垂拱三年(丁亥、六八七)1.春、閏正月、丁卯、皇子成美を恒王に封じた。隆基を楚王に封じた。隆範を衛王に封じた。隆業を趙王へ封じた。
1春,閏正月,丁卯,封皇子成美爲恆王,隆基爲楚王,隆範爲衞王,隆業爲趙王。
2二月,丙辰,突厥骨篤祿等寇昌平,命左鷹揚大將軍黑齒常之帥諸軍討之。2.二月、丙辰、突厥の骨篤禄等が昌平へ来寇した。左鷹揚大将軍黒歯常之へ、諸軍を率いて討伐するよう命じた。
3三月,乙丑,納言韋思謙以太中大夫致仕。3.三月、乙丑、納言韋思謙を太中大夫として退官させた。
4夏,四月,命蘇良嗣留守西京。時尚方監裴匪躬檢校京苑,將鬻苑中蔬果以收其利。良嗣曰:「昔公儀休相魯,猶能拔葵、去織婦,未聞萬乘之主鬻蔬果也。」乃止。4.夏、四月、蘇良嗣へ西京の留守を命じる。
5壬戌,裴居道爲納言。五月,丙寅,夏官侍郎京兆張光輔爲鳳閣侍郎、同平章事。5.壬戌、裴居道を納言とした。五月、丙寅、夏官侍郎で京兆の張光輔を鳳閣侍郎、同平章事とした。
6鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品劉禕之竊謂鳳閣舎人永年賈大隱曰:「太后既廢昏立明,安用臨朝稱制!不如返正,以安天下之心。」大隱密奏之,太后不悅,謂左右曰:「禕之我所引,乃復叛我!」或誣禕之受歸誠州都督孫萬榮金,又與許敬宗妾有私,太后命肅州刺史王本立推之。本立宣敕示之,禕之曰:「不經鳳閣鸞臺,何名爲敕!」太后大怒,以爲拒捍制使;庚午,賜死于家。6.鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品劉禕之が、鳳閣舎人の永年の賈大隠へ密かに言った。
禕之初下獄,睿宗爲之上疏申理,親友皆賀之,禕之曰:「此乃所以速吾死也。」臨刑,沐浴,神色自若,自草謝表,立成數紙。麟臺郎郭翰、太子文學周思均稱歎其文。太后聞之,左遷翰巫州司法,思鈞播州司倉。
7秋,七月,壬辰,魏玄同檢校納言。7.秋、七月、壬辰、魏玄同を検校納言とした。
8嶺南俚戸舊輸半課,交趾都護劉延祐使之全輸,俚戸不從,延祐誅其魁首。其黨李思愼等作亂,攻破安南府城,殺延祐。桂州司馬曹玄靜將兵討思愼等,斬之。8.嶺南の俚戸は、もともと税金が半分だった。交趾都護劉延祐は、これを全額徴収したが、俚戸は従わない。そこで延祐は、その首魁を誅殺した。すると、俚戸の党類李思慎等が造反した。安南府城を攻め破り、延祐を殺した。
9突厥骨篤祿、元珍寇朔州;遣燕然道大總管黑齒常之撃之,以左鷹揚大將軍李多祚爲之副,大破突厥於黄花堆,追奔四十餘里,突厥皆散走磧北。多祚世爲靺鞨酋長,以軍功得入宿衞。黑齒常之毎得賞賜,皆分將士;有善馬爲軍士所損,官屬請笞之,常之曰:「奈何以私馬笞官兵乎!」卒不問。9.突厥の骨篤禄、元珍が朔州へ来寇した。燕然道大総管黒歯常之を派遣して、これを撃たせた。左鷹揚大将軍李多祚を副官とした。彼等は黄花堆にて突厥を大いに破り、四十余里追撃した。突厥は、皆、磧北へ奔走した。
10九月,己卯,虢州人楊初成詐稱郎將,矯制於都市募人迎廬陵王於房州;事覺,伏誅。10.九月、己卯、虢州の人楊初成が郎将と詐称し、制をでっちあげて都市にて人を募り、房州へ廬陵王を迎え入れようとした。
11冬,十月,庚子,右監門衞中郎將爨寶璧與突厥骨篤祿、元珍戰,全軍皆沒,寶璧輕騎遁歸。11.冬、十月、庚子、右監門衛中郎将爨寶璧が突厥の骨篤禄、元珍と戦って、全滅した。寶璧は軽騎で逃げ帰った。その経緯は、以下の通り。
寶璧見黑齒常之有功,表請窮追餘寇。詔與常之計議,遙爲聲援。寶璧欲專其功,不待常之,引精卒萬三千人先行,出塞二千餘里,掩撃其部落;既至,又先遣人告之,使得嚴備,與戰,遂敗。太后誅寶璧;改骨篤祿曰不卒祿。
12命魏玄同留守西京。12.魏玄同へ西京の留守を命じた。
13武承嗣又使人誣李孝逸自云「名中有兔,兔,月中物,當有天分。」太后以孝逸有功,十一月,戊寅,減死除名,流儋州而卒。13.武承嗣は、再び人へ李孝逸を誣告させ、自ら言った。
14太后欲遣韋待價將兵撃吐蕃,鳳閣侍郎韋方質奏,請如舊制遣御史監軍。太后曰:「古者明君遣將,閫外之事悉以委之。比聞御史監軍,軍中事無大小皆須承稟。以下制上,非令典也;且何以責其有功!」遂罷之。14.太后は、韋侍價へ兵を与えて派遣し、吐蕃を撃たせようと欲した。すると鳳閣侍郎韋方質が、旧制のように監軍として御史を派遣するよう請うた。だが、太后は言った。
15是歳,天下大饑,山東、關内尤甚。15.この年、天下は大飢饉で、特に山東と関内が甚だしかった。
四年(戊子、六八八)1.春、正月、甲子、神都に於いて高祖、太宗、高宗の三廟を立て、西廟の儀のように四時に祀りを享した。また、祟先廟を立て、武氏の祖考を享する。
1春,正月,甲子,於神都立高祖、太宗、高宗三廟,四時享祀如西廟之儀。又立崇先廟以享武氏祖考。太后命有司議崇先廟室數,司禮博士周悰請爲七室,又減唐太廟爲五室。春官侍郎賈大隱奏:「禮,天子七廟,諸侯五廟,百王不易之義。今周悰別引浮議,廣述異聞,直崇臨朝權儀,不依國家常度。皇太后親承顧托,光顯大猷,其崇先廟室應如諸侯之數,國家宗廟不應輒有變移。」太后乃止。
2太宗、高宗之世,屢欲立明堂,諸儒議其制度,不決而止。及太后稱制,獨與北門學士議其制,不問諸儒。諸儒以爲明堂當在國陽丙己之地,三里之外,七里之内。太后以爲去宮太遠。二月,庚午,毀乾元殿,於其地作明堂,以僧懷義爲之使,凡役數萬人。2.太宗、高宗の御代に、屡々明堂を建てようとしたが、その大きさや位置などについて、儒学者達の議論が決まらず、中止となった。太后が摂政となるに及んで、その制度を北門学士だけと議論し、他の儒者には問わなかった。
3夏,四月,戊戌,殺太子通事舎人郝象賢。象賢,處俊之孫也。3.夏、四月、戊戌、太子通事舎人郝象賢を殺した。象賢は處俊の孫である。
初,太后有憾於處俊,會奴誣告象賢反,太后命周興鞫之,致象賢族罪。象賢家人詣朝堂,訟冤於監察御史樂安任玄殖。玄殖奏象賢無反状,玄殖坐免官。象賢臨刑,極口罵太后,發揚宮中隱慝,奪市人柴以撃刑者;金吾兵共格殺之。太后命支解其尸,發其父祖墳,毀棺焚尸。自是終太后之世,法官毎刑人,先以木丸塞其口。
4武承嗣使鑿白石爲文曰:「聖母臨人,永昌帝業。」末紫石雜藥物填之。庚午,使雍州人唐同泰奉表獻之,稱獲之於洛水。太后喜,命其石曰「寶圖」,擢同泰爲游撃將軍。五月,戊辰,詔當親拜洛,受「寶圖」;有事南郊,告謝昊天;禮畢,御明堂,朝羣臣。命諸州都督、刺史及宗室、外戚以拜洛前十日集神都。乙亥,太后加尊號爲聖母神皇。4.武承嗣が、白石を穿って文を書かせた。その文は、
5六月,丁亥朔,日有食之。5.六月、丁亥朔、日食が起こった。
6壬寅,作神皇三璽。6.壬寅、神皇の三璽を作った。
7東陽大長公主削封邑,并二子徙巫州。公主適高履行,太后以高氏長孫無忌之舅族,故惡之。7.東陽大長公主の封邑を削り、併せて二子を巫州へ流した。
8江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑以呉、楚多淫祠,奏焚其一千七百餘所,獨留夏禹、呉太伯、季札、伍員四祠。8.江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑は、呉、楚に淫祠が多いので、その千七百ヶ所を焚いたと上奏した。ただ、夏禹、呉太祖、季札、伍員の四祠だけは残した。
9秋,七月,丁巳,赦天下。更命「寶圖」爲「天授聖圖」;洛水爲永昌洛水,封其神爲顯聖侯,加特進,禁漁釣,祭祀比四瀆。名圖所出曰「聖圖泉」,泉側置永昌縣。又改嵩山爲神嶽,封其神爲天中王,拜太師、使持節、神嶽大都督,禁芻牧。又以先於汜水得瑞石,改汜水爲廣武。9.秋、七月、丁巳、天下へ恩赦を下した。「宝図」を「天授聖図」と改称した。
太后潛謀革命,稍除宗室。絳州刺史韓王元嘉、靑州刺史霍王元軌、邢州刺史魯王靈夔、豫州刺史越王貞及元嘉子通州刺史黄公譔、元軌子金州刺史江都王緒、虢王鳳子申州刺史東莞公融、靈夔子范陽王藹、貞子博州刺史琅邪王沖,在宗室中皆以才行有美名,太后尤忌之。元嘉等内不自安,密有匡復之志。
譔謬爲書與貞云:「内人病浸重,當速療之,若至今冬,恐成痼疾。」及太后召宗室朝明堂,諸王因遞相驚曰:「神皇欲於大饗之際,使人告密,盡收宗室,誅之無遺。」譔詐爲皇帝璽書與沖云:「朕遭幽縶,諸王宜各發兵救我。」沖又詐爲皇帝璽書云:「神皇欲移李氏社稷以授武氏。」八月,壬寅,沖召長史蕭德琮等令募兵,分告韓、霍、魯、越及貝州刺史紀王愼,令各起兵共趣神都。太后聞之,以左金吾將軍丘神勣爲清平道行軍大總管以討之。
沖募兵得五千餘人,欲渡河取濟州;先撃武水,武水令郭務悌詣魏州求救。莘令馬玄素將兵千七百人中道邀沖,恐力不敵,入武水,閉門拒守。沖推草車塞其南門,因風縱火焚之,欲乘火突入;火作而風回,沖軍不得進,由是氣沮。堂邑董玄寂爲沖將兵撃武水,謂人曰:「琅邪王與國家交戰,此乃反也。」沖聞之,斬玄寂以徇,衆懼而散入草澤,不可禁止,惟家僮左右數十人在。沖還走博州,戊申,至城門,爲守門者所殺,凡起兵七日而敗。丘神勣至博州,官吏素服出迎,神勣盡殺之,凡破千餘家。
越王貞聞沖起,亦舉兵於豫州,遣兵陷上蔡。九月,丙辰,命左豹韜大將軍麹崇裕爲中軍大總管,岑長倩爲後軍大總管,將兵十萬以討之,又命張光輔爲諸軍節度。削沖屬籍,更姓虺氏。貞聞沖敗,欲自鎖詣闕謝罪,會所署新蔡令傅延慶募得勇士二千餘人,貞乃宣言於衆曰:「琅邪已破魏、相數州,有兵二十萬,朝夕至矣。」發屬縣兵共得五千,分爲五營,使汝陽縣丞裴守德等將之,署九品以上官五百餘人。所署官皆受迫脅,莫有鬭志,惟守德與之同謀,貞以其女妻之,署大將軍,委以腹心。貞使道士及僧誦經以求事成,左右及戰士皆帶辟兵符。麹崇裕等軍至豫州城東四十里,貞遣少子規及裴守德拒戰,兵潰而歸。貞大懼,閉閤自守。崇裕等至城下,左右謂貞曰:「王豈可坐待戮辱!」貞、規、守德及其妻皆自殺。與沖皆梟首東都闕下。
初,范陽王藹遣使語貞及沖曰:「若四方諸王一時並起,事無不濟。」諸王往來相約結,未定而沖先發,惟貞狼狽應之,諸王皆不敢發,故敗。
貞之將起兵也,遣使告壽州刺史越瓌,瓌妻常樂長公主謂使者曰:「爲我語越王:昔隋文帝將簒周室,尉遲迥,周之甥也,猶能舉兵匡救社稷。功雖不成,威震海内,足爲忠烈。況汝諸王,先帝之子,豈得不以社稷爲心!今李氏危若朝露,汝諸王不捨生取義,尚猶豫不發,欲何須邪!禍且至矣,大丈夫當爲忠義鬼,無爲徒死也。」
及貞敗,太后欲悉誅韓、魯等諸王,命監察御史藍田蘇珦按其密状。珦訊問,皆無明驗,或告珦與韓、魯通謀,太后召珦詰之,珦抗論不回。太后曰:「卿大雅之士,朕當別有任使,此獄不必卿也。」乃命珦於河西監軍,更使周興等按之,於是收韓王元嘉、魯王靈夔、黄公譔、常樂公主於東都,迫脅皆自殺,更其姓曰「虺」,親黨皆誅。
以文昌左丞狄仁傑爲豫州刺史。時治越王貞黨與,當坐者六七百家,籍沒者五千口,司刑趣使行刑。仁傑密奏:「彼皆詿誤,臣欲顯奏,似爲逆人申理;知而不言,恐乖陛下仁恤之旨。」太后特原之,皆流豐州。道過寧州,寧州父老迎勞之曰:「我狄使君活汝邪?」相攜哭於德政碑下,設齋三日而後行。
時張光輔尚在豫州,將士恃功,多所求取,仁傑不之應。光輔怒曰:「州將輕元帥邪?」仁傑曰:「亂河南者,一越王貞耳,今一貞死,萬貞生!」光輔詰其語,仁傑曰:「明公總兵三十萬,所誅者止於越王貞。城中聞官軍至,踰城出降者四面成蹊,明公縱將士暴掠,殺已降以爲功,流血丹野,非萬貞而何!恨不得尚方斬馬劍,加於明公之頸,雖死如歸耳!」光輔不能詰,歸,奏仁傑不遜,左遷復州刺史。
10丁卯,左肅政大夫騫味道、夏官侍郎王本立並同平章事。10.丁卯、左粛政大夫騫味道と夏官侍郎王本立をともに同平章事とした。
11太后之召宗室朝明堂也,東莞公融密遣使問成均助教高子貢,子貢曰:「來必死。」融乃稱疾不赴。越王貞起兵,遣使約融,融倉猝不能應,爲官屬所逼,執使者以聞,擢拜右贊善大夫。未幾,爲支黨所引,冬,十月,己亥,戮於市,籍沒其家。高子貢亦坐誅。11.太后は宗室を朝堂へ集めた時、東完公融は密かに使者を派遣して成均助教の高子貢へ問うた。すると子貢は言った。
濟州刺史薛顗、顗弟緒、緒弟駙馬都尉紹,皆與琅邪王沖通謀。顗聞沖起兵,作兵器,募人;沖敗,殺録事參軍高纂以滅口。十一月,辛酉,顗、緒伏誅,紹以太平公主故,杖一百,餓死於獄。
十二月,乙酉,司徒、靑州刺史霍王元軌坐與越王連謀,廢徙黔州,載以檻車,行至陳倉而死。江都王緒、殿中監郕公裴承先皆戮於市。承先,寂之孫也。
12命裴居道留守西京。12.裴居道へ西京留守を命じた。
13左肅政大夫、同平章事騫味道素不禮於殿中侍御史周矩,屢言其不能了事。會有羅告味道者,敕矩按之。矩謂味道曰:「公常責矩不了事,今日爲公了之。」乙亥,味道及其子辭玉皆伏誅。13.左粛政大夫、同平章事騫味道は、もともと殿中侍御史周矩を礼せず、しばしば、彼は何もできないと言っていた。味道を密告する者がおり、矩へ取り調べるよう敕が降りた。
14己酉,太后拜洛受圖,皇帝、皇太子皆從,内外文武百官、蠻夷各依方敍立,珍禽、奇獸、雜寶列於壇前,文物鹵簿之盛,唐興以來未之有也。14.己酉、太后は洛を拝礼して図を受けた。皇帝と皇太子が、これに従った。内外の文武百官や蛮夷は各々の場所に立ち、珍禽奇獣雑寶を壇の前に並べた。唐が興って以来、文物歯簿がこんなに盛大になったことはなかった。
15辛亥,明堂成,高二百九十四尺,方三百尺。凡三層:下層法四時,各隨方色;中層法十二辰;上爲圓蓋,九龍捧之。上施鐵鳳,高一丈,飾以黄金。中有巨木十圍,上下通貫,栭櫨橕箆藉以爲本。下施鐵渠,爲辟雍之象。號曰萬象神宮。宴賜羣臣,赦天下,縱民入觀。改河南爲合宮縣。又於明堂北起天堂五級以貯大像;至三級,則俯視明堂矣。僧懷義以功拜左威衞大將軍、梁國公。15.辛亥、明堂が落成した。その高さは二百九十四尺、方三百尺。およそ三層。下層は四時に則り、各々色を変えた。中層は十二辰に則り、上は円形の蓋があって、九匹の龍が棒を支えている。上には鉄の鳳凰が施されていた。その高さは一丈。黄金で飾られていた。明堂の中には十抱えの巨木があり、上下を貫通して、家を支える柱の代わりをしていた。下には鉄の渠を施して水を通していた。号して「萬象神宮」と言った。
侍御史王求禮上書曰:「古之明堂,茅茨不剪,采椽不斲。今者飾以珠玉,塗以丹靑,鐵鷟入雲,金龍隱霧,昔殷辛瓊臺,夏癸瑤室,無以加也。」太后不報。
16太后欲發梁、鳳、巴蜑,自雅州開山通道,出撃生羌,因襲吐蕃。正字陳子昂上書,以爲:「雅州邊羌,自國初以來未嘗爲盜。今一旦無罪戮之,其怨必甚;且懼誅滅,必蜂起爲盜。西山盜起,則蜀之邊邑不得不連兵備守,兵久不解,臣愚以爲西蜀之禍,自此結矣。臣聞吐蕃愛蜀富饒,欲盜之久矣,徒以山川阻絶,障隘不通,勢不能動。今國家乃亂邊羌,開隘道,使其收奔亡之種,爲郷導以攻邊,是借寇兵而爲賊除道,舉全蜀以遺之也。蜀者國家之寶庫,可以兼濟中國。今執事者乃圖僥倖之利以事西羌,得其地不足以稼穡,財不足以富國,徒爲糜費,無益聖德,況其成敗未可知哉!夫蜀之所恃者險也,人之所以安者無役也;今國家乃開其險,役其人,險開則便寇,人役則傷財,臣恐未見羌戎,已有姦盜在其中矣。且蜀人尫劣,不習兵戰,山川阻曠,去中夏遠,今無故生西羌、吐蕃之患,臣見其不及百年,蜀爲戎矣。國家近廢安北,拔單于,棄龜茲,放疏勒,天下翕然謂之盛德者,蓋以陛下務在養人,不在廣地也。今山東饑,關、隴弊,而徇貪夫之議,謀動甲兵,興大役,自古國亡家敗,未嘗不由黷兵,願陛下熟計之。」既而役不果興。16.太后は、梁、鳳、巴の蛮を徴発して、雅州の山を開き道を通そうとした。出撃して生羌を撃ち、そのまま吐蕃を襲撃する為である。
永昌元年(己丑、六八九)1.春、正月、乙卯朔、萬象神宮で大いに饗した。
1春,正月,乙卯朔,大饗萬象神宮,太后服袞冕,搢大圭,執鎭圭爲初獻,皇帝爲亞獻,太子爲終獻。先詣昊天上帝座,次高祖、太宗、高宗,次魏國先王,次五方帝座。太后御則天門,赦天下,改元。丁巳,太后御明堂,受朝賀。戊午,布政于明堂,頒九條以訓百官。己未,御明堂,饗羣臣。
2二月,丁酉,尊魏忠孝王曰周忠孝太皇,妣曰忠孝太后,文水陵曰章德陵,咸陽陵曰明義陵。置崇先府官。戊戌,尊魯公曰太原靖王,北平王曰趙肅恭王,金城王曰魏義康王,太原王曰周安成王。2.二月、丁酉、魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇、妣を忠孝太后と改称した。また、文水陵を章徳陵、咸陽陵を明義陵と改称し、祟先府官を設置した。
3三月,甲子,張光輔守納言。3.三月、甲子、張光輔を納言とした。
4壬申,太后問正字陳子昂當今爲政之要。子昂退,上疏,以爲:「宜緩刑崇德,息兵革,省賦役,撫慰宗室,各使自安。」辭婉意切,其論甚美,凡三千言。4.壬申、太后が正字の陳子昴へ当今の政務の要点を問うた。子昴は退出した後、上疏した。「刑を緩めて徳を祟び、兵革を休めて賦役を省き、宗室を慰撫し、おのおの自ら安んじさせるのが宜しゅうございます。」
5癸酉,以天官尚書武承嗣爲納言,張光輔守内史。5.癸酉、天官尚書武承嗣を納言、張光輔を内史とした。
6夏,四月,甲辰,殺辰州別駕汝南王煒、連州別駕鄱陽公諲等宗室十二人,徙其家於巂州。煒,惲之子;諲,元慶之子也。6.夏、四月、甲辰、辰州別駕汝南王煒、連州別駕鄱陽公諲等宗室十二人を殺し、家族は巂州へ移した。煒は惲の子で、諲は元慶の子である。
己酉,殺天官侍郎藍田鄧玄挺。玄挺女爲諲妻,又與煒善。諲謀迎中宗於廬陵,以問玄挺,煒又嘗謂玄挺曰:「欲爲急計,何如?」玄挺皆不應。故坐知反不告,同誅。
7五月,丙辰,命文昌右相韋待價爲安息道行軍大總管,撃吐蕃。7.五月、丙辰、文昌右相韋待價を安息道行軍総管として吐蕃を攻撃させた。
8浪穹州蠻酋傍時昔等二十五部,先附吐蕃,至是來降;以傍時昔爲浪穹州刺史,令統其衆。8.浪穹州蛮の酋長傍時昔等二十五部は、今まで吐蕃へ服属していたが、ここに至って降伏してきた。傍時昔を浪穹州刺史として、彼等を統率させた。
9己巳,以僧懷義爲新平軍大總管,北討突厥。行至紫河,不見虜,於單于臺刻石紀功而還。9.己巳、僧懐義を新平軍大総管として、北方の突厥を攻撃させた。紫河まで進軍したが虜の姿を見なかったので、単于台にて石へ紀功を刻んで還った。
10諸王之起兵也,貝州刺史紀王愼獨不預謀,亦坐繋獄;秋七月,丁巳,檻車徙巴州,更姓虺氏,行及蒲州而卒。八男徐州刺史東平王續等,相繼被誅,家徙嶺南。10.諸王の起兵の時、貝州刺史紀王慎だけが陰謀に預からなかったが、彼も又牢獄へぶち込まれた。
女東光縣主楚媛,幼以孝謹稱,適司議郎裴仲將,相敬如賓;姑有疾,親嘗藥膳;接遇娣姒,皆得歡心。時宗室諸女皆以驕奢相尚,誚楚媛獨儉素,曰:「所貴於富貴者,得適志也;今獨守勤苦,將以何求?」楚媛曰:「幼而好禮,今而行之,非適志歟!觀自古女子,皆以恭儉爲美,縱侈爲惡。辱親是懼,何所求乎;富貴儻來之物,何足驕人!」衆皆慚服。及愼凶問至,楚媛號慟,嘔血數升;免喪,不御膏沐者垂二十年。
11韋待價軍至寅識迦河,與吐蕃戰,大敗。待價既無將領之才,狼狽失據,士卒凍餒,死亡甚衆,乃引軍還。太后大怒,丙子,待價除名,流繡州,斬副大總管安西大都護閻温古。安西副都護唐休璟收其餘衆,撫安西土,太后以休璟爲西州都督。11.韋待價は寅議迦河まで進軍して吐蕃と戦い、大敗した。
12戊寅,以王本立同鳳閣鸞臺三品。12.戊寅、王本立を同鳳閣鸞台三品とした。
13徐敬業之敗也,弟敬眞流繡州,逃歸,將奔突厥,過洛陽,洛州司馬弓嗣業、洛陽令張嗣明資遣之;至定州,爲吏所獲,嗣業縊死。嗣明、敬眞多引海内知識,云有異圖,冀以免死;於是朝野之士爲所連引坐死者甚衆。嗣明誣内史張光輔,云「征豫州日,私論圖讖、天文,陰懷兩端。」八月,甲申,光輔與敬眞、嗣明等同誅,籍沒其家。13.徐敬業が敗北した後、弟の敬眞は繡州へ流されたが、逃げ帰って突厥へ亡命しようとした。洛陽を過ぎた時、洛州司馬弓嗣業と洛陽令張嗣明が物資を援助した。
乙未,秋官尚書太原張楚金、陝州刺史郭正一、鳳閣侍郎元萬頃、洛陽令魏元忠,並免死流嶺南。楚金等皆爲敬眞所引,云與敬業通謀。臨刑,太后使鳳閣舎人王隱客馳騎傳聲郝之。聲達於市,當刑者皆喜躍讙呼,宛轉不已;元忠獨安坐自如,或使之起,元忠曰:「虚實未知。」隱客至,又使起,元忠曰:「俟宣敕已。」既宣敕,乃徐起,舞蹈再拜,竟無憂喜之色。是日,陰雲四塞,既釋楚金等,天氣晴霽。
14九月,壬子,以僧懷義爲新平道行軍大總管,將兵二十萬以討突厥骨篤祿。14.九月、壬子、僧懐義を新平道行軍大総管とし、二十万の兵を与えて突厥の骨篤禄を討たせた。
15初,高宗之世,周興以河陽令召見,上欲加擢用,或奏以非清流,罷之。興不知,數於明堂俟命。諸相皆無言,地官尚書、檢校納言魏玄同,時同平章事,謂之曰:「周明府可去矣。」興以爲玄同沮己,銜之。玄同素與裴炎善,時人以其終始不渝,謂之耐久朋。周興奏誣玄同言:「太后老矣,不若奉嗣君爲耐久。」太后怒,閏月,甲午,賜死于家。監刑御史房濟謂玄同曰:「丈人何不告密,冀得召見,可以自直!」玄同歎曰:「人殺鬼殺,亦復何殊,豈能作告密人邪!」乃就死。又殺夏官侍郎崔詧於隱處。自餘内外大臣坐死及流貶者甚衆。15.高宗の御代、当時河陽令だった周興を召見して抜擢しようとしたが、ある者が、彼は清流ではない、と指摘したので、お流れとなったことがあった。興はそれを知らず、何度も朝堂にて辞令を待った。諸相は皆無言だったが、この時同平章事だった地官尚書、検校納言魏玄同が彼へ言った。
彭州長史劉易從亦爲徐敬眞所引;戊申,就州誅之。易從爲人,仁孝忠謹,將刑於市,吏民憐其無辜,遠近奔赴,競解衣投地曰:「爲長史求冥福。」有司平準,直十餘萬。
周興等誣右武衞大將軍燕公黑齒常之謀反,徴下獄。冬,十月,戊午,常之縊死。
己未,殺宗室鄂州剌史嗣鄭王璥等六人。庚申,嗣滕王脩琦等六人免死,流嶺南。
16丁卯,春官尚書范履冰、鳳閣侍郎邢文偉並同平章事。16.丁卯、春官尚書范履冰と鳳閣侍郎邢文偉を共に同平章事とした。
17己卯,詔太穆神皇后、文德聖皇后宜配皇地祇,忠孝太后從配。17.太穆神皇后、文徳聖皇后を皇地祇へ配して、忠孝太后へ従配するよう詔が降りた。
18右衞冑曹參軍陳子昂上疏,以爲:「周頌成、康,漢稱文、景,皆以能措刑故也。今陛下之政,雖盡善矣,然太平之朝,上下樂化,不宜有亂臣賊子,日犯天誅。比者大獄增多,逆徒滋廣,愚臣頑昧,初謂皆實,乃去月十五日,陛下特察繋囚李珍等無罪,百僚慶悅,皆賀聖明,臣乃知亦有無罪之人挂於疏網者。陛下務在寬典,獄官務在急刑,以傷陛下之仁,以誣太平之政,臣竊恨之。又,九月二十一日敕免楚金等死,初有風雨,變爲景雲。臣聞陰慘者刑也,陽舒者德也;聖人法天,天亦助聖。天意如此,陛下豈可不承順之哉!今又陰雨,臣恐過在獄官。凡繋獄之囚,多在極法,道路之議,或是或非,陛下何不悉召見之,自詰其罪。罪有實者顯示明刑,濫者嚴懲獄吏,使天下咸服,人知政刑,豈非至德克明哉!」18.右衛冑曹参軍陳子昴が上疏した。
天授元年(庚寅、六九〇)1.十一月、庚辰朔、日が南へ至った。太后は萬神神宮で恵みを受けて、天下へ恩赦を下した。始めて周の正朔を用い、永昌元年十一月を載初元年正月とした。十二月を臘月とし、夏正月を一月とした。周と漢の子孫を二王の後とし、舜、禹、成王の子孫を三恪とした。後周、隋の嗣は列国と同列とした。
1十一月,庚辰朔,日南至。太后享萬象神宮,赦天下。始用周正,改永昌元年十一月爲載初元年正月,以十二月爲臘月,夏正月爲一月。以周、漢之後爲二王後,舜、禹、成湯之後爲三恪,周、隋之嗣同列國。
2鳳閣侍郎河東宗秦客,改造「天」「地」等十二字以獻,丁亥,行之。太后自名「曌」,改詔曰制。秦客,太后從父姊之子也。2.鳳閣侍郎の河東の宗秦客が「天」「地」等十二字を改造して献上した。丁亥、この文字を施行した。この十二字の中に「照」も入っており、太后は自分の名前を新しい文字「曌」と変えた。又、詔を制と改称した。
3乙未,司刑少卿周興奏除唐親屬籍。3.乙未、司刑少卿周興が、唐の親族の官籍を除くよう上奏した。
4臘月,辛未,以僧懷義爲右衞大將軍,賜爵鄂國公。4.臘月、辛未、僧懐義を右衛大将軍として、鄂国公の爵位を賜下した。
5春,一月,戊子,武承嗣遷文昌左相,岑長倩遷文昌右相、同鳳閣鸞臺三品,鳳閣侍郎武攸寧爲納言,邢文偉守内史,左肅政大夫、同鳳閣鸞臺三品王本立罷爲地官尚書。攸寧,士彠之兄孫也。5.春、一月、戊子、武承嗣を文昌左相、岑長倩を文昌右相・同鳳閣鸞台三品、鳳閣侍郎武攸寧を納言とし、邢文偉は内史に留任、左粛政大夫・同鳳閣鸞台三品王本立はこれをやめさせて地官尚書とした。
時武承嗣、三思用事,宰相皆下之。地官尚書、同鳳閣鸞臺三品韋方質有疾,承嗣、三思往問之,方質據牀不爲禮。或諫之,方質曰:「死生有命,大丈夫安能曲事近戚以求苟免乎!」尋爲周興等所搆,甲午,流儋州,籍沒其家。
6二月,辛酉,太后策貢士於洛城殿。貢士殿試自此始。6.二月、辛酉、太后が洛城殿にて貢士の試験を行った。貢士の殿試は、これから始まった。
7丁卯,地官尚書王本立薨。7.丁卯、地官尚書王本立が卒した。
8三月,丁亥,特進、同鳳閣鸞臺三品蘇良嗣薨。8.三月、丁亥、特進、同鳳閣鸞台三品蘇良嗣が卒した。
9夏,四月,丁巳,春官尚書、同平章事范履冰坐嘗舉犯逆者,下獄死。9.夏、四月、丁巳、春官尚書、同平章事范履冰が、かつて反逆者を出した罪で下獄され、死んだ。
10醴泉人侯思止,始以賣餅爲業,後事游撃將軍高元禮爲僕,素詭譎無賴。恆州刺史裴貞杖一判司,判司使思止告貞與舒王元名謀反,秋,七月,辛巳,元名坐廢,徙和州,壬午,殺其子豫章王亶;貞亦族滅。擢思止爲游撃將軍。時告密者往往得五品,思止求爲御史,太后曰:「卿不識字,豈堪御史!」對曰:「獬豸何嘗識字,但能觸邪耳。」太后悅,即以爲朝散大夫、侍御史。他日,太后以先所籍沒宅賜之,思止不受,曰:「臣惡反逆之人,不願居其宅。」太后益賞之。10.醴泉の人侯思止は、初めは餅売りを生業としていたが、後に游撃将軍高元禮に仕えて従僕となった。彼は、もともと嘘つきの無頼漢だった。
衡水人王弘義,素無行,嘗從鄰舎乞瓜,不與,乃告縣官瓜田中有白兔。縣官使人搜捕,蹂踐瓜田立盡。又游趙、貝,見閭里耆老作邑齋,遂告以謀反,殺二百餘人,擢授游撃將軍,俄遷殿中侍御史。或告勝州都督王安仁謀反,敕弘義按之。安仁不服,弘義即於枷上刎其首;又捕其子,適至,亦刎其首,函之以歸。道過汾州,司馬毛公與之對食,須臾,叱毛公下階,斬之,槍掲其首入洛,見者無不震栗。
時置制獄於麗景門内,入是獄者,非死不出,弘義戲呼曰「例竟門」。朝士人人自危,相見莫敢交言,道路以目。或因入朝密遭掩捕,毎朝,輒與家人訣曰:「未知復相見否?」
時法官競爲深酷,唯司刑丞徐有功、杜景儉獨存平恕,被告者皆曰:「遇來、侯必死,遇徐、杜必生。」
有功,文遠之孫也,名弘敏,以字行。初爲蒲州司法,以寬爲治,不施敲朴,吏相約有犯徐司法杖者,衆共斥之。迨官滿,不杖一人,職事亦脩。累遷司刑丞,酷吏所誣構者,有功皆爲直之,前後所活數十百家。嘗廷爭獄事,太后厲色詰之,左右爲戰栗,有功神色不撓,爭之彌切。太后雖好殺,知有功正直,甚敬憚之。景儉,武邑人也。
司刑丞滎陽李日知亦尚平恕。少卿胡元禮欲殺一囚,日知以爲不可,往複數四,元禮怒曰:「元禮不離刑曹,此囚終無生理!」日知曰:「日知不離刑曹,此囚終無死法!」竟以兩状列上,日知果直。
11東魏國寺僧法明等撰大雲經四卷,表上之,言太后乃彌勒佛下生,當代唐爲閻浮提主;制頒於天下。11.東魏国寺の僧法明等が大雲経四巻を撰集して上納した。この経典では、太后が弥勒仏の生まれ変わりであり、唐に代わって閻浮提主(仏教で言う天子)となるべきだと説いていた。これを天下へ頒布した。
12武承嗣使周興羅告隋州刺史澤王上金、舒州刺史許王素節謀反,徴詣行在。素節發舒州,聞遭喪哭者,歎曰:「病死何可得,乃更哭邪!」丁亥,至龍門,縊殺之。上金自殺。悉誅其諸子及支黨。12.周興が、武承嗣の命令を受けて、隋州刺史澤王上金と舒州刺史許王素節が造反を企んでいると告発した。彼等は行在所へ呼び出された。
13太后欲以太平公主妻其伯父士讓之孫攸曁,攸曁時爲右衞中郎將,太后潛使人殺其妻而妻之。公主方額廣頤,多權略,太后以爲類己,寵愛特厚,常與密議天下事。舊制,食邑,諸王不過千戸,公主不過三百五十戸;太平食邑獨累加至三千戸。13.太后は太平公主を、彼女の伯父の士譲の孫の攸曁へ娶せたかった。この時攸曁は右衛中郎将だったが、太后は密かに彼の妻を暗殺させた。
14八月,甲寅,殺太子少保、納言裴居道;癸亥,殺尚書左丞張行廉。辛未,殺南安王潁等宗室十二人,又鞭殺故太子賢二子,唐之宗室於是殆盡矣,其幼弱存者亦流嶺南,又誅其親黨數百家。惟千金長公主以巧媚得全,自請爲太后女,仍改姓武氏;太后愛之,更號延安大長公主。14.八月、甲寅、太子少保、納言の裴居道を殺した。癸亥、尚書左丞張行廉を殺した。辛未、南安王穎等宗室十二人を殺した。また、もとの太子賢の二子を鞭で打ち殺した。
15九月,丙子,侍御史汲人傅游藝帥關中百姓九百餘人詣闕上表,請改國號曰周,賜皇帝姓武氏,太后不許;擢游藝爲給事中。於是百官及帝室宗戚、遠近百姓、四夷酋長、沙門、道士合六萬餘人,倶上表如游藝所請,皇帝亦上表自請賜姓武氏。戊寅,羣臣上言:「有鳳皇自明堂飛入上陽宮,還集左臺梧桐之上,久之,飛東南去;及赤雀數萬集朝堂。15.九月丙子。侍御史の汲の人傅遊藝が関中の百姓九百人を率いて闕を詣で、国号を周と改め皇帝へ武氏の姓を賜うよう上表した。太后は許さなかった。だが、遊藝を給事中へ抜擢する。
庚辰,太后可皇帝及羣臣之請。壬午,御則天樓,赦天下,以唐爲周,改元。乙酉,上尊號曰聖神皇帝,以皇帝爲皇嗣,賜姓武氏;以皇太子爲皇孫。
丙戌,立武氏七廟于神都,追尊周文王曰始祖文皇帝,妣姒氏曰文定皇后,平王少子武曰睿祖康皇帝,妣姜氏曰康睿皇后;太原靖王曰嚴祖成皇帝,妣曰成莊皇后;趙肅恭王曰肅祖章敬皇帝,魏義康王曰烈祖昭安皇帝,周安成王曰顯祖文穆皇帝,忠孝太皇曰太祖孝明高皇帝,妣皆如考謚,稱皇后。立武承嗣爲魏王,三思爲梁王,攸寧爲建昌王,士彠兄孫攸歸、重規、載德、攸曁、懿宗、嗣宗、攸宜、攸望、攸緒、攸止皆爲郡王,諸姑姊皆爲長公主。
又以司賓卿溧陽史務滋爲納言,鳳閣侍郎宗秦客檢校内史,給事中傅游藝爲鸞臺侍郎、平章事。游藝與岑長倩、右玉鈐衞大將軍張虔勗、左金吾大將軍丘神勣、侍御史來子珣等並賜姓武。秦客潛勸太后革命,故首爲内史。游藝朞年之中歴衣靑、綠、朱、紫,時人謂之四時仕宦。
敕改州爲郡;或謂太后曰:「陛下始革命而廢州,不祥。」太后遽追止之。
命史務滋等十人巡撫諸道。太后立兄孫延基等六人爲郡王。
16冬,十月,甲子,檢校内史宗秦客坐贓貶遵化尉,弟楚客亦以姦贓流嶺外。16.冬、十月、甲子、検校内史宗秦客が、贈賄の罪で遵化尉へ降格された。弟の楚客もまた、姦を隠した罪で嶺外へ流された。
17丁卯,殺流人韋方質。17.丁卯、流人の韋方質を殺す。
18辛未,内史邢文偉坐附會宗秦客貶珍州刺史。頃之,有制使至州,文偉以爲誅己,遽自縊死。18.辛未、内史邢文偉が宗秦客の党類として、珍州刺史へ降格された。
19壬申,敕兩京諸州各置大雲寺一區,藏大雲經,使僧升高座講解,其撰疏僧雲宣等九人皆賜爵縣公,仍賜紫袈裟、銀龜袋。19.壬申、両京や諸州へ各々大雲寺一区を設置するよう敕が降りた。そこには大雲経を藏させ、高座に昇った僧へ大雲経を講解させた。
20制天下武氏咸蠲課役。20.天下の武氏の課役を減じると制を降した。
21西突厥十姓,自垂拱以來,爲東突厥所侵掠,散亡略盡。濛池都護繼往絶可汗斛瑟羅收其餘衆六七萬人入居内地,拜右衞大將軍,改號竭忠事主可汗。21.西突厥の十姓は、垂拱以来東突厥から侵掠され、ほとんど散亡してしまっていた。
22道州刺史李行褒兄弟爲酷吏所陷,當族,秋官郎中徐有功固爭不能得。秋官侍郎周興奏有功出反囚,當斬,太后雖不許,亦免有功官;然太后雅重有功,久之,復起爲侍御史。有功伏地流涕固辭曰:「臣聞鹿走山林而命懸庖廚,勢使之然也。陛下以臣爲法官,臣不敢枉陛下法,必死是官矣。」太后固授之,遠近聞者相賀。22.道州刺史李行褒兄弟が、酷吏に陥れられ一族誅殺に相当したが、秋官郎中徐有功が固く争ったので、実行されなかった。秋官侍郎周興は、有功が囚人に肩入れしたので斬罪に相当すると上奏した。太后は許さなかったが、有功も免官とした。しかし、太后は有功の人格を重んじていたので、やがて侍御史に再登庸した。だが、有功は地面にはいつくばり、涙を流して固辞した。「『鹿が山林を駆ければ、厨房にて命を落とす。それは、彼の置かれた情勢がそうさせるのだ。』と臣は聞きます。陛下が臣を法官に任用されますと、臣は陛下の法を曲げずにはいられません。臣がこの官に就きますと、必ず死んでしまいます。」
23是歳,以右衞大將軍泉獻誠爲左衞大將軍。太后出金寶,命選南北牙善射者五人賭之,獻誠第一,以讓右玉鈐衞大將軍薛咄摩,咄摩復讓獻誠。獻誠乃奏言:「陛下令選善射者,今多非漢官,竊恐四夷輕漢,請停此射。」太后善而從之。23.この年、右衛大将軍泉献誠を左衛大将軍とした。
二年(辛卯、六九一)1.正月、癸酉朔、太后が萬象神宮にて、始めて尊号を受けた。ただ、旗幟は依然として赤いまま。
1正月,癸酉朔,太后始受尊號於萬象神宮,旗幟尚赤。甲戌,改置社稷於神都。辛巳,納武氏神主于太廟;唐太廟之在長安者,更命曰享德廟。四時唯享高祖已下,餘四室皆閉不享。又改長安崇先廟爲崇尊廟。乙酉,日南至,大享明堂,祀昊天上帝,百神從祀,武氏祖宗配饗,唐三帝亦同配。
2御史中丞知大夫事李嗣眞以酷吏縱橫,上疏,以爲:「今告事紛紜,虚多實少,恐有凶慝陰謀離間陛下君臣。古者獄成,公卿參聽,王必三宥,然後行刑。比日獄官單車奉使,推鞫既定,法家依斷,不令重推;或臨時專決,不復聞奏。如此,則權由臣下,非審愼之法,儻有冤濫,何由可知!況以九品之官專命推覆,操殺生之柄,竊人主之威,按覆既不在秋官,省審復不由門下,國之利器,輕以假人,恐爲社稷之禍。」太后不聽。2.御史中丞知大夫事李嗣真は、酷吏がのさばっているので上疏した。その大意は、「今、告事が紛紜としておりますが、その内容は虚偽ばかりで真実はわずかです。これは、凶悪な人間が陛下へ、君臣を離間させようとの陰謀をしかけているのではないかと恐れます。昔は、裁判の判決には公卿が参聴しましたし、王は必ず三度宥め、その後に刑を行ったものです。しかし最近では、獄官が一人で使を奉じて裁断を下しますと、法家はこれに同調し、再審させません。あるいは、独断にて決定して聞奏しないことさえあります。このようであれば、権は臣下から出ますし、審判を慎むとゆう原理にも反します。たまたま冤罪や濫発があっても、どうやって知れるでしょうか!ましてや九品の官が推覆を専命し殺生の柄を操り人主の威を盗んでおります。按覆は既に秋官の手から放れ、省審も門下省を経由しておりません。国の利器を軽々しく人に貸し与えるのは、社稷の禍になることを恐れます。」
3饒阻尉姚貞亮等數百人表請上尊號曰上聖大神皇帝,不許。3.饒陽尉の姚貞亮等数百人が、上表して上の尊号を上聖大神皇帝とするよう請願したが、許さなかった。
4侍御史來子珣誣尚衣奉御劉行感兄弟謀反,皆坐誅。4.侍御史来子珣が、尚衣奉御の劉行感兄弟が謀反したと誣告した。皆、造反罪で誅殺された。
5春,一月,地官尚書武思文及朝集使二千八百人表請封中嶽。5.春、一月、地官尚書武思文及び朝集使二千八百人が、中嶽にて封禅するよう上表にて請願した。
6己亥,廢唐興寧、永康、隱陵署官,唯量置守戸。6.己亥、唐の興寧(元帝の陵)、永康(景帝の陵)、隠陵の署官を廃止し、ただ守戸のみを置いた。
7左金吾大將軍丘神勣以罪誅。7.左金吾大将軍丘神勣が罪を以て誅された。
8納言史務滋與來俊臣同鞫劉行感獄,俊臣奏務滋與行感親密,意欲寢其反状。太后命俊臣并推之,務滋恐懼自殺。8.納言史務滋と来俊臣が共に劉行感の疑獄を取り調べさせた。
9或告文昌右丞周興與丘神勣通謀,太后命來俊臣鞫之,俊臣與興方推事對食,謂興曰:「囚多不承,當爲何法?」興曰:「此甚易耳!取大甕,以炭四周炙之,令囚入中,何事不承!」俊臣乃索大甕,火圍如興法,因起謂興曰:「有内状推史,請兄入此甕!」興惶恐叩頭伏罪。法當死,太后原之,二月,流興嶺南,在道,爲仇家所殺。9.文昌右丞周興が丘神勣と通謀していると、ある者が告発した。太后は来俊臣へ取り調べさせた。俊臣は興を食事に招いて言った。
興與索元禮、來俊臣競爲暴刻,興、元禮所殺各數千人,俊臣所破千餘家。元禮殘酷尤甚,太后亦殺之以慰人望。
10徙左衞大將軍千乘王武攸曁爲定王。10.左衛大将軍千乗王武攸曁を定王とした。
11立故太子賢之子光順爲義豐王。11.もとの太子賢の子の光順を義豊王とした。
12甲子,太后命始祖墓曰德陵,睿祖墓曰喬陵,嚴祖墓曰節陵,肅祖墓曰簡陵,烈祖墓曰靖陵,顯祖墓曰永陵,改章德陵爲昊陵,顯義陵爲順陵。12.甲子、太后は、始祖の墓を徳陵、睿祖の墓を喬陵、厳祖の墓を節陵、粛祖の墓を簡陵、烈祖の墓を靖陵、顕祖の墓を永陵と名付けるよう命じ、章徳陵を昊陵、顕義陵を順陵と改称した。
13追復李君羨官爵。13.李羨の官職を追復した。
14夏,四月,壬寅朔,日有食之。14.夏、四月、壬寅朔、日食が起こった。
15癸卯,制以釋教開革命之階,升於道教之上。15.癸卯、仏教が革命の階を開いた(大雲経が禅定を示唆したことを指す)として、道教の上へ置いた。
16命建安王攸宜留守長安。16.建安王攸宜へ長安の留守を命じる。
17丙辰,鑄大鐘,置北闕。17.丙辰、大鐘を鋳造し、北闕へ置いた。
18五月,以岑長倩爲武威道行軍大總管,撃吐蕃,中道召還,軍竟不出。18.五月、岑長倩を武威道行軍大総管として吐蕃攻撃を命じたが、途中で呼び戻し、遂に軍を出さなかった。
19六月,以左肅政大夫格輔元爲地官尚書,與鸞臺侍郎樂思晦、鳳閣侍郎任知古並同平章事。思晦,彦暐之子也。19.六月、左粛政大夫格輔元を地官尚書とし、鸞台侍郎楽思晦、鳳閣侍郎任知古と共に同平章事とした。思晦は彦暐の子息である。
20秋,七月,徙關内戸數十萬以實洛陽。20.秋、七月、関内の数十万戸を洛陽へ移住させた。
21八月,戊申,納言武攸寧罷爲左羽林大將軍;夏官尚書歐陽通爲司禮卿兼判納言事。21.八月、戊申、納言武攸寧を罷免して左羽林大将軍とした。夏官尚書欧陽通を司礼卿として納言の仕事を兼務させた。
22庚申,殺玉鈐衞大將軍張虔勗。來俊臣鞫虔勗獄,虔勗自訟於徐有功;俊臣怒,命衞士以刀亂斫殺之,梟首于市。22.庚申、玉今衛大将軍張虔勗を殺した。
23義豐王光順、嗣雍王守禮、永安王守義、長信縣主等皆賜姓武氏,與睿宗諸子皆幽閉宮中,不出門庭者十餘年。守禮、守義,光順之弟也。23.義豊王光順、嗣雍王守礼、永安王守義、長信県主らが皆、武氏の姓を賜ったが、睿宗の諸子と共に宮中に幽閉され、門庭へ十余年出られなかった。
24或告地官尚書武思文初與徐敬業通謀;甲子,流思文於嶺南,複姓徐氏。24.地官尚書武思文が、初めは徐敬業と通謀していたと、ある者が告発した。
25九月,乙亥,殺岐州刺史雲弘嗣。來俊臣鞫之,不問一款,先斷其首,乃偽立案奏之。其殺張虔勗亦然。敕旨皆依,海内鉗口。25.九月、乙亥、岐州刺史雲弘嗣を殺した。
26鸞臺侍郎、同平章事傅游藝夢登湛露殿,以語所親,所親告之;壬辰,下獄,自殺。26.鸞台侍郎、同平章事傅遊藝が夢で湛露殿へ登った。これを親しい者へ語ったところ、告発されてしまった。
27癸巳,以左羽林衞大將軍建昌王武攸寧爲納言,洛州司馬狄仁傑爲地官侍郎,與冬官侍郎裴行本並同平章事。太后謂仁傑曰:「卿在汝南,甚有善政,卿欲知譖卿者名乎!」仁傑謝曰:「陛下以臣爲過,臣請改之;知臣無過,臣之幸也,不願知譖者名。」太后深歎美之。27.癸巳、左羽林大将軍建昌王武攸寧を納言とする。洛州司馬狄仁傑を地官侍郎とし、冬官侍郎裴行本と共に同平章事とする。
28先是,鳳閣舎人脩武張嘉福使洛陽人王慶之等數百人上表,請立武承嗣爲皇太子。文昌右相、同鳳閣鸞臺三品岑長倩以皇嗣在東宮,不宜有此議,奏請切責上書者,告示令散。太后又問地官尚書、同平章事格輔元,輔元固稱不可。由是大忤諸武意,故斥長倩令西征吐蕃,未至,徴還,下制獄。承嗣又譖輔元。來俊臣又脅長倩子靈原,令引司禮卿兼判納言事歐陽通等數十人,皆云同反。通爲俊臣所訊,五毒備至,終無異詞,俊臣乃詐爲通款。冬,十月,己酉,長倩、輔元、通等皆坐誅。28.話は遡るが、鳳閣舎人の修武の張嘉福が、武承嗣を皇太子とするよう、洛陽の人王慶之等数百人へ上表させた。文昌右相、同鳳閣鸞台三品岑長倩は、皇嗣が東宮に居るので、この建議は宜しくないと判断し、上書した者を厳しく責めて告示にて彼等を散らすよう、上奏して請願した。そこで太后は、地官尚書、同平章事格輔元へ問うと、輔元も固く不可と称した。
王慶之見太后,太后曰:「皇嗣我子,奈何廢之?」慶之對曰:「『神不歆非類,民不祀非族。』今誰有天下,而以李氏爲嗣乎!」太后諭遣之。慶之伏地,以死泣請,不去,太后乃以印紙遺之曰:「欲見我,以此示門者。」自是慶之屢求見,太后頗怒之,命鳳閣侍郎李昭德賜慶之杖。昭德引出光政門外,以示朝士曰:「此賊欲廢我皇嗣,立武承嗣,」命撲之,耳目皆血出,然後杖殺之,其黨乃散。
昭德因言於太后曰:「天皇,陛下之夫;皇嗣,陛下之子。陛下身有天下,當傳之子孫爲萬代業,豈得以姪爲嗣乎!自古未聞姪爲天子而爲姑立廟者也!且陛下受天皇顧託,若以天下與承嗣,則天皇不血食矣。」太后亦以爲然。昭德,乾祐之子也。
29壬辰,殺鸞臺侍郎・同平章事樂思晦、右衞將軍李安靜。安靜,綱之孫也。太后將革命,王公百官皆上表勸進,安靜獨正色拒之。及下制獄,來俊臣詰其反状,安靜曰:「以我唐家老臣,須殺即殺!若問謀反,實無可對!」俊臣竟殺之。29.壬辰、鸞台侍郎・同平章事楽思晦と右衛将軍李安静を殺す。安静は綱の孫である。
30太學生王循之上表,乞假還郷,太后許之。狄仁傑曰:「臣聞君人者唯殺生之柄不假人,自餘皆歸之有司。故左、右丞,徒以下不句;左、右相,流以上乃判,爲其漸貴故也。彼學生求假,丞、簿事耳,若天子爲之發敕,則天下之事幾敕可盡乎!必欲不違其願,請普爲立制而已。」太后善之。
30.太学生王循之が、暇乞いして故郷に帰りたいと、上表した。太后はこれを許した。すると、狄仁傑が言った。
「『君主はただ殺生の柄だけを人へ与えず、それ以外は全て役人へ任せる』と聞きます。ですから左、右丞以下の仕事には口出しせず、左、右相が上へ流せばこれへ目を通します。それは身分が貴くなるからです。あの学生が暇を求めたことへの裁可など、丞や簿の仕事です。もしも天子がそんなことにまで一々敕を出していたら、天下のことはいくら敕を出しても片づきませんぞ!どうしてもその願いを聞き届けたくなければ、そのような制度を作ってしまうようにお願いいたします。」
太后は、これを善とした。
翻訳者: 渡邊 省