咸亨二年(辛未、六七一)1.春、正月、甲子、上が東都へ御幸した。
1春,正月,甲子,上幸東都。
2夏,四月,甲申,以西突厥阿史那都支爲左驍衞大將軍兼匐延都督,以安集五咄陸之衆。2.夏、四月、甲申、西突厥の阿史那都支を左驍衛大将軍兼匐延都督として、五咄陸の衆を安集させた。
3初,武元慶等既死,皇后奏以其姊子賀蘭敏之爲士彠之嗣,襲爵周公,改姓武氏,累遷弘文館學士、左散騎常侍。魏國夫人之死也,上見敏之,悲泣曰:「曏吾出視朝猶無恙,退朝已不救,何倉猝如此!」敏之號哭不對。后聞之,曰:「此兒疑我。」由是惡之。敏之貌美,蒸於太原王妃;及居妃喪,釋衰絰,奏妓。司衞少卿楊思儉女,有殊色,上及后自選以爲太子妃,婚有日矣,敏之逼而淫之。后於是表言敏之前後罪惡,請加竄逐。六月,丙子,敕流雷州,復其本姓。至韶州,以馬韁絞死。朝士坐與敏之交遊,流嶺南者甚衆。3.武元慶が死んだ後、皇后はその姉の子の賀蘭敏之を武士彠の嗣ぎとして周公を襲爵させ、姓を武氏と改め、弘文館学士・左散騎常侍へ累遷させるよう上奏した。
4秋,七月,乙未朔,高侃破高麗餘衆於安市城。4.秋、七月、乙未朔、高侃が安市城にて高麗の残党を破った。
5九月,丙申,潞州刺史徐王元禮薨。5.九月、丙申、潞州刺史徐王元禮が薨去した。
6冬,十一月,甲午朔,日有食之。6.冬、十一月、甲午朔、日食が起こった。
7車駕自東都幸許、汝;十二月,癸酉,校獵於葉縣;丙戌,還東都。7.車駕が東都から許、汝へ御幸した。
三年(壬申、六七二)1.春、正月、辛丑、太子左衛副率梁積寿を姚州道行軍総管として、造反した蛮を討伐させた。
1春,正月,辛丑,以太子左衞副率梁積壽爲姚州道行軍總管,將兵討叛蠻。
2庚戌,昆明蠻十四姓二萬三千戸内附,置殷、敦、總三州。2.庚戌、昆明蛮十四姓二万三千戸が帰順した。殷、敦、総三州を設置する。
3二月,庚午,徙吐谷渾於鄯州浩亹水南。吐谷渾畏吐蕃之強,不安其居,又鄯州地狹,尋徙靈州,以其部落置安樂州,以可汗諾曷鉢爲刺史。吐谷渾故地皆入於吐蕃。3.二月、庚午、吐谷渾を鄯州浩亹水の南へ移住させた。ところが吐谷渾は、吐蕃の強盛を畏れて、その地へ住むのを不安がった。また、鄯州は土地が狭かったので、すぐに霊州へ移住した。その部落の居住地を安楽州とし、可汗諾曷鉢を刺史とした。
4己卯,侍中永安郡公姜恪薨。4.己卯、侍中永安郡公姜恪が薨去した。
5夏,四月,庚午,上幸合璧宮。5.夏、四月、庚午、上が合璧宮へ御幸した。
6吐蕃遣其大臣仲琮入貢,上問以吐蕃風俗,對曰:「吐蕃地薄氣寒,風俗朴魯;然法令嚴整,上下一心,議事常自下而起,因人所利而行之,斯所以能持久也。」上詰以呑滅吐谷渾、敗薛仁貴、寇逼涼州事,對曰:「臣受命貢獻而已,軍旅之事,非所聞也。」上厚賜而遣之。癸未,遣都水使者黄仁素使于吐蕃。6.吐蕃がその大臣仲琮を派遣して入貢した。上が吐蕃の風俗を問うと、応えて言った。
7秋,八月,壬午,特進高陽郡公許敬宗卒。太常博士袁思古議:「敬宗棄長子於荒徼,嫁少女於夷貊。按謚法,『名與實爽曰繆,』請謚爲繆。」敬宗孫太子舎人彦伯訟思古與許氏有怨,請改謚。太常博士王福畤議,以爲:「得失一朝,榮辱千載。若嫌隙有實,當據法推繩;如其不然,義不可奪。」戸部尚書戴至德謂福畤曰:「高陽公任遇如是,何以謚之爲繆?」對曰:「昔晉司空何曾既忠且孝,徒以日食萬錢,秦秀謚之爲『繆』。許敬宗忠孝不逮於曾,而飲食男女之累過之,謚之曰『繆』,無負許氏矣。」詔集五品已上更議,禮部尚書陽思敬議:「按謚法,既過能改曰恭。請謚曰恭。」詔從之。敬宗嘗奏流其子昂于嶺南,又以女嫁蠻酋馮盎之子,多納其貨,故思古議及之。福畤,勃之父也。7.秋、七月、壬午、特進高陽郡公許敬宗が卒した。
8九月,癸卯,徙沛王賢爲雍王。8.九月、癸卯、沛王賢を雍王とする。
9冬,十月,己未,詔太子監國。9.冬、十月、己未、太子を監国にすると詔した。
10壬戌,車駕發東都。10.壬戌、車駕が東都を出発した。
11十一月,戊子朔,日有食之。11.十一月、戊子朔、日食が起こった。
12甲辰,車駕至京師。12.甲辰、車駕が京師へ到着した。
13十二月,高侃與高麗餘衆戰于白水山,破之。新羅遣兵救高麗,侃撃破之。13.十二月、高侃が白水山にて高麗の残党と戦い、これを破った。新羅が派兵して高麗を救援したが、侃はこれを迎撃して破った。
14癸卯,以左庶子劉仁軌同中書門下三品。14.癸卯、左庶子劉仁軌を同中書門下三品とした。
15太子罕接宮臣,典膳丞全椒邢文偉輒減所供膳,并上書諫太子。太子復書,謝以多疾及入侍少暇,嘉納其意。頃之,右史缺,上曰:「邢文偉事吾子,能撤膳進諫,此直士也。」擢爲右史。太子因宴集,命宮臣擲倒,次至左奉裕率王及善,及善曰:「擲倒自有伶官,臣若奉令,恐非所以羽翼殿下也。」太子謝之。上聞之,賜及善縑百匹,尋遷左千牛衞將軍。15.太子は、まれにしか幕僚と接しなかったので、典膳丞の全椒の邢文偉が太子の食膳の数を減らし、併せて上書して太子を諫めた。太子は返書を出し、病気がちで政務を執る時間が少ないことを謝り、その意を嘉納した。
四年(癸酉、六七三)1.春、正月、丙辰、絳州刺史鄭恵王元懿が薨去した。
1春,正月,丙辰,絳州刺史鄭惠王元懿薨。
2三月,丙申,詔劉仁軌等改脩國史,以許敬宗等所記多不實故也。2.三月、丙申、劉仁軌らに国史を改修するよう詔した。許敬宗らの記載に虚偽が多かったためである。
3夏,四月,丙子,車駕幸九成宮。3.夏、四月、丙子、車駕が九成宮へ御幸した。
4閏五月,燕山道總管、右領軍大將軍李謹行大破高麗叛者於瓠蘆河之西,俘獲數千人,餘衆皆奔新羅。時謹行妻劉氏留伐奴城,高麗引靺鞨攻之,劉氏擐甲帥衆守城,久之,虜退。上嘉其功,封燕國夫人。謹行,靺鞨人突地稽之子也,武力絶人,爲衆夷所憚。4.閏五月、燕山道総管、右領軍大将軍李謹行が瓠蘆河の西にて、高麗の造反者を大いに破った。数千人を捕獲し、その他は皆新羅へ逃げた。
5秋,七月,婺州大水,溺死者五千人。5.秋、七月、婺州で大水が起こり、五千人が溺死した。
6八月,辛丑,上以瘧疾,令太子於延福殿受諸司啓事。6.八月、辛丑、上がマラリアに罹ったので、太子に延福殿で諸司の報告を受けさせた。
7冬,十月,壬午,中書令閻立本薨。7.冬、十月、壬午、中書令閻立本が薨去した。
8乙巳,車駕還京師。8.乙巳、車駕が京師へ還った。
9十二月,丙午,弓月、疏勒二王來降。西突厥興昔亡可汗之世,諸部離散,弓月及阿悉吉皆叛。蘇定方之西討也,擒阿悉吉以歸。弓月南結吐蕃,北招咽麪,共攻疏勒,降之。上遣鴻臚卿蕭嗣業發兵討之。嗣業兵未至,弓月懼,與疏勒皆入朝;上赦其罪,遣歸國。9.十二月、丙午、弓月、疏勒の二王が来降した。
上元元年(甲戌、六七四)1.春、正月、壬午、左庶子、同中書門下三品劉仁軌を鶏林道大総管とし、衛尉卿李弼、右領軍大将軍李謹行を副官として、兵を発して新羅を討伐させた。
1春,正月,壬午,以左庶子、同中書門下三品劉仁軌爲雞林道大總管,衞尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵討新羅。時新羅王法敏既納高麗叛衆,又據百濟故地,使人守之。上大怒,詔削法敏官爵;其弟右驍衞員外大將軍、臨海郡公仁問在京師,立以爲新羅王,使歸國。
2三月,辛亥朔,日有食之。2.三月、辛亥朔、日食が起こった。
3賀蘭敏之既得罪,皇后奏召武元爽之子承嗣於嶺南,襲爵周公,拜尚衣奉御;夏,四月,辛卯,遷宗正卿。3.賀蘭敏之が処罰されると、皇后は武元爽の子承嗣を嶺南から召し出して、周公を襲爵させ、尚衣奉御に任命するよう上奏した。
4秋,八月,壬辰,追尊宣簡公爲宣皇帝,妣張氏爲宣莊皇后;懿王爲光皇帝,妣賈氏爲光懿皇后;太武皇帝爲神堯皇帝,太穆皇后爲太穆神皇后;文皇帝爲太宗文武聖皇帝,文德皇后爲文德聖皇后。皇帝稱天皇,皇后稱天后,以避先帝、先后之稱。改元,赦天下。4.秋、八月、壬辰、宣簡公(李煕)を宣皇帝、妣の張氏を宣荘皇后、懿王(李天賜)を光皇帝、妣の賈氏を光懿皇后、太武皇帝(李淵)を神堯皇帝、太穆皇后(竇皇后)を太穆神皇后、文皇帝(李世民)を大層文武聖皇帝、文徳皇后(長孫皇后)を文徳聖皇后と追尊した。
5戊戌,敕:「文武官三品以上服紫,金玉帶;四品服深緋,金帶;五品服淺緋,金帶;六品服深綠,七品服淺綠,並銀帶;八品服深靑,九品服淺靑,並鍮石帶;庶人服黄,銅鐵帶。自非庶人,不聽服黄。」5.戊戌、敕が下った。
6九月,癸丑,詔追復長孫晟、長孫無忌官爵,以無忌曾孫翼襲爵趙公,聽無忌喪歸,陪葬昭陵。6.九月、癸丑、詔して、長孫晟、長孫無忌の官爵を復し、無忌の曾孫の長孫翼に趙公を襲爵させた。無忌の喪に服すことを許し、昭陵に陪葬させた。
7甲寅,上御翔鸞閣,觀大酺。分音樂爲東西朋,使雍王賢主東朋,周王顯主西朋,角勝爲樂。郝處俊諫曰:「二王春秋尚少,志趣未定,當推梨讓棗,相親如一。今分二朋,遞相誇競,俳優小人,言辭無度,恐其交爭勝負,譏誚失禮,非所以崇禮義,勸敦睦也。」上瞿然曰:「卿遠識,非衆人所及也。」遽止之。7.甲寅、上が翔鸞閣へ御幸し、大酺(集まって酒を飲むこと)を観た。音楽を東西の朋へ分け、雍王賢に東朋を、周王顕に西朋を指揮させ、勝負させて楽しもうとした。すると、郝處俊が諫めた。
是日,衞尉卿李弼暴卒于宴所,爲之廢酺一日。
8冬,十一月,丙午朔,車駕發京師;己酉,校獵華山之曲武原;戊辰,至東都。8.冬、十一月、丙午朔、車駕が京師を出発した。己酉、華山の曲武原で狩猟をした。戊辰、東都に到着した。
9箕州録事參軍張君澈等誣告刺史蔣王惲及其子汝南郡王煒謀反,敕通事舎人薛思貞馳傳往按之。十二月,癸未,惲惶懼,自縊死。上知其非罪,深痛惜之,斬君澈等四人。9.箕州録事参軍張君澈らが、刺史の蒋王惲とその子息の汝南郡王煒が造反を謀っていると誣告した。通事舎人薛思貞に現地へ行って取り調べるよう敕が下った。
10戊子,于闐王伏闍雄來朝。10.戊子、于闐王伏闍雄が来朝した。
11辛卯,波斯王卑路斯來朝。11.辛卯、波斯王卑路斯が来朝した。
12壬寅,天后上表,以爲:「國家聖緒,出自玄元皇帝,請令王公以下皆習老子,毎歳明經,準孝經、論語策試。」又請「自今父在,爲母服齊衰三年。又,京官八品以上,宜量加俸祿。」及其餘便宜,合十二條。詔書褒美,皆行之。12.壬寅、天后が上表した。
13是歳,有劉曉者,上疏論選,以爲:「今選曹以檢勘爲公道,書判爲得人,殊不知考其德行才能。況書判借人者衆矣。又,禮部取士,專用文章爲甲乙,故天下之士,皆捨德行而趨文藝,有朝登甲科而夕陷刑辟者,雖日誦萬言,何關理體!文成七歩,未足化人。況盡心卉木之間,極筆煙霞之際,以斯成俗,豈非大謬!夫人之慕名,如水趨下,上有所好,下必甚焉。陛下若取士以德行爲先,文藝爲末,則多士雷奔,四方風動矣!」13.この年、劉暁という者がいて、人選を論じて上疏した。
二年(乙亥、六七五)1.春、正月、丙寅、于闐国を毗沙都督府として、その境内を十州に分け、于闐王尉遅伏闍雄を毗沙都督とした。
1春,正月,丙寅,以于闐國爲毗沙都督府,分其境内爲十州,以于闐王尉遲伏闍雄爲毗沙都督。
2辛末,吐蕃遣其大臣論吐渾彌來請和,且請與吐谷渾復脩鄰好;上不許。2.辛未、吐蕃がその大臣論吐渾弥を使者として派遣して和を請い、吐谷渾とも善隣を修復したいと請願したが、上は許さなかった。
3二月,劉仁軌大破新羅之衆於七重城,又使靺鞨浮海略新羅之南境,斬獲甚衆。仁軌引兵還。詔以李謹行爲安東鎭撫大使,屯新羅之買肖城以經略之,三戰皆捷,新羅乃遣使入貢,且謝罪;上赦之,復新羅王法敏官爵。金仁問中道而還,改封臨海郡公。3.二月、劉仁軌が七重城にて新羅軍を大いに破った。また、靺鞨へ海路から新羅の南境を攻略させ、大勢の敵兵を斬り捕らえた。
4三月,丁巳,天后祀先蠶於邙山之陽,百官及朝集使皆陪位。4.三月、丁巳、天后が邙山の南で先蠶を祀った。百官と朝集使はみな陪席した。
5上苦風眩甚,議使天后攝知國政。中書侍郎同三品郝處俊曰:「天子理外,后理内,天之道也。昔魏文帝著令,雖有幼主,不許皇后臨朝,所以杜禍亂之萌也。陛下奈何以高祖、太宗之天下,不傳之子孫而委之天后乎!」中書侍郎昌樂李義琰曰:「處俊之言至忠,陛下宜聽之。」上乃止。5.上の風眩がとても酷くなったので、天后へ国政を摂知させようと提議した。すると、中書侍郎同三品郝處俊が言った。
6天后多引文學之士著作郎元萬頃、左史劉禕之等,使之撰列女傳、臣軌、百僚新戒、樂書,凡千餘卷。朝廷奏議及百司表疏,時密令參決,以分宰相之權,時人謂之北門學士。禕之,子翼之子也。6.天后は大勢の文学の士を麾下に引き入れ、著作郎元万頃、左史劉禕之らに列女伝、臣軌、百僚新戒、楽書、およそ千巻あまりを撰させた。
7夏,四月,庚辰,以司農少卿韋弘機爲司農卿。弘機兼知東都營田,受詔完葺宮苑。有宦者於苑中犯法,弘機杖之,然後奏聞。上以爲能,賜絹數十匹,曰:「更有犯者,卿即杖之,不必奏也。」7.夏、四月、庚辰、司農少卿韋弘機を司農卿とした。
8初,左千牛將軍長安趙瓌尚高祖女常樂公主,生女爲周王顯妃。公主頗爲上所厚,天后惡之。辛巳,妃坐廢,幽閉於内侍省,食料給生者,防人候其突煙,已而數日煙不出,開視,死腐矣。瓌自定州刺史貶栝州刺史,令公主隨之官,仍絶其朝謁。8.かつて、左千牛将軍の長安の趙瓌が、高祖の娘の常楽公主を娶り、生まれた娘を周王顕の妃とした。
9太子弘仁孝謙謹,上甚愛之;禮接士大夫,中外屬心。天后方逞其志,太子奏請,數迕旨,由是失愛於天后。義陽、宣城二公主,蕭淑妃之女也,坐母得罪,幽于掖庭,年踰三十不嫁。太子見之驚惻,遽奏請出降,上許之。天后怒,即日以公主配當上翊衞權毅、王遂古。己亥,太子薨于合璧宮,時人以爲天后酖之也。9.太子弘仁は仁孝謙謹だったので、上はこれをとても愛していた。士大夫に対しても礼儀をもって接していたので、中外の衆望を得ていた。だが、天后はその野望が逞しく、太子の奏請がしばしば彼女の想いに逆らっていたので、太子への愛情が薄れていった。
壬寅,車駕還洛陽宮。五月,戊申,下詔:「朕方欲禪位皇太子,而疾遽不起,宜申往命,加以尊名,可謚爲孝敬皇帝。」
六月,戊寅,立雍王賢爲皇太子,赦天下。
10天后惡慈州刺史杞王上金,有司希旨奏其罪;秋,七月,上金坐解官,澧州安置。10.天后は慈州刺史杞王上金を憎んでいた。意を受けた役人たちが彼の罪状を上奏した。
11八月,庚寅,葬孝敬皇帝于恭陵。11.八月、庚寅、孝敬皇帝を恭陵に葬った。
12戊戌,以戴至德爲右僕射,庚子,以劉仁軌爲左僕射,並同中書門下三品如故。張文瓘爲侍中,郝處俊爲中書令,李敬玄爲吏部尚書兼左庶子,同中書門下三品如故。12.戊戌、戴至徳を右僕射とする。庚子、劉仁軌を左僕射とする。共に、同中書門下三品は従来通り。張文瓘を侍中、郝處俊を中書令とする。李敬玄は、吏部尚書左庶子となって、同中書門下三品は従来通り。
劉仁軌、戴志德更日受牒訴,仁軌常以美言許之,至德必據理難詰,未嘗與奪,實有冤結者,密爲奏辯。由是時譽皆歸仁軌。或問其故,至德曰:「威福者人主之柄,人臣安得盜取之!」上聞,深重之。有老嫗欲詣仁軌陳牒,誤詣至德,至德覽之未終,嫗曰:「本謂是解事僕射,乃不解事僕射邪!歸我牒!」至德笑而授之。時人稱其長者。文瓘時兼大理卿,囚聞改官,皆慟哭。文瓘性嚴正,諸司奏議,多所糾駮,上甚委之。
儀鳳元年(丙子、六七六)1.春、正月、壬戌、冀王輪を相王とした。
1春,正月,壬戌,徙冀王輪爲相王。
2納州獠反,敕黔州都督發兵討之。2.納州の獠が造反した。兵を発して討伐するよう黔州都督へ勅命を下した。
3二月,甲戌,徙安東都護府於遼東故城;先是有華人任東官者,悉罷之。徙熊津都督府於建安故城;其百濟戸口先徙於徐、兗等州者,皆置於建安。3.二月、甲戌、安東都護府を遼東の故城に移した。これに先だって、東官に任命された華人を全員罷免した。
4天后勸上封中嶽;癸未,詔以今冬有事于嵩山。4.天后が、中嶽で封禅するよう、上へ勧めた。
5丁亥,上幸汝州之温湯。5.丁亥、上が汝州の温泉へ御幸した。
6三月,癸卯,黄門侍郎來恆、中書侍郎薛元超並同中書門下三品。恆,濟之兄;元超,收之子也。6.三月、癸卯、黄門侍郎来恒、中書侍郎薛元超を共に同中書門下三品とした。
7甲辰,上還東都。7.甲辰、上が東都に帰還した。
8閏月,吐蕃寇鄯、廓、河、芳等州,敕左監門衞中郎將令狐智通發興、鳳等州兵以禦之。己卯,詔以吐蕃犯塞,停封中嶽。乙酉,以洛州牧周王顯爲洮州道行軍元帥,將工部尚書劉審禮等十二總管,并州大都督相王輪爲涼州道行軍元帥,將左衞大將軍契苾何力等,以討吐蕃。二王皆不行。8.閏月、吐蕃が鄯、廓、河、芳等の州に来寇した。左監門衛中郎将の令孤智通に、興・鳳などの州兵を徴発して防御するよう勅命を下した。
9庚寅,車駕西還。9.庚寅、車駕が西に帰還した。
10甲寅,中書侍郎李義琰同中書門下三品。10.甲寅、中書侍郎李義炎を同中書門下三品とした。
11戊午,車駕至九成宮。11.戊午、車駕が九成宮へ至った。
12六月,癸亥,黄門侍郎晉陵高智周同中書門下三品。12.六月、癸亥、黄門侍郎の晋陵の高智周を同中書門下三品とした。
13秋,八月,乙未,吐蕃寇疊州。13.秋、八月、乙未、吐蕃が畳州に来寇した。
14壬寅,敕:「桂、廣、交、黔等都督府,比來注擬土人,簡擇未精,自今毎四年遣五品已上清正官充使,仍令御史同往注擬。」時人謂之南選。14.壬寅、勅命を下した。
15九月,壬申,大理奏左威衞大將軍權善才、左監門中郎將范懷義誤斫昭陵柏,罪當除名;上特命殺之。大理丞太原狄仁傑奏:「二人罪不當死。」上曰:「善才等斫陵柏,我不殺則爲不孝。」仁傑固執不已,上作色,令出,仁傑曰:「犯顏直諫,自古以爲難。臣以爲遇桀、紂則難,遇堯、舜則易。今法不至死而陛下特殺之,是法不信於人也,人何所措其手足!且張釋之有言:『設有盜長陵一抔土,陛下何以處之?』今以一株柏殺二將軍,後代謂陛下爲何如矣?臣不敢奉詔者,恐陷陛下於不道,且羞見釋之於地下故也。」上怒稍解,二人除名,流嶺南。後數日,擢仁傑爲侍御史。15.九月、壬申、左威衛大将軍権善才と左監門中郎将范懐義が、昭陵の柏を誤って断ち切った。大理は、この罪は除名に相当すると上奏したが、上は特に死刑にするよう命じた。
初,仁傑爲并州法曹,同僚鄭崇質當使絶域。崇質母老且病,仁傑曰:「彼母如此,豈可使之有萬里之憂!」詣長史藺仁基,請代之行。仁基素與司馬李孝廉不叶,因相謂曰:「吾輩豈可不自愧乎!」遂相與輯睦。
16冬,十月,車駕還京師。16.冬、十月。車駕が京師へ還った。
17丁酉,祫享太廟,用太學博士史璨議,禘後三年而祫,祫後二年而禘。17.丁酉、祖先を太廟へ合わせ祭った。太学博士史璨の建議を用い、禘の三年後に祫を行い、祫の二年後に禘を行う。
18郇王素節,蕭淑妃之子也,警敏好學。天后惡之,自岐州刺史左遷申州刺史。乾封初,敕曰:「素節既有舊疾,不須入朝。」而素節實無疾,自以久不得入覲,乃著忠孝論。王府倉曹參軍張柬之因使潛封其論以進。后見之,誣以贓賄,丙午,降封鄱陽王,袁州安置。18.郇王素節は蕭淑妃の子息である。警敏で学問を好んだ。天后はこれを憎み、岐州刺史から申州刺史へ左遷した。
19十一月,壬申,改元,赦天下。19.十一月、壬申、改元して天下へ恩赦を下した。
20庚寅,以李敬玄爲中書令。20.庚寅、李敬玄を中書令とした。
21十二月,戊午,以來恆爲河南道大使,薛元超爲河北道大使,尚書左丞ㄢ陵崔知悌、國子司業鄭祖玄爲江南道大使,分道巡撫。21.十二月、戊午、来恒を河南道大使とし、薛元超を河北道大使とし、尚書左丞のㄢ陵の崔知悌と国子司業の鄭祖玄を江南道大使として、道ごとに分けて巡撫させた。
二年(丁丑、六七七)1.春、正月、乙亥、上が籍田を耕した。
1春,正月,乙亥,上耕藉田。
2初,劉仁軌引兵自熊津還,扶餘隆畏新羅之逼,不敢留,尋亦還朝。二月,丁巳,以工部尚書高藏爲遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯高麗餘衆;高麗先在諸州者,皆遣與藏倶歸。又以司農卿扶餘隆爲熊津都督,封帶方王,亦遣歸安輯百濟餘衆,仍移安東都護府於新城以統之。時百濟荒殘,命隆寓居高麗之境。藏至遼東,謀叛,潛與靺鞨通;召還,徙邛州而死,散徙其人於河南、隴右諸州,貧者留安東城傍。高麗舊城沒於新羅,餘衆散入靺鞨及突厥,隆亦竟不敢還故地,高氏、扶餘氏遂亡。2.かつて、劉仁軌が兵を率いて熊津から帰還したとき、扶餘隆は新羅が迫ってくるのを畏れ、敢えて留まらずに、やがてまた朝廷に戻った。
3三月,癸亥朔,以郝處俊、高智周並爲左庶子,李義琰爲右庶子。3.三月、癸亥朔、郝處俊と高智周をともに左庶子とし、李義琰を右庶子とした。
夏,四月,左庶子張大安同中書門下三品。大安,公謹之子也。
4詔以河南、北旱,遣御史中丞崔謐等分道存問賑給。侍御史寧陵劉思立上疏,以爲:「今麥秀蠶老,農事方殷,敕使撫巡,人皆竦抃,忘其家業,冀此天恩,聚集參迎,妨廢不少。既縁賑給,須立簿書,本欲安存,更成煩擾。望且委州縣賑給,待秋務閒,出使褒貶。」疏奏,謐等遂不行。4.河南、河北で旱が起こったので、御史中丞崔謐らを道ごとに派遣し、被害状況を検分して賑給するよう、詔を下した。すると、侍御史の劉思立が上疏した。
5五月,吐蕃寇扶州之臨河鎭,擒鎭將杜孝昇,令齎書説松州都督武居寂使降,考昇固執不從。吐蕃軍還,捨孝昇而去,孝昇復帥餘衆拒守。詔以孝昇爲游撃將軍。5.五月、吐蕃が扶州の臨河鎮へ来寇し、鎮将の杜孝昇を捕らえた。彼らは、松州提督武居寂を降伏させようと、説得文を書くよう孝昇に命じたが、孝昇は拒絶した。
6秋,八月,徙周王顯爲英王,更名哲。6.秋、八月、周王顕を英王として、哲と改名させた。
7命劉仁軌鎭洮河軍。冬,十二月,乙卯,詔大發兵討吐蕃。7.劉仁軌に命じて洮河軍に鎮守させた。
8詔以顯慶新禮,多不師古,其五禮並依周禮行事。自是禮官益無憑守,毎有大禮,臨時撰定。8.顕慶の新礼が多く古を規範としていないため、その五礼と共に周礼にも基づいて事を行うよう詔を下した。これ以来、礼官はますます基準が無くなり、臨時に選定するようになった。
三年(戊寅、六七八)1.春、正月、辛酉、百官及び蛮夷の酋長が光順門で天后に朝見した。
1春,正月,辛酉,百官及蠻夷酋長朝天后于光順門。
2劉仁軌鎭洮河,毎有奏請,多爲李敬玄所抑,由是怨之。仁軌知敬玄非將帥才,欲中傷之,奏言:「西邊鎭守,非敬玄不可。」敬玄固辭。上曰:「仁軌須朕,朕亦自往,卿安得辭!」丙子,以敬玄代仁軌爲洮河道大總管兼安撫大使,仍檢校鄯州都督。又命益州大都督府長史李孝逸等發劍南、山南兵以赴之。孝逸,神通之子也。2.劉仁軌が洮河に鎮守して以来、彼の奏請は李敬玄によって横やりを入れられることが多く、このため彼をうらんでいた。仁軌は敬玄に帥才が無いことを知っていたので、彼を傷つけようと、上奏して言った。
癸未,遣金吾將軍曹懷舜等分往河南、北募猛士,不問布衣及仕宦。
3夏,四月,戊申,赦天下,改來年元爲通乾。3.夏、四月、戊申、天下に恩赦を下し、来年から通乾と改元することにした。
4五月,壬戌,上幸九成宮。丙寅,山中雨,大寒,從兵有凍死者。4.五月、壬戌、上が九成宮へ御幸した。
5秋,七月,李敬玄奏破吐蕃於龍支。5.秋、七月、李敬玄が龍支にて吐蕃を撃破したと上奏した。
6上初即位,不忍觀破陣樂,命撤之。辛酉,太常少卿韋萬石奏:「久寢不作,懼成廢缺。請自今大宴會復奏之。」上從之。6.上は即位当初、破陣楽を見るに忍びず、これを撤廃させていた。
7九月,辛酉,車駕還京師。7.九月、辛酉、車駕が京師に帰還した。
8上將發兵討新羅,侍中張文瓘臥疾在家,自輿入見,諫曰:「今吐蕃爲寇,方發兵西討;新羅雖云不順,未嘗犯邊,若又東征,臣恐公私不勝其弊。」上乃止。癸亥,文瓘薨。8.上が新羅討伐軍を起こそうとした。この時、侍中の張文灌が病気になって自宅に伏せったので、上が輿に乗って見舞いに行くと、文灌は諫めた。
9丙寅,李敬玄將兵十八萬與吐蕃將論欽陵戰於靑海之上,兵敗,工部尚書、左衞大將軍彭城僖公劉審禮爲吐蕃所虜。時審禮將前軍深入,頓于濠所,爲虜所攻,敬玄懦怯,按兵不救。聞審禮戰沒,狼狽還走,頓于承風嶺,阻泥溝以自固,虜屯兵高岡以壓之。左領軍員外將軍黑齒常之,夜帥敢死之士五百人襲撃虜營,虜衆潰亂,其將跋地設引兵遁去,敬玄乃收餘衆還鄯州。9.丙寅、李敬玄が十八万の軍を率いて青海の上で吐蕃の将論欽陵と戦った。敗北して、工部尚書、右衛大将軍彭城僖公劉審礼が吐蕃に捕らわれた。
審禮諸子自縛詣闕,請入吐蕃贖其父,敕聽次子易從詣吐蕃省之。比至,審禮已病卒,易從晝夜號哭不絶聲;吐蕃哀之,還其尸,易從徒跣負之以歸。
上嘉黑齒常之之功,擢拜左武衞將軍,充河源軍副使。
李敬玄之西征也,監察御史原武婁師德應猛士詔從軍,及敗,敕師德收集散亡,軍乃復振。因命使于吐蕃,吐蕃將論贊婆迎之赤嶺。師德宣導上意,諭以禍福,贊婆甚悅,爲之數年不犯邊。師德遷殿中侍御史,充河源軍司馬,兼知營田事。
上以吐蕃爲憂,悉召侍臣謀之,或欲和親以息民;或欲嚴設守備,俟公私富實而討之;或欲亟發兵撃之。議竟不決,賜食而遣之。
太學生宋城魏元忠上封事,言禦吐蕃之策,以爲:「理國之要,在文與武。今言文者則以辭華爲首而不及經綸,言武者則以騎射爲先而不及方略,是皆何益於理亂哉!故陸機著辨亡之論,無救河橋之敗,養由基射穿七札,不濟ㄢ陵之師,此已然之明效也。古語有之:『人無常俗,政有理亂;兵無強弱,將有巧拙。』故選將當以智略爲本,勇力爲末。今朝廷用人,類取將門子弟及死事之家,彼皆庸人,豈足當閫外之任!李左車、陳湯、呂蒙、孟觀,皆出貧賤而立殊功,未聞其家代爲將也。
夫賞罰者,軍國之切務,苟有功不賞,有罪不誅,雖堯、舜不能以致理。議者皆云:『近日征伐,虚有賞格而無事實。』蓋由小才之吏不知大體,徒惜勳庸,恐虚倉庫。不知士不用命,所損幾何!黔首雖微,不可欺罔。豈得懸不信之令,設虚賞之科,而望其立功乎!自蘇定方征遼東,李勣破平壤,賞絶不行,勳仍淹滯,不聞斬一臺郎,戮一令史,以謝勳人。大非川之敗,薛仁貴、郭待封等不即重誅,曏使早誅仁貴等,則自餘諸將豈敢失利於後哉!臣恐吐蕃之平,非旦夕可冀也。
又,出師之要,全資馬力。臣請開畜馬之禁,使百姓皆得畜馬;若官軍大舉,委州縣長吏以官錢增價市之,則皆爲官有。彼胡虜恃馬力以爲強,若聽人間市而畜之,乃是損彼之強爲中國之利也。」先是禁百姓畜馬,故元忠言之。上善其言,召見,令直中書省,仗内供奉。
10冬,十月,丙午,徐州刺史密貞王元曉薨。10.冬、十月、丙午、徐州刺史密貞王元暁が薨去した。
11十一月,壬子,黄門侍郎、同中書門下三品來恆薨。11.十一月、壬子、黄門侍郎、同中書門下三品来恒が薨去した。
12十二月,詔停來年通乾之號,以反語不善故也。12.十二月、来たる年に改元予定だった通乾の号は、反語で良くないので中止すると、詔を下した。
調露元年(己卯、六七九)1.春、正月、己酉、上が東都へ御幸した。
1春,正月,己酉,上幸東都。
司農卿韋弘機作宿羽、高山、上陽等宮,制度壯麗。上陽宮臨洛水,爲長廊亙一里。宮成,上徙御之。侍御史狄仁傑劾奏弘機導上爲奢泰,弘機坐免官。左司郎中王本立恃恩用事,朝廷畏之。仁傑奏其姦,請付法司,上特原之,仁傑曰:「國家雖乏英才,豈少本立輩!陛下何惜罪人,以虧王法。必欲曲赦本立,請棄臣於無人之境,爲忠貞將來之戒!」本立竟得罪,由是朝廷肅然。
2庚戌,右僕射、太子賓客道恭公戴至德薨。2.庚戌、右僕射、太子賓客道恭公戴至徳が卒した。
3二月,壬戌,吐蕃贊普卒,子器弩悉弄立,生八年矣。時器弩悉弄與其舅麴薩若詣羊同發兵,有弟生六年,在論欽陵軍中。國人畏欽陵之強,欲立之,欽陵不可,與薩若共立器弩悉弄。3.二月、壬戌、吐蕃の贊普が卒し、子の器弩悉弄が立った。生後八年であった。
上聞贊普卒,命裴行儉乘間圖之。行儉曰:「欽陵爲政,大臣輯睦,未可圖也。」乃止。
4夏,四月,辛酉,郝處俊爲侍中。4.夏、四月、辛酉、郝處俊を侍中とした。
5偃師人明崇儼,以符呪幻術爲上及天后所重,官至正諫大夫。五月,壬午,崇儼爲盜所殺,求賊,竟不得。贈崇儼侍中。5.偃師の人明祟儼は、符呪幻術により上と天后に重んじられ、官は正諫大夫となった。
6丙戌,命太子監國。太子處事明審,時人稱之。6.丙戌、太子へ監国を命じた。
7戊戌,作紫桂宮於澠池之西。7.戊戌、澠池の西に紫桂宮を作った。
8六月,辛亥,赦天下,改元。8.六月、辛亥、天下に恩赦を下し、改元した。
9初,西突厥十姓可汗阿史那都支及其別帥李遮匐與吐蕃連和,侵逼安西,朝議欲發兵討之。吏部侍郎裴行儉曰:「吐蕃爲寇,審禮覆沒,干戈未息,豈可復出師西方!今波斯王卒,其子泥洹師爲質在京師,宜遣使者送歸國,道過二虜,以便宜取之,可不血刃而擒也。」上從之,命行儉册立波斯王,仍爲安撫大食使。行儉奏肅州刺史王方翼以爲己副,仍令檢校安西都護。9.かつて、西突厥の十姓可汗阿史那都支とその別帥李遮匐が吐蕃と連合して、安西を侵し迫ったので、朝議は出兵してこれを討伐しようとした。すると、吏部侍郎裴行倹が言った。
10秋,七月,己卯朔,詔以今年冬至有事于嵩山。10.秋、七月、己卯朔、今年の冬に嵩山にて封禅をすると詔した。
11初,裴行儉嘗爲西州長史,及奉使過西州,吏人郊迎,行儉悉召其豪傑子弟千餘人自隨,且揚言天時方熱,未可渉遠,須稍涼乃西上。阿史那都支覘知之,遂不設備。行儉徐召四鎭諸胡酋長謂曰:「昔在西州,縱獵甚樂,今欲尋舊賞,誰能從吾獵者?」諸胡子弟爭請從行,近得萬人。行儉陽爲畋獵,校勒部伍,數日,遂倍道西進。去都支部落十餘里,先遣都支所親問其安否,外示閒暇,似非討襲,續使促召相見。都支先與李遮匐約,秋中拒漢使,猝聞軍至,計無所出,帥其子弟迎謁,遂擒之。因傳其契箭,悉召諸部酋長,執送碎葉城。簡其精騎,輕齎,晝夜進掩遮匐,途中,獲都支還使與遮匐使者同來;行儉釋遮匐使者,使先往諭遮匐以都支已就擒,遮匐亦降。於是囚都支、遮匐以歸,遣波斯王自還其國,留王方翼於安西,使築碎葉城。11.かつて裴行倹は、西州長史となったことがあった。今回、朝廷の使者として西州を通過すると、吏人は郊外で出迎えた。行倹はその豪傑の子弟千余人を悉く召して自分に随従させ、宣伝した。
12冬,十月,單于大都護府突厥阿史德温傅、奉職二部倶反,立阿史那泥熟匐爲可汗,二十四州酋長皆叛應之,衆數十萬。遣鴻臚卿單于大都護府長史蕭嗣業、右領軍衞將軍花大智、右千牛衞將軍李景嘉等將兵討之。嗣業等先戰屢捷,因不設備;會大雪,突厥夜襲其營,嗣業狼狽拔營走,衆遂大亂,爲虜所敗,死者不可勝數。大智、景嘉引歩兵且行且戰,得入單于都護府。嗣業減死,流桂州,大智、景嘉並免官。12.冬、十月、単于大都護府突厥阿史徳温伝と奉職の二部が共に造反した。阿史那泥熟匐を可汗に立て、二十四州の酋長が皆、これに呼応して造反した。その数は数十万。
突厥寇定州,刺史霍王元軌命開門偃旗,虜疑有伏,懼而宵遁。州人李嘉運與虜通謀,事洩,上令元軌窮其黨與,元軌曰:「強寇在境,人心不安。若多所逮繋,是驅之使叛也。」乃獨殺嘉運,餘無所問,因自劾違制。上覽表大喜,謂使者曰:「朕亦悔之,向無王,失定州矣。」自是朝廷有大事,上多密敕問之。
13壬子,遣左金吾衞將軍曹懷舜屯井陘。右武衞將軍崔獻屯龍門,以備突厥。突厥扇誘奚、契丹侵掠營州,都督周道務遣戸曹始平唐休璟將兵撃破之。13.壬子、左金吾衛将軍曹懐舜を井陘に、右武衛将軍崔献を龍門に屯営させ、突厥へ備えた。
14庚申,詔以突厥背誕,罷封嵩山。14.庚申、突厥が背いたので、祟山の封禅を中止すると詔した。
15癸亥,吐蕃文成公主遣其大臣論塞調傍來告喪,并請和親,上遣郎將宋令文詣吐蕃會贊普之葬。15.癸亥、吐蕃の文成公主が、その大臣論塞調傍を派遣して喪を告げ、併せて和親を請うた。上は郎将宋令文を吐蕃へ派遣して、賛普の葬儀へ参列させた。
16十一月,戊寅朔,以太子左庶子、同中書門下三品高智周爲御史大夫,罷知政事。16.十一月、戊寅朔、太子左庶子、同中書門下三品の高智周を御史大夫として、知政事を辞めさせた。
17癸未,上宴裴行儉,謂之曰:「卿有文武兼資,今授卿二職。」乃除禮部尚書兼檢校右衞大將軍。甲辰,以行儉爲定襄道行軍大總管,將兵十八萬,并西軍檢校豐州都督程務挺、東軍幽州都督李文暕總三十餘萬以討突厥,並受行檢節度。務挺,名振之子也。17.癸未、上は裴行倹と宴会を開き、彼に言った。
永隆元年(庚辰、六八〇)1.春、二月、癸丑、上が汝州の温泉に御幸した。
1春,二月,癸丑,上幸汝州之温湯;戊午,幸嵩山處士三原田遊巖所居;己未,幸道士宗城潘師正所居,上及天后、太子皆拜之。乙丑,還東都。
2三月,裴行儉大破突厥於黑山,擒其酋長奉職,可汗泥熟匐爲其下所殺,以其首來降。2.三月、裴行倹が黒山にて突厥を大いに破り、その酋長奉職を捕らえた。可汗泥熟匐は部下に殺され、彼らはその首を持って降伏してきた。その経緯は、以下の通り。
初,行儉行至朔川,謂其下曰:用兵之道,撫士貴誠,制敵貴詐。前日蕭嗣業糧運爲突厥所掠,士卒凍餒,故敗。今突厥必復爲此謀,宜有以詐之。」乃詐爲糧車三百乘,毎車伏壯士五人,各持陌刀、勁弩,以羸兵數百爲之援,且伏精兵於險要以待之;虜果至,羸兵棄車散走。虜驅車就水草,解鞍牧馬,欲取糧,壯士自車中躍出,撃之,虜驚走,復爲伏兵所邀,殺獲殆盡,自是糧運行者,虜莫敢近。
軍至單于府北,抵暮,下營,掘塹已周,行儉遽命移就高岡;諸將皆言士卒已安堵,不可復動,行儉不從,趣使移。是夜,風雨暴至,前所營地,水深丈餘。諸將驚服,問其故,行儉笑曰:「自今但從我命,不必問其所由知也。」
奉職既就擒,餘黨走保狼山。詔戸部尚書崔知悌馳傳詣定襄宣慰將士,且區處餘寇,行儉引軍還。
3夏,四月,乙丑,上幸紫桂宮。3.夏、四月、乙丑、上が紫桂宮に御幸した。
4戊辰,黄門侍郎聞喜裴炎、崔知温、中書侍郎京兆王德眞並同中書門下三品。知温,知悌之弟也。4.戊辰、黄門侍郎の聞喜の裴炎、崔知温、中書侍郎の京兆の王徳真を同中書門下三品とした。崔知温は、崔知悌の弟である。
5秋,七月,吐蕃寇河源,左武衞將軍黑齒常之撃卻之。擢常之爲河源軍經略大使。常之以河源衝要,欲加兵戍之,而轉輸險遠,乃廣置烽戍七十餘所,開屯田五千餘頃,歳收五百餘萬石,由是戰守有備焉。5.秋、七月、吐蕃が河源に来寇した。左武衛将軍黒歯常之がこれを撃退した。常之を河源経略大使に抜擢した。
先是,劍南募兵於茂州西南築安戎城,以斷吐蕃通蠻之路。吐蕃以生羌爲郷導,攻陷其城,以兵據之,由是西洱諸蠻皆降於吐蕃。吐蕃盡據羊同、黨項及諸羌之地,東接涼、松、茂、雟等州;南鄰天竺,西陷龜茲、疏勒等四鎭,北抵突厥,地方萬餘里,諸胡之盛,莫與爲比。
6丙申,鄭州刺史江王元祥薨。6.丙申、鄭州刺史江王元祥が薨去した。
7突厥餘衆圍雲州,代州都督竇懷悊、右領軍中郎將程務挺將兵撃破之。7.突厥の残党が雲州を包囲した。代州都督竇懐悊と右領軍中郎将程務挺が兵を率いてこれを撃破した。
8八月,丁未,上還東都。8.八月、丁未、上が東都に帰還した。
9中書令、檢校鄯州都督李敬玄,軍既敗,屢稱疾請還;上許之。既至,無疾,詣中書視事;上怒,丁巳,貶衡州刺史。9.中書令、検校鄯州都督李敬玄は、敗戦以来、しばしば病気と言い立てて帰京を請願した。上は、これを許した。だが、到着してみると病気ではなく、中書に出仕して政務を執った。上は怒り、丁巳、衡州刺史に左遷した。
10太子賢聞宮中竊議,以賢爲天后姊韓國夫人所生,内自疑懼。明崇儼以厭勝之術爲天后所信,嘗密稱「太子不堪承繼,英王貌類太宗」。又言「相王相最貴」。天后嘗命北門學士撰少陽正範及孝子傳以賜太子,又數作書誚讓之,太子愈不自安。10.宮中で、太子の賢は天后の姉の韓国夫人の子供だと言い立てられていたが、太子はこれを盗み聞きして、内心疑い懼れるようになった。
及崇儼死,賊不得,天后疑太子所爲。太子頗好聲色,與戸奴趙道生等狎昵,多賜之金帛。司議郎韋承慶上書諫,不聽。天后使人告其事。詔薛元超、裴炎與御史大夫高智周等雜鞫之,於東宮馬坊搜得皀甲數百領,以爲反具;道生又款稱太子使道生殺崇儼。上素愛太子,遲回欲宥之,天后曰:「爲人子懷逆謀,天地所不容;大義滅親,何可赦也!」甲子,廢太子賢爲庶人,遣右監門中郎將令狐智通等送賢詣京師,幽於別所,黨與皆伏誅,仍焚其甲於天津橋南以示士民。承慶,思謙之子也。
乙丑,立左衞大將軍、雍州牧英王哲爲皇太子,改元,赦天下。
太子洗馬劉訥言常撰俳諧集以獻賢,賢敗,搜得之,上怒曰:「以六經教人,猶恐不化,乃進俳諧鄙説,豈輔導之義邪!」流訥言於振州。左衞將軍高眞行之子政爲太子典膳丞,事與賢連,上以付其父,使自訓責。政入門,眞行以佩刀刺其喉,眞行兄戸部侍郎審行又刺其腹,眞行兄子琁斷其首,棄之道中。上聞之,不悅,貶眞行爲睦州刺史,審行爲渝州刺史。眞行,士廉之子也。
左庶子、同中書門下三品張大安坐阿附太子,左遷普州刺史,其餘宮僚,上皆釋其罪,使復位,左庶子薛元超等皆舞蹈拜恩;右庶子李義琰獨引咎涕泣,時論美之。
11九月,甲申,以中書侍郎、同中書門下三品王德眞爲相王府長史,罷政事。11.九月、甲申、中書侍郎、同中書門下三品王徳真が相王府長史となって朝政から引退した。
12冬,十月,壬寅,蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蔣王煒,皆坐故太子賢之黨,明降封零陵郡王,黔州安置;煒除名,道州安置。12.冬、十月、壬寅、蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蒋王煒が、共にもとの太子の仲間として有罪になり、明は零陵郡王へ降封されて黔州へ流され、煒は除名されて道州へ流された。
13丙午,文成公主薨于吐蕃。13.丙午、文成公主が吐蕃にて薨去した。
14己酉,車駕西還。14.己酉、車駕が西に帰還した。
15十一月,壬申朔,日有食之。15.十一月、壬申朔、日食が起こった。
開耀元年(辛巳、六八一)1.春、正月、突厥が原、慶などの州に来寇した。
1春,正月,突厥寇原、慶等州。乙亥,遣右衞將軍李知十等屯涇、慶二州以備突厥。
2庚辰,以初立太子,敕宴百官及命婦於宣政殿,引九部伎及散樂自宣政門入。太常博士袁利貞上疏,以爲:「正寢非命婦宴會之地,路門非倡優進御之所,請命婦會於別殿,九部伎自東西門入,其散樂伏望停省。」上乃更命置宴於麟德殿;宴日,賜利貞帛百段。利貞,昂之曾孫也。2.庚辰、太子が立ったばかりなので、宣政殿にて百官及び命婦と宴会を開くと敕した。九部の伎と散楽は宣政門から入る。
利貞族孫誼爲蘇州刺史,自以其先自宋太尉淑以來,盡忠帝室,謂琅邪王氏雖奕世台鼎,而爲歴代佐命,恥與爲比,嘗曰:「所貴於名家者,爲其世篤忠貞,才行相繼故也。彼鬻婚姻求祿利者,又烏足貴乎!」時人是其言。
3裴行儉軍既還,突厥阿史那伏念復自立爲可汗,與阿史德温傅連兵爲寇。癸巳,以行儉爲定襄道大總管,以右武衞將軍曹懷舜、幽州都督李文暕爲副,將兵討之。3.裴行倹の軍が帰国すると、突厥の阿史那伏念は再び自立して可汗となり、阿史徳温伝と連合して来寇した。
4二月,天后表請赦杞王上金、鄱陽王素節之罪;以上金爲沔州刺史,素節爲岳州刺史,仍不聽朝集。4.二月、天后が表にて杞王上金と鄱陽王素節の罪を赦すよう請うた。上金を沔州刺史、素節を岳州刺史とし、共に朝廷へ来ることを許さなかった。
5三月,辛卯,以劉仁軌兼太子少傅,餘如故。以侍中郝處俊爲太子少保,罷政事。5.三月、辛卯、劉仁軌に、現状の官職に加えて太子少傅を兼任させた。侍中の郝處俊を太子太保とし、政事から引退させた。
少府監裴匪舒,善營利,奏賣苑中馬糞,歳得錢二十萬緡。上以問劉仁軌,對曰:「利則厚矣,恐後代稱唐家賣馬糞,非嘉名也。」乃止。匪舒又爲上造鏡殿,成,上與仁軌觀之,仁軌驚趨下殿。上問其故,對曰:「天無二日,土無二王,適視四壁有數天子,不祥孰甚焉!」上遽令剔去。
6曹懷舜與裨將竇義昭將前軍撃突厥。或告「阿史那伏念與阿史德温傅在黑沙,左右纔二十騎以下,可徑往取也。」懷舜等信之,留老弱於瓠蘆泊,帥輕鋭倍道進,至黑沙,無所見,人馬疲頓,乃引兵還。6.曹懐舜と裨将竇義昭が前軍を率いて突厥を攻撃した。
會薛延陀部落欲西詣伏念,遇懷舜軍,因請降。懷舜等引兵徐還,至長城北,遇温傅,小戰,各引去。至橫水,遇伏念,懷舜、義昭與李文暕及裨將劉敬同四軍合爲方陳,且戰且行;經一日,伏念乘便風撃之,軍中擾亂,懷舜等棄軍走,軍遂大敗,死者不可勝數。懷舜等收散卒,斂金帛以賂伏念,與之約和,殺牛爲盟。伏念北去,懷舜等乃得還。
夏,五月,丙戌,懷舜免死,流嶺南。
7己丑,河源道經略大使黑齒常之將兵撃吐蕃論贊婆於良非川,破之,收其糧畜而還。常之在軍七年,吐蕃深畏之,不敢犯邊。7.己丑、河源道経略大使黒歯常之が兵を率いて良非川にて吐蕃の論贊婆を討ち、これを破った。その兵糧や家畜を収めて帰還した。
8初,太原王妃之薨也,天后請以太平公主爲女官以追福。及吐蕃求和親,請尚太平公主,上乃爲之立太平觀,以公主爲觀主以拒之。至是,始選光祿卿汾陰薛曜之子紹尚焉。紹母,太宗女城陽公主也。8.太原王妃が卒した時、天后は太平公主を女官として冥福を祈らせたいと請うた。やがて吐蕃が和親を求めると、太平公主を娶らせようと請うた。上は彼女の為に太平観を建て、公主を観主として、これを拒んだ。
秋,七月,公主適薛氏,自興安門南至宣陽坊西。燎炬相屬,夾路槐木多死。紹兄顗以公主寵盛,深憂之,以問族祖戸部郎中克構,克構曰:「帝甥尚主,國家故事,苟以恭愼行之,亦何傷!然諺曰:『娶婦得公主,無事取官府。』不得不爲之懼也。」
天后以顗妻蕭氏及顗弟緒妻成氏非貴族,欲出之,曰:「我女豈可使與田舎女爲妯娌邪!」或曰:「蕭氏,瑀之姪孫,國家舊姻。」乃止。
9夏州羣牧使安元壽奏:「自調露元年九月以來,喪馬一十八萬餘匹,監牧吏卒爲虜所殺掠者八百餘人。」9.夏州群牧使安元寿が上奏した。
10薛延陀達渾等五州四萬餘帳來降。10.薛延陀の達渾ら五州四万余帳が来降した。
11甲午,左僕射兼太子少傅、同中書門下三品劉仁軌固請解僕射,許之。11.甲午、左僕射兼太子少傅、同中書門下三品劉仁軌が、僕射解任を固く請うたので、これを許した。
12閏七月,丁未,裴炎爲侍中,崔知温、薛元超並守中書令。12.閏七月、丁未、裴炎が侍中となり、崔知温、薛元超は共に中書令を留任させた。
13上徴田游巖爲太子洗馬,在東宮無所規益。右衞副率蔣儼以書責之曰:「足下負巣、由之俊節,傲唐、虞之聖主,聲出區宇,名流海内。主上屈萬乘之重,申三顧之榮,遇子以商山之客,待子以不臣之禮,將以輔導儲貳,漸染芝蘭耳。皇太子春秋鼎盛,聖道未周,僕以不才,猶參庭諍,足下受調護之寄,是可言之秋,唯唯而無一談,悠悠以卒年歳。向使不餐周粟,僕何敢言!祿及親矣,以何酬塞?想爲不達,謹書起予。」游巖竟不能答。13.上が田遊巖を太子洗馬としたが、東宮にて何一つ益することがなかった。右衛副率の蒋儼が、書状でこれを責めた。
14庚申,上以服餌,令太子監國。14.庚申、上は服餌を以て、太子に監国を命じた。
15裴行儉軍于代州之陘口,多縱反間,由是阿史那伏念與阿史德温傅浸相猜貳。伏念留妻子輜重於金牙山,以輕騎襲曹懷舜。行儉遣裨將何迦密自通漠道,程務挺自石地道掩取之。伏念與曹懷舜等約和而還,比至金牙山,失其妻子輜重,士卒多疾疫,乃引兵北走細沙,行儉又使副總管劉敬同、程務挺等將單于府兵追躡之。伏念請執温傅以自效,然尚猶豫,又自恃道遠,唐兵必不能至,不復設備。敬同等軍到,伏念狼狽,不能整其衆,遂執温傅,從間道詣行儉降。候騎告以塵埃漲天而至,將士皆震恐。行儉曰:「此乃伏念執温傅來降,非他盜也。然受降如受敵,不可無備。」乃命嚴備,遣單使迎前勞之。少選,伏念果帥酋長縛温傅詣軍門請罪。行儉盡平突厥餘黨,以伏念、温傅歸京師。15.裴行倹は代州の陘口に陣を布き、反間工作に精を出した。これによって、阿史那伏念と阿史徳温伝は互いに猜疑し合うようになった。
16冬,十月,丙寅朔,日有食之。16.冬、十月、丙寅朔、日食が起こった。
17壬戌,裴行儉等獻定襄之俘。乙丑,改元。丙寅,斬阿史那伏念、阿史德温傅等五十四人於都市。17.壬戌、裴行倹らが定襄の捕虜を献上した。
初,行儉許伏念以不死,故降。裴炎疾行儉之功,奏言:「伏念爲副將張虔勗、程務挺所逼,又回紇等自磧北南向逼之,窮窘而降耳。」遂誅之。行儉歎曰:「渾、浚爭功,古今所恥。但恐殺降,無復來者。」因稱疾不出。
18丁亥,新羅王法敏卒,遣使立其子政明。18.丁亥、新羅王法敏が卒した。使者を派遣して、その子息の政明を立てさせた。
19十一月,癸卯,徙故太子賢於巴州。
19.十一月、癸卯、もとの太子賢を巴州に移した。
翻訳者: 渡邊 省