巻第二百一十二

資治通鑑巻第二百一十二
 唐紀二十八
  玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下
開元六年(戊午、七一八)

 春,正月,辛丑,突厥毗伽可汗來請和;許之。
1.春、正月、辛丑、突厥の毗伽可汗が来て、和を請うた。これを許した。
 廣州吏民爲宋璟立遺愛碑。璟上言:「臣在州無他異迹,今以臣光寵,成彼諂諛;欲革此風,望自臣始,請敕下禁止。」上從之。於是他州皆不敢立。
2.広州の吏民が宋璟のために遺愛碑を立てた。璟は上言した。
「臣は州にいる時に、大きな業績を立てたわけではありません。今、臣が寵用されているので、彼らは諂諛しているのです。臣は、この風潮を改革したいのです。まず、臣から始めましょう。どうか勅を下して禁じてください。」
 上はこれに従った。ここに於いて、他の州でも敢えて立てようとはしなくなった。
 辛酉,敕禁惡錢,重二銖四分以上乃得行。斂人間惡錢熔之,更鑄如式錢。於是京城紛然,賣買殆絶。宋璟、蘇頲請出太府錢二萬緡置南北市,以平價買百姓不售之物可充官用者,及聽兩京百官豫假俸錢,庶使良錢流布人間;從之。
3.辛酉、勅にて悪銭を禁止した。二銖四分以上の物だけ流通を許可した。人々が持っている悪銭はかき集めて溶かし、鋳造し直した。
 ここにおいて京城は大騒動となり、売買が殆ど途絶えてしまった。宋璟と蘇頲は、太府から銭二万緡を出して南北の市へ置き、百姓が売らずにいる物の中で官用に充てられる物は平常の価格で買い入れたり、両京の百官を前払いさせたりして、良銭を民間へ流布させるよう請願した。これに従った。
 二月,戊子,移蔚州橫野軍於山北,屯兵三萬,爲九姓之援;以拔曳固都督頡質略、同羅都督毗伽末啜、霫都督比言、回紇都督夷健頡利發、僕固都督曳勒歌等各出騎兵爲前、後、左、右軍討撃大使,皆受天兵軍節度。有所討捕,量宜追集;無事各歸部落營生,仍常加存撫。
4.二月、戊子、蔚州の横野軍を山北へ移し三万人を屯営させて、九姓の援護とした。抜曳固都護頡質略、同羅都護毗伽末啜、霫都督比言、回紇都督夷建頡利發、僕固都督曳勒歌等が各々騎兵を出して前、後、左、右軍討撃大使となり、皆、天兵軍の指揮下へ入った。軍事行動が起こったら適宜に呼び集め、無事なときには各々部落へ帰して生業を営ませ、常日頃から慰撫させた。
 三月,乙巳,徴嵩山處士盧鴻入見,拜諫議大夫;鴻固辭。
5.三月、乙巳、嵩山の處士盧鴻を召して入見させ、諫議大夫を授けた。鴻は固辞した。
 天兵軍使張嘉貞入朝,有告其在軍奢僭及贓賄者,按驗無状;上欲反坐告者,嘉貞奏曰:「今若罪之,恐塞言路,使天下之事無由上達,願特赦之。」其人遂得減死。上由是以嘉貞爲忠,有大用之意。
6.天兵軍使張嘉貞が入朝した。軍中が分を越えて奢侈になっており、賄賂も横行していると告発する者がいたが、調べてみると事実無根だった。上は、告発した者を罰しようとしたが、嘉貞は言った。
「今、もしも罰したら、人々の口を塞ぐことになります。天下のことを全て上達させる為にも、特にこれを赦してください。」
 その人は、遂に死罪を減じられた。上はこれによって嘉貞を忠義者と判じ、大いに用いようと欲した。
 有薦山人范知璿文學者,并獻其所爲文,宋璟判之曰:「觀其良宰論,頗渉佞諛。山人當極言讜議,豈宜偸合苟容!文章若高,自宜從選舉求試,不可別奏。」
7.山人の范知璿を文学者として推薦する者がおり、あわせて彼の文を献上した。宋璟はそれを判じて言った。「その『良宰論』を読むに、今の宰相を褒めちぎる阿諛追従の文章です。山人は正論を述べ立てるべきです。どうして他人に迎合して地位を得て良いでしょうか!もしも文章が格調高いなら、選挙に応じて試験を受ければよいのです。別奏での登用などなりません。」
 夏,四月,戊子,河南參軍鄭銑、朱陽丞郭仙舟投匭獻詩,敕曰:「觀其文理,乃崇道法;至於時用,不切事情。宜各從所好。」並罷官,度爲道士。
8.夏、四月、戊子、河南参軍鄭銑、朱陽丞郭仙舟が投箱で詩を献上した。勅に言った。
「その文理を見るに、道法を崇えており、現実的ではない。各々、自分にあった生き方を選べ。」
 そして、共に罷免して道士とした。
 五月,辛亥,以突騎施都督蘇祿爲左羽林大將軍、順國公,充金方道經略大使。
9.五月、辛亥、突騎施都督蘇禄を左羽林大将軍、順国公とし、金方道経略大使とした。
 10契丹王李失活卒,癸巳,以其弟娑固代之。
10.契丹王李失活が卒した。癸巳、その弟の娑固をこれに代えた。
 11秋,八月,頒郷飲酒禮於州縣,令毎歳十二月行之。
11.秋、八月、州県にて郷飲酒の礼を広めた。毎年、十二月に実施させた。
 12唐初,州縣官俸,皆令富戸掌錢,出息以給之;息至倍稱,多破産者。秘書少監崔沔上言,請計州縣官所得俸,於百姓常賦之外,微有所加以給之。從之。
12.唐の初期、州県の官吏の俸給は富戸に徴集させていたが、出費が倍増し、大勢が破産してしまった。秘書少監の崔沔が、州県の俸給を計算して、百姓の常賦以外に加算して徴集するよう、上言した。
 これに従った。
 13冬,十一月,辛卯,車駕至西京。
13.冬、十一月、辛卯、車駕が西京へ到着した。
 14戊辰,吐蕃奉表請和,乞舅甥親署誓文,及令彼此宰相皆著名於其上。
14.戊辰、吐蕃が奉表して講和を請うた。舅甥の関係で誓文を署しようというのだ。また、両国の宰相も皆、署名するよう請うた。
 15宋璟奏:「括州員外司馬李邕、儀州司馬鄭勉,並有才略文詞,但性多異端,好是非改變;若全引進,則咎悔必至,若長棄捐,則才用可惜,請除渝、硤二州剌史。」又奏:「大理卿元行沖素稱才行,初用之時,實允僉議;當事之後,頗非稱職,請復以爲左散騎常侍,以李朝隱代之。陸象先閑於政體,寬不容非,請以爲河南尹。」從之。
15.宋璟が上奏した。
「括州員外司馬李邕、儀州司馬鄭勉は共に才略文詞がありますが、珍奇なことを好み改革を起こしたがります。もしも引き立てたら必ず失敗するでしょうが、捨て去ってしまうには惜しい才覚です。どうか、渝、硤二州の刺史としてください。」
 また、上奏した。
「大理卿元行沖は、もともと有能と評判で、始めて登用した時から僉議を許されました。しかし、実務を執ってみると功績はありません。左散騎常侍へ戻し、李朝隠と交代させましょう。陸象先は政治には疎いのですが、寛大です。河南尹としてください。」
 これに従った。
七年(己未、七一九)

 春,二月,倶密王那羅延、康王烏勒伽、安王篤薩波提皆上表言爲大食所侵掠,乞兵救援。
1.春、二月、倶密王那羅廷、康王烏勒伽、安王篤薩波堤が皆、大食から侵略されたと上言し、救援を乞うた。
 敕太府及府縣出粟十萬石糶之,以斂人間惡錢,送少府銷毀。
2.太府及び府県へ粟十万石を供出させて、世間に流通している悪銭を回収させ、少府へ送って破棄させた。
 三月,乙卯,以左武衞大將軍、檢校内外閑厩使、苑内營田使王毛仲行太僕卿。毛仲嚴察有幹力,萬騎功臣、閑厩官吏皆憚之,苑内所收常豐溢。上以爲能,故有寵。雖有外第,常居閑厩側内宅,上或時不見,則悄然若有所失;宦官楊思勗、高力士皆畏避之。
3.三月、乙卯、左武衛大将軍、検校内外閑厩使、苑内営田使王毛仲を太僕卿とした。
 毛仲は厳察で実行力があり、萬騎の功臣や閑厩の官吏は皆、彼を憚っており、苑内の収支はいつも黒字だった。上は有能だと認め、寵遇した。外第ではあったけれどもいつも閑厩側の内宅に居た。上は、彼の姿が見えないと、大切な物をなくしてしまったかのように悄然としていた。
 宦官の楊思勗や高力士も、これを畏避していた。
 渤海王大祚榮卒;丙辰,命其子武藝襲位。
4.渤海王大祚栄が卒した。
 丙辰、その子の武芸へ襲位させた。
 夏,四月,壬午,開府儀同三司祁公王仁皎薨。其子駙馬都尉守一請用竇孝諶例,築墳高五丈二尺;上許之。宋璟、蘇頲固爭,以爲:「準令,一品墳高一丈九尺,其陪陵者高出三丈而已。竇太尉墳,議者頗譏其高大,當時無人極言其失,豈可今日復踵而爲之!昔太宗嫁女,資送過於長公主。魏徴進諫,太宗既用其言,文德皇后亦賞之,豈若韋庶人崇其父墳,號曰鄷陵,以自速其禍乎!夫以后父之尊,欲高大其墳,何足爲難!而臣等再三進言者,蓋欲成中宮之美耳。況今日所爲,當傳無窮,永以爲法,可不愼乎!」上悅曰:「朕毎欲正身率下,況於妻子,何敢私之!然此乃人所難言,卿能固守典禮,以成朕美,垂法將來,誠所望也。」賜璟、頲帛四百匹。
5.夏、四月、壬午、開府儀同三司の祁公王仁皎が卒した。
 その子の駙馬都尉守一は竇孝諶の例に倣って高さ五丈二尺の墳を築くよう請うた。上はこれを赦した。
 宋璟、蘇頲は固く争った。その大意は、
「令に準拠すれば、一品の墳は高さ一丈九尺で、その陪陵は三丈高いだけです。竇太尉の墳は、高すぎるとの誹りが多かったのですが、その過失を極言する者が居なかったのです。どうして今日同じ過ちを繰り返して良いものでしょうか!昔、太宗が娘を嫁がせた時、資送は長公主以上でした。魏徴が諫めますと太宗はこれに従い、文徳皇后も称賛しました。韋庶人がその父の墳を崇えて鄷陵と名付け、自らその禍を速めたようなことを、どうして真似て良いものでしょうか!后父の尊を以て墳墓を高くしようと欲したら、何も難しいことではありません。しかし、臣等が再三進言するのは、中宮の美を完備させたいからです。いわんや今日の言動は無窮に伝えられ、長く手本となるのです。慎まなければなりません!」
 上は悦んで言った。
「朕は、いつも我が身を正して家臣へ接しようと思っていた。ましてや妻子の事で、なんで私心に流されようか!しかし、これはなかなか言いにくいことだ。卿は典礼を固く守り通せる。それは朕の美徳を成就させ、将来の手本を作れるのだ。まこと、朕の望むものである。」
 璟と頲に帛四百匹を下賜した。
 五月,乙丑朔,日有食之。上素服以俟變,徹樂減膳,命中書、門下察繋囚,賑飢乏,勸農功。辛卯,宋璟等奏曰:「陛下勤恤人隱,此誠蒼生之福。然臣聞日食脩德,月食脩刑;親君子,遠小人,絶女謁,除讒慝,所謂脩德也。君子恥言浮於行,苟推至誠以行之,不必數下制書也。」
6.五月、己丑朔、日食が起こった。
 上は質素な服で終わるのを待ち、音楽を撤廃し食膳を減らした。中書と門下へは、牢獄の囚人を洗い直し、飢えた者や貧乏な者を救済し、農功を勧めるよう命じた。
 辛卯、宋璟らが上奏した。
「陛下が、人の見えない所まで憐れみ勧めますのは、まことに人民の幸せでございます。しかし、『日食には徳を修め、月食には罪を修める』と、臣は聞きます。君子に親しみ小人を遠ざけ女人の請願を絶ち讒言を除くことが、いわゆると、『徳を修める』ということです。君子は実践より口が勝つことを恥じます。いやしくも至誠を推して行えば、必ずしも制書を下す必要はありません。」
 六月,戊辰,吐蕃復遣使請上親署誓文;上不許,曰:「昔歳誓約已定,苟信不由衷,亟誓何益!」
7.六月、戊辰、吐蕃が再び使者を派遣し、上と誓文を交わすことを請うた。上は許さず、言った。
「以前、誓約は既に定めた。信義が真心から出ていなければ、誓文など、何の役に立とうか!」
 秋,閏七月,右補闕盧履冰上言:「禮,父在爲母服周年,則天皇后改服齊衰三年,請復其舊。」上下其議。左散騎常侍褚無量以履冰議爲是;諸人爭論,連年不決。八月,辛卯,敕自今五服並依喪服傳文,然士大夫議論猶不息,行之各從其意。無量歎曰:「聖人豈不知母恩之厚乎?厭降之禮,所以明尊卑、異戎狄也。俗情膚淺,不知聖人之心,一紊其制,誰能正之!」
8.秋、閏七月、右補闕盧履冰が上言した。
「礼には、『母が死んだとき、父親が健在なら一年の喪に服す』とあります。ところが、則天皇后はこれを三年に改めました(上元元年、674年)。どうか、旧制に戻してください。」
 上は、廷臣へ議論させた。
 左散騎常侍褚無量は、履冰の議論を是としたが、諸人は論争して長い間決着が付かなかった。
 八月、辛卯、今後は五服は全て「喪服伝」の文に依るよう敕が降りた。しかし、士大夫の議論はなおやまず、各々自分の想いに従って実践した。無量は嘆いて言った。
「聖人が、どうして父母の恩の厚さを知らなかっただろうか?だが、厭降の礼こそ、尊卑を明らかにするもの。これがあるから我等は戎狄ではないのだ。なのに、俗人は目先の情愛に溺れて聖人の心を知らず、その制を乱してしまった。誰がこれを正せるだろうか!」
 九月,甲寅,徙宋王憲爲寧王。上嘗從復道中見衞士食畢,棄餘食於竇中,怒,欲杖殺之;左右莫敢言。憲從容諫曰:「陛下從復道中窺人過失而殺之,臣恐人人不自安。且陛下惡棄食於地者,爲食可以養人也;今以餘食殺人,無乃失其本乎!」上大悟,蹶然起曰:「微兄,幾至濫刑。」遽釋衞士。是日,上宴飲極歡,自解紅玉帶,并所乘馬以賜憲。
9.九月、甲寅、宋王憲を寧王へ移した。
 上がかつて複道(二階造りの廊下。上の階は、皇帝の専用道)を歩いていると、食事している衛兵が見えた。その兵は、食べ終わると、余った食べ残しを穴へ棄てた。上は怒って、杖で殴り殺そうとしたが、左右の者は敢えて何も言わなかった。だが、憲は落ち着いた顔で諫めた。
「陛下が複道で人の過失を窺って殺すのでは、人々が不安に怯えるのではないかと恐れます。それに、陛下が食糧を棄てた者を憎むのは、食糧が人を養うからではありませんか。今、食べ残しの食料のことで人を殺すのでは、その大本を失ってしまいますぞ!」
 上は大いに悟り、驚いて立ち上がり、言った。
「微兄、もう少しで刑罰を濫用するところでした。」
 即座に衛兵を赦した。
 この日、上は宴会で楽しみを極め、自ら紅玉帯を解き、乗馬とともに憲に下賜した。
 10冬,十月,辛卯,上幸驪山温湯;癸卯,還宮。
10.冬、十月、辛卯、上が驪山の温泉へ御幸した。癸卯、宮殿へ帰った。
 11壬子,冊拜突騎施蘇祿爲忠順可汗。
11.壬子、突騎施の蘇禄が冊を拝受して忠順可汗となった。
 12十一月,壬申,上以岐山令王仁琛,藩邸故吏,墨敕令與五品官。宋璟奏:「故舊恩私,則有大例,除官資歴,非無公道。仁琛曏縁舊恩,已獲優改,今若再蒙超獎,遂於諸人不類;又是后族,須杜輿言。乞下吏部檢勘,苟無負犯,於格應留,請依資稍優注擬。」從之。
  選人宋元超於吏部自言侍中璟之叔父,冀得優假。璟聞之,牒吏部云:「元超,璟之三從叔,常在洛城,不多參見。既不敢縁尊輒隱,又不願以私害公。向者無言,自依大例,既有聲聽,事須矯枉;請放。」
  寧王憲奏選人薛嗣先請授微官,事下中書、門下。璟奏:「嗣先兩選齋郎,雖非灼然應留,以懿親之故,固應微假官資。在景龍中,常有墨敕處分,謂之斜封。自大明臨御,茲事杜絶,行一賞,命一官,必是縁功與才,皆歴中書、門下。至公之道,唯聖能行。嗣先幸預姻戚,不爲屈法,許臣等商量,望付吏部知,不出正敕。」從之。
  先是,朝集使往往齎貨入京師,及春將還,多遷官;宋璟奏一切勒還以革其弊。
12.十一月、壬申、岐山令の王仁琛は、上が即位する前から藩邸で仕えていた。そこで上は、墨勅で五品官を与えた。すると、宋璟が上奏した。
「古い縁故や私恩でのについては大礼があります。官位を与えるのが公の道ではないとは言いません。ですが仁琛は縁故によって既に抜擢されています。今、再びこのような高い官位を与えるのは、諸人に類がありません。また、彼は皇后の一族です。人々は何と言うでしょうか。どうか吏部へ下してよく査察させ、間違いのないように相応の地位に留め、能力より少し上くらいに留めて置いてください。」
 これに従った。
 選人の宋元超が吏部にて、良い官位を得ようと、自ら「侍中璟の叔父である。」と言った。璟はこれを聞くと吏部に手紙を書いて言った。
「元超は、璟の大叔父の子息だ。普段は洛城に住んでいて滅多に会わない。一族の目上の者だという事を敢えて隠すつもりはないが、私事で公を害するつもりもない。もしも彼が何も言わなければ、大例通りに処理できたが、既に自ら言い立てたのだから、これは正さなければならない。どうか採用しないでくれ。」
 寧王憲が「選人の薛嗣先から、微官で良いから授けてくれと頼まれた。」と上奏した。このことを中書と門下へ詮議させると、璟が上奏した。
「嗣先は齋郎に二回選ばれました。登用されるのが当然とまでは言いませんが、王と親しい間柄でしたら微官くらいは授けても宜しいのです。ですが、考えてください。景龍年間には墨勅での処分が横行しており、これは『斜封』と呼ばれていました。名君が即位してからは、このような事はなくなり、一賞を行うにも一官を命じるにも、全て功績や才覚に基づいて中書や門下を経由するようになったのです。至公の道は、ただ聖君だけが行えるのです。嗣先は姻戚にあるのを良いことに、法に屈して臣等の協議に委ねようとせず、吏部へ働きかけました。正しくはありません。」
 これに従った。
 従来、朝集使は往々にして京師へ金を持ち込み、春になって任地へ帰る直前に、大概官職が変わっていた。宋璟は、この弊害を改めるため、強制的にもとの任地へ戻すよう上奏した。
 13是歳,置劍南節度使,領益、彭等二十五州。
13.この年、剣南節度使を設置した。益、彭など二十五州を領知させた。
八年(庚申、七二〇)

 春,正月,丙辰,左散騎常侍褚無量卒。辛酉,命右散騎常侍元行沖整比羣書。
1.春、正月、丙辰、左散騎常侍褚無量が卒した。
 辛酉、右散騎常侍元行沖に群書の整理配列を命じた。
 侍中宋璟疾負罪而妄訴不已者,悉付御史臺治之。謂中丞李謹度曰:「服不更訴者出之,尚訴未已者且繋。」由是人多怨者。會天旱有魃,優人作魃状戲於上前,問魃:「何爲出?」對曰:「奉相公處分。」又問:「何故?」魃曰:「負冤者三百餘人,相公悉以繋獄抑之,故魃不得不出。」上心以爲然。
  時璟與中書侍郎、同平章事蘇頲建議嚴禁惡錢,江、淮間惡錢尤甚,璟以監察御史蕭隱之充使括惡錢。隱之嚴急煩擾,怨嗟盈路,上於是貶隱之官。辛巳,罷璟爲開府儀同三司,頲爲禮部尚書。以京兆尹源乾曜爲黄門侍郎,并州長史張嘉貞爲中書侍郎,並同平章事。於是弛錢禁,惡錢復行矣。
2.侍中宋璟は、罪を犯したくせに妄りに訴えてやまない者を憎み、彼等を全て御史台へ送って詮議させた。彼は、中丞李謹度に言った。
「判決に服して、それ以上異議を申し立てない者は釈放しろ。異議を申し立ててやまない者は獄中に入れたままにしておけ。」
 これによって、大勢の人間から怨まれた。
 旱魃が起こった時、芸人が日照りの神を作って上の前で寸劇をやった。
 彼が、日照り神へ問う。
「どうして出てきたのだ?」
「相公の処分を命じられたのだ。」
「どうして?」
「冤罪を負った者は三百余人、相公は彼等を悉く牢獄へ繋いで抑え込んだ。これでは日照り神が出てこずにはいられないではないか。」
 上は、心底同意した。
 その頃、璟と中書侍郎、同平章事蘇頲が悪銭の厳禁を建議した。江、淮地方では悪銭がもっとも氾濫していたので、璟は監察御史蕭隠之に悪銭の一掃を命じた。隠之は早急に厳しく行ったので、怨嗟の声が路に満ちた。上は、これによって隠之を降格した。
 辛巳、璟を罷免して開府儀同三司とし、頲を禮部尚書とした。京兆尹源乾曜を黄門侍郎、并州長史張嘉貞を中書侍郎として、ともに同平章事とした。ここにおいて、悪銭の禁令が緩和され、悪銭は再び流通した。
 二月,戊戌,皇子敏卒,追立爲懷王,謚曰哀。
3.二月、戊戌、皇子敏が卒した。追立して懐王とし、哀と諡した。
 壬子,敕以役莫重於軍府,一爲衞士,六十乃免,宜促其歳限,使百姓更迭爲之。
4.壬子、勅によって、軍府で一番重要な役を衛士とした。六十歳で免職とし、その定年を促し、百姓に交代要員を供出させた。
 夏,四月,丙午,遣使賜烏長王、骨咄王、倶位王冊命。三國皆在大食之西,大食欲誘之叛唐,三國不從,故褒之。
5.夏、四月、丙午、烏長王、骨咄王、倶位王に使者を派遣し、冊命した。
 この三ヶ国は、全て大食の西に位置した。大食は彼らに唐からの造反を誘ったが、この三国は従わなかった。だから、これを褒めたのである。
 五月,辛酉,復置十道按察使。
6.五月、辛酉、再び十道按察使を設置した。
 丁卯,以源乾曜爲侍中,張嘉貞爲中書令。
  乾曜上言:「形要之家多任京官,使俊乂之士沈廢於外。臣三子皆在京,請出其二人。」上從之。因下制稱乾曜之公,命文武官效之,於是出者百餘人。
  張嘉貞吏事強敏,而剛躁自用。中書舍人苗延嗣、呂太一、考功員外郎員嘉靜、殿中侍御史崔訓皆嘉貞所引進,常與之議政事。四人頗招權,時人語曰:「令公四俊,苗、呂、崔、員。」
7.丁卯、源乾曜を侍中、張嘉貞を中書令とした。
 乾曜は上言した。
「権豪の一族の多くは京官に任命され、俊乂の士を地方へ追いやっています。臣の三子は皆京に居ますが、うちの二人を地方へ出してください。」
 上はこれに従った。また、制を下して乾曜の公を賞し、文武官へこれへ倣うよう命じた。ここにおいて、百余人が地方へ出た。
 張嘉貞は吏事に強敏で、剛直な性格だった。中書舎人苗延嗣、呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓は、皆、嘉貞から引き立てられ、いつも共に政事を議していた。人々は、言った。「令公の四俊は、苗、呂、崔、員だ。」
 六月,瀍、穀漲溢,漂溺幾二千人。
8.六月、瀍と穀が溢れて、二千人近くが漂流・溺死した。
 突厥降戸僕固都督勺磨及[足夾]跌部落散居受降城側,朔方大使王晙言其陰引突厥,謀陷軍城,密奏請誅之。誘勺磨等宴於受降城,伏兵悉殺之,河曲降戸殆盡。拔曳固、同羅諸部在大同、橫野軍之側者,聞之皆忷懼。秋,并州長史、天兵節度大使張説引二十騎,持節即其部落慰撫之,因宿其帳下。副使李憲以虜情難信,馳書止之。説復書曰:「吾肉非黄羊,必不畏食;血非野馬,必不畏刺。士見危致命,此吾效死之秋也。」拔曳固、同羅由是遂安。
9.突厥降戸の僕固都督勺磨と[足夾]跌部落は受降城の傍らに散居していた。
 朔方大使王晙は、彼等が密かに突厥の手引きをして軍城を落とそうと謀っていると言い、密奏してこれを誅することを請うた。そして、勺磨らを受降城にて宴会に誘い、伏兵を発して皆殺しにした。河曲の降戸は、ほぼ全滅した。
 大同、横野軍のそばにいる抜曳固、同羅の諸部は、これを聞いてみな、恐れ怯えた。秋、并州長史、天兵節度大使張説は、二十騎馬を率い、節を持ってその部落へ行って慰撫し、そのまま彼等の帳下へ泊まった。 副使の李憲は、虜の心は信じられないと、書を馳せてこれを止めた。対して、説は返書を書いた。
「我が肉は黄羊ではないから、食われはしない。血は野馬ではないから、刺されはしない。士は、危険を見たら命を棄てるものだ。今こそ、吾が死ぬ時だ。」
 抜曳固と同羅は、これによって安定した。
 10冬,十月,辛巳,上行幸長春宮;壬午,畋于下邽。
10.冬、十月、辛巳、上が長春宮へ御幸した。壬午、下邽にて狩りをした。
 11上禁約諸王,不使與羣臣交結。光祿少卿駙馬都尉裴虚己與岐王範遊宴,仍私挾讖緯;戊子,流虚己於新州,離其公主。萬年尉劉庭琦、太祝張諤數與範飲酒賦詩,貶庭琦雅州司戸,諤山茌丞。然待範如故,謂左右曰:「吾兄弟自無間,但趨競之徒強相託附耳。吾終不以此責兄弟也。」上嘗不豫,薛王業妃弟内直郎韋賓與殿中監皇甫恂私議休咎;事覺,賓杖死,恂貶錦州刺史。業與妃惶懼待罪,上降階執業手曰:「吾若有心猜兄弟者,天地實殛之。」即與之宴飲,仍慰諭妃,令復位。
11.上は、諸王へ対し、群臣との交遊を禁止した。
 光禄少卿駙馬都尉の裴虚己は岐王範と遊宴し、私的に讖緯を語った。戊子、虚己を新州へ流し、公主とは離婚させた。萬年尉劉庭琦と太祝張諤は、しばしば範と酒を飲んで詩を賦していた。庭琦は雅州司馬に、諤は山茌丞に左遷された。しかし、範へはお咎めはなく、左右へ言った。
「我が兄弟は、仲違いなどしない。だが、諂い人があれこれ吹き込むのだ。吾は、こんな事で兄弟を責めないぞ。」
 上がかつて重病になった。薛王業の妃の弟の内直郎韋賓と殿中監皇甫恂は私的に吉凶を語り合った。これが発覚して、賓は杖で打たれて死に、恂は錦州刺史に左遷された。業と妃は、恐惶して罪が決まるのを待った。すると上は、業の手を執って言った。
「吾にもしも兄弟を猜疑する心が有れば、天地は我を殺すが良い。」
 そして、ともに宴飲し、妃を慰めて元の位に復した。
 12十一月,乙卯,上還京師。
12.十一月、乙卯、上が京師へ帰った。
 13辛未,突厥寇甘、涼等州,敗河西節度使楊敬述,掠契苾部落而去。
  先是,朔方大總管王晙奏請西發拔悉密,東方奚、契丹,期以今秋掩毗伽牙帳於稽落水上;毗伽聞之,大懼。暾欲谷曰:「不足畏也。拔悉密在北庭,與奚、契丹相去絶遠,勢不相及;朔方兵計亦不能來此。若必能來,俟其垂至,徙牙帳北行三日,唐兵食盡自去矣。且拔悉密輕而好利,得王晙之約,必喜而先至。晙與張嘉貞不相悅,奏請多不相應,必不敢出兵。晙兵不出,拔悉密獨至,撃而取之,勢甚易耳。」
  既而拔悉密果發兵逼突厥牙帳,而朔方及奚、契丹兵不至,拔悉密懼,引退。毗伽欲撃之,暾欲谷曰:「此屬去家千里,將死戰,未可撃也。不如以兵躡之。」去北庭二百里,暾欲谷分兵間道先圍北庭,因縱兵撃拔悉密,大破之。拔悉密衆潰走,趨北庭,不得入,盡爲突厥所虜。
  暾欲谷引兵還,出赤亭,掠涼州羊馬,楊敬述遣裨將盧公利、判官元澄將兵邀撃之。暾欲谷謂其衆曰:「吾乘勝而來,敬述出兵,破之必矣。」公利等至刪丹,與暾欲谷遇,唐兵大敗,公利,澄脱身走。毗伽由是大振,盡有默啜之衆。
13.辛未、突厥が甘・涼などの州に来寇した。河西節度使楊敬述を敗り、契必の部落を掠めて去った。
 事は、朔方大総管王俊が、西は抜悉密、東は奚、契丹の兵を徴発し、今秋を期して稽落水上の毘伽の牙帳を攻撃するよう要請したことに端を発する。毗伽は、これを聞いて大いに懼れた。すると、暾欲谷が言った。「畏れるに足りません。抜悉密は北庭にあり、奚や契丹とはとても離れていますから、連携は取れません。朔方の兵もここまではこれません。もしもやって来たなら、近づいてくるのを待ってから、牙帳を北方へ三日ほど移動させます。そうすると唐軍は食糧が尽きて帰って行きます。それに、抜悉密は軽薄で利を好みます。王俊の約束を得れば、必ずや喜んで先行します。俊と張嘉貞は仲が悪く、奏請もちぐはぐですから、絶対出兵しません。俊が出兵しなければ、抜悉密だけがやって来ても、撃破するのは簡単です。」
 やがて、抜悉密は果たして出兵して突厥の牙帳へ迫った。しかし、朔方及び奚、契丹の兵はやって来なかったので、抜悉密は懼れて引き返した。毗伽がこれを攻撃しようとすると、暾欲谷は言った。
「奴等は自分の領土から千里も離れているので、死に物狂いで戦います。今攻撃してはいけません。兵を出して後をつけさせましょう。」
 北庭へ二百里の所で、暾欲谷は兵を分けて、一隊は間道から先回りして北庭を包囲させた。そして抜悉密を攻撃し、大いに破った。抜悉密の兵は潰滅して逃げ出し北庭へ向かったが、入ることができず、全員突厥の捕虜となった。
 暾欲谷は兵を引いて帰還し赤亭へ出て、涼州の羊馬を掠めた。楊敬述は裨将盧公利、判官元澄へ兵を与えて迎撃させた。暾欲谷は部下たちに言った。
「我らは勝ちに乗じてやって来た。敬述が出撃しても、これを必ず破れる!」
 公利らは刪丹にて暾欲谷と遭遇した。唐軍は大敗し、公利と澄は単身で逃げ出した。
 毗伽はこれ以来、精力が大いに振るい、黙啜の衆を全て手にした。
 14契丹牙官可突干驍勇得衆心,李娑固猜畏,欲去之。是歳,可突干舉兵撃娑固,娑固敗奔營州。營州都督許欽澹遣安東都護薛泰帥驍勇五百與奚王李大酺奉娑固以討之,戰敗,娑固、李大酺皆爲可突干所殺,生擒薛泰,營州震恐。許欽澹移軍入渝關,可突干立娑固從父弟鬱干爲主,遣使請罪。上赦可突干之罪,以鬱干爲松漠都督,以李大酺之弟魯蘇爲饒樂都督。
14.契丹の牙官可突干は驍勇で人々の心を掴んでいた。李婆固は彼を猜畏して、除こうと思った。
 この年、可突干が挙兵して婆固を攻撃した。婆固は敗北して営州へ逃げ込んだ。
 営州都督許欽澹は安東都護薛泰へ驍勇五百を与え、奚王李大酺とともに婆固を奉じて戦わせた。しかし敗北し、婆固、李大酺は可突干に殺され、薛泰は生け捕りにされた。
 営州は震撼した。許欽澹は軍を移動して渝関へ入れた。
 可突干は婆固の従父弟の鬱干を立てて主とし、使者を派遣して、謝罪した。上は可突干の罪を赦し、鬱干を松漠都督とした。李大酺の弟の魯蘇を饒楽都督とした。
九年(辛酉、七二一)

 春,正月,制削楊敬述官爵,以白衣檢校涼州都督,仍充諸使。
1.春、正月、楊敬述の官爵を削り、白衣検校として涼州都督として職務に就かせると制した。
 丙辰,改蒲州爲河中府,置中都官僚,一準京兆、河南。
2.丙辰、蒲州を河中府とし、京兆や河南に準じて中都官僚を設置した。
 丙寅,上幸驪山温湯;乙亥,還宮。
3.丙寅、上が驪山の温泉に御幸した。乙亥、宮殿に帰った。
 監察御史宇文融上言:「天下戸口逃移,巧僞甚衆,請加檢括。」融,[弓弓攵]之玄孫也,源乾曜素愛其才,贊成之。二月,乙酉,敕有司議招集流移、按詰巧僞之法以聞。
4.天下の戸口に、逃げだしている者や戸籍などの巧みな虚偽が非常に多いので、実情を調べ直すよう、監察御史宇文融が上言した。融は、[弓弓攵]の玄孫である。
 源乾曜はもともと彼の才覚を愛していたので、これに賛同した。
 二月、乙酉、逃亡した民の招集と、戸籍の虚偽への対処法について議論して上聞するよう官吏に勅が下った。
 丙戌,突厥毗伽復使來求和。上賜書,諭以「曩昔國家與突厥和親,華、夷安逸,甲兵休息;國家買突厥羊馬,突厥受國家繒帛,彼此豐給。自數十年來,不復如舊,正由默啜無信,口和心叛,數出盜兵,寇抄邊鄙,人怨神怒,隕身喪元,吉凶之驗,皆可汗所見。今復蹈前迹,掩襲甘、涼,隨遣使人,更來求好。國家如天之覆,如海之容,但取來情,不追往咎。可汗果有誠心,則共保遐福;不然,無煩使者徒爾往來。若其侵邊,亦有以待。可汗其審圖之!」
5.丙戌、突厥の毗伽が再び使者を派遣して和を求めた。上は書を賜って、諭した。
「かつては国家と突厥は和親しており、華、夷ともに安逸で兵卒は休息できた。国家は突厥の羊馬を買い、突厥は国家の織物を得て、両者ともに豊かであった。この数十年は昔のように行かなかったが、これは実に黙啜に信義がなかったためである。口には和を唱えながら、心で叛し、しばしば強奪の為に出兵して辺境を荒らし回った。人は怨み神が怒った挙げ句、その身は斬られ全てを失った。吉凶の霊験は、皆、可汗がその目で見たものである。今、再び前術を踏襲し、甘、涼を襲撃しながら使者を派遣して和平を求めている。だが、国家は、天のように覆い海のように包容している。今後情を尽くすならば、かつてのことは咎めまい。可汗に誠意があるなら、ともに福を長く保とう。そうでなければ、使者を煩わせることはない。もしも辺境へ侵略したなら、必ず報復がある。可汗は、これを肝に命じよ。」
 丁亥,制:「州縣逃亡戸口聽百日自首,或於所在附籍,或牒歸故郷,各從所欲。過期不首,即加檢括,謫徙邊州;公私敢容庇者抵罪。」以宇文融充使,括逃移戸口及籍外田,所獲巧僞甚衆。遷兵部員外郎兼侍御史。融奏置勸農判官十人,並攝御史,分行天下。其新附客戸,免六年賦調。使者競爲刻急,州縣承風勞擾,百姓苦之。陽翟尉皇甫憬上疏言其状;上方任融,貶憬盈川尉。州縣希旨,務於獲多,虚張其數,或以實戸爲客,凡得戸八十餘萬,田亦稱是。
6.丁亥、制が下った。
「州県の逃亡した戸は、百日以内に自首したならば、今の在所でも本来の戸籍でも、望むところへ戸籍を作ろう。だが、期間を過ぎて自首しなければ、詮議して辺州へ移すぞ。公でも私でも、彼等を庇う者は罪に当てる。」
 宇文融へ逃亡者や戸籍外の田を担当させたところ、多くの民や田を登録できた。この功績で兵部員外郎兼侍御史となる。
 融は、進農判官十人を設置し、殺摂御史と並んで天下へ分行し、新しく登録された民は六年間賦調を免除するよう上奏した。
 だが、使者達は競い合って苛酷に税をはたり、州県もその風潮に追従して苛酷な取り立てを行ったので、民はこれに苦しんだ。陽翟尉の皇甫憬は、その有様を上疏した。すると上は、融を陽翟尉とし、憬は盈川尉に左遷した。州県は上の御心に叶うよう、税の収奪に務め、その数量を誇張し、あるいは旧来の民を新規の民とし、およそ八十万戸を得た。田もまた、帳簿上は膨大に増えた。
 蘭池州胡康待賓誘諸降戸同反,夏,四月,攻陷六胡州,有衆七萬,進逼夏州。命朔方總管王晙、隴右節度使郭知運共討之。
7.蘭池州の胡の康待賓が諸々の降戸を誘って造反した。夏、四月、六胡州を攻め落し、その軍勢は七万におよんだ。進撃して夏州に迫った。朔方大総管王俊、隴右節度使郭知運へ、討伐するよう命じた。
 戊戌,敕:「京官五品以上,外官剌史、四府上佐,各舉縣令一人,視其政善惡,爲舉者賞罰。」
8.戊戌、勅が下った。
「京官の五品以上、外官は刺史と四府の上佐はおのおの県令一人を推薦せよ。その政の善悪を見て、推薦者へ賞罰を加える。」
 以太僕卿王毛仲爲朔方道防禦討撃大使,與王晙及天兵軍節度大使張説相知討康待賓。
9.太僕卿王毛仲を朔方道防禦討撃大使として、王俊及び節度大使張説とともに康待賓を討伐させた。
 10六月,己卯,罷中都,復爲蒲州。
  蒲州刺史陸象先政尚寬簡,吏民有罪,多曉諭遣之。州録事言於象先曰:「明公不施箠撻,何以示威!」象先曰:「人情不遠,此屬豈不解吾言邪!必欲箠撻以示威,當從汝始!」録事慚而退。象先嘗謂人曰:「天下本無事,但庸人擾之耳。苟清其源,何憂不治!」
10.六月、己卯、中都をやめ、蒲州を復活させた。
 蒲州刺史陸象先の政事は寛大簡易で、吏民に罪を犯す者が居ても大概はよく説諭して放免してやった。州録事が象先に言った。
「殿は打刑を使いません。どうやって威厳を示すのですか!」
 象先は言った。
「人情は変わらない。彼らにも我の言葉が判るぞ!どうしても打刑で威厳を示しそうと言うのなら、手始めにお前からやってみるか!」
 録事は恥じ入って退出した。
 象先は、かつて人に言った。
「天下は、元々太平なのだ。ただ、庸人がこれをかき回しているだけだ。その源を清くすれば、なんで治まらないことを憂えようか!」
 11秋,七月,己酉,王晙大破康待賓,生擒之,殺叛胡萬五千人。辛酉,集四夷酋長,腰斬康待賓於西市。先是,叛胡潛與党項通謀,攻銀城、連谷,據其倉庾,張説將歩騎萬人出合河關掩撃,大破之。追至駱駝堰,党項乃更與胡戰,胡衆潰,西走入鐵建山。説安集党項,使復其居業。討撃使阿史那獻以党項翻覆,請并誅之,説曰:「王者之師,當伐叛柔服,豈可殺已降邪!」因奏置麟州,以鎭撫党項餘衆。
11.秋、七月、己酉、王俊が康待賓を大いに破った。これを生け捕りにし、造反した胡人一万五千人を殺した。
 辛酉、四夷の酋長を集め、西市にて康待賓を腰斬する。
 話は前後するが、叛胡は密かに党項と通謀し、銀城、連谷を攻撃し、その倉庫の物資を拠り所とした。張説が歩騎一万を率いて合河関から出撃して攻撃し、大いにこれを破る。追撃して駝堰まで至った。すると党項が胡と戦い、胡衆は潰滅して西へ逃げ鐵建山へ逃げ込んだ。説は党項を集めて安堵させ、その生業へ戻させた。
 阿史那献は、投降が叛服常無いので、彼等も一緒に誅しようと請うたが、説は言った。
「王者の軍は、造反した者を打ち、服従した者は赦すものだ。既に降伏した者を、どうして殺せようか!」
 そして、麟州を設置して党項の余衆を鎮撫するよう奏上した。
 12九月,乙巳朔,日有食之。
12.九月、乙己朔、日食が起こった。
 13康待賓之反也,詔郭知運與王晙相知討之;晙上言,朔方兵自有餘力,請敕知運還本軍。未報,知運已至,由是與晙不協。晙所招降者,知運復縱兵撃之;虜以晙爲賣己,由是復叛。上以不能遂定羣胡,丙午,貶晙爲梓州刺史。
13.康待賓が造反すると、郭知運と王俊へ協力して討伐するよう詔が下った。すると王俊は、朔方の兵力には余力があるので、知運は本軍へ戻すよう上言した。だが、返報が来る前に、知運は到着した。この一件で、彼は俊へ非協力的だった。俊が降伏者を呼び集めると、知運はこれを攻撃した。虜は、俊が自分達を売ったと思い、再び叛いた。
 上は、俊が群胡を平定できないと判断し、丙午、彼を梓州刺史に左遷した。
 14丁未,梁文獻公姚崇薨,遺令:「佛以清淨慈悲爲本,而愚者寫經造像,冀以求福。昔周、齊分據天下,周則毀經像而脩甲兵,齊則崇塔廟而馳刑政,一朝合戰,齊滅周興。近者諸武、諸韋,造寺度人,不可勝紀,無救族誅。汝曹勿效兒女子終身不寤,追薦冥福!道士見僧獲利,效其所爲,尤不可延之於家。當永爲後法!」
14.丁未、梁文献公姚祟が卒した。遺言で命じた。
「仏は、清浄慈悲を本分とする。それなのに愚か者は写経や仏像を造ることで、福をこいねがう。昔、周と斉が天下を争った時、周は仏像を殺して武器を整備した。斉は塔廟を崇め刑罰や政治は弛緩した。そして一朝合戦の時、斉は滅亡して周は勃興したのだ。最近では諸武、諸韋は数え切れぬほどの寺を造り出家させた。それでも、一族誅滅を救えなかったではないか。児女が殺されてもまだ悟らず冥福を祈っているような真似を、お前達は絶対にするな!道士は僧侶が利益を得ているのを見てそのやり方を見習っているが、お前達はこれを我が家へ持ち込んではいけない。これを、永く我が家法とせよ!」
 15癸亥,以張説爲兵部尚書、同中書門下三品。
15.癸亥、張説を兵部尚書、同中書門下三品とした。
 16冬,十月,河西、隴右節度大使郭知運卒。知運與同縣右衞副率王君麌,皆以驍勇善騎射著名西陲,爲虜所憚。時人謂之王、郭。麌遂自知運麾下代爲河西、隴右節度使,判涼州都督。
16.冬、十月、河西・隴右節度大使郭知運が卒した。
 知運と同県の右衛副率王君奥は、共に驍勇で騎射の名人として、西域に名を馳せ虜から憚られていた。当時の人々は、彼等を「王、郭」と呼んだ。奥は、遂に知運の麾下から河西、隴右節度大使、判涼州都督に抜擢された。
 17十一月,丙辰,國子祭酒元行沖上羣書四録,凡書四萬八千一百六十九卷。
17.十一月、丙辰、国子祭酒元行沖が群書四録を献上した。およそ四万八千百六十九巻である。
 18庚午,赦天下。
18.庚午、天下に恩赦を下した。
 19十二月,乙酉,上幸驪山温湯;壬辰,還宮。
19.十二月、乙酉、上が驪山の温泉へ御幸した。壬辰、宮殿に帰った。
 20是歳,諸王爲都督、刺史者,悉召還京師。
20.この年、都督や刺史になった諸王は、全員京師へ召還された。
 21新作蒲津橋,熔鐵爲牛以繋絚。
21.蒲津橋を作り直した。鉄を溶かして牛を造り、これを繋ぎ合わせた。
 22安州別駕劉子玄卒。子玄即知幾也,避上嫌名,以字行。
  著作郎呉兢撰則天實録,言宋璟激張説使證魏元忠事。説脩史見之,知兢所爲,謬曰:「劉五殊不相借。」兢起對曰:「此乃兢所爲,史草具在,不可使明公枉怨死者。」同僚皆失色。其後説陰祈兢改數字,兢終不許,曰:「若徇公請,則此史不爲直筆,何以取信於後!」
22.安州別駕劉子玄が卒した。子玄とは、知幾のことである。上の名を避けて、字で呼ばれた。
 著作郎呉兢が則天実録の選者となったが、宋璟が張説を叱咤して魏元忠の無実を証言させたことをそのまま記載した。説は編纂された史書を見て、兢のやったことだと判ったが、わざと言った。
「劉五から恨まれる覚えはないぞ!」
 すると、兢は立ち上がって言った。
「これは兢がやったことだ。草稿もここに在る。殿を恨んで殺してはならぬぞ!」
 同僚は皆、顔色を失った。
 その後、説は兢が訂正してくれることを密かに祈ったが、兢は遂に許さず、言った。
「もしも公の請願に応じたら、歴史の筆を曲げることになる。どうやって後世の信頼を勝ち取るのか!」
 23太史上言,麟德暦浸疏,日食屢不效。上命僧一行更造新暦,率府兵曹梁令瓚造黄道游儀以測候七政。
23.麟徳暦が古くなって、日食の時期がしばしば誤ってきた、と、太史が上言した。上は、僧一行に新しい暦を造るよう命じた。府兵曹梁令瓚に黄道遊儀を造らせて、候七政を測量させた。
 24置朔方節度使,領單于都護府,夏、鹽等六州,定遠、豐安二軍,三受降城。
24.朔方節度使を置き、単于都護府、夏・塩など六州、定遠・豊安二軍、三受降城を領知させた。
十年(壬戌、七二二)

 春,正月,丁巳,上行幸東都,以刑部尚書王志愔爲西京留守。
1.春、正月、丁巳、上が東都へ御幸した。刑部尚書王志愔を西京留守とした。
 癸亥,命有司收公廨錢,以税錢充百官俸。
2.癸亥、公廨銭を収めて、その税銭を百官の俸給に充てるよう、役人へ命じた。(武徳元年、京司及び州県官へ各々公廨田を給付し、その収入で公私の費用に充てるよう制していた。)
 乙丑,收職田。畝率給倉粟二斗。
3.乙丑、職田を収める。畝につき、倉粟二斗を給付した。(唐の文武官には官位応じて職田が与えられていた。貞観十一年、職田が百姓を侵漁するとして、それらを逃還貧戸へ給付するかわりに、一畝につき粟二戸を給付し、これを地租と言った。だが、後に水害や旱害が起こり、これが停止されていた。)
 二月,戊寅,上至東都。
4.二月、戊寅、上が東都へ到着した。
 夏,四月,己亥,以張説兼知朔方軍節度使。
5.夏、四月、己亥、張説に知朔方軍節度使を兼任させた。
 五月,伊、汝水溢,漂溺數千家。
6.五月、伊・汝で洪水が起こり、数千家が流された。
 閏月,壬申,張説如朔方巡邊。
7.閏月、壬申、張説が朔方に赴いて辺境を巡察した。
 己丑,以餘姚縣主女慕容氏爲燕郡公主,妻契丹王鬱干。
8.己丑、餘姚県主の娘慕容氏を、燕郡公主として、契丹王鬱干に嫁がせた。
 六月,丁巳,博州河決,命按察使蕭嵩等治之。嵩,梁明帝之孫也。
9.六月、丁巳、博州にて河が決壊した。按察使蕭嵩等へこれを治めるよう命じた。嵩は、梁の明帝の子孫である。(後梁の主の蕭巋の諡が明帝である。)
 10己巳,制增太廟爲九室,遷中宗主還太廟。
10.己巳、太廟を増やして九室とし、中宗主を太廟に戻すよう制が下った。
 11秋,八月,癸卯,武疆令裴景仙,坐贓五千匹,事覺,亡命。上怒,命集衆斬之。大理卿李朝隱奏景仙贓皆乞取,罪不至死。又,其曾祖寂有建義大功,載初中以非罪破家,惟景仙獨存,今爲承嫡,宜宥其死,投之荒遠。其辭略曰:「十代宥賢,功實宜録;一門絶祀,情或可哀。」制令杖殺。朝隱又奏曰:「生殺之柄,人主得專;輕重有條,臣下當守。今若乞取得罪,便處斬刑;後有枉法當科,欲加何辟?所以爲國惜法,期守律文;非敢以法隨人,曲矜仙命。」又曰:「若寂勳都棄,仙罪特加,則叔向之賢,何足稱者;若敖之鬼,不其餒而!」上乃許之。杖景仙一百,流嶺南惡處。
11.秋、八月、癸卯、武彊令裴景仙が五千匹を贓匿し、事件が発覚して、亡命した。
 上は怒り、衆を集めてこれを斬るよう命じた。大理卿李朝隠は、「景仙の収賄は、皆、相手から持ちかけられたものを受け取っただけなので、死罪にまでは該当しないし、また、その曾祖の寂が大功を建てたのに、載初年間に無実の罪で一家が潰され(「裴寂伝」によると、寂の孫の承先は、則天武后の時に酷吏のために殺された。)、今ではただ景仙が残って嫡を継承しているので、死罪を宥めて流刑にするのが宜しいです」と上奏した。その文中に、次のような言葉があった。
「賢者の子孫を十代宥めてこそ、功績が遺されるのです(左伝の一節、晋の祁奚が叔向に請うた。「社稷を固めるには、十世の宥めが必要です。」)。一門を根絶やしにするのは、情に於いても哀れなことです。」
 景仙を杖で打ち殺すよう、制が下った。すると、朝隠は再び上奏した。
「生殺の柄は主君だけが持つものですが、その軽重の規律は臣下が守るべきです。今もし罪を得るよう乞うたならば、容易く斬刑にできます。しかし、そうしたら、後日本当に罪を犯した人間に、何を加えるのですか?国のために法を守ろうと思ったら、律文を固守しなければなりません。法を自分の思い通りにしようと思われていないのでしたら、どうか仙の命をお救いください。」
 また言う。
「もし寂の勲功を棄てるつもりでしたら、仙に罪を加えるのも宜しいでしょう。ですが、そうしたら叔向の賢も称賛するに足りません。若敖の御霊も祀られませんぞ!」
 上は、これを許した。景仙は杖打ち百のうえ、嶺南の悪所に流された。
 12安南賊帥梅叔焉等攻圍州縣,遣驃騎將軍兼内侍楊思勗討之。思勗募羣蠻子弟,得兵十餘萬,襲撃,大破之,斬叔焉,積屍爲京觀而還。
12.安南の賊帥梅叔焉等が、州県を攻囲した。驃騎将軍兼内侍楊思勗を派遣して、これを討たせた。
 思勗は群蛮の子弟を募り、十余万の兵を得た。賊軍を襲撃して大いに破った。叔焉を斬り、屍を積んで京観として、帰った。
 13初,上之誅韋氏也,王皇后頗預密謀,及即位數年,色衰愛弛。武惠妃有寵,陰懷傾奪之志。后心不平,時對上有不遜語。上愈不悅,密與秘書監姜皎謀以后無子廢之,皎泄其言。嗣滕王嶠,后之妹夫也,奏之。上怒,張嘉貞希旨構成其罪,云:「皎妄談休咎。」甲戌,杖皎六十,流欽州,弟吏部侍郎晦貶春州司馬;親黨坐流、死者數人,皎卒於道。
  己亥,敕:「宗室、外戚、駙馬,非至親毋得往還;其卜相占候之人,皆不得出入百官之家。」
13.かつて、上が韋氏を誅したとき、王皇后はその陰謀に参与していた。
 上が即位して数年すると、皇后の美貌も色あせてきた。寵愛を受けた武惠妃は、上の心を独占しようと密かに志した。后の心は穏やかではなくなり、時として上へ対して不遜な言葉を吐いた。上はいよいよ不機嫌になった。
 上は、皇后に子供が居ないことを理由に廃立しようと、秘書監の姜皎と密かに謀った。すると、皎はその言葉を洩らしてしまった。皇后の妹の夫の嗣滕王嶠(『新唐書』を按ずるに、太宗の子魏王泰は罪をえて、のちに濮王に封ぜられ、薨去すると、子の欣が嗣いだ。武后のとき酷吏におとしいれられて、神龍初年に子の嶠が王を嗣いだ。「嗣滕王嶠」は、「嗣濮王嶠」と作るべきなのは明らかだ。)が、これを上奏した。上が怒ったので、張嘉貞がおもねって皎の罪を構成した。
「上が何気なく言ったことを、皎は吹聴しました。」
 甲戌、皎は杖打ち六十のうえ、欽州へ流された。弟の吏部侍郎晦は春州司馬に左遷された。親族や仲間が数人、流罪や死罪となった。皎は途上で卒した。
 己亥、勅が下った。
「宗室、外戚、駙馬は至親でなければ互いに行き来してはならない。卜相占候の人間は、皆、百官の家へ出入りしてはいけない。」
 14己卯夜,左領軍兵曹權楚璧與其黨李齊損等作亂,立楚璧兄子梁山爲光帝,詐稱襄王之子,擁左屯營兵數百人入宮城,求留守王志愔,不獲。比曉,屯營兵自潰;斬楚璧等,傳首東都。志愔驚怖而薨。楚璧,懷恩之姪;齊損,迥秀之子也。壬午,遣河南尹王怡如京師,按問宣慰。
14.己卯夜、左領軍兵曹権楚璧とその仲間の李斉損らが乱を起こした。楚璧の兄の子梁山を襄王の子息と詐称して光帝とした。左屯営兵数百人を擁して宮城へ入り、留守王志愔を探したが、見つけきれなかった。
 暁頃、屯営の兵は自然に潰滅した。楚璧らを斬り、首を東都へ持って行った。志愔は驚き怖れて死んだ。
 楚璧は懐恩の姪、斉損は迥秀の子息である。
 壬午、河南尹王怡を京師へ派遣して事情を調べ慰撫させた。
 15癸未,吐蕃圍小勃律王沒謹忙,謹忙求救于北庭節度使張嵩曰:「勃律,唐之西門,勃律亡則西域皆爲吐蕃矣。」嵩乃遣疏勒副使張思禮將蕃、漢歩騎四千救之,晝夜倍道,與謹忙合撃吐蕃,大破之,斬獲數萬。自是累歳,吐蕃不敢犯邊。
15.癸未、吐蕃が小勃律王没謹忙を包囲した。
 謹忙は北庭節度使張嵩へ救いを求め、言った。
「勃律は、唐の西門です。勃律が滅べば、西域は全て吐蕃の支配下に入ります。」
 嵩は疏勒副使張思礼に蕃・漢の歩騎四千人を与えて救援に派遣した。彼等は昼夜兼行し、謹忙と力を併せて吐蕃を攻撃した。これを大いに破り、数万人を斬獲した。
 これから数年、吐蕃は敢えて辺境を犯さなかった。
 16王怡治權楚璧獄,連逮甚衆,久之不決;上乃以開府儀同三司宋璟爲西京留守。璟至,止誅同謀數人,餘皆奏原之。
16.王怡が権楚璧の事件を究明したところ、連座で逮捕される者が多く、なかなか決着が付かなかった。そこで上は開府儀同三司宋景を西京留守とした。璟は到着すると、楚璧と共に陰謀を巡らせた数人を誅殺するに留め、他の者は皆赦すよう上奏した。
 17康待賓餘黨康願子反,自稱可汗;張説發兵追討擒之,其黨悉平。徙河曲六州殘胡五萬餘口於許、汝、唐、鄧、仙、豫等州,空河南、朔方千里之地。
  先是,縁邊戍兵常六十餘萬,説以時無強寇,奏罷二十餘萬使還農。上以爲疑,說曰:「臣久在疆場,具知其情,將帥苟以自衞及役使營私而已。若禦敵制勝,不必多擁穴卒以妨農務。陛下若以爲疑,臣請以闔門百口保之。」上乃從之。
  初,諸衞府兵,自成丁從軍,六十而免,其家又不免雜徭,浸以貧弱,逃亡略盡,百姓苦之。張説建議,請召募壯士充宿衞,不問色役,優爲之制,逋逃者必爭出應募;上從之。旬日,得精兵十三萬,分隸諸衞,更番上下。兵農之分,從此始矣。
17.康待賓の残党康願子が造反し、自ら可汗と称した。張説が兵を発して追討してこれを捕らえ、その一党は全て平定した。
 河曲六州の残胡五万口を許、汝、唐、鄧、仙、予などの州へ移し、河南、朔方の千里の土地を空にした。
 従前は、辺境には常に六十余万の守備兵が居た。説は、強い外敵がいないので、二十余万の兵を罷めさせて農業に返させるよう上奏した。上が疑ったので、説は言った。
「臣は長い間戦場にいたので、実情をつぶさに知っています。将帥は、自衛の兵力が足りれば、残りは私用に使うだけです。敵を制御できるならば、多くの兵を擁して農務を妨げる必要はありません。もしも陛下がお疑いならば、臣は闔門を百人で守りきって見せましょう。」
 上は、これに従った。
 当初、諸衛府の兵は、成人の年に従軍し、六十で定年だった。その家族も雑徭がかかり、次第に零落していったので、逃亡する者が多く、兵役は百姓の重い負担となっていた。張説は、壮士を募兵して宿衛へ充て、色役・優為の制度(?)を問わぬよう請願した。そうすれば、逃げ出した者達も争って募兵に応じるだろうと言うのだ。上は、これに従った。すると、旬日のうちに精兵十三万人を得た。彼等を諸衛へ分配すると、更に二交代で警備ができるようになった。
 兵と農の分離は、これから始まった。
 18冬,十月,癸丑,復以乾元殿爲明堂。
18.冬、十月、癸丑、乾元殿の呼称を明殿に戻した。
 19甲寅,上幸壽安興泰宮,獵於上宜川;庚申,還宮。
19.甲寅、上が寿安の興泰宮へ御幸し、上宜川で狩猟をした。庚申、宮殿へ帰った。
 20上欲耀兵北邊,丁卯,以秦州都督張守潔等爲諸衞將軍。
20.上は北辺で武功を建てたがった。 丁卯、秦州都督張守潔らを諸衛将軍とした。
 21十一月,乙未,初令宰相共食實封三百戸。
21.十一月、乙未、はじめて宰相の実封を三百戸とした。
 22前廣州都督裴伷先下獄,上與宰相議其罪。張嘉貞請杖之,張説曰:「臣聞刑不上大夫,爲其近於君,且所以養廉恥也。故士可殺不可辱。臣曏巡北邊,聞杖姜皎於朝堂。皎官登三品,亦有微功,有罪應死則死,應流則流,奈何輕加笞辱,以皁隸待之!姜皎事往,不可復追,伷先據状當流,豈可復蹈前失!」上深然之。嘉貞不悅,退謂説曰:「何論事之深也!」説曰:「宰相,時來則爲之。若國之大臣皆可笞辱,但恐行及吾輩。吾此言非爲伷先,乃爲天下士君子也。」嘉貞無以應。
22.前の広州都督裴伷先を獄に下した。上と宰相が共にその罪を詮議した。
 張嘉貞は杖打ちを請うたが、張説は言った。
「『大夫のような貴人へは、刑罰を与えない。彼らは主君の側にいるのだから、廉恥心を養わせるのだ。だから、士は殺しても良いが、辱めてはいけない。』と、臣は聞きました。臣が北辺を巡っている頃、朝堂にて姜皎を杖打ちしたと聞きました。皎の官位は三品で、少しの功績もあります。その罪が死刑に相当するのなら殺し、流罪に相当するのならば流すべきですが、なんで奴隷のように、些細なことで鞭打ちの恥辱を与えられるのですか!姜皎のことは、済んだことですからどうしようもありません。しかし伷先の罪状は流罪に相当します。どうして前の轍を踏んでよいでしょうか!」
 上は深く同意した。嘉貞は不機嫌になり、退出すると説へ言った。
「卿の議論は深遠すぎるぞ!」
 説は言った。
「我らもいずれ宰相に登用される。もしも国の大臣がみな鞭打ちの恥辱を与えられるのなら、我もいずれそのような目に会うではないか。我は伷先のために言ったのではない。天下の士君子のために言ったのだ。」
 嘉貞は言い返さなかった。
 23十二月,庚子,以十姓可汗阿史那懷道女爲交河公主,嫁突騎施可汗蘇禄。
23.十二月、庚子、十姓可汗阿史那懐道の娘を交河公主として、突騎施可汗蘇禄へ嫁がせた。
 24上將幸晉陽,因還長安。張説言於上曰:「汾陰脽上有漢家后土祠,其禮久廢;陛下宜因巡幸脩之,爲農祈穀。」上從之。
24.上は晋陽へ御幸しようとして、長安へ帰った。
 張説は上に言った。
「汾陰には漢家の后土祠がありますが、その礼が長い間廃れています。陛下は巡狩なさるのですから、立ち寄って修復し、農民のために豊作を祈られてください。」
 上はこれに従った。
 25上女永穆公主將下嫁,敕資送如太平公主故事。僧一行諫曰:「武后惟太平一女,故資送特厚,卒以驕敗,奈何爲法!」上遽止之。
25.上の娘永穆公主が下嫁しようとしたので、その嫁入り道具は太平公主に準じるよう敕が降りた。すると、僧一行が諫めて言った。
「武后にとって、太平公主は一人娘でした。ですから嫁入り道具も豪勢になり、驕慢にさせてその一生を台無しにしたのです。どうして手本にされるのですか!」
 上は、これを中止した。
十一年(癸亥、七二三)

 春,正月,己巳,車駕自東都北巡;庚辰,至潞州,給復五年;辛卯,至并州,置北都,以并州爲太原府,刺史爲尹;二月,戊申,還至晉州。
1.春、正月、己巳、車駕が東都から北巡した。
 庚辰、潞州へ到着した。(上は、かつて潞州別駕だったので、)五年間、税を免除した(?)。
 辛卯、并州へ到着した。北都を設置し、并州を太原府として、刺史を尹とした。(特に重要な州を「府」と称し、その長官は刺史ではなく「尹」と呼ぶ。)
 二月、戊申、晋州に帰った。
 張説與張嘉貞不平,會嘉貞弟金吾將軍嘉祐贓發,説勸嘉貞素服待罪於外。己酉,左遷嘉貞幽州刺史。
2.張説と張嘉貞が不仲になった。嘉貞の弟の金吾将軍嘉祐の収賄が発覚すると、説は嘉貞へ、外にて素服で罪を待つよう勧めた。
 己酉、嘉貞を幽州刺史に左遷した。
 壬子,祭后土於汾陰。乙卯,貶平遙令王同慶爲贛尉,坐廣爲儲偫,煩擾百姓也。
3.壬子、汾陰にて后土を祭った。
 乙卯、平遙令の王同慶を降格して贛尉とした。一族の横暴で百姓が苦しめたのに連座したのである(?)。
 癸亥,以張説兼中書令。
4.癸亥、張説に中書令を兼務させた。
 己巳,罷天兵、大武等軍,以大同軍爲太原以北節度使,領太原、遼、石、嵐、汾、代、忻、朔、蔚、雲十州。
5.己巳、天兵・大武などの軍を廃止した。大同軍を太原以北節度使とし、太原・遼・石・嵐・汾・代・忻・朔・尉(「草/尉」)・雲の十州を領知させた。
 三月,庚午,車駕至京師。
6.三月、庚午、車駕が京師に到着した。
 夏,四月,甲子,以吏部尚書王晙爲兵部尚書、同中書門下三品。
7.夏、四月、甲子、吏部尚書王晙を兵部尚書、同中書門下三品とした。
 五月,己丑,以王晙兼朔方軍節度大使,巡河西、隴右、河東、河北諸軍。
8.五月、己丑、王晙に朔方節度使を兼任させ、河西、隴右、河東、河北諸軍を巡回させた。
 上置麗正書院,聚文學之士。秘書監徐堅、太常博士會稽賀知章、監察御史鼓城趙冬曦等,或修書,或侍講,以張説爲修書使以總之,有司供給優厚。中書舍人洛陽陸堅以爲此屬無益於國,徒爲糜費,欲悉奏罷之。張説曰:「自古帝王於國家無事之時,莫不崇宮室,廣聲色。今天子獨延禮文儒,發揮典籍,所益者大,所損者微。陸子之言,何不達也!」上聞之,重説而薄堅。
9.上は麗正書院を設置し、秘書監徐堅、太常博士会稽の賀知章、監察御史鼓城の趙冬曦など文学の士をかきあつめ、書を修めさせ、あるいは講義をさせた。張説を修書としてこれの長とした。彼らは高給で優遇された。
 中書舎人洛陽の陸堅は、彼らが国の役に立たないのにいたずらに費用を浪費しているとし、これをことごとくやめるよう上奏した。すると、張説は言った。
「昔から、国家が無事の時の帝王は、宮室に贅沢をさせたり声色に溺れたりしたものです。それなのに今上の天子だけは文儒を礼遇し、典籍を修復しています。その利益は大きく、費用はわずかです。陸子の言葉は、なんと迂遠な事でしょうか!」
 上はこれを聞いて、説を重んじ堅を軽んじた。
 10秋,八月,癸卯,敕:「前令檢括逃人,慮成煩擾,天下大同,宜各從所樂,令所在州縣安集,遂其生業。」
10.秋、八月、癸卯、勅が下った。「前日、逃散した民を連れ戻すよう令を下したが、これでは民が苦労するかもしれない。天下は一つだ。好きなところで生きて行けばよい。現住の州県でよく慰撫して、なりわいがたつように計らってやれ。」
 11戊申,追尊宣皇帝廟號獻祖,光皇帝廟號懿祖,祔于太廟九室。
11.戊申、宣皇帝廟を獻祖とし、光皇帝廟を懿祖と追尊して、太廟九室へ付随させる。
 12先是,吐谷渾畏吐蕃之強,附之者數年,九月,壬申,帥衆詣沙州降,河西節度使張敬忠撫納之。
12.以前、吐谷渾は吐蕃の強盛を畏れ、数年来の属国だった。
 九月、壬申、吐谷渾が衆を率いて沙州を訪れて、降伏した。河西節度使張敬が彼らを慰撫して納めた。
 13冬,十月,丁酉,上幸驪山,作温泉宮;甲寅,還宮。
13.冬、十月、丁酉、上が驪山へ御幸し、温泉宮を作った。甲寅、宮殿に帰った。
 14十一月,禮儀使張説等奏,以高祖配昊天上帝,罷三祖並配之禮。戊寅,上祀南郊,赦天下。
14.十一月、礼儀使張説らは、高祖を天の上帝へ配して三祖並配の礼をやめるよう、上奏した。
 戊寅、上が南郊で祀り、天下へ特赦を下した。
 15戊子,命尚書左丞蕭嵩與京兆、蒲、同、岐、華州長官選府兵及白丁一十二萬,謂之「長從宿衞」,一年兩番,州縣毋得雜役使。
15.戊子、尚書左丞蕭嵩と京兆、蒲、同、岐、華州長官へ府兵及び白丁十二万人を選ばせた。これを「長従宿衛」と呼んだ。一年二交代とし、州県の雑用には使わせなかった。
 16十二月,甲午,上幸鳳泉湯;戊申,還宮。
16.十二月、甲午、上が鳳泉湯へ御幸した。戊申、宮殿へ帰った。
 17庚申,兵部尚書、同中書門下三品王晙坐黨引疏族,貶蘄州刺史。
17.庚申、兵部尚書、同中書門下三品王晙が、人事に私心を挟んだ罪で蘄州刺史に左遷された。
 18是歳,張説奏改政事堂曰中書門下,列五房於其後,分掌庶政。
18.この年、政事堂を中書門下と改称してその後方へ五房を並べて政治を全て分掌させるよう、張説が上奏した。
 19初,監察御史濮陽杜暹因按事至突騎施,突騎施饋之金,暹固辭。左右曰:「君寄身異域,不宜逆其情。」乃受之,埋於幕下,出境,移牒令取之。虜大驚,度磧追之,不及。及安西都護闕,或薦暹往使安西,人服其清愼。時暹自給事中居母憂。
19.話は前後するが、監察御史濮陽の杜暹が業務で突騎施へ行ったとき、突騎施は彼へ金を贈ったが、進は固辞した。すると、左右が言った。
「君は異郷に身を寄せているのですから、その主君の心へ逆らっては何かと不都合です。」
 そこでこれを受け取ったが、そのまま幕下へ埋め、国境を出てから書状で伝えて掘り返させた。虜は大いに驚いて後を追ったが、追いつけなかった。
 やがて、安西都護に欠員ができた。するとある者が、暹を推薦した。
「彼はかつて使者となって安西へ行きましたが、人々はその清廉さに心服しました。」
 その頃、暹は給事中で、母親の喪に服していた。
十二年(甲子、七二四)

 春,三月,甲子,起暹爲安西副大都護、磧西節度等使。
1.春、三月、甲子、暹を安西副大都護、磧西節度等使に起用した。
 神龍初,追復澤王上金官爵,求得庶子義珣於嶺南,紹其故封。許王素節之子瓘,利其爵邑,與弟璆謀,使人告義珣非上金子,妄冒襲封,復流嶺南,以璆繼上金後爲嗣澤王。至是,玉眞公主表義珣實上金子,爲瓘兄弟所擯。夏,四月,庚子,復立義珣爲嗣澤王,削璆爵,貶瓘鄂州別駕。壬寅,敕宗室旁繼爲嗣王者並令歸宗。
2.神龍年間初頭、澤王上金の官爵を追復し、その子息を捜して嶺南にて庶子義珣を見つけ、もとの封を与えた。
 許王素節の子息の瓘は、その爵邑を欲した。そこで弟の璆と共謀して、人を雇って「義珣が上金の子息ではないのに、妄りに封爵を継承した」との告発をさせた。義珣は再び嶺南へ流され、璆は上金の後を継いで嗣沢王となった。
 ここに至って、「義珣は上金の子息なのに、瓘兄弟から陥れられた。」と玉真公主が上表した。
 夏、四月、庚子、義珣を再び嗣沢王に立てた。璆の爵位を削り、瓘を鄂州別駕に左遷した。
 壬寅、「宗室の傍系で王位を継いだ者は全て宗室へ帰らせる」と勅が下った。
 壬子,命太史監南宮説等於河南、北平地測日晷及極星,夏至日中立八尺之表,同時候之。陽城晷長一尺四寸八分弱,夜視北極出地高三十四度十分度之四;浚儀岳臺晷長一尺五寸微強,極高三十四度八分;南至朗州晷長七寸七分,極高二十九度半;北至蔚州,晷長二尺二寸九分,極高四十度。南北相距三千六百八十八里九十歩,晷差一尺五寸二分,極差十度半。又南至交州,晷出表南三寸三分;八月,海中南望老人星下,衆星粲然,皆古所未名,大率去南極二十度以上皆見。
3.壬子、河南、北平の地にて、日時計と極星を測定するよう、太史監南宮説等へ命じた。夏至の日中に八尺の表を立てて同時に測定するのである。
 陽城では、影の長さが一尺四寸八分弱だった。夜、北極星を見ると、地面から三十四度と十分の四の高さだった。浚儀岳台では、影の長さが一尺五寸より僅かに長かった。極高は三十四度八分。南方の朗州へ至ったら、影の長さが七寸七分。極高は二十九度半。北方の蔚州では、影の長さが二尺二寸九分、極高は四十度。
 南北で三千六百八十八里九十歩離れると、影の長さは一尺五寸二分、極高は十度半違った。
 又、南の交州では、影は表の南へ三寸三分出た。
 八月、海中から老人星の下を望めば、多くの星が燦然と輝いていたが、皆、昔から名が付いていない星である。南極から、おおよそ二十度以上離れた星は、皆、見えた。(?)
 五月,丁亥,停諸道按察使。
4.五月、丁亥、諸道の按察使をやめた。
 六月,壬辰,制聽逃戸自首,闢所在閒田,隨宜收税,毋得差科征役,租庸一皆蠲免。仍以兵部員外郎兼侍御史宇文融爲勸農使,巡行州縣,與吏民議定賦役。
5.六月、壬辰、制により逃戸の自首を赦した。隠し田は適宜に税を徴収し、征役に差を付けてはいけない。租庸は皆、一律に免除した。
 兵部員外郎兼侍御史宇文融を進農使とし、州県を巡回させて、吏民と賦役を議定させた。
 上以山東旱,命臺閣名臣以補刺史;壬午,以黄門侍郎王丘、中書侍郎長安崔沔、禮部侍郎・知制誥韓休等五人出爲刺史。丘,同皎之從父兄子,休,大敏之孫也。
  初,張説引崔沔爲中書侍郎,故事,承宣制皆出宰相,侍郎署位而已。沔曰:「設官分職,上下相維,各申所見,事乃無失。侍郎,令之貳也,豈得拱默而已!」由是遇事多所異同,説不悅,故因是出之。
6.山東が旱害となったので、上は、台閣の名臣を刺史として下向させるよう命じた。 壬午、黄門侍郎の王丘、中書侍郎で長安の崔沔、礼部侍郎・知制誥の韓休ら五人を刺史として出向させた。丘は同皎の従父兄子、休は大敏の孫である。
 かつて、張説は崔沔を引き立てて中書侍郎とした。従来は、宣や制は全て宰相が出しており、侍郎(次官)というのは署名だけする役割だった。だが、沔は言った。
「官を設けて職務を分け、上下が補いあう。各々が意見を言ってこそ、過失は怒らないのだ。侍郎というのは、令の次官だ。なんで手を拱いて黙りこくっていて良いものか!」
 それで、決済事項の多くのことに異議を唱えた。説は気分を害したので、今回の出向となった。
 秋,七月,突厥可汗遣其臣哥解頡利發來求婚。
7.秋、七月、突厥可汗が臣下の哥解頡利發を派遣して、通婚を求めた。
 溪州蠻覃行璋反。以監門衞大將軍楊思勗爲黔中道招討使,將兵撃之。癸亥,思勗生擒行璋,斬首三萬級而歸。加思勗輔國大將軍,俸祿、防閤皆依品給。赦行璋,以爲洵水府別駕。
8.溪州蛮の覃行璋が造反した。監門衛大将軍楊思勗を黔中道招討使として、兵を与えてこれを攻撃させた。
 癸亥、思勗は行璋を生け捕りにし、三万の首を斬って帰京した。思勗に輔国大将軍を加え、俸禄、防閣は皆、品給に通りとした。
 行璋を赦し、洵水府別駕とした。
 姜皎既得罪,王皇后愈憂畏不安,然待下有恩,故無隨而譖之者,上猶豫不決者累歳。后兄太子少保守一,以后無子,使僧明悟爲后祭南北斗,剖霹靂木,書天地字及上名,合而佩之,祝曰:「佩此有子,當如則天皇后。」事覺,己卯,廢爲庶人,移別室安置;貶守一潭州別駕,中路賜死。戸都尚書張嘉貞坐與守一交通,貶台州刺史。
9.姜皎が罪を得て以来、王皇后はますます憂畏で不安になった。しかしながら、臣下へ恩徳を施していたので、皇后を無闇と讒言する者もいなかった。それで、上は数年間決断できなかった。
 皇后には子が居なかったので、后の兄の太子少保守一は、僧明悟に后のために南北斗を祭らせた。明悟は、霹靂の木を削り、「天地」の字と上の名前を書いたものを合わせて身につけ、祝って言った。
「この子を得て、則天武后のようになりますように。」
 これが発覚した。
 己卯、皇后を廃立して庶民とし、別室へ移して安置した。守一は潭州別駕へ降格されたが、途上にて自殺を命じた。戸部尚書張嘉貞は、守一と交遊があったので、台州刺史に左遷された。
 10八月,丙申,突厥哥解頡利發還其國;以其使者輕,禮數不備,未許婚。
10.八月、丙申、突厥の哥解頡利發を帰国させた。通婚については、使者の地位が軽く礼物が足りなかったとして、許さなかった。
 11己亥,以宇文融爲御史中丞。
  融乘驛周流天下,事無大小,諸州先牒上勸農使,後申中書;省司亦待融指撝,然後處決。時上將大攘四夷,急於用度,州縣畏融,多張虚數,凡得客戸八十餘萬,田亦稱是。歳終,增緡錢數百萬,悉進入宮;由是有寵。議者多言煩擾,不利百姓,上亦令集百寮於尚書省議之。公卿已下,畏融恩勢,不敢立異,惟戸部侍郎楊瑒獨抗議,以爲:「括客免税,不利居人。徴籍外田税,使百姓困弊,所得不補所失。」未幾,瑒爲華州刺史。
11.己亥、宇文融を御史中丞とした。
 融が天下を巡回すると、諸州では事の大小に関わらずまず進農使へ報告して、その後に中書へ報告した。省司もまた、融の指示を待ってから決議した。
 この頃、上はまさに四夷を掃討ようとしていたので、軍資をかき集めるのを急務としていた。州県は融を畏れ、多くは数字を誇張したので、客戸は八十万も増え、田もまた相応に増加した。年末には、税は緡数百万も増加したが、これは全て宮殿へ納入された。これによって寵を受けた。
 議者たちの多くは、民がかき乱され百姓に不利益だと述べたので、上は尚書省へ百寮を集めて議論させた。すると、公卿以下、融の恩徳と威勢を畏れて、敢えて異を唱える者は居なかった。ただ、戸部侍郎楊瑒が、ひとり抗議した。「客戸を一括して免税すれば、逃げなかった人間が不利です。隠田を籍に乗せて税を徴収すれば、百姓が困弊します。得たものは、失ったものを補えません。」
 それからすぐに、瑒は華州刺史に出向させられた。
 12壬寅,以開府儀同三司宋璟爲西京留守。
12.壬寅、開府儀同三司宋璟を西京留守とした。
 13冬,十月,丁酉,謝[風日]王特勒遣使入奏,稱「去年五月,金城公主遣使詣箇失密國,云欲走歸汝。箇失密王從臣國王借兵,共拒吐蕃。王遣臣入取進止。」上以爲然,賜帛遣之。
13.冬、十月、丁酉、謝[風日]王の特勒が使者を派遣して入奏し、称した。
「去年五月、金城公主が使者を筒失密国へ派遣し、亡命したいと言ってきました。筒失密王は、臣の国王に兵を借りて、ともに吐蕃を拒んだのです。そして王は臣を派遣し、吐蕃への逆侵攻を報告させたのです。」
 上は納得し、帛を賜り、帰した。
 14廢后王氏卒,後宮思慕后不已,上亦悔之。
14.廃后王氏が卒した。後宮の人々は后を思慕してやまず、上もまた廃立を悔いた。
 15十一月,庚午,上幸東都;戊寅,至東都。
15.十一月、庚午、上が東都へ御幸した。戊寅、東都に到着した。
 16辛巳,司徒申王撝薨,贈謚惠莊太子。
16.辛巳、司徒の申王撝が薨去した。恵荘太子と諡を贈った。
 17羣臣屢上表請封禪,閏月,丁卯,制以明年十一月十日有事于泰山。時張説首建封禪之議,而源乾曜不欲爲之,由是與説不平。
17.群臣は、しばしば上表して封禅を請うた。閏月、丁卯、明年十一月十日に泰山にて封禅すると制が下った。
 この時、張説は封禅の議の首建者だったが、源乾曜は封禅を欲しなかった。これによって、二人は不仲になった。
 18是歳,契丹王李鬱干卒,弟吐干襲位。
18.この年、契丹王李鬱干が卒した。弟の吐干が地位を踏襲した。
十三年(乙丑、七二五)

 春,二月,庚申,以御史中丞宇文融兼戸部侍郎。制以所得客戸税錢均充所在常平倉本;又委使司與州縣議作勸農社,使貧富相恤,耕耘以時。
1.春、二月、庚申、御史中丞宇文融が、戸部侍郎を兼任した。客戸を得て税銭を均等に徴集したのは、常平倉の基盤であると、制が下った。
 また、進農使司と州県へ勧農社の制作を委任した。これは、貧富が助け合って時期に従い農作業をさせるためのものである。
 乙亥,更命長從宿衞之士曰「彍騎」,分隸十二衞,總十二萬人爲六番。
2.乙亥、長従宿衛の士を「彍騎」と改名し、十二衛に分隷させた。合計十二万人を六交代制とした。
 上自選諸司長官有聲望者大理卿源光裕、尚書左丞楊承令、兵部侍郎寇泚等十一人爲刺史,命宰相、諸王及諸司長官、臺郎、御史餞於洛濱,供張甚盛。賜以御膳,太常具樂,内坊歌妓;上自書十韻詩賜之。光裕,乾曜之從孫也。
3.上自ら、諸司長官のうち声望のある者、大理卿源光裕、尚書左丞楊承令、兵部侍郎寇泚ら十一人を選び、刺史とした。諸王及び諸司長官、台郎、御史と洛濱にて盛大な餞別式を行った。御膳(天子の日常の常膳)を賜り、太常具楽を演奏し、内坊歌妓が顔を出す。上自ら十韻詩を書き、下賜した。
 光裕は、乾曜の従孫である。
 三月,甲午,太子嗣謙更名鴻;徙郯王嗣眞爲慶王,更名潭;陝王嗣昇爲忠王,更名浚;鄫王嗣眞爲棣王,更名洽;鄂王嗣初更名涓;鄄王嗣玄爲榮王,更名滉。又立子琚爲光王,濰爲儀王,澐爲穎王,澤爲永王,清爲壽王,洄爲延王,沭爲盛王,溢爲濟王。
4.三月、甲午、太子嗣謙を鴻と改名した。郯王嗣真を慶王とし、潭と改名した。陜王嗣昇を忠王とし浚と改名した。鄫王嗣真を棣王とし、洽と改名した。鄂王嗣初を涓と改名した。鄄王嗣玄を栄王とし、滉と改名した。また、子の琚を光王に、濰を儀王に、澐を穎王に、沢を永王に、清を壽王に、洄を延王に、沭を盛王に、溢を済王に立てた。
 丙申,御史大夫程行湛奏:「周朝酷吏來俊臣等二十三人,情状尤重,子孫請皆禁錮;傅遊藝等四人差輕,子孫不聽近任。」從之。
5.丙申、御史大夫程行湛が上奏した。
「周朝の酷吏では、来俊臣ら二十三人の情状は最も重いので、子孫はみな禁固にしてください。傅遊藝ら四人はやや軽いので、子孫は近習にしないでください。」
 これに従った。
 汾州刺史楊承令不欲外補,意怏怏,自言:「吾出守有由。」上聞之,怒,壬寅,貶睦州別駕。
6.汾州刺史楊承令は地方官を望んでいなかったので、怏々としており、自ら言った。
「吾が地方官になったのは、きっと誰かの作為があるのだ。」
 上はこれを聞いて怒った。
 壬寅、睦州別駕に左遷された。
 張説草封禪儀獻之。夏,四月,丙辰,上與中書門下及禮官、學士宴於集仙殿。上曰:「仙者憑虚之論,朕所不取。賢者濟理之具,朕今與卿曹合宴,宜更名曰集賢殿。」其書院官五品以上爲學士,六品以下爲直學士;以張説知院事,右散騎常侍徐堅副之。上欲以説爲大學士;説固辭而止。
7.張説が、封禅の儀礼の草稿を封書で献上した。
 夏、四月、丙辰、上と中書門下および礼官、学士が集仙殿にて宴会を開いた。
 上は言った。
「仙人は憑虚の論で、朕は信じていない。賢者には済理が備わっている。朕は今、卿等と宴遊している。この殿の名を集賢殿と改名するべきだ。」
 その書院官は五品以上を学士とし、六品以下を直学士とする。張説を知院事、右散騎常侍徐堅をその副官とする。
 上は、張説を大学士としたかったが、説が固辞したので、やめた。
 説以大駕東巡,恐突厥乘間入寇,議加兵守邊,召兵部郎中裴光庭謀之。光庭曰:「封禪者,告成功也。今將升中于天,而戎狄是懼,非所以昭盛德也。」説曰:「然則若之何?」光庭曰:「四夷之中,突厥爲大,比屢求和親,而朝遷羈縻,未決許也。今遣一使,徴其大臣從封泰山,彼必欣然承命;突厥來,則戎狄君長無不皆來。可以偃旗臥鼓,高枕有餘矣。」説曰「善,説所不及。」即奏行之。光庭,行儉之子也。
  上遣中書直省袁振攝鴻臚卿,諭旨於突厥,小殺與闕特勒、暾欲谷環坐帳中,置酒,謂振曰:「吐蕃,狗種;奚、契丹,本突厥奴也;皆得尚主。突厥前後求婚獨不許,何也?且吾亦知入蕃公主皆非天子女,今豈問眞偽!但屢請不獲,愧見諸蕃耳。」振許爲之奏請。小殺乃使其大臣阿史德頡利發入貢,因扈從東巡。
8.説は、大駕が東巡する隙に乗じて突厥が入寇する事を畏れ、辺境の守備を固めようと、兵部郎中裴光庭を召して、これと謀った。光庭は言った。
「封禅は、天へ成功を告げるもの。今、中天へ昇ろうとゆうのに、戎狄を懼れるなど、盛徳ではありません。」
 説は言った。
「それならば、どうするのだ?」
「四夷の中では、突厥が最も強大です。ここで和親を求めて籠絡しようとしても、心を許せません。そこで、使者を派遣して彼らの大臣を徴集し、泰山の封禅へ随従させるのです。彼は絶対、大喜びで従います。突厥が来たら、戎狄の君長は皆、必ずやってきます。そうしたら、旗を巻き太鼓を伏せても枕を高くして余りあります。」
「善いぞ。説は考えもしなかった。」
 光庭は行倹の子息である。
 上は中書直省袁振を摂鴻臚卿として派遣し、突厥へ旨を諭した。小殺と闕特勒、暾欲谷は帳中で車座になって酒を出し、振へ言った。
「吐蕃は狗種、奚、契丹は、もともと突厥の属国。なのに彼等は皆、公主を娶っている。突厥は何度も通婚を求めたが、許されなかった。これはどういうことだ?もちろん、吾は蕃へ嫁いだ公主が皆、天子の娘ではないことは知っているが、今は真偽などどうでも良い!ただ、しばしば請うても叶えられなければ、諸蕃へ会うのが恥ずかしいだけだ!」
 振は、彼の為に奏聞することを約束した。小殺はその大臣阿史徳頡利發を入貢させ、東巡へ随従させた。
 五月,庚寅,妖賊劉定高帥衆夜犯通洛門;悉捕斬之。
9.五月、庚寅、妖賊劉定高が衆を率いて夜に通洛門を犯した。ことごとく捕らえて、これを斬った。
 10秋,八月,張説議封禪儀,請以睿宗配皇地祇;從之。
10.秋、八月、張説が封禅の儀を議し、睿宗を皇地祗へ配するよう請うた。これに従った。
 11九月,丙戌,上謂宰臣曰:「春秋不書祥瑞,惟記有年。」敕自今州縣毋得更奏祥瑞。
11.九月、丙戌、上が宰臣へ言った。
「春秋は祥瑞を書かない。ただ、『有年』と記すだけだ。」
 そして、今後州県は祥瑞を上奏しないよう、勅した。
 12冬,十月,癸丑,作水運渾天成,上具列宿,注水激輪,令其自轉,晝夜一周。別置二輪,絡在天外,綴以日月,逆天而行,淹速合度。置木匱爲地平,令儀半在地下,又立二木人,毎刻撃鼓,毎辰撃鐘,機械皆藏匱中。
12.冬、十月、癸丑、作らせていた水運渾天が完成した。(以下の文章は翻訳できませんでした。たぶん、天文関係のからくりです。水の力で自転する地球儀でしょうか?私は、当時の化学レベルを知りません。唐代の人々が天動説を信じていたのか、地動説を信じていたのか。十二年の3.は、地球が丸いとゆうことを、玄宗皇帝の命令で測定したのですね。わざわざこんな事をしたとゆうのは、新しい知識を検証したとゆうことでしょう。当時、もっとも科学レベルが高かったのは中近東だったそうですから、そこから何かの知識が輸入されたものだと推測します。)
 13辛酉,車駕發東都,百官、貴戚、四夷酋長從行。毎置頓,數十里中人畜被野;有司輦載供具之物,數百里不絶。
  十一月,丙戌,至泰山下,御馬登山。留從官於谷口,獨與宰相及祠官倶登,儀衞環列於山下百餘里。上問禮部侍郎賀知章曰:「前代玉牒之文,何故秘之?」對曰:「或密求神仙,故不欲人見。」上曰:「吾爲蒼生祈福耳。」乃出玉牒,宣示羣臣。庚寅,上祀昊天上帝於山上,羣臣祀五帝百神於山下之壇;其餘倣乾封故事。辛卯,祭皇地祇於社首。壬辰,上御帳殿,受朝覲,赦天下,封泰山神爲天齊王,禮秩加三公一等。
  張説多引兩省吏及以所親攝官登山。禮畢推恩,往往加階超入五品而不及百官;中書舍人張九齡諫,不聽。又,扈從士卒,但加勳而無賜物,由是中外怨之。
13.辛酉、車駕が東都を出発した。百官、貴戚、四夷の酋長が随行した。宿営するごとに、数十里が人と家畜で覆われた。役人が運ぶ供え物の行列は、数百里も絶えずに続いた。
 十一月、丙戌、泰山の下に到着した。御馬が登山した。従官は谷口に留め、宰相と祠官だけが皇帝と共に登った。護衛の人間は、山の下数百里を取り巻いた。
 上は、礼部侍郎賀知章に問うた。
「前代はどうして玉牒の文を秘密にしていたのか?」
 対して答えた。
「あるいは密かに神仙を求めたので、他人に見られたくなかったのかも知れません。」
 すると、上は言った。
「吾は人民のために幸せを祈りたいだけだ。」
 そこで、 玉牒を出して群臣へ宣示した。
 庚寅、上は山上で昊天上帝を祀った。群臣は山下の祭壇で五帝百神を祀った。その他は、乾封の故事に倣った。
 辛卯、社首にて皇地祗を祭った。
 壬辰、上は帳殿へ出向いて朝覲を受け、天下へ恩赦を下した。泰山の神を天斉王に封じ、礼秩は三公一等を加えた。
 張説は中書省と門下省の官吏だけをひいきして、親しんでいる摂官は登山させた。儀式が終わると、彼らは往々にして加階され五品以上へ入ったが、この加階は百官へ公平に行われはしなかった。中書舎人張九齢が諫めたが、聞きいれられなかった。また、随従した士卒には加勲されただけで、賜物がなかった。これによって、中外が怨んだ。
 14初,隋末國馬皆爲盜賊及戎狄所掠,唐初纔得牝牡三千匹於赤岸澤,徙之隴右,命太僕張萬歳掌之。萬歳善於其職,自貞觀至麟德,馬蕃息及七十萬匹,分爲八坊、四十八監,各置使以領之。是時天下以一縑易一馬。垂拱以後,馬潛耗太半。上初即位,牧馬有二十四萬匹,以太僕卿王毛仲爲内外閑厩使,少卿張景順副之。至是有馬四十三萬匹,牛羊稱是。上之東封,以牧馬數萬匹從,色別爲羣,望之如雲錦。上嘉毛仲之功,癸巳,加毛仲開府儀同三司。
  甲午,車駕發泰山;庚申,幸孔子宅致祭。
  上還,至宋州,宴從官於樓上,刺史寇泚預焉。酒酣,上謂張説曰:「曏者屢遣使臣分巡諸道,察吏善惡,今因封禪歴諸州,乃知使臣負我多矣。懷州刺史王丘,餼牽之外,一無他獻。魏州刺史崔沔,供張無錦繍,示我以儉。濟州刺史斐耀卿,表數百言,莫非規諫,且曰:『人或重擾,則不足以告成。』朕常置之坐隅,且以戒左右。如三人者,不勞人以市恩,眞良吏矣。」顧謂寇泚曰:「比亦屢有以酒饌不豐訴於朕者,知卿不借譽於左右也。」自舉酒賜之。宰臣帥羣臣起賀,樓上皆稱萬歳。由是以丘爲尚書左丞,沔爲散騎侍郎,耀卿爲定州刺史。耀卿,叔業之七世孫也。
  十二月,乙巳,還東都。
14.かつて、隋末の国の馬は全て盗賊や戎狄に掠奪されてしまった。唐初に赤岸沢で雄雌あわせて僅か三千匹の馬を得た。これらは隴右へ移して太僕の張万歳に管理させた。萬歳はこの職務に優秀で、貞観から麟徳にかけて、馬は七十万匹に増えた。そこで、これを八坊、四十八監に分けて、各々使を置いてこれを管理させた。この頃には、天下では一縑で馬一匹が交換できた。だが、垂拱以後、馬はどんどん減っていった。
 上が即位した頃、牧馬は二十四万匹いた。太僕卿王毛仲を内外閑厩使として、少卿張景順を副官とした。こうして、馬は四十三万匹に増え、牛や羊も同じように増えた。
 上が泰山で封禅をした時、牧馬数万匹を連れていった。この時、馬は同色毎に群にしたので、遠くから見ると、まるで錦の雲のようだった。上は毛仲の功績を嘉し、癸巳、毛仲へ開府儀同三司を加えた。
 甲午、車駕が泰山を出発した、庚申、孔子宅へ御幸して、祭をした。
 上が帰って宋州まで来ると、楼上にて随従の官吏たちと宴会を開き、刺史の寇泚もこれに参加することができた。宴たけなわにて、上が張説へ言った。
「かつて、しばしば使臣達を諸道へ派遣して地方官の善悪を観察させた。今、封禅の為に諸州を巡ってみて、使臣の報告に虚偽が多いことが判った。懐州刺史王丘は穀物の他、一切献上しなかった。魏州刺史崔沔は、装飾に錦繍を使わず、我へ倹約を示した。済州刺史裴輝卿は数百言を上表したが、規諫とならぬ言葉はなかった。その上、言った。『人々へ苦労を掛ければ、封禅をする価値がありません。』朕は常にこれを座の側に置き、左右の戒めとしている。この三人は、民を苦しめてまで手柄を買おうとはしない。真の良吏だ。」
 そして、寇泚を顧みて言った。
「これもまた、しばしば酒饌が不足すると朕へ訴えた。だから、卿が左右へ媚びないことを知ったのだ。」
 自ら酒を挙げてこれへ賜った。
 宰臣は群臣を率いて立ち上がり祝賀し、楼上の皆は万歳を唱えた。
 これによって丘は尚書左丞となり、沔は散騎侍郎となり、輝卿は定州刺史となった。輝卿は叔業の七世の子孫である。
 十二月、乙巳、東都へ帰った。
 15突厥頡利發辭歸,上厚賜而遣之,竟不許婚。
15.突厥頡利發が帰国の挨拶に来た。上は厚く賜をして帰したが、通婚はついに許さなかった。
 16王毛仲有寵於上,百官附之者輻湊。毛仲嫁女,上問何須。毛仲頓首對曰:「臣萬事已備,但未得客。」上曰:「張説、源乾曜輩豈不可呼邪?」對曰:「此則得之。」上曰:「知汝所不能致者一人耳,必宋璟也。」對曰:「然。」上笑曰:「朕明日爲汝召客。」明日,上謂宰相:「朕奴毛仲有婚事,卿等宜與諸達官悉詣其第。」既而日中,衆客未敢舉筯,待璟。久之,方至,先執酒西向拜謝,飲不盡巵,遽稱腹痛而歸。璟之剛直,老而彌篤。
16.王毛仲は上に寵用されていたので、百官の多くが彼に媚びた。毛仲の娘が結婚する時、上は何が欲しいか尋ねると、毛仲は首を振って答えた。
「臣に不足する物はありませんが、ただ、婚礼の賓客がおりません。」
「張説、源輝曜の輩をどうして呼ばないのか?」
「いえ、彼らは来てくれます。」
「汝が呼べない物は一人だけ。宋璟に違いあるまい。」
「そうです。」
 上は笑って言った。
「朕は明日、おまえのために賓客を呼んでやろう。」
 翌日、上は宰相へ言った。
「朕の奴隷の毛仲の娘が結婚するのだ。卿らと大臣たちは全身彼の第を訪問せよ。」
 日中になると、大勢の客は宴会も始めずに璟を待った。久しくしてやって来ると、璟はまず酒を執って西へ向かって拝礼し(君命に対して拝礼したので、毛仲のために来たのではないことを示した。)、巵(祝事用の小さい杯)を飲み干しもしないで「腹痛がする」と言って帰った。
 璟の剛直は、老いて益々厳しくなった。
 17先是,契丹王李吐干與可突干復相猜忌,攜公主來奔,不敢復還,更封遼陽王,留宿衞;可突干立李盡忠之弟邵固爲主。車駕東巡,邵固詣行在,因從至泰山,拜左羽林大將軍、靜折軍經略大使。
17.話は前後するが、契丹王李吐干は、可突干と互いに猜疑しあうようになっていた。ついに李吐干は、公主を連れて来奔してきたまま、故国に帰ろうとしなかった。唐では、遼陽王に立て、宿衛に留めた。
 可突干は李盡忠の弟の邵固を主にした。
 車駕が東巡した折り、邵固は行在所へやって来て、そのまま泰山に随従した。そして、左羽林大将軍、静折軍経略大使を拝受した。
 18上疑吏部選試不公,時選期已迫,御史中丞宇文融密奏,請分吏部爲十銓。甲戌,以禮部尚書蘇頲等十人掌吏部選,試判將畢,遽召入禁中決定,吏部尚書、侍郎皆不得預。左遮子呉兢上表,以爲:「陛下曲受讒言,不信有司,非居上臨人推誠感物之道。昔陳平、邴吉,漢之宰相,尚不對錢穀之數,不問鬭死之人;況大唐萬乘之君,豈得下行銓選之事乎!凡選人書判,並請委之有司,停此十銓。」上雖不即從,明年復故。
18.上は、吏部の選試が不公平ではないかと疑っていた。人選の時期が迫って来ると、御史中丞宇文融が、吏部を十部に分けるよう密かに奏上した。
 甲戌、礼部尚書蘇頲ら十人に吏部の人選を分掌させた。試判が終わると、彼らを禁中へ召集して決定した。吏部尚書も侍郎も、人選に関与できなかった。
 左庶子吾兢が上表した。
「陛下は讒言を受け入れて臣下を信じない。これは人の上に臨む人間が誠意を推して人を動かす道ではありません。昔、陳平や邴吉は漢の宰相でしたが、それでもなお銭穀の数量や喧嘩での死人を気に掛けませんでした。ましてや大唐の万乗の君が、どうして下級官吏の人選など気に掛けますのか!選人書判などは所定の役人へ委ね、十部など廃止してください。」
 上は即座には従わなかったが、翌年にもとへ戻した。
 19是歳,東都斗米十五錢,靑、齊五錢,粟三錢。
19.この年、東都は一斗の米が十五銭だった。青州や斉では五銭、粟は三銭だった。
 20于闐王尉遲眺陰結突厥及諸胡謀叛,安西副大都護杜暹發兵捕斬之,更爲立王。

20.于闐王尉遅眺が、密かに突厥や諸胡と結んで造反を謀った。安西副大都護杜進が兵を発してこれを捕らえて斬り、新しい王を立てた。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:40
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