槊於牀下,合暝,抱之趨出,金樹帥其黨大噪,攻開道閣,假子將禦之,弓弦皆絶,刀槊已失,爭出降;君立亦舉火於外與相應,内外惶擾。開道知不免,乃擐甲持兵坐堂上,與妻妾奏樂酣飲,衆憚其勇,不敢逼。天且明,開道縊妻妾及諸子,乃自殺。金樹陳兵,悉收假子斬之,并殺君立,死者五百餘人。遣使來降,詔以其地置嬀州。壬戌,以金樹爲北燕州都督。
12.己未、高開道の将張金樹が、開道を殺して来降した。その経緯は、以下の通り。
 開道は、天下が平定されたのを見て降伏したかったのだが、何度も反覆している事を思い、突厥の後ろ盾を恃んで遂に降伏しなかった。だが、彼の将卒は皆山東の人間で、郷里を想い、心が離れていった。
 開道は、勇敢の士数百人を選んでこれを仮子と称して常に直閣内に置き、金樹に指揮させていた。劉黒闥の将だった張君立が開道の所へ亡命してくると、彼は開道を謀ろうと、密かに金樹と手を結んだ。
 金樹は、仲間数人を閣内へ入れて仮子達と遊ばせたが、夕方頃、密かに弓の弦を切らせた。刀や槊は、ベットの下に隠させて、宵闇に紛れて持ち出させた。その後、金樹は一党を率いて大声で喚きながら開道の閣を攻撃した。仮子は拒もうとしたが、弓は弦が断たれていたし、刀や槊は見あたらないので、争って降伏してきた。更に君立が外で篝火を挙げて呼応したので、内外は恐慌を来した。
 開道は逃げられないことを知り、武装して堂上へ座り、妻妾と音楽を奏でて酒を飲んだ。衆人は、彼の武勇を憚って、敢えて近づかない。夜が明ける頃、開道は縊れた。妻妾や諸子も自殺する。
 金樹は兵を整列させ、仮子を全員捕まえて、斬った。ついでに君立も殺す。五百余人が殺された。そうして唐へ使者を派遣して、来降する。その地を嬀州とすると詔が降りた。
壬戌、金樹を北燕州総管とした。
 13戊辰,洋、集二州獠反,陷隆州晉城。
13.戊辰、洋、集二州の獠が造反し、隆州の晋城を落とした。
 14是月,太保呉王杜伏威薨。輔公祏之反也,詐稱伏威之命以紿其衆。及公祏平,趙郡王孝恭不知其詐,以状聞;詔追除伏威名,籍沒其妻子。及太宗即位,知其冤,赦之,復其官爵。
14.この月、太保の呉王杜伏威が卒した。
 輔公祏は、造反した時、杜伏威の命令だと詐称して民をかき集めていた。公祏が平定すると、趙郡王孝恭は、それが詐称だと知らずにありのままを上奏した。そこで、伏威の名を追除してその妻子は官奴とすると、詔が降りた。
 太宗が即位した後、冤罪が判明したので、これを赦して官爵を復した。
 15三月,初定令,以太尉、司徒、司空爲三公,次尚書、門下、中書、秘書、殿中、内侍爲六省,次御史臺,次太常至太府爲九寺,次將作監,次國子學,次天策上將府,次左、右衞至左、右領衞爲十四衞;東宮置三師、三少、詹事及兩坊、三寺、十率府;王、公置府佐、國官,公主置邑司,並爲京職事官。州、縣、鎮、戌爲外職事官。自開府議同三司至將仕郎二十八階,爲文散官;驃騎大將軍至陪戎副尉三十一階,爲武散官;上柱國至武騎尉十二等,爲勳官。
15.三月、始めて令を定める。太尉、司徒、司空を三公とし、次いで尚書、門下、中書、秘書、殿中、内侍を六省とする。その次が御史台、次の太常から太府へ至るまでを九寺とする。次が将作監、次が国子学、次が天策上将府、次の左、右衛から左、右領衛を十四衛とする。
 東宮には三師、三少、詹事及び両坊、三寺、十率府を設置した。王公には、府佐、国官を置き、公主には邑司を置いた。これらを京職事官となす。
 州、県、鎮、戍を外職事官とする。
 開府儀同三司から将仕郎までの二十八階を文散官、驃騎大将軍から陪戎副尉までの三十一階を武散官、上国柱から武騎尉までの十二等を勲官とした。
 16丙戌,趙郡王孝恭破輔公祏於蕪湖,拔梁山等三鎮。辛卯,安撫使任瓌拔揚子城,廣陵城主龍龕降。
16.丙戌、趙郡王孝恭が蕪湖にて輔公石を破り、梁山など三鎮を抜いた。
 辛卯、安撫使任瓌が揚子城を抜いた。廣陵城主龍龕が降伏する。
 17丁酉,突厥寇原州。
17.丁酉、突厥が原州へ来寇した。
 18戊戌,趙郡王孝恭克丹楊。
  先是,輔公祏遣其將馮慧亮、陳當世將舟師三萬屯博望山,陳正通、徐紹宗將歩騎二萬屯靑林山,仍於梁山連鐵鎖以斷江路,築卻月城,延袤十餘里,又結壘江西以拒官軍。孝恭與李靖帥舟師次舒州,李世勣帥歩卒一萬渡淮,拔壽陽,次硤石。慧亮等堅壁不戰,孝恭遣奇兵絶其糧道,慧亮等軍乏食,夜,遣兵薄孝恭營,孝恭堅臥不動。孝恭集諸將議軍事,皆曰:「慧亮等擁強兵,據水陸之險,攻之不可猝拔,不如直指丹楊,掩其巣穴。丹楊既潰,慧亮等自降矣!」孝恭將從其議,李靖曰:「公祏精兵雖在此水陸二軍,然所自將亦不爲少,今博望諸柵尚不能拔,公祏保據石頭,豈易取哉!進攻丹楊,旬月不下,慧亮躡吾後,腹背受敵,此危道也。慧亮、正通皆百戰餘賊,其心非不欲戰,正以公祏立計使之持重,欲以老我師耳。我今攻其城以挑之,一舉可破也!」孝恭然之,使羸兵先攻賊営而勒精兵結陳以待之。攻壘者不勝而走,賊出兵追之,行數里,遇大軍,與戰,大破之。闞稜免冑謂賊衆曰:「汝曹不識我邪?何敢來與我戰!」賊多稜故部曲,皆無鬭志,或有拜者,由是遂敗。孝恭、靖乘勝逐北,轉戰百餘里,博山、靑林兩戍皆潰,慧亮、正通等遁歸,殺傷及溺死者萬餘人。李靖兵先至丹楊,公祏大懼,擁兵數萬,棄城東走,欲就左游仙於會稽,李世勣追之。公祏至句容,從兵能屬者纔五百人,夜,宿常州,其將呉騷等謀執之。公祏覺之,棄妻子,獨將腹心數十人,斬關走。至武康,爲野人所攻,西門君儀戰死。執公祏,送丹楊梟首,分捕餘黨,悉誅之,江南皆平。
  己亥,以孝恭爲東南道行臺右僕射,李靖爲兵部尚書。頃之,廢行臺,以孝恭爲楊州大都督,靖爲府長史。上深美靖功,曰:「靖,蕭、輔之膏肓也。」
  闞稜功多,頗自矜伐。公祏誣稜與己通謀。會趙郡王孝恭籍沒賊黨田宅,稜及杜伏威、王雄誕田宅在賊境者,孝恭并籍沒之;稜自訴理,忤孝恭,孝恭怒,以謀反誅之。
18.戊戌、趙郡王孝恭が、丹楊にて勝った。その経緯は、以下の通り。
 輔公祏は、その将馮慧亮と陳當世へ水軍三万を与えて博望山へ屯営させ、陳正通と徐紹宗へ歩騎三万を与えて青林山へ屯営させていた。梁山には鉄鎖を張り巡らせて、揚子江を遮断し、背後には南北十余里の月城を築いた。又、江西には塁を連ねて官軍を拒んだ。
 孝恭と李靖は、水軍を率いて舒州に留まり、李世勣は歩兵一万を率いて淮を渡って壽陽を抜き硤石に留まった。
 慧亮等は防備を固めて戦わなかった。そこで孝恭は奇兵を出して、敵の糧道を遮断した。慧亮等は食料が欠乏したので、兵を出して孝恭の陣営へ迫ったが、孝恭は防備を固めて動かない。
 孝恭が諸将を集めて軍議を開くと、皆は言った。
「慧亮等は強兵を擁して水陸の険に據っています。これを攻めても、なかなか抜けません。それよりも、丹楊へ直行して、その巣穴を叩きましょう。丹楊が潰れたら、慧亮等は自ずから降伏してきます。」
 孝恭がこれに従おうとすると、李靖が言った。
「公祏の精鋭はこの水陸二軍にあるとはいえ、彼自身も少なからぬ精鋭兵を率いています。今、博望の諸柵をまだ抜くことができないうえ、公祏は石頭に據っています。これがどうして容易に落とせましょうか!丹楊へ進攻して旬月下すことができなければ、慧亮は我等の背後に回ります。腹背に敵を受けるのは、危道です。慧亮と正通は百戦錬磨の将軍。本当は戦いたがっているのでしょう。ですが、公祏が我等を疲れさせようと、持重の計略を立てて動かさないのです。今、我等がその城を攻めて挑発したら、一挙に敗れますぞ!」
 孝恭は、これに従った。
 官軍は、老弱の兵を先頭に立てて賊営を攻撃させ、精鋭兵は陣を結んで敵を待った。塁を攻めた者が勝てずに逃げ出すと、賊は兵を出して追撃した。しかし、数里進むと大軍が出てきて、これと戦ったが大敗した。
 闞稜が、兜を取って賊衆へ言った。
「お前達、我を知っているか?この俺に戦いを挑むのか!」
 賊兵の大半は、稜の元の部下達だった。皆、闘志を無くし、中には礼拝する者さえ居た。遂に、賊軍は敗北した。孝恭と靖は勝ちに乗じて追撃し、百余里を転戦した。博山、青林の両戍は共に潰れた。慧亮と正通は遁走し、戦死者溺死者は併せて一万余人を数えた。
 李靖が丹楊へ進軍すると、公祏は大いに懼れ、数万の兵を擁したまま、城を棄てて東へ逃げた。会稽の左遊仙の元へ逃げ込もうとしたのだ。李世勣が、これを追撃する。
 公祏が句容へ着いたときには、従う兵卒はわずか五百人に過ぎなかった。夜、常州に宿を取ったが、その将呉騒等が、これを捕らえようと謀った。公祏はこれを覚り、妻子を棄てて腹心数十人を率いて関所を斬って逃げた。
 武康へ至ると、野人達から襲撃されて、西門君儀は戦死した。公祏は捕らえられて丹楊へ送られ梟首される。その余党も捕らえ、江南は平定した。
 己亥、孝恭を東南道行台右僕射、李靖を兵部尚書とした。だが、すぐに行台を廃止して孝恭を揚州大都督、靖を府長史とした。
 上は、靖の功績を深く称賛し、言った。
「靖は、蕭と輔の膏肓だ。」
 闞稜は功績が大きく、自ら誇っていた。公祏は、稜が自分と内通していたと誣告した。後、趙郡王孝恭は、賊党の田宅を没収した。ところが、稜と杜伏威、王雄誕の田宅は賊領との境界にあったのだが、孝恭はこれも一緒に没収してしまった。この件で稜は、孝恭に逆らって正論を訴えた。孝恭は怒って、造反の罪で稜を誅殺した。
 19夏,四月,庚子朔,赦天下。是日,頒新律令,比開皇舊制增新格五十三條。
19.夏、四月。庚子朔、天下へ恩赦を下す。この日、新しい律令を頒布した。これは開皇の旧制と比べて新格が五十三條増えていた。
 20初定均田租、庸、調法:丁、中之民,給田一頃,篤疾減什之六,寡妻妾減七;皆以什之二爲世業,八爲口分。毎丁歳入租,粟二石。調隨土地所宜,綾、絹、絁、布。歳役二旬;不役則收其傭,日三尺;有事而加役者,旬有五日,免其調;三旬,租、調倶免。水旱蟲霜爲災,什損四以上免租,損六以上免調,損七已上課役倶免。凡民貲業分九等。百戸爲里,五里爲郷,四家爲鄰,四鄰爲保。在城邑者爲坊,田野者爲村。食祿之家,無得與民爭利;工商雜類,無預士伍。男女始生爲黄,四再爲小,十六爲中,二十爲丁,六十爲老。歳造計帳,三年造戸籍。
20.初めて、均田租、庸、調法を定める。その内容は、以下の通り。
 丁、中の民へ田一頃を配給する。病人は症状により減らし、重症者は六割を減らす。寡妻妾は七割を減らす。全て、配給された田の二割が世業で、八割が口分田である。丁ごとに、毎年粟二石を租として徴収する。調は、土地の名産品で、綾・絹・シ・布などである。一年の労役は二旬。これを行わない者は、一日あたり三尺を納める。事が多い年は労役が増える。十五日増えたら調は免除。三十日増えたら租も調も免除する。
 水旱虫霜などの災害が起こった時は、出来高が平年の四割減なら租を免除する。六割減なら調を免除する。七割以上減なら課役共に免じる。
 およそ民の貨業は九等に分ける。
 百戸を里とし、五里を郷、四郷を保とする。城邑のあるものを坊とし、田野は村とする。
 禄を食んでいる家は、民と利益を争ってはいけない。工商雑類は、士と肩を並べてはいけない。生まれたばかりの男女を黄とし、四歳を小、十六を中、二十を丁とし、六十を老とする。(「男女始生為黄」は、日本で生まれたばかりの子供を「赤子」と称するようなものか?)年毎に帳に記載し、三年に一度戸籍を造る。
 21丁未,党項寇松州。
21.丁未、党項が松州へ来寇した。
 22庚申,通事舎人李鳳起撃萬州反獠,平之。
22.庚申、通事舎人李鳳起が萬州で造反した獠を討ち、平定した。
 23五月,辛未,突厥寇朔州。
23.五月、辛未、突厥が朔州へ来寇する。
 24甲戌,羌與吐谷渾同寇松州。遣益州行臺左僕射竇軌自翼州道,扶州刺史蒋善合自芳州道撃之。
24.甲戌、羌と吐谷渾が連合して松州へ来寇した。益州行台左僕射竇軌を翼州道から、扶州刺史蒋善合を芳州道から派遣して、これを撃たせる。
 25丙戌,作仁智宮於宜君。
25.丙戌、宜君へ仁智宮を作る。
 26丁亥,竇軌破反獠於方山,俘二萬餘口。

26.丁亥、竇軌が方山にて、造反した獠を撃破。二万人を捕らえる。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:06
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