巻第二百四

資治通鑑巻第二百四
 唐紀二十
  則天順聖皇后上之下
垂拱三年(丁亥、六八七)

 春,閏正月,丁卯,封皇子成美爲恆王,隆基爲楚王,隆範爲衞王,隆業爲趙王。
1.春、閏正月、丁卯、皇子成美を恒王に封じた。隆基を楚王に封じた。隆範を衛王に封じた。隆業を趙王へ封じた。
 二月,丙辰,突厥骨篤祿等寇昌平,命左鷹揚大將軍黑齒常之帥諸軍討之。
2.二月、丙辰、突厥の骨篤禄等が昌平へ来寇した。左鷹揚大将軍黒歯常之へ、諸軍を率いて討伐するよう命じた。
 三月,乙丑,納言韋思謙以太中大夫致仕。
3.三月、乙丑、納言韋思謙を太中大夫として退官させた。
 夏,四月,命蘇良嗣留守西京。時尚方監裴匪躬檢校京苑,將鬻苑中蔬果以收其利。良嗣曰:「昔公儀休相魯,猶能拔葵、去織婦,未聞萬乘之主鬻蔬果也。」乃止。
4.夏、四月、蘇良嗣へ西京の留守を命じる。
 この時、尚方監裴匪躬へ京苑を検校させ、苑中でとれる果実や野菜を売って利益を得ようとした。良嗣は言った。
「昔、公儀休が魯の宰相となった時、菜園を造らせず、婦人へは機織りもさせず、言いました。『我は既に禄を食んでいる。その上に農夫や織婦の職を奪うのか!』と。ましてや万乗の君が野菜や果実を売るなどとゆう話は、聞いたことがありません。」
 そこで、中止した。
 壬戌,裴居道爲納言。五月,丙寅,夏官侍郎京兆張光輔爲鳳閣侍郎、同平章事。
5.壬戌、裴居道を納言とした。五月、丙寅、夏官侍郎で京兆の張光輔を鳳閣侍郎、同平章事とした。
 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品劉禕之竊謂鳳閣舎人永年賈大隱曰:「太后既廢昏立明,安用臨朝稱制!不如返正,以安天下之心。」大隱密奏之,太后不悅,謂左右曰:「禕之我所引,乃復叛我!」或誣禕之受歸誠州都督孫萬榮金,又與許敬宗妾有私,太后命肅州刺史王本立推之。本立宣敕示之,禕之曰:「不經鳳閣鸞臺,何名爲敕!」太后大怒,以爲拒捍制使;庚午,賜死于家。
  禕之初下獄,睿宗爲之上疏申理,親友皆賀之,禕之曰:「此乃所以速吾死也。」臨刑,沐浴,神色自若,自草謝表,立成數紙。麟臺郎郭翰、太子文學周思均稱歎其文。太后聞之,左遷翰巫州司法,思鈞播州司倉。
6.鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品劉禕之が、鳳閣舎人の永年の賈大隠へ密かに言った。
「太后は既に混迷な主君を廃して明君を立てられたのに、どうしていつまでも朝廷へ臨んで制を称しておられるのか!政権を陛下へ返して天下の心を安心させるべきだ。」
 大隠は、これを密かに上奏した。太后は不機嫌になり、左右へ言った。
「禕之は、我が引き立てた男なのに、我へ背くのか!」
 するとある者が、禕之が帰誠州都督孫萬栄から金を受け取ったと誣告し、別の者は、禕之は許敬宗の妾と密通していると誣告した。太后は、粛州刺史王本立へ、これを詮議させた。本立が敕を宣べてこれを示すと、禕之は言った。
「鳳閣鸞台を経由しないのに、何で敕と言うのか!」
 太后は大怒して、太后の命令に従わなかったとし、庚午、家にて自殺させた。
 禕之が獄に下された当初、睿宗は彼の為に上疏して理を述べた。禕之の親戚や友人達は、これを聞いて禕之を祝賀したが、禕之は言った。
「これは、却って我が死を速めるだけだ。」
 刑に臨んで沐浴したが、立ち居振る舞いは自若としていた。自ら謝表をしたためたが、たちどころに数枚書き上げた。麟台郎の郭翰と太子文学の周思鈞は、その文章を賞嘆した。太后はこれを聞き、翰を巫州司法へ、思鈞を播州司倉へ左遷した。
 秋,七月,壬辰,魏玄同檢校納言。
7.秋、七月、壬辰、魏玄同を検校納言とした。
 嶺南俚戸舊輸半課,交趾都護劉延祐使之全輸,俚戸不從,延祐誅其魁首。其黨李思愼等作亂,攻破安南府城,殺延祐。桂州司馬曹玄靜將兵討思愼等,斬之。
8.嶺南の俚戸は、もともと税金が半分だった。交趾都護劉延祐は、これを全額徴収したが、俚戸は従わない。そこで延祐は、その首魁を誅殺した。すると、俚戸の党類李思慎等が造反した。安南府城を攻め破り、延祐を殺した。
 桂州司馬の曹玄静が兵を率いて思慎等を討ち、これを斬った。
 突厥骨篤祿、元珍寇朔州;遣燕然道大總管黑齒常之撃之,以左鷹揚大將軍李多祚爲之副,大破突厥於黄花堆,追奔四十餘里,突厥皆散走磧北。多祚世爲靺鞨酋長,以軍功得入宿衞。黑齒常之毎得賞賜,皆分將士;有善馬爲軍士所損,官屬請笞之,常之曰:「奈何以私馬笞官兵乎!」卒不問。
9.突厥の骨篤禄、元珍が朔州へ来寇した。燕然道大総管黒歯常之を派遣して、これを撃たせた。左鷹揚大将軍李多祚を副官とした。彼等は黄花堆にて突厥を大いに破り、四十余里追撃した。突厥は、皆、磧北へ奔走した。
 多祚は代々靺鞨の酋長だったが、軍功が認められて宿衛へ入れた。
 黒歯常之は、賞を賜るごとに皆、将士へ分配した。ある時、軍士が善馬を損なった。官属はこれを笞打つよう請うたが、常之は言った。
「なんで私馬の為に官兵を笞打ってよかろうか!」
 ついに、不問に処した。
 10九月,己卯,虢州人楊初成詐稱郎將,矯制於都市募人迎廬陵王於房州;事覺,伏誅。
10.九月、己卯、虢州の人楊初成が郎将と詐称し、制をでっちあげて都市にて人を募り、房州へ廬陵王を迎え入れようとした。
 事件が発覚して、誅に伏した。
 11冬,十月,庚子,右監門衞中郎將爨寶璧與突厥骨篤祿、元珍戰,全軍皆沒,寶璧輕騎遁歸。
  寶璧見黑齒常之有功,表請窮追餘寇。詔與常之計議,遙爲聲援。寶璧欲專其功,不待常之,引精卒萬三千人先行,出塞二千餘里,掩撃其部落;既至,又先遣人告之,使得嚴備,與戰,遂敗。太后誅寶璧;改骨篤祿曰不卒祿。
11.冬、十月、庚子、右監門衛中郎将爨寶璧が突厥の骨篤禄、元珍と戦って、全滅した。寶璧は軽騎で逃げ帰った。その経緯は、以下の通り。
 寶璧は黒歯常之が功績を建てたのを見て、余寇を追い詰めるよう上表して請願した。すると、常之とこれを合議して声援となるよう、詔が降った。
 寶璧は軍功を独占しようと、常之を待たず、精鋭兵一万三千を率いて先行した。塞を出て二千余里、敵の部落を襲撃する。だが、彼は到着すると、まず人を派遣してこれを告げたので、敵は厳重に備えをしており、戦って敗北した。
 太后は寶璧を誅殺し、骨篤禄を不卒禄と改名した。
 12命魏玄同留守西京。
12.魏玄同へ西京の留守を命じた。
 13武承嗣又使人誣李孝逸自云「名中有兔,兔,月中物,當有天分。」太后以孝逸有功,十一月,戊寅,減死除名,流儋州而卒。
13.武承嗣は、再び人へ李孝逸を誣告させ、自ら言った。
「彼の名の中に『兔』の字があります。兔とは月の中に住むもの。天子になるつもりです。」
 太后は、孝逸には功績があったとして、十一月、戊寅、死を減じて除名に留め、儋州へ流した。そこで卒した。
 14太后欲遣韋待價將兵撃吐蕃,鳳閣侍郎韋方質奏,請如舊制遣御史監軍。太后曰:「古者明君遣將,閫外之事悉以委之。比聞御史監軍,軍中事無大小皆須承稟。以下制上,非令典也;且何以責其有功!」遂罷之。
14.太后は、韋侍價へ兵を与えて派遣し、吐蕃を撃たせようと欲した。すると鳳閣侍郎韋方質が、旧制のように監軍として御史を派遣するよう請うた。だが、太后は言った。
「古の明君が将を派遣する時は、城外のことを悉くこれへ委任しました。このごろは御史を監軍として、軍中のことは大小となくその承認を得るようになったと聞きます。これでは、下位の者へ上を制御させることになり、令典ではありません。これでは何を以てその功を責めることができますか!」
 ついに、これをやめた。
 15是歳,天下大饑,山東、關内尤甚。
15.この年、天下は大飢饉で、特に山東と関内が甚だしかった。
四年(戊子、六八八)

 春,正月,甲子,於神都立高祖、太宗、高宗三廟,四時享祀如西廟之儀。又立崇先廟以享武氏祖考。太后命有司議崇先廟室數,司禮博士周悰請爲七室,又減唐太廟爲五室。春官侍郎賈大隱奏:「禮,天子七廟,諸侯五廟,百王不易之義。今周悰別引浮議,廣述異聞,直崇臨朝權儀,不依國家常度。皇太后親承顧托,光顯大猷,其崇先廟室應如諸侯之數,國家宗廟不應輒有變移。」太后乃止。
1.春、正月、甲子、神都に於いて高祖、太宗、高宗の三廟を立て、西廟の儀のように四時に祀りを享した。また、祟先廟を立て、武氏の祖考を享する。
 太后は、祟先廟の室数について、学者達へ議論させた。司禮博士周悰は、七室として、唐の太廟を五室へ減らすよう請うた。すると、春官侍郎賈大隠が上奏した。
「禮では、天子が七廟で、諸侯は五廟です。これは、百王に亘って変わっておりません。今、周悰は浮薄な論議で異端の説を述べましたが、これは朝廷の権威に関わりますし、国家の常数にも合いません。皇太后は顧託を蒙られ、大きな計略に輝かしい功績を遺されるお方です。どうかその祟先廟の室数は諸侯の数に応じ、国家の宗廟は変えないでください。」
 太后は、止めた。
 太宗、高宗之世,屢欲立明堂,諸儒議其制度,不決而止。及太后稱制,獨與北門學士議其制,不問諸儒。諸儒以爲明堂當在國陽丙己之地,三里之外,七里之内。太后以爲去宮太遠。二月,庚午,毀乾元殿,於其地作明堂,以僧懷義爲之使,凡役數萬人。
2.太宗、高宗の御代に、屡々明堂を建てようとしたが、その大きさや位置などについて、儒学者達の議論が決まらず、中止となった。太后が摂政となるに及んで、その制度を北門学士だけと議論し、他の儒者には問わなかった。
 諸儒は、明堂の場所を国陽丙巳の地で、宮城から三里以上七里以内の場所とした。だが太后は、宮城から遠すぎるとした。
 二月、庚午、乾元殿を壊し、その地に明堂を造った。僧懐義の使役で数万人の人夫が使われた。
 夏,四月,戊戌,殺太子通事舎人郝象賢。象賢,處俊之孫也。
  初,太后有憾於處俊,會奴誣告象賢反,太后命周興鞫之,致象賢族罪。象賢家人詣朝堂,訟冤於監察御史樂安任玄殖。玄殖奏象賢無反状,玄殖坐免官。象賢臨刑,極口罵太后,發揚宮中隱慝,奪市人柴以撃刑者;金吾兵共格殺之。太后命支解其尸,發其父祖墳,毀棺焚尸。自是終太后之世,法官毎刑人,先以木丸塞其口。
3.夏、四月、戊戌、太子通事舎人郝象賢を殺した。象賢は處俊の孫である。
 初め、太后は處俊へ含むところがあった。やがて奴が象賢の造反を誣告すると、太后は周興へこれを詮議させ、象賢の一族全てを誅殺とした。
 象賢の家人は朝堂を詣で、監察御史の楽安の任玄殖へ冤罪を訴えた。だが、玄殖が象賢の無実を上表すると、彼まで罷免された。
 象賢は、刑に臨んで口を極めて太后を罵り、宮中の秘事を次々と暴露した。そして市人から柴を奪うと、看守へ撃ち掛かったので、金吾の兵卒が皆でこれを殺した。太后は、死体をバラバラにし、その父祖の墳墓を暴いて棺桶を壊し屍を焼かせた。
 これ以来、太后の御代の終わりまで、法官は処刑のたびに、まず木丸で囚人の口を塞ぐようになった。
 武承嗣使鑿白石爲文曰:「聖母臨人,永昌帝業。」末紫石雜藥物填之。庚午,使雍州人唐同泰奉表獻之,稱獲之於洛水。太后喜,命其石曰「寶圖」,擢同泰爲游撃將軍。五月,戊辰,詔當親拜洛,受「寶圖」;有事南郊,告謝昊天;禮畢,御明堂,朝羣臣。命諸州都督、刺史及宗室、外戚以拜洛前十日集神都。乙亥,太后加尊號爲聖母神皇。
4.武承嗣が、白石を穿って文を書かせた。その文は、
「聖母臨人、永昌帝業」
 そして紫色の石の粉へ薬を混ぜた物を削った跡へ填めた。
 庚午、雍州の人唐同泰へ「洛水にて見つかった」とのふれこみで、これを献上させた。太后は喜び、この石を「宝図」と名付け、同泰を游撃将軍へ抜擢した。
 五月、戊辰、自ら洛を拝礼し「宝図」を受けると詔した。南郊にて祀り、昊天へ感謝の意を告げる。礼が畢ると明堂へ御幸し、群臣へ朝するのが、その手順である。諸州の都督、刺史、及び宗室、外戚は洛を拝礼する為、十日前には神都へ集まるよう命じた。
 乙亥、太后へ聖母神皇の尊号を加えた。
 六月,丁亥朔,日有食之。
5.六月、丁亥朔、日食が起こった。
 壬寅,作神皇三璽。
6.壬寅、神皇の三璽を作った。
 東陽大長公主削封邑,并二子徙巫州。公主適高履行,太后以高氏長孫無忌之舅族,故惡之。
7.東陽大長公主の封邑を削り、併せて二子を巫州へ流した。
 公主は高履行へ嫁いでいた。高氏は長孫無忌の舅の一族である。だから太后は彼女を憎んだのだ。
 江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑以呉、楚多淫祠,奏焚其一千七百餘所,獨留夏禹、呉太伯、季札、伍員四祠。
8.江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑は、呉、楚に淫祠が多いので、その千七百ヶ所を焚いたと上奏した。ただ、夏禹、呉太祖、季札、伍員の四祠だけは残した。
 秋,七月,丁巳,赦天下。更命「寶圖」爲「天授聖圖」;洛水爲永昌洛水,封其神爲顯聖侯,加特進,禁漁釣,祭祀比四瀆。名圖所出曰「聖圖泉」,泉側置永昌縣。又改嵩山爲神嶽,封其神爲天中王,拜太師、使持節、神嶽大都督,禁芻牧。又以先於汜水得瑞石,改汜水爲廣武。
  太后潛謀革命,稍除宗室。絳州刺史韓王元嘉、靑州刺史霍王元軌、邢州刺史魯王靈夔、豫州刺史越王貞及元嘉子通州刺史黄公譔、元軌子金州刺史江都王緒、虢王鳳子申州刺史東莞公融、靈夔子范陽王藹、貞子博州刺史琅邪王沖,在宗室中皆以才行有美名,太后尤忌之。元嘉等内不自安,密有匡復之志。
  譔謬爲書與貞云:「内人病浸重,當速療之,若至今冬,恐成痼疾。」及太后召宗室朝明堂,諸王因遞相驚曰:「神皇欲於大饗之際,使人告密,盡收宗室,誅之無遺。」譔詐爲皇帝璽書與沖云:「朕遭幽縶,諸王宜各發兵救我。」沖又詐爲皇帝璽書云:「神皇欲移李氏社稷以授武氏。」八月,壬寅,沖召長史蕭德琮等令募兵,分告韓、霍、魯、越及貝州刺史紀王愼,令各起兵共趣神都。太后聞之,以左金吾將軍丘神勣爲清平道行軍大總管以討之。
  沖募兵得五千餘人,欲渡河取濟州;先撃武水,武水令郭務悌詣魏州求救。莘令馬玄素將兵千七百人中道邀沖,恐力不敵,入武水,閉門拒守。沖推草車塞其南門,因風縱火焚之,欲乘火突入;火作而風回,沖軍不得進,由是氣沮。堂邑董玄寂爲沖將兵撃武水,謂人曰:「琅邪王與國家交戰,此乃反也。」沖聞之,斬玄寂以徇,衆懼而散入草澤,不可禁止,惟家僮左右數十人在。沖還走博州,戊申,至城門,爲守門者所殺,凡起兵七日而敗。丘神勣至博州,官吏素服出迎,神勣盡殺之,凡破千餘家。
  越王貞聞沖起,亦舉兵於豫州,遣兵陷上蔡。九月,丙辰,命左豹韜大將軍麹崇裕爲中軍大總管,岑長倩爲後軍大總管,將兵十萬以討之,又命張光輔爲諸軍節度。削沖屬籍,更姓虺氏。貞聞沖敗,欲自鎖詣闕謝罪,會所署新蔡令傅延慶募得勇士二千餘人,貞乃宣言於衆曰:「琅邪已破魏、相數州,有兵二十萬,朝夕至矣。」發屬縣兵共得五千,分爲五營,使汝陽縣丞裴守德等將之,署九品以上官五百餘人。所署官皆受迫脅,莫有鬭志,惟守德與之同謀,貞以其女妻之,署大將軍,委以腹心。貞使道士及僧誦經以求事成,左右及戰士皆帶辟兵符。麹崇裕等軍至豫州城東四十里,貞遣少子規及裴守德拒戰,兵潰而歸。貞大懼,閉閤自守。崇裕等至城下,左右謂貞曰:「王豈可坐待戮辱!」貞、規、守德及其妻皆自殺。與沖皆梟首東都闕下。
  初,范陽王藹遣使語貞及沖曰:「若四方諸王一時並起,事無不濟。」諸王往來相約結,未定而沖先發,惟貞狼狽應之,諸王皆不敢發,故敗。
  貞之將起兵也,遣使告壽州刺史越瓌,瓌妻常樂長公主謂使者曰:「爲我語越王:昔隋文帝將簒周室,尉遲迥,周之甥也,猶能舉兵匡救社稷。功雖不成,威震海内,足爲忠烈。況汝諸王,先帝之子,豈得不以社稷爲心!今李氏危若朝露,汝諸王不捨生取義,尚猶豫不發,欲何須邪!禍且至矣,大丈夫當爲忠義鬼,無爲徒死也。」
  及貞敗,太后欲悉誅韓、魯等諸王,命監察御史藍田蘇珦按其密状。珦訊問,皆無明驗,或告珦與韓、魯通謀,太后召珦詰之,珦抗論不回。太后曰:「卿大雅之士,朕當別有任使,此獄不必卿也。」乃命珦於河西監軍,更使周興等按之,於是收韓王元嘉、魯王靈夔、黄公譔、常樂公主於東都,迫脅皆自殺,更其姓曰「虺」,親黨皆誅。
  以文昌左丞狄仁傑爲豫州刺史。時治越王貞黨與,當坐者六七百家,籍沒者五千口,司刑趣使行刑。仁傑密奏:「彼皆詿誤,臣欲顯奏,似爲逆人申理;知而不言,恐乖陛下仁恤之旨。」太后特原之,皆流豐州。道過寧州,寧州父老迎勞之曰:「我狄使君活汝邪?」相攜哭於德政碑下,設齋三日而後行。
  時張光輔尚在豫州,將士恃功,多所求取,仁傑不之應。光輔怒曰:「州將輕元帥邪?」仁傑曰:「亂河南者,一越王貞耳,今一貞死,萬貞生!」光輔詰其語,仁傑曰:「明公總兵三十萬,所誅者止於越王貞。城中聞官軍至,踰城出降者四面成蹊,明公縱將士暴掠,殺已降以爲功,流血丹野,非萬貞而何!恨不得尚方斬馬劍,加於明公之頸,雖死如歸耳!」光輔不能詰,歸,奏仁傑不遜,左遷復州刺史。
9.秋、七月、丁巳、天下へ恩赦を下した。「宝図」を「天授聖図」と改称した。
 また、洛水を永昌洛水と為し、その神を顕聖侯へ封じ、特進を加え、洛水での漁や釣を禁じ、祭祀は四涜に準じさせた。図の出土した場所は「聖図泉」と名付け、泉の側へ永昌県を設置した。
 また、祟山を神嶽と改称し、その神を天中王へ封じ、太師・使持節・神嶽大都督として、草を刈ったり放牧したりすることを禁じた。
 また、以前汜水から瑞石を得たことがあったので、汜水を廣武と改称した。
 太后は、ひそかに革命を謀っていたので、宗室を少しずつ除いて行くつもりだった。中でも、絳州刺史の韓王元嘉、青州刺史の霍王元軌、邢州刺史の魯王霊夔、豫州刺史の越王貞及び元嘉の子の通州刺史黄公譔、元軌の子金州刺史江都王緒、虢王鳳の子の申州刺史東莞公融、霊夔の子范陽王藹、貞の子の博州刺史琅邪王沖等は宗室の中でも才覚行跡に美名があったので、太后は特に忌んでいた。元嘉等は内心不安で堪らず、ひそかに匡復の志を持った。
 譔は、誤って貞へ書を送った。
「内人の病気は次第に重くなっています。速やかに治療をしなければ、今冬になれば重症になります。」
 太后が宗室を朝堂に集めると、諸王は共に書状をやり取りし、驚き合った。
「神皇は饗応の時に人へ密告させ、宗室を囚えて一人残らず滅ぼすつもりだ。」
 譔は皇帝の璽書を偽造して沖へ渡した。その偽書の内容は、
「朕は幽閉されている。諸王、各々兵を発して我を救え。」
 沖は又、皇帝の璽書を得たと偽った。その書は、
「神皇は李氏の社稷を武氏へ授けようとしている。」
 八月壬寅。沖は長史蕭徳琮等を召して兵を募らせた。そして、韓、霍、魯、越及び貝州刺史紀王慎へ各々兵を起こして神都へ赴くよう命じた。太后はこれを聞き、左金吾将軍丘神勣を清平道行軍大総管として、これを討伐させた。
 沖は募兵して五千余人を得た。河を渡って済州を取ろうと思い、まず武水を襲撃した。武水令の郭務悌は魏州へ行って救援を求めた。莘令の馬玄素は千七百人を率いて隠岐を途上で襲おうとしたが、兵力不足を恐れ、結局は武水へ入って城門を閉じて拒守した。
 沖は草車を押してその南門を塞ぎ、風を利用してこれを焚き、火に乗じて突入しようとした。ところが、火を付けたら風向きが変わり、沖軍は進めなかった。この一件で、志気が衰えた。
 堂邑の董玄寂は、沖の将となって兵を率いて武水を攻撃していたが、人へ言った。
「琅邪王は国家と交戦した。これは造反だ。」
 沖はこれを聞くと玄寂を斬って見せしめとした。すると衆人は恐れて草沢の中へ逃げ込んだ。沖はこれを制止できず、ただ家僮や左右の数十人が残るだけとなった。沖は、博州へ逃げ帰った。
 戊申、城門へ至って、門番に殺された。およそ、起兵して七日で敗北した。
 丘神勣が博州へ至ると、官吏は素服で出迎えたが、神勣はこれを皆殺しとした。およそ千余家を破った。
 越王貞は沖の起兵を聞き、また、豫州にて起兵した。兵を派遣して上蔡を陥した。
 九月丙辰。左豹韜大将軍麹祟裕を中軍大総管、岑長倩を後軍大総管として十万の兵を与えてこれを討伐させた。また、張光輔へ諸軍節度を命じた。沖の属籍を削り、姓を虺氏と変えた。
 貞は沖の敗北を聞くと、自ら鎖で縛り上げて闕を詣でて謝罪しようと思ったが、麾下の蔡令傳延慶が募兵して勇士二千余人を得たので、貞は衆へ宣言した。
「琅邪王は既に魏、相数州を破り、その兵力は二十万。朝夕にでもここへ駆けつけて来るぞ。」
 麾下の県兵を徴発して合計五千人を五つの陣営に分け、汝南県丞裴守徳等へこれを率いさせ、九品以上の官五百余人を配置した。これらの官人は全て脅迫されたもので、闘志はなかったので、ただ守徳のみと謀議を練った。貞は彼の娘を娶り、彼を大将軍として、腹心とした。
 貞は、道士と僧侶へ経を読ませ、事の成就を求めた。左右及び戦士へは、皆、兵を倒す護符を持たせた。
 麹祟裕等の軍が豫州城の東四十里まで到着した。貞は末子の規と裴守徳を派遣して拒戦させたが、軍が潰れて帰還した。貞は大いに懼れ、閣を閉じて守備に徹した。
 祟裕等が城下へ至ると、左右が貞へ言った。
「王は坐したまま戮辱を待たれてよいものでしょうか!」
 貞、規、守、徳及びその妻は皆自殺した。
 初め、范陽王藹は、使者を派遣して貞及び沖へ語った。
「もし、四方の諸王が一斉に蜂起したら、絶対成功する。」
 諸王は往来して約束を結んだ。だが、計画が定まる前にまず沖が起兵した。ただ貞だけが狼狽してこれに応じたが、諸王は皆、敢えて動かなかった。だから敗れたのだ。
 貞は起兵する直前、使者を派遣して壽州刺史趙瓌へ告げた。瓌の妻の常楽公主は使者へ言った。
「私の為に、越王へ語ってください。昔、隋の文帝が周室を簒奪しようとした時、周帝の甥の尉遅迥が挙兵して社稷を救おうとしました。功は成らなかったけれども、その威は海内を震わせ、忠烈となすに充分でした。ましてや汝は諸王、先帝の子息です。社稷のために働く心をなくして、どうしてよいものでしょうか!今、李氏は朝露のように危ういのです。汝諸王は生きることを求めず、義を取りなさい。もし猶予して起兵しなければ、一体何を待つのですか!禍はやって来ます。大丈夫なら忠義の鬼となりなさい。無為のまま犬死にしてはなりません。」
 貞が敗北するに及んで、太后は韓、魯等の諸王も悉く誅殺したがった。そこで、監察御史の藍田の蘇珦へ彼等の密約を取り調べさせた。珦が尋問したが、明確な証拠は見つからない。するとある者が、珦は韓、魯と内通していると密告した。太后は珦を召し出して詰問したが、珦は抗弁して自説を曲げなかった。すると、太后は言った。
「卿は大雅の士です。朕は別の任務を与えましょう。この疑獄には、卿は不用です。」
 そして向を河西監軍として、周興等へ取り調べさせた。すると興は韓王元嘉、魯王霊夔、黄公譔、常楽公主を東都へ収容し、脅し迫まって皆、自殺させた。彼等の姓を皆虺と変え、親戚も皆誅殺した。
 文昌左丞狄仁傑を、豫州刺史とする。この時、越王貞の一味として連座される者が六、七百家もあり、五千人が官奴とされ、司刑が刑の執行にやってきた。すると、仁傑は密奏した。
「彼等は皆、無罪です。臣は顕奏したかったのですが、それでは逆人を弁護することになります。ですが、知っていて言わないのでは、陛下の仁恕の御心に背くことを恐れます。」
 太后は特にこれを赦して、皆、豊州への流罪とした。
 彼等が寧州を行き過ぎると、寧州の父老が迎え出て、労った。
「我等の狄使君が、君らを生かしたのか?」
 そして彼等は徳政碑の下で抱き合って慟哭し、斎を三日設けてから送り出した。
 この時、張光輔は、まだ豫州に居た。将士は功績を恃んで、多くの物を求めたが、仁傑は応じなかった。光輔は怒って言った。
「州は元帥を軽く見るのか?」
 仁傑は言った。
「河南を乱したのは越王貞ただ一人だ。今、一人の貞は死んだが、一万人の貞が生まれた!」
 光輔がその言葉を詰ると、仁傑は言った。
「明公は三十万の兵を率いてきたのに、誅殺したのは越王貞ただ一人だけ。城中では官軍が来たと聞いて城壁を乗り越えて降伏してきた者で、四面は道が埋まるほどだった。明公が将士へ暴虐を許し既に降伏した者を殺して手柄とするなら、流れる血は野を朱に染めた。これが一万人の貞でなくて何だ!わしの斬馬刀を明公の頸へ加えられないのが恨めしい。もしもそれができたなら、命を無くしても本望だ!」
 光輔は詰問できずに帰ったが、仁傑が不遜だと上奏し、復州刺史へ左遷させた。
 10丁卯,左肅政大夫騫味道、夏官侍郎王本立並同平章事。
10.丁卯、左粛政大夫騫味道と夏官侍郎王本立をともに同平章事とした。
 11太后之召宗室朝明堂也,東莞公融密遣使問成均助教高子貢,子貢曰:「來必死。」融乃稱疾不赴。越王貞起兵,遣使約融,融倉猝不能應,爲官屬所逼,執使者以聞,擢拜右贊善大夫。未幾,爲支黨所引,冬,十月,己亥,戮於市,籍沒其家。高子貢亦坐誅。
  濟州刺史薛顗、顗弟緒、緒弟駙馬都尉紹,皆與琅邪王沖通謀。顗聞沖起兵,作兵器,募人;沖敗,殺録事參軍高纂以滅口。十一月,辛酉,顗、緒伏誅,紹以太平公主故,杖一百,餓死於獄。
  十二月,乙酉,司徒、靑州刺史霍王元軌坐與越王連謀,廢徙黔州,載以檻車,行至陳倉而死。江都王緒、殿中監郕公裴承先皆戮於市。承先,寂之孫也。
11.太后は宗室を朝堂へ集めた時、東完公融は密かに使者を派遣して成均助教の高子貢へ問うた。すると子貢は言った。
「来たら、必ず死ぬ。」
 そこで融は病気と称して赴かなかった。
 越王貞が起兵すると、使者を派遣して融へ呼応の約束を取り付けた。しかし融は突然のことで呼応できなかったばかりか、官属から迫られて、使者を捕らえ上聞した。その功績で右贊善大夫に抜擢される。だが、それからすぐに、支党から告発された。
 冬、十月、己亥、市にて殺戮され、その家は官奴となった。
 高子貢もまた連座して誅殺された。
 済州刺史薛顗、顗の弟緒、緒の弟駙馬都尉紹は皆、琅邪王沖と通謀していた。顗は沖が起兵したと聞くと、兵器を造って人を募った。沖が敗北すると録事惨事高纂を殺して口を封じた。
 十一月、辛酉、顗、緒が誅に伏した。紹は太平公主の縁故なので、杖で百叩きで済んだが、獄中で餓死した。
 十二月、乙酉、司徒、青州刺史霍王元軌が越王と連謀したとの罪で廃されて黔州へ流された。檻車に載せられて護送される途中、陳倉にて殺された。江都王緒や殿中監郕公裴承先は市にて殺戮された。承先は寂の孫である。
 12命裴居道留守西京。
12.裴居道へ西京留守を命じた。
 13左肅政大夫、同平章事騫味道素不禮於殿中侍御史周矩,屢言其不能了事。會有羅告味道者,敕矩按之。矩謂味道曰:「公常責矩不了事,今日爲公了之。」乙亥,味道及其子辭玉皆伏誅。
13.左粛政大夫、同平章事騫味道は、もともと殿中侍御史周矩を礼せず、しばしば、彼は何もできないと言っていた。味道を密告する者がおり、矩へ取り調べるよう敕が降りた。
 矩は味道へ言った。
「公はいつも、矩が事を完遂しないと責めていた。今日は、公の為に完遂してやろうじゃないか。」
 乙亥、味道とその子辞玉は誅に伏した。
 14己酉,太后拜洛受圖,皇帝、皇太子皆從,内外文武百官、蠻夷各依方敍立,珍禽、奇獸、雜寶列於壇前,文物鹵簿之盛,唐興以來未之有也。
14.己酉、太后は洛を拝礼して図を受けた。皇帝と皇太子が、これに従った。内外の文武百官や蛮夷は各々の場所に立ち、珍禽奇獣雑寶を壇の前に並べた。唐が興って以来、文物歯簿がこんなに盛大になったことはなかった。
 15辛亥,明堂成,高二百九十四尺,方三百尺。凡三層:下層法四時,各隨方色;中層法十二辰;上爲圓蓋,九龍捧之。上施鐵鳳,高一丈,飾以黄金。中有巨木十圍,上下通貫,栭櫨橕箆藉以爲本。下施鐵渠,爲辟雍之象。號曰萬象神宮。宴賜羣臣,赦天下,縱民入觀。改河南爲合宮縣。又於明堂北起天堂五級以貯大像;至三級,則俯視明堂矣。僧懷義以功拜左威衞大將軍、梁國公。
  侍御史王求禮上書曰:「古之明堂,茅茨不剪,采椽不斲。今者飾以珠玉,塗以丹靑,鐵鷟入雲,金龍隱霧,昔殷辛瓊臺,夏癸瑤室,無以加也。」太后不報。
15.辛亥、明堂が落成した。その高さは二百九十四尺、方三百尺。およそ三層。下層は四時に則り、各々色を変えた。中層は十二辰に則り、上は円形の蓋があって、九匹の龍が棒を支えている。上には鉄の鳳凰が施されていた。その高さは一丈。黄金で飾られていた。明堂の中には十抱えの巨木があり、上下を貫通して、家を支える柱の代わりをしていた。下には鉄の渠を施して水を通していた。号して「萬象神宮」と言った。
 群臣へ宴を賜り、天下へ恩赦をくだし、民にも自由に出入りして見学させた。また、河南県を合宮県と改称した。
 又、明堂の北に天堂五級を建て、大像を貯えた。その三級からは明堂が見下ろせた。
 僧懐義はこの功績で左威衛大将軍、梁国公を拝受した。
 侍御史王求礼が上書した。
「古の明堂は屋根を葺いた茅や茨は切りそろえず、材木は削らず、倹約を示しました。しかし、今は珠玉で飾り立て、丹青を塗っています。鉄の鳳は雲に入り、金龍は霧に隠れる。昔の、殷の紂王の瓊室や夏の桀王の瑶室も、これ以上ではありません。」
 太后は、返答しなかった。
 16太后欲發梁、鳳、巴蜑,自雅州開山通道,出撃生羌,因襲吐蕃。正字陳子昂上書,以爲:「雅州邊羌,自國初以來未嘗爲盜。今一旦無罪戮之,其怨必甚;且懼誅滅,必蜂起爲盜。西山盜起,則蜀之邊邑不得不連兵備守,兵久不解,臣愚以爲西蜀之禍,自此結矣。臣聞吐蕃愛蜀富饒,欲盜之久矣,徒以山川阻絶,障隘不通,勢不能動。今國家乃亂邊羌,開隘道,使其收奔亡之種,爲郷導以攻邊,是借寇兵而爲賊除道,舉全蜀以遺之也。蜀者國家之寶庫,可以兼濟中國。今執事者乃圖僥倖之利以事西羌,得其地不足以稼穡,財不足以富國,徒爲糜費,無益聖德,況其成敗未可知哉!夫蜀之所恃者險也,人之所以安者無役也;今國家乃開其險,役其人,險開則便寇,人役則傷財,臣恐未見羌戎,已有姦盜在其中矣。且蜀人尫劣,不習兵戰,山川阻曠,去中夏遠,今無故生西羌、吐蕃之患,臣見其不及百年,蜀爲戎矣。國家近廢安北,拔單于,棄龜茲,放疏勒,天下翕然謂之盛德者,蓋以陛下務在養人,不在廣地也。今山東饑,關、隴弊,而徇貪夫之議,謀動甲兵,興大役,自古國亡家敗,未嘗不由黷兵,願陛下熟計之。」既而役不果興。
16.太后は、梁、鳳、巴の蛮を徴発して、雅州の山を開き道を通そうとした。出撃して生羌を撃ち、そのまま吐蕃を襲撃する為である。
 正字陳子昴が上書した。
「雅州の辺羌は、わが国の建国以来、まだ掠奪を行ったことがありません。今、無罪の民を殺戮すれば、絶対、強く怨まれます。それに、一族の誅殺を懼れれば、彼等は必ず蜂起して盗賊となります。西山に盗が起これば、蜀の辺邑は兵を連ねて守備しなければならなくなります。臨戦態勢が長年続くと、西蜀の本格的な禍が勃発すると愚考いたします。『吐蕃は豊かな蜀を求め、長い間これを侵略しようと望んでいたが、険しい山川に邪魔されて兵を送れず、動くことができなかったのだ。』と、臣は聞いております。今、国家が辺羌を乱した上に隘道を開けば、吐蕃は辺羌からの逃亡者を受け入れて道案内とし、我が辺域を攻撃します。これは寇兵を借りて賊の為に道を開いてやるようなもの。蜀を全て奪われかねません。蜀は国家の宝庫で、その富で他の地方を救済できるのです。今、当事者達は僥倖の利を図って西羌を討伐しようとしていますが、その土地を得ても、あそこは何も生み出しません。手に入る財は国家を富ませるに足らず、いたずらに戦費をろうしするだけで、聖徳を増すこともありません。ましてや敗北してしまったらどうなりましょうか!それ、蜀が恃んでいるのは険阻な地形です。人々が安んじているのは、労役が少ないからです。今、国家がその険を開きその人々をこき使います。険を開けば蛮人の来寇に便利になりますし、労役が酷くなれば租税が減ります。臣は、羌戎を見る前に、姦盗が勃発することを恐れます。それに、蜀の人々は虚弱で戦争の訓練もしていませんし、山川が険阻で中夏から遠く離れています。今、理由もなしに西羌、吐蕃の患を生みますと、百年と経たないうちに蜀は戎の物になってしまいます。国家は最近安北を廃し、単于を領土から抜き、亀慈を棄て、疏勒を放ちました。それを天下の人々が徳の盛りだと褒めそやかしていますのは、陛下の勤めが人を養うことにあり、領土を広めることにはないからです。今、山東は餓えていますし、関、隴も疲れ切っておりますのに、貪夫の議論に無理に従って無闇に兵を動かし大工事を興されますのか。古から、国を亡し家を滅ぼすのは、無益な戦争でした。どうか陛下、これを熟慮なさってください。」
 結局、工事は起こらなかった。
永昌元年(己丑、六八九)

 春,正月,乙卯朔,大饗萬象神宮,太后服袞冕,搢大圭,執鎭圭爲初獻,皇帝爲亞獻,太子爲終獻。先詣昊天上帝座,次高祖、太宗、高宗,次魏國先王,次五方帝座。太后御則天門,赦天下,改元。丁巳,太后御明堂,受朝賀。戊午,布政于明堂,頒九條以訓百官。己未,御明堂,饗羣臣。
1.春、正月、乙卯朔、萬象神宮で大いに饗した。
 太后は、袞冕(目の前に何本もの紐が垂れ下がって目隠しをしている、皇帝の礼帽)を被り、大圭(天子が服す玉器)を差し挟み、鎮圭を執って初献をした。皇帝が亜献をし、太子が終献をする。
 まず昊天上帝の座を詣で、次いで、高祖、太宗、高宗、その次に魏国先王(武則天の父、武士彠)を詣で、最後に五方帝座を詣でた。
 太后は則天門へ御幸して天下へ恩赦を下し、改元した。
 丁巳、太后が明堂へ御幸し、朝賀を受けた。
 戊午、明堂にて政治を布する。九条を頒布し百官へ訓戒した。
 己未、明堂へ御幸し、群臣を饗応した。
 二月,丁酉,尊魏忠孝王曰周忠孝太皇,妣曰忠孝太后,文水陵曰章德陵,咸陽陵曰明義陵。置崇先府官。戊戌,尊魯公曰太原靖王,北平王曰趙肅恭王,金城王曰魏義康王,太原王曰周安成王。
2.二月、丁酉、魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇、妣を忠孝太后と改称した。また、文水陵を章徳陵、咸陽陵を明義陵と改称し、祟先府官を設置した。
 戊戌、魯公を尊んで太原靖王、北平王を趙粛恭王、金城王を魏義康王、太原王を周安成王と改称した。
 三月,甲子,張光輔守納言。
3.三月、甲子、張光輔を納言とした。
 壬申,太后問正字陳子昂當今爲政之要。子昂退,上疏,以爲:「宜緩刑崇德,息兵革,省賦役,撫慰宗室,各使自安。」辭婉意切,其論甚美,凡三千言。
4.壬申、太后が正字の陳子昴へ当今の政務の要点を問うた。子昴は退出した後、上疏した。「刑を緩めて徳を祟び、兵革を休めて賦役を省き、宗室を慰撫し、おのおの自ら安んじさせるのが宜しゅうございます。」
 上疏文はおよそ三千字。その辞は懇切丁寧で文章は美しかった。
 癸酉,以天官尚書武承嗣爲納言,張光輔守内史。
5.癸酉、天官尚書武承嗣を納言、張光輔を内史とした。
 夏,四月,甲辰,殺辰州別駕汝南王煒、連州別駕鄱陽公諲等宗室十二人,徙其家於巂州。煒,惲之子;諲,元慶之子也。
  己酉,殺天官侍郎藍田鄧玄挺。玄挺女爲諲妻,又與煒善。諲謀迎中宗於廬陵,以問玄挺,煒又嘗謂玄挺曰:「欲爲急計,何如?」玄挺皆不應。故坐知反不告,同誅。
6.夏、四月、甲辰、辰州別駕汝南王煒、連州別駕鄱陽公諲等宗室十二人を殺し、家族は巂州へ移した。煒は惲の子で、諲は元慶の子である。
 己酉、天官侍郎の藍田の鄧玄挺を殺した。
 玄挺の娘は諲の妻で、彼は煒とも仲が善かった。諲が廬陵へ中宗を迎えようと謀った時、玄挺へも諮問した。煒も又、かつて玄挺へ言った。
「計画を急ぎたいが、どうかな?」
 玄挺は皆、答えなかった。だが、造反を知っていて告発しなかった罪により、彼等と共に誅殺された。
 五月,丙辰,命文昌右相韋待價爲安息道行軍大總管,撃吐蕃。
7.五月、丙辰、文昌右相韋待價を安息道行軍総管として吐蕃を攻撃させた。
 浪穹州蠻酋傍時昔等二十五部,先附吐蕃,至是來降;以傍時昔爲浪穹州刺史,令統其衆。
8.浪穹州蛮の酋長傍時昔等二十五部は、今まで吐蕃へ服属していたが、ここに至って降伏してきた。傍時昔を浪穹州刺史として、彼等を統率させた。
 己巳,以僧懷義爲新平軍大總管,北討突厥。行至紫河,不見虜,於單于臺刻石紀功而還。
9.己巳、僧懐義を新平軍大総管として、北方の突厥を攻撃させた。紫河まで進軍したが虜の姿を見なかったので、単于台にて石へ紀功を刻んで還った。
 10諸王之起兵也,貝州刺史紀王愼獨不預謀,亦坐繋獄;秋七月,丁巳,檻車徙巴州,更姓虺氏,行及蒲州而卒。八男徐州刺史東平王續等,相繼被誅,家徙嶺南。
  女東光縣主楚媛,幼以孝謹稱,適司議郎裴仲將,相敬如賓;姑有疾,親嘗藥膳;接遇娣姒,皆得歡心。時宗室諸女皆以驕奢相尚,誚楚媛獨儉素,曰:「所貴於富貴者,得適志也;今獨守勤苦,將以何求?」楚媛曰:「幼而好禮,今而行之,非適志歟!觀自古女子,皆以恭儉爲美,縱侈爲惡。辱親是懼,何所求乎;富貴儻來之物,何足驕人!」衆皆慚服。及愼凶問至,楚媛號慟,嘔血數升;免喪,不御膏沐者垂二十年。
10.諸王の起兵の時、貝州刺史紀王慎だけが陰謀に預からなかったが、彼も又牢獄へぶち込まれた。
 秋、七月、丁巳、檻車にて巴州へ移し、姓を虺氏と変える。途中、蒲州にて卒した。
 八男の徐州刺史東平王続等が相継いで誅殺され、家族は嶺南へ移された。
 娘の東光県主楚媛は、幼い頃から孝廉との評判が高く、司議郎裴仲将と結婚して、互いに敬愛していた。姑が病気になった時、彼女は自ら薬膳を舐め、実の娘のように養ったので、皆の歓心をかった。
 この頃、宗室の諸女は皆、驕慢豪奢になっていたが、楚媛だけは倹素だったので、彼女達は言った。
「皆が富貴を貴ぶのは、好き勝手ができるからです。今、貴女ひとり勧苦を守っていますが、何を求めているのですか?」
 すると楚媛は答えた。
「妾は幼い頃から礼が好きでした。今、このように暮らしているのは、好き勝手にやっているのじゃないですか!古の子女を見ると、皆、恭倹を美徳、縦侈を悪徳としていました。妾は親を辱めることを懼れます。他に何を求めましょうか!富貴はただで貰った物。何で人に驕るに足りましょうか!」
 衆は皆、慚愧して服した。
 慎の凶報が届くに及び、楚媛は慟哭し、数升吐血した。喪を免れても二十年に亘って御膏沐をしなかった。
 11韋待價軍至寅識迦河,與吐蕃戰,大敗。待價既無將領之才,狼狽失據,士卒凍餒,死亡甚衆,乃引軍還。太后大怒,丙子,待價除名,流繡州,斬副大總管安西大都護閻温古。安西副都護唐休璟收其餘衆,撫安西土,太后以休璟爲西州都督。
11.韋待價は寅議迦河まで進軍して吐蕃と戦い、大敗した。
 待價には戦争の才覚がなかったので、狼狽して拠点を失い、士卒は凍死し、大勢の兵卒を失って軍を返した。
 太后は激怒し、丙子、待價を除名して繡州へ流した。副大総管の安西大都護閻温古を斬った。
 安西副都護唐休璟は敗残兵をかき集めて西土を撫安した。太后は休景を西州都督とした。
 12戊寅,以王本立同鳳閣鸞臺三品。
12.戊寅、王本立を同鳳閣鸞台三品とした。
 13徐敬業之敗也,弟敬眞流繡州,逃歸,將奔突厥,過洛陽,洛州司馬弓嗣業、洛陽令張嗣明資遣之;至定州,爲吏所獲,嗣業縊死。嗣明、敬眞多引海内知識,云有異圖,冀以免死;於是朝野之士爲所連引坐死者甚衆。嗣明誣内史張光輔,云「征豫州日,私論圖讖、天文,陰懷兩端。」八月,甲申,光輔與敬眞、嗣明等同誅,籍沒其家。
  乙未,秋官尚書太原張楚金、陝州刺史郭正一、鳳閣侍郎元萬頃、洛陽令魏元忠,並免死流嶺南。楚金等皆爲敬眞所引,云與敬業通謀。臨刑,太后使鳳閣舎人王隱客馳騎傳聲郝之。聲達於市,當刑者皆喜躍讙呼,宛轉不已;元忠獨安坐自如,或使之起,元忠曰:「虚實未知。」隱客至,又使起,元忠曰:「俟宣敕已。」既宣敕,乃徐起,舞蹈再拜,竟無憂喜之色。是日,陰雲四塞,既釋楚金等,天氣晴霽。
13.徐敬業が敗北した後、弟の敬眞は繡州へ流されたが、逃げ帰って突厥へ亡命しようとした。洛陽を過ぎた時、洛州司馬弓嗣業と洛陽令張嗣明が物資を援助した。
 定州まで来て、吏に捕まった。嗣業は首吊り自殺した。嗣明と敬眞は、罪を免れようと、海内の知識を動員して異図を全て白状した。これによって、朝野の士が連座で大勢殺された。
 嗣明は内史張光輔を誣て言った。
「豫州を征伐した時、私的に図纖、天文を論じ、密かに二股を掛けました。」
 八月、甲申、光輔と敬眞、嗣明等は皆、誅殺され、その家族は官奴となった。
 乙未、秋官尚書の太原の張楚金、陜州刺史郭正一、鳳閣侍郎元萬頃、洛陽令魏元忠が皆、死を免じて嶺南へ流罪となる。楚金等は皆、敬眞が、敬業と通謀したと言い立てたのである。
 彼等は最初は死刑の予定だったが、刑に臨んで太后の気が変わり、騎を馳せて刑の中止を大呼させるよう、鳳閣舎人王隠客へ命じた。その声が市まで聞こえると、刑に臨んでいた者皆、躍り上がって喜んだ。ただ、元忠一人、座り込んだままだった。ある者が助け起こすと、元忠は言った。
「まだ、本当かどうか判らない。」
 隠客が到着すると再び助け起こされたが、元忠は言った。
「敕が公表されるのを待っているのだ。」
 敕が公表されると、彼は静かに立ち上がり、感謝の舞踏と再拝を形通り行ったが、ついに嬉しそうな顔をしなかった。
 この日、どんよりとした雲が四方を覆っていたが、楚金等の処刑が赦されると、カラリと晴れ上がった。
 14九月,壬子,以僧懷義爲新平道行軍大總管,將兵二十萬以討突厥骨篤祿。
14.九月、壬子、僧懐義を新平道行軍大総管とし、二十万の兵を与えて突厥の骨篤禄を討たせた。
 15初,高宗之世,周興以河陽令召見,上欲加擢用,或奏以非清流,罷之。興不知,數於明堂俟命。諸相皆無言,地官尚書、檢校納言魏玄同,時同平章事,謂之曰:「周明府可去矣。」興以爲玄同沮己,銜之。玄同素與裴炎善,時人以其終始不渝,謂之耐久朋。周興奏誣玄同言:「太后老矣,不若奉嗣君爲耐久。」太后怒,閏月,甲午,賜死于家。監刑御史房濟謂玄同曰:「丈人何不告密,冀得召見,可以自直!」玄同歎曰:「人殺鬼殺,亦復何殊,豈能作告密人邪!」乃就死。又殺夏官侍郎崔詧於隱處。自餘内外大臣坐死及流貶者甚衆。
  彭州長史劉易從亦爲徐敬眞所引;戊申,就州誅之。易從爲人,仁孝忠謹,將刑於市,吏民憐其無辜,遠近奔赴,競解衣投地曰:「爲長史求冥福。」有司平準,直十餘萬。
  周興等誣右武衞大將軍燕公黑齒常之謀反,徴下獄。冬,十月,戊午,常之縊死。
  己未,殺宗室鄂州剌史嗣鄭王璥等六人。庚申,嗣滕王脩琦等六人免死,流嶺南。
15.高宗の御代、当時河陽令だった周興を召見して抜擢しようとしたが、ある者が、彼は清流ではない、と指摘したので、お流れとなったことがあった。興はそれを知らず、何度も朝堂にて辞令を待った。諸相は皆無言だったが、この時同平章事だった地官尚書、検校納言魏玄同が彼へ言った。
「周明府、立ち去りなさい。」
 興は、玄同が邪魔をしたのだと思って、これを怨んだ。
 玄同は、もともと裴炎と仲が善く、そのつき合いが終始変わらなかったので、時の人々はこれを”耐久朋”と呼んでいた。そこで周興は玄同を誣て奏した。
「これは、『太后は年老いたので、嗣君へ仕えて耐久となった方がよい。』とゆう意味です。」
 太后は怒り、閏月甲午、家にて自殺させた。
 監刑御史房済が玄同へ言った。
「丈人、どうして密告して召見を冀い、弁明しようとしないのですか!」
 玄同は嘆いて言った。
「人を殺すのも、密かに殺させるのも、変わりはしない。なんで人を密告したりできようか!」
 そして、自殺した。
 また、夏官侍郎崔 を隠所にて殺す。その他、内外の大臣で有罪となり、死刑になったり流罪となった者が大勢いた。
 彭州長史劉易従もまた、徐敬眞から告発された。戊申、州にて誅殺された。易従は仁孝忠謹な為人で、市にて処刑される時、吏民はその無辜を憐れみ、遠近から駆けつけてきて、競って衣を脱ぐと地面に投げ捨て、言った。
「長史の冥福をお祈りします。」
 役人がこれを銭に勘定したら、十余萬にも値した。
 周興等は、右武衛大将軍・燕公黒歯常之が造反を企てたとして投獄した。冬、十月戊午、常之は首を吊って死んだ。
 己未、宗室の鄂州刺史嗣鄭王璥等六人を殺した。
 庚申、嗣滕王修琦等六人を、死を免じて嶺南へ流した。
 16丁卯,春官尚書范履冰、鳳閣侍郎邢文偉並同平章事。
16.丁卯、春官尚書范履冰と鳳閣侍郎邢文偉を共に同平章事とした。
 17己卯,詔太穆神皇后、文德聖皇后宜配皇地祇,忠孝太后從配。
17.太穆神皇后、文徳聖皇后を皇地祇へ配して、忠孝太后へ従配するよう詔が降りた。
 18右衞冑曹參軍陳子昂上疏,以爲:「周頌成、康,漢稱文、景,皆以能措刑故也。今陛下之政,雖盡善矣,然太平之朝,上下樂化,不宜有亂臣賊子,日犯天誅。比者大獄增多,逆徒滋廣,愚臣頑昧,初謂皆實,乃去月十五日,陛下特察繋囚李珍等無罪,百僚慶悅,皆賀聖明,臣乃知亦有無罪之人挂於疏網者。陛下務在寬典,獄官務在急刑,以傷陛下之仁,以誣太平之政,臣竊恨之。又,九月二十一日敕免楚金等死,初有風雨,變爲景雲。臣聞陰慘者刑也,陽舒者德也;聖人法天,天亦助聖。天意如此,陛下豈可不承順之哉!今又陰雨,臣恐過在獄官。凡繋獄之囚,多在極法,道路之議,或是或非,陛下何不悉召見之,自詰其罪。罪有實者顯示明刑,濫者嚴懲獄吏,使天下咸服,人知政刑,豈非至德克明哉!」
18.右衛冑曹参軍陳子昴が上疏した。
「周では成王、康王が、漢では文帝、景帝が称賛されていますのは、刑罰を緩くしたからでございます。今、陛下の政治は善を尽くしてはおりますので、朝廷は泰平、上も下も教化されて楽しんでおり、乱臣賊子が出ても日を置かずに天誅が下されます。それなのに、この時期に大獄が増え続け、逆徒として処刑される者がますます多くなっています。頑迷な愚臣達は、彼等は皆有罪だと言っております。しかし、先月の十五日に陛下が囚人の李珍等の無罪を看破された時、百僚は悦び慶い、皆、聖明を祝賀しました。ですから臣は、疏網に引っかかっている無罪の者もいると知ったのです。寛大な心を広めるのが陛下の務めです。しかし獄吏は刑罰を厳しく行う事に務め、陛下の仁を傷つけて泰平の政治を破っております。臣はこれを密かに恨んでいるのです。又、九月二十一日に楚金等の死を赦免すると敕がおりました。この日、初めは風雨でしたのに、この敕が降りた途端、晴れ上がりました。臣は、『刑は陰惨で徳は陽舒』と聞いております。聖人は天を手本とし、天は聖人を助けます。天の意向がこのようですから、陛下はどうしてこれに従わずにおられましょうか!今、また陰雨が続いています。臣は獄官に過があるのではないかと恐れるのです。およそ囚人を牢へ繋ぐのは、多くは極刑の結果ですから、道行く人々でさえ話題にして、あの『繋獄は正しい』だの、『あの繋獄は誤りだ』などと議論しています。それなのにどうして陛下は、囚人を引き出して自ら詰問なさらないのですか!その罪が事実でしたら刑罰が正しいことを顕示できますし、無罪の者でしたら獄吏を厳重に懲らしめられます。そうすれば天下を感服させられますし、人々は政刑を思い知ります。これこそ至徳克明ではありませんか!」
天授元年(庚寅、六九〇)

 十一月,庚辰朔,日南至。太后享萬象神宮,赦天下。始用周正,改永昌元年十一月爲載初元年正月,以十二月爲臘月,夏正月爲一月。以周、漢之後爲二王後,舜、禹、成湯之後爲三恪,周、隋之嗣同列國。
1.十一月、庚辰朔、日が南へ至った。太后は萬神神宮で恵みを受けて、天下へ恩赦を下した。始めて周の正朔を用い、永昌元年十一月を載初元年正月とした。十二月を臘月とし、夏正月を一月とした。周と漢の子孫を二王の後とし、舜、禹、成王の子孫を三恪とした。後周、隋の嗣は列国と同列とした。
 鳳閣侍郎河東宗秦客,改造「天」「地」等十二字以獻,丁亥,行之。太后自名「曌」,改詔曰制。秦客,太后從父姊之子也。
2.鳳閣侍郎の河東の宗秦客が「天」「地」等十二字を改造して献上した。丁亥、この文字を施行した。この十二字の中に「照」も入っており、太后は自分の名前を新しい文字「曌」と変えた。又、詔を制と改称した。
 秦客は太后の従父姉の子である。
 乙未,司刑少卿周興奏除唐親屬籍。
3.乙未、司刑少卿周興が、唐の親族の官籍を除くよう上奏した。
 臘月,辛未,以僧懷義爲右衞大將軍,賜爵鄂國公。
4.臘月、辛未、僧懐義を右衛大将軍として、鄂国公の爵位を賜下した。
 春,一月,戊子,武承嗣遷文昌左相,岑長倩遷文昌右相、同鳳閣鸞臺三品,鳳閣侍郎武攸寧爲納言,邢文偉守内史,左肅政大夫、同鳳閣鸞臺三品王本立罷爲地官尚書。攸寧,士彠之兄孫也。
  時武承嗣、三思用事,宰相皆下之。地官尚書、同鳳閣鸞臺三品韋方質有疾,承嗣、三思往問之,方質據牀不爲禮。或諫之,方質曰:「死生有命,大丈夫安能曲事近戚以求苟免乎!」尋爲周興等所搆,甲午,流儋州,籍沒其家。
5.春、一月、戊子、武承嗣を文昌左相、岑長倩を文昌右相・同鳳閣鸞台三品、鳳閣侍郎武攸寧を納言とし、邢文偉は内史に留任、左粛政大夫・同鳳閣鸞台三品王本立はこれをやめさせて地官尚書とした。
 攸寧は、武士彠の兄の孫である。
 この頃、武承嗣と三思が専断し、宰相は皆、これの部下のようになっていた。地官尚書、同鳳閣鸞台三品韋方質が病気になった時、承嗣と三思が見舞いに行くと、方質はベットに横になったままで答礼しなかった。あるものが彼を諫めると、方質は言った。
「死ぬも生きるも天命だ。大丈夫がなんて近戚へ媚びへつらってまで生きながらえる気はない!」
 やがて周興等が告発し、甲午、儋州へ流され、家族は皆官奴となった。
 二月,辛酉,太后策貢士於洛城殿。貢士殿試自此始。
6.二月、辛酉、太后が洛城殿にて貢士の試験を行った。貢士の殿試は、これから始まった。
 丁卯,地官尚書王本立薨。
7.丁卯、地官尚書王本立が卒した。
 三月,丁亥,特進、同鳳閣鸞臺三品蘇良嗣薨。
8.三月、丁亥、特進、同鳳閣鸞台三品蘇良嗣が卒した。
 夏,四月,丁巳,春官尚書、同平章事范履冰坐嘗舉犯逆者,下獄死。
9.夏、四月、丁巳、春官尚書、同平章事范履冰が、かつて反逆者を出した罪で下獄され、死んだ。
 10醴泉人侯思止,始以賣餅爲業,後事游撃將軍高元禮爲僕,素詭譎無賴。恆州刺史裴貞杖一判司,判司使思止告貞與舒王元名謀反,秋,七月,辛巳,元名坐廢,徙和州,壬午,殺其子豫章王亶;貞亦族滅。擢思止爲游撃將軍。時告密者往往得五品,思止求爲御史,太后曰:「卿不識字,豈堪御史!」對曰:「獬豸何嘗識字,但能觸邪耳。」太后悅,即以爲朝散大夫、侍御史。他日,太后以先所籍沒宅賜之,思止不受,曰:「臣惡反逆之人,不願居其宅。」太后益賞之。
  衡水人王弘義,素無行,嘗從鄰舎乞瓜,不與,乃告縣官瓜田中有白兔。縣官使人搜捕,蹂踐瓜田立盡。又游趙、貝,見閭里耆老作邑齋,遂告以謀反,殺二百餘人,擢授游撃將軍,俄遷殿中侍御史。或告勝州都督王安仁謀反,敕弘義按之。安仁不服,弘義即於枷上刎其首;又捕其子,適至,亦刎其首,函之以歸。道過汾州,司馬毛公與之對食,須臾,叱毛公下階,斬之,槍掲其首入洛,見者無不震栗。
  時置制獄於麗景門内,入是獄者,非死不出,弘義戲呼曰「例竟門」。朝士人人自危,相見莫敢交言,道路以目。或因入朝密遭掩捕,毎朝,輒與家人訣曰:「未知復相見否?」
  時法官競爲深酷,唯司刑丞徐有功、杜景儉獨存平恕,被告者皆曰:「遇來、侯必死,遇徐、杜必生。」
  有功,文遠之孫也,名弘敏,以字行。初爲蒲州司法,以寬爲治,不施敲朴,吏相約有犯徐司法杖者,衆共斥之。迨官滿,不杖一人,職事亦脩。累遷司刑丞,酷吏所誣構者,有功皆爲直之,前後所活數十百家。嘗廷爭獄事,太后厲色詰之,左右爲戰栗,有功神色不撓,爭之彌切。太后雖好殺,知有功正直,甚敬憚之。景儉,武邑人也。
  司刑丞滎陽李日知亦尚平恕。少卿胡元禮欲殺一囚,日知以爲不可,往複數四,元禮怒曰:「元禮不離刑曹,此囚終無生理!」日知曰:「日知不離刑曹,此囚終無死法!」竟以兩状列上,日知果直。
10.醴泉の人侯思止は、初めは餅売りを生業としていたが、後に游撃将軍高元禮に仕えて従僕となった。彼は、もともと嘘つきの無頼漢だった。
 恒州刺史裴貞が、一判司を杖で打った。するとその判司は、「貞が舒王元名と共に造反を謀っている。」と、思止へ告発させた。
 秋、七月、辛巳、元名はこの罪で廃されて和州へ流された。壬午、その子の豫章王亶を殺した。貞もまた、一族誅殺された。思止は游撃将軍に抜擢された。
 この頃、密告者は往々にして五品となったので、思止も御史となることを求めた。すると、太后は言った。
「卿は字が読めない。何で御史の仕事ができますか!」
 対して言った。
「獬豸は字を知りませんん。ただ角に掛けることができるだけです(獬豸は空想上の動物。一本の角があり、忠直な性格。争っている人を見れば、非のある者を角に掛ける)。」
 太后は悦び、朝散大夫・侍御史とした。
 他日、太后が先に没収した邸宅を賜下したところ、思止は受け取らず、言った。
「臣は反逆者を憎みます。その住居には住みたくありません。」
 太后は、彼を益々称賛した。
 衡水の人王弘義は、もともと素行が悪かった。かつて隣の者へ瓜を乞うたが貰えなかったので、県官へ告げた。
「隣の瓜田に、白兎がいました。」
 県官は、これを捕らえようと人を派遣し、隣の瓜田はめちゃめちゃに荒らされてしまった。
 又、趙、貝へ旅行した時、里の長老達が村で室を作っているのを見て、謀反を謀っていると告発し、二百余人を殺させた。
 やがて游撃将軍に抜擢されたが、すぐに殿中侍御史へ出世した。
 ある者が勝州都督王安仁が造反を謀っていると告発したので、弘義へ詮議するよう敕が降った。安仁が屈服しないと、弘義は枷の上でその首を刎ねた。また、その子が捕らえられて連行されたので、その首も刎ねて、箱へ入れて帰京した。途中、汾州にて司馬の毛公と食事をしたが、すぐに毛公を叱りつけて階からおろし、これを斬り、その首を槍に掲げて入洛した。これを見るものは、皆、戦慄した。
 この頃、麗景門に牢獄が設置されており、これに入れられた者は死ぬまで出られなかった。弘義はこれを戯れて「例竟門と呼んだ(竟は、盡の意味。命が尽きるまで出られない、の意味。)」
 朝士達は各々危険を感じ、互いに言葉を交わしあうことがなく、路上で目くばせしあうだけになった。 入朝すれば、いわれのない密告で捕らえられるかも知れない。だから、彼等は毎朝家人へ訣別を告げた。
「もう会えないかも知れないな。」
 この頃の法官は競うように酷薄になっていったが、ただ司刑丞の徐有功と杜景倹だけは平恕だった。だから、被告達は皆、言った。
「来、侯に遭ったら必ず死ぬ。徐・杜に遭ったら必ず生きる。」
 有功は文遠の孫である。名は弘敏だが、字の方が有名だ。
 彼は、初めは蒲州司法となった。寛大な心で治め、杖で叩いたりしなかった。そこで官吏達は、徐司法の杖を犯す者が居たら皆で排斥しようと約束しあった。結局、任期が満ちるまで杖打たれた者は一人も居なかったし、それでいて政治は巧く修まった。
 順次出世して司刑丞となる。酷吏が罪をでっち上げた者は、彼が正しく裁き直し、こうして数十百家が殺されずに済んだ。
 かつて朝廷で疑獄事件を争った時、太后が顔色を変えて詰め寄ったので左右は皆戦慄したが、有功は自若としていよいよ切に争った。太后は、殺人が好きだったけれども、有功が正直だったので、彼を非常に敬して憚っていた。
 景倹は武邑の人である。
 司刑丞の栄陽の李日知も、また、平恕だった。少卿の湖元禮が、ある囚人を殺したがったが、日知はそれを不可とした。四、五回のやりとりの後、元禮は怒って言った。
「元禮が刑曹である限り、この囚人は絶対殺してやる!」
 日知は言った。
「日知が刑曹から離れない限り、この囚人を無法には殺させない!」
 ついに両方の言い分を上奏したところ、果たして日知が正しかった。
 11東魏國寺僧法明等撰大雲經四卷,表上之,言太后乃彌勒佛下生,當代唐爲閻浮提主;制頒於天下。
11.東魏国寺の僧法明等が大雲経四巻を撰集して上納した。この経典では、太后が弥勒仏の生まれ変わりであり、唐に代わって閻浮提主(仏教で言う天子)となるべきだと説いていた。これを天下へ頒布した。
 12武承嗣使周興羅告隋州刺史澤王上金、舒州刺史許王素節謀反,徴詣行在。素節發舒州,聞遭喪哭者,歎曰:「病死何可得,乃更哭邪!」丁亥,至龍門,縊殺之。上金自殺。悉誅其諸子及支黨。
12.周興が、武承嗣の命令を受けて、隋州刺史澤王上金と舒州刺史許王素節が造反を企んでいると告発した。彼等は行在所へ呼び出された。
 素節は舒州を出発して行在所へ向かう途中、喪中の傍らを通りがかった。この時、哭する声を聞いたので、彼は嘆いて言った。
「病死できたのに、何が悲しいのか!」
 丁亥、龍門にて縊り殺す。上金は自殺した。その諸子および党類を皆殺しとした。
 13太后欲以太平公主妻其伯父士讓之孫攸曁,攸曁時爲右衞中郎將,太后潛使人殺其妻而妻之。公主方額廣頤,多權略,太后以爲類己,寵愛特厚,常與密議天下事。舊制,食邑,諸王不過千戸,公主不過三百五十戸;太平食邑獨累加至三千戸。
13.太后は太平公主を、彼女の伯父の士譲の孫の攸曁へ娶せたかった。この時攸曁は右衛中郎将だったが、太后は密かに彼の妻を暗殺させた。
 公主は方額で頤が広く謀略が多い女性。太后は、彼女が自分に似ていると思って特に寵愛しており、いつも天下のことを密かに相談していた。
 従来の制度では食邑は諸王でも千戸に過ぎず、公主は三百五十戸だったが、太平だけは食邑が何度も加増され、遂に三千戸にまで至った。
 14八月,甲寅,殺太子少保、納言裴居道;癸亥,殺尚書左丞張行廉。辛未,殺南安王潁等宗室十二人,又鞭殺故太子賢二子,唐之宗室於是殆盡矣,其幼弱存者亦流嶺南,又誅其親黨數百家。惟千金長公主以巧媚得全,自請爲太后女,仍改姓武氏;太后愛之,更號延安大長公主。
14.八月、甲寅、太子少保、納言の裴居道を殺した。癸亥、尚書左丞張行廉を殺した。辛未、南安王穎等宗室十二人を殺した。また、もとの太子賢の二子を鞭で打ち殺した。
 唐の宗室は、ここにおいて殆ど殺された。幼弱でまだ生きている者は嶺南へ流した。また、その親党数百家を誅した。ただ、千金長公主は巧みに媚びて無傷だった。彼女は太后の養女となって武氏と改姓することを自ら乞うた。太后はこれを愛し、延安大長公主と改称した。
 15九月,丙子,侍御史汲人傅游藝帥關中百姓九百餘人詣闕上表,請改國號曰周,賜皇帝姓武氏,太后不許;擢游藝爲給事中。於是百官及帝室宗戚、遠近百姓、四夷酋長、沙門、道士合六萬餘人,倶上表如游藝所請,皇帝亦上表自請賜姓武氏。戊寅,羣臣上言:「有鳳皇自明堂飛入上陽宮,還集左臺梧桐之上,久之,飛東南去;及赤雀數萬集朝堂。
  庚辰,太后可皇帝及羣臣之請。壬午,御則天樓,赦天下,以唐爲周,改元。乙酉,上尊號曰聖神皇帝,以皇帝爲皇嗣,賜姓武氏;以皇太子爲皇孫。
  丙戌,立武氏七廟于神都,追尊周文王曰始祖文皇帝,妣姒氏曰文定皇后,平王少子武曰睿祖康皇帝,妣姜氏曰康睿皇后;太原靖王曰嚴祖成皇帝,妣曰成莊皇后;趙肅恭王曰肅祖章敬皇帝,魏義康王曰烈祖昭安皇帝,周安成王曰顯祖文穆皇帝,忠孝太皇曰太祖孝明高皇帝,妣皆如考謚,稱皇后。立武承嗣爲魏王,三思爲梁王,攸寧爲建昌王,士彠兄孫攸歸、重規、載德、攸曁、懿宗、嗣宗、攸宜、攸望、攸緒、攸止皆爲郡王,諸姑姊皆爲長公主。
  又以司賓卿溧陽史務滋爲納言,鳳閣侍郎宗秦客檢校内史,給事中傅游藝爲鸞臺侍郎、平章事。游藝與岑長倩、右玉鈐衞大將軍張虔勗、左金吾大將軍丘神勣、侍御史來子珣等並賜姓武。秦客潛勸太后革命,故首爲内史。游藝朞年之中歴衣靑、綠、朱、紫,時人謂之四時仕宦。
  敕改州爲郡;或謂太后曰:「陛下始革命而廢州,不祥。」太后遽追止之。
  命史務滋等十人巡撫諸道。太后立兄孫延基等六人爲郡王。
15.九月丙子。侍御史の汲の人傅遊藝が関中の百姓九百人を率いて闕を詣で、国号を周と改め皇帝へ武氏の姓を賜うよう上表した。太后は許さなかった。だが、遊藝を給事中へ抜擢する。
 ここにおいて百官及び皇帝の宗戚、遠近の百姓、四夷の酋長、沙門、道士達が合計六万余人で共に上表して遊藝と同様に請願した。皇帝も又、武氏の姓を賜うよう自ら請願する。
 戊寅、群臣が上言した。
「鳳凰が明堂から上陽宮へ飛び込み、左台梧桐の上へ戻って集まり、しばらくして東南へ飛び去りました。また、朝堂へ赤雀が数万羽集まりました。」
 庚辰、太后は皇帝と群臣の請願を受けた。
 壬午、則天楼へ御幸して、天下へ恩赦を下し、唐を周と改称して改元した。
 乙酉、上を尊んで聖神皇帝と号し、皇帝を皇嗣として武氏の姓を賜る。皇太子は皇孫とする。
 丙戌、神都へ武氏の七廟を立てる。周文王を始祖文皇帝と追尊し、妣の姒氏を文定皇后とし、平王の末子の武を睿祖康皇帝、妣の姜氏を康睿皇后とする。太原靖王は厳祖成皇帝、妣は成荘皇后。趙粛恭王は粛祖章敬皇帝、魏義康王は烈祖昭安皇帝、周安成王は顕祖文穆皇帝、忠孝太皇は太祖孝明高皇帝として、各々の妣は皆考諡の皇后とした。武承嗣を立てて魏王とし、三思は梁王、攸寧は建昌王、士彠の兄の孫の攸帰、重規、載徳、攸曁、懿宗、嗣宗、攸宜、攸望、攸緒、攸止を皆、郡王とし、諸姑妹は皆長公主とした。
 又、司賓卿の溧陽の史務滋を納言、鳳閣侍郎宗秦客を検校内史、給事中傅遊藝を鸞台侍郎、平章事とした。遊藝と岑長倩、右玉今衛大将軍張虔勗、左金吾大将軍丘神勣、侍御史来子珣等へ武の姓を下賜した。
 秦客は、太后へ密かに革命を勧めていた。だから内史の筆頭となる。遊藝は一年の間に衣が青、緑、朱、紫と出世したので、人々はこれを「四時仕宦」と言った。
 州を郡と改めるよう敕した。ある者が、太后へ言った。
「陛下が革命したばかりなのに州を廃するのは、不祥です。」
 そこで、太后はすぐに追敕してこれを止めた。
 史務滋等十人へ諸道を巡撫するよう命じた。
 太后は、兄の孫の延基等六人を立てて郡王とした。
 16冬,十月,甲子,檢校内史宗秦客坐贓貶遵化尉,弟楚客亦以姦贓流嶺外。
16.冬、十月、甲子、検校内史宗秦客が、贈賄の罪で遵化尉へ降格された。弟の楚客もまた、姦を隠した罪で嶺外へ流された。
 17丁卯,殺流人韋方質。
17.丁卯、流人の韋方質を殺す。
 18辛未,内史邢文偉坐附會宗秦客貶珍州刺史。頃之,有制使至州,文偉以爲誅己,遽自縊死。
18.辛未、内史邢文偉が宗秦客の党類として、珍州刺史へ降格された。
 それからすぐに、制を受けた使者が珍州へやって来た。文偉は自分を誅殺しに来たのだと思って、首吊り自殺した。
 19壬申,敕兩京諸州各置大雲寺一區,藏大雲經,使僧升高座講解,其撰疏僧雲宣等九人皆賜爵縣公,仍賜紫袈裟、銀龜袋。
19.壬申、両京や諸州へ各々大雲寺一区を設置するよう敕が降りた。そこには大雲経を藏させ、高座に昇った僧へ大雲経を講解させた。
 僧雲宣等九人を選んで爵県公を賜り、紫袈裟と銀亀袋を下賜した。
 20制天下武氏咸蠲課役。
20.天下の武氏の課役を減じると制を降した。
 21西突厥十姓,自垂拱以來,爲東突厥所侵掠,散亡略盡。濛池都護繼往絶可汗斛瑟羅收其餘衆六七萬人入居内地,拜右衞大將軍,改號竭忠事主可汗。
21.西突厥の十姓は、垂拱以来東突厥から侵掠され、ほとんど散亡してしまっていた。
 濛池都護継往絶可汗斛瑟羅が、その余衆六・七万をかき集めて内地へ入居した。右衛大将軍を拝受し、竭忠事主可汗と改号した。
 22道州刺史李行褒兄弟爲酷吏所陷,當族,秋官郎中徐有功固爭不能得。秋官侍郎周興奏有功出反囚,當斬,太后雖不許,亦免有功官;然太后雅重有功,久之,復起爲侍御史。有功伏地流涕固辭曰:「臣聞鹿走山林而命懸庖廚,勢使之然也。陛下以臣爲法官,臣不敢枉陛下法,必死是官矣。」太后固授之,遠近聞者相賀。
22.道州刺史李行褒兄弟が、酷吏に陥れられ一族誅殺に相当したが、秋官郎中徐有功が固く争ったので、実行されなかった。秋官侍郎周興は、有功が囚人に肩入れしたので斬罪に相当すると上奏した。太后は許さなかったが、有功も免官とした。しかし、太后は有功の人格を重んじていたので、やがて侍御史に再登庸した。だが、有功は地面にはいつくばり、涙を流して固辞した。「『鹿が山林を駆ければ、厨房にて命を落とす。それは、彼の置かれた情勢がそうさせるのだ。』と臣は聞きます。陛下が臣を法官に任用されますと、臣は陛下の法を曲げずにはいられません。臣がこの官に就きますと、必ず死んでしまいます。」
 太后は、固く命じて、遂に任官させた。遠近の人々は、有功の就任を聞いて相賀した。
 23是歳,以右衞大將軍泉獻誠爲左衞大將軍。太后出金寶,命選南北牙善射者五人賭之,獻誠第一,以讓右玉鈐衞大將軍薛咄摩,咄摩復讓獻誠。獻誠乃奏言:「陛下令選善射者,今多非漢官,竊恐四夷輕漢,請停此射。」太后善而從之。
23.この年、右衛大将軍泉献誠を左衛大将軍とした。
 太后が金宝を出し、南北牙から射撃の巧い者五人を選ばせて、賞金とした。献誠が第一の呼び声があった。彼が右玉今衛大将軍薛咄摩へ譲ると、咄摩もまた献誠へ譲った。すると、献誠は上奏した。
「陛下が射撃上手を選びましたが、その大半は漢人ではありません。(献誠は高麗人、咄摩は薛延陀)これでは、四夷が漢を軽く見るのではないかと恐れます。どうかこの射撃を中止してください。」
 太后はその言葉を善として、これに従った。
二年(辛卯、六九一)

 正月,癸酉朔,太后始受尊號於萬象神宮,旗幟尚赤。甲戌,改置社稷於神都。辛巳,納武氏神主于太廟;唐太廟之在長安者,更命曰享德廟。四時唯享高祖已下,餘四室皆閉不享。又改長安崇先廟爲崇尊廟。乙酉,日南至,大享明堂,祀昊天上帝,百神從祀,武氏祖宗配饗,唐三帝亦同配。
1.正月、癸酉朔、太后が萬象神宮にて、始めて尊号を受けた。ただ、旗幟は依然として赤いまま。
 甲戌、社稷を神都へ改置した。
 辛巳、太廟へ武氏の神主を納める。長安にある唐の太廟は、享徳廟と改称する。四時に、ただ高祖以下を享し、その他の四室は皆閉鎖して享しなくなった。また、長安の祟先廟を祟尊廟と改称する。
 乙酉、日が南へ至ると、明堂にて大享し、天上帝を祀昊し、百神を従祀し、武氏と唐の三帝を配饗した。
 御史中丞知大夫事李嗣眞以酷吏縱橫,上疏,以爲:「今告事紛紜,虚多實少,恐有凶慝陰謀離間陛下君臣。古者獄成,公卿參聽,王必三宥,然後行刑。比日獄官單車奉使,推鞫既定,法家依斷,不令重推;或臨時專決,不復聞奏。如此,則權由臣下,非審愼之法,儻有冤濫,何由可知!況以九品之官專命推覆,操殺生之柄,竊人主之威,按覆既不在秋官,省審復不由門下,國之利器,輕以假人,恐爲社稷之禍。」太后不聽。
2.御史中丞知大夫事李嗣真は、酷吏がのさばっているので上疏した。その大意は、「今、告事が紛紜としておりますが、その内容は虚偽ばかりで真実はわずかです。これは、凶悪な人間が陛下へ、君臣を離間させようとの陰謀をしかけているのではないかと恐れます。昔は、裁判の判決には公卿が参聴しましたし、王は必ず三度宥め、その後に刑を行ったものです。しかし最近では、獄官が一人で使を奉じて裁断を下しますと、法家はこれに同調し、再審させません。あるいは、独断にて決定して聞奏しないことさえあります。このようであれば、権は臣下から出ますし、審判を慎むとゆう原理にも反します。たまたま冤罪や濫発があっても、どうやって知れるでしょうか!ましてや九品の官が推覆を専命し殺生の柄を操り人主の威を盗んでおります。按覆は既に秋官の手から放れ、省審も門下省を経由しておりません。国の利器を軽々しく人に貸し与えるのは、社稷の禍になることを恐れます。」
 太后は聞かなかった。
 饒阻尉姚貞亮等數百人表請上尊號曰上聖大神皇帝,不許。
3.饒陽尉の姚貞亮等数百人が、上表して上の尊号を上聖大神皇帝とするよう請願したが、許さなかった。
 侍御史來子珣誣尚衣奉御劉行感兄弟謀反,皆坐誅。
4.侍御史来子珣が、尚衣奉御の劉行感兄弟が謀反したと誣告した。皆、造反罪で誅殺された。
 春,一月,地官尚書武思文及朝集使二千八百人表請封中嶽。
5.春、一月、地官尚書武思文及び朝集使二千八百人が、中嶽にて封禅するよう上表にて請願した。
 己亥,廢唐興寧、永康、隱陵署官,唯量置守戸。
6.己亥、唐の興寧(元帝の陵)、永康(景帝の陵)、隠陵の署官を廃止し、ただ守戸のみを置いた。
 左金吾大將軍丘神勣以罪誅。
7.左金吾大将軍丘神勣が罪を以て誅された。
 納言史務滋與來俊臣同鞫劉行感獄,俊臣奏務滋與行感親密,意欲寢其反状。太后命俊臣并推之,務滋恐懼自殺。
8.納言史務滋と来俊臣が共に劉行感の疑獄を取り調べさせた。
 俊臣は、務滋は行感と親密だったので、造反をもみ消そうとしていると上奏した。そこで太后は、俊臣へその件を更に調査するよう命じた。務滋は恐懼して自殺した。
 或告文昌右丞周興與丘神勣通謀,太后命來俊臣鞫之,俊臣與興方推事對食,謂興曰:「囚多不承,當爲何法?」興曰:「此甚易耳!取大甕,以炭四周炙之,令囚入中,何事不承!」俊臣乃索大甕,火圍如興法,因起謂興曰:「有内状推史,請兄入此甕!」興惶恐叩頭伏罪。法當死,太后原之,二月,流興嶺南,在道,爲仇家所殺。
  興與索元禮、來俊臣競爲暴刻,興、元禮所殺各數千人,俊臣所破千餘家。元禮殘酷尤甚,太后亦殺之以慰人望。
9.文昌右丞周興が丘神勣と通謀していると、ある者が告発した。太后は来俊臣へ取り調べさせた。俊臣は興を食事に招いて言った。
「告発を否認する囚人が多い。どうすれば法に充てることができるかな?」
 興は言った。
「実に簡単だ。大きな甕を準備して、周りに炭を置き、炙る。そして囚人へその中へ入るよう命じたら、誰が否認し続けようか!」
 そこで俊臣は大甕を持ってこさせ、興が言ったように火で囲むと、立ち上がって興へ言った。
「兄上が告発された。兄上、どうか甕へ入ってください。」
 興は恐惶叩頭して罪に伏した。法に照らせば死罪にあたったが、太后はこれを赦し、二月、興嶺へ流したが、その途上にて仇家が興を殺した。
 興と索元礼、来俊臣は暴虐酷薄を競い合い、興と元禮は各々数千人を殺し、俊臣は千余家を破った。元禮の残酷は最も甚だしかった。太后は、これも殺して人々の溜飲を下げさせた。
 10徙左衞大將軍千乘王武攸曁爲定王。
10.左衛大将軍千乗王武攸曁を定王とした。
 11立故太子賢之子光順爲義豐王。
11.もとの太子賢の子の光順を義豊王とした。
 12甲子,太后命始祖墓曰德陵,睿祖墓曰喬陵,嚴祖墓曰節陵,肅祖墓曰簡陵,烈祖墓曰靖陵,顯祖墓曰永陵,改章德陵爲昊陵,顯義陵爲順陵。
12.甲子、太后は、始祖の墓を徳陵、睿祖の墓を喬陵、厳祖の墓を節陵、粛祖の墓を簡陵、烈祖の墓を靖陵、顕祖の墓を永陵と名付けるよう命じ、章徳陵を昊陵、顕義陵を順陵と改称した。
 13追復李君羨官爵。
13.李羨の官職を追復した。
 14夏,四月,壬寅朔,日有食之。
14.夏、四月、壬寅朔、日食が起こった。
 15癸卯,制以釋教開革命之階,升於道教之上。
15.癸卯、仏教が革命の階を開いた(大雲経が禅定を示唆したことを指す)として、道教の上へ置いた。
 16命建安王攸宜留守長安。
16.建安王攸宜へ長安の留守を命じる。
 17丙辰,鑄大鐘,置北闕。
17.丙辰、大鐘を鋳造し、北闕へ置いた。
 18五月,以岑長倩爲武威道行軍大總管,撃吐蕃,中道召還,軍竟不出。
18.五月、岑長倩を武威道行軍大総管として吐蕃攻撃を命じたが、途中で呼び戻し、遂に軍を出さなかった。
 19六月,以左肅政大夫格輔元爲地官尚書,與鸞臺侍郎樂思晦、鳳閣侍郎任知古並同平章事。思晦,彦暐之子也。
19.六月、左粛政大夫格輔元を地官尚書とし、鸞台侍郎楽思晦、鳳閣侍郎任知古と共に同平章事とした。思晦は彦暐の子息である。
 20秋,七月,徙關内戸數十萬以實洛陽。
20.秋、七月、関内の数十万戸を洛陽へ移住させた。
 21八月,戊申,納言武攸寧罷爲左羽林大將軍;夏官尚書歐陽通爲司禮卿兼判納言事。
21.八月、戊申、納言武攸寧を罷免して左羽林大将軍とした。夏官尚書欧陽通を司礼卿として納言の仕事を兼務させた。
 22庚申,殺玉鈐衞大將軍張虔勗。來俊臣鞫虔勗獄,虔勗自訟於徐有功;俊臣怒,命衞士以刀亂斫殺之,梟首于市。
22.庚申、玉今衛大将軍張虔勗を殺した。
 来俊臣が虔勗の罪状を取り調べた時、虔勗は自ら徐有功へ訴えた。俊臣は怒り、衛士へ虔勗をなます切りにさせて首を市へ曝した。
 23義豐王光順、嗣雍王守禮、永安王守義、長信縣主等皆賜姓武氏,與睿宗諸子皆幽閉宮中,不出門庭者十餘年。守禮、守義,光順之弟也。
23.義豊王光順、嗣雍王守礼、永安王守義、長信県主らが皆、武氏の姓を賜ったが、睿宗の諸子と共に宮中に幽閉され、門庭へ十余年出られなかった。
 守禮と守義は光順の弟である。
 24或告地官尚書武思文初與徐敬業通謀;甲子,流思文於嶺南,複姓徐氏。
24.地官尚書武思文が、初めは徐敬業と通謀していたと、ある者が告発した。
 甲子、思文を嶺南へ流し、姓を徐氏へ戻す。
 25九月,乙亥,殺岐州刺史雲弘嗣。來俊臣鞫之,不問一款,先斷其首,乃偽立案奏之。其殺張虔勗亦然。敕旨皆依,海内鉗口。
25.九月、乙亥、岐州刺史雲弘嗣を殺した。
 来俊臣がこれを取り調べたが、彼は一言も問わずに、まず首を斬り偽の自白書をでっち上げた。張虔勗を殺した時も同様だった。敕旨はこれを是認し、海内は口を閉ざした。
 26鸞臺侍郎、同平章事傅游藝夢登湛露殿,以語所親,所親告之;壬辰,下獄,自殺。
26.鸞台侍郎、同平章事傅遊藝が夢で湛露殿へ登った。これを親しい者へ語ったところ、告発されてしまった。
 壬辰、遊藝は獄へ落とされ、自殺した。
 27癸巳,以左羽林衞大將軍建昌王武攸寧爲納言,洛州司馬狄仁傑爲地官侍郎,與冬官侍郎裴行本並同平章事。太后謂仁傑曰:「卿在汝南,甚有善政,卿欲知譖卿者名乎!」仁傑謝曰:「陛下以臣爲過,臣請改之;知臣無過,臣之幸也,不願知譖者名。」太后深歎美之。
27.癸巳、左羽林大将軍建昌王武攸寧を納言とする。洛州司馬狄仁傑を地官侍郎とし、冬官侍郎裴行本と共に同平章事とする。
 太后が、仁傑へ言った。
「卿は汝南にいた時、とても善い政治をした。卿を讒言した者の名を、卿は知りたいか?」
 仁傑は謝して言った。
「陛下が臣を過と為したなら、臣はこれを改めるよう請いますが、臣に過失がないと知られたのなら、臣の幸いです。讒言した者の名など知りたくありません。」
 太后は深く嘆じてこれを美とした。
 28先是,鳳閣舎人脩武張嘉福使洛陽人王慶之等數百人上表,請立武承嗣爲皇太子。文昌右相、同鳳閣鸞臺三品岑長倩以皇嗣在東宮,不宜有此議,奏請切責上書者,告示令散。太后又問地官尚書、同平章事格輔元,輔元固稱不可。由是大忤諸武意,故斥長倩令西征吐蕃,未至,徴還,下制獄。承嗣又譖輔元。來俊臣又脅長倩子靈原,令引司禮卿兼判納言事歐陽通等數十人,皆云同反。通爲俊臣所訊,五毒備至,終無異詞,俊臣乃詐爲通款。冬,十月,己酉,長倩、輔元、通等皆坐誅。
  王慶之見太后,太后曰:「皇嗣我子,奈何廢之?」慶之對曰:「『神不歆非類,民不祀非族。』今誰有天下,而以李氏爲嗣乎!」太后諭遣之。慶之伏地,以死泣請,不去,太后乃以印紙遺之曰:「欲見我,以此示門者。」自是慶之屢求見,太后頗怒之,命鳳閣侍郎李昭德賜慶之杖。昭德引出光政門外,以示朝士曰:「此賊欲廢我皇嗣,立武承嗣,」命撲之,耳目皆血出,然後杖殺之,其黨乃散。
  昭德因言於太后曰:「天皇,陛下之夫;皇嗣,陛下之子。陛下身有天下,當傳之子孫爲萬代業,豈得以姪爲嗣乎!自古未聞姪爲天子而爲姑立廟者也!且陛下受天皇顧託,若以天下與承嗣,則天皇不血食矣。」太后亦以爲然。昭德,乾祐之子也。
28.話は遡るが、鳳閣舎人の修武の張嘉福が、武承嗣を皇太子とするよう、洛陽の人王慶之等数百人へ上表させた。文昌右相、同鳳閣鸞台三品岑長倩は、皇嗣が東宮に居るので、この建議は宜しくないと判断し、上書した者を厳しく責めて告示にて彼等を散らすよう、上奏して請願した。そこで太后は、地官尚書、同平章事格輔元へ問うと、輔元も固く不可と称した。
 この一件により、彼等は武一族から強く憎まれた。だから長倩を排斥して吐蕃西征を命じ、途中で呼び返して牢獄へ落としたのである。
 承嗣は、又、輔元も讒言した。来俊臣は長倩の子の霊原を脅し、司禮卿兼判納言事欧陽通等数十人と共に造反を謀んだと言わせた。通は俊臣から尋問され、拷問を受けたけれども、ついに屈服しなかった。そこで俊臣は、通の自白書をでっち上げた。
 冬、十月、己酉、長倩、輔元、通等は皆、この罪で誅殺された。
 王慶之が太后へ謁見すると、太后は言った。
「皇嗣は我が子だ。どうしてこれを廃しようか?」
 対して、慶之は答えた。
「『神は非類の奉納を受けず、民は非族を祀らない』(左伝)と申します。今、誰の天下ですか。どうして李氏に後を継がせるのです!」
 太后は諭して帰らせようとしたが、慶之は地に伏し、命懸けで泣請した。そこで太后は印紙を渡して言った。
「我に会いたければ、これを門番へ見せるがよい。」
 ところが、これ以来、慶之は屡々謁見を求めた。太后はひどく怒り、慶之を打つための杖を鳳閣侍郎李昭徳へ賜った。昭徳は慶之を光政門の外へ引き出して、朝士へ示して言った。
「この賊は、我が皇嗣を廃して武承嗣を立てようとした。」
 そして、これを撲つよう命じた。慶之の耳も目も皆出血する。その後撲殺したので、その党類は散って行った。
 昭徳は太后へ言った。
「天皇は陛下の夫です。皇嗣は陛下の子息です。陛下は天下を持たれたのですから、これを子孫へ伝え、万代の偉業とするべきです。どうして姪を嗣にしてよいものでしょうか!昔から、姪を天子にして姑の為に廟を立てるなど、聞いた事がありませんぞ!それに、陛下は天皇から後事を託されたのです。もしも天下を承嗣へ渡せば、天皇は祀られなくなります。」
 太后も同意した。
 昭徳は乾祐の子息である。
 29壬辰,殺鸞臺侍郎・同平章事樂思晦、右衞將軍李安靜。安靜,綱之孫也。太后將革命,王公百官皆上表勸進,安靜獨正色拒之。及下制獄,來俊臣詰其反状,安靜曰:「以我唐家老臣,須殺即殺!若問謀反,實無可對!」俊臣竟殺之。
29.壬辰、鸞台侍郎・同平章事楽思晦と右衛将軍李安静を殺す。安静は綱の孫である。
 太后が革命を起こそうとした時、王公百官は皆上表して勧めたのに、安静一人顔色を変えてこれを拒んだ。それによって投獄されたが、来俊臣が反状を詰ると、安静は言った。
「我は唐家の老臣、殺さば殺せ!だが、謀反と言われても、身に覚えはない。」
 俊臣はついにこれを殺した。
 30太學生王循之上表,乞假還郷,太后許之。狄仁傑曰:「臣聞君人者唯殺生之柄不假人,自餘皆歸之有司。故左、右丞,徒以下不句;左、右相,流以上乃判,爲其漸貴故也。彼學生求假,丞、簿事耳,若天子爲之發敕,則天下之事幾敕可盡乎!必欲不違其願,請普爲立制而已。」太后善之。

30.太学生王循之が、暇乞いして故郷に帰りたいと、上表した。太后はこれを許した。すると、狄仁傑が言った。
「『君主はただ殺生の柄だけを人へ与えず、それ以外は全て役人へ任せる』と聞きます。ですから左、右丞以下の仕事には口出しせず、左、右相が上へ流せばこれへ目を通します。それは身分が貴くなるからです。あの学生が暇を求めたことへの裁可など、丞や簿の仕事です。もしも天子がそんなことにまで一々敕を出していたら、天下のことはいくら敕を出しても片づきませんぞ!どうしてもその願いを聞き届けたくなければ、そのような制度を作ってしまうようにお願いいたします。」
 太后は、これを善とした。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:27
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