開元二年(甲寅、七一四)1.春、正月、壬申、制が下った。
1春,正月,壬申,制:「選京官有才識者除都督、刺史,都督、刺史有政迹者除京官,使出入常均,永爲恆式。」
2己卯,以盧懷愼檢校黄門監。2.己卯、盧懐慎を検校黄門監とした。
3舊制,雅俗之樂,皆隸太常。上精曉音律,以太常禮樂之司,不應典倡優雜伎;乃更置左右教坊以教俗樂,命右驍衞將軍范及爲之使。又選樂工數百人,自教法曲於梨園,謂之「皇帝梨園弟子」。又教宮中使習之。又選伎女,置宜春院,給賜其家。禮部侍郎張廷珪、酸棗尉袁楚客皆上疏,以爲:「上春秋鼎盛,宜崇經術,邇端士,尚樸素,深以悅鄭聲、好遊獵爲戒。」上雖不能用,咸嘉賞之。3.従来の制度では、雅俗の音楽は、全て太常の管轄下にあった。上は、音律へ精通していたので、太常の礼楽の司では素晴らしい芸術を生み出せないと考え、左右教坊を設置して俗楽を教えさせることにした。これは、右驍衛将軍范及を長官とする。また、楽工数百人を選んで、梨園にて自ら法曲を教えた。彼らを「皇帝の梨園の弟子」と言った。宮中にもこれを教え習わせた。また、伎女を選んで宜春院へ置き、彼女たちに家を与えた。
4中宗以來,貴戚爭營佛寺,奏度人爲僧,兼以僞妄;富戸強丁多削髮以避徭役,所在充滿。姚崇上言:「佛圖澄不能存趙,鳩摩羅什不能存秦,齊襄、梁武,未免禍殃。但使蒼生安樂,即是福身;何用妄度姦人,使壞正法!」上從之。丙寅,命有司沙汰天下僧尼,以僞妄還俗者萬二千餘人。4.中宗以来、貴戚は争って仏寺を造営し、御国の為とのお為ごかしで、大勢の人間を僧にしていた。だから、労役のがれの為に髪を剃る富豪達が巷に溢れた。
5初,營州都督治柳城以鎭撫奚、契丹,則天之世,都督趙文翽失政,奚、契丹攻陷之,是後寄治於幽州東漁陽城。或言:「靺鞨、奚、霫大欲降唐,正以唐不建營州,無所依投,爲默啜所侵擾,故且附之;若唐復建營州,則相帥歸化矣。」并州長史、和戎・大武等軍州節度大使薛訥信之,奏請撃契丹,復置營州;上亦以冷陘之役,欲討契丹。羣臣姚崇等多諫。甲申,以訥同紫微黄門三品,將兵撃契丹,羣臣乃不敢言。5.かつて、営州都督が柳城を造って、奚・契丹を鎮撫していた。則天武后の時代に都督の趙文翽が施政に失敗し、奚・契丹がこれを攻め落とした。この後、幽州の東の漁陽城が境界となった。
6薛王業之舅王仙童,侵暴百姓,御史彈奏;業爲之請,敕紫微、黄門覆按。姚崇、盧懷愼等奏:「仙童罪状明白,御史所言無所枉,不可縱捨。」上從之。由是貴戚束手。6.薛王業の舅の王仙童は百姓に対して無法だったので、御史が弾劾した。業が彼の為にとりなしたので、紫微や黄門へこれを再審させた。すると、姚崇、盧懐慎らが上奏した。
7二月,庚寅朔,太史奏太陽應虧不虧。姚崇表賀,請書之史册;從之。7.二月、庚未朔、日食が起こるはずなのに起こらなかったと、太史が奏した。姚崇がこれを祝賀し、青史に遺すよう請うた。これに従った。
8乙未,突厥可汗默啜遣其子同俄特勒及妹夫火拔頡利發、石阿失畢將兵圍北庭都護府,都護郭虔瓘撃敗之。同俄單騎逼城下,虔瓘伏壯士於道側,突起斬之。突厥請悉軍中資糧以贖同俄,聞其已死,慟哭而去。8.乙未、突厥可汗黙啜が子息の同俄特勒と妹婿の火抜頡利發、石阿失畢へ兵を与えて派遣し、北庭都護府を包囲した。都護の郭虔瓘が、これを撃破した。同俄が単騎で城下へ迫ったが、道の脇へ虔瓘が伏せておいた壮士が飛び出して、これを斬った。
9丁未,敕:「自今所在毋得創建佛寺;舊寺頽壞應葺者,詣有司陳牒檢視,然後聽之。」9.丁未、勅が下った。
10閏月,以鴻臚少卿、朔方軍副大總管王晙兼安北大都護、朔方道行軍大總管,令豐安、定遠、三受降城及旁側諸軍皆受晙節度。徙大都護府於中受降城,置兵屯田。10.閏月、鴻臚少卿・朔方軍副大総管の王晙に安北大都護・朔方道行軍大総管を兼務させ、豊安・定遠・三受降城及び沿線の諸軍は全て晙の指揮下へ入れた。大都護府を中受降城へ移し、屯田兵を置いた。
11丁卯,復置十道按察使,以益州長史陸象先等爲之。11.丁卯、十道按察使を再び置き、益州長史陸象先らを任命した。
12上思徐有功用法平直,乙亥,以其子大理司直惀爲恭陵令。竇孝諶之子光祿卿豳公希瑊等請以己官爵讓惀以報其德,由是惀累遷申王府司馬。12.上は、徐有功が法律を公平に適用したことを思い、乙亥、その子息の大理司直惀を恭陵令とした。
13丙子,申王成義請以其府録事閻楚珪爲其府參軍,上許之。姚崇、盧懷愼上言:「先嘗得旨,云王公、駙馬有所奏請,非墨敕皆勿行。臣竊以量材授官,當歸有司;若縁親故之恩,得以官爵爲惠,踵習近事,實紊紀綱。」事遂寢。由是請謁不行。13.丙子、申王成義が、その府録事閻楚珪を府参軍にしたいと請うた。上がこれを許すと、姚崇や盧懐慎が上言した。
14突厥石阿失畢既失同俄,不敢歸,癸未,與其妻來奔;以爲右衞大將軍,封燕北郡王,命其妻曰金山公主。14.突厥の石阿失畢は同俄を失ってしまったので、敢えて帰国しなかった。
15或告太子少保劉幽求、太子詹事鐘紹京有怨望語,下紫微省按問,幽求等不服。姚崇、盧懷愼、薛訥言於上曰:「幽求等皆功臣,乍就閒職,微有沮喪,人情或然。功業既大,榮寵亦深,一朝下獄,恐驚遠聽。」戊子,貶幽求爲睦州刺史,紹京爲果州刺史。紫微侍郎王琚行邊軍未還,亦坐幽求黨貶澤州刺史。15.太子少保劉幽求と太子詹事鐘紹京が怨望の言葉を吐いたと、密告した者が居た。この件は紫微省に下げ渡されて尋問されたが、幽求等は服さなかった。
16敕:「涪州刺史周利貞等十三人,皆天后時酷吏,比周興等情状差輕,宜放歸草澤,終身勿齒。」16.敕が下った。「涪州刺史周利貞等十三人は、みな天后のときの酷吏である。周興らと比べて情状の軽重があるので、官職を剥奪して終身不雇用で済ませる。」
17西突厥十姓酋長都擔叛。三月,己亥,磧西節度使阿史那獻克碎葉等鎭,擒斬都擔,降其部落二萬餘帳。17.西突厥の十姓酋長都擔が造反した。
18御史中丞姜晦以宗楚客等改中宗遺詔,靑州刺史韋安石、太子賓客韋嗣立、刑部尚書趙彦昭、特進致仕李嶠,於時同爲宰相,不能匡正,令監察御史郭震彈之;且言彦昭拜巫趙氏爲姑,蒙婦人服,與妻乘車詣其家。甲辰,貶安石爲沔州別駕,嗣立爲岳州別駕,彦昭爲袁州別駕,嶠爲滁州別駕。安石至沔州,晦又奏安石嘗檢校定陵,盜隱官物,下州徴贓。安石歎曰:「此祗應須我死耳。」憤恚而卒。晦,皎之弟也。18.御史中丞姜晦は、宗楚客らが中宗の遺詔を改めた時、当時宰相だった青州刺史韋安石、太子賓客韋嗣立、刑部尚書趙彦昭、特進致仕李嶠らが矯正できなかったと考え、監察御史郭震へ弾劾させた。また、彦昭へ対しては、巫女の趙氏を姑と拝し、婦人の服を着て妻と共に車に乗ってその家に詣でたと、付け加えた。
19毀天樞,發匠熔其鐵錢,歴月不盡。先是,韋后亦於天街作石臺,高數丈,以頌功德,至是并毀之。19.天枢(武后の延載元年参照)を焼き捨てた。匠を徴発して、その鉄銭を溶かしたが、一ヶ月以上もかかった。
20夏,四月,辛巳,突厥可汗默啜復遣使求婚,自稱「乾和永清太駙馬、天上得果報天男、突厥聖天骨咄祿可汗」。20.夏、四月、辛巳、突厥可汗黙啜が再び使者を派遣して通婚を求めた。この時、「乾和永清太駙馬、天上得果報天男、突厥聖天骨咄禄可汗」と自称した。
21五月,己丑,以歳饑,悉罷員外、試、檢校官,自今非有戰功及別敕,毋得注擬。21.五月、己丑、飢饉の歳なので、員外、試、検校官を全てやめた。以後は、戦功や別勅がない限り、この三官は与えないこととした。
22己酉,吐蕃相坌達延遺宰相書,請先遣解琬至河源正二國封疆,然後結盟。琬嘗爲朔方大總管,故吐蕃請之。前此琬以金紫光祿大夫致仕,復召拜左散騎常侍而遣之。又命宰相復坌達延書,招懷之。琬上言,吐蕃必陰懷叛計,請預屯兵十萬於秦、渭等州以備之。22.己酉、吐蕃の相の坌達延が宰相の書を遣した。
23黄門監魏知古,本起小吏,因姚崇引薦,以至同爲相。崇意輕之,請知古攝吏部尚書、知東都選事,遣吏部尚書宋璟於門下過官;知古銜之。23.黄門監魏知古はもともと小役人だったが、姚崇の推薦で抜擢され、宰相として肩を並べるまでになった。だから、祟は心中彼を軽く見ており、知古を摂吏部尚書、知東都選事とするよう請い、吏部尚書宋景を門下過官へ派遣した。知古は、これを根に持った。
崇二子分司東都,恃其父有德於知古,頗招權請託;知古歸,悉以聞。他日,上從容問崇:「卿子才性何如?今何官也?」崇揣知上意,對曰:「臣有三子,兩在東都,爲人多欲而不謹,是必以事干魏知古,臣未及問之耳。」上始以崇必爲其子隱,及聞崇奏,喜問:「卿安從知之?」對曰:「知古微時,臣卵而翼之。臣子愚,以爲知古必德臣,容其爲非,故敢干之耳。」上於是以崇爲無私,而薄知古負崇,欲斥之。崇固請曰:「臣子無状,撓陛下法,陛下赦其罪,已幸矣;苟因臣逐知古,天下必以陛下爲私於臣,累聖政矣。」上久乃許之。辛亥,知古罷爲工部尚書。
24宋王成器,申王成義,於上兄也;岐王範,薛王業,上之弟也;豳王守禮,上之從兄也。上素友愛,近世帝王莫能及。初即位,爲長枕大被,與兄弟同寢。諸王毎旦朝於側門,退則相從宴飲、鬭雞、撃毬,或獵於近郊,游賞別墅,中使存問相望於道。上聽朝罷,多從諸王遊,在禁中,拜跪如家人禮,飲食起居,相與同之。於殿中設五幄,與諸王更處其中。或講論賦詩,間以飲酒、博弈、遊獵,或自執絲竹;成器善笛,範善琵琶,與上更奏之。諸王或有疾,上爲之終日不食,終夜不寢。業嘗疾,上方臨朝,須臾之間,使者十返。上親爲業煮藥,回飆吹火,誤爇上須,左右驚救之。上曰:「但使王飲此藥而愈,須何足惜?」成器尤恭愼,未嘗議及時政,與人交結;上愈信重之,故讒間之言無自而入。然專以聲色畜養娯樂之,不任以職事。羣臣以成器等地逼,請循故事出刺外州。六月,丁巳,以宋王成器兼岐州刺史,申王成義兼豳州刺史,豳王守禮兼虢州刺史,令到官但領大綱,自餘州務,皆委上佐主之。是後諸王爲都護、都督、刺史者並準此。24.宋王成器、申王成義は上の兄である。岐王範、薛王業は上の弟である。豳王守礼は上の従兄である。上はもともと友愛な性分だが、近世の帝王は、兄弟親戚を傷つけてばかりいた。そこで上は即位した当初、長い枕と大きな布団を作り、兄弟と共に寝た。諸王は毎朝側門にて挨拶した。朝廷を退けば一緒に宴会を開き、闘鶏、蹴鞠をし、或いは近郊で狩猟をし、別荘で遊ぶなど、ご機嫌うかがいの為の皇帝の使者が道路に溢れ返る有様だった。
25丙寅,吐蕃使其宰相尚欽藏來獻盟書。25.丙寅、吐蕃が宰相の尚欽蔵を派遣して、盟書を献上した。
26上以風俗奢靡,秋,七月,乙未,制:「乘輿服御、金銀器玩,宜令有司銷毀,以供軍國之用;其珠玉、錦繡,焚於殿前;后妃以下,皆毋得服珠玉錦繡。」戊戌,敕:「百官所服帶及酒器、馬銜、鐙,三品以上,聽飾以玉,四品以金,五品以銀,自餘皆禁之;婦人服飾從其夫、子。其舊成錦繡,聽染爲皀。自今天下更毋得采珠玉,織錦繡等物,違者杖一百,工人減一等。」罷兩京織錦坊。26.上は、風俗が奢靡なので、秋、七月、乙未、制を下した。
臣光曰:明皇之始欲爲治,能自刻厲節儉如此,晩節猶以奢敗;甚哉奢靡之易以溺人也!詩云:「靡不有初,鮮克有終。」可不愼哉!
27薛訥與左監門衞將軍杜賓客、定州刺史崔宣道等將兵六萬出檀州撃契丹。賓客以爲「士卒盛夏負戈甲,齎資糧,深入寇境,難以成功。」訥曰:「盛夏草肥,羔犢孳息,因糧於敵,正得天時,一舉滅虜,不可失也。」行至灤水山峽中,契丹伏兵遮其前後,從山上撃之。唐兵大敗,死者什八九。訥與數十騎突圍,得免,虜中嗤之,謂之「薛婆。」薛宣道將後軍,聞訥敗,亦走。訥歸罪於宣道及胡將李思敬等八人,制悉斬之於幽州。庚子,敕免訥死,削除其官爵;獨赦杜賓客之罪。27.薛訥と左監門衛将軍杜賓客、定州刺史崔宣道らが六万の兵を率いて檀州から出て契丹を攻撃した。
28壬寅,以北庭都護郭虔瓘爲涼州刺史、河西諸軍州節度使。28.壬寅、北庭都護郭虔瓘を涼州刺史、河西諸軍州節度使とした。
29果州刺史鐘紹京心怨望,數上疏妄陳休咎;乙巳,貶溱州刺史。29.果州刺史鐘紹京は、心中怨みがたまり、しばしば事実無根の中傷を上疏した。乙巳、溱州刺史に左遷された。
30丁未,房州刺史襄王重茂薨,輟朝三日,追謚曰殤皇帝。30.丁未、房州刺史襄王重茂が薨じた。朝廷を三日取りやめた。殤皇帝と諡した。
31戊申,禁百官家毋得與僧、尼、道士往還。壬子,禁人間鑄佛、寫經。31.戊申、百官と僧、尼、道士との往来を禁止した。
32宋王成器等請獻興慶坊宅爲離宮;甲寅,制許之,始作興慶宮,仍各賜成器等宅,環於宮側。又於宮西南置樓,題其西曰「花萼相輝之樓」,南曰「勤政務本之樓」。上或登樓,聞王奏樂,則召升樓同宴,或幸其所居盡歡,賞賚優渥。32.宋王成器らが興慶坊の宅を献上して離宮としたいと請うた。甲寅、制が下って、これを許した。最初に興慶宮を作り、その宮を取り巻くように邸宅を作って成器らに賜った。また、宮の西南に楼を作った。その西側には、「花蕚相輝の楼」と書き、南には、「勤政務本の楼」と書いた。上が楼へ登って王の演奏を聴けば、楼の上へ召して共に酒を楽しみ、或いはその邸宅まで出かけて行き歓を尽くし充分な恩賞を与えた。
33乙卯,以岐王範兼絳州刺史,薛王業兼同州刺史。仍敕宋王以下毎季二人入朝,周而復始。33.乙卯、岐王範に絳州刺史を、薛王業に同州刺史を兼務させた。また、宋王以下に勅を下し、季節ごとに二人が入朝し、入朝が一巡りしたらまた最初の者が入朝するよう命じた。
34民間訛言,上采擇女子以充掖庭,上聞之,八月,乙丑,令有司具車牛於崇明門,自選後宮無用者載還其家;敕曰:「燕寢之内,尚令罷遣;閭閻之間,足可知悉。」34.上が、女性を選んで後宮を満たそうとしているとの噂が民間に流れた。上はこれを聞いたので、八月、乙丑、祟明門へ車牛を揃え、後宮のうち無用の者を選び、その車へ乗せて実家へ返すよう、役人に命じた。勅して、言った。
35乙亥,吐蕃將坌達延、乞力徐帥衆十萬寇臨洮,軍蘭州,至于渭源,掠取牧馬。命薛訥白衣攝左羽林將軍,爲隴右防禦使。以右驍衞將軍常樂郭知運爲副使,與太僕少卿王晙帥兵撃之。辛巳,大募勇士,詣河、隴就訥教習。35.乙亥、吐蕃の将坌達延、乞力徐が十万の部下を率いて臨洮に来寇した。蘭州へ屯営して渭源へ至り、牧馬を掠取する。薛訥を白衣摂左羽林将軍として隴右防禦使とし、右驍衛将軍の常楽の郭知運を副使とし、太僕少卿王晙とともに兵を率いてこれを攻撃させた。
初,鄯州都督楊矩以九曲之地與吐蕃,其地肥饒。吐蕃就之畜牧,因以入寇,矩悔懼自殺。
36乙酉,太子賓客薛謙光獻武后所製豫州鼎銘,其末云:「上玄降鑒,方建隆基。」以爲上受命之符。姚崇表賀,且請宣示史官,頒告中外。36.乙酉、太子賓客薛謙光が、武后の作った豫州鼎銘を献上した。その末には、次のように書いてあった。
臣光曰:日食不驗,太史之過也;而君臣相賀,是誣天也。采偶然之文以爲符命,小臣之諂也;而宰相因而實之,是侮其君也。上誣於天,下侮其君,以明皇之明,姚崇之賢,猶不免於是,豈不惜哉!
37九月,戊申,上幸驪山温湯。37.九月、戊申、上が驪山の温泉へ御幸した。
38敕以歳稔傷農,令諸州脩常平倉法;江、嶺、淮、浙、劍南地下濕,不堪貯積,不在此例。38.今年は豊作だったので、穀物の値段が下がって農家へ打撃を与えてはいけないので、諸州へ常平倉法を修めるよう、勅にて命じた。ただ、江・嶺・淮・浙・剣南は地面が湿潤で、穀物の貯蔵に適していないので、例外とする。
39突厥可汗默啜衰老,昏虐愈甚;壬子,葛邏祿等部落詣涼州降。39.突厥可汗黙啜は耄碌して、昏虐がますます激しくなった。
40冬,十月,吐蕃復寇渭源。丙辰,上下詔欲親征,發兵十餘萬人,馬四萬匹。40.冬、十月、吐蕃が再び渭源に来寇した。
41戊午,上還宮。41.戊午、上が宮殿に帰った。
42甲子,薛訥與吐蕃戰於武街,大破之。時太僕少卿隴右羣牧使王晙帥所部二千人與訥會撃吐蕃。坌達延將吐蕃兵十萬屯大來谷,晙選勇士七百,衣胡服,夜襲之,多置鼓角於其後五里,前軍遇敵大呼,後人鳴鼓角以應之。虜以爲大軍至,驚懼,自相殺傷,死者萬計。訥時在武街,去大來谷二十里,虜軍塞其中間;晙復夜出襲之,虜大潰,始得與訥軍合。追奔至洮水,復戰於長城堡,又敗之,前後殺獲數萬人。豐安軍使王海賓戰死。42.甲子、武街にて、薛訥が突厥と戦い、これを大いに破った。
戊辰,姚崇、盧懷愼等奏:「頃者吐蕃以河爲境,神龍中尚公主,遂踰河築城,置獨山、九曲兩軍,去積石三百里,又於河上造橋。今吐蕃既叛,宜毀橋拔城。」從之。
以王海賓之子忠嗣爲朝散大夫、尚輦奉御,養之宮中。
43己巳,突厥可汗默啜又遣使求婚,上許以來歳迎公主。43.己巳、突厥可汗黙啜が再び使者を派遣して通婚を求めた。上は、来年公主を迎えることを許した。
44突厥十姓胡祿屋等諸部詣北庭請降,命都護郭虔瓘撫存之。44.突厥の十姓胡禄屋等の諸部が、北庭を詣でて降伏を請うた。都護郭虔瓘にこれを撫存するよう命じた。
45乙酉,命左驍衞郎將尉遲瓌使于吐蕃,宣慰金城公主。吐蕃遣其大臣宗俄因矛至洮水請和,用敵國禮;上不許。自是連歳犯邊。45.乙酉、左驍衛郎将尉遅瓌を吐蕃への使者に命じ、金城公主を宣慰した。
46十一月,辛卯,葬殤皇帝。46.十一月、辛卯、殤皇帝を葬った。
47丙申,遣左散騎常侍解琬詣北庭宣慰突厥降者,隨便宜區處。47.丙申、左散騎常侍解琬を北庭へ派遣し、突厥から降伏した者を宣慰した。細かいことは、彼の便宜に任せた。
48十二月,壬戌,沙陀金山入朝。48.十二月、壬戌、沙陀金山が入朝した。
49甲子,置隴右節度大使,領鄯、奉、河、渭、蘭、臨、武、洮、岷、郭、疊、宕十二州,以隴右防禦副使郭知運爲之。49.甲子、隴右節度使を設置し、鄯、奉、河、渭、蘭、臨、武、洮、岷、郭、疊、宕十二州を領知させた。隴右防禦使郭知運をこれに任命した。
50乙丑,立皇子嗣眞爲鄫王,嗣初爲鄂王,嗣主爲鄄王。辛巳,立郢王嗣謙爲皇太子。嗣眞,上之長子,母曰劉華妃。嗣謙,次子也,母曰趙麗妃;麗妃以倡進,有寵於上,故立之。50.乙丑、皇子嗣真を鄫に、嗣初を鄂王に、嗣主を鄄王に立てた。
51是歳,置幽州節度、經略、鎭守大使,領幽、易、平、檀、嬀、燕六州。51.この年、幽州節度使、経略、鎮守大使を立て、幽・易・平・檀・為(「女/為」)・燕六州を領知させた。
52突騎施可汗守忠之弟遮弩恨所分部落少於其兄,遂叛入突厥,請爲郷導,以伐守忠。默啜遣兵二萬撃守忠,虜之而還。謂遮弩曰:「汝叛其兄,何有於我!」遂并殺之。52.突騎施可汗守忠の弟遮弩は、配下の部落が兄よりも少ないのを恨み、ついに叛いて突厥に入った。守忠討伐の道案内役を請うた。
三年(乙卯、七一五)1.春、正月、癸卯、盧懐慎を検校吏部尚書兼黄門監とした。懐慎は清謹倹素で私利を営まず、卿相という貴い身分になりながらも俸禄は親戚や旧知の者に分け与えたので、妻子は飢寒を免れなかったし、住居は雨風が漏れていた。
1春,正月,癸卯,以盧懷愼檢校吏部尚書兼黄門監。懷愼清謹儉素,不營資産,雖貴爲卿相,所得俸賜,隨散親舊。妻子不免飢寒,所居不蔽風雨。
姚崇嘗有子喪,謁告十餘日,政事委積。懷愼不能決,惶恐,入謝於上。上曰:「朕以天下事委姚崇,以卿坐鎭雅俗耳。」崇既出,須臾,裁決倶盡,頗有得色,顧謂紫微舍人齊澣曰:「余爲相,可比何人?」澣未對,崇曰:「何如管、晏?」澣曰:「管、晏之法雖不能施於後,猶能沒身。公所爲法,隨復更之,似不及也。」崇曰:「然則竟如何?」澣曰:「公可謂救時之相耳。」崇喜,投筆曰:「救時之相,豈易得乎!」
懷愼與崇同爲相,自以才不及崇,毎事推之,時人謂之「伴食宰相」。
臣光曰:昔鮑叔之於管仲,子皮之於子産,皆位居其上,能知其賢而下之,授以國政;孔子美之。曹參自謂不及蕭何,一遵其法,無所變更;漢業以成。夫不肖用事,爲其僚者,愛身保祿而從之,不顧國家之安危,是誠罪人也。賢智用事,爲其僚者,愚惑以亂其治,專固以分其權,媢嫉以毀其功,愎戻以竊其名,是亦罪人也。崇,唐之賢相,懷愼與之同心戮力,以濟明皇太平之政,夫何罪哉!秦誓曰:「如有一介臣,斷斷猗,無他技;其心休休焉,其如有容;人之有技,若己有之,人之彦聖,其心好之,不啻如自其口出,是能容之,以保我子孫黎民,亦職有利哉。」懷愼之謂矣。
2御史大夫宋璟坐監朝堂杖人杖輕,貶睦州刺史。2.御史大夫宋璟は、朝堂で罪人を杖で打つときにその打ち方が軽かったことに連座して、睦州刺史に左遷された。
3突厥十姓降者前後萬餘帳。高麗莫離支文簡,十姓之壻也,二月,與[足夾]跌都督思泰等亦自突厥帥衆來降;制皆以河南地處之。3.突厥の十姓から降伏する者が、前後で一万余帳に及んだ。高麗の莫離支文簡は十姓の婿である。二月、彼は[足夾]跌都督思泰羅もまた、突厥から衆人を率いて来降した。
4三月,胡祿屋酋長支匐忌等入朝。上以十姓降者浸多,夏,四月,庚申,以右羽林大將軍薛訥爲涼州鎭大總管,赤水等軍並受節度,居涼州;左衞大將軍郭虔瓘爲朔州鎭大總管,和戎等軍並受節度,居并州,勒兵以備默啜。4.胡禄屋の酋長支匐忌羅が入朝した。
默啜發兵撃葛邏祿、胡祿屋、鼠尼施等,屢破之;敕北庭都護湯嘉惠、左散騎常侍解琬等發兵救之。五月,壬辰,敕嘉惠等與葛邏祿、胡祿屋、鼠尼施及定邊道大總管阿史那獻互相應援。
5山東大蝗,民或於田旁焚香膜拜設祭而不敢殺,姚崇奏遣御史督州縣捕而瘞之。議者以爲蝗衆多,除不可盡;上亦疑之。崇曰:「今蝗滿山東,河南、北之人,流亡殆盡,豈可坐視食苗,曾不救乎!借使除之不盡,猶勝養以成災。」上乃從之。盧懷愼以爲殺蝗太多,恐傷和氣。崇曰:「昔楚莊呑蛭而愈疾,孫叔殺蛇而致福,奈何不忍於蝗,而忍人之飢死乎!若使殺蝗有禍,崇請當之。」5.山東で蝗が大発生した。民はあるいは田の側で香を焚き、祭壇を設けて拝むだけで、これを殺さなかった。姚崇は、御史を派遣して州刺史や県令を監督させて、これらを捕らえて埋めるさせるよう上奏した。これを協議したところ、「蝗が多すぎて駆逐し尽くすことはできない」という意見が多く、上もその成果に疑いを持った。すると、祟は言った。
6秋,七月,庚辰朔,日有食之。6.秋、七月、庚辰朔、日食が起こった。
7上謂宰相曰:「朕毎讀書有所疑滯,無從質問;可選儒學之士,日使入内侍讀。」盧懷愼薦太常卿馬懷素,九月,戊寅,以懷素爲左散騎常侍,使與右散騎常侍褚無量更日侍讀。毎至閤門,令乘肩輿以進;或在別館道遠,聽於宮中乘馬。親送迎之,待以師傅之禮。以無量羸老,特爲之造腰輿,在内殿令内侍舁之。7.上が宰相に言った。
8九姓思結都督磨散等來降;己未,悉除官遣還。8.九姓思結都督の磨散らが来降した。己未、全員へ官を与えて帰した。
9西南蠻寇邊,遣右驍衞將軍李玄道發戎、瀘、夔、巴、梁、鳳等州兵三萬人並舊屯兵討之。9.西南蛮が辺境を荒らした。右驍衛将軍李玄道を派遣し、戎、濾、夔、巴、梁、鳳などの州兵三万人を徴発し、旧屯兵と共にこれを討伐させた。
10壬戌,以涼州大總管薛訥爲朔方道行軍大總管,太僕卿呂延祚、靈州刺史杜賓客副之,以討突厥。10.壬戌、涼州大都督薛訥を朔方道行軍大総管とし、太僕卿呂延祚、霊州刺史杜賓客を副官として、突厥を討伐させた。
11甲子,上幸鳳泉湯;十一月,己卯,還京師。11.甲子、上が鳳泉湯へ御幸した。十一月、乙卯、京師に帰った。
12劉幽求自杭州剌史徙郴州剌史,憤恚,甲申,卒于道。12.劉幽求が抗州刺史から郴州刺史に転任となった。幽求は憤り、甲申、途上で卒した。
13丁酉,以左羽林大將軍郭虔瓘兼安西大都護、四鎭經略大使。虔瓘請自募關中兵萬人詣安西討撃,皆給遞馱及熟食;敕許之。將作大匠韋湊上疏,以爲:「今西域服從,雖或時有小盜竊,舊鎭兵足以制之。關中常宜充實,以強幹弱枝。自頃西北二虜寇邊,凡在丁壯,征行略盡,豈宜更募驍勇,遠資荒服!又,一萬征人行六千餘里,咸給遞馱熟食,道次州縣,將何以供!秦、隴之西,戸口漸少,涼州已往,沙磧悠然,遣彼居人,如何取濟?縱令必克,其獲幾何?儻稽天誅,無乃甚損!請計所用、所得,校其多少,則知利害。昔唐堯之代,兼愛夷、夏,中外乂安;漢武窮兵遠征,雖多克獲,而中國疲耗。今論帝王之盛德者,皆歸唐堯,不歸漢武;況邀功不成者,復何足比議乎!」時姚崇亦以虔瓘之策爲不然。既而虔瓘卒無功。13.丁酉、左羽林大将軍郭虔瓘に安西大都護、四鎮経略大使を兼務させた。虔瓘は自身が関中で兵一万人を募り、安西へ行って討撃することと、沿線で馬や牛を徴発して機材を運ばせ、兵達へは調理した食糧を支給することを請うた。勅にて、これを許した。
14初,監察御史張孝嵩奉使廓州還,陳磧西利害,請往察其形勢;上許之,聽以便宜從事。14.話は遡るが、監察御史張孝嵩が皇帝の使者として廓州へ行った。彼は都へ帰ってくると、磧西の利害を説き、その形勢を調べる為に現地へ行きたいと請うた。上はこれを許し、適宜な処理を行う為の独断権を与えた。
抜汗那者,古烏孫也,内附歳久。吐蕃與大食共立阿了達爲王,發兵攻之,抜汗那王兵敗,奔安西求救。孝嵩謂都護呂休璟曰:「不救則無以號令西域。」遂帥旁側戎落兵萬餘人,出龜茲西數千里,下數百城,長驅而進。是月,攻阿了達于連城。孝嵩自擐甲督士卒急攻,自巳至酉,屠其三城,俘斬千餘級,阿了達與數騎逃入山谷。孝嵩傳檄諸國,威振西域,大食、康居、大宛、罽賓等八國皆遣使請降。會有言其贓汚者,坐繋涼州獄,貶靈州兵曹參軍。
15京兆尹崔日知貪暴不法,御史大夫李傑將糾之,日知反構傑罪。十二月,侍御史楊瑒廷奏曰:「若糾彈之司,使姦人得而恐愒,則御史臺可廢矣。」上遽命傑視事如故,貶日知爲歙縣丞。15.京兆尹崔日知は貪欲横暴で法を踏みにじっていた。御史大夫李傑がこれを糾弾しようとすると、日知は先手を打って傑を告発した。
16或上言:「按察使徒煩擾公私,請精簡刺史、縣令,停按察使。」上命召尚書省官議之。姚崇以爲:「今止擇十使,猶患未盡得人,況天下三百餘州,縣多數倍,安得刺史縣令皆稱其職乎!」乃止。16.ある者が上言した。
17尚書左丞韋玢奏:「郎官多不舉職,請沙汰,改授他官。」玢尋出爲刺史,宰相奏擬冀州,敕改小州。姚崇奏言:「臺郎寬怠及不稱職,玢請沙汰,乃是奉公。臺郎甫爾改官,玢即貶黜於外,議者皆謂郎官謗傷。臣恐後來左右丞指以爲戒,則省事何從而舉矣!伏望聖慈祥察,使當官者無所疑懼。」乃除冀州刺史。17.尚書左丞韋玢が上奏した。
18突騎施守忠既死,默啜兵還,守忠部將蘇祿鳩集餘衆,爲之酋長。蘇祿頗善綏撫,十姓部落稍稍歸之,有衆二十萬,遂據有西方,尋遣使入見。是歳,以蘇祿爲左羽林大將軍、金方道經略大使。18.突騎施守忠が死ぬと、黙啜は撤兵した。守忠の部将蘇禄は敗残兵をかき集め、これの酋長となった。蘇禄は部下を良く慰撫したので十姓部落は次第に彼へ帰順していき、その民は二十万に膨れ上がった。彼は遂に西方に割拠し、使者を派遣して入見した。
19皇后妹夫尚衣奉御長孫昕以細故與御史大夫李傑不協。19.皇后の妹の夫の尚衣奉御長孫昕は、些細なことで御史大夫李傑と仲違いをした。
四年(丙辰、七一六)1.春、正月、昕とその妹婿楊仙玉が町中で傑をつけねらって殴りつけた。傑は上表して自ら訴えた。
1春,正月,昕與其妹夫楊仙玉於里巷伺傑而毆之。傑上表自訴曰:「髮膚見毀,雖則痛身,冠冕被陵,誠爲辱國。」上大怒,命於朝堂杖殺,以謝百僚,仍以敕書慰傑曰:「昕等朕之密戚,不能訓導,使陵犯衣冠,雖寘以極刑,未足謝罪。卿宜以剛腸疾惡,勿以凶人介意。」
2丁亥,宋王成器更名憲,申王成義更名撝。2.丁亥、宋王成器を憲と、申王成義を撝と改名した。
3乙酉,隴右節度使郭虔瓘奏,奴石良才等八人皆有戰功,請除游撃將軍。敕下,盧懷愼等奏曰:「郭虔瓘恃其微效,輒侮彝章,爲奴請五品,實亂綱紀,不可許。」上從之。3.乙酉、隴右節度使郭虔瓘が、「石良才ら八人に戦功があったので、游撃将軍に昇格させたい」と上奏した。勅が下ると、盧懐慎らが上奏した。
4丙午,以鄫王嗣眞爲安北大都護、安撫河東・關内・隴右諸蕃大使,以安北大都護張知運爲之副。陝王嗣昇爲安西大都護、安撫河西四鎭諸蕃大使,以安西都護郭虔瓘爲之副。二王皆不出閤。諸王遙領節度自此始。4.丙午、鄫王嗣真を安北大都護、安撫河東・関内・隴右諸蕃大使とし、安北大都護張知運を副官とした。陜王嗣昇を安西大都護、安撫河西四鎮諸蕃大使とし、安西大都護郭虔瓘を副官とした。
5二月,丙辰,上幸驪山温湯。5.二月、丙辰、上が驪山の温泉へ御幸した。
6吐蕃圍松州。6.吐蕃が松州を包囲した。
7丁卯,上還宮。7.丁卯、上が宮殿に帰った。
8辛未,以尚書右丞倪若水爲汴州刺史兼河南採訪使。8.辛未、尚書右丞倪若水を汴州刺史兼河南采訪使とした。
上雖欲重都督、刺史,選京官才望者爲之,然當時士大夫猶輕外任。揚州採訪使班景倩入爲大理少卿,過大梁,若水餞之行,立望其行塵,久之乃返,謂官屬曰:「班生此行,何異登仙!」
9癸酉,松州都督孫仁獻襲撃吐蕃於城下,大破之。9.癸酉、松州都督孫仁献が、城下にて吐蕃を襲撃し、これを大いに破った。
10上嘗遣宦官詣江南取鵁鶄、鸂鷘等,欲置苑中,使者所至煩擾。道過汴州,倪若水上言:「今農桑方急,而羅捕禽鳥以供園池之翫,遠自江、嶺,水陸傳送,食爲粱肉。道路觀者,豈不以陛下爲賤人而貴鳥乎!陛下方當以鳳凰爲凡鳥,麒麟爲凡獸,況鵁鶄、鸂鷘,曷足貴也!」上手敕謝若水,賜帛四十段,縱散其鳥。10.上はかつて、鵁鶄や鸂鷘等の鳥を苑中へ置きたくて、宦官を江南へ派遣してかき集めさせた。この使者が通過する途中、その饗応に多くの浪費がかかった。彼等が汴州を行き過ぎたとき、若水が上言した。
11山東蝗復大起,姚崇又命捕之。倪若水謂:「蝗乃天災,非人力所及,宜脩德以禳之。劉聰時,常捕埋之,爲害益甚。」拒御史,不從其命。崇牒若水曰:「劉聰僞主,德不勝妖;今日聖朝,妖不勝德。古之良守,蝗不入境。若其脩德可免,彼豈無德致然!」若水乃不敢違。夏,五月,甲辰,敕委使者詳察州縣捕蝗勤惰者,各以名聞。由是連歳蝗災,不至大飢。11.山東で、再び蝗の害が起こったので、姚崇が再びこれを捕らえるよう命じた。すると、倪若水が言った。
12或言於上曰:「今歳選敍大濫,縣令非才。」及入謝,上悉召縣令於宣政殿庭,試以理人策。惟鄄城令韋濟詞理第一,擢爲醴泉令。餘二百餘人不入第,且令之官;四十五人放歸學問。吏部侍郎盧從愿左遷豫州剌史,李朝隱左遷滑州刺史。從愿典選六年,與朝隱皆名稱職。初,高宗之世,馬載、裴行檢在吏部,最有名,時人稱吏部前有馬、裴,後有盧、李。濟,嗣立之子也。12.ある者が上言した。
13有胡人上言海南多珠翠奇寶,可往營致,因言市舶之利;又欲往師子國求靈藥及善醫之嫗,寘之宮掖。上命監察御史楊範臣與胡人偕往求之,範臣從容奏曰:「陛下前年焚珠玉、錦繍,示不復用。今所求者何以異於所焚者乎!彼市舶與商賈爭利,殆非王者之體。胡藥之性,中國多不能知;況於胡嫗,豈宜寘之宮掖!夫御史,天子耳目之官,必有軍國大事,臣雖觸冒炎瘴,死不敢辭。此特胡人眩惑求媚,無益聖德,竊恐非陛下之意,願熟思之。」上遽自引咎,慰諭而罷之。13.ある胡人が、「南海には真珠や翡翠などの奇宝が多い。貿易すれば儲かる。また、師子国へ行けば霊薬や名医の媼がいるので、宮殿へ持ってくればよい」と上言した。上は監察御史楊範臣へ、胡人と共に南海へ行って求めてくるよう命じた。範臣はくつろいだ時に上奏した。
14六月,癸亥,上皇崩于百福殿。己巳,以上女萬安公主爲女官,欲以追福。14.六月、癸亥、上皇が百福殿にて崩御した。己巳、上の娘の万安公主を女官として、追福した。
15癸酉,拔曳固斬突厥可汗默啜首來獻。時默啜北撃拔曳固,大破之於獨樂水,恃勝輕歸,不復設備,遇拔曳固迸卒頡質略,自柳林突出,斬之。時大武軍子將郝靈荃奉使在突厥,頡質略以其首歸之,與偕詣闕,懸其首於廣街。拔曳固、回紇、同羅、霫、僕固五部皆來降,置於大武軍北。15.癸酉、抜曳固が突厥可汗の黙啜の首を斬り、献上した。
默啜之子小可汗立,骨咄祿之子闕特勒撃殺之,及默啜諸子、親信略盡;立其兄左賢王默棘連,是爲毗伽可汗,國人謂之「小殺」。毗伽以國固讓闕特勒,闕特勒不受;乃以爲左賢王,專典兵馬。
16秋,七月,壬辰,太常博士陳貞節、蘇獻以太廟七室已滿,請遷中宗神主於別廟,奉睿宗神主祔太廟;從之。又奏遷昭成皇后祔睿宗室,肅明皇后留祀於儀坤廟。八月,乙巳,立中宗廟於太廟之西。16.秋、七月、壬辰、太常博士陳貞節、蘇献は太廟の七室が一杯になったので、中宗の神主を別廟へ移し、睿宗の神主を太廟へ入れるよう請願した。これに従った。
17辛未,契丹李失活、奚李大酺帥所部來降。制以失活爲松漠郡王、行左金吾大將軍兼松漠都督,因其八部落酋長,拜爲刺史;又以將軍薛泰督軍鎭撫之。大酺爲饒樂郡王、行右金吾大將軍兼饒樂都督。失活,盡忠之從父弟也。17.辛未、契丹の李失活、奚の李大酺が部落を率いて来降した。
18吐蕃復請和,上許之。18.吐蕃が再び講和を請うた。上はこれを許した。
19突厥默啜既死,奚、契丹、拔曳固等諸部皆内附,突騎施蘇祿復自立爲可汗。突厥部落多離散,毗伽可汗患之,乃召默啜時牙官暾欲谷,以爲謀主。暾欲谷年七十餘,多智略,國人信服之,突厥降戸處河曲者,聞毗伽立,多復叛歸之。19.突厥の黙啜が死ぬと、 奚、抜曳固、契丹羅の諸部が皆、帰順した。突騎施の蘇禄もまた、自立して可汗となる。突厥は多くの部落が離散して、毗伽可汗はこれを患った。そこで、黙啜の時の牙官の暾欲谷を招き寄せて謀主とした。暾欲谷は年齢七十余、知略が多く、国人から信服されていた。
并州長史王晙上言:「此屬徒以其國喪亂,故相帥來降;若彼安寧,必復叛去。今置之河曲,此屬桀黠,實難制御,往往不受軍州約束,興兵剽掠;聞其逃者已多與虜聲問往來,通傳委曲。乃是畜養此屬使爲間諜,日月滋久,姦詐逾深,窺伺邊隙,將成大患。虜騎南牧,必爲内應,來逼軍州,表裏受敵,雖有韓、彭,不能取勝矣。願以秋、冬之交,大集兵衆,諭以利害,給其資糧,徙之内地。二十年外,漸變舊俗,皆成勁兵;雖一時暫勞,然永久安靖。比者守邊將吏及出境使人,多爲諛辭,皆非事實,或云北虜破滅,或云降戸妥帖,皆欲自衒其功,非能盡忠徇國。願察斯利口,忽忘遠慮。議者必曰:『國家曏時已嘗置降戸於河曲,皆獲安寧,今何所疑!』此則事同時異,不可不察。曏者,頡利既亡,降者無復異心,故得久安無變。今北虜尚存,此屬或畏其威,或懷其惠,或其親屬,豈樂南來!較之彼時,固不侔矣。以臣愚慮,徙之内地,上也;多屯士馬,大爲之備,華、夷相參,人勞費廣,次也;正如今日,下也。願審茲三策,擇利而行,縱使因徙逃亡,得者皆爲唐有;若留至河冰,恐必有變。」
疏奏,未報;降戸[足夾]跌思泰、阿悉爛等果叛。冬,十月,甲辰,命朔方大總管薛訥發兵追討之。王晙引并州兵西濟河,晝夜兼行,追撃叛者,破之,斬獲三千級。
先是,單于副都護張知運悉收降戸兵仗,令渡河而南,降戸怨怒。御史中丞姜晦爲巡邊使,降戸訴無弓矢,不得射獵,晦悉還之;降戸得之,遂叛。張知運不設備,與之戰於靑剛嶺,爲虜所擒,欲送突厥;至綏州境,將軍郭知運以朔方兵邀撃之,大破其衆於黑山呼延谷,虜釋張知運而去。上以張知運喪師,斬之以徇。
毗伽可汗既得思泰等,欲南入爲寇。暾欲谷曰:「唐主英武,民和年豐,未有間隙,不可動也。我衆新集,力尚疲羸,且當息養數年,始可觀變而舉。」毗伽又欲築城,并立寺觀,暾欲谷曰:「不可。突厥人徒稀少,不及唐家百分之一,所以能與爲敵者,正以逐水草,居處無常,射獵爲業,人皆習武,強則進兵抄掠,弱則竄伏山林。唐兵雖多,無所施用。若築城而居,變更舊俗,一朝失利,必爲所滅。釋、老之法,教人仁弱,非用武爭勝之術,不可崇也。」毗伽乃止。
20庚午,葬大聖皇帝于橋陵,廟號睿宗。御史大夫李傑護橋陵作,判官王旭犯贓,傑按之,反爲所構,左遷衢州刺史。20.庚午、大聖皇帝を橋陵へ葬った。廟号は睿宗。
21十一月,己卯,黄門監盧懷愼疾亟,上表薦宋璟、李傑、李朝隱、盧從愿並明時重器,所坐者小,所棄者大,望垂矜録;上深納之。乙未,薨。家無餘蓄,惟一老蒼頭,請自鬻以辦喪事。21.十一月、己卯、黄門監盧懐慎の病気が重くなった。彼は、上表して、宋璟、李傑、李朝隠、盧従愿を推薦した。彼らはみな、大臣の器であり、些細な罪をあげつらって彼らを左遷したのは大きな損失なので、もう一度登用するよう請願した。上は、これを深く納れた。
22丙申,以尚書左丞源乾曜爲黄門侍郎、同平章事。22.丙申、尚書左丞源乾曜を黄門侍郎、同平章事とした。
姚崇無居第,寓居罔極寺,以病痁謁告。上遣使問飲食起居状,日數十輩。源乾曜奏事或稱旨,上輒曰:「此必姚宗之謀也。」或不稱旨,輒曰:「何不與姚崇議之!」乾曜常謝實然。毎有大事,上常令乾曜就寺問崇。癸卯,乾曜請遷崇於四方館,仍聽家人入侍疾;上許之。崇以四方館有簿書,非病者所宜處,固辭。上曰:「設四方館,爲官吏也;使卿居之,爲社稷也。恨不可使卿居禁中耳,此何足辭!」
崇子光祿少卿彝、宗正少卿异,廣通賓客,頗受饋遺,爲時所譏。主書趙誨爲崇所親信,受胡人賂,事覺,上親鞫問,下獄當死。崇復營救,上由是不悅。會曲赦京城,敕特標誨名,杖之一百,流嶺南。崇由是憂懼,數請避相位,薦廣州都督宋璟自代。
十二月,上將幸東都,以璟爲刑部尚書、西京留守,令馳驛詣闕,遣内侍、將軍楊思勗迎之。璟風度凝遠,人莫測其際,在塗竟不與思勗交言。思勗素貴幸,歸,訴於上,上嗟歎良久,益重璟。
23丙辰,上幸驪山温湯;乙丑,還宮。23.丙辰、上が驪山の温泉に御幸した。乙丑、宮殿に帰った。
24閏月,己亥,姚崇罷爲開府儀同三司,源乾曜罷爲京兆尹、西京留守,以刑部尚書宋璟守吏部尚書兼黄門監,紫微侍郎蘇頲同平章事。24.閏月己亥、姚崇が辞任して開府儀同三司となり、源乾曜が辞任して京兆尹・西京留守となった。刑部尚書宋璟を守吏部尚書兼黄門監、紫微侍郎蘇頲を同平章事とした。
璟爲相,務在擇人,隨材授任,使百官各稱其職;刑賞無私,敢犯顏正諫。上甚敬憚之,雖不合意,亦曲從之。
突厥默啜自則天世爲中國患,朝廷旰食,傾天下之力不能克;郝靈荃得其首,自謂不世之功。璟以天子好武功,恐好事者競生心徼倖,痛抑其賞,踰年始授郎將;靈荃慟哭而死。
璟與蘇頲相得甚厚,頲遇事多讓於璟,璟毎論事則頲爲之助。璟嘗謂人曰:「吾與蘇氏父子皆同居相府,僕射寬厚,誠爲國器,然獻可替否,吏事精敏,則黄門過其父矣。」
姚、宋相繼爲相,崇善應變成務,璟善守法持正;二人志操不同,然協心輔佐,使賦役寬平,刑罰清省,百姓富庶。唐世賢相,前稱房、杜,後稱姚、宋,他人莫得比焉。二人毎進見,上輒爲之起,去則臨軒送之。及李林甫爲相,雖寵任過於姚、宋,然禮遇殊卑薄矣。紫微舍人高仲舒博通典籍,齊澣練習時務,姚、宋毎坐二人以質所疑,既而歎曰:「欲知古,問高君,欲知今,問齊君,可以無闕政矣。」
25辛丑,罷十道按察使。25.辛午、十道按察使を廃止した。
26舊制,六品以下官皆委尚書省奏擬。是歳,始制員外郎、御史、起居、遺、補不擬。26.旧制では、六品以下の官は皆尚書省の奏擬へ委ねていたが、この年、始めて員外郎、御史、起居、遺はこれから外すようになった。
五年(丁巳、七一七)1.春、正月、癸卯、太廟の四室が壊れた。上は素服で正殿へ避難した。
1春,正月,癸卯,太廟四室壞,上素服避正殿。時上將幸東都,以問宋璟、蘇頲,對曰:「陛下三年之制未終,遽爾行幸,恐未契天心,災異爲戒;願且停車駕。」又問姚崇,對曰:「太廟屋材,皆苻堅時物,歳久朽腐而壞,適與行期相會,何足異也!且王者以四海爲家,陛下以關中不稔幸東都,百司供擬已備,不可失信;但應遷神主於太極殿,更脩太廟,如期自行耳。」上大喜,從之。賜崇絹二百匹。己酉,上行享禮於太極殿,命姚崇五日一朝,仍入閤供奉,恩禮更厚,有大政輒訪焉。右散騎常侍褚無量上言:「隋文帝富有天下,遷都之日,豈取苻氏舊材以立太廟乎!此特諛臣之言耳。願陛下克謹天戒,訥忠諫,遠諂諛。」上弗聽。
辛亥,行幸東都。達崤谷,道隘不治;上欲免河南尹及知頓使官,宋璟諫曰:「陛下方事巡幸,今以此罪二臣,臣恐將來民受其弊。」上遽命釋之。璟曰:「陛下罪之,以臣言而免之,是臣代陛下受德也;請令待罪朝堂而後赦之。」上從之。
二月,甲戌,至東都,赦天下。
2奚、契丹既内附,貝州刺史宋慶禮建議,請復營州。三月,庚戌,制復置營州都督於柳城,兼平盧軍使,管内州縣鎭戍皆如其舊;以太子詹事姜師度爲營田、支度使,與慶禮等築之,三旬而畢。慶禮清勤嚴肅,開屯田八十餘所,招安流散,數年之間,倉廩充實,市里浸繁。2.奚と契丹が帰順すると、貝州刺史宋慶礼が営州を復活させるよう建議した。
3夏,四月,甲戌,賜奚王李大酺妃辛氏號固安公主。3.夏、四月、甲戌、奚王李大酺の妃の辛氏に固安公主の称号を賜った。
4己丑,皇子嗣一卒,追立爲夏王,謚曰悼。嗣一母武惠妃,攸止之女也。4.己丑、皇子嗣一が卒した。夏王に追立し、悼と諡した。嗣一の母は武恵妃。攸止の娘である。
5突騎施酋長左羽林大將軍蘇祿部衆浸強,雖職貢不乏,陰有窺邊之志。五月,十姓可汗阿史那獻欲發葛邏祿兵撃之,上不許。5.突騎施酋長の左羽林大将軍蘇禄の部落が次第に強大になっていった。朝貢の態度は十分だったが、近隣を併呑しようという野望を密かに持っていた。
6初,上微時,與太常卿姜皎親善,及誅竇懷貞等,皎預有功。由是寵遇羣臣莫及,常出入臥内,與后妃連榻宴飲,賞賜不可勝紀。弟晦,亦以皎故累遷吏部侍郎。宋璟言皎兄弟權寵太盛,非所以安之,上亦以爲然。秋,七月,庚子,以晦爲宗正卿,因下制曰:「西漢諸將,以權貴不全;南陽故人,以優閒自保。皎宜放歸田園,散官、勳、封皆如故。」6.まだ上が微賤だった頃、太常卿姜皎と仲が善かった。竇懐貞等を誅殺する時に皎は功績があり、以来、彼の寵遇は群臣も及ばなくなる。いつも共に出入りして内にて同室に寝、后妃と共に宴遊して、数え切れないほどの賞を賜る。弟の晦は皎の縁故で累遷して吏部侍郎となった。
7壬寅,隴右節度使郭知運大破吐蕃於九曲。7.壬寅、隴右節度使郭知運が九曲にて吐蕃を大破する。
8安西副大都護湯嘉惠奏突騎施引大食、吐蕃,謀取四鎭,圍鉢換及大石城,已發三姓葛邏祿兵與阿史那獻撃之。8.安西副大都護湯嘉恵が上奏した。
9并州長史張嘉貞上言:「突厥九姓新降者,散居太原以北,請宿重兵以鎭之。」辛酉,置天兵軍於并州,集兵八萬,以嘉貞爲天兵軍大使。9.并州長史張嘉貞が上言した。
10太常少卿王仁惠等奏則天立明堂不合古制;又,明堂尚質,而窮極奢侈,密邇宮掖,人神雜擾。甲子,制復以明堂爲乾元殿,冬至、元日受朝賀,季秋大享,復就圜丘。10.太常少卿王仁恵が上奏した。
11九月,中書、門下省及侍中皆復舊名。11.九月、中書、門下省及び侍中をみな、旧名に戻した。
12貞觀之制,中書、門下及三品官入奏事,必使諫官、史官隨之,有失則匡正,美惡必記之;諸司皆於正牙奏事,御史彈百官,服豸冠,對仗讀彈文;故大臣不得專君而小臣不得爲讒慝。及許敬宗、李義府用事,政多私僻,奏事官多俟仗下,於御坐前屏左右密奏,監奏御史及待制官遠立以俟其退;諫官、御史皆隨仗出,仗下後事,不復預聞。武后以法制羣下,諫官、御史得以風聞言事,自御史大夫至監察得互相彈奏,率以險詖相傾覆。及宋璟爲相,欲復貞觀之政,戊申,制:「自今事非的須秘密者,皆令對仗奏聞,史官自依故事。」12.貞観の制度では、中書、門下及び三品官が入奏する時は、必ず諫官と史官を随従させ、過失があれば矯正させ、美も悪も必ず記載することになっていた。諸司は皆、正牙に於いて事を奏し、御史が百官を弾劾する時には、法冠を服し武器へ対して弾劾文を読んだ。これらの制度のおかげで、大臣は主君を独占できず、小臣は讒言や隠匿ができなかった。
13冬,十月,癸酉,伊闕人孫平子上言:「春秋譏魯躋僖公;今遷中宗於別廟而祀睿宗,正與魯同。兄臣於弟,猶不可躋,況弟臣于兄,可躋之於兄上乎!若以兄弟同昭,則不應出兄置於別廟。願下羣臣博議,遷中宗入廟。」事下禮官,太常博士陳貞節、馮宗、蘇獻議,以爲:「七代之廟,不數兄弟。殷代或兄弟四人相繼爲君,若數以爲代,則無祖禰之祭矣。今睿宗之室當亞高宗,故爲中宗特立別廟。中宗既升新廟,睿宗乃祔高宗,何嘗躋居中宗之上?而平子引躋僖公爲證,誣罔聖朝,漸不可長。」時論多是平子,上亦以爲然,故議久不決。蘇獻,頲之從祖兄也,故頲右之。卒從禮官議。平子論之不巳,謫爲康州都城尉。13.冬、十月、癸酉、伊闕の人孫平子が上言した。
14新廟成。戊寅,神主祔廟。14.新廟が落成した。戊寅、神主を廟へ入れた。
15上命宋璟、蘇頲爲諸皇子制名及國邑之號,又令別制一佳名及佳號進之。璟等上言:「七子均養,著於國風。今臣等所制名號各三十餘,輒混同以進,以彰陛下覆燾無偏之德。」上甚善之。15.上は、宋璟と蘇頲に諸皇子の制名と国邑の号を決めるよう命じた。また、別に一佳名と佳号を決めて提案するよう命じた。璟らは上言した。
16十一月,丙申,契丹王李失活入朝。十二月,壬午,以東平王外孫楊氏爲永樂公主,妻之。16.十一月、丙申、契丹王李失活が入朝した。
17秘書監馬懷素奏:「省中書散亂訛缺,請選學術之士二十人整比校補。」從之。於是搜訪逸書,選吏繕寫,命國子博士尹知章、桑泉尉韋述等二十人同刊正,以左散騎常侍褚無量爲之使,於乾元殿前編校羣書。
17.秘書監馬懐素が上奏した。
「省中の文書が散乱して欠落が出ております。学術の士二十人を厳選して、これらを整理校補させましょう。」
これに従った。
ここにおいて、逸書を探し回り、吏を選んで修繕写本した。国子博士尹知章、桑泉尉韋述等二十人へ校正させ、左散騎常侍褚無量をこれの使者とし、乾元殿にて群書を編校させた。
翻訳者: 渡邊 省