神龍元年(乙巳、七〇五)1.二月、辛亥、帝は百官を率いて上陽宮を詣で、太后の容態を問うた。これ以後、十日毎に出向くようになった。
1二月,辛亥,帝帥百官詣上陽宮問太后起居;自是毎十日一往。
2甲寅,復國號曰唐。郊廟、社稷、陵寢、百官、旗幟、服色、文字皆如永淳以前故事。復以神都爲東都,北都爲并州,老君爲玄元皇帝。2.甲寅、国号を「唐」に戻した。郊廟、社稷、陵寝、百官、旗幟、服色、文字は皆、永淳以前の故事に戻した。神都を東都に、北都を并州に、老君を玄元皇帝に戻した。
3乙卯,鳳閣侍郎、同平章事韋承慶貶高要尉;正諫大夫、同平章事房融除名,流高州;司禮卿崔神慶流欽州。楊再思爲戸部尚書、同中書門下三品、西京留守。3.乙卯、鳳閣侍郎、同平章事韋承慶を高要尉に降格した。正諫大夫、同平章事房融は除名して、高州へ流した。司礼卿崔神慶は欽州へ流した。楊再思は戸部尚書、同中書門下三品、西京留守とした。
太后之遷上陽宮也,太僕卿、同中書門下三品姚元之獨嗚咽流涕。桓彦範、張柬之謂曰:「今日豈公涕泣時邪!恐公禍由此始。」元之曰:「元之事則天皇帝久,乍此辭違,悲不能忍。且元之前日從公誅姦逆,人臣之義也;今日別舊君,亦人臣之義也,雖獲罪,實所甘心。」是日,出爲亳州刺史。
4甲子,立妃韋氏爲皇后,赦天下。追贈后父玄貞爲上洛王、母崔氏爲妃。4.甲子、妃の韋氏を皇后へ立て、天下へ恩赦を下した。后父の玄貞に上洛王を追贈し、母の崔氏を妃とした。
左拾遺賈虚己上疏,以爲「異姓不王,古今通制。今中興之始,萬姓喁喁以觀陛下之政;而先王后族,非所以廣德美於天下也。且先朝贈后父太原王,殷鑒不遠,須防其漸。若以恩制已行,宜令皇后固讓,則益增謙沖之德矣。」不聽。
初,韋后生邵王重潤、長寧・安樂二公主,上之遷房陵也,安樂公主生於道中,上特愛之。上在房陵與后同幽閉,備嘗艱危,情愛甚篤。上毎聞敕使至,輒惶恐欲自殺,后止之曰:「禍福無常,寧失一死,何遽如是!」上嘗與后私誓曰:「異時幸復見天日,當惟卿所欲,不相禁制。」及再爲皇后,遂干預朝政,如武后在高宗之世。桓彦範上表,以爲:「易稱『無攸遂,在中饋,貞吉』,書稱『牝雞之辰,惟家之索』。伏見陛下毎臨朝,皇后必施帷幔坐殿上,預聞政事。臣竊觀自古帝王,未有與婦人共政而不破國亡身者也。且以陰乘陽,違天也;以婦陵夫,違人也。伏願陛下覽古今之戒,以社稷蒼生爲念,令皇后專居中宮,治陰教,勿出外朝干國政。」
先是,胡僧慧範以妖妄游權貴之門,與張易之兄弟善,韋后亦重之。及易之誅,復稱慧範預其謀,以功加銀靑光祿大夫,賜爵上庸縣公,出入宮掖,上數微行幸其舎。彦範復表言慧範執左道以亂政,請誅之。上皆不聽。
5初,武后誅唐宗室,有才德者先死,惟呉王恪之子鬱林侯千里褊躁無才,又數獻符瑞,故獨得免。上即位,立爲成王,拜左金吾大將軍。武后所誅唐諸王、妃、主、駙馬等,皆無人葬埋,子孫或流竄嶺表,或拘囚歴年,或逃匿民間,爲人傭保。至是,制州縣求訪其柩,以禮改葬,追復官爵,召其子孫,使之承襲,無子孫者爲擇後置之。既而宗室子孫相繼而至,皆召見,涕泣舞蹈,各以親疏襲爵拜官有差。5.かつて、武后が唐の宗室を誅した時、才徳のある者から先に死んだ。ただ、呉王恪の子の鬱林侯千里は、偏狭狂騒で才覚もない人間だったし、屡々符瑞を献上したこともあり、彼一人だけ死を免れていた。
6二張之誅也,洛州長史薛季昶謂張柬之、敬暉曰:「二凶雖除,産、祿猶在,去草不去根,終當復生。」二人曰:「大事已定,彼猶机上肉耳,夫何能爲!所誅已多,不可復益也。」季昶歎曰:「吾不知死所矣。」朝邑尉武強劉幽求亦謂桓彦範、敬暉曰:「武三思尚存,公輩終無葬地;若不早圖,噬臍無及。」不從。6.二張が誅殺されると、洛州長史薛李昶が、張柬之と敬暉へ言った。
上女安樂公主適三思子崇訓。上官婉兒者,儀之女孫也,儀死,沒入掖庭,辯慧善屬文,明習吏事。則天愛之,自聖暦以後,百司表奏多令參決;及上即位,又使專掌制命,益委任之,拜爲婕妤,用事於中。三思通焉,故黨於武氏,又薦三思於韋后,引入禁中,上遂與三思圖議政事,張柬之等皆受制於三思矣。上使韋后與三思雙陸,而自居旁爲之點籌;三思遂與后通,由是武氏之勢復振。
張柬之等數勸上誅諸武,上不聽。柬之等曰:「革命之際,宗室諸李,誅夷略盡;今賴天地之靈,陛下返正,而武氏濫官僭爵,按堵如故,豈遠近所望邪!願頗抑損其祿位以慰天下!」又不聽。柬之等或撫牀歎憤,或彈指出血,曰:「主上昔爲英王,時稱勇烈,吾所以不誅諸武者,欲使上自誅之,以張天子之威耳。今反如此,事勢已去,知復奈何!」
上數微服幸武三思第,監察微史清河崔皎密疏諫曰:「國命初復,則天皇帝在西宮,人心猶有附會;周之舊臣,列居朝廷,陛下奈何輕有外游,不察豫且之禍!」上洩之,三思之黨切齒。
丙寅,以太子賓客武三思爲司空、同中書門下三品。
7左散騎常侍譙王重福,上之庶子也;其妃,張易之之甥。韋后惡之,譖於上曰:「重潤之死,重福爲之也。」由是貶濮州員外刺史,又改均州刺史,常令州司防守之。7.左散騎常侍の譙王重福は、上の庶子で、その妃は張易之の姪である。
8丁卯,以右散騎常侍安定王武攸曁爲司徒、定王。8.丁卯、右散騎常侍の安定王武攸曁を司徒、定王とした。
9辛未,相王固讓太尉及知政事,許之;又立爲皇太弟,相王固辭而止。9.辛未、相王が太尉及び知政事を固辞したので、これを許した。又、彼を皇太弟に立てたが、相王はこれも固辞したので、中止された。
10甲戌,以國子祭酒始平祝欽明同中書門下三品,黄門侍郎、知侍中事韋安石爲刑部尚書,罷知政事。10.甲戌、国子祭酒の始平の祝欽明を同じく中書門下三品とした。黄門侍郎、知侍中事韋安石を刑部尚書として、知政事をやめさせた。
11丁丑,武三思、武攸曁固辭新官爵及政事,許之,並加開府儀同三司。11.丁丑、武三思、武攸曁が新しい官爵と政事を固辞したので、これを許して開府儀同三司を加えた。
12立皇子義興王重俊爲衞王,北海王重茂爲温王,仍以重俊爲洛州牧。12.皇子の義興王重俊を立てて衛王とし。北海王重茂を温王とした。重俊を洛州牧とした。
13三月,甲申,制:「文明已來破家子孫皆復舊資廕,唯徐敬業、裴炎不在免限。」13.三月、甲申、制を下した。「文明以後に家が破れた者の子孫は、皆、昔の資産や資格を復す。ただし、徐敬業、裴炎の子孫は免除しない。」
14丁亥,制:「酷吏周興、來俊臣等,已死者追奪官爵,存者皆流嶺南惡地。」14.丁亥、制を下した。「酷吏の周興、来俊臣等は既に死んだ者は官爵を追奪し、生きている者は皆嶺南の酷い土地へ流す。」
15己丑,以袁恕己爲中書令。15.己丑、袁恕己を中書令とした。
16以安車徴安平王武攸緒於嵩山,既至,除太子賓客;固請還山,許之。16.祟山まで安車を派遣して安平王武攸緒を招く。上京すると太子賓客に任命したが、固辞して山へ帰ることを乞うたので、これを許した。
17制:「梟氏、蟒氏皆復舊姓。」17.制を下した。
18術士鄭普思、尚衣奉御葉靜能皆以妖妄爲上所信重,夏,四月,墨敕以普思爲秘書監,靜能爲國子祭酒。桓彦範、崔玄暐固執不可,上曰:「已用之,無容遽改。」彦範曰:「陛下初即位,下制云:『政令皆依貞觀故事。』貞觀中,魏徴、虞世南、顏師古爲秘書監,孔穎達爲國子祭酒,豈普思、靜能之比乎!」庚戌,左拾遺李邕上疏,以爲:「詩三百,一言以蔽之,曰『思無邪』。若有神仙能令人不死,則秦始皇、漢武帝得之矣;佛能爲人福利,則梁武帝得之矣。堯、舜所以爲帝王首者,亦脩人事而已。尊寵此屬,何補於國!」上皆不聽。18.術士の鄭普思と尚衣奉御葉静能は、共に妖妄で上から重用されていた。
19上即位之日,驛召魏元忠於高要;丁卯,至都,拜衞尉卿、同平章事。19.上が即位した日、駅伝にて高要の魏元忠を召し出した。
20甲戌,以魏元忠爲兵部尚書,韋安石爲吏部尚書,李懷遠爲右散騎常侍,唐休璟爲輔國大將軍,崔玄暐檢校益府長史,楊再思檢校楊府長史,祝欽明爲刑部尚書,並同中書門下三品。元忠等皆以東宮舊僚褒之也。20.甲戌、魏元忠を兵部尚書、韋安石を吏部尚書、李懐遠を右散騎常侍、唐休景を輔国大将軍、崔玄韋を検校益府長史、楊再思を検校楊府長史、祝欽明を刑部尚書とし、全員中書門下三品とした。
21乙亥,以張柬之爲中書令。21.乙亥、張柬之を中書令とした。
22戊寅,追贈故邵王重潤爲懿德太子。22.戊寅、亡き邵王重潤に追贈して懿徳太子とした。
23五月,壬午,遷周廟七主於西京崇尊廟。制:「武氏三代諱,奏事者皆不得犯。」23.五月、壬午、周廟の七主を西京祟尊廟へ移し、制を下した。
24乙酉,立太廟、社稷於東都。24.乙酉、東都へ太廟、社稷を立てた。
25以張柬之等及武攸曁、武三思、鄭普思等十六人皆爲立功之人,賜以鐵券,自非反逆,各恕十死。25.張柬之等及び武攸曁、武三思、鄭普思等十六人を功績を建てた人間として、鉄券を下賜し、反逆罪でなければ各々十回まで死刑を免除すると約束した。
26癸巳,敬暉等帥百官上表,以爲:「五運迭興,事不兩大。天授革命之際,宗室誅竄殆盡,豈得與諸武並封!今天命惟新,而諸武封建如舊,並居京師,開闢以來未有斯理。願陛下爲社稷計,順遐邇心,降其王爵,以安内外。」上不許。26.癸巳、敬暉等が百官を率いて上表した。その大意は、
敬暉等畏武三思之讒,以考功員外郎崔湜爲耳目,伺其動靜。湜見上親三思而忌暉等,乃悉以暉等謀告三思,反爲三思用;三思引爲中書舍人。湜,仁師之孫也。
先是,殿中侍御史南皮鄭愔諂事二張,二張敗,貶宣州司士參軍,坐贓,亡入東都,私謁武三思。初見三思,哭甚哀,既而大笑。三思素貴重,甚怪之,愔曰:「始見大王而哭,哀大王將戮死而滅族也。後乃大笑,喜大王之得愔也。大王雖得天子之意,彼五人皆據將相之權,膽略過人,廢太后如反掌。大王自視勢位與太后孰重?彼五人日夜切齒欲噬大王之肉,非盡大王之族不足以快其志。大王不去此五人,危如朝露,而晏然尚自以爲泰山之安,此愔所以爲大王寒心也。」三思大悅,與之登樓,問自安之策,引爲中書舍人,與崔湜皆爲三思謀主。
三思與韋后日夜譖暉等,云「恃功專權,將不利於社稷。」上信之。三思等因爲上畫策:「不若封暉等爲王,罷其政事,外不失尊寵功臣,内實奪之權。」上以爲然。甲午,以侍中齊公敬暉爲平陽王,桓彦範爲扶陽王,中書令漢陽公張柬之爲漢陽王,南陽公袁恕己爲南陽王,特進、同中書門下三品博陵公崔玄暐爲博陵王,罷知政事,賜金帛鞍馬,令朝朔望;仍賜彦範姓韋氏,與皇后同籍。尋又以玄暐檢校益州長史、知都督事,又改梁州刺史。三思令百官復脩則天之政,不附武氏者斥之。爲五王所逐者復之,大權盡歸三思矣。
五王之請削武氏諸王也,求人爲表,衆莫肯爲。中書舍人岑羲爲之,語甚激切;中書舍人偃師畢構次當讀表,辭色明厲。三思既得志,羲改秘書少監,出構爲潤州刺史。
易州刺史趙履温,桓彦範之妻兄也。彦範之誅二張,稱履温預其謀,召爲司農少卿,履温以二婢遺彦範;及彦範罷政事,履温復奪其婢。
上嘉宋璟忠直,屢遷黄門侍郎。武三思嘗以事屬璟,璟正色拒之曰:「今太后既復子明辟,王當以侯就第,何得尚干朝政!獨不見産、祿之事乎!」
27以韋安石兼檢校中書令,魏元忠兼檢校侍中,又以李湛爲右散騎常侍,趙承恩爲光祿卿,楊元琰爲衞尉卿。27.韋安石へ検校中書令を、魏元忠へ検校侍中を兼任させ、李湛を右散騎常侍、趙承恩を光禄卿、楊元琰を衛尉卿とした。
先是,元琰知三思浸用事,請棄官爲僧,上不許。敬暉聞之,笑曰:「使我早知,勸上許之,髡去胡頭,豈不妙哉!」元琰多鬚類胡,故暉戲之。元琰曰:「功成名遂,不退將危。此乃由衷之請,非徒然也。」暉知其意,瞿然不悅。及暉等得罪,元琰獨免。
28上官婕妤勸韋后襲則天故事,上表請天下士庶爲出母服喪三年,又請百姓年二十三爲丁,五十九免役,改易制度以收時望。制皆許之。28.上官婕妤は韋后へ、則天武后の故事を踏襲するよう勧めた。韋后は勧めに従って、天下の士庶は母の喪に三年服すことや、百姓は二十三才を丁として五十九才で賦役などを免除するなど、当時の要望に従って制度を改易するよう上表して請うた。
29癸卯,制:降諸武,梁王三思爲德靜王,定王攸曁爲樂壽王,河内王懿宗等十二人皆降爲公,以厭人心。29.癸卯、諸武へ制が下った。梁王三思は徳静王、定王攸曁は楽寿王と県王へ降格し、河内王懿宗等十二人は皆、公爵へ降格となった。人々が厭がったからである。
30甲辰,以唐休璟爲左僕射,同中書門下三品如故,豆盧欽望爲右僕射。30.甲辰、唐休璟を同中書門下三品のまま左僕射とした。豆盧欽望を右僕射とした。
31六月,壬子,以左驍衞大將軍裴思説充靈武軍大總管,以備突厥。31.六月、壬子、左驍衛大将軍裴思説を霊武軍大総管として、突厥に備えた。
32癸亥,命右僕射豆盧欽望,有軍國重事,中書門下可共平章。32.癸亥、右僕射豆盧欽望に、軍国の重大事の時に中書門下と共に議論するよう命じた。
先是,僕射爲正宰相,其後多兼中書門下之職,午前決朝政,午後決省事。至是,欽望專爲僕射,不敢預政事,故有是命。是後專拜僕射者,不復爲宰相矣。
又以韋安石爲中書令,魏元忠爲侍中,楊再思檢校中書令。
33丁卯,祔孝敬皇帝於太廟,號義宗。33.丁卯、孝敬皇帝を太廟へ祀り、義宗と号した。
34戊辰,洛水溢,流二千餘家。34.戊辰、洛水が氾濫し、二千余家が流された。
35秋,七月,辛巳,以太子賓客韋巨源同中書門下三品,西京留守如故。35.秋、七月、辛巳、太子賓客韋巨源を西京留守のまま同中書門下三品とした。
36特進漢陽王張柬之表請歸襄州養疾;乙未,以柬之爲襄州刺史,不知州事,給全俸。36.特進漢陽王張柬之が襄州へ帰って療養したいと上表して請願した。
37河南、北十七州大水。八月,戊申,以水災求直言。右衞騎曹參軍西河宋務光上疏,以爲:「水陰類,臣妾之象,恐後庭有干外朝之政者,宜杜絶其萌。今霖雨不止,乃閉坊門以禳之,至使里巷謂坊門爲宰相,言朝廷使之燮理陰陽也。又,太子國本,宜早擇賢能而立之。又,外戚太盛,如武三思等,宜解其機要,厚以祿賜。又,鄭普思、葉靜能以小技竊大位,亦朝政之蠹也。」疏奏,不省。37.河南、北十七州で大水が起こった。
38壬戌,追立妃趙氏爲恭皇后,孝敬皇帝妃裴氏爲哀皇后。38.壬戌、妃の趙氏を立てて恭皇后とした。孝敬皇帝の妃の裴氏を立てて哀皇后とした。
39九月,壬午,上祀昊天上帝、皇地祇于明堂,以高宗配。39.九月、壬午、上が昊天上帝、皇地を祀り、明堂にて祗う。高宗を配す。
40初,上在房陵,州司制約甚急;刺史河東張知謇、靈昌崔敬嗣獨待遇以禮,供給豐贍,上德之,擢知謇自貝州刺史爲左衞將軍,賜爵范陽公。敬嗣已卒,求得其子汪,嗜酒,不堪釐職,除五品散官。40.以前、上が房陵に居た頃、州司の制約がとても厳しかった。だが、刺史の河東の張知謇と霊昌の崔敬嗣だけは礼遇して、支給品もたっぷり与えてくれた。上はこれを徳として、知謇を貝州刺史から左衛将軍へ抜擢し、范陽公の爵位を下賜した。敬嗣は卒していた。その子の汪を探し出したが、彼は酒好きで職務が取れなかったので、五品の散官へ除した。
41改葬上洛王韋玄貞,其儀皆如太原王故事。41.上洛王韋玄貞を改葬した。その儀礼は太原王(武士彠)の故事に従った。
42癸巳,太子賓客、同中書門下三品韋巨源罷爲禮部尚書,以其從父安石爲中書令故也。42.癸巳、太子賓客、同中書門下三品韋巨源をやめさせて、礼部尚書とした。その従父の安石を中書令とした為である。
43以左衞將軍上邽紀處訥兼檢校太府卿,處訥娶武三思之妻姊故也。43.左衛将軍の上邽の紀處訥へ検校太府卿を兼任させた。彼が、武三思の妻の妹を娶ったからである。
44冬,十月,命唐休璟留守京師。44.冬、十月、唐休璟に京師の留守を命じた。
45癸亥,上幸龍門;乙丑,獵於新安而還。45.癸亥、上が龍門へ御幸した。乙丑、新安で狩猟をして帰った。
46辛未,以魏元忠爲中書令,楊再思爲侍中。46.辛羊、魏元忠を中書令、楊再思を侍中とした。
47十一月,戊寅,羣臣上皇帝尊號曰應天皇帝,皇后曰順天皇后。壬午,上與后謁謝太廟,赦天下;相王、太平公主加實封,皆滿萬戸。47.十一月、戊寅、群臣が皇帝に応天皇帝、皇后に順天皇后の尊号を献上した。
48己丑,上御洛城南樓,觀潑寒胡戲。清源尉呂元泰上疏,以爲「謀時寒若,何必裸身揮水,鼓舞衢路以索之!」疏奏,不納。48.己丑、上が洛城の南楼へ御幸して、溌寒胡戯を観た。
49壬寅,則天崩於上陽宮,年八十二。遺制:「去帝號,稱則天大聖皇后。王、蕭二族及褚遂良、韓瑗、柳奭親屬皆赦之。」49.壬寅、則天武后が上陽宮にて崩御した。享年八十二。遺制に言う、
上居諒陰,以魏元忠攝冢宰三日。元忠素負忠直之望,中外賴之;武三思憚之,矯太后遺制,慰諭元忠,賜實封百戸。元忠捧制,感咽涕泗,見者曰:「事去矣!」
十二月,丁卯,上始御同明殿見羣臣。
50太后將合葬乾陵,給事中嚴善思上疏,以爲:「乾陵玄宮以石爲門,鐵錮其縫,今啓其門,必須鐫鑿。神明之道,體尚幽玄,動衆加功,恐多驚黷。況合葬非古,漢時諸陵,皇后多不合陵,魏、晉已降,始有合者。望於乾陵之傍更擇吉地爲陵,若神道有知,幽塗自當通會;若其無知,合之何益!」不從。50.太后を乾陵と合葬しようとした時、給事中厳善思が上疏した。その大意は、
51是歳,戸部奏天下戸六百一十五萬,口三千七百一十四萬有畸。51.この年、天下の戸は六百十五万、人口は三千七百十四万余人と、戸部が報告した。
二年(丙午、七〇六)1.春、正月、戊戌、吏部尚書李嶠を同中書門下三品、中書侍郎于惟謙を同平章事とした。
1春,正月,戊戌,以吏部尚書李嶠同中書門下三品,中書侍郎于惟謙同平章事。
2閏月,丙午,制:「太平、長寧、安樂、宜城、新都、定安、金城公主並開府,置官屬。」2.閏月、丙午、制を下した。
3武三思以敬暉、桓彦範、袁恕己尚在京師,忌之,乙卯,出爲滑、洺、豫三州刺史。3.敬暉、桓彦範、袁恕己が京師に居るのが、武三思は気に入らなかった。
4賜閺郷僧萬回號法雲公。4.閺郷の僧万回に、法雲公の号を賜った。
5甲戌,以突騎施酋長烏質勒爲懷德郡王。5.甲戌、突騎施の酋長烏質勒を懐徳郡王とした。
6二月,乙未,以刑部尚書韋巨源同中書門下三品,仍與皇后敍宗族。6.二月、乙未、刑部尚書韋巨源を同中書門下三品とした。依然として、皇后は宗族を登用した。
7丙申,僧慧範等九人並加五品階,賜爵郡、縣公;道士史崇恩等加五品階,除國子祭酒,同正;葉靜能加金紫光祿大夫。7.丙申、僧恵範等九人に皆五品階を加え、爵郡、県公を賜った。道士史祟恩等に五品階を加え、国子祭酒、同正へ任命した。葉静能へ金紫光禄大夫を加えた。
8選左、右臺及内外五品以上官二十人爲十道巡察使,委之察吏撫人,薦賢直獄,二年一代,考其功罪而進退之。易州刺史魏人姜師度、禮部員外郎馬懷素、殿中侍御史臨漳源乾曜、監察御史靈昌盧懷愼、衞尉少卿滏陽李傑皆預焉。8.左、右台及び内外五品以上の官から二十人を選び、十道巡察使として、これへ察吏撫人及び薦賢直獄を委ねる。二年で交代し、その功罪を考課してこれを進退する。
9三月,甲辰,中書令韋安石罷爲戸部尚書;戸部尚書蘇瓌爲侍中、西京留守。瓌,頲之父也。唐休璟致仕。9.三月甲辰、中書令韋安石を罷免して戸部尚書とする。戸部尚書蘇瓌を侍中、西京留守とした。瓌は、頲の父である。
10初,少府監丞弘農宋之問及弟兗州司倉之遜皆坐附會張易之貶嶺南,逃歸東都,匿於友人光祿卿、駙馬都尉王同皎家。同皎疾武三思及韋后所爲,毎與所親言之,輒切齒。之遜於簾下聞之,密遣其子曇及甥校書郎李悛告三思,欲以自贖。三思使曇、悛及撫州司倉冉祖雍上書告同皎與洛陽人張仲之、祖延慶、武當丞壽春周憬等潛結壯士,謀殺三思,因勒兵詣闕,廢皇后。上命御史大夫李承嘉、監察御史姚紹之按其事,又命楊再思、李嶠、韋巨源參驗。仲之言三思罪状,事連宮壺。再思、巨源陽寐不聽;嶠與紹之命反接送獄。仲之還顧,言不已。紹之命檛之,折其臂。仲之大呼曰:「吾已負汝,死當訟汝於天!」庚戌,同皎等皆坐斬,籍沒其家。周憬亡入比干廟中,大言曰:「比干古之忠臣,知吾此心!三思與皇后淫亂,傾危國家,行當梟首都市,恨不及見耳!」遂自剄。之問、之遜、曇、悛、祖雍並除京官,加朝散大夫。10.始め、少府監丞の弘農の宋之問及び弟の兗州司倉之遜は、共に張易之へ媚びていたとして嶺南へ飛ばされていたが、東都へ逃げ帰り、友人の光禄卿、駙馬都尉王同皎の家へ匿われていた。
11武三思與韋后日夜譖敬暉等不已,復左遷暉爲朗州刺史,崔玄暐爲均州刺史,桓彦範爲亳州刺史,袁恕己爲郢州刺史;與暉等同立功者皆以爲黨與坐貶。11.武三思と韋后は日夜敬暉等を讒言してやまない。暉を朗州刺史、崔玄暐を均州刺史、桓彦範を毫州刺史、袁恕己を郢州刺史へ再び左遷した。暉等と共に功績を建てた者は、彼等の一味として降格させられた。
12大置員外官,自京司及諸州凡二千餘人,宦官超遷七品以上員外官者又將千人。12.員外官を京司から諸州までで凡そ二千余人大増員した。宦官で七品以上の員外官も又、千人に及ぼうとした。
魏元忠自端州還,爲相,不復強諫,惟與時俯仰,中外失望。酸棗尉袁楚客致書元忠,以爲:「主上新服厥命,惟新厥德,當進君子,退小人,以興大化,豈可安其榮寵,循默而已!今不早建太子,擇師傅而輔之,一失也。公主開府置僚屬,二失也。崇長緇衣,使遊走權門,借勢納賂,三失也。俳優小人,盜竊品秩,四失也。有司選進賢才,皆以貨取勢求,五失也。寵進宦者,殆滿千人,爲長亂之階,六失也。王公貴戚,賞賜無度,競爲侈靡,七失也。廣置員外官,傷財害民,八失也。先朝宮女,得自便居外,出入無禁,交通請謁,九失也。左道之人,熒惑主聽,盜竊祿位,十失也。凡此十失,君侯不正,誰與正之哉!」元忠得書,愧謝而已。
13夏,四月,改贈后父韋玄貞爲鄷王,后四弟皆贈郡王。13.夏、四月。后父の韋玄貞を鄷王と改め、后の四弟へは、皆、郡王を下賜した。
14己丑,左散騎常侍、同中書門下三品李懷遠致仕。14.己丑、左散騎常侍、同中書門下三品李懐遠が老齢で退職した。
15處士韋月將上書告武三思潛通宮掖,必爲逆亂;上大怒,命斬之。黄門侍郎宋璟奏請推按,上益怒,不及整巾,屣履出側門,謂璟曰:「朕謂已斬,乃猶未邪!」命趨斬之。璟曰:「人言宮中私於三思,陛下不問而誅之,臣恐天下必有竊議。」固請按之,上不許。璟曰:「必欲斬月將,請先斬臣!不然,臣終不敢奉詔!」上怒少解。左御史大夫蘇珦、給事中徐堅、大理卿長安尹思貞皆以爲方夏行戮,有違時令。上乃命與杖,流嶺南。過秋分一日,平曉,廣州都督周仁軌斬之。15.處士の韋月将が”武三思が密かに皇后と姦通しているので、必ず乱を起こす”と上書した。上は激怒して、これを斬るよう命じた。
16御史大夫李承嘉附武三思,詆尹思貞於朝,思貞曰:「公附會姦臣,將圖不軌,先除忠臣邪!」承嘉怒,劾奏思貞,出爲靑州刺史。或謂思貞曰:「公平日訥於言,及廷折承嘉,何其敏邪?」思貞曰:「物不能鳴者,激之則鳴。承嘉恃威權相陵,僕義不受屈,亦不知言之從何而至也。」16.御史大夫李承嘉が武三思に媚びへつらい、朝廷にて尹思貞を譏った。思貞は言った。
17武三思惡宋璟,出之檢校貝州刺史。17.武三思は宋璟を憎み、検校貝州刺史として下向させた。
18五月,庚申,葬則天大聖皇后於乾陵。18.五月、庚申、則天大聖皇后を乾陵へ葬った。
19武三思使鄭愔告朗州刺史敬暉、亳州刺史韋彦範、襄州刺史張柬之、郢州刺史袁恕己、均州刺史崔玄暐與王同皎通謀,六月,戊寅,貶暉崖州司馬,彦範瀧州司馬,柬之新州司馬,恕己竇州司馬,玄暐白州司馬,並員外置,仍長任,削其勳封;復彦範姓桓氏。19.武三思が、”朗州刺史敬暉、毫州刺史韋彦範、襄州刺史張柬之、郢州刺史袁恕己、均州刺史崔玄韋は王同皎と通じて陰謀していた。”と、鄭音へ告発させた。
20初,韋玄貞流欽州而卒,蠻酋甯承基兄弟逼取其女,妻崔氏不與,承基等殺之,及其四男洵、浩、洞、泚,上命廣州都督周仁軌使將兵二萬討之。承基等亡入海,仁軌追斬之,以其首祭崔氏墓,殺掠其部衆殆盡。上喜,加仁軌鎭國大將軍,充五府大使,賜爵汝南郡公。韋后隔簾拜仁軌,以父事之。及韋后敗,仁軌以黨與誅。20.以前、韋玄貞が欽州へ流されて卒した時、蛮酋の甯承基兄弟が彼の娘を渡すよう迫った。妻の崔氏は与えなかったので、承基等は崔氏とその四人の子息洵、浩、洞、泚等を殺した。
21秋,七月,戊申,立衞王重俊爲太子。太子性明果,而官屬率貴遊子弟,所爲多不法;左庶子姚珽屢諫,不聽,珽,璹之弟也。21.秋、七月、戊申、衛王重俊を太子に立てた。太子の性格は聡明果断。しかし、貴人の無頼の子弟を官属として、不法な行為が多かった。左庶子姚珽がしばしば諫めたが、聞かなかった。珽は、璹の弟である。
22丙寅,以李嶠爲中書令。22.丙寅、李嶠を中書令とした。
23上將還西京,辛未,左散騎常侍李懷遠同中書門下三品,充東都留守。23.上は西京へ帰ろうとした。辛未、左散騎常侍李懐遠を同中書門下三品として東都の留守をさせた。
24武三思陰令人疏皇后穢行,牓於天津橋,請加廢黜。上大怒,命御史大夫李承嘉窮核其事。承嘉奏言:「敬暉、桓彦範、張柬之、袁恕己、崔玄暐使人爲之,雖云廢后,實謀大逆,請族誅之。」三思又使安樂公主譖之於内,侍御史鄭愔言之於外,上命法司結竟。大理丞三原李朝隱奏稱:「暉等未經推鞫,不可遽就誅夷。」大理丞裴談奏稱:「暉等宜據制書處斬籍沒,不應更加推鞫。」上以暉等嘗賜鐵券,許以不死,乃長流暉於瓊州,彦範於瀼州,柬之於瀧州,恕己於環州,玄暐於古州,子弟年十六以上,皆流嶺外。擢承嘉爲金紫光祿大夫,進爵襄武郡公,談爲刑部尚書;出李朝隱爲聞喜令。24.武三思は皇后の醜聞をひそかに広めさせ、天津橋へ立て看板を立てさせて、上へ裁断を仰いだ。上は激怒して、御史大夫李承嘉へその事件を究明させる。承嘉は上奏した。
三思又諷太子上表,請夷暉等三族,上不許。
中書舍人崔湜説三思曰:「暉等異日北歸,終爲後患,不如遣使矯制殺之。」三思問誰可使者,湜薦大理正周利用。利用先爲五王所惡,貶嘉州司馬,乃以利用攝右臺侍御史,奉使嶺外。比至,柬之、玄暐已死,遇彦範於貴州,令左右縛之,曳於竹槎之上,肉盡至骨,然後杖殺。得暉,咼而殺之。恕己素服黄金,利用逼之使飲野葛汁,盡數升不死,不勝毒憤,掊地,爪甲殆盡,仍捶殺之。利用還,擢拜御史中丞。薛季昶累貶儋州司馬,飲藥死。
三思既殺五王,權傾人主,常言:「我不知代間何者謂之善人,何者謂之惡人;但於我善者則爲善人,於我惡者則爲惡人耳。」
時兵部尚書宗楚客、將作大匠宗晉卿、太府卿紀處訥、鴻臚卿甘元柬皆爲三思羽翼。御史中丞周利用、侍御史冉祖雍、太僕丞李俊、光祿丞宋之遜、監察御史姚紹之皆爲三思耳目,時人謂之五狗。
25九月,戊午,左散騎常侍、同中書門下三品李懷遠薨。25.九月戊午、左散騎常侍、同中書門下三品李懐遠が卒した。
26初,李嶠爲吏部侍郎,欲樹私恩,再求入相,奏大置員外官,廣引貴勢親識。既而爲相,銓衡失序,府庫減耗,乃更表言濫官之弊,且請遜位;上慰諭不許。26.初め、李嶠が吏部侍郎となった時、私恩を植えて置いて再度宰相になろうと欲し、員外官を大勢置くよう上奏し、貴勢や親しい者を広く採用した。
冬,十月,己卯,車駕發東都,以前檢校并州長史張仁愿檢校左屯衞大將軍兼洛州長史。戊戌,車駕至西京。十一月,乙巳,赦天下。
27丙辰,以蒲州刺史竇從一爲雍州刺史。從一,德玄之子也,初名懷貞,避皇后父諱,更名從一,多諂附權貴。太平公主與僧寺爭碾磑,雍州司戸李元紘判歸僧寺。從一大懼,亟命元紘改判。元紘大署判後曰:「南山可移,此判無動!」從一不能奪。元紘,道廣之子也。27.丙辰、蒲州刺史竇従一を雍州刺史とする。従一は徳玄の子息である。初めの名は懐貞と言ったが、皇后の父の諱を避けて、従一と改名した。権貴への諂いばかりの人間。
28初,秘書監鄭普思納其女於後宮,監察御史靈昌崔日用劾奏之,上不聽。普思聚黨於雍、岐二州,謀作亂。事覺,西京留守蘇瓌收繋,窮治之。普思妻第五氏以鬼道得幸於皇后,上敕瓌勿治。及車駕還西京,瓌廷爭之,上抑瓌而佑普思;侍御史范獻忠進曰:「請斬蘇瓌!」上曰:「何故?」對曰:「瓌爲留守大臣,不能先斬普思,然後奏聞,使之熒惑聖聽,其罪大矣。且普思反状明白,而陛下曲爲申理。臣聞王者不死,殆謂是乎!臣願先賜死,不能北面事普思。」魏元忠曰:「蘇瓌長者,用刑不枉。普思法當死。」上不得已,戊午,流普思於儋州,餘黨皆伏誅。28.初め、秘書監鄭普思が、娘を後宮へ納めた。監察御史の霊昌の崔日曜はこれを弾劾したが、上は聞かなかった。
29十二月,己卯,突厥默啜寇鳴沙,靈武軍大總管沙吒忠義與戰,軍敗,死者六千餘人。丁巳,突厥進寇原、會等州,掠隴右牧馬萬餘匹而去。免忠義官。29.十二月、己卯、突厥の黙啜が鳴沙へ来寇した。霊武軍大総管の沙吒忠義がこれと戦ったが、軍が敗れて、戦死者六千余人に及んだ。
30安西大都護郭元振詣突騎施烏質勒牙帳議軍事,天大風雪,元振立於帳前,與烏質勒語。久之,雪深,元振不移足;烏質勒老,不勝寒,會罷而卒。其子娑葛勒兵將攻元振,副使御史中丞解琬知之,勸元振夜逃去。元振曰:「吾以誠心待人,何所疑懼!且深在寇庭,逃將安適!」安臥不動。明旦,入哭,甚哀。娑葛感其義,待元振如初。戊戌,以娑葛襲嗢鹿州都督、懷德王。30.安西大都護郭元振が突騎施の烏質勒の牙帳を詣で、軍事を議した。この時、天候は大雪だったが、元振は帳の前に立って烏質勒と語った。しばらくすると雪が深くなったが、元振は足を動かさない。烏質勒は老齢だった為、寒さに耐えきれず、会見が終わった後に卒した。
31安樂公主恃寵驕恣,賣官鬻獄,勢傾朝野。或自爲制敕,掩其文,令上署之;上笑而從之,竟不視也。自請爲皇太女,上雖不從,亦不譴責。31.安楽公主は寵愛を恃んで驕慢放埒になった。金を貰えば官位も裁判の判決も売り、権勢は朝野を傾けた。ある時は自ら制や敕を書き、その文章を隠して上へ署名をねだった。上は笑ってこれに従い、文章を見ない。自ら皇太女になることを請うた。これには上も従わなかったが、譴責もしなかった。
景龍元年(丁未、七〇七)1.春、正月庚戌、突厥の黙啜が辺境を荒らすので、内外官へ突厥を平定する策を献上するよう制を降ろす。すると、右補闕の盧俌が上疏した。その大意は
1春,正月,庚戌,制以突厥默啜寇邊,命内外官各進平突厥之策。右補闕盧俌上疏,以爲:「郤縠悅禮樂,敦詩書,爲晉元帥;杜預射不穿札,建平呉之勳。是知中權制謀,不取一夫之勇。如沙吒忠義,驍將之材,本不足以當大任。又,鳴沙之役,主將先逃,宜正邦憲;賞罰既明,敵無不服。又,邊州刺史,宜精擇其人,使之蒐卒乘,積資糧,來則禦之,去則備之。去歳四方旱災,未易興師。當理内以及外,綏近以來遠,俟倉廩實,士卒練,然後大舉以討之。」上善之。
2二月,丙戌,上遣武攸曁、武三思詣乾陵祈雨。既而雨降,上喜,制復武氏崇恩廟及昊陵、順陵,因名鄷王廟曰褒德,陵曰榮先;又詔崇恩廟齋郎取五品子充。太常博士楊孚曰:「太廟皆取七品已下子爲齋郎,今崇恩廟取五品子,未知太廟當如何?」上命太廟亦準崇恩廟。孚曰:「以臣準君,猶爲僭逆,況以君準臣乎!」上乃止。2.二月、丙戌、上は武攸曁、武三思を乾陵へ派遣して、雨を祈らせた。すると、雨が降ったので、上は喜び、武氏の祟恩廟と昊陵、順陵を復すよう制を降ろした。豊王廟を褒徳、陵を栄先と名付ける。
3庚寅,敕改諸州中興寺、觀爲龍興,自今奏事不得言中興。右補闕權若訥上疏,以爲:「天、地、日、月等字皆則天能事,賊臣敬暉等輕紊前規;今削之無益於淳化,存之有光於孝理。又,神龍元年制書,一事以上,並依貞觀故事,豈可近捨母儀,遠尊祖德!」疏奏,手制褒美。3.庚寅、諸州の中興寺、観を龍興と改称し、今後は奏事に「中興」の言葉を使わないよう勅が下った。すると右補闕の権若訥が上疏した。その大意は、
4三月,庚子,吐蕃遣其大臣悉薰熱入貢。4.三月、庚子、吐蕃がその大臣悉薫熱を派遣して入貢した。
5夏,四月,辛巳,以上所養雍王守禮女金城公主妻吐蕃贊普。5.夏、四月、辛巳、上は養っていた雍王守礼の娘の金城公主を吐蕃の贊普にめあわせた。
6五月,戊戌,以左屯衞大將軍張仁愿爲朔方道大總管,以備突厥。6.五月、戊戌、左屯衛大将軍張仁愿を朔方大総管として、突厥に備えた。
7上以歳旱穀貴,召太府卿紀處訥謀之。明日,武三思使知太史事迦葉志忠奏:「是夜,攝提入太微宮,至帝座,主大臣宴見納忠於天子。」上以爲然。敕稱處訥忠誠,徹於玄象,賜衣一襲,帛六十段。7.上は、旱害で穀物が高騰したので、太府卿紀處訥を呼び出して対策を講じた。
8六月,丁卯朔,日有食之。8.六月、丁卯、日食が起こった。
9姚雟道討撃使、監察御史晉昌唐九徴撃姚州叛蠻,破之,斬獲三千餘人。9.姚雟道討撃使、監察御史の晋昌の唐九徴が姚州の造反した蛮を攻撃して、これを破った。三千余人を斬獲した。
10皇后以太子重俊非其所生,惡之;特進德靜王武三思尤忌太子。上官婕妤以三思故,毎下制敕,推尊武氏。安樂公主與駙馬左衞將軍武崇訓常陵侮太子,或呼爲奴。崇訓又教公主言於上,請廢太子,立己爲皇太女。太子積不能平。10.皇后は、太子重俊が自分の生んだ子息ではないので、これを憎んでいた。特進徳静王武三思は、もっとも太子を忌んでいた。上官婕妤は三思が太子を忌んでいるので、制敕が下される度に、武氏を尊んだ。安楽公主と駙馬左衛将軍武祟訓はいつも太子を凌侮して、時には奴と呼んだ。祟訓は、又、公主へ太子を廃して自分を皇太女とするように上へ請うよう、教えた。これらのことが積もり重なって、太子は心が平静ではなくなった。
秋,七月,辛丑,太子與左羽林大將軍李多祚、將軍李思沖、李承況、獨孤禕、沙吒忠義等,矯制發羽林千騎兵三百餘人,殺三思、崇訓于其第,并親黨十餘人。又使左金吾大將軍成王千里及其子天水王禧分兵守宮城諸門,太子與多祚引兵自肅章門斬關而入,叩閤索上官婕妤。婕妤大言曰:「觀其意欲先索婉兒,次索皇后,次及大家。」上乃與韋后、安樂公主、上官婕妤登玄武門樓以避兵鋒,使右羽林大將軍劉景仁帥飛騎百餘人屯於樓下以自衞。楊再思、蘇瓌、李嶠與兵部尚書宗楚客、左衞將軍紀處訥擁兵二千餘人屯太極殿前,閉門自守。多祚先至玄武樓下,欲升樓,宿衞拒之。多祚與太子狐疑,按兵不戰,冀上問之。宮闈令石城楊思勗在上側,請撃之。多祚壻羽林中郎將野呼利爲前鋒總管,思勗挺刃斬之,多祚軍奪氣。上據檻俯謂多祚所將千騎曰:「汝輩皆朕宿衞之士,何爲從多祚反!苟能斬反者,勿患不富貴。」於是千騎斬多祚、承況、禕之、忠義,餘衆皆潰。成王千里、天水王禧攻右延明門,將殺宗楚客、紀處訥,不克而死。太子以百騎走終南山,至鄠西,能屬者纔數人,憩於林下,爲左右所殺。上以其首獻太廟及祭三思、崇訓之柩,然後梟之朝堂。更成王千里姓曰蝮氏,同黨皆伏誅。
東宮僚屬無敢近太子尸者,唯永和縣丞甯嘉勗解衣裹太子首號哭,貶興平丞。
太子兵所經諸門守者皆坐流;韋氏之黨奏請悉誅之,上更命法司推斷。大理卿宋城鄭惟忠曰:「大獄始決,人心未安,若復有改推,則反仄者衆矣。」上乃止。
以楊思勗爲銀靑光祿大夫,行内常侍。癸卯,赦天下。
贈武三思太尉、梁宣王,武崇訓開府儀同三司、魯忠王。安樂公主請用永泰公主故事,以崇訓墓爲陵。給事中盧粲駁之,以爲「永泰事出特恩,今魯王主壻,不可爲比。」上手敕曰:「安樂與永泰無異,同穴之義,今古不殊。」粲又奏:「陛下以膝下之愛施及其夫,豈可使上下無辨,君臣一貫哉!」上乃從之。公主怒,出粲爲陳州刺史。
襄邑尉襄陽席豫聞安樂公主求爲太女,歎曰:「梅福譏切王氏,獨何人哉!」乃上書請立太子,言甚深切。太平公主欲表爲諫官。豫恥之,逃去。
11八月,戊寅,皇后及王公已下表上尊號曰應天神龍皇帝,改玄武門爲神武門,樓爲制勝樓。宗楚客又帥百官表請加皇后尊號曰順天翊聖皇后。上並許之。11.八月、戊寅、皇后と王公以下が、上に「應天神龍皇帝」の尊号を献上し、玄武門を神武門、楼を制勝楼と改称するよう上表した。宗楚客は、また、百官を率いて皇后へ「順天翊聖皇后」の尊号を加えるよう請願した。
12初,右臺大夫蘇珦治太子重俊之黨,囚有引相王者,珦密爲之申理,上乃不問。自是安樂公主及兵部尚書宗楚客日夜謀譖相王,使侍御史冉祖雍誣奏相王及太平公主,云「與重俊通謀,請收付制獄。」上召吏部侍郎兼御史中丞蕭至忠,使鞫之。至忠泣曰:「陛下富有四海,不能容一弟一妹,而使人羅織害之乎!相王昔爲皇嗣,固請於則天,以天下讓陛下,累日不食,此海内所知。奈何以祖雍一言而疑之!」上素友愛,遂寢其事。12.かつて、右台大夫蘇珦が太子重俊の一味を糾明すると、相王の名を出す者が居た。珦は密かに上へ告げたが、上は不問とした。
右補闕浚儀呉兢聞祖雍之謀,上疏,以爲:「自文明以來,國之祚胤,不絶如綫,陛下龍興,恩及九族,求之瘴海,升之闕庭。況相王同氣至親,六合無貳,而賊臣日夜連謀,乃欲陷之極法;禍亂之根,將由此始。夫任以權則雖疏必重,奪其勢則雖親必輕。自古委信異姓,猜忌骨肉,以覆國亡家者,幾何人矣。況國家枝葉無幾,陛下登極未久,而一子以弄兵受誅,一子以愆違遠竄,惟餘一弟朝夕左右,尺布斗粟之譏,不可不愼,靑蠅之詩,良可畏也。」
相王寬厚恭謹,安恬好讓,故經武、韋之世,竟免於難。
13初,右僕射、中書令魏元忠以武三思擅權,意常憤鬱。及太子重俊起兵,遇元忠子太僕少卿升於永安門,脅以自隨,太子死,并爲亂兵所殺。元忠揚言曰:「元惡已死,雖鼎鑊何傷!但惜太子隕沒耳。」上以其有功,且爲高宗、武后所重,故釋不問。兵部尚書宗楚客、太府卿紀處訥等共證元忠,云「與太子通謀,請夷其三族。」制不許。元忠懼,表請解官爵,以散秩還第。丙戌,上手敕聽解僕射,以特進、齊公致仕,仍朝朔望。13.かつて、右僕射、中書令魏元忠は、武三思が専横を振るっていたので、いつも憤鬱としていた。太子重俊が起兵するに及んで、元忠の子息の太僕少卿升と永安門で遭い、脅して自分に従わせた。太子が死ぬと、兵乱の中で升は殺された。
14九月,丁卯,以吏部侍郎蕭至忠爲黄門侍郎,兵部尚書宗楚客爲左衞將軍,兼太府卿紀處訥爲太府卿,並同中書門下三品;中書侍郎、同中書門下三品于惟謙罷爲國子祭酒。14.九月、丁卯、吏部侍郎蕭至忠を黄門侍郎、兵部尚書宗楚客を左衛将軍、兼太府卿紀處訥を太府卿として、全員を同中書門下三品とした。中書侍郎、同中書門下三品于惟謙が、やめて国子祭酒となった。
15庚子,赦天下,改元。15.庚子、天下へ恩赦を下し、改元した。
16宗楚客等引右衞郎將姚廷筠爲御史中丞,使劾奏魏元忠,以爲:「侯君集社稷元勳,及其謀反,太宗就羣臣乞其命而不得,竟流涕斬之。其後房遺愛、薛萬徹、齊王祐等爲逆,雖復懿親,皆從國法。元忠功不逮君集,身又非國戚,與李多祚等謀反,男入逆徒,是宜赤族汚宮。但有朋黨飾辭營救,以惑聖聽,陛下仁恩,欲掩其過。臣所以犯龍鱗、忤聖意者,正以事關宗社耳。」上頗然之。元忠坐繋大理,貶渠州司馬。16.宗楚客等が、右衛郎将姚延筠を御史中丞へ引き上げ、魏元忠を弾劾させた。
宗楚客令給事中冉祖雍奏言:「元忠既犯大逆,不應出佐渠州。」楊再思、李嶠亦贊之。上謂再思等曰:「元忠驅使日久,朕特矜容,制命已行,豈宜數改!輕重之權,應自朕出。卿等頻奏,殊非朕意!」再思等惶懼拜謝。
監察御史袁守一復表彈元忠曰:「重俊乃陛下之子,猶加昭憲;元忠非勳非戚,焉得獨漏嚴刑!」甲辰,又貶元忠務川尉。
頃之,楚客又令袁守一奏言:「則天昔在三陽宮不豫,狄仁傑奏請陛下監國,元忠密奏以爲不可,此則元忠懷逆日久,請加嚴誅!」上謂楊再思等曰:「以朕思之,人臣事主,必在一心;豈有主上小疾,遽請太子知事!此乃仁傑欲樹私恩,未見元忠有失。守一欲借前事以陷元忠,其可乎!」楚客乃止。
元忠行至涪陵而卒。
17銀靑光祿大夫、上庸公、聖善・中天・西明三寺主慧範於東都作聖善寺,長樂坡作大像,府庫爲之虚耗。上及韋后皆重之,勢傾内外,無敢指目者。戊申,侍御史魏傳弓發其姦贓四十餘萬,請寘極法。上欲宥之,傳弓曰:「刑賞國之大事,陛下賞已妄加,豈宜刑所不及!」上乃削黜慧範,放于家。17.上青光禄大夫、上庸公、聖善・中天・西明三寺主恵範が、東都へ聖善寺を作り、長楽坡へ大像を作り、これらの為に府庫が虚耗した。上も韋后も彼を重んじていたので、彼の権勢は内外を傾け、敢えて指さす者はいなかった。
宦官左監門大將軍薛思簡等有寵於安樂公主,縱暴不法,傳弓奏請誅之,御史大夫竇從一懼,固止之。時宦官用事,從一爲雍州刺史及御史大夫,誤見訟者無須,必曲加承接。
18以楊再思爲中書令,韋巨源、紀處訥並爲侍中。18.楊再思を中書令とし、韋巨源、紀處訥と共に侍中とする。
19壬戌,改左、右羽林千騎爲萬騎。19.壬戌、左、右の羽林千騎を、万騎に改めた。
20冬,十月,丁丑,命左屯衞將軍張仁愿充朔方道大總管,以撃突厥。比至,虜已退,追撃,大破之。20.冬、十月、丁丑、左屯衛将軍張仁愿を朔方道大総管として、突厥を攻撃させた。
21習藝館内教蘇安恆,矜高好奇,太子重俊之誅武三思也,安恆自言「此我之謀」。太子敗,或告之;戊寅,伏誅。21.習芸館内教蘇安恒は、プライドが高く、奇を好んだ。太子重俊が武三思を誅すると、安恒は自ら言った。
22十二月,乙丑朔,日有食之。22.十二月、乙丑朔、日食が起こった。
23是歳,上遣使者分道詣江、淮贖生。中書舍人房子李乂上疏諫曰:「江南郷人采捕爲業,魚鼈之利,黎元所資。雖雲雨之私有霑於末利;而生成之惠未洽於平人。何則?江湖之饒,生育無限,府庫之用,支供易殫。費之若少,則所濟何成!用之儻多,則常支有闕。在其拯物,豈若憂人!,且鬻生之徒,惟利是視,錢刀日至,網罟年滋,施之一朝,營之百倍。未若廻救贖之錢物,減貧無之傜賦,活國愛人,其福勝彼。」
23.江、淮の人間は魚や鼈を捕って暮らしていた。上は彼等が生き物を傷つけているので、この年、江、淮へ使者を派遣して、それらの生物を金を出して買い取らせた。中書舎人の房子の李乂が諫めた。
「江南の郷人は漁業を生業としており、魚鼈の利は人民の資産です。雲雨の私恩は末利を潤していますが、生成の恵みはまだ人々へ和らいでおりません。何故でしょうか?それは、江湖の饒が無限なのに対して、府庫の財産には限りがあるからです。彼等へ支払う金が少なければ、支給したところで何の役に立ちましょうか!多くの金を支払ったなら、財政は常に不足します。物を救って人を苦しませるようなことが、どうしてありましょうか!それに、漁師達はただ利益だけしか考えませんから、金が貰えるのなら網を投げ入れる人間は益々増えます。一朝施したら、その百倍は漁夫が増えます。彼等を救う為に物を銭で贖うのなら、むしろ貧しい人々の徭役を減らした方が効果的です。国を生かし人を愛することでは、その福は今のやり方に勝ります。」
翻訳者: 渡邊 省