巻第二百三

資治通鑑巻第二百三
 唐紀十九
  高宗天皇大聖大弘孝皇帝下
永淳元年(壬午、六八二)

 春,二月,作萬泉宮於藍田。
1.春、二月、藍田に万泉宮を造った。
 癸未,改元,赦天下。
2.癸未、改元して天下に恩赦を下した。
 戊午,立皇孫重照爲皇太孫。上欲令開府置僚屬,問吏部郎中王方慶,對曰:「晉及齊皆嘗立太孫,其太子官屬即爲太孫官屬,未聞太子在東宮而更立太孫者也。」上曰:「自我作古,可乎?」對曰:「三王不相襲禮,何爲不可!」乃奏置師傅等官。既而上疑其非法,竟不補授。方慶,裒之曾孫也,名綝,以字行。
3.戊午、皇孫重照を皇太孫に立てた。
 上は、皇太孫府を開いて官属を置かせたかった。そこで、その件について吏部郎中王方慶へ問うと、方慶は答えた。
「晋と斉で、かつて太孫を立てたことがあります。この場合、太子が官属を持つように、太孫も官属を持ちました。しかし、東宮に太子が居るのに、太孫を別に立てるとゆうのは、聞いたことがありません。」
 上は言った。
「我が故事を作るのだ。だめかな?」
「三王は、互いに礼を踏襲しませんでした。なんでいけないことがありましょうか!」
 そして、師傅などの官を設置するよう上奏した。だが、上はこれが法ではないことを疑い、遂に授けなかった。
 方慶は裒の曾孫である。名は綝だが、字でもって呼ぶ。
 西突厥阿史那車簿帥十姓反。
4.西突厥の阿史那車薄が十姓を率いて造反した。
 夏,四月,甲子朔,日有食之。
5.夏、四月甲子朔、日食が起こった。
 上以關中饑饉,米斗三百,將幸東都;丙寅,發京師,留太子監國,使劉仁軌、裴炎、薛元超輔之。時出幸倉猝,扈從之士有餓死於中道者。上慮道路多草竊,使監察御史魏元忠檢校車駕前後。元忠受詔,即閲視赤縣獄,得盜一人,神采語言異於衆;命釋桎梏,襲冠帶,乘驛以從,與之共食宿,託以詰盜,其人笑許諾。比及東都,士馬萬數,不亡一錢。
6.関中が飢饉で、米が一斗で三百銭もしたので、上は東都へ御幸することにした。
 丙寅、京師を出発する。太子は都に留めて監国とし、劉仁軌、裴炎、薛元超に補佐させた。
 この時、突然の出発だったので、随従の士卒が途中で餓死するほどだった。上は、街道に盗賊が多いことを考慮し、監察御史魏元忠へ車駕の前後を監督させた。元忠は詔を受けると、赤県の牢獄を見回り、一人の盗賊を見つけた。彼は、風采も言葉も、他の者より群を抜いて立派だった。元忠は彼の手枷足枷を取り払い、冠帯をつけさせ、車に乗せて天子に随従させた。そして彼と共に起居して食事も共に摂り、盗賊達を寄りつかせないよう頼んだ。その男は、笑って許諾した。
 一行は一万の士馬だったが、東都へ到着するまで一銭も失わなかった。
 辛未,以禮部尚書聞喜憲公裴行儉爲金牙道行軍大總管,帥右金吾將軍閻懷旦等三總管分道討西突厥。師未行,行儉薨。
  行儉有知人之鑒,初爲吏部侍郎,前進士王勮、咸陽尉欒城蘇味道皆未知名。行儉一見謂之曰:「二君後當相次掌銓衡,僕有弱息,願以爲託。」是時勮弟勃與華陰楊烱、范陽盧照鄰、義烏駱賓王皆以文章有盛名,司列少常伯李敬玄尤重之,以爲必顯達。行儉曰:「士之致遠者,當先器識而後才藝。勃等雖有文華,而浮躁淺露,豈享爵祿之器邪!楊子稍沈靜,應至令長;餘得令終幸矣。」既而勃度海墮水,烱終於盈川令,照鄰惡疾不愈,赴水死,賓王反誅,勮、味道皆典選,如行儉言。行儉爲將帥,所引偏裨如程務挺、張虔勗、王方翼、劉敬同、李多祚、黑齒常之,後多爲名將。
  行儉常命左右取犀角、麝香而失之。又敕賜馬及鞍,令史輒馳驟,馬倒,鞍破。二人皆逃去,行儉使人召還,謂曰:「爾曹皆誤耳,何相輕之甚邪!」待之如故。破阿史那都支,得馬腦盤,廣二尺餘,以示將士,軍吏王休烈捧盤升階,跌而碎之,惶恐,叩頭流血。行儉笑曰:「爾非故爲,何至於是!」不復有追惜之色。詔賜都支等資産金器三千餘物,雜畜稱是,並分給親故及偏裨,數日而盡。
7.辛未。礼部尚書聞喜憲公裴行倹が金牙道行軍大総管となり、右金吾将軍閻懐旦等三総管を率いて、数道から西突厥を討伐した。だが、軍が到着する前に、行倹は卒した。
 行倹には人を見抜く目があった。前進士王勮と咸陽尉の欒城の蘇味道は、どちらも名を知られていなかったが、行倹は彼等を一目見て言った。
「二君はいずれ、相継いで要職に就く。僕にはまだ幼い息子が居るので、後事を託したいものだ。」
 この時、勮の弟の勃と華陰の楊烱、范陽の盧照隣、義烏の駱賓王等は、皆、文章が巧いことで有名だった。司列少常伯の李敬玄は彼等を最も重んじて、必ず顕達すると言っていたが、行倹は言った。
「士の顕達は、器量見識が第一。才芸は二の次だ。勃等には文華はあるが、性格は浮薄。なんで爵禄を受けるような器か!楊子は沈着冷静だから令長になれるだろうが、他の者は令になれたら幸いだ。」
 後、勃は海を渡って水に落ち、烱は盈川令で終わり、照隣は悪い病気が治らずに入水自殺し、賓王は造反して誅殺された。勮と味道は、行倹の言葉通り、典選となった。
 行倹が将となった時の副将は、程務挺、張虔助、王方翼、劉敬同、李多祚、黒歯常之のように、後に名将となった。
 行倹はいつも左右に犀角や麝香を取るよう命じたが、すぐになくしてしまう。また、敕で馬と鞍を賜った時、令史が駆け込んできて、馬を倒し、鞍を破った事があった。令史達は二人とも逃げ去ったが、行倹は人を派遣して呼び戻し、言った。
「お前達のは単なる過失ではないか。なんで軽はずみに逃げ出したのか。」
 そして、従来通り使った。
 阿史那都支を撃破すると、瑪瑙の盤を入手した。その広さは二尺余。これを将士へ見せようとしたが、軍吏の王休烈が盤を捧げて階段を昇る時に、躓いて砕いてしまった。休烈は恐惶し、流血するまで叩頭した。すると、行倹は笑って言った。
「故意じゃないのに、なんでそこまでするのか!」
 惜しそうな顔色もなかった。
 都支等の資産の金器三千余や雑畜は全て親故や副将達へ賜下すると詔があると、数日ですっかり分配してしまった。
 阿史那車薄圍弓月城,安西都護王方翼引軍救之,破虜衆於伊麗水,斬首千餘級。俄而三姓咽麪與車薄合兵拒方翼,方翼與戰於熱海,流矢貫方翼臂,方翼以佩刀截之,左右不知。所將胡兵謀執方翼以應車薄,方翼知之,悉召會議,陽出軍資賜之,以次引出斬之,會大風,方翼振金鼓以亂其聲,誅七十餘人,其徒莫之覺。既而分遣裨將襲車薄、咽麪,大破之,擒其酋長三百人,西突厥遂平。閻懷旦等竟不行。方翼尋遷夏州都督,徴入,議邊事。上見方翼衣有血漬,問之,方翼具對熱海苦戰之状,上視瘡歎息;竟以廢后近屬,不得用而歸。
8.阿史那車薄が弓月城を包囲した。安西都護王方翼が軍を率いて救援に駆けつけ、伊麗水にて虜を撃破し、千余の首級を挙げる。
 俄に三姓の咽麪と車薄が連合して方翼を拒んだ。方翼はこれと熱海で戦った。戦いの最中、流れ矢が方翼の臂を貫いた。だが、方翼は佩刀でその矢を切断したので、左右は気がつかなかった。
 麾下の胡兵が、方翼を捕らえて車薄へ内応しようと謀ったが、方翼はこれを知ったので、彼等を全員召し出して会議を開いた。軍資を分け与えると言って呼び集めたのだが、皆が集まると全員処刑した。丁度大風の日で、方翼は金鼓を盛大に討ち鳴らさせて、彼等の悲鳴を誤魔化した。七十余人を誅殺したが、その部下達は誰も気がつかなかった。
 胡兵を処刑すると、裨将を分遣して車薄、咽麪を襲撃した。大いに破ってその酋長三百人を捕らえる。
 西突厥は、遂に平定した。結局、閻懐旦は出陣しなかった。
 方翼は夏州都督へ出世し、朝廷から呼び出されて辺事を議論した。この時、上は方翼の衣に血がこびりついていたので、そのいわれを尋ねた。すると方翼は熱海での苦戦の有様をつぶさに語った。上は、傷跡を見て嘆息した。だが、彼は廃立された王后の一族だったので、遂に夏州へ帰れなかった。
 乙酉,車駕至東都。
9.乙酉、車駕が東都へ到着した。
 10丁亥,以黄門侍郎穎川郭待舉、兵部侍郎岑長倩、秘書員外少監・檢校中書侍郎鼓城郭正一、吏部侍郎鼓城魏玄同並與中書門下同承受進止平章事。上欲用待舉等,謂韋知温曰:「待舉等資任尚淺,且令預聞政事,未可與卿等同名。」自是外司四品已下知政事者,始以平章事爲名。長倩,文本之兄子也。
  先是,玄同爲吏部侍郎,上言銓選之弊,以爲:「人君之體,當委任而責成功,所委者當,則所用者自精矣。故周穆王命伯冏爲太僕正,曰:『愼簡乃僚。』是使羣司各自求其小者,而天子命其大者也。乃至漢氏,得人皆自州縣補署,五府辟召,然後升於天朝,自魏、晉以來,始專委選部。夫以天下之大,士人之衆,而委之數人之手,用刀筆以量才,按簿書而察行,借使平如權衡,明如水鏡,猶力有所極,照有所窮,況所委非人而有愚闇阿私之弊乎!願略依周、漢之規以救魏、晉之失。」疏奏,不納。
10.丁亥、黄門侍郎の穎川の郭待挙、兵部侍郎岑長倩、秘書員外少監・検校中書侍郎の鼓城の郭正一、吏部侍郎の鼓城の魏玄同を皆、中書門下同承受進止平章事とした。
 上は待挙等を登庸したかったので、韋知温へ言った。
「待挙等は能力も経験も少ない。朝政に関与させたいが、卿等と同列には並べられない。」
 これ以来、外司四品以下で朝政に関与する者へ、始めて平章事とゆう名称を与えた。
 長倩は、文本の兄の子である。
 話は前後するが、玄同を吏部侍郎とした時、彼は人選の制度の弊害について上言した。
「委任したら成果を責めるのが、人君の礼です。委任した者が妥当だったら、登庸した者が有能だったと言えます。ですから周の穆王が伯冏を太僕正とした時、言いました。『慎重な態度で汝の属僚を選べ『書経』命冏』 これは、群司へ、各々その小者へ適宜な人材を選ばせようとしたのです。そして、天子の人選は、その一番大きなものです。のちに漢代なると、人材の登用は州県の補佐官や五府の盤領から始まって、その後に天朝へ昇らせました。そして、魏、晋になって、始めて選部へ任せるようになったのです。それ、天下は大きく士人は多い。これを数人の手に委ねて刀筆で才能を量り、簿書を基にして実績を察する。これでは天秤のように公平で水鏡のように明哲でも、人力に限界があります。ましてや委任した相手が人を得なければ、暗愚や派閥の弊害が起こりますぞ!どうか、周、漢の登庸法を手本にして、魏、晋の過失を補ってください。」
 疏は上奏されたが、受け入れられなかった。
 11五月,東都霖雨。乙卯,洛水溢,溺民居千餘家。關中先水後旱、蝗,繼以疾疫,米斗四百,兩京間死者相枕於路,人相食。
11.五月、東都に長雨が降った。
 乙卯、洛水が溢れて民の住居千余家が水浸しとなった。
 関中は、先は水害で後に旱害、蝗害と続き、更に疾疫が追い打ちをかけ、米が一斗で四百銭にもなった。両京の間には、死者が道を埋め、人々は人肉まで食べるようになった。
 12上既封泰山,欲遍封□□,秋,七月,作奉天宮於嵩山南。監察御史裏行李善感諫曰:「陛下封泰山,告太平,致羣瑞,與三皇、五帝比隆矣。數年以來,菽粟不稔,餓殍相望,四夷交侵,兵車歳駕;陛下宜恭默思道以禳災譴,乃更廣營宮室,勞役不休,天下莫不失望。臣忝備國家耳目,竊以此爲憂!」上雖不納,亦優容之。自褚遂良、韓瑗之死,中外以言爲諱,無敢逆意直諫,幾二十年;及善感始諫,天下皆喜,謂之「鳳鳴朝陽」。
12.上は泰山で封禅をすると、次には□□(「五嶽」)にても封禅をしたくなった。
 秋、七月。祟山南に奉天宮を作る。すると、監察御史裏行の李善感が諫めた。
「陛下は泰山で封禅を行い、天へ太平を告げ、数多の瑞祥がやって来ました。三皇五帝にも列ぶ盛徳です。ですが、数年来五穀は稔らず餓死者が相継ぎ、四夷は次々と侵略して来て戦争の絶え間もありません。このような時期ですから、陛下は恭黙にて道を思い、禍を払うべきですのに、更に宮室を造営されました。労役は止まず、天下の人々は失望しております。臣は忝なくも国家の耳目の職を頂いておりますので、これを憂わずにはいられません!」
 上は諫言を納めなかったけれども、彼を大切にした。
 褚遂良、韓瑗が死んで以来、中外は言葉を自主規制し、敢えて直諫する者はいなくなってから二十年が経った。善感が二十年ぶりに諫めたので、天下の人々は皆喜んで、これを「鳳凰が朝陽に鳴いた」と言った。
 13上遣宦者縁江徙異竹,欲植苑中。宦者科舟載竹,所在縱暴;過荊州,荊州長史蘇良嗣囚之,上疏切諫,以爲:「致遠方異物,煩擾道路,恐非聖人愛人之意。又,小人竊弄威福,虧損皇明。」上謂天后曰:「吾約束不嚴,果爲良嗣所怪。」手詔慰諭良嗣,令棄竹江中。良嗣,世長之子也。
13.上は宦官を江の沿岸へ派遣し、珍しい竹を漁らせた。苑中へ植える為である。宦官は竹を船に乗せて運んだが、その途中では横暴の限りを尽くした。荊州を行き過ぎる時、荊州長史蘇良嗣がこれを捕らえ、上疏して切に諫めた。その大意は、
「遠方の異物を運ばせて道路を騒がせるのは、聖人が人を愛するやり方ではありません。また、小人が虎の威を借りて専横に振る舞うのは、陛下の聡明を汚すものです。」
 上は天后へ言った。
「我が宦官へ厳重に言っておかなかったから、良嗣からこのように言われてしまった。」
 手詔で良嗣を慰め諭し、竹は江へ棄てさせた。
 良嗣は世長の子息である。
 14黔州都督謝祐希天后意,逼零陵王明令自殺,上深惜之,黔府官屬皆坐免官。祐後寢於平閣,與婢妾十餘人共處,夜,失其首。垂拱中,明子零陵王俊、黎國公傑爲天后所殺,有司籍其家,得祐首,漆爲穢器,題云謝祐,乃知明子使刺客取之也。
14.黔州都督謝祐が天后の意向に叶おうと、零陵王明へ迫って自殺させた。上はこれを深く惜しみ、黔府の官属を全員有罪として免官した。
 祐は後、婢や妾十余人と共に平閣に寝ていたが、夜、首を失った。
 垂拱年間、明の子の零陵王俊と黎国公傑が天后に殺されたが、役人がその邸宅を家捜しすると、祐の首を見つけた。それは、漆を塗って便器にされ、「謝祐」と名付けられていた。これによって、明の子息が刺客を雇って殺したことが判明した。
 15太子留守京師,頗事游畋,薛元超上疏規諫;上聞之,遣使者慰勞元超,仍召赴東都。
15.太子が京師の留守となったが、狩猟で遊んでばかりだったので、薛元超が上疏して諫めた。上はこれを聞くと、使者を派遣して元超を慰労し、併せて東都へ呼び寄せた。
 16吐蕃將論欽陵寇柘、松、翼等州。詔左驍衞郎將李孝逸、右衞郎將衞蒲山發秦、渭等州兵分道禦之。
16.吐蕃の将論欽陵が、柘、松、翼等の州へ来寇した。左驍衛郎将の李孝逸、右衛郎将の衛蒲山に秦、渭など州の兵を徴発させて道を分かってこれを防御するよう詔を下した。
 17冬,十月,丙寅,黄門侍郎劉景先同中書門下平章事。
17.冬、十月、丙寅、黄門侍郎劉景先を同中書門下平章事とした。
 18是歳,突厥餘黨阿史那骨篤祿、阿史德元珍等招集亡散,據黑沙城反,入寇并州及單于府之北境,殺嵐州刺史王德茂。右領軍衞將軍、檢校代州都督薛仁貴將兵撃元珍於雲州,虜問唐大將爲誰,應之曰:「薛仁貴。」虜曰:「吾聞仁貴流象州,死久矣,何以紿我!」仁貴免冑示之面,虜相顧失色,下馬列拜,稍稍引去。仁貴因奮撃,大破之,斬首萬餘級,捕虜二萬餘人。
18.この年、突厥の残党阿史那骨篤禄、阿史徳元珍等が亡散した民をかき集め、黒沙城を占拠して造反した。并州及び単于府の北境へ入寇し、嵐州刺史王徳茂を殺した。
 右領軍衛将軍、検校代州都督薛仁貴が、兵を率いて雲州にて元珍を攻撃した。
 虜が唐の大将軍が誰か問うたので、「薛仁貴」と答えると、虜は言った。
「仁貴は象州へ流されて、ずっと前に死んだと聞くぞ。何で我を騙すのか!」
 そこで仁軌が甲を取って顔を見せると、虜は相顧みて顔色を失い、下馬して列んで拝礼すると、スゴスゴと引き返した。仁貴はこれに乗じて奮撃し、敵を大いに破る。万余級の首を斬り、二万余を捕虜とした。
 19吐蕃入寇河源軍,軍使婁師德將兵撃之於白水澗,八戰八捷。上以師德爲比部員外郎、左驍衞郎將、河源軍經略副使,曰:「卿有文武材,勿辭也!」
19.吐蕃が河源軍へ入寇した。軍使の婁師徳が兵を率いて白水澗にてこれを迎撃した。八度戦って、八回勝った。
 上は、師徳を比部員外郎、左驍衛郎将、川源経略副使とし、言った。
「卿には文武の才覚がある。辞退するな!」
弘道元年(癸未、六八三)

 春,正月,甲午朔,上行幸奉天宮。
1.上が奉天宮へ御幸した。
 二月,庚午,突厥寇定州,刺史霍王元軌撃卻之。乙亥,復寇嬀州。三月,庚寅,阿史那骨篤祿、阿史德元珍圍單于都護府,執司馬張行師,殺之。遣勝州都督王本立、夏州都督李崇義將兵分道救之。
2.二月、庚午、突厥が定州へ来降した。刺史の霍王元軌がこれを撃退した。
 乙亥、再び嬀州へ来寇した。
 三月、庚寅、阿史那骨篤禄と阿史徳元珍が単于都護府を包囲した。司馬の張行師を捕らえて、これを殺した。勝州都督王本立、夏州都督李祟義へ兵を与え、二道から救援に向かわせた。
 太子右庶子、同中書門下三品李義琰改葬父母,使其舅氏遷舊墓;上聞之,怒曰:「義琰倚勢,乃陵其舅家,不可復知政事!」義琰聞之,不自安,以足疾乞骸骨。庚子,以義琰爲銀靑光祿大夫,致仕。
3.太子右庶子、同中書門下三品李義琰が父母を改葬し、その舅氏をもとの墓へ戻した。上はこれを聞いて怒った。
「義琰は権勢を楯にして、その舅家を凌駕したか!こんな男を知政事にはできないぞ!」
 義琰はこれを聞いて不安になり、自ら足の病を理由に隠居を願い出た。
 庚子、義琰を銀青光禄大夫として辞職させた。
 癸丑,守中書令崔知温薨。
4.癸丑、守中書令崔知温が卒した。
 夏,四月,己未,車駕還東都。
5.夏、四月、己未、車駕が東都へ還った。
 綏州歩落稽白鐵余,埋銅佛於地中,久之,草生其上,紿其郷人曰:「吾於此數見佛光。」擇日集衆掘地,果得之,因曰:「得見聖佛者,百疾皆愈。」遠近赴之。鐵余以雜色嚢盛之數十重,得厚施,乃去一嚢。數年間,歸信者衆,遂謀作亂。據城平縣,自稱光明聖皇帝,置百官,進攻綏德、大斌二縣,殺官吏,焚民居。遣右武衞將軍程務挺與夏州都督王方翼討之,甲申,攻拔其城,擒鐵余,餘黨悉平。
6.綏州の歩落稽の白鉄余が、銅仏を地中に埋めた。しばらくすると草がその上へ生い茂ったが、その時、同郷の者へ言った。
「我は、ここで度々仏光を見るのだ。」
 そして日を選んで人々を集め掘り返したが、果たして仏を得た。そこで、鐵余は言った。
「聖仏が見つかった。百疾は全て快癒するぞ。」
 これが噂になり、遠近から人々がやってきた。鉄余は雑色の袋でこれを数十にも覆い、たくさんの施しを貰うと、袋を一つ取り外した。
 数年の間に、大勢の信者が帰心したので、遂に謀反を起こした。城平県を占拠し、光明聖皇帝と自称して百官を設置した。次いで綏徳・大斌の二州へ進攻して官吏を殺し、民の住居を焼き払った。
 右武衛将軍程務挺と夏州都督王方翼を派遣して、これを討伐した。
 甲申、その城を攻め抜き、鉄余を捕らえて、余党も悉く平定した。
 五月,庚寅,上幸芳桂宮,至合璧宮,遇大雨而還。
7.五月、庚寅、上が芳桂宮へ御幸した。だが、合璧宮へ到着すると大雨に遭ったので、還った。
 乙巳,突厥阿史那骨篤祿等寇蔚州,殺刺史李思儉,豐州都督崔智辯將兵邀之於朝那山北,兵敗,爲虜所擒。朝議欲廢豐州,遷其百姓於靈、夏。豐州司馬唐休璟上言,以爲:「豐州阻河爲固,居賊衝要,自秦、漢已來,列爲郡縣,土宜耕牧。隋季喪亂,遷百姓於寧、慶二州,致胡虜深侵,以靈、夏爲邊境。貞觀之末,募人實之,西北始安。今廢之則河濱之地復爲賊有,靈、夏等州人不安業,非國家之利也!」乃止。
8.乙巳、突厥の阿史那骨篤禄等が蔚州へ来寇し、刺史の李思倹を殺した。豊州都督崔智弁が兵を率いて朝那山にてこれと戦ったが敗れ、虜に捕らえられた。
 朝廷の議会では、豊州を廃してその住民は霊、夏へ移住させようとした。すると豊州司馬唐休璟が上言した。その大意は、
「豊州は河を阻んで固めとしていますので、賊が居座れば要衝となります。ここは秦・漢以来、わが国の郡県となっていた土地で、その地質は農耕牧畜に適しています。隋末の騒乱で、百姓を寧・慶へ移住させたので、胡虜が深く侵略してきて、霊・夏が辺境となったのです。貞観の末、人を募ってここへ移住させ、西北はようやく落ち着きました。今、これを廃止すれば、河濱の地は再び賊の領土となり、霊・夏等の州の住民は生業に専念できなくなります。これは国家の利益ではありません!」
 そこで、中止した。
 六月,突厥別部寇掠嵐州,偏將楊玄基撃走之。
9.六月、突厥の別部が嵐州を寇掠したが、偏将の楊玄基がこれを撃退した。
 10秋,七月,己丑,立皇孫重福爲唐昌王。
10.秋、七月、己丑、皇孫の重福を唐昌王に立てた。
 11庚辰,詔以今年十月有事於嵩山;尋以上不豫,改用來年正月。
11.庚辰、今年十月に祟山にて封禅を行うと詔したが、次いで上の病気で来年正月まで延期となった。
 12甲辰,徙相王輪爲豫王,更名旦。
12.甲辰、相王輪を豫王へ移し、旦と改名させた。
 13中書令兼太子左庶子薛元超病瘖,乞骸骨;許之。
13.中書令兼太子左庶子薛元超が病気で口がきけなくなり、退職を願い出た。これを許した。
 14八月,己丑,以將封嵩山,召太子赴東都;留唐昌王重福守京師,以劉仁軌爲之副。冬,十月,己卯,太子至東都。
14.八月、己丑、祟山にて封禅する為に、太子を東都へ呼び寄せた。唐昌王重福を留めて京師を守らせ、劉仁軌をその副官とする。
 冬、十月己卯、太子が東都へ到着した。
 15癸亥,車駕幸奉天宮。
15.癸亥、車駕が奉天宮へ御幸した。
 16十一月,丙戌,詔罷來年封嵩山,上疾甚故也。上苦頭重,不能視,召侍醫秦鳴鶴診之,鳴鶴請刺頭出血,可愈。天后在簾中,不欲上疾愈,怒曰:「此可斬也,乃欲於天子頭刺血!」鳴鶴叩頭請命。上曰:「但刺之,未必不佳。」乃刺百會、腦戸二穴。上曰:「吾目似明矣。」后舉手加額曰:「天賜也!」自負綵百匹以賜鳴鶴。
16.十一月、丙戌、来年の祟山での封禅を中止すると詔した。上の病気が重篤になった為である。上は頭重に苦しみ、ものを見ることもできない。侍医の秦鳴鶴を召し出してこれを診療させると、鳴鶴は、頭へ針を刺して血を出せば治癒すると言った。ところが、御簾の内に天后が居り、彼女は上に平癒してほしくなかったので、怒って言った。
「この男を斬れ!天子の頭へ針を刺して血を流させようとした!」
 鳴鶴は叩頭して治療の実行を請うた。上は言った。
「とにかく刺してみよ。快癒しなくても構わないから。」
 そこで鳴鶴は、百会と脳戸(共にツボの名)の二ヶ所へ穴を開けた。
 上は言った。
「吾の目が見えるようになった。」
 后は手を挙げて額へ当て、言った。
「天の賜です!」
 そして自ら綏百匹を背負って鳴鶴へ賜った。
 17戊戌,以右武衞將軍程務挺爲單于道安撫大使,招討阿史那骨篤祿等。
17.戊戌、右武衛将軍程務挺を単于道安撫大使として、阿史那骨篤禄等を招討させた。
 18詔太子監國,以裴炎、劉景先、郭正一同東宮平章事。
18.太子を監国とし、裴炎、劉景先、郭正一を同東宮平章事とすると詔を下した。
 19上自奉天宮疾甚,宰相皆不得見。丁未,還東都,百官見於天津橋南。
19.上は奉天宮で重症となり、宰相でさえ面会できなかった。丁未、東都へ還り、天津橋南にて百官と謁見する。
 20十二月,丁巳,改元,赦天下。上欲御則天門樓宣赦,氣逆不能乘馬,乃召百姓入殿前宣之。是夜,召裴炎入,受遺詔輔政,上崩於貞觀殿。遺詔太子柩前即位,軍國大事有不決者,兼取天后進止。廢萬泉、芳桂、奉天等宮。
  庚申,裴炎奏太子未即位,未應宣敕,有要速處分,望宣天后令於中書、門下施行。甲子,中宗即位,尊天后爲皇太后,政事咸取決焉。太后以澤州刺史韓王元嘉等,地尊望重,恐其爲變,並加三公等官以慰其心。
20.十二月、丁巳、改元して天下へ恩赦を下す。上は則天門の楼にて改元と恩赦を宣言したがったが、病気が酷くて乗馬もできない。そこで百姓を召し入れて殿前にて宣した。
 この夜、裴炎を召し入れ、輔政とする旨の遺詔を授けた。
 上は貞観殿で崩御した。太子は柩の前で即位し、まだ決定していない軍国の大事は天后と共に決定するよう遺詔する。また、萬泉・芳桂・奉天等の宮殿を廃止する。
 庚申、裴炎は、まだ太子が即位していないので敕を宣せず、天后の令を宣して中書、門下にて施行させた。
 甲子、中宗が即位する。天后を尊んで皇太后とし、政事は全て皇太后の裁決を仰ぐ。澤州刺史韓王元嘉は重要な土地におり人望もあるので、太后は彼が変事を起こすことを懼れ、三公等の官を加えて、その心を慰めた。
 21甲戌,以劉仁軌爲左僕射,裴炎爲中書令;戊寅,以劉景先爲侍中。
  故事,宰相於門下省議事,謂之政事堂,故長孫無忌爲司空,房玄齡爲僕射,魏徴爲太子太師,皆知門下省事。及裴炎遷中書令,始遷政事堂於中書省。
21.甲戌、劉仁軌を左僕射、裴炎を中書令とする。戊寅、劉景先を侍中とする。
 故事では、宰相は門下省にて事を議論した。だからこれを政事堂と言っていたし、長孫無忌が司空となり、房玄齢が僕射となり、魏徴が太子太師となったが、皆、知門下省事だった。裴炎が中書令に遷るに及んで、始めて政事堂も中書省へ遷った。
 22壬午,遣左威衞將軍王果、左監門將軍令狐智通、右金吾將軍楊玄儉、右千牛將軍郭齊宗分往并、益、荊、揚四大都督府,與府司相知鎭守。
22.壬午、左威衛将軍王果、左監門将軍令狐智通、左金吾将軍楊玄倹、右千牛将軍郭斉宗を并・益・荊・揚州の四大都督府へ派遣し、府司と共に鎮守させた。
 23中書侍郎同平章事郭正一爲國子祭酒,罷政事。
23.中書侍郎同平章事郭正一を国子祭酒として、政事を辞めさせた。

  則天順聖皇后上之上
光宅元年(甲申、六八四)

 春,正月,甲申朔,改元嗣聖,赦天下。
1.春、正月、甲申朔、嗣聖と改元し、天下へ恩赦を下した。
 立太子妃韋氏爲皇后;擢后父玄貞自普州參軍爲豫州刺史。
2.太子妃の韋氏を皇后に立てた。后父の玄貞を普州参軍から豫州刺史へ抜擢した。
 癸巳,以左散騎常侍杜陵韋弘敏爲太府卿、同中書門下三品。
3.癸巳、左散騎常侍の杜陵の韋弘嗣を太府卿、同中書門下三品とした。
 中宗欲以韋玄貞爲侍中,又欲授乳母之子五品官;裴炎固爭,中宗怒曰:「我以天下與韋玄貞,何不可!而惜侍中邪!」炎懼,白太后,密謀廢立。二月,戊午,太后集百官於乾元殿,裴炎與中書侍郎劉禕之、羽林將軍程務挺、張虔勗勒兵入宮,宣太后令,廢中宗爲廬陵王,扶下殿。中宗曰:「我何罪?」太后曰:「汝欲以天下與韋玄貞,何得無罪!乃幽于別所。
  己未,立雍州牧豫王旦爲皇帝。政事決於太后,居睿宗於別殿,不得有所預。立豫王妃劉氏爲皇后。后,德威之孫也。
  有飛騎十餘人飲於坊曲,一人言:「曏知別無勳賞,不若奉廬陵。」一人起,出詣北門告之。座未散,皆捕得,繋羽林獄,言者斬,餘以知反不告皆絞,告者除五品官。告密之端自此興矣。
4.中宗は韋玄貞を侍中に、乳母の子を五品官にしたがった。裴炎が固く争うと、中宗は怒って言った。
「吾は天下を韋玄貞へ与えることもできるのだ。なんで侍中程度を惜しむのか!」
 炎は懼れ、太后へ密告して密かに廃立を謀った。
 二月、戊午、太后は乾元殿へ百官を集め、裴炎と中書侍郎劉禕之、羽林将軍程務挺、張虔勗に兵を率いて入宮させ、太后の令を宣して中宗を廃して廬陵王とし、肩を支えて下殿させた。
 中宗は言った。
「吾に何の罪があるのだ?」
 太后は言った。
「汝は天下を韋玄貞に与えようとした。何で罪が無いのか!」
 そして、別所に幽閉した。
 己未、雍州牧の豫王旦を皇帝に立てた(睿宗皇帝)。しかし、政事は太后が決裁した。睿宗は別殿に居り、何にも関与できなかった。
 豫王妃の劉氏を皇后に立てた。后は、徳威の孫である。
 飛騎十余人が坊曲で酒を飲んでいるうちに、一人が言った。
「今まで勲功の褒賞がなかった。廬陵王を推戴するか。」
 すると、一人が立って北門を詣でて密告した。彼等が解散する前に、全員捕らわれ、羽林獄へ繋がれた。発言した者は斬罪、それ以外は造反を知って告発しなかったとして絞首刑、告発した者は五品官に除された。この事件以来、密告の風習が生まれた。
 壬子,以永平郡王成器爲皇太子,睿宗之長子。赦天下,改元文明。
  庚申,廢皇太孫重照爲庶人,命劉仁軌專知西京留守事。流韋玄貞於欽州。
  太后與劉仁軌書曰:「昔漢以關中事委蕭何,今託公亦猶是矣。」仁軌上疏,辭以衰老不堪居守,因陳呂后禍敗之事以申規戒。太后使秘書監武承嗣齎璽書慰諭之曰:「今以皇帝諒闇不言,眇身且代親政;遠勞勸戒,復辭衰疾。又云『呂氏見嗤於後代,祿、産貽禍於漢朝』,引喩良深,愧慰交集。公忠貞之操,終始不渝,勁直之風,古今罕比。初聞此語,能不罔然;靜而思之,是爲龜鏡。況公先朝舊德,遐邇具瞻,願以匡救爲懷,無以暮年致請。」
5.壬子、永平郡王成器を皇太子とする。睿宗の長男である。天下へ恩赦を下し、文明と改元した。
 庚申、皇太孫重照を廃して庶人とした。劉仁軌に西京留守事を専知させた。また、韋玄貞を欽州へ流した。
 太后が劉仁軌へ書を与えた。
「昔、漢は関中の事を蕭何へ委ねた。今、公へこのように託す。」
 仁軌は上疏して、老衰して職務に耐えきれないことを訴え、併せて呂后が敗れたことを述べて規戒とした。太后は、秘書監の武承嗣へ璽書を抱かせ、慰諭した。
「今、皇帝は暗愚で口もきけない有様。ですから細身ながらも代わって政治を執っているのです。戒訓を勧めてくれたことと、老衰で辞退したことを労います。卿は言いました。『呂氏が後世から嗤われたのは、呂禄や呂産が漢朝に禍したからです。』この喩えは穿っており、深い。愧と安堵をこもごも感じます。公の忠貞の操は、終始変わらず、剛直の風は古今稀です。始めてこの言葉を聞きましたが、説得力があります。静かにこれを想い、これを亀鏡としましょう。ましてや公は先朝からの旧臣、遠近を共に良く見通せます。どうか民を救う想いを胸に抱き、年をとったからと言って退職したりしないでください。」
 辛酉,太后命左金吾將軍丘神勣詣巴州,檢校故太子賢宅以備外虞,其實風使殺之。神勣,行恭之子也。
6.辛酉、太后が左金吾将軍丘神勣へ、巴州へ行き元の太子賢の宅を良く改めて外敵に備えて来るよう命じた。だが、その実、賢を殺しに行かせたのだ。
 神勣は行恭の子息である。
 甲子,太后御武成殿,皇帝帥王公以下上尊號。丁卯,太后臨軒,遣禮部尚書武承嗣册嗣皇帝。自是太后常御紫宸殿,施慘紫帳以視朝。
7.甲子、太后が武成殿へ御幸した。皇帝が王公以下を率いて尊号を献上した。
 丁卯、太后が軒へ臨み、礼部尚書武承嗣を派遣して皇帝へ政権を授与した。
 これ以後、太后は常に紫宸殿へ御し、薄紫の帳を垂らして朝廷を視るようになった。
 丁丑,以太常卿、檢校豫王府長史王德眞爲侍中;中書侍郎、檢校豫王府司馬劉禕之同中書門下三品。
8.丁丑、太常卿、検校豫王府長史王徳真を侍中とした。中書侍郎、検校豫王府司馬劉禕之を同中書門下三品とした。
 三月,丁亥,徙杞王上金爲畢王,鄱陽王素節爲葛王。
9.三月、丁亥、杞王上金を畢王、鄱陽王素節を葛王とした。
 10丘神勣至巴州,幽故太子賢於別室,逼令自殺。太后乃歸罪於神勣,戊戌,舉哀於顯福門,貶神勣爲疊州刺史。己亥,追封賢爲雍王。神勣尋復入爲左金吾將軍。
10.丘神勣は巴州へ到着すると、もとの太子賢を別屋へ幽閉し、迫って自殺させた。
 太后は、罪を神勣へ押しつけ、戊戌、顕福門にて哀を挙げ、神勣を畳州刺史へ左遷した。
 己亥、賢を雍へ追封した。
 神勣は、すぐに朝廷へ呼び戻され、左金吾将軍へ戻った。
 11夏,四月,開府儀同三司、梁州都督滕王元嬰薨。
11.夏、四月、開府儀同三司、梁州都督滕王元嬰が卒した。
 12辛酉,徙畢王上金爲澤王,拜蘇州刺史;葛王素節爲許王,拜絳州刺史。
12.辛酉、畢王上金を澤王へ移して、蘇州刺史とした。葛王素節を許王として絳州刺史とした。
 13癸酉,遷廬陵王于房州;丁丑,又遷于均州故濮王宅。
13.癸酉、廬陵王を房州へ移した。丁丑、今度は均州のもとの濮王の居宅へ移した。
 14五月,丙申,高宗靈駕西還。
14.五月、丙申、高宗の霊駕が西に還った。
 15閏月,以禮部尚書武承嗣爲太常卿、同中書門下三品。
15.閏月、礼部尚書武承嗣を太常卿、同中書門下三品とした。
 16秋,七月,戊午,廣州都督路元叡爲崑崙所殺。元叡闇懦,僚屬恣橫,有商舶至,僚屬侵漁不已。商胡訴於元叡,元叡索枷,欲繋治之。羣胡怒,有崑崙袖劍直登聽事,殺元叡及左右十餘人而去,無敢近者,登舟入海,追之不及。
16.秋、七月、戊午、広州都督路元叡が、崑崘人に殺された。その経緯は、以下の通り。
 元叡は暗愚怯懦な人間で、彼の僚属は勝手放題にやっていた。商船などが来ると、僚属は飽くことなく金を貪った。胡の商人達はこれを元叡へ訴えたが、元叡は却って彼等を牢獄へぶち込もうとしたので、胡人達は怒った。その中に袖に剣を忍ばせていた崑崘人がいたが、彼が聴事(裁判台)へ駆け登り、元叡とその近習十余人を殺して去った。彼等へ敢えて近づく者は居なかった。
 胡人達は船に乗って海へ出た。これを追跡したが、追いつけなかった。
 17温州大水,流四千餘家。
17.温州で大水が起こり、四千余家が流された。
 18突厥阿史那骨篤祿等寇朔州。
18.突厥の阿史那骨篤禄等が朔州へ入寇した。
 19八月,庚寅,葬天皇大帝于乾陵,廟號高宗。
19.八月、庚寅、天皇大帝を乾陵へ葬った。廟号は高宗。
 20初,尚書左丞馮元常爲高宗所委,高宗晩年多疾,毎曰:「朕體中不佳,可與元常平章以聞。」元常嘗密言:「中宮威權太重,宜稍抑損。」高宗雖不能用,深以其言爲然。及太后稱制,四方爭言符瑞;嵩陽令樊文獻瑞石,太后命於朝堂示百官,元常奏:「状渉諂詐,不可誣罔天下。」太后不悅,出爲隴州刺史。元常,子琮之曾孫也。
20.初め、尚書左丞馮元常が、高宗から委任されていた。高宗は晩年病気がちで、いつも言っていた。
「朕が病気の間は政事のことは元常と共に決裁せよ。」
 元常はかつて密かに言った。
「中宮の威権は重すぎます。少し削るべきです。」
 高宗は用いることはできなかったが、その意見には深く賛同した。
 やがて太后が政務を執るようになると、四方が争って符瑞を言い立てた。祟陽令の樊文が瑞石を献上すると、太后は朝堂にて百官へ示すよう命じた。すると、元常は上奏した。
「これは偽りです。天下を騙してはいけません。」
 太后は不機嫌になり、元常を隴州刺史として出向させた。
 21丙午,太常卿、同中書門下三品武承嗣罷爲禮部尚書。
21.丙午、太常卿・同中書門下三品武承嗣を罷免して、礼部尚書とした。
 22栝州大水,流二千餘家。
22.栝州で大水が起こり、二千余家が流された。
 23九月,甲寅,赦天下,改元。旗幟皆從金色。八品以下,舊服靑者更服碧。改東都爲神都,宮名太初。又改尚書省爲文昌臺,左、右僕射爲左、右相,六曹爲天、地、四時六官;門下省爲鸞臺,中書省爲鳳閣,侍中爲納言,中書令爲内史;御史臺爲左肅政臺,增置右肅政臺;其餘省、寺、監、率之名,悉以義類改之。
23.九月、甲寅、天下へ恩赦を下し、改元した。旗幟を皆、金色にした。八品以下はもともと青い服だったが、碧の服にした。東都を神都、宮を太初と改称した。また、尚書省を文昌台、左右の僕射を左右相、六曹を天、地、四時の六宮と改称した。同様に、門下省は鸞台、中書省は鳳閣、侍中は納言、中書令は内史とした。御史台を左粛政台とし、右粛政台を増設した。その他、省、寺、監、率の名を悉く類似の名前に改称した。
 24以左武衞大將軍程務挺爲單于道安撫大使,以備突厥。
24.左武衛大将軍程務挺を単于道安撫大使として、突厥に備えさせた。
 25武承嗣請太后追王其祖,立武氏七廟,太后從之。裴炎諫曰:「太后母臨天下,當示至公,不可私於所親。獨不見呂氏之敗乎!」太后曰:「呂后以權委生者,故及於敗。今吾追尊亡者,何傷乎!」對曰:「事當防微杜漸,不可長耳!」太后不從。己巳,追尊太后五代祖克己爲魯靖公,妣爲夫人;高祖居常爲太尉、北平恭肅王,曾祖儉爲太尉、金城義康王,祖華爲太尉、太原安成王,考士彠爲太師、魏定王;祖妣皆爲妃。裴炎由是得罪。又作五代祠堂於文水。
  時諸武用事,唐宗室人人自危,衆心憤惋。會眉州刺史英公李敬業及弟盩厔令敬猷、給事中唐之奇、長安主簿駱賓王、詹事司直杜求仁皆坐事,敬業貶柳州司馬,敬猷免官,之奇貶栝蒼令,賓王貶臨海丞,求仁貶黟令。求仁,正倫之姪也。盩厔尉魏思温嘗爲御史,復被黜。皆會於揚州,各自以失職怨望,乃謀作亂,以匡復廬陵王爲辭。
  思温爲之謀主,使其黨監察御史薛仲璋求奉使江都,令雍州人韋超詣仲璋告變,云「揚州長史陳敬之謀反」。仲璋收敬之繋獄。居數日,敬業乘傳而至,矯稱揚州司馬來之官,云「奉密旨,以高州酋長馮子猷謀反,發兵討之。」於是開府庫,令士曹參軍李宗臣就錢坊,驅囚徒、工匠授以甲。斬敬之於繋所;録事參軍孫處行拒之,亦斬以徇,僚吏無敢動者。遂起一州之兵,復稱嗣聖元年。開三府,一曰匡復府,二曰英公府,三曰揚州大都督府。敬業自稱匡復府上將,領揚州大都督。以之奇、求仁爲左、右長史,宗臣、仲璋爲左、右司馬,思温爲軍師,賓王爲記室,旬日間得勝兵十餘萬。
  移檄州縣,略曰:「偽臨朝武氏者,人非温順,地實寒微。昔充太宗下陳,嘗以更衣入侍,洎乎晩節,穢亂春宮。密隱先帝之私,陰圖後庭之嬖,踐元后於翬翟,陷吾君於聚麀。」又曰:「殺姊屠兄,弑君鴆母,人神之所同嫉,天地之所不容。」又曰:「包藏禍心,竊窺神器。君之愛子,幽之於別宮;賊之宗盟,委之以重任。」又曰:「一抔之土未乾,六尺之孤安在!」又曰:「試觀今日之域中,竟是誰家之天下!」太后見檄,問曰:「誰所爲?」或對曰:「駱賓王。」太后曰:「宰相之過也。人有如此才,而使之流落不偶乎!」
  敬業求得人貌類故太子賢者,紿衆云:「賢不死,亡在此城中,令吾屬舉兵。」因奉以號令。
  楚州司馬李崇福帥所部三縣應敬業。盱眙人劉行舉獨據縣不從,敬業遣其將尉遲昭攻盱眙,行舉拒卻之。詔以行舉爲遊撃將軍,以其弟行實爲楚州刺史。
  甲申,以左玉鈐衞大將軍李孝逸爲揚州道大總管,將兵三十萬,以將軍李知十、馬敬臣爲之副,以討李敬業。
25.武承嗣が、太后へ、その先祖を王へ追封して武氏の七廟を立てるよう請願し、太后はこれに従った。裴炎が、諫めて言った。
「太后は天下へ母として臨むのです。ですから民へ至公を示すべきで、親しい者へ偏愛してはいけません。呂氏の敗北をご存知ありませんのか!」
 太后は言った。
「呂氏は、権威を生きている者へ委ねた。だから敗れたのだ。今、吾は死んだ者を追尊している。何で悪いことがあろうか!」
 対して言った。
「事は、微小なうちに防ぎ、大きくさせないのです。長じさせてはいけません!」
 太后は従わなかった。
 己巳、太后の五代の祖先克己を魯靖公とし、その妻を夫人とした。高祖の居常を太尉・北恭粛王、曾祖の倹を太尉・金城義康王、祖の華を太尉・太原安成王、考の士彠を太師・魏定王とし、彼等の妻を皆、妃とした。
 この件で、裴炎は罪に落とされた。
 また、文水に五代の祠堂を作る。
 この頃、武氏の面々が要職に就いたので、唐宗室の人々は不安になり、皆は心中憤っていた。こんな時、眉州刺史英公李敬業とその弟の盩厔令敬猷、給事中唐之奇、長安主簿駱賓王、詹事司直杜求仁が皆、有罪となった。敬業は柳州司馬へ貶され、敬猷は免官、之奇は栝蒼令、賓王は臨海丞、求仁は黟令へ貶された。求仁は、正倫の姪である。盩厔尉の魏思温はかつて御史だったが、彼も又左遷された。その彼等が皆、揚州に集まった。彼等は各々職を失ったことを怨んでおり、廬陵王の復帰を名分にして、造反を謀った。
 思温が彼等の謀主となった。彼はまず、党類の監察御史薛仲璋が江都の巡察となるよう手を打った。仲璋が首尾良く勅使として下向すると、彼等の一味である雍州の住民韋超が仲璋へ告訴した。
「揚州長史の陳敬之が造反を謀っております。」
 仲璋は敬之を牢獄へぶち込んだ。
 数日すると、敬業が駅馬に乗ってやって来て、「揚州司馬として赴任してきた」と矯称し、言った。
「密旨を奉ったのだ。高州の酋長馮子猷が謀反したので、兵を発して討つ。」
 こうして府庫を開いた。士曹参軍李宗臣を銭坊へ派遣し、囚人や工匠を駆り立てて武器を授けた。また、敬之を牢獄にて斬った。
 録事参軍の孫處行がこれを拒むと、斬り殺して見せしめとしたので、他の僚吏は敢えて動こうとしなかった。
 遂に一州の兵で起兵し、年号を嗣聖元年に戻した。三府を開き、一つは匡復府、二つ目は英公府、三つ目は揚州大都督府と称した。敬業は自ら匡復府上将と称し、揚州大都督を領有する。之奇、求仁を左・右長史、宗臣、仲璋を左・右司馬、思温を軍師、賓王を記室とし、旬日のうちに勝兵十余万を得た。
 州県へ檄文を廻す。その大意は、
「不遜にも朝廷へ臨んでいる武氏は、人格は温順ではなく、家格は寒微。昔、太宗の後宮の末席に連なっていたのに衣を変えて入侍し、晩節に及んで春宮を穢乱した。先帝との秘事を密隠して高宗の寵愛を求め、もとの皇后を踏みにじって吾が君を禽獣の行いへ陥れる。」
 又、言う。
「姉を殺し兄を屠し、君を弑し母を毒殺する。人神共に怒り、天地も容れる所なし。」
 又言う、
「禍心を包蔵して神器を伺う。君の愛子を別所へ幽閉し、賊の宗盟へ重任を委ねる。」
 又言う、
「一抔の土は未だ乾いていないのに、六尺の孤児はどこにいるのか!」
 又言う、
「試みに今日の国を見回せ。これは誰が為の天下ぞ!」
 太后はこの檄文を見て、問うた。
「誰が作ったのじゃ?」
 ある者が答えた。
「駱賓王でございます。」
「宰相の過失ぞ。この様な人材を見逃して不遇をかこわせるなど!」
 敬業はもとの太子賢に良く似た者を探し求め、これを替え玉にして衆人を騙した。
「賢は死んでいない。亡命してこの城中へ居る。今、我と共に起兵した。」
 よりて、奉って号令した。
 楚州司馬李祟福は、三県の軍を率いて敬業へ応じた。だが、盱眙の人劉行挙一人、県を占拠して彼へ従わなかった。敬業はその将尉遅昭へ盱眙を攻撃させた。対して朝廷は、行挙を遊撃将軍とし、その弟の行実を楚州刺史とすると、詔を下した。
 甲申、左玉鈐衛大将軍李孝逸を揚州道大総管とし三十万の兵を与え、将軍李知十、馬敬臣を副官として、李敬業を討伐させた。
 26武承嗣與從父弟右衞將軍三思以韓王元嘉、魯王靈夔屬尊位重,屢勸太后因事誅之。太后謀於執政,劉禕之、韋思謙皆無言;内史裴炎獨固爭,太后愈不悅。三思,元慶之子也。
  及李敬業舉兵,薛仲璋,炎之甥也,炎欲示閒暇,不汲汲議誅討。太后問計於炎,對曰:「皇帝年長,不親政事,故豎子得以爲辭。若太后返政,則不討自平矣。」監察御史藍田崔詧聞之,上言:「炎受顧託,大權在己,若無異圖,何故請太后歸政?」太后命左肅政大夫金城騫味道、侍御史櫟陽魚承曄鞫之,收炎下獄。炎被收,辭氣不屈。或勸炎遜辭以免,炎曰:「宰相下獄,安有全理!」
  鳳閣舎人李景諶證炎必反。劉景先及鳳閣侍郎義陽胡元範皆曰:「炎社稷元臣,有功於國,悉心奉上,天下所知,臣敢明其不反。」太后曰:「炎反有端,顧卿不知耳。」對曰:「若裴炎爲反,則臣等亦反也。」太后曰:「朕知裴炎反,知卿等不反。」文武間證炎不反者甚衆,太后皆不聽。俄并景先、元範下獄。丁亥,以騫味道檢校内史同鳳閣鸞臺三品,李景諶同鳳閣鸞臺平章事。
26.韓王元嘉と魯王霊夔は名望があり位も重いので、武承嗣とその従父弟の右衛将軍三思は、理由をこじつけてこの二人を誅殺するよう、太后へしばしば勧めていた。太后が執政と謀ったところ、劉禕之も韋思謙も共に無言だったのに、内史の裴炎のみ固く争ったので、太后はますます不機嫌になった。三思は、元慶の子である。
 やがて李敬業が挙兵した。薛仲章は炎の甥だったので、炎は無関係を示そうと、誅討の議論にはあまり嘴を挟まなかった。しかし、太后が炎へ計略を問うと、対して言った。
「皇帝は年長ですのに、政務に関わっておりません。ですから豎子が名分を得たのです。もしも太后が政務を返還いたしましたなら、討伐しなくても自然に平定されます。」
 監察御史の藍田の崔詧が、これを聞いて言った。「炎は顧託を受け、大権を持っております。太后へ政権を返せと言いましたのは、異図があるのです。」
 太后は左粛政大夫の金城の騫味道と侍御史の檪陽の魚承曄へこの件を取り調べさせ、炎を牢獄へ下した。
 炎は牢獄へ入れられても、言葉も気概も屈しなかった。ある者が、炎へ、謙った言葉で禍を免れるよう勧めたが、炎は言った。
「宰相が牢獄へ下されたのだ。なんでその身が全うするとゆう道理があろうか!」
 鳳閣舎人李景諶は炎が必ず造反するとゆう根拠を述べた。劉景先と鳳閣侍郎の義陽の胡元範は共に言った。
「炎は社稷の元臣。国へ対して功績があり、全心で上を奉っているのは、天下周知です。臣は、敢えて彼が造反していないと証します。」
 太后は言った。
「炎の造反には証拠がある。卿等が知らないだけだ。」
 対して言った。
「もし炎が造反したと言われるのなら、臣等も又造反したことになります。」
 だが、太后は言った。
「朕は裴炎が造反したことは知っているが、卿等が造反した件は知らぬ。」
 文武の官吏達の中には、炎が造反しなかったことを証す者が大勢いたが、太后は皆聞かなかった。そして突然、景先と元範を牢獄へ下した。
 丁亥、騫味道を検校内史同鳳閣鸞台三品、李景諶を同鳳閣鸞台平章事とした。
 27魏思温説李敬業曰:「明公以匡復爲辭,宜帥大衆鼓行而進,直指洛陽,則天下知公志在勤王,四面響應矣。」薛仲璋曰:「金陵有王氣,且大江天險,足以爲固,不如先取常、潤,爲定霸之基,然後北向以圖中原,進無不利,退有所歸,此良策也!」思温曰:「山東豪傑以武氏專制,憤惋不平,聞公舉事,皆自蒸麥飯爲糧,伸鋤爲兵,以俟南軍之至。不乘此勢以立大功,乃更蓄縮自謀巣穴,遠近聞之,其誰不解體!」敬業不從,使唐之奇守江都,將兵渡江攻潤州。思温謂杜求仁曰:「兵勢合則強,分則弱,敬業不并力渡淮,收山東之衆以取洛陽,敗在眼中矣!」
  壬辰,敬業陷潤州,執刺史李思文,以李宗臣代之。思文,敬業之叔父也,知敬業之謀,先遣使間道上變,爲敬業所攻,拒守久之,力屈而陷。思温請斬以徇,敬業不許,謂思文曰:「叔黨於武氏,宜改姓武。」潤州司馬劉延嗣不降,敬業將斬之,思温救之,得免,與思文皆囚於獄。劉延嗣,審禮從父弟也。曲阿令河間尹元貞引兵救潤州,戰敗,爲敬業所擒,臨以白刃,不屈而死。
27.魏思温が李敬業へ説いた。
「明公匡復を大義名分にして起兵しました。ですから大軍を率いて軍鼓を鳴らしながら直接洛陽目指して進軍し、公の勤王の志を天下へ知らせるべきです。そうすれば四面は響きに応じるように呼応するでしょう。」
 だが、薛仲璋は言った。
「金陵には王気があります。それに、大江は天険、守備を固めるに充分です。まず常、潤を先に取り、覇者の基盤を定めてから、北へ向かって中原を図る方が宜しいですぞ。これだと、進んでも不利がありませんし、退いても帰る場所がある。良策ではありませんか!」
 思温は言った。
「山東の豪傑は、武氏の専横に腕をさすって不平を述べております。公の挙兵を聞けば、皆、自ら兵糧を準備し、鍬や鍬を武器として南軍の到着を待ち受けます。この勢いに乗って大功を建てず、自ら縮こまって穴蔵へ閉じこもるなど、遠近が聞いたら皆が興ざめいたしますぞ!」
 敬業は従わず、唐之奇へ江都を守らせ、自身は兵を率いて江を渡って潤州を攻めた。
 思温は杜求仁へ言った。
「兵勢は、一つに纏まれば強くなり、分散すれば弱まる。敬業は、山東の衆を収めて洛陽を取ろうとせず、兵力を分散して江を渡った。敗北は眼中にあるぞ!」
 壬辰、敬業は潤州を陥し、刺史の李思文を捕らえ、李宗臣を刺史とした。思文は敬業の叔父である。敬業の謀略を知ると、すぐに間道から使者を派遣して上聞した。敬業から攻められると長い間拒守したが、力屈して陥ちたのである。
 思温が血祭りに斬り棄てるよう請うたが、敬業は許さず、思文へ言った。
「叔父上は武氏の仲間になった。姓を『武』と改めなさい。」
 潤州司馬劉延嗣は降伏しなかった。敬業はこれを斬ろうとしたが、思温がこれを救ったので助かった。思文と共に牢獄へぶち込まれる。劉延嗣は審禮の従父弟である。
 曲阿令の河間の尹元貞は、兵を率いて潤州救援に駆けつけたが敗北し、敬業に捕らえられた。そして白刃を突きつけられたけれども屈服せず、死んだ。
 28丙申,斬裴炎于都亭。炎將死,顧兄弟曰:「兄弟官皆自致,炎無分毫之力,今坐炎流竄,不亦悲乎!」籍沒其家,無甔石之儲。劉景先貶普州刺史,胡元範流瓊州而死。裴炎弟子太僕寺丞伷先,年十七,上封事請見言事。太后召見,詰之曰:「汝伯父謀反,尚何言?」伷先曰:「臣爲陛下畫計耳,安敢訴冤!陛下爲李氏婦,先帝棄天下,遽攬朝政,變易嗣子,疏斥李氏,封崇諸武。臣伯父忠於社稷,反誣以罪,戮及子孫。陛下所爲如是,臣實惜之!陛下早宜復子明辟,高枕深居,則宗族可全;不然,天下一變,不可復救矣!」太后怒曰:「胡白,小子敢發此言!」命引出。伷先反顧曰:「今用臣言,猶未晩!」如是者三。太后命於朝堂杖之一百,長流瀼州。
  炎之下獄也,郎將姜嗣宗使至長安,劉仁軌問以東都事,嗣宗曰:「嗣宗覺裴炎有異於常久矣。」仁軌曰:「使人覺之邪?」嗣宗曰:「然。」仁軌曰:「仁軌有奏事,願附使人以聞。」嗣宗曰:「諾。」明日,受仁軌表而還,表言:「嗣宗知裴炎反不言。」太后覽之,命拉嗣宗於殿庭,絞於都亭。
28.丙申、裴炎を都亭にて斬った。
 炎は死に臨んで強大を顧みて言った。
「兄弟の官位は、皆、各々の努力で得た物。炎は僅かばかりの力添えもしなかったのに、今、炎の縁座で流罪となった。なんと悲しいことだ!」
 その家を没収し、(後継も残さなかった?)
 劉景先は普州刺史へ貶され、胡元範は瓊州へ流されて死んだ。
 裴炎の弟の子の太僕寺丞伷先は、十七才。彼は封事を上納して意見があるので謁見したいと請願した。太后は召し出して詰った。
「汝の伯父は造反した。まだ何か言うことがあるのか?」
 伷先は言った。
「臣は陛下の為に考えたことを話したいだけです。どうして敢えて冤罪を訴えたりしましょうか!陛下は李氏の婦人となられました。先帝が先に崩御されてからは、朝政をかき回し後継を疎外して武氏の人々を重んじ封じて居られます。臣の伯父は社稷に忠義を尽くしたのに、却って罪を誣られて、子孫にまで殺戮が及びました。陛下がこの様になさることを、臣は実に惜しむのです!どうか陛下、早く子息を位へ復して隠居されてください。そうすれば枕を高くして休めますし、宗族も安泰です。そうでなければ天下が一変して、救いようがなくなりますぞ!」
 太后は怒って言った。
「小僧っ子のくせに何を言うか!」
 そして、これを引き出すよう命じた。伷先は振り返って言った。
「今、臣の言葉を用いても、未だ遅くありません。」
 これを再三繰り返す。太后は朝堂にて百杖打つよう命じ、瀼州へ流した。
 炎を牢獄へぶち込むと、郎将の姜嗣宗を長安へ使者に出した。劉仁軌が東都の事件を尋ねると、嗣宗は言った。
「裴炎がずっと以前から異心を持っていたことは、嗣宗には判っていました。」
 仁軌は言った。
「人を使って、異心を知ったのか?」
「その通りです。」
「仁軌に上奏することがあるが、誰かに表を持っていって欲しいのだが。」
「宜しいですよ。」
 翌日、嗣宗は仁軌から上表文を受け取って還った。その表には、こう書いてあった。
「嗣宗は裴炎が造反することを知っていながら告発しませんでした。」
 太后はこれを読むと、嗣宗を殿庭へ立たせ、都亭にて絞首刑とした。
 29丁酉,追削李敬業祖考官爵,發冢斲棺,複姓徐氏。
29.丁酉、李敬業の祖考の官爵を追削し、その墓を暴いて棺桶を壊し、姓を徐氏へ戻した。
 30李景諶罷爲司賓少卿,以右史武康沈君諒、著作郎崔詧爲正諫大夫、同平章事。
30.李景諶の司農少卿をやめさせ、右史の武康の沈君諒と著作郎の崔詧を正諫大夫・同平章事とした。
 31徐敬業聞李孝逸將至,自潤州回軍拒之,屯高郵之下阿溪;使徐敬猷逼淮陰,別將韋超、尉遲昭屯都梁山。
  李孝逸軍至臨淮,偏將雷仁智與敬業戰不利,孝逸懼,按兵不進。殿中侍御史魏元忠謂孝逸曰:「天下安危,在茲一舉。四方承平日久,忽聞狂狡,注心傾耳以俟其誅。今大軍久留不進,遠近失望,萬一朝廷更命他將以代將軍,將軍何辭以逃逗撓之罪乎!」孝逸乃引軍而前。壬寅,馬敬臣撃斬尉遲昭於都梁山。
  十一月,辛亥,以左鷹揚大將軍黑齒常之爲江南道大總管,討敬業。
  韋超擁衆據都梁山,諸將皆曰:「超憑險自固,士無所施其勇,騎無所展其足;且窮寇死戰,攻之多殺士卒,不如分兵守之,大軍直趣江都,覆其巣穴。」支度使薛克楊曰:「超雖據險,其衆非多。今多留兵則前軍勢分,少留兵則終爲後患,不如先撃之,其勢必舉,舉都梁,則淮陰、高郵望風瓦解矣。」魏元忠請先撃徐敬猷,諸將曰:「不如先攻敬業,敬業敗,則敬猷不戰自擒矣。若撃敬猷,則敬業引兵救之,是腹背受敵也。」元忠曰:「不然。賊之精兵,盡在下阿,烏合而來,利在一決,萬一失利,大事去矣!敬猷出於博徒,不習軍事,其衆單弱,人情易搖,大軍臨之,駐馬可克。敬業雖欲救之,計程必不能及。我克敬猷,乘勝而進,雖有韓、白不能當其鋒矣!今不先取弱者而遽攻其強,非計也。」孝逸從之,引兵撃超,超夜遁,進撃敬猷,敬猷脱身走。
  庚申,敬業勒兵阻溪拒守,後軍總管蘇孝祥夜將五千人,以小舟渡溪先撃之,兵敗,孝祥死,士卒赴溪溺死者過半。左豹韜衞果毅漁陽成三朗爲敬業所擒,唐之奇紿其衆曰:「此李孝逸也!」將斬之,三朗大呼曰:「我果毅成三朗,非李將軍也。官軍今大至矣,爾曹破在朝夕。我死,妻子受榮,爾死,妻子籍沒,爾終不及我!」遂斬之。
  孝逸等諸軍繼至,戰數不利。孝逸懼,欲引退,魏元忠與行軍管記劉知柔言於孝逸曰:「風順荻乾,此火攻之利。」固請決戰。敬業置陣既久,士卒多疲倦顧望,陣不能整;孝逸進撃之,因風縱火,敬業大敗,斬首七千級,溺死者不可勝紀。敬業等輕騎走入江都,挈妻子奔潤州,將入海奔高麗;孝逸進屯江都,分遣諸將追之。乙丑,敬業至海陵界,阻風,其將王那相斬敬業、敬猷及駱賓王首來降。餘黨唐之奇、魏思温皆捕得,傳首神都,揚、潤、楚三州平。
   陳嶽論曰:敬業苟能用魏思温之策,直指河、洛,專以匡復爲事,縱軍敗身戮,亦忠義在焉。而妄希金陵王氣,是眞爲叛逆,不敗何待!
  敬業之起也,使敬猷將兵五千,循江西上,略地和州。前弘文館直學士歴陽高子貢帥郷里數百人拒之,敬猷不能西。以功拜朝散大夫、成均助教。
31.徐敬業は、李孝逸がやって来ると聞き、潤州から軍を廻してこれを拒んだ。高郵の下阿溪へ屯営する。徐敬献を淮陰へ進軍させ、別将の韋超、尉遅昭を都梁山へ屯営させる。
 李孝逸軍が臨淮へ至ると、偏将雷仁智が敬業と戦ったが、戦況不利だった。孝逸は懼れ、兵を抱えたまま進まなかった。すると、殿中侍御史の魏元忠が孝逸へ言った。
「天下の安危はこの一挙にかかっています。四方は長い間平和でしたのに、突然この狂乱を聞いたのです。その誅を耳目を傾けて待っています。それなのに、今、大軍が久しく逗留して進まなければ、遠近は失望します。万一朝廷が別の将を将軍と交代させたら、将軍は逃逗撓の罪をどう言い逃れるのですか!」
 孝逸は、軍を率いて前進した。
 壬寅、馬敬臣が都梁山にて尉遅昭を撃って、斬った。
 十一月辛亥、左鷹揚大将軍黒歯常之を江南道大総管として、敬業を討たせた。
 韋超は衆を擁して都梁山を占拠した。諸将は皆言った。
「超は険阻な地形で守備を固めています。これでは士に勇気があっても役に立たず、騎馬も足を伸べることができません。それに、追い詰められた敵は死に物狂いで戦います。これを攻撃しても多くの士卒を殺すだけです。兵を分散して守備を固め、大軍で江都を直撃してその巣穴を潰しましょう。」
 だが、支度使薛克楊は言った。
「超は険阻な場所を占拠していますが、その兵は多くありません。今、多くの兵を留めれば、前軍の兵力が少なくなりますし、少しの兵を留めたのでは、後方から攻撃されかねません。まず、これを攻撃するべきです。都梁は必ず潰せます。都梁を潰せば、淮陰、高郵は風を望んで瓦解しますぞ!」
 魏元忠が、まず徐敬献を攻撃することを請うと、諸将は言った。
「まず敬業を攻める方がいい。敬業が敗れれば、敬献は戦わずして自ら虜になる。もし敬献を攻撃すれば、敬業が救援に来て、腹背に敵を受けてしまうぞ。」
 元忠は言った。
「そうではない。賊の精兵は、悉く下阿に居る。烏合して攻撃してきたら、一戦で決着が付く。即決は我が方に利がある。万一利を失えば、大事は去るぞ!敬献は博徒上がりで軍事に習熟していない。その兵も少なくて弱い。彼等は動揺し易いぞ。大軍で臨めば馬を止めていても勝てる。敬業がこれを救いたくても、日程を測るに、絶対間に合わない。我等が敬献に勝って、勝ちに乗じて進軍すれば、韓信や白起でさえまともにぶつかれないぞ。今、先に弱兵を取らずに強敵を攻撃する。これは良計ではない。」
 孝逸はこれに従った。兵を率いて超を攻撃すると、超は夜逃げした。進んで敬献を撃つ。敬献は体一つで逃げ出した。
 庚申、敬業は兵を留め、溪を阻んで拒守した。後軍総管蘇孝祥が五千人を率いて、小舟で溪を渡り夜襲を掛けたが、敗北。孝祥は戦死し、士卒の過半は溪へ逃げて溺死した。左豹韜衛果毅の漁陽の成三朗が敬業に捕らえられた。唐之奇が、部下達へ向かって言った。
「こいつは李孝逸だ!」
 そして斬ろうとした時、三朗は大声で叫んだ。
「我は果毅の成三朗だ。李将軍ではない。今に官軍が大挙して押し寄せるぞ。お前達の運命も朝夕だ。我は死んでも妻子に栄華が授けられるが、お前達が死んだら妻子は奴隷にされるのだ。お前達は我等に敵わないのだ!」
 遂に、これを斬った。
 続いて孝逸ら諸軍が到着した。しばしば戦ったが、戦況は不利だった。孝逸は懼れ退却したくなったが、魏元忠と行軍管記の劉知柔が孝逸へ言った。
「順風で、荻が乾いています。これは火攻めに格好です。」
 固く決戦を請うた。
 敬業は、戦争を始めて久しく、士卒は疲れていたし、戦陣も乱れていた。孝逸は進軍してこれを攻撃し、風を利して火を放った。敬業は大敗し、七千の首級を挙げられ、溺死した者は数え切れなかった。
 敬業等は軽騎で江都へ走り、妻子を連れて潤州へ逃げ込んだ。そして海へ入って高麗へ亡命しようとした。片や孝逸は江湊へ進駐し、諸将を分遣してこれを追わせた。
 乙丑、敬業は海陵辺りにて、風に行く手を阻まれた。するとその将の王那相が敬業、敬献及び駱賓王の首を斬り、降伏した。
 残党の唐之奇、魏思温も皆捕まり、首を神都へ伝えた。こうして、揚、潤、楚の三州は平定した。
 陳嶽が論じて曰く、敬業が魏思温の策を採用して河、洛を直撃し、匡復に専念したなら、喩え敗戦してその身は殺戮されたとて、忠義だけは残った。しかし、彼は妄りに金陵の王気を希んだのだ。これでは真の叛逆である。敗北して当然だ!
 敬業が決起した時、敬献へ五千の兵を与えて江を西上させて和州を攻略させた。だが、前の弘文館学士の歴陽の高子貢が郷里の民数百人を率いてこれを拒んだので、敬献は西進できなかった。この功績で、子貢は朝散大夫、成均助教を拝受した。
 32丁卯,郭待舉罷爲左庶子;以鸞臺侍郎韋方質爲鳳閣侍郎、同平章事。方質,雲起之孫也。
32.丁卯、郭待挙が左庶子をやめた。鸞台侍郎韋方質を鳳閣侍郎、同平章事とした。方質は、雲起の孫である。
 33十二月,劉景先又貶吉州員外長史,郭待舉貶岳州刺史。
  初,裴炎下獄,單于道安撫大使、左武衞大將軍程務挺密表申理,由是忤旨。務挺素以唐之奇、杜求仁善,或譖之曰:「務挺與裴炎、徐敬業通謀。」癸卯,遣左鷹揚將軍裴紹業即軍中斬之,籍沒其家。突厥聞務挺死,所在宴飲相慶;又爲務挺立祠,毎出師,必禱之。
  太后以夏州都督王方翼與務挺連職,素相親善,且廢后近屬,徴下獄,流崖州而死。
33.十二月、劉景先が再び貶されて吉州員外長史となった。郭待挙は岳州刺史へ貶された。
 裴炎が牢獄へぶち込まれた頃、単于道安撫大使、左武衛大将軍程務挺が密かに上表して道理を述べたが、これで太后の逆鱗に触れた。務挺はもともと唐之奇や杜求仁と仲が良かったので、ある者が彼を讒言した。
「務挺と裴炎は、徐敬業と内通しています。」
 癸卯、左鷹揚将軍裴紹業を派遣して、軍中にて務挺を斬り、その家族を国へ没収した。
 突厥は務挺が死んだと聞いて、宴会を開いて相慶んだ。又、務挺の祠を立て、出陣するごとに必ずこれに祈った。 
 夏州都督王方翼は、務挺のかつての同僚で、彼と仲が良かった。また、廃立された王皇后の親戚だったので、太后は彼を牢獄へぶち込んだ。やがて方翼は、崖州へ流されて死んだ。
垂拱元年(乙酉、六八五)

 春,正月,丁未朔,赦天下,改元。
1.春、正月、丁未朔、天下へ恩赦を下し改元した。
 太后以徐思文爲忠,特免縁坐,拜司僕少卿。謂曰:「敬業改卿姓武,朕今不復奪也。」
2.太后は徐思文の忠義を思い、特に縁坐を免除して司僕少卿を拝受し、言った。
「敬業は卿の姓を武と改めたが、朕は今、その姓をそのまま与えておくぞ。」
 庚戌,以騫味道守内史。
3.庚戌、騫味道を守内史とした。
 戊辰,文昌左相、同鳳閣鸞臺三品樂城文獻公劉仁軌薨。
4.戊辰、文昌左相・同鳳閣鸞台三品の楽城文献公劉仁軌が卒した。
 二月,癸未,制:「朝堂所置登聞鼓及肺石,不須防守,有撾鼓立石者,令御史受状以聞。」
5.二月、癸未、制を下した。
「朝堂の登聞鼓と肺石の設置場所には、防守がない。今後、鼓石をつま弾く者は御史から許可を得て上聞せよ。」
 乙巳,以春官尚書武承嗣、秋官尚書裴居道、右肅政大夫韋思謙並同鳳閣鸞臺三品。
6.乙巳、春官尚書武承嗣、秋官尚書裴居道、右粛政大夫韋思謙を皆、同鳳閣鸞台三品とした。
 突厥阿史那骨篤祿等數寇邊,以左玉鈐衞中郎將淳于處平爲陽曲道行軍總管,撃之。
7.突厥の阿史那骨篤禄等が屡々辺境を荒らすので、左玉鈐衛中郎将淳于処平を陽曲道行軍総管として、これを討たせた。
 正諫大夫、同平章事沈君諒罷。
8.正諫大夫・同平章事沈君諒を罷免した。
 三月,正諫大夫、同平章事崔詧罷。
9.三月、正諫大夫、同平章事崔詧を罷免した。
 10丙辰,遷廬陵王于房州。
10.丙辰、廬陵王を房州に移した。
 11辛酉,武承嗣罷。
11.辛酉、武承嗣を罷免した。
 12辛未,頒垂拱格。
12.辛未、垂拱格を頒布した。
 13朝士有左遷詣宰相自訴者,内史騫味道曰:「此太后處分。」同中書門下三品劉禕之曰:「縁坐改官,由臣下奏請。」太后聞之,夏,四月,丙子,貶味道爲靑州刺史,加禕之太中大夫。謂侍臣曰:「君臣同體,豈得歸惡於君,引善自取乎!」
13.左遷された朝士が、宰相のもとへ出向いて自ら訴えた。すると内史の騫味道は言った。
「これは太后の処分なのだ。」
 同中書門下三品劉禕之は言った。
「縁坐による処分だ。臣が上奏して請願した。」
 太后がこれを聞き、夏、四月、丙子、味道を青州刺史へ貶し、禕之へ太中大夫を加え、侍臣へ言った。「君臣は同体です。悪行を主君へ押しつけて一人だけ良い子ぶってよいものか!」
 14癸未,突厥寇代州;淳于處平引兵救之,至忻州,爲突厥所敗,死者五千餘人。
14.癸未、突厥が代州へ来寇した。淳于処平が兵を率いて救援した。忻州にて突厥に敗北し、五千余人が戦死した。
 15丙午,以裴居道爲內史。納言王德眞流象州。
15.丙午、裴居道を内史とした。納言の王徳真を象州へ流す。
 16己酉,以冬官尚書蘇良嗣爲納言。
16.己酉、冬官尚書蘇良嗣を納言とした。
 17壬戌,制内外九品以上及百姓,咸令自舉。
17.壬戌、内外の九品以上及び百姓へ、才能のある者は自薦せよと、制を下した。
 18壬申,韋方質同鳳閣鸞臺三品。
18.壬申、韋方質を同鳳閣鸞台三品とした。
 19六月,天官尚書韋待價同鳳閣鸞臺三品。待價,萬石之兄也。
19.六月、天官尚書韋待價を同鳳閣鸞台三品とした。
 20同羅、僕固等諸部叛;遣左豹韜衞將軍劉敬同發河西騎士出居延海以討之,同羅、僕固等皆敗散。敕僑置安北都護府於同城以納降者。
20.同羅、僕固羅の諸部が造反した。左豹韜衛将軍劉敬同を派遣し、河西の騎士を徴発して居延海からこれを討伐に出た。同羅と僕固羅は皆、敗北して散った。同城へ安北都護府を設置して、降伏した者を納めるよう敕した。
 21秋,七月,己酉,以文昌左丞魏玄同爲鸞臺侍郎、同鳳閣鸞臺三品。
21.秋、七月、己酉、文昌左丞魏玄同を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台三品とした。
 22詔自今祀天地,高祖、太宗、高宗皆配坐;用鳳閣舎人元萬頃等之議也。
22.今後は天地を祀る時、高祖、太宗、高宗を皆配坐すると詔した。鳳閣舎人元万頃らの提議を採用したのだ。
 23九月,丁卯,廣州都督王果討反獠,平之。
23.九月、丁卯、広州都督王果が造反した獠を討って、平定した。
 24冬,十一月,癸卯,命天官尚書韋待價爲燕然道行軍大總管以討吐蕃。初,西突厥興昔亡、繼往絶可汗既死,十姓無主,部落多散亡,太后乃擢興昔亡之子左豹韜衞翊府中郎將元慶爲左玉鈐衞將軍,兼崐陵都護,襲興昔亡可汗押五咄陸部落。
24.冬、十一月、癸卯、天官尚書韋待價へ燕然道行軍大総管を命じ、吐蕃を討伐させた。
 西突厥の興昔亡、継往絶可汗が死んでからは、十姓には主人がいなくなり、多くの部落が散亡した。太后は興昔亡の子の左豹韜衛翊府中郎将元慶を左玉鈐衛将軍・兼崑陵都護に抜擢して、興昔亡可汗の後を継いで咄陸部落を五つ押さえさせた。
 25麟臺正字射洪陳子昂上疏,以爲:「朝廷遣使巡察四方,不可任非其人,及刺史、縣令,不可不擇。比年百姓疲於軍旅,不可不安。」其略曰:「夫使不擇人,則黜陟不明,刑罰不中,朋黨者進,貞直者退;徒使百姓脩飾道路,送往迎來,無所益也。諺曰:『欲知其人,觀其所使。』不可不愼也。」又曰:「宰相,陛下之腹心;刺史、縣令,陛下之手足;未有無腹心手足而能獨理者也!」又曰:「天下有危機,禍福因之而生,機靜則有福,機動則有禍,百姓是也。百姓安則樂其生,不安則輕其死,輕其死則無所不至,祅逆乘釁,天下亂矣!」又曰:「隋煬帝不知天下有危機,而信貪佞之臣,冀收夷狄之利,卒以滅亡,其爲殷鑒,豈不大哉!」
25.麟台正字の射洪の陳子昴が上疎した。その大意は、
「朝廷は使者を派遣して四方を巡察しておりますが、これは有能な人間を選ばなければなりません。刺史、県令にも人材を選ばなければなりません。このごろ百姓は戦争に疲れております。休ませなければなりません。」
 詳細では、
「それ人を選ばなければ、黜陟や刑罰が不適切になり、徒党を組む者が出世し、貞直な者は排斥されます。いたずらに百姓をこき使って道路を飾り付けて送迎を盛大にしても、御国の為には何の役にも立ちません。諺にも言います。『人間性を知ろうとしたら、その使う所を観よ。』慎まなければなりません。」
 又、言う。
「宰相は陛下の腹心。刺史、県令は陛下の手足。腹心手足が無くて一人で治められる者はいまだおりません。」
 又曰く、
「天下には禍福を生じる危ない機があります。その機が静まれば福となり、機が動けば禍となります。百姓がそれです。百姓は安らかならば生きることを楽しみますが、不安ならば死ぬことさえ軽んじます。彼等が命を粗末にすれば、どんなことでもやってのけます。そして、妖逆がその隙に乗じ、天下が乱れるのです!」
 又言う、
「隋の煬帝は天下に危ない機があることを知らず、貪欲奸佞の臣下を信じ、夷狄の利を収めることを冀い、遂に滅亡しました。なんと大きいではありませんか!」
 26太后修故白馬寺,以僧懷義爲寺主。懷義,鄠人,本姓馮,名小寶,賣藥洛陽市,因千金公主以進,得幸於太后;太后欲令出入禁中,乃度爲僧,名懷義。又以其家寒微,令與駙馬都尉薛紹合族,命紹以季父事之。出入乘御馬,宦者十餘人侍從,士民遇之者皆奔避,有近之者,輒撾其首流血,委之而去,任其生死。見道士則極意毆之,仍髡其髪而去。朝貴皆匍匐禮謁,武承嗣、武三思皆執僮僕之禮以事之,爲之執轡,懷義視之若無人。多聚無賴少年,度爲僧,縱橫犯法,人莫敢言。右臺御史馮思勗屢以法繩之,懷義遇思勗於途,令從者毆之,幾死。
26.太后はかつての白馬寺を修復し、僧侶の懐義を寺主とした。
 懐義は鄠の人で、本の姓は馮、名は小宝。洛陽市にて薬を売っていたが、千金公主の斡旋で太后の寵愛を得た。太后は彼を禁中へ出入りさせたくて僧侶にし、懐義と名付けたのだ。又、彼の家が寒微だったので、駙馬都尉の薛紹の一族とゆうことにして、紹に父親代わりとなるよう命じた。
 懐義が禁中へ出入りする時には、乗馬したままで、十余人の宦官を侍従させた。士民は、これに遭うと皆、逃げ出した。道を避けずに近くにいる者がいたら、たちまち流血するほどその首を打ち据え、そのまま放置して去って行く。死のうが生きようがお構いなしだ。道士を見ればメチャクチャに殴りつけ、その髪を丸坊主にして去った。朝廷の貴臣達も皆、匍匐するほど頭を下げ、武承嗣や武三思も僮僕のように彼へ仕えた。彼等が懐義の為に馬の轡を取っても、懐義は当然のようにふんぞり返っていた。
 又、懐義は無頼の少年を大勢集めて僧侶の資格を与え、縦横に法を犯した。それでも、敢えて非難する者は居なかった。ところが、右台御史の馮思昴だけは、屡々法律通りにこれを裁いた。ある時、懐義は路上で思昴と遭った。この時懐義は、従者に思昴を殴らせて、瀕死の重傷を負わせた。
二年(丙戌、六八六)

 春,正月,太后下詔復政於皇帝。睿宗知太后非誠心,奉表固讓;太后復臨朝稱制。辛酉,赦天下。
1.春、正月、太后が、皇帝へ政権を返すと詔を下した。だが睿宗は、それが太后の本心ではないことを知っていたので、表を奉じて固辞した。太后は再び朝廷へ臨んで制を称した。
 辛酉、天下へ恩赦を下す。
 二月,辛未朔,日有食之。
2.二月、辛未朔、日食が起こった。
 右衞大將軍李孝逸既克徐敬業,聲望甚重;武承嗣等惡之,數譖於太后,左遷施州刺史。
3.右衛大将軍李孝逸は、徐敬業に勝ってから声望が非常に重くなった。武承嗣等はこれを憎み、しばしば太后へ讒言し、施州刺史へ左遷させた。
 三月,戊申,太后命鑄銅爲匭,其東曰「延恩」,獻賦頌、求仕進者投之;南曰:「招諫」,言朝政得失者投之;西曰:「伸冤」,有冤抑者投之;北曰:「通玄」,言天象災變及軍機秘計者投之。命正諫、補闕、拾遺一人掌之,先責識官,乃聽投表疏。
  徐敬業之反也,侍御史魚承曄之子保家教敬業作刀車及弩,敬業敗,僅得免。太后欲周知人間事,保家上書,請鑄銅爲匭以受天下密奏。其器共爲一室,中有四隔,上各有竅,以受表疏,可入不可出。太后善之。未幾,其怨家投匭告保家爲敬業作兵器,殺傷官軍甚衆,遂伏誅。
  太后自徐敬業之反,疑天下人多圖己,又自以久專國事,且内行不正,知宗室大臣怨望,心不服,欲大誅殺以威之。乃盛開告密之門,有告密者,臣下不得問,皆給驛馬,供五品食,使詣行在。雖農夫樵人,皆得召見,廩於客館,所言或稱旨,則不次除官,無實者不問。於是四方告密者蜂起,人皆重足屏息。
  有胡人索元禮,知太后意,因告密召見,擢爲游撃將軍,令案制獄。元禮性殘忍,推一人必令引數十百人,太后數召見賞賜以張其權。於是尚書都事長安周興、萬年人來俊臣之徒效之,紛紛繼起。興累遷至秋官侍郎,俊臣累遷至御史中丞,相與私畜無賴數百人,專以告密爲事;欲陷一人,輒令數處倶告,事状如一。俊臣與司刑評事洛陽萬國俊共撰羅織經數千言,教其徒網羅無辜,織成反状,構造布置,皆有支節。太后得告密者,輒令元禮等推之,競爲訊囚酷法,有「定百脈」、「突地吼」、「死豬愁」、「求破家」、「反是實」等名號。或以椽關手足而轉之,謂之「鳳皇曬翅」;或以物絆其腰,引枷向前,謂之「驢駒拔撅」;或使跪捧枷,累甓其上,謂之「仙人獻果」;或使立高木,引枷尾向後,謂之「玉女登梯」;或倒懸石縋其首,或以醋灌鼻,或以鐵圈轂其首而加楔,至有腦裂髓出者。毎得囚,輒先陳其械具以示之,皆戰栗流汗,望風自誣。毎有赦令,俊臣輒令獄卒先殺重囚,然後宣示。太后以爲忠,益寵任之。中外畏此數人,甚於虎狼。
  麟臺正字陳子昂上疏:以爲:「執事者疾徐敬業首亂唱禍,將息姦源,窮其黨與,遂使陛下大開詔獄,重設嚴刑,有迹渉嫌疑,辭相逮引,莫不窮捕考按。至有姦人熒惑,乘險相誣,糾告疑似,冀圖爵賞,恐非伐罪弔人之意也。臣竊觀當今天下,百姓思安久矣,故揚州構逆,殆有五旬,而海内晏然,纖塵不動,陛下不務玄默以救疲人,而反任威刑以失其望,臣愚暗昧,竊有大惑。伏見諸方告密,囚累百千輩,乃其窮竟,百無一實。陛下仁恕,又屈法容之,遂使姦惡之黨快意相讎,睚眦之嫌即稱有密,一人被訟,百人滿獄,使者推捕,冠蓋如市。或謂陛下愛一人而害百人,天下喁喁,莫知寧所。臣聞隋之末代,天下猶平,楊玄感作亂,不踰月而敗。天下之弊,未至土崩,蒸人之心,猶望樂業。煬帝不悟,遂使兵部尚書樊子蓋專行屠戮,大窮黨與,海内豪士,無不罹殃;遂至殺人如麻,流血成澤,天下靡然,始思爲亂,於是雄傑並起而隋族亡矣。夫大獄一起,不能無濫,冤人吁嗟,感傷和氣,羣生癘疫,水旱隨之,人既失業,則禍亂之心怵然而生矣。古者明王重愼刑法,蓋懼此也。昔漢武帝時巫蠱獄起,使太子奔走,兵交宮闕,無辜被害者以千萬數,宗廟幾覆,賴武帝得壺關三老書,廓然感悟,夷江充三族,餘獄不論,天下以安爾。古人云:『前事之不忘,後事之師。』伏願陛下念之!」太后不聽。
4.三月、戊申、太后は銅を鋳造して箱を作らせた。その東を「延恩」と言い、賦や頌を献上して仕官を求める者がこれに投書した。南は「招諫」と言い、朝政の得失に関しての意見を投書した。西は「伸冤」と言い、冤抑された者が投書した。北は「通玄」と言い、天象災変から軍機の秘経などを投書した。
 正諫、補闕、捨遺一人にこれを管理するよう命じ、まず識官を責めてから投書された表疏を聞いた。
 徐敬業が造反した時、侍御史魚承曄の子の保家が敬業へ刀車及び弩の製作法を教えた。敬業は敗北したが、彼等は何とか懲罰から免れていた。今回、太后が人々の情報を全て知りたがると、保家は銅で箱を鋳造して天下から密奏を受けることを提案した。その器は一体ではあるが、中が四つに仕切られており、各々の上方に隙間があって表疏を受け入れ、入れることはできるが出すことはできなかった。太后は、これを気に入った。だが、これが完成してすぐに、魚家を怨む者が、投書して告げた。
「保家は敬業の為に兵器を造り、その為に多くの官軍が殺傷されました。」
 遂に、保家は誅に伏した。
 太后は、敬業が造反して以来、天下の大勢の人間が自分を図ろうとしていると疑った。又、国事を独占して久しく、内行が正しくないことも判っており、宗室や大臣が彼女を怨んで心では服していないことを知っていたので、大勢を誅殺して威権を保とうとした。そこで太后は密告の門戸を盛大に開いた。
 密告する者が来ると、臣下は尋問できない。彼らは皆、駅馬へ乗せて五品の食を与え、行在所へ連れて行く。農夫や木こりでさえ、皆、謁見を許され、客館で持てなされた。密告した内容が気に入られたら即座に官位が与えられ、事実無根でも罰されなかった。ここにおいて密告する者が四方から蜂起し、人々は皆、息をひそめて生きるようになった。
 ここに、胡人の索元礼とゆう者が居た。太后の意向を知り、密告によって謁見され、游撃将軍へ抜擢され、裁判を司った。元礼は残忍な性格で、一人の被疑者が居ると必ず数十百人を取り調べた。太后は屡々召し出して賞を賜り、その権威を後押しした。ここにおいて、尚書都事の長安の周興や万年の人来俊臣など、これに倣う者が次々と現れた。興は累遷して秋官侍郎まで出世し、俊臣も累遷して御史中丞となった。共に無頼の徒を数百人も蓄え、密告に専念した。一人を陥れようとしたら何人もが密告したが、その内容は同じだった。
 俊臣は司刑評事の洛陽の萬國俊と共に羅識経数千言を編纂した。これは、無辜の者を蜘蛛の巣に引っかけて造反へでっち上げる為の方法を、彼等の部下へ教えるためのものだった。
 太后は、密告を得るとすぐに元礼等へ詮議させた。彼等は競うように衆人を拷問へ掛けた。その方法には、「定百脈」「突地吼」「死猪愁」「求破家」「反是実」等と名付けられた。あるいは、手足を縛って転がす、これを「鳳皇曬翅」と言う。あるいは腰を物に縛って枷で前へ引っ張って前を向かせる。これを「驢駒抜撅」と言う。或いは棒の枷で跪かせて重石を重ねて行く。これを「仙人献果」と言う。或いは高木に立たせ、枷で引いて後ろを向かせる。これを「玉女登梯」と言う。或いは逆さまにして首を重石で引っ張る。或いは鼻へ酸を注ぐ。或いは鉄を首に巻き付けて枷とする。脳が裂けて髄が出る者も居た。(ここら辺、今一判りません。図解して欲しい。)囚人毎に、まずは拷問の道具を見せつけて尋問する。大抵は戦慄して汗を流し、言われるままの事を自白した。恩赦が降りると、俊臣はまず重罪人を処刑するよう獄卒に命じてから、赦令を宣事した。太后は、これを忠義として、ますます彼等を寵任した。中外は、この数人を虎や狼のように恐れた。
 麟台正字の陳子昴が上疏して言った。
「政務を執る者は、徐敬業が乱を起こし禍を唱えたので、その余党を窮治して姦源を絶とうとて、遂に陛下へ詔獄を大いに開かせました。厳刑を重く設け、ほんの少しでも嫌疑の跡が有れば、すぐにしょっ引いて一人残らず拷問にかけます。今では、姦人がこれに乗じて、手柄を建てて爵賞をようと、誣告まがいの事でも糾弾しております。これでは、罪人を伐り人を弔うとゆう本来の意向から外れております。
 臣がひそかに当今の天下を観ますに、百姓は安久を望んでいます。ですから揚州にて造反が起こった時も、五旬と経たないうちに海内は静まり、国家は揺るぎませんでした。陛下は玄黙を旨として疲れた民を救うべきですのに、これに務められず、かえって威刑に任せ、民を失望させております。臣は愚昧ではありますが、これは大きな惑いだと思います。
 伏して見ますに、諸方の密告で百千者が下獄されましたが、これらほほとんどでっちあげで、百に一つも真実はありません。陛下は仁恕な人柄ですから、法を曲げてでも彼等密告者達を受け入れて居られますが、おかげで彼等は姦悪の党を造り、私憤をもこれで晴らすようになりました。彼等は、少しでも腹を立てますと、すぐにその相手を密告させます。一人が訴えられますと百人が下獄され、使者が往来して街中は役人の冠で溢れ返っております。
 ある者は、陛下が一人を愛して百人を害するなどと、ヒソヒソと言い合っていますが、それが陛下の本意とは思えません。
 臣は、聞いております。隋の末期、天下は未だ平和だったのに、楊玄感が造反したから、一月も経たずに敗北した。この頃、天下の弊害はまだ土崩まで至って居らず、衆人はなお生業を楽しんでいたからです。ですが煬帝は悟らず、遂に兵部尚書樊子蓋へ屠戮を専横させ、賊の余党を徹底的に糾明したので、海内の豪士達は兢々としました。遂に麻のように殺人が起こり、流血が沢を成す程になりますと、天下は騒然となり、人々は始めて造反を思うようになりました。ここに於いて英雄豪傑が並び立ち、隋皇室は滅亡したのです。
 それ、大獄が一度起こりますと、誅殺が濫発されずには済みません。 冤人のうめき声は和気を感傷し、疫病が群発して水害旱害がこれに従います。人々が生きてゆく術を失うと、禍乱の心が生まれるのです。古の明王が刑法を重く慎んだのも、この為です。
 昔、漢の武帝の時に巫蠱の獄が起こりました。太子を奔走させ兵卒は宮闕で戦い、千万の無辜の民が害を被り、宗廟は滅亡寸前となったのです。武帝が壺関の三老書を得て豁然として感悟し、江充の三族を皆殺しとして余獄を問わなかったので、どうにか天下は安んじたのです。
 古人は言います。『前事を忘れなければ、後事の師匠となる。』と。どうか陛下、これを肝にお命じください!」
 太后は聞かなかった。
 夏,四月,太后鑄大儀,置北闕。
5.夏、四月、太后は大儀を鋳造して北闕へ置いた。
 以岑長倩爲内史。六月,辛未,以蘇良嗣爲左相,同鳳閣鸞臺三品韋待價爲右相。己卯,以韋思謙爲納言。
  蘇良嗣遇僧懷義於朝堂,懷義偃蹇不爲禮;良嗣大怒,命左右捽曳,批其頰數十。懷義訴於太后,太后曰:「阿師當於北門出入,南牙宰相所往來,勿犯也。」
  太后託言懷義有巧思,故使入禁營造。補闕長社王求禮上表,以爲:「太宗時,有羅黑黑善彈琵琶,太宗閹爲給使,使教宮人。陛下若以懷義有巧性,欲宮中驅使者,臣請閹之,庶不亂宮闈。」表寢不出。
6.岑長倩を内史とした。
 六月、辛未、蘇良嗣を左相、同鳳閣鸞台三品韋待價を右相とした。
 己卯、韋思謙を納言とした。
 蘇良嗣が朝堂にて僧懐義と遭った時、懐義はびっこを引いて礼をしなかった。良嗣は大怒して左右へ彼を引き出させ、その頬を数十回叩かせた。懐義が太后へ訴えると、太后は言った。
「阿師は北門から出入りしなさい。南牙は宰相が出入りするところです。犯してはなりません。」
 太后は、懐義は小才が効くと言い訳して、禁中へ入れて営を造らせた。補闕の長社の王求礼が上表した。
「太宗の時、羅黒黒とゆう琵琶の名手がおりました。太宗はこれを去勢して給使として、宮人へ教えさせました。陛下がもし懐義に才知があるので宮中にて使いたいというのであれば、これを去勢してください。そうすれば、後宮を乱しません。」
 だが、何の返答もなかった。
(「閹」の意味がよく判りませんでした。直感で、「去勢する」の意味ではないかと思ったのですが。)
 秋,九月,丁未,以西突厥繼往絶可汗之子斛瑟羅爲右玉鈐衞將軍,襲繼往絶可汗押五弩失畢部落。
7.秋、九月、丁未、西突厥の継往絶可汗の子の斛瑟羅を右玉鈐衛将軍として、継往絶可汗の後を継いで五弩失畢部落を支配させた。
 己巳,雍州言新豐縣東南有山踴出,改新豐爲慶山縣。四方畢賀。江陵人兪文俊上書:「天氣不和而寒暑併,人氣不和而疣贅生,地氣不和而追阜出。今陛下以女主處陽位,反易剛柔,故地氣塞隔而山變爲災。陛下謂之『慶山』,臣以爲非慶也。臣愚以爲宜側身脩德以答天譴;不然,殃禍至矣!」太后怒,流於嶺外,後爲六道使所殺。
8.己巳、新豊県の東南に山が盛り上がった、と、雍州から報告が来た。そこで新豊県を慶山県と改称した。四方から祝賀が集まる。
 江陵の人兪文俊が上書した。
「天気が調和しないと寒暑が同時にやって来て、人気が調和しないと疫病が流行り、地気が調和しないと丘が盛り上がる。今、陛下は女主なのに陽の位に座り、易の柔剛に反しています。だから地気が塞がり山ができるとゆう禍が起こったのです。陛下はこれを『慶山』と名付けられましたが、臣は非慶と判じます。臣は、身を慎み徳を修めて天の譴責に答えるべきとかと愚考いたします。そうでなければ、殃禍がやって来ますぞ!」
 太后は怒り、文俊を嶺外へ流した。後、六道使に殺させた。
(訳者曰く。)
 太后が怒るだろうな。殺されるのも当然。もっとも、文俊も覚悟の上だったのでしょうが。
 ところで、昭和新山が隆起したのは、確か戦争中でした。この時は、「国家隆盛の瑞兆」とか宣伝されたのだろうか?秋の島新島は戦後のことで、既に天皇は単なる象徴になっていましたから、瑞兆だの何だのと言い出す人は居なかったのですが。
 ところで、資治通鑑全編を通じて「山ができた」とゆう記述は他に覚えがありません。昭和新山や秋の島新島は、よほど珍しいことだったのだろうか?まあ、日本は火山国だから起こりやすいのかも知れませんが。
 突厥入寇,左鷹揚衞大將軍黑齒常之拒之;至兩井,遇突厥三千餘人,見唐兵,皆下馬擐甲,常之以二百餘騎衝之,皆棄甲走。日暮,突厥大至,常之令營中然火,東南又有火起,虜疑有兵相應,遂夜遁。
9.突厥が入寇した。左鷹揚衛大将軍黒歯常之がこれと拒戦する。
 両井にて突厥軍三千余人と遭遇した。彼等は唐兵を見ると皆、下馬して鎧を付けた。常之が二百余騎でこれへ突撃すると、敵は皆、鎧を棄てて逃げた。日が暮れると、突厥が大挙して押し寄せた。常之は営中で火を燃やさせ、東南にも又火を起こした。虜は援軍が呼応しているのかと疑い、遂に夜逃げした。
 10狄仁傑爲寧州刺史。右臺監察御史晉陵郭翰巡察隴右,所至多所按劾,入寧州境,耆老歌刺史德美者盈路;翰薦之於朝,徴爲冬官侍郎。

10.狄仁傑が寧州刺史となった。
 左台監察御史の晋陵の郭翰が隴右を巡察したが、至る所で地方官の失点を摘発弾劾した。ところが寧州へ入ると、刺史の美徳を讃美して歌を歌う老人が路に溢れていた。翰はこれを朝廷へ推薦したので、冬官侍郎に抜擢された。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:26
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