久視元年(庚子、七〇〇)1.秋、七月、契丹の捕虜を含枢殿にて献上した。
1秋,七月,獻俘於含樞殿。太后以楷固爲左玉鈐衞大將軍、燕國公,賜姓武氏。召公卿合宴,舉觴屬仁傑曰:「公之功也。」將賞之,對曰:「此乃陛下威靈,將帥盡力,臣何功之有!」固辭不受。
2閏月,戊寅,車駕還宮。2.閏月、戊寅、車駕が宮殿へ帰った。
3己丑,以天官侍郎張錫爲鳳閣侍郎、同平章事。鸞臺侍郎、同平章事李嶠罷爲成均祭酒。錫,嶠之舅也,故罷嶠政事。3.己丑、天官侍郎張錫を鳳閣侍郎、同平章事とした。鸞台侍郎、同平章事李嶠を罷免して、成均祭酒とする。
4丁酉,吐蕃將麴莽布支寇涼州,圍昌松,隴右諸軍大使唐休璟與戰於港源谷。麴莽布支兵甲鮮華,休璟謂諸將曰:「諸論既死,麴莽布支新爲將,不習軍事,望之雖如精鋭,實易與耳,請爲諸君破之。」乃被甲先陷陳,六戰皆捷,吐蕃大奔,斬首二千五百級,獲二裨將而還。4.丁酉、吐蕃の将麹奔布支が涼州へ来寇し、昌松を包囲した。港源谷にて、隴右諸軍大使唐休璟と戦った。
5司府少卿楊元亨,尚食奉御楊元禧,皆弘武之子也。元禧嘗忤張易之,易之言於太后:「元禧,楊素之族;素父子,隋之逆臣,子孫不應供奉。」太后從之,壬寅,制:「楊素及其兄弟子孫皆不得任京官。」左遷元亨睦州刺史,元禧貝州刺史。5.司府少卿楊元亨と尚食奉御楊元禧は、共に弘武の子息である。元禧は、かつて張易之に逆らった。すると、易之は太后に言った。
6庚戌,以魏元忠爲隴右諸軍大使,撃吐蕃。6.庚戌、魏元忠を隴右諸軍大使として、吐蕃を攻撃させた。
7庚申,太后欲造大像,使天下僧尼日出一錢以助其功。狄仁傑上疏諫,其略曰:「今之伽藍,制過宮闕。功不使鬼,止在役人,物不天來,終須地出,不損百姓,將何以求!」又曰:「游僧皆託佛法,詿誤生人;里陌動有經坊,闤闠亦立精舍。化誘所急,切於官徴;法事所須,嚴於制敕。」又曰:「梁武、簡文捨施無限,及三淮沸浪,五嶺騰煙,列刹盈衢,無救危亡之禍,緇衣蔽路,豈有勤王之師!」又曰:「雖斂僧錢,百未支一。尊容既廣,不可露居,覆以百層,尚憂未遍,自餘廊宇,不得全無。如來設教,以慈悲爲主。豈欲勞人,以存虚飾!」又曰:「比來水旱不節,當今邊境未寧,若費官財,又盡人力,一隅有難,將何以救之!」太后曰:「公教朕爲善,何得相違!」遂罷其役。7.庚申、太后は大像を造りたくなり、天下の僧尼へ毎日一銭を供出させて、その助けとした。狄仁傑が上疏して諫めた。その大意は、
8阿悉吉薄露叛,遣左金吾將軍田揚名、殿中侍御史封思業討之。軍至碎葉,薄露夜於城傍剽掠而去,思業將騎追之,反爲所敗。揚名引西突厥斛瑟羅之衆攻其城,旬餘,不克。九月,薄露詐降,思業誘而斬之,遂俘其衆。8.阿悉吉薄露(西突厥の弩失畢五俟斤の一つ)が造反した。左金吾将軍田揚名、殿中侍御史封思業を派遣して、討伐させた。
9太后信重内史梁文惠公狄仁傑,羣臣莫及,常謂之國老而不名。仁傑好面引廷爭,太后毎屈意從之。嘗從太后游幸,遇風吹仁傑巾墜,而馬驚不能止,太后命太子追執其鞚而繋之。仁傑屢以老疾乞骸骨,太后不許。入見,常止其拜,曰:「毎見公拜,朕亦身痛。」仍免其宿直,戒其同僚曰:「自非軍國大事,勿以煩公。」辛丑,薨,太后泣曰:「朝堂空矣!」自是朝廷有大事,衆或不能決,太后輒歎曰:「天奪吾國老何太早邪!」9.太后は、内史梁文恵公狄仁傑を群臣の誰よりも信重しており、いつも彼のことを名前では呼ばずに、「国老」と呼んだ。仁傑は、朝廷で面と向かって争うことを好み、太后はいつも我意を屈してこれに従っていた。
太后嘗問仁傑:「朕欲得一佳士用之,誰可者?」仁傑曰:「未審陛下欲何所用之?」太后曰:「欲用爲將相。」仁傑對曰:「文學緼藉,則蘇味道、李嶠固其選矣。必欲取卓犖奇才,則有荊州長史張柬之,其人雖老,宰相才也。」太后擢柬之爲洛州司馬。數日,又問仁傑,對曰:「前薦柬之,尚未用也。」太后曰:「已遷矣。」對曰:「臣所薦者可爲宰相,非司馬也。」乃遷秋官侍郎;久之,卒用爲相。仁傑又嘗薦夏官侍郎姚元崇、監察御史曲阿桓彦範、太州刺史敬暉等數十人,率爲名臣。或謂仁傑曰:「天下桃李,悉在公門矣。」仁傑曰:「薦賢爲國,非爲私也。」
初,仁傑爲魏州刺史,有惠政,百姓爲之立生祠。後其子景暉爲魏州司功參軍,貪暴爲人患,人遂毀其像焉。
10冬,十月,辛亥,以魏元忠爲蕭關道大總管,以備突厥。10.冬、十月、辛亥、魏元忠を蕭関道大総管として突厥に備えさせた。
11甲寅,制復以正月爲十一月,一月爲正月,赦天下。11.甲寅、正月を十一月に、一月を正月に戻すと制が下った。(天授元年、十一月を正月としていた。)天下へ恩赦を下した。
12丁巳,納言韋巨源罷,以文昌右丞韋安石爲鸞臺侍郎、同平章事。安石,津之孫也。12.丁巳、納言の韋巨源を罷免し、文昌右丞韋安石を鸞台侍郎、同平章事とした。安石は、津の孫である。
時武三思、張易之兄弟用事,安石數面折之。嘗侍宴禁中,易之引蜀商宋霸子等數人在座同博。安石跪奏曰:「商賈賤類,不應得預此會。」顧左右逐出之,座中皆失色;太后以其言直,勞勉之,同列皆歎服。
13丁卯,太后幸新安;壬申,還宮。13.丁卯、太后が新安へ御幸した。壬申、宮へ戻った。
14十二月,甲寅,突厥掠隴右諸監馬萬餘匹而去。14.十二月、甲寅、突厥が隴右の監馬一万余匹を掠めて去った。
15時屠禁尚未解,鳳閣舍人全節崔融上言,以爲:「割烹犧牲,弋獵禽獸,聖人著之典禮,不可廢闕。又,江南食魚,河西食肉,一日不可無;富者未革,貧者難堪,況貧賤之人,仰屠爲生,日戮一人,終不能絶,但資恐喝,徒長姦欺。爲政者苟順月令,合禮經,自然物遂其生,人得其性矣。」戊午,復開屠禁,祠祭用牲牢如故。15.この頃、殺生禁止令はまだ解けていなかった。鳳閣舎人の全節の崔融が上言した。
長安元年(辛丑、七〇一)1.春、正月、丁丑、成州にて仏の跡が見つかったというので、大足と改元された。
1春,正月,丁丑,以成州言佛迹見,改元大足。
2二月,己酉,以鸞臺侍郎柏人李懷遠同平章事。2.二月、己酉、鸞台侍郎の柏人の李懐遠を同平章事とした。
3三月,鳳閣侍郎、同平章事張錫坐知選漏泄禁中語、贓滿數萬,當斬,臨刑釋之,流循州。時蘇味道亦坐事與錫倶下司刑獄,錫乘馬,意氣自若,舎于三品院,帷屏食飲,無異平居。味道歩至繋所,席地而臥,蔬食而已。太后聞之,赦味道,復其位。3.三月、鳳閣侍郎、同平章事張錫が、禁中での会話を知選へ漏洩して数万の収賄をしたとして有罪になった。法に照らせば斬罪だったが、刑場にて赦され、循州へ流された。
4是月,大雪,蘇味道以爲瑞,帥百官入賀。殿中侍御史王求禮止之曰:「三月雪爲瑞雪,臘月雷爲瑞雷乎?」味道不從。既入,求禮獨不賀,進言曰:「今陽和布氣,草木發榮,而寒雪爲災,豈得誣以爲瑞!賀者皆諂諛之士也。」太后爲之罷朝。4.この月、大雪だった。蘇味道はこれを瑞兆として、百官を率いて入賀した。すると、殿中侍御史王求礼が、これを止めて言った。
時又有獻三足牛者,宰相復賀。求禮颺言曰:「凡物反常皆爲妖。此鼎足非其人,政教不行之象也。」太后爲之愀然。
5夏,五月,乙亥,太后幸三陽宮。5.夏、五月、乙亥、太后が三陽宮へ御幸した。
6以魏元忠爲靈武道行軍大總管,以備突厥。6.魏元忠を霊武道行軍大総管として、突厥に備えさせた。
7天官侍郎鹽官顧琮同平章事。7.天官侍郎の塩官の顧琮を同平章事とした。
8六月,庚申,以夏官尚書李迥秀同平章事。8.六月、庚申、夏官侍郎李迥秀を同平章事とした。
迥秀性至孝,其母本微賤,妻崔氏常叱媵婢,母聞之不悅,迥秀即時出之。或曰:「賢室雖不避嫌疑,然過非七出,何遽如是?」迥秀曰:「娶妻本以養親,今乃違忤顏色,安敢留也!」竟出之。
9秋,七月,甲戌,太后還宮。9.秋、七月、甲戌、太后が宮殿へ帰った。
10甲申,李懷遠罷爲秋官尚書。10.甲申、李懐遠がやめて秋官尚書となった。
11八月,突厥默啜寇邊,命安北大都護相王爲天兵道元帥,統諸軍撃之,未行而虜退。11.八月、突厥の黙啜が辺境へ来寇した。安北大都護相王を天兵道元帥として、諸軍を率いて攻撃させた。だが、彼等が到着する前に虜は撤退した。
12丙寅,武邑人蘇安恆上疏曰:「陛下欽先聖之顧托,受嗣子之推讓,敬天順人,二十年矣。豈不聞帝舜褰裳,周公復辟!舜之於禹,事祗族親;旦與成王,不離叔父。族親何如子之愛,叔父何如母之恩?今太子孝敬是崇,春秋既壯,若使統臨宸極,何異陛下之身!陛下年德既尊,寶位將倦,機務煩重,浩蕩心神,何不禪位東宮,自怡聖體!自昔理天下者,不見二姓而倶王也,當今梁、定、河内、建昌諸王,承陛下之蔭覆,並得封王。臣謂千秋萬歳之後,於事非便。臣請黜爲公侯,任以閒簡。臣又聞陛下有二十餘孫,今無尺寸之封,此非長久之計也;臣請分土而王之,擇立師傅,教其孝敬之道,以夾輔周室,屏藩皇家,斯爲美矣。」疏奏,太后召見,賜食,慰諭而遣之。12.丙寅、武邑の人蘇安恒が上疏した。
13太后春秋高,政事多委張易之兄弟;邵王重潤與其妹永泰郡主、主壻魏王武延基竊議其事。易之訴於太后,九月,壬申,太后皆逼令自殺。延基,承嗣之子也。13.太后は高齢で、政事の大半は張易之兄弟に委ねていた。
14丙申,以相王知左、右羽林衞大將軍事。14.丙申、相王を知左、右羽林衛大将軍事とした。
15冬,十月,壬寅,太后西入關,辛酉,至京師;赦天下,改元。15.冬、十月、壬寅、太后が西へ御幸して関中に入った。辛酉、京師へ到着した。天下に恩赦を下して改元した。
16十一月,戊寅,改含元宮爲大明宮。16.十一月、戊寅、含元宮を大明宮と改称した。
17天官侍郎安平崔玄暐,性介直,未嘗請謁。執政惡之,改文昌左丞。月餘,太后謂玄暐曰:「自卿改官以來,聞令史設齋自慶。此欲盛爲姦貪耳,今還卿舊任。」乃復拜天官侍郎,仍賜綵七十段。17.天官侍郎の安平の崔玄暐は、介直な人間で、今まで一度も謁見を乞うたことがなかった。執政はこれを憎み、文昌左丞へ左遷した。
18以主客郎中郭元振爲涼州都督、隴右諸軍大使。18.主客郎中郭元振を涼州都督、隴右諸軍大使とした。
先是,涼州南北境不過四百餘里,突厥、吐蕃頻歳奄至城下,百姓苦之。元振始於南境硤口置和戎城,北境磧中置白亭軍,控其衝要,拓州境千五百里,自是寇不復至城下。元振又令甘州刺史李漢通開置屯田,盡水陸之利。舊涼州粟麥斛至數千,及漢通收率之後,一縑糴數十斛,積軍糧支數十年。元振善於撫御,在涼州五年,夷、夏畏慕,令行禁止,牛羊被野,路不拾遺。
二年(壬寅、七〇二)1.春、正月、乙酉、始めて武挙を設けた。
1春,正月,乙酉,初設武舉。
2空厥寇鹽、夏二州。三月,庚寅,突厥破石嶺,寇并州。以雍州長史薛季昶攝右臺大夫,充山東防禦軍大使,滄、瀛、幽、易、恆、定等州諸軍皆受季昶節度。夏,四月,以幽州刺史張仁愿專知幽、平、嬀、檀防禦,仍與季昶相知,以拒突厥。2.突厥が鹽、夏二州へ入寇した。
3五月,壬申,蘇安恆復上疏曰:「臣聞天下者,神堯、文武之天下也,陛下雖居正統,實因唐氏舊基。當今太子追廻,年德倶盛,陛下貪其寶位而忘母子深恩,將何聖顏以見唐家宗廟,將何誥命以謁大帝墳陵?陛下何故日夜積憂,不知鐘鳴漏盡!臣愚以爲天意人事,還歸李家。陛下雖安天位,殊不知物極則反,器滿則傾。臣何惜一朝之命而不安萬乘之國哉!」太后亦不之罪。3.五月、壬申、蘇安恒が、再び上疏した。
4乙未,以相王爲并州牧,充安北道行軍元帥,以魏元忠爲之副。4.乙未、相王を并州牧にして安北道行軍元帥とし、魏元忠をその副とした。
5六月,壬戌,召神都留守韋巨源詣京師,以副留守李嶠代之。5.六月、壬戌、神都留守韋巨源を京師へ呼び出した。副留守の李嶠を後任とした。
6秋,七月,甲午,突厥寇代州。6.秋、七月、甲午、突厥が代州へ来寇した。
7司僕卿張昌宗兄弟貴盛,勢傾朝野。八月,戊午,太子、相王、太平公主上表請封昌宗爲王,制不許;壬戌,又請,乃賜爵鄴國公。7.司僕卿張昌宗兄弟の権力は、朝野を傾けるほど。
8敕:「自今有告言揚州及豫、博餘黨,一無所問,内外官司無得爲理。」8.勅が下った。
9九月,乙丑朔,日有食之,不盡如鉤,神都見其既。9.九月、乙丑朔、日食が起きたが皆既ではなく、鉤のように細く残った。ただ、神都では皆既だった。
10壬申,突厥寇忻州。10.壬申、突厥が忻州へ来降した。
11己卯,吐蕃遣其臣論彌薩來求和。11.己卯、吐蕃が臣下の論彌薩を派遣して、和平を求めた。
12庚辰,以太子賓客武三思爲大谷道大總管,洛州長史敬暉爲副;辛巳,又以相王旦爲并州道元帥,三思與武攸宜、魏元忠爲之副;姚元崇爲長史,司禮少卿鄭杲爲司馬;然竟不行。12.庚辰、太子賓客武三思を大谷道大総管として、洛州長史敬暉を副とした。
13癸未,宴論彌薩於麟德殿。時涼州都督唐休璟入朝,亦預宴。彌薩屢窺之。太后問其故,對曰:「洪源之戰,此將軍猛厲無敵,故欲識之。」太后擢休璟爲右武威、金吾二衞大將軍。休璟練習邊事,自碣石以西踰四鎭,緜亙萬里,山川要害,皆能記之。13.癸未、麟徳殿にて論弥薩を饗宴する。
14冬,十月,甲辰,天官侍郎、同平章事顧琮薨。14.冬、十月、甲辰、天官侍郎、同平章事顧宗が卒した。
15戊申,吐蕃贊普將萬餘人寇茂州,都督陳大慈與之四戰,皆破之,斬首千餘級。15.戊申、吐蕃の贊普が万余人を率いて茂州へ来寇した。都督の陳大慈がこれと四戦して全て撃破した。千余の首級を挙げた。
16十一月,辛未,監察御史魏靖上疏,以爲:「陛下既知來俊臣之姦,處以極法,乞詳覆俊臣等所推大獄,伸其枉濫。」太后乃命監察御史蘇頲按覆俊臣等舊獄,由是雪免者甚衆。頲,夔之曾孫也。16.十一月、辛未、監察御史魏靖が上疏した。その大意は、
17戊子,太后祀南郊,赦天下。17.戊子、太后が南郊を祀った。天下へ恩赦を下した。
18十二月,甲午,以魏元忠爲安東道安撫大使,羽林衞大將軍李多祚檢校幽州都督,右羽林衞將軍薛訥、左武衞將軍駱務整爲之副。18.十二月、甲午、魏元忠を安東道安撫大使とし、羽林衛大将軍李多祚を検校幽州都督とし、右羽林将軍薛訥、左武衛将軍駱務整を副とした。
19戊申,置北庭都護府於庭州。19.戊申、庭州に北庭都護府を設置した。
20侍御史張循憲爲河東采訪使,有疑事不能決,病之,問侍吏曰:「此有佳客,可與議事者乎?」吏言前平郷尉猗氏張嘉貞有異才,循憲召見,詢以事;嘉貞爲條析理分,莫不洗然。循憲因請爲奏,皆意所未及。循憲還,見太后,太后善其奏,循憲具言嘉貞所爲,且請以己之官授之。太后曰:「朕寧無一官自進賢邪!」因召嘉貞,入見内殿,與語,大悅,即拜監察御史;擢循憲司勳郎中,賞其得人也。20.侍御史張循憲が河東采訪使となった。任期中、疑わしい事件が起こって決定できず、これを気に病んで、彼は侍吏へ問うた。
三年(癸卯、七〇三)1.春、三月、壬戌朔、日食が起こった。
1春,三月,壬戌朔,日有食之。
2夏,四月,吐蕃遣使獻馬千匹、金二千兩以求婚。2.夏、四月、吐蕃が使者を派遣して馬千匹、金二千両を献上して通婚を求めた。
3閏月,丁丑,命韋安石留守神都。3.閏月、丁丑、韋安石に神都の留守を命じた。
4己卯,改文昌臺爲中臺。以中臺左丞李嶠知納言事。4.己卯、文昌台を中台と改称した。中台左丞李嶠を知納言事とした。
5新羅王金理洪卒,遣使立其弟崇基爲王。5.新羅王金理洪が卒した。使者を派遣して、その弟の祟基を王に立てた。
6六月,辛酉,突厥默啜遣其臣莫賀干來,請以女妻皇太子之子。6.六月、辛酉、突厥の黙啜が臣下の莫賀干を派遣し、娘と皇太子の子息を結婚させるよう乞うた。
7寧州大水,溺殺二千餘人。7.寧州で大水が起こり、二千余人が溺死した。
8秋,七月,癸卯,以正諫大夫朱敬則同平章事。8.秋、七月、癸卯、正諫大夫朱敬則を同平章事とした。
9戊申,以相王旦爲雍州牧。9.戊申、相王旦を雍州牧とした。
10庚戌,以夏官尚書、檢校涼州都督唐休璟同鳳閣鸞臺三品。時突騎施酋長烏質勒與西突厥諸部相攻,安西道絶。太后命休璟與諸宰相議其事,頃之,奏上,太后即依其議施行。後十餘日,安西諸州請兵應接,程期一如休璟所畫,太后謂休璟曰:「恨用卿晩!」謂諸宰相曰:「休璟練習邊事,卿曹十不當一。」10.庚戌、夏官尚書、検校涼州都督唐休璟を現職のまま鳳閣鸞台三品とした。
時西突厥可汗斛瑟羅用刑殘酷,諸部不服。烏質勒本隸斛瑟羅,號莫賀達干,能撫其衆,諸部歸之,斛瑟羅不能制。烏質勒置都督二十員,各將兵七千人,屯碎葉西北;後攻陷碎葉,徙其牙帳居之。斛瑟羅部衆離散,因入朝,不敢復還,烏質勒悉併其地。
11九月,庚寅朔,日有食之,既。11.九月、庚寅朔、皆既日食が起こった。
12初,左臺大夫、同鳳閣鸞臺三品魏元忠爲洛州長史,洛陽令張昌儀恃諸兄之勢,毎牙,直上長史聽事;元忠到官,叱下之。張易之奴暴亂都市,元忠杖殺之。及爲相,太后召易之弟岐州刺史昌期,欲以爲雍州長史,對仗,問宰相曰:「誰堪雍州者?」元忠對曰:「今之朝臣無以易薛季昶。」太后曰:「季昶久任京府,朕欲別除一官;昌期何如?」諸相皆曰:「陛下得人矣。」元忠獨曰:「昌期不堪!」太后問其故,元忠曰:「昌期少年,不閑吏事,曏在岐州,戸口逃亡且盡。雍州帝京,事任繁劇,不若季昶強幹習事。」太后默然而止。元忠又嘗面奏:「臣自先帝以來,蒙被恩渥,今承乏宰相,不能盡忠死節,使小人在側,臣之罪也!」太后不悅,由是諸張深怨之。12.左台大夫、同鳳閣鸞台三品の魏元忠が洛州長史となった頃、洛陽令の張昌儀は諸兄の勢力を後援に恃んで、専横なことが多かった。長史聴事では、彼の地位なら庭下に立たなければならないのに、殿まで上がってきた。だが、元忠がやって来ると、これを叱りつけて庭下へ追い出した。また、張易之の奴隷が町中で暴れた時、元忠はこれを杖で殴殺した。
司禮丞高戩,太平公主之所愛也。會太后不豫,張昌宗恐太后一日晏駕,爲元忠所誅,乃譖元忠與戩私議云「太后老矣,不若挾太子爲久長。」太后怒,下元忠、戩獄,將使與昌宗廷辨之。昌宗密引鳳閣舍人張説,賂以美官,使證元忠,説許之。明日,太后召太子、相王及諸宰相,使元忠與昌宗參對,往復不決。昌宗曰:「張説聞元忠言,請召問之。」
太后召説。説將入,鳳閣舍人南和宋璟謂説曰:「名義至重,鬼神難欺,不可黨邪陷正以求苟免。若獲罪流竄,其榮多矣。若事有不測,璟當叩閤力爭,與子同死。努力爲之,萬代瞻仰,在此舉也!」殿中侍御史濟源張廷珪曰:「朝聞道,夕死可矣!」左史劉知幾曰:「無汚靑史,爲子孫累!」
及入,太后問之,説未對。元忠懼,謂説曰:「張説欲與昌宗共羅織魏元忠邪!」説叱之曰:「元忠爲宰相,何乃效委巷小人之言!」昌宗從旁迫趣説,使速言。説曰:「陛下視之,在陛下前,猶逼臣如是,況在外乎!臣今對廣朝,不敢不以實對。臣實不聞元忠有是言,但昌宗逼臣使誣證之耳!」易之、昌宗遽呼曰:「張説與魏元忠同反!」太后問其状。對曰:「説嘗謂元忠爲伊、周;伊尹放太甲,周公攝王位,非欲反而何?」説曰:「易之兄弟小人,徒聞伊、周之語,安知伊、周之道!日者元忠初衣紫,臣以郞官往賀,元忠語客曰:『無功受寵,不勝慙懼。』臣實言曰:『明公居伊、周之任,何愧三品!』彼伊尹、周公皆爲臣至忠,古今慕仰。陛下用宰相,不使學伊、周,當使學誰邪?且臣豈不知今日附昌宗立取台衡,附元忠立致族滅!但臣畏元忠冤魂,不敢誣之耳。」太后曰:「張説反覆小人,宜并繋治之。」他日,更引問,説對如前。太后怒,命宰相與河内王武懿宗共鞫之,説所執如初。
朱敬則抗疏理之曰:「元忠素稱忠正,張説所坐無名,若令抵罪,失天下望。」蘇安恆亦上疏,以爲:「陛下革命之初,人以爲納諫之主;暮年以來,人以爲受佞之主。自元忠下獄,里巷恟恟,皆以爲陛下委信姦宄,斥逐賢良。忠臣烈士,皆撫髀於私室而箝口於公朝,畏迕易之等意,徒取死而無益。方今賦役煩重,百姓凋弊,重以讒慝專恣,刑賞失中,竊恐人心不安,別生他變,爭鋒於朱雀門内,問鼎於大明殿前,陛下將何以謝之,何以禦之?」易之等見其疏,大怒,欲殺之,賴朱敬則及鳳閣舍人桓彦範、著作郎陸澤魏知古保救得免。
丁酉,貶魏元忠爲高要尉,戩、説皆流嶺表。元忠辭日,言於太后曰:「臣老矣,今向嶺南,十死一生。陛下他日必有思臣之時。」太后問其故,時易之、昌宗皆侍側,元忠指之曰:「此二小兒,終爲亂階。」易之等下殿,叩膺自擲稱冤。太后曰:「元忠去矣!」
殿中侍御史景城王晙復奏申理元忠,宋璟謂之曰:「魏公幸已得全,今子復冒威怒,得無狼狽乎!」晙曰:「魏公以忠獲罪,晙爲義所激,顛沛無恨。」璟歎曰:「璟不能申魏公之枉,深負朝廷矣。」
太子僕崔貞愼等八人餞元忠於郊外,易之詐爲告密人柴明状,稱貞愼等與元忠謀反。太后使監察御史丹徒馬懷素鞫之,謂懷素曰:「茲事皆實,略問,速以聞。」頃之,中使督趣者數四,曰:「反状昭然,何稽留如此?」懷素請柴明對質,太后曰:「我自不知柴明處,但據状鞫之,安用告者?」懷素據實以聞,太后怒曰:「卿欲縱反者邪?」對曰:「臣不敢縱反者!元忠以宰相謫官,貞愼等以親故追送,若誣以爲反,臣實不敢。昔欒布奏事彭越頭下,漢祖不以爲罪,況元忠之刑未如彭越,而陛下欲誅其送者乎!且陛下操生殺之柄,欲加之罪,取決聖衷可矣;若命臣推鞫,臣不敢不以實聞!」太后曰:「汝欲全不罪邪?」對曰:「臣智識愚淺,實不見其罪!」太后意解。貞愼等由是獲免。
太后嘗命朝貴宴集,易之兄弟皆位在宋璟上。易之素憚璟,欲悅其意,虚位揖之曰:「公方今第一人,何乃下坐?」璟曰:「才劣位卑,張卿以爲第一,何也?」天官侍郎鄭杲謂璟曰:「中丞奈何卿五郎?」璟曰:「以官言之,正當爲卿。足下非張卿家奴,何郎之有!」舉坐悚惕。時自武三思以下,皆謹事易之兄弟,璟獨不爲之禮。諸張積怒,常欲中傷之;太后知之,故得免。
13丁未,以左武衞大將軍武攸宜充西京留守。13.丁未、左武衛大将軍武攸宜を西京留守とした。
14冬,十月,丙寅,車駕發西京;乙酉,至神都。14.冬、十月、丙寅、車駕が西京を出発した。乙酉、神都へ到着した。
15十一月,突厥遣使謝許婚。丙寅,宴於宿羽臺,太子預焉。宮尹崔神慶上疏,以爲:「今五品以上所以佩龜者,爲別敕徴召,恐有詐妄,内出龜合,然後應命。況太子國本,古來徴召皆用玉契。此誠重愼之極也。昨縁突厥使見,太子應預朝參,直有文符下宮,曾不降敕處分,臣愚謂太子非朔望朝參、應別召者,望降墨敕及玉契。」太后甚然之。15.十一月、突厥が、通婚を許可してもらったことへの感謝の使者を派遣した。宿羽台にて宴会を設け、これには太子も出席した。すると、宮尹崔神慶が上疏した。
16始安獠歐陽倩擁衆數萬,攻陷州縣,朝廷思得良吏以鎭之。朱敬則稱司封郎中裴懷古有文武才,制以懷古爲桂州都督,仍充招慰討撃使。懷古纔及嶺上,飛書示以禍福,倩等迎降,且言「爲吏所侵逼,故舉兵自救耳。」懷古輕騎赴之。左右曰:「夷獠無信,不可忽也。」懷古曰:「吾仗忠信,可通神明,而況人乎!」遂詣其營,賊衆大喜,悉歸所掠貨財;諸洞酋長素持兩端者,皆來款附,嶺外悉定。16.始安の獠の欧陽倩が数万の衆を擁して州県を攻め落とした。
17是歳,分命使者以六條察州縣。17.この年、全土を六つにわけて使者を派遣し、州県の実態を監察させた。
18吐蕃南境諸部皆叛,贊普器弩悉弄自將撃之,卒於軍中。諸子爭立,久之,國人立其子棄隸蹜贊爲贊普,生七年矣。18.吐蕃で、南境の諸部族が、皆、造反した。賛普の器弩悉弄が自ら攻撃したが、陣中にて卒した。
四年(甲辰、七〇四)1.春、正月、丙申、右武威将軍阿史那懐道を西突厥十姓可汗とした。懐道は、斛瑟羅の子息である。
1春,正月,丙申,册拜右武衞將軍阿史那懷道爲西突厥十姓可汗。懷道,斛瑟羅之子也。
2丁未,毀三陽宮,以其材作興泰宮於萬安山。二宮皆武三思建議爲之,請太后毎歳臨幸,功費甚廣,百姓苦之。左拾遺盧藏用上疏,以爲:「左右近臣多以順意爲忠,朝廷具僚皆以犯忤爲戒,致陛下不知百姓失業,傷陛下之仁。陛下誠能以勞人爲辭,發制罷之,則天下皆知陛下苦己而愛人也。」不從。藏用,承慶之弟孫也。2.丁未、三陽宮を壊し、その材料を使って万安山に興泰宮を造った。どちらの宮殿も、武三思が建議して造った物で、太后へ毎年御幸するよう乞うた。その為の費用は莫大で、百姓は苦しんだ。左拾遺盧蔵用が上疏した。その大意は、
3壬子,以天官侍郎韋嗣立爲鳳閣侍郎、同平章事。3.壬子、天官侍郎韋嗣立を鳳閣侍郎、同平章事とした。
4夏官侍郎、同鳳閣鸞臺三品李迥秀頗受賄賂,監察御史馬懷素劾奏之。二月,癸亥,迥秀貶廬州刺史。4.夏官侍郎、同鳳閣鸞台三品の李迥秀は収賄の常習者だったので、監察御史馬懐素が、これを弾劾した。
5壬申,正諫大夫、同平章事朱敬則以老疾致仕。敬則爲相,以用人爲先,自餘細務不之視。5.壬申、正諫大夫、同平章事朱敬則が老齢と病気で辞職した。
6太后嘗與宰相議及刺史、縣令。三月,己丑,李嶠、唐休璟等奏:「竊見朝廷物議,遠近人情,莫不重内官,輕外職,毎除授牧伯,皆再三披訴。比來所遣外任,多是貶累之人;風俗不澄,寔由於此。望於臺、閣、寺、監妙簡賢良,分典大州,共康庶績。臣等請輟近侍,率先具僚。」太后命書名探之,得韋嗣立及御史大夫楊再思等二十人。癸巳,制各以本官檢校刺史,嗣立爲汴州刺史。其後政績可稱者,唯常州刺史薛謙光、徐州刺史司馬鍠而已。6.太后が、かつて宰相達と話しているうちに、刺史、県令のことに議論が及んだ。
7丁丑,徙平恩王重福爲譙王。7.丁丑、平恩王重福を譙王とした。
8以夏官侍郎宗楚客同平章事。8.夏官侍郎宗楚客を同平章事とした。
9鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品蘇味道謁歸葬其父,制州縣供葬事。味道因之侵毀郷人墓田,役使過度。監察御史蕭至忠劾奏之,左遷坊州刺史。至忠,引之玄孫也。9.鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品の蘇味道が父親を埋葬する為に故郷へ帰る時、州県の官吏は葬儀を手伝うよう制が下った。味道はこれを楯にとって郷人の墓や田を奪い、官吏達を無節操に酷使した。監察御史蕭至忠が、これを弾劾した。味道は坊州刺史へ左遷された。
10夏,四月,壬戌,同鳳閣鸞臺三品韋安石知納言,李嶠知内史事。10.夏、四月、壬戌、同鳳閣鸞台三品韋安石が知納言となり、李嶠が知内史事となった。
11太后幸興泰宮。11.太后が、興泰宮へ御幸した。
12太后復税天下僧尼,作大像於白司馬阪,令春官尚書武攸寧檢校,糜費巨億。李嶠上疏,以爲:「天下編戸,貧弱者衆。造像錢見有一十七萬餘緡,若將散施,人與一千,濟得一十七萬餘戸。拯飢寒之弊,省勞役之勤,順諸佛慈悲之心,霑聖君亭育之意,人神胥悅,功德無窮。方作過後因縁,豈如見在果報!」監察御史張廷珪上疏諫曰:「臣以時政論之,則宜先邊境,蓄府庫,養人力;以釋教論之,則宜救苦厄,滅諸相,崇無爲。伏願陛下察臣之愚,行佛之意,務以理爲上,不以人廢言。」太后爲之罷役,仍召見廷珪,深賞慰之。12.太后が、再び天下の尼僧へ税を掛け、白司馬阪へ大像を作った。春官尚書武攸寧に兼業させ、その費用は巨億もかかった。李嶠が上疏した。
13鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品姚元崇以母老固請歸侍;六月,辛酉,以元崇行相王府長史,秩位並同三品。13.鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品の姚元祟が母親が老いたので、辞職して故郷へ帰ることを固く願った。
14乙丑,以天官侍郎崔玄暐同平章事。14.乙丑、天官侍郎崔玄暐を同平章事とした。
15召鳳閣侍郎、同平章事、檢校汴州刺史韋嗣立赴興泰宮。15.鳳閣侍郎、同平章事、検校汴州刺史の韋嗣立を興泰宮へ呼び寄せた。
16丁丑,以李嶠同鳳閣鸞臺三品。嶠自請解内史。16.丁丑、李嶠を現職のまま鳳閣鸞第三品とした。嶠は自ら内史の解任を請うた。
17壬午,以相王府長史姚元崇兼知夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品。17.壬午、相王府長史姚元祟へ知夏官侍郎、同鳳閣鸞台三品を兼務させた。
18秋,七月,丙戌,以神都副留守楊再思爲内史。18.秋、七月、丙戌、神都副留守楊再思を内史とした。
再思爲相,專以諂媚取容。司禮少卿張同休,易之兄也,嘗召公卿宴集,酒酣,戲再思曰:「楊内史面似高麗。」再思欣然,即剪紙帖巾,反披紫袍,爲高麗舞,舉坐大笑。時人或譽張昌宗之美曰:「六郎面似蓮花。」再思獨曰:「不然。」昌宗問其故,再思曰:「乃蓮花似六郎耳。」
19甲午,太后還宮。19.甲午、太后が宮殿へ帰った。
20乙未,司禮少卿張同休、汴州刺史張昌期、尚方少監張昌儀皆坐贓下獄,命左右臺共鞫之;丙申,敕,張易之、張昌宗作威作福,亦命同鞫。辛丑,司刑正賈敬言奏:「張昌宗強市人田,應徴銅二十斤。」制「可」。乙巳,御史大夫李承嘉、中丞桓彦範奏:「張同休兄弟贓共四千餘緡,張昌宗法應免官。」昌宗奏:「臣有功於國,所犯不至免官。」太后問諸宰相:「昌宗有功乎?」楊再思曰:「昌宗合神丹,聖躬服之有驗,此莫大之功。」太后悅,赦昌宗罪,復其官。左補闕戴令言作兩腳狐賦,以譏再思,再思出令言爲長社令。20.乙未、司禮少卿張同休、汴州刺史張昌期、尚方少監張昌儀が、全て罪に触れて牢獄へ繋がれた。左右の台へ糾明を命じた。
21丙午,夏官侍郎、同平章事宗楚客有罪,左遷原州都督,充靈武道行軍大總管。21.丙午、夏官侍郎、同平章事宗楚客が罪を犯し、原州都督へ左遷され、霊武道行軍大総管となった。
22癸丑,張同休貶岐山丞,張昌儀貶博望丞。22.癸丑、張同休が岐山丞へ、張昌儀は博望丞へ飛ばされた。
鸞臺侍郎、知納言事、同鳳閣鸞臺三品韋安石舉奏張易之等罪,敕付安石及右庶子、同鳳閤鸞臺三品唐休璟鞫之,未竟而事變。八月,甲寅,以安石兼檢校揚州刺史,庚申,以休璟兼幽營都督、安東都護。休璟將行,密言於太子曰:「二張恃寵不臣,必將爲亂。殿下宜備之。」
23相王府長史兼知夏官尚書事、同鳳閣鸞臺三品姚元崇上言:「臣事相王,不宜典兵馬。臣不敢愛死,恐不益於王。」辛酉,改春官尚書,餘如故。元崇字元之,時突厥叱列元崇反,太后命元崇以字行。23.相王府長史兼知夏官尚書事、同鳳閣鸞台三品の姚元祟が上言した。
24突厥默啜既和親,戊寅,始遣淮陽王武延秀還。24.突厥の黙啜と和親が成立した。戊寅、彼等は淮陽王武延秀を送り返した。
25九月,壬子,以姚元之充靈武道行軍大總管;辛酉,以元之爲靈武道安撫大使。25.九月、壬子、姚元之を霊武道行軍大総管とした。辛酉、元之を霊武道安撫大使とした。
元之將行,太后令舉外司堪爲宰相者。對曰:「張柬之沈厚有謀,能斷大事,且其人已老。惟陛下急用之。」冬,十月,甲戌,以秋官侍郎張柬之同平章事,時年且八十矣。
26乙亥,以韋嗣立檢校魏州刺史,餘如故。26.乙亥、韋嗣立を旧職保持のまま検校魏州刺史とした。
27壬午,以懷州長史河南房融同平章事。27.壬午、懐州長史の河南の房融を同平章事とした。
28太后命宰相各舉堪爲員外郎者,韋嗣立薦廣武公岑羲曰:「但恨其伯父長倩爲累。」太后曰:「苟或有才,此何所累!」遂拜天官員外郎。由是諸縁坐者始得進用。28.太后が宰相達へ、員外郎を推薦するよう命じた。
29十一月,丁亥,以天官侍郎韋承慶爲鳳閣侍郎、同平章事。29.十一月、丁亥、天官侍郎韋承慶を鳳閣侍郎、同平章事とした。
30癸卯,成均祭酒、同鳳閣鸞臺三品李嶠罷爲地官尚書。30.癸卯、成均祭酒、同鳳閣鸞台三品李嶠を罷免して、地官尚書とした。
31十二月,甲寅,敕大足已來新置官並停。31.十二月、甲寅、大足以降に新設した官を全てなくすよう勅が下った。
32丙辰,鳳閣侍郎、同平章事韋嗣立罷爲成均祭酒,檢校魏州刺史如故;以兄承慶入相故也。32.丙辰、鳳閣侍郎、同平章事韋嗣立が、罷免されて成均祭酒となった。検校魏州刺史は従来通り。兄の承慶が宰相となったからである。
33太后寢疾,居長生院,宰相不得見者累月,惟張易之、昌宗侍側。疾少閒,崔玄暐奏言:「皇太子、相王,仁明孝友,足侍湯藥。宮禁事重,伏願不令異姓出入。」太后曰:「德卿厚意。」易之、昌宗見太后疾篤,恐禍及己,引用黨援,陰爲之備。屢有人爲飛書及牓其書於通衢,云「易之兄弟謀反」,太后皆不問。33.太后は病気になり、長生院で寝込んだ。宰相の中にさえ、数ヶ月も謁見できない者がいるくらいだったが、ただ、張易之と昌宗だけは側に侍っていた。
辛未,許州人楊元嗣,告「昌宗嘗召術士李弘泰占相,弘泰言昌宗有天子相,勸於定州造佛寺,則天下歸心。」太后命韋承慶及司刑卿崔神慶、御史中丞宋璟鞫之。神慶,神基之弟也。承慶、神慶奏言:「昌宗款稱『弘泰之語,尋已奏聞』,準法首原;弘泰妖言,請收行法。」璟與大理丞封全禎奏:「昌宗寵榮如是,復召術士占相,志欲何求!弘泰稱筮得純乾,天子之卦。昌宗儻以弘泰爲妖妄,何不執送有司!雖云奏聞,終是包藏禍心,法當處斬破家。請收付獄,窮理其罪!」太后久之不應,璟又曰:「儻不即收繋,恐其搖動衆心。」太后曰:「卿且停推,俟更檢詳文状。」璟退,左拾遺江都李邕進曰:「向觀宋璟所奏,志安社稷,非爲身謀,願陛下可其奏。」太后不聽。尋敕璟揚州推按,又敕璟按幽州都督屈突仲翔贓汚,又敕璟副李嶠安撫隴、蜀;璟皆不肯行,奏曰:「故事,州縣官有罪,品高則侍御史、卑則監察御史按之,中丞非軍國大事,不當出使。今隴、蜀無變,不識陛下遣臣出外何也?臣皆不敢奉制。」
司刑少卿桓彦範上疏,以爲:「昌宗無功荷寵,而包藏禍心,自招其咎,此乃皇天降怒;陛下不忍加誅,則違天不祥。且昌宗既云奏訖,則不當更與弘泰往還,使之求福禳災,是則初無悔心;所以奏者,擬事發則云先已奏陳,不發則俟時爲逆。此乃奸臣詭計,若云可捨,誰爲可刑!況事已再發,陛下皆釋不問,使昌宗益自負得計,天下亦以爲天命不死,此乃陛下養成其亂也。苟逆臣不誅,社稷亡矣。請付鸞臺鳳閣三司,考竟其罪!」疏奏,不報。
崔玄暐亦屢以爲言,太后令法司議其罪。玄暐弟司刑少卿昪,處以大辟。宋璟復奏收昌宗下獄。太后曰:「昌宗已自奏聞。」對曰:「昌宗爲飛書所逼,窮而自陳,勢非得已。且謀反大逆,無容首免。若昌宗不伏大刑,安用國法!」太后温言解之。璟聲色逾厲曰:「昌宗分外承恩,臣知言出禍從,然義激於心,雖死不恨!」楊再思恐其忤旨,遽宣敕令出,璟曰:「聖主在此,不煩宰相擅宣敕命!」太后乃可其奏,遣昌宗詣臺,璟庭立而按之;事未畢,太后遣中使召昌守特敕赦之。璟歎曰:「不先撃小子腦裂,負此恨矣。」太后乃使昌宗詣璟謝,璟拒不見。
左臺中丞桓彦範、右臺中丞東光袁恕己共薦詹事司直陽嶠爲御史。楊再思曰:「嶠不樂搏撃之任如何?」彦範曰:「爲官擇人,豈必待其所欲!所不欲者,尤須與之,所以長難進之風,抑躁求之路。」乃擢爲右臺侍御史。嶠,休之之玄孫也。
先是李嶠、崔玄暐奏:「往屬革命之時,人多逆節,遂致刻薄之吏,恣行酷法。其周興等所劾破家者,並請雪免。」司刑少卿桓彦範又奏陳之,表疏前後十上,太后乃從之。
神龍元年(乙巳、七〇五)1.春、正月、壬午朔、天下へ大赦を下して改元した。
1春,正月,壬午朔,赦天下,改元。自文明以來得罪者,非揚、豫、博三州及諸反逆魁首,咸赦除之。
2太后疾甚,麟臺監張易之、春官侍郎張昌宗居中用事,張柬之、崔玄暐與中臺右丞敬暉、司刑少卿桓彦範、相王府司馬袁恕己謀誅之。柬之謂右羽林衞大將軍李多祚曰:「將軍今日富貴,誰所致也?」多祚泣曰:「大帝也。」柬之曰:「今大帝之子爲二豎所危,將軍不思報大帝之德乎!」多祚曰:「苟利國家,惟相公處分,不敢顧身及妻子!」因指天地以自誓。遂與定謀。
初,柬之與荊府長史閺郷楊元琰相代,同泛江,至中流,語及太后革命事,元琰慨然有匡復之志。及柬之爲相,引元琰爲右羽林將軍,謂曰:「君頗記江中之言乎?今日非輕授也。」柬之又用彦範、暉及右散騎侍郎李湛皆爲左、右羽林將軍,委以禁兵。易之等疑懼,乃更以其黨武攸宜爲右羽林大將軍,易之等乃安。
俄而姚元之自靈武至,柬之、彦範相謂曰:「事濟矣!」遂以其謀告之。彦範以事白其母,母曰:「忠孝不兩全,先國後家可也。」時太子於北門起居,彦範、暉謁見,密陳其策,太子許之。
癸卯,柬之、玄暐、彦範與左威衞將軍薛思行等帥左右羽林兵五百餘人至玄武門,遣多祚、湛及内直郎、駙馬都尉安陽王同皎詣東宮迎太子。太子疑,不出,同皎曰:「先帝以神器付殿下,橫遭幽廢,人神同憤,二十三年矣。今天誘其衷,北門、南牙,同心協力,以誅凶豎,復李氏社稷,願殿下蹔至玄武門以副衆望。」太子曰:「凶豎誠當夷滅,然上體不安,得無驚怛!諸公更爲後圖。」李湛曰:「諸將相不顧家族以徇社稷,殿下奈何欲納之鼎鑊乎!請殿下自出止之。」太子乃出。
同皎扶抱太子上馬,從至玄武門,斬關而入。太后在迎仙宮,柬之等斬易之、昌宗於廡下,進至太后所寢長生殿,環繞侍衞。太后驚起,問曰:「亂者誰邪?」對曰:「張易之、昌宗謀反,臣等奉太子令誅之,恐有漏洩,故不敢以聞。稱兵宮禁,罪當萬死!」太后見太子曰:「乃汝邪?小子既誅,可還東宮。」彦範進曰:「太子安得更歸!昔天皇以愛子託陛下,今年齒已長,久居東宮,天意人心,久思李氏。羣臣不忘太宗、天皇之德,故奉太子誅賊臣。願陛下傳位太子,以順天人之望!」李湛,義府之子也。太后見之,謂曰:「汝亦爲誅易之將軍邪?我於汝父子不薄,乃有今日!」湛慙不能對。又謂崔玄暐曰:「他人皆因人以進,惟卿朕所自擢,亦在此邪?」對曰:「此乃所以報陛下之大德。」
於是收張昌期、同休、昌儀,皆斬之,與易之、昌宗梟首天津南。是日,袁恕己從相王統南牙兵以備非常,收韋承慶、房融及司禮卿崔神慶繋獄,皆易之之黨也。初,昌儀新作第,甚美,逾於王主,或夜書其門曰:「一日絲能作幾日絡?」滅去,復書之,如是六七,昌儀取筆註其下曰:「一日亦足。」乃止。
甲辰,制太子監國,赦天下。以袁恕己爲鳳閣侍郎、同平章事,分遣十使齎璽書宣慰諸州。乙巳,太后傳位於太子。
丙午,中宗即位。赦天下,惟張易之黨不原;其爲周興等所枉者,咸令清雪,子女配沒者皆免之。相王加號安國相王,拜太尉、同鳳閣鸞臺三品,太平公主加號鎭國太平公主。皇族先配沒者,子孫皆復屬籍,仍量敍官爵。
丁未,太后徙居上陽宮,李湛留宿衞。戊申,帝帥百官詣上陽宮,上太后尊號曰則天大聖皇帝。
庚戌,以張柬之爲夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品,崔玄暐爲内史,袁恕己同鳳閣鸞臺三品,敬暉、桓彦範皆爲納言;並賜爵郡公。李多祚賜爵遼陽郡王,王同皎爲右千牛將軍、琅邪郡公,李湛爲右羽林大將軍、趙國公;自餘官賞有差。
張柬之等之討張易之也,殿中監田歸道將千騎宿玄武門,敬暉遣使就索千騎,歸道先不預謀,拒而不與。事寧,暉欲誅之,歸道以理自陳,乃免歸私第;帝嘉其忠壯,召拜太僕少卿。
2.太后の病気は重く、麒麟監張易之、春官侍郎張昌宗は中に居て事を用いた。張柬之、崔玄暐と中台右丞敬暉、司刑少卿垣彦範、相王府司馬袁恕己は、これを誅しようと謀った。
柬之は右羽林衛大将軍吏多祚へ言った。
「将軍の今日の富貴は、誰のおかげかな?」
多祚は泣いて言った。
「大帝のおかげです。」
「今、大帝の子は、二豎のせいで命も危ない。将軍は、大帝の恩に報いたくないのか!」
「いやしくも御国の為ならば、ただ相公に従い、わが身も妻子も顧みません。」
そして、天地を指さして自ら誓った。ここに、謀略は定まった。
始め、柬之と荊府長史の閺郷の楊元琰は相代となり、同様に江へ飛ばされた。その道中で、話題が太后の革命の事へ及ぶと、元琰は慨然として匡復の志を語った。柬之が相となるに及んで、元琰を右羽林将軍に抜擢して、言った。
「君は江中でのことをまだ憶えているか?今日の職務は、軽く与えたのではない。」
柬之はまた、彦範、暉及び右散騎侍郎李湛を皆、左・右羽林将軍に登用し、禁兵を委ねた。易之等が疑懼したので、その党類の武攸宜を右羽林大将軍としたので、易之等は安心した。
突然、姚元之が霊武からやって来たので、柬之と彦範は共に言い合った。
「事は達成したぞ!」
遂にその謀略を告げた。
彦範がこの事を母へ言うと、母は言った。
「忠と孝は両立できません。御国第一。家のことは後回しです。」
この頃、太子は北門に寝起きしていた。彦範と暉が謁見して密かに謀略を陳述すると、太子はこれを許した。
癸卯、柬之、玄暐、彦範と左威衛将軍薛思行等は左右羽林兵五百余人を率いて玄武門へ至り、多祚、湛及び内直郎、駙馬都尉の安陽の王同皎を東宮へ派遣して、太子を迎えた。太子が疑って出ないでいると、同皎は言った。
「先帝は神器を殿下へ与えられましたのに、横暴にも廃立、幽閉の憂き目に遭われたのです。人神共に憤って、二十三年が経ちました。今、天がその衷を誘い、北門、南牙が団結して凶豎を誅して李氏の社稷を復するのです。どうか殿下、衆望に応え玄武門まで出向いて下さい。」
太子は言った。
「凶豎は、確かに一族皆殺しにして当然だ。だが、上の容態は悪い。驚愕や落胆させたくない。諸公、後日にできないか。」
李湛が言った。
「諸将相は家族も顧みずに社稷に殉じるのですぞ。殿下は彼等を釜ゆでにしたいのですか!どうか殿下自ら出て行ってください。」
太子は、とうとう出馬した。
同皎は太子を抱きかかえて乗馬させ、玄武門までつき従い、関を斬って入った。
太后は迎仙宮に居た。柬之は細殿(堂屋をめぐるように造られた部屋)にて易之と昌宗を斬り、太后が寝ている長生殿まで進み、侍衛で取り囲んだ。
太后は驚いて飛び起き、問うた。
「誰が乱を起こしたのじゃ?」
対して言った。
「張易之と昌宗が謀反しました。臣等は太子の命令を奉じてこれを誅したのです。奴等へ洩れることを恐れ、決行まで敢えて上聞しませんでした。宮禁へ兵を引き込んだ罪は、万死に値します!」
太后は太子を見て言った。
「汝か?小子は既に誅したのだ。東宮へ帰りなさい。」
彦範が進み出て言った。
「太子がどうして帰れましょうか!昔、天皇は愛子を陛下へ託されました。今、歳も長じられましたのに、いまだに東宮に居ます。ですが、天意も人心も李氏を慕い続けていたのです。群臣は太宗、天皇の徳を忘れておりませんので、太子を奉じて賊臣を誅したのです。どうか陛下、天人の望みに従って、位を太子へお譲りください!」
李湛は義府の子息である。太后はこれを見て言った。
「汝も又易之将軍を誅したのか?吾は汝親子を手厚く遇したのに、なんでこんな事をした!」
湛は、慚愧の想いで返答できなかった。
又、太后は崔玄暐へ言った。
「他人は皆、他の人から推薦されて出世したが、ただ卿だけは朕が自ら抜擢したのです。それなのに、ここにいるのか?」
玄暐は言った。
「これこそが、陛下の大恩に報いる事なのです。」
ここにおいて、張昌期、同休、昌儀を捕らえ、全員斬罪とし、易之、昌宗と共に天津の南に梟首した。
この日、袁恕己は相王に従って南牙兵を指揮して非常に備えていた。韋承慶、房融及び司禮卿崔神慶を捕らえて投獄した。彼等は皆、易之の仲間である。
ところで、以前昌儀が新しい第を建てた時、それはとても美しくて、王や公主の第のようだった。ある夜、その門へ貼り紙がしてあった。
「一体幾日楽しめますか?」
これを取り去ったが、再び貼られた。こんな事が六七回続いたので、昌儀は筆を取って、その下へ書いた。
「一日でも構わない。」
すると、貼り紙は貼られなくなった。
甲辰、制にて太子を監国とし、天下へ恩赦を下す。袁恕己を鳳閣侍郎、同平章事とし、十道へ各々一使を派遣して、璽書で諸州を宣慰する。
乙巳、太后が、位を太子へ伝えた。
丙午、中宗が即位した。天下へ恩赦を下すが、張易之の一味だけは赦さなかった。周興等の為に陥れられた者は全て冤罪を晴らし、官奴となっていた子女は皆放免した。
相王には安国相王の称号を加え、太尉、同鳳閣鸞台三品を授ける。太平公主へは鎮国太平公主の称号を加える。既に没している皇族へ対しては、子孫を皆皇籍へ戻し、それぞれ相応しい官爵を授けた。
丁未、太后は上陽宮へ引っ越し、李湛は宿衛として留まった。
戊申、帝が百官を率いて上陽宮を詣で、太后へ則天太聖皇帝の尊号を献上した。
庚戌、張柬之を夏官尚書、同鳳閣鸞台三品、崔玄暐を内史、袁恕己を同鳳閣鸞台三品とし、敬暉も桓彦も納言とする。李多祚へ遼陽郡王の爵位を賜り、王同皎を右千牛将軍、琅邪郡公、李湛を右羽林大将軍、趙国公とし、その他も各々へ褒賞として官位を賜下した。
張柬之等が張易之を討伐した時、殿中監田帰道は千騎を率いて玄武門に宿営していた。敬暉は使者を派遣して千騎を求めたが、帰道はこの謀略に加わっていなかったので、拒んで与えなかった。
事態が収まると、暉はこれを誅したがったが、帰道が理を述べて申し開くと、赦されて、私第へ帰された。帝は彼の忠壮を嘉して、太僕少卿を下賜した。
翻訳者: 渡邊 省