開元二十二年(甲戌、七三四)1.春、正月、己巳、上が西京を出発した。己丑、東都へ到着した。
1春,正月,己巳,上發西京;己丑,至東都。張九齡自韶州入見,求終喪;不許。
2二月,壬寅,秦州地連震,壞公私屋殆盡,吏民壓死者四千餘人;命左丞相蕭嵩賑恤。2.二月、壬寅、秦州にて地震が続いた。公私の家屋は殆ど壊れつくした。吏民の死者は四千余人。左丞相蕭嵩に救済を命じた。
3方士張果自言有神仙術,誑人云堯時爲侍中,於今數千歳;多往來恆山中,則天以來,屢徴不至。恆州刺史韋濟薦之,上遣中書舍人徐嶠齎璽書迎之。庚寅,至東都,肩輿入宮,恩禮甚厚。3.方士の張果は、自ら神仙の術があると言い、「堯の時には侍中だった。今年で数千歳だ。」と、民を誑かした。普段は恒山の中を往来しており、則天武后以来しばしば朝廷から招かれたが、やって来たことはなかった。
4張九齡請不禁鑄錢,三月,庚辰,敕百官議之。裴耀卿等皆曰:「一啓此門,恐小人棄農逐利,而濫惡更甚。」秘書監崔沔曰:「若税銅折役,則官冶可成,計估度庸,則私鑄無利,易而可久,簡而難誣。且夫錢之爲物,貴以通貨,利不在多,何待私鑄然後足用也!」右監門録事參軍劉秩曰:「夫人富則不可以賞勸,貧則不可以威禁,若許其私鑄,貧者必不能爲之;臣恐貧者益貧而役於富,富者益富而逞其欲。漢文帝時,呉王濞富埒天子,鑄錢所致也。」上乃止。秩,子玄之子也。4.張九齢が、銭の鋳造を禁止しないよう請うた。三月、庚辰、これを協議するよう百官に敕が下った。
5夏,四月,壬辰,以朔方節度使信安王禕兼關内道采訪處置使,增領涇、原等十二州。5.夏、四月、壬辰、朔方節度使信安王禕が関内道采訪處置使を兼任し、涇・原など十二州が増領された。
6吏部侍郎李林甫,柔佞多狡數,深結宦官及妃嬪家,伺候上動靜,無不知之,由是毎奏對,常稱旨,上悅之。時武惠妃寵幸傾後宮,生壽王清,諸子莫得爲比,太子浸疏薄。林甫乃因宦官言於惠妃,願盡力保護壽王;惠妃德之,陰爲内助,由是擢黄門侍郎。五月,戊子,以裴耀卿爲侍中,張九齡爲中書令,林甫爲禮部尚書、同中書門下三品。6.吏部侍郎李林甫は、柔佞で狡猾、悪智恵が働く人間で、宦官や妃嬪の家と深く結託し、上の動静を窺って全て知り尽くしていた。だから、上奏文も対話も全てつぼを得ており、上はこれを悦んだ。
7上種麥於苑中,帥太子以來親往芟之,謂曰:「此所以薦宗廟,故不敢不親,且欲使汝曹知稼穡艱難耳。」又遍以賜侍臣曰:「比遣人視田中稼,多不得實,故自種以觀之。」7.上が苑中にて麦を播いた。太子以下を率いて、彼らには草を刈らせて言った。
8六月,壬辰,幽州節度使張守珪大破契丹,遣使獻捷。8.六月、壬辰、幽州節度使張守珪が、契丹を大いに破った。使者を派遣して、戦勝を報告した。
9薛王業疾病,上憂之,容髪爲變。七月,己巳,薨,贈謚惠宣太子。9.薛王業が病気になった。上はこれを憂え、容貌はやつれ髪はぼさぼさになるほどだった。七月、己巳、薨去した。恵宣太子と諡した。
10上以裴耀卿爲江淮、河南轉運使,於河口置輸場。八月,壬寅,於輸場東置河陰倉,西置柏崖倉,三門東置集津倉,西置鹽倉;鑿漕渠十八里以避三門之險。先是,舟運江、淮之米至東都含嘉倉,僦車陸運,三百里至陝,率兩斛用十錢。耀卿令江、淮舟運悉輸河陰倉,更用河舟運至含嘉倉及太原倉,自太原倉入渭輸關中,凡三歳,運米七百萬斛,省僦車錢三十萬緡。或説耀卿獻所省錢,耀卿曰:「此公家贏縮之利耳,奈何以之市寵乎!」悉奏以爲市糴錢。10.上は、裴耀卿を江淮・河南転運使として、河口へ輸場を設置した。
11張果固請歸恆山,制以爲銀靑光祿大夫,號通玄先生,厚賜而遣之。後卒,好異者奏以爲尸解;上由是頗信神仙。11.張果が恒山に帰ることを固く請うた。制によって銀青光禄大夫とし、通玄先生と号した。厚く下賜してこれに遣した。
12冬,十二月,戊子朔,日有食之。12.冬、十二月、戊子朔、日食が起こった。
13乙巳,幽州節度使張守珪斬契丹王屈烈及可突干,傳首。13.乙巳、幽州節度使張守珪が契丹王屈烈と可突干を斬り、首を送ってきた。
時可突干連年爲邊患,趙含章、薛楚玉皆不能討。守珪到官,屢撃破之。可突干困迫,遣使詐降,守珪使管記王悔就撫之。悔至其牙帳,察契丹上下殊無降意,但稍徙營帳近西北,密遣人引突厥,謀殺悔以叛;悔知之。牙官李過折與可突干分典兵馬,爭權不叶,悔説過折使圖之。過折夜勒兵斬屈烈及可突干,盡誅其黨,帥餘衆來降。守珪出師紫蒙州,大閲以鎭撫之,梟屈烈、可突干首于天津之南。
14突厥毗伽可汗爲其大臣梅録啜所毒,未死,討誅梅録啜及其族黨。既卒,子伊然可汗立。尋卒,弟登利可汗立。庚戌,來告喪。14.突厥の毘伽可汗がその大臣の梅録啜に毒を盛られた。だが、死ぬ前に梅録啜とその族党を討誅した。
15禁京城匄者,置病坊以廩之。15.京城での物乞いを禁じ、彼らを病坊に置いて食事を与えた。(当時、病坊は諸寺に分置されていた。)
二十三年(乙亥、七三五)1.春、正月、契丹の知兵馬中郎李過折が来朝して戦勝を告げた。制を下して過折を北平王、検校松漠都督とした。
1春,正月,契丹知兵馬中郎李過折來獻捷;制以過折爲北平王,檢校松漠州都督。
乙亥,上耕藉田,九推乃止;公卿以下皆終畝。赦天下,都城酺三日。
上御五鳳樓酺宴,觀者喧隘,樂不得奏,金吾白梃如雨,不能遏;上患之。高力士奏河南丞嚴安之爲理嚴,爲人所畏,請使止之;上從之。安之至,以手板繞場畫地曰:「犯此者死!」於是盡三日,人指其畫以相戒,無敢犯者。
時命三百里内刺史、縣令各帥所部音樂集於樓下,各較勝負。懷州刺史以車載樂工數百,皆衣文繡,服箱之牛皆爲虎豹犀象之状。魯山令元德秀惟遣樂工數人,連袂歌于蔿。上曰:「懷州之人,其塗炭乎!」立以刺史爲散官。德秀性介潔質樸,士大夫皆服其高。
2上美張守珪之功,欲以爲相,張九齡諫曰:「宰相者,代天理物,非賞功之官也。」上曰:「假以其名而不使任其職,可乎?」對曰:「不可。惟名與器不可以假人,君之所司也。且守珪纔破契丹,陛下即以爲宰相;若盡滅奚、厥,將以何官賞之?」上乃止。二月,守珪詣東都獻捷,拜右羽林大將軍,兼御史大夫,賜二子官,賞賚甚厚。2.上は張守珪の功績を美として宰相にしたがったが、張九齢が諫めた。
3初,殿中侍御史楊汪既殺張審素,更名萬頃。審素二子瑝、琇皆幼,坐流嶺表;尋逃歸,謀伺便復讎。三月,丁卯,手殺萬頃於都城。繋表於斧,言父冤状;欲之江外殺與萬頃同謀陷其父者。至汜水,爲有司所得。議者多言二子父死非罪,穉年孝烈能復父讎,宜加矜宥;張九齡亦欲活之。裴耀卿、李林甫以爲如此,壞國法,上亦以爲然,謂九齡曰:「孝子之情,義不顧死;然殺人而赦之,此塗不可啓也。」乃下敕曰:「國家設法,期於止殺。各伸爲子之志,誰非徇孝之人!展轉相讎,何有限極!咎繇作士,法在必行。曾參殺人,亦不可恕。宜付河南府杖殺。」士民皆憐之,爲作哀誄,牓於衢路。市人斂錢葬之於北邙。恐萬頃家發之,仍爲作疑冢凡數處。3.話は前後するが、殿中御史揺汪は張審素を殺した後、万頃と改名した。審素の二人の子の瑝と琇は連座で嶺表へ流されたが、逃げ出し、復讐を謀った。
4唐初,公主實封止三百戸,中宗時,太平公主至五千戸,率以七丁爲限。開元以來,皇妹止千戸,皇女又半之,皆以三丁爲限;駙馬皆除三品員外官,而不任以職事。公主邑入少,至不能具車服,左右或言其太薄,上曰:「百姓租賦,非我所有。戰士出死力,賞不過束帛;女子何功,而享多戸邪?且欲使之知儉嗇耳。」秋,七月,咸宜公主將下嫁,始加實封至千戸。公主,武惠妃之女也。於是諸公主皆加至千戸。4.唐の当初、公主の実封は、三百戸に留まっていた。中宗の御代、太平公主は五千戸となり、七丁までを上限とした。開元以来、皇妹は千戸に止まり、皇女はこの半分で、みな、三丁を上限とした。駙馬は三品の外官に除し、実際の職務にはつかせなかった。
5冬,十月,戊申,突騎施寇北庭及安西撥換城。5.冬、十月、戊申、突騎施が北庭及び安西の撥換城へ来寇した。
6閏月,壬午朔,日有食之。6.閏月、壬午朔、日食が起こった。
7十二月,乙亥,冊故蜀州司戸楊玄琰女爲壽王妃。玄琰,汪之曾孫也。7.十二月、乙亥、もとの蜀州司戸楊玄琰の娘を寿王の妃に冊立した。
8是歳,契丹王過折爲其臣涅禮所殺,并其諸子,一子刺乾奔安東得免。涅禮上言,過折用刑殘虐,衆情不安,故殺之。上赦其罪,因以涅禮爲松漠都督,且賜書責之曰:「卿之蕃法多無義於君長,自昔如此,朕亦知之。然過折是卿之王,有惡輒殺之,爲此王者,不亦難乎!但恐卿今爲王,後人亦爾。常不自保,誰願作王!亦應防慮後事,豈得取快目前!」突厥尋引兵東侵奚、契丹,涅禮與奚王李歸國共撃破之。8.この年、契丹王過折がその臣涅礼に殺された。その諸子も殺されたが、ただ一人刺乾だけが安東へ逃げて免れた。
二十四年(丙子、七三六)1.春、正月、庚寅、勅が下った。
1春,正月,庚寅,敕:「天下逃戸,聽盡今年内自首,有舊産者令還本貫,無者別俟進止;踰限不首,當命專使搜求,散配諸軍。」
2北庭都護蓋嘉運撃突騎施,大破之。2.北庭都護蓋嘉運が突騎施を攻撃し、これを大いに破った。
3二月,甲寅,宴新除縣令於朝堂,上作令長新戒一篇,賜天下縣令。3.二月、甲寅、朝堂にて新任の県令達と宴会を催した。上は「令長城戒」一篇を作り、天下の県令に下賜した。
4庚午,更皇子名:鴻曰瑛,潭曰琮,浚曰璵,洽曰琰,涓曰瑤,滉曰琬,涺曰琚,濰曰璲,澐曰璬,澤曰璘,淸曰瑁,洄曰玢,沭曰琦,溢曰環,沔曰理,泚曰玼,漼曰珪,澄曰珙,潓曰瑱,漎曰璿,滔曰璥。4.庚午、皇子の名を改名した。鴻を瑛,潭を琮、浚を璵、洽を琰、涓を瑤、滉を琬、涺を琚、濰を璲、澐を璬、澤を璘、清を瑁、洄を玢、沭を琦、溢を環、沔を理、泚を玼、漼を珪、澄を珙、潓を瑱、漎を璿、滔を璥とした。
5舊制,考功員外郎掌試貢舉人。有進士李權,陵侮員外李昂,議者以員外郎位卑,不能服衆;三月,壬辰,敕自今委禮部侍郎試貢舉人。5.旧制では、推挙された人間の試験は員外郎が行っていた。ところが、その席で進士の李権が、員外の李昴を陵侮した。この件に関して、議者は、「員外郎は官位が低いので衆人が服さない」と結論を出した。
6張守珪使平盧討撃使、左驍衞將軍安祿山討奚、契丹叛者,祿山恃勇輕進,爲虜所敗。夏,四月,辛亥,守珪奏請斬之。祿山臨刑呼曰:「大夫不欲滅奚、契丹邪,奈何殺祿山!」守珪亦惜其驍勇,乃更執送京師。張九齡批曰:「昔穰苴誅莊賈,孫武斬宮嬪,守珪軍令若行,祿山不宜免死。」上惜其才,敕令免官,以白衣將領。九齡固爭曰:「祿山失律喪師,於法不可不誅。且臣觀其貌有反相,不殺必爲後患。」上曰:「卿勿以王夷甫識石勒,枉害忠良。」竟赦之。6.張守珪が、平盧討撃使・左驍衛将軍の安禄山に奚・契丹の造反者を討伐させた。禄山は、勇を恃んで軽々しく進軍し、虜に敗北してしまった。
安祿山者,本營州雜胡,初名阿犖山。其母,巫也;父死,母攜之再適突厥安延偃。會其部落破散,與延偃兄子思順倶逃來,故冒姓安氏,名祿山。又有史窣干者,與祿山同里閈,先後一日生。及長,相親愛,皆爲互市牙郎,以驍勇聞。張守珪以祿山爲捉生將,祿山毎與數騎出,輒擒契丹數十人而返。狡猾,善揣人情,守珪愛之,養以爲子。
窣干嘗負官債亡入奚中,爲奚游弈所得,欲殺之;窣干紿曰:「我,唐之和親使也,汝殺我,禍且及汝國。」游弈信之,送詣牙帳。窣干見奚王,長揖不拜,奚王雖怒,而畏唐,不敢殺,以客禮館之,使百人隨窣干入朝。窣干謂奚王曰:「王所遣人雖多,觀其才皆不足以見天子。聞王有良將瑣高者,何不使之入朝!」奚王即命瑣高與牙下三百人隨窣干入朝。窣干將至平盧,先使人謂軍使裴休子曰:「奚使瑣高與精鋭倶來,聲云入朝,實欲襲軍城,宜謹爲之備,先事圖之。」休子乃具軍容出迎,至館,悉阬殺其從兵,執瑣高送幽州。張守珪以窣干爲有功,奏爲果毅,累遷將軍。後入奏事,上與語,悅之,賜名思明。
7故連州司馬武攸望之子温眘,坐交通權貴,杖死。乙丑,朔方、河東節度使信安王禕貶衢州刺史,廣武王承宏貶房州別駕,涇州刺史薛自勸貶澧州別駕;皆坐與温眘交遊故也。承宏,守禮之子也。辛未,蒲州刺史王琚貶通州刺史;坐與禕交書也。7.もとの連州司馬武攸望の子息温眘は、権貴と交際した罪で、杖で打ち殺された。
8五月,醴泉妖人劉志誠作亂,驅掠路人,將趣咸陽。村民走告縣官,焚橋斷路以拒之,其衆遂潰,數日,悉擒斬之。8.五月、醴泉の妖人劉志誠が乱を起こした。途上で掠奪をしながら咸陽へ向かった。村人が走って県官へ報告したので、橋を焼き払って進路を絶ちこれを拒んだ。賊衆は潰え、数日して悉くこれを捕らえ、殺した。
9六月,初分月給百官俸錢。9.六月、初めて百官の棒銭を月割りとした。
10初,上因藉田赦,命有司議增宗廟籩豆之薦及服紀未通者。太常卿韋縚奏請宗廟毎坐籩豆十二。10.以前、上が田を耕して恩赦を下したおり、宗廟の供え物や服紀がまだ通じていないものを増やす件について、管轄の官吏へ協議するよう命じていた。太常卿韋縚は、宗廟ごとに籩(タカツキ。古代の祭祀の時、果物を盛った器)豆を十二にするよう奏請した。
兵部侍郎張均、職方郎中韋述議曰:「聖人知孝子之情深而物類之無限,故爲之節制。人之嗜好本無憑準,宴私之饌與時遷移,故聖人一切同歸於古。屈到嗜芰,屈建不以薦,以爲不以私欲干國之典。今欲取甘旨肥濃,皆充祭用,苟踰舊制,其何限焉!書曰:『黍稷非馨,明德惟馨。』若以今之珍饌,平生所習,求神無方,何必泥古,則簠簋可去而盤盂盃案當在御矣,韶濩可息而箜篌箏笛當在奏矣。既非正物,後嗣何觀!夫神,以精明臨人者也,不求豐大;苟失於禮,雖多何爲!豈可廢棄禮經以從流俗!且君子愛人以禮,不求苟合;況在宗廟,敢忘舊章!」
太子賓客崔沔議曰:「祭祀之興,肇於太古。茹毛飲血,則有毛血之薦;未有麴蘖,則有玄酒之奠。施及後王,禮物漸備;然以神道致敬,不敢廢也。籩豆簠簋樽罍之實,皆周人之時饌也,其用通於宴饗賓客,而周公制禮,與毛血玄酒同薦鬼神。國家由禮立訓,因時制範,清廟時饗,禮饌畢陳,用周制也。園寢上食,時膳具設,遵漢法也。職貢來祭,致遠物也。有新必薦,順時令也。苑囿之内,躬稼所收,蒐狩之時,親發所中,莫不薦而後食,盡誠敬也。若此至矣,復何加焉!但當申敕有司,無或簡怠,則鮮美肥濃,盡在是矣,不必加籩豆之數也。」
上固欲量加品味。縚又奏毎室加籩豆各六,四時各實以新果珍羞;從之。
縚又奏:「喪服『舅,緦麻三月,從母,外祖父母皆小功五月。』外祖至尊,同於從母之服;姨、舅一等,服則輕重有殊。堂姨、舅親即未疏,恩絶不相爲服,舅母來承外族,不如同爨之禮。竊以古意猶有所未暢者也,請加外祖父母爲大功九月,姨、舅皆小功五月,堂舅、堂姨、舅母並加至袒免。」
崔沔議曰:「正家之道,不可以貳;總一定義,理歸本宗。是以内有齊、斬,外皆緦麻,尊名所加,不過一等,此先王不易之道也。願守八年明旨,一依古禮,以爲萬代成法。」
韋述議曰:「喪服傳曰:『禽獸知母而不知父。野人曰,父母何等焉!都邑之士則知尊禰矣;大夫及學士則知尊祖矣。』聖人究天道而厚於祖禰,繋族姓而親其子孫,母黨比於本族,不可同貫,明矣。今若外祖與舅加服一等,堂舅及姨列於服紀,則中外之制,相去幾何!廢禮徇情,所務者末。古之制作者,知人情之易搖,恐失禮之將漸,別其同異,輕重相懸,欲使後來之人永不相雜。微旨斯在,豈徒然哉!苟可加也,亦可減也;往聖可得而非,則禮經可得而隳矣。先王之制,謂之彝倫,奉以周旋,猶恐失墜;一紊其敍,庸可止乎!請依儀禮喪服爲定。」
禮部員外郎楊仲昌議曰:「鄭文貞公魏徴始加舅服至小功五月。雖文貞賢也,而周、孔聖也,以賢改聖,後學何從!竊恐内外乖序,親疏奪倫,情之所沿,何所不至!昔子路有姊之喪而不除,孔子曰:『先王制禮,行道之人,皆不忍也。』子路除之。此則聖人援事抑情之明例也。記曰:『毋輕議禮。』明其蟠於天地,並彼日月,賢者由之,安敢損益也!」
敕:「姨舅既服小功,舅母不得全降,宜服緦麻,堂姨舅宜服袒免。」
均,説之子也。
11秋,八月,壬子,千秋節,羣臣皆獻寶鏡。張九齡以爲以鏡自照見形容,以人自照見吉凶,乃述前世興廢之源,爲書五卷,謂之千秋金鏡録,上之;上賜書褒美。11.秋、八月、壬子、千秋節である。群臣は皆、宝鏡を献上した。張九齢は「鏡で自分の姿形を見るように、人を見て自分を顧みて吉凶を見てください」とて、前世の後背の原因を五巻の書に造り、これを「千秋金鏡録」と名付けて上納した。上は、書を下賜して褒美とした。
12甲寅,突騎施遣其大臣胡祿達干來請降,許之。12.甲寅、突騎施がその大臣胡禄達干を派遣して降伏を請うた。これを許した。
13御史大夫李適之,承乾之孫也,以才幹得幸於上,數爲承乾論辯;甲戌,追贈承乾恆山愍王。13.御史大夫李適之は、承乾の孫である。才幹で上から気に入られ、しばしば承乾と弁論した。
14乙亥,汴哀王璥薨。14.乙亥、汴哀王璥が薨去した。
15冬,十月,戊申,車駕發東都。先是,敕以來年二月二日行幸西京,會宮中有怪,明日,上召宰相,即議西還。裴耀卿、張九齡曰:「今農收未畢,請俟仲冬。」李林甫潛知上指,二相退,林甫獨留,言於上曰:「長安、洛陽,陛下東西宮耳,往來行幸,何更擇時!借使妨於農收,但應蠲所過租税而已。臣請宣示百司,即日西行。」上悅,從之。過陝州,以刺史盧奐有善政,題贊於其聽事而去。奐,懷愼之子也。丁卯,至西京。15.冬、十月戊申、車駕が東都を出発した。
16朔方節度使牛仙客,前在河西,能節用度,勤職業,倉庫充實,器械精利;上聞而嘉之,欲加尚書。張九齡曰:「不可。尚書,古之納言,唐興以來,惟舊相及揚歴中外有德望者乃爲之。仙客本河湟使典,今驟居清要,恐羞朝廷。」上曰:「然則但加實封可乎?」對曰:「不可。封爵所以勸有功也。邊將實倉庫,修器械,乃常務耳,不足爲功。陛下賞其勤,賜之金帛可也;裂土封之,恐非其宜。」上默然。李林甫言於上曰:「仙客,宰相才也,何有於尚書!九齡書生,不達大體。」上悅。明日,復以仙客實封爲言,九齡固執如初。上怒,變色曰:「事皆由卿邪?」九齡頓首謝曰:「陛下不知臣愚,使待罪宰相,事有未允,臣不敢不盡言。」上曰:「卿嫌仙客寒微,如卿有何閥閲?」九齡曰:「臣嶺海孤賤,不如仙客生於中華;然臣出入臺閣,典司誥命有年矣。仙客邊隅小吏,目不知書,若大任之,恐不愜衆望。」林甫退而言曰:「苟有才識,何必辭學!天子用人,有何不可!」十一月,戊戌,賜仙客爵隴西縣公,食實封三百戸。16.朔方節度使牛仙客は、以前は河西で働いていたが、よく節約して職務に励んだおかげで官庫は充満し器械は整備されていた。上は、これを聞いて喜び、尚書を加えようと思った。すると張九齢が言った。
初,上欲以李林甫爲相,問於中書令張九齡,九齡對曰:「宰相繋國安危,陛下相林甫,臣恐異日爲廟社之憂。」上不從。時九齡方以文學爲上所重,林甫雖恨,猶曲意事之。侍中裴耀卿與九齡善,林甫并疾之。是時,上在位歳久,漸肆奢欲,怠於政事。而九齡遇事無細大皆力爭;林甫巧伺上意,日思所以中傷之。
上之爲臨淄王也,趙麗妃、皇甫德儀、劉才人皆有寵,麗妃生太子瑛,德儀生鄂王瑤,才人生光王琚。及即位,幸武惠妃,麗妃等愛皆馳;惠妃生壽王瑁,寵冠諸子。太子與瑤、琚會於内第,各以母失職有怨望語。駙馬都尉楊洄尚咸宜公主,常伺三子過失以告惠妃。惠妃泣訴於上曰:「太子陰結黨與,將害妾母子,亦指斥至尊。」上大怒,以語宰相,欲皆廢之。九齡曰:「陛下踐阼垂三十年,太子諸王不離深宮,日受聖訓,天下之人皆慶陛下享國久長,子孫蕃昌。今三子皆已成人,不聞大過,陛下奈何一旦以無根之語,喜怒之際,盡廢之乎!且太子天下本,不可輕搖。昔晉獻公聽驪姫之讒殺申生,三世大亂。漢武帝信江充之誣罪戻太子,京城流血。晉惠帝用賈后之譖廢愍懷太子,中原塗炭。隋文帝納獨孤后之言黜太子勇,立煬帝,遂失天下。由此觀之,不可不愼。陛下必欲爲此,臣不敢奉詔。」上不悅。林甫初無所言,退而私謂宦官之貴幸者曰:「此主上家事,何必問外人!」上猶豫未決。惠妃密使官奴牛貴兒謂九齡曰:「有廢必有興,公爲之援,宰相可長處。」九齡叱之,以其語白上;上爲之動色,故訖九齡罷相,太子得無動。林甫日夜短九齡於上,上浸疏之。
林甫引蕭炅爲戸部侍郎。炅素不學,嘗對中書侍郎嚴挺之讀「伏臘」爲「伏獵」。挺之言於九齡曰:「省中豈容有『伏獵侍郎』!」由是出炅爲岐州刺史,故林甫怨挺之。九齡與挺之善,欲引以爲相,嘗謂之曰:「李尚書方承恩,足下宜一造門,與之款暱。」挺之素負氣,薄林甫爲人,竟不之詣;林甫恨之益深。挺之先娶妻,出之,更嫁蔚州刺史王元琰,元琰坐贓罪下三司按鞫,挺之爲之營解。林甫因左右使於禁中白上。上謂宰相曰:「挺之爲罪人請屬所由。」九齡曰:「此乃挺之出妻,不宜有情。」上曰:「雖離乃復有私。」
於是上積前事,以耀卿、九齡爲阿黨;壬寅,以耀卿爲左丞相,九齡爲右丞相,並罷政事。以林甫兼中書令;仙客爲工部尚書、同中書門下三品,領朔方節度如故。嚴挺之貶洺州刺史,王元琰流嶺南。
上即位以來,所用之相,姚崇尚通,宋璟尚法,張嘉貞尚吏,張說尚文,李元紘、杜暹尚儉,韓休、張九齡尚直,各其所長也。九齡既得罪,自是朝廷之士,皆容身保位,無復直言。
李林甫欲蔽塞人主視聽,自專大權,明召諸諫官謂曰:「今明主在上,羣臣將順之不暇,烏用多言!諸君不見立仗馬乎?食三品料,一鳴輒斥去,悔之何及!」
補闕杜璡嘗上書言事,明日,黜爲下邽令。自是諫爭路絶矣。
牛仙客既爲林甫所引,專給唯諾而已。然二人皆謹守格式,百官遷除,各有常度,雖奇才異行,不免終老常調;其以巧諂邪險自進者,則超騰不次,自有他蹊矣。林甫城府深密,人莫窺其際。好以甘言啗人,而陰中傷之,不露辭色。凡爲上所厚者,始則親結之,及位勢稍逼,輒以計去之。雖老姦巨猾,無能逃其術者。
二十五年(丁丑、七三七)1.春、正月、初めて玄学博士を設置した。毎年、明経によって選んだ。
1春,正月,初置玄學博士,毎歳依明經舉。
2二月,敕曰:「進士以聲韻爲學,多昧古今;明經以貼誦爲功,罕窮旨趣。自今明經問大義十條,對時務策三首;進士試大經十貼。」2.二月、勅が下った。
3戊辰,新羅王興光卒,子承慶襲位。3.戊辰、新羅王興光が卒した。子の承慶が位を継いだ。
4乙酉,幽州節度使張守珪破契丹於捺祿山。4.乙酉、幽州節度使張守珪が捺禄山にて契丹を破った。
5己亥,河西節度使崔希逸襲吐蕃,破之於靑海西。5.己亥、河西節度使崔希逸が吐蕃を襲撃し、青海の西でこれを破った。
初,希逸遣使謂吐蕃乞力徐曰:「兩國通好,今爲一家,何必更置兵守捉,妨人耕牧!請皆罷之。」乞力徐曰:「常侍忠厚,言必不欺。然朝廷未必專以邊事相委,萬一有姦人交鬭其間,掩吾不備,悔之何及!」希逸固請,乃刑白狗爲盟,各去守備;於是吐蕃畜牧被野。時吐蕃西撃勃律,勃律來告急。上命吐蕃罷兵,吐蕃不奉詔,遂破勃律;上甚怒。會希逸傔人孫誨入奏事,自欲求功,奏稱吐蕃無備,請掩撃,必大獲。上命内給事趙惠琮與誨偕往,審察事宜。惠琮等至,則矯詔令希逸襲之。希逸不得已,發兵自涼州南入吐蕃境二千餘里,至靑海西,與吐蕃戰,大破之,斬首二千餘級,乞力徐脱身走。惠琮、誨皆受厚賞。自是吐蕃復絶朝貢。
6夏,四月,辛酉,監察御史周子諒彈牛仙客非才,引讖書爲證。上怒,命左右[手暴]於殿庭,絶而復蘇;仍杖之朝堂,流瀼州,至藍田而死。李林甫言:「子諒,張九齡所薦也。」甲子,貶九齡荊州長史。6.夏、四月、辛酉、監察御史周子諒が牛仙客を非才であると弾劾し、讖書を引いて証拠とした。
7楊洄又奏太子瑛、鄂王瑤、光王琚,云與太子妃兄駙馬薛鏽潛搆異謀,上召宰相謀之。李林甫對曰:「此陛下家事,非臣等所宜豫。」上意乃決。乙丑,使宦者宣制於宮中,廢瑛、瑤、琚爲庶人,流鏽於瀼州。瑛、瑤、琚尋賜死城東驛,鏽賜死於藍田。瑤、琚皆好學,有才識,死不以罪,人皆惜之。丙寅,瑛舅家趙氏、妃家薛氏、瑤舅家皇甫氏,坐流貶者數十人,惟瑤妃家韋氏以妃賢得免。7.「太子瑛と鄂王瑤、光王琚が、太子妃の兄の駙馬薛鏽と密かに異謀を語っていた」と、楊洄が再び上奏した。上は宰相を召してこれを謀った。
8五月,夷州刺史楊濬坐贓當死,上命杖之六十,流古州。左丞相裴耀卿上疏,以爲:「決杖贖死,恩則甚優;解體受笞,事頗爲辱,止可施之徒隸,不當及於士人。」上從之。8.五月、夷州刺史楊濬が収賄で死罪になるところを、上は杖六十と命じて古州へ流した。左丞相裴耀卿が、上疏した。その大意は、
9癸未,敕以方隅底定,令中書門下與諸道節度使量軍鎭閒劇利害,審計兵防定額,於諸色征人及客戸中召募丁壯,長充邊軍,增給田宅,務加優恤。9.癸未、辺境の乱を平定するよう勅が下った。中書門下と諸道節度使に軍陳間の利害を量らせ、軍費の定額を産出させ、諸外国からの降人や客戸から丁壮を募兵し、辺境の軍卒へ充てた。田宅を増給し、務めて労わせた。
10辛丑,上命有司選宗子有才者,授以臺省及法官、京縣官,敕曰:「違道慢常,義無私於王法;修身效節,恩豈薄於他人!期於帥先,勵我風俗。」10.辛丑、上は役人達へ、宗子のうち才能のあるものを選んで台省及び法官、京県官を授けるよう命じた。勅して言った。
11秋,七月,己卯,大理少卿徐嶠奏:「今歳天下斷死刑五十八,大理獄院,由來相傳殺氣太盛,鳥雀不栖,今有鵲巣其樹。」於是百官以幾致刑措,上表稱賀。上歸功宰輔,庚辰,賜李林甫爵晉國公,牛仙客豳國公。11.秋、七月、己卯、大理少卿徐嶠が上奏した。
上命李林甫、牛仙客與法官刪脩律令格式成,九月,壬申,頒行之。
12先是,西北邊數十州多宿重兵,地租營田皆不能贍,始用和糴之法。有彭果者,因牛仙客獻策,請行糴法於關中。戊子,敕以歳稔穀賤傷農,命增時價什二三,和糴東、西畿粟各數百萬斛,停今年江、淮所運租。自是關中蓄積羨溢,車駕不復幸東都矣。癸巳,敕河南、北租應輸含嘉、太原倉者,皆留輸本州。12.従来、西北の数十州には兵卒が多く、地租や営田では兵糧をまかないきれなかった。そこで始めて和糴の法を用いた。
13太常博士王璵上疏請立靑帝壇以迎春;從之。冬,十月,辛丑,制自今立春親迎春於東郊。13.太常博士王璵が上疏して、青帝檀を立てて春を迎えるよう請うた。これに従った。
時上頗好祀神鬼,故璵專習祠祭之禮以干時。上悅之,以爲侍御史,領祠祭使。璵祈禱或焚紙錢,類巫覡,習禮者羞之。
14壬申,上幸驪山温泉。乙酉,還宮。14.壬申、上が驪山の温泉へ御幸した。乙酉、宮殿へ帰った。
15己丑,開府儀同三司廣平文貞公宋璟薨。15.己丑、開府儀同三司・広平文貞公の宋璟が薨去した。
16十二月,丙午,惠妃武氏薨,贈謚貞順皇后。16.十二月、丙午、恵妃武氏が卒した。貞順皇后の諡を下賜した。
17是歳,命將作大匠康諐素之東都毀明堂。諐素上言:「毀之勞人,請去上層,卑於舊九十五尺,仍舊爲乾元殿。」從之。17.この年、将作大匠康諐素へ、東都へ行って明堂を壊すよう命じた。すると、諐素は上言した。
18初令租庸調、租資課,皆以土物輸京都。18.初めて租庸調を命じた。租は財源として、他は特産品で京都へ輸送させた。(この訳文は、ちょっと、自信ありません。)
二十六年(戊寅、七三八)1.春、正月、乙亥、牛仙客を侍中とした。
1春,正月,乙亥,以牛仙客爲侍中。
2丁丑,上迎氣於滻水之東。2.丁丑、上が滻水の東で気を迎える。
3制邊地長征兵,召募向足,自今鎭兵勿復遣,在彼者縱還。3.制が下った。
4令天下州、縣、里別置學。4.天下の州、県、里へ学校を設置するよう命じた。
5壬辰,以李林甫領隴右節度副大使,以鄯州都督杜希望知留後。5.壬辰、李林甫を隴右節度副大使として、鄯州都督の杜希望を留後とした。
二月,乙卯,以牛仙客兼河東節度副大使。
6己未,葬貞順皇后于敬陵。6.己未、貞順皇后を敬陵へ葬った。
7壬戌,敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者,聽還故土,於鹽、夏之間,置宥州以處之。7.壬戌、康待賓の連座で、諸州へ奴隷として連れ去られた河曲六州の胡は、故郷へ帰ることを許した。塩州・夏州の間に宥州を設置して、彼らをここへ住ませた。
8三月,吐蕃寇河西,節度使崔希逸撃破之。鄯州都督、知隴右留後杜希望攻吐蕃新城,拔之,以其地爲威戎軍,置兵一千戍之。8.三月、吐蕃が河西へ来寇した。節度使の崔希逸が、これを撃破した。
9夏,五月,乙酉,李林甫兼河西節度使。9.夏、五月、乙酉、李林甫に河西節度使を兼任させた。
丙申,以崔希逸爲河南尹。希逸自念失信於吐蕃,内懷愧恨,未幾而卒。
10太子瑛既死,李林甫數勸上立壽王瑁。上以忠王璵年長,且仁孝恭謹,又好學,意欲立之,猶豫歳餘不決。自念春秋浸高,三子同日誅死,繼嗣未定,常忽忽不樂,寢膳爲之減。高力士乘間請其故,上曰:「汝,我家老奴,豈不能揣我意!」力士曰:「得非以郎君未定邪?」上曰:「然。」對曰:「大家何必如此虚勞聖心,但推長而立,誰敢復爭!」上曰:「汝言是也!汝言是也!」由是遂定。六月,庚子,立璵爲太子。10.太子瑛が卒して後、李林甫はしばしば寿王瑁を立てるよう上に勧めた。上は、忠王璵が年長であり、その人格が仁孝恭謹で学問を好んでいたので、彼を立てたかったのだが、なお躊躇して一年余りも決断できなかった。だが、自身がますます老いて行くことを感じ、三子を同日に誅殺したうえ、世継ぎが決まっていないので、いつもぼんやりとしていて楽しまず、夜も寝られず食欲もなくしてしまう有様だった。
11辛丑,以岐州刺史蕭炅爲河西節度使總留後事,鄯州都督杜希望爲隴右節度使,太僕卿王昱爲劍南節度使,分道經略吐蕃,仍毀所立赤嶺碑。11.辛丑、岐州刺史蕭炅を河西節度使総留後事とし、鄯州都督杜希望を隴右節度使とし、太僕卿王昱を剣南節度使とし、それぞれ別道から吐蕃を経略させ、彼らが立てた赤嶺碑を壊させた。
12突騎施可汗功祿,素廉儉,毎攻戰所得,輒與諸部分之,不留私蓄,由是衆樂爲用。既尚唐公主,又潛通突厥及吐蕃,突厥、吐蕃各以女妻之。蘇祿以三國女爲可敦,又立數子爲葉護,用度浸廣,由是攻戰所得,不復更分。晩年病風,一手攣縮,諸部離心。酋長莫賀達干、都摩度兩部最強,其部落又分爲黄姓、黑姓,互相乖阻,於是莫賀達干勒兵夜襲蘇祿,殺之。都摩度初與莫賀達干連謀,既而復與之異,立蘇祿之子骨啜爲吐火仙可汗,以收其餘衆,與莫賀達干相攻。莫賀達干遣使告磧西節度使蓋嘉運,上命嘉運招集突騎施、拔汗那以西諸國;吐火仙與都摩度據碎葉城,黑姓可汗爾微特勒據怛邏斯城,相與連兵以拒唐。12.突騎施可汗蘇禄は、もともと清廉倹素な性で、戦争をして掠奪したものは諸部に分け与え、自分の手元には留めなかった。だから大勢の人間が、喜んで彼のために働いた。
13太子將受册命,儀注有中嚴、外辦及絳紗袍,太子嫌與至尊同稱,表請易之。左丞相裴耀卿奏停中嚴,改外辦曰外備,改絳紗袍爲朱明服。秋,七月,己巳,上御宣政殿,册太子。故事,太子乘輅至殿門。至是,太子不就輅,自其宮歩入。是日,赦天下。己卯,册忠王妃韋氏爲太子妃。13.太子が冊命を受けるにあたって、中厳、外弁及び絳紗袍を身に纏うのが儀礼だった。太子は至尊と同じ格好をすることが畏れ多くて、上表してこれを代えるよう請うた。左丞相裴耀卿は、中厳を停止し、外弁を外備と改称し、絳紗袍を朱明服へ改めるよう上奏した。
14杜希望將鄯州之衆奪吐蕃河橋,築鹽泉城於河左,吐蕃發兵三萬逆戰,希望衆少不敵,將卒皆懼。左威衞郎將王忠嗣帥所部先犯其陳,所向闢易,殺數百人,虜陳亂。希望縱兵乘之,虜遂大敗。置鎭西軍於鹽泉。忠嗣以功遷左金吾將軍。14.杜希望は鄯州の衆を率い、吐蕃河橋を奪った。河左へ塩泉城を築く。
15八月,辛巳,勃海王武藝卒,子欽茂立。15.八月、辛巳、渤海王武芸が卒した。子息の欽茂が立った。
16九月,丙申朔,日有食之。16.九月、丙申朔、日食が起こった。
17初,儀鳳中,吐蕃陷安戎城而據之,其地險要,唐屢攻之,不克。劍南節度使王昱築兩城於其側,頓軍蒲婆嶺下,運資糧以逼之。吐蕃大發兵救安戎城,昱衆大敗,死者數千人。昱脱身走,糧仗軍資皆棄之。貶昱栝州刺史,再貶高要尉而死。17.かつて、儀鳳年間に、吐蕃が安戎城を落とし、これを拠点とした。その地形が険阻だったので、唐はしばしばこれを攻撃したが、勝てなかった。
18戊午,册南詔蒙歸義爲雲南王。18.戊午、南詔の蒙帰義を雲南王へ冊立した。
歸義之先本哀牢夷,地居姚州之西,東南接交趾,西北接吐蕃。蠻語謂王曰詔,先有六詔:曰蒙舎,曰蒙越,曰越析,曰浪穹,曰樣備,曰越澹,兵力相埒,莫能相壹;歴代因之以分其勢。蒙舎最在南,故謂之南詔。高宗時,蒙舎細奴邏初入朝。細奴邏生邏盛,邏盛生盛邏皮,盛邏皮生皮邏閤。皮邏閤浸強大,而五詔微弱;會有破渳河蠻之功,乃賂王昱,求合六詔爲一。昱爲之奏請,朝廷許之,仍賜名歸義。於是以兵威脅服羣蠻,不從者滅之,遂撃破吐蕃,徙居大和城;其後卒爲邊患。
19冬,十月,戊寅,上幸驪山温泉,壬辰,上還宮。19.冬、十月、戊寅、上は驪山の温泉へ御幸した。壬辰、上が宮殿へ帰った。
20是歳,於西京、東都往來之路,作行宮千餘間。20.この年、西京と東都の往来の道に、千余間ごとに行宮を造った。
21分左右羽林置龍武軍,以萬騎營隸焉。21.左右羽林を分けて龍武軍を設置した。万騎営に隷属させた。
22潤州刺史齊澣奏:「自瓜歩濟江迂六十里。請自京口埭下直濟江,穿伊婁河二十五里即達揚子縣,立伊婁埭。」從之。22.潤州刺史斉澣が上奏した。
二十七年(己卯、七三九)1.春、正月、壬寅、隴右節度大使栄王琬へ、本道へ戻って管轄下の諸軍を巡り、関内、河東の壮士三十五万人を選び隴右の防備に向かうよう命じた。ただし、秋になっても来寇がなければ、帰ってくることを許した。
1春,正月,壬寅,命隴右節度大使榮王琬自至本道巡按處置諸軍,選募關内、河東壯士三五萬人,詣隴右防遏,至秋末無寇,聽還。
2羣臣請加尊號曰聖文;二月,己巳,許之,因赦天下,免百姓今年田租。2.群臣が、「聖文」の尊号を加えるよう請うた。
3夏,四月,癸酉,敕:「諸陰陽術數,自非婚喪卜擇,皆禁之。」3.夏、四月、癸酉、敕が下った。「諸々の陰陽術数は、婚姻や葬礼、占い以外、これを禁じる。」
4己丑,以牛仙客爲兵部尚書兼侍中,李林甫爲吏部尚書兼中書令,總文武選事。4.己丑、牛仙客を兵部尚書兼侍中とし、李林甫を吏部尚書兼中書令として、文武の人事を統べさせた。
5六月,癸酉,以御史大夫李適之兼幽州節度使。5.六月、癸酉、御史大夫李適之に幽州節度使を兼任させた。
幽州將趙堪、白眞陁羅矯節度使張守珪之命,使平盧軍使烏知義撃叛奚餘黨於橫水之北;知義不從,白眞陁羅矯稱制指以迫之。知義不得已出師,與虜遇,先勝後敗;守珪隱其敗状,以克獲聞。
事頗泄,上令内謁者監牛仙童作察之。守珪重賂仙童,歸罪於白眞陁羅,逼令自縊死。仙童有寵於上,衆宦官疾之,共發其事。上怒,甲戌,命楊思勗杖殺之。思勗縛格,杖之數百,刳取其心,割其肉啗之。守珪坐貶括州刺史。太子太師蕭嵩嘗賂仙童以城南良田數頃,李林甫發之,嵩坐貶靑州刺史。
6秋,八月,乙亥,磧西節度使蓋嘉運擒突騎施可汗吐火仙。嘉運攻碎葉城,吐火仙出戰,敗走,擒之於賀邏嶺。分遣疏勒鎭守使夫蒙靈詧與拔汗那王阿悉爛達干潛引兵突入怛邏斯城,擒黑姓可汗爾微,遂入曳建城,取交河公主,悉收散髪之民數萬以與拔汗那王,威震西陲。6.秋、八月、乙亥、磧西節度使蓋嘉運が突騎施可汗吐火仙を捕らえた。
7壬午,吐蕃寇白草、安人等軍,隴右節度使蕭炅撃破之。7.壬午、吐蕃が白草、安人らの軍へ来降したが、隴右節度使蕭炅が、これを撃破した。
8甲申,追謚孔子爲文宣王。先是,祀先聖先師,周公南向,孔子東向坐。制:「自今孔子南向坐,被王者之服,釋奠用宮懸。」追贈弟子皆爲公、侯、伯。8.甲申、孔子を文宣王と追諡した。
9九月,戊午,處木昆、鼠尼施、弓月等諸部先隸突騎施者,皆帥衆内附,仍請徙居安西管内。9.九月、戊午、處木昆、鼠尼施、弓月など、もともと突騎施へ隷属していた諸部が、皆、州を率いて帰順し、安西の管内への移住を請うた。
10太子更名紹。10.太子が、紹と改名した。
11冬,十月,辛巳,改脩東都明堂。11.冬、十月、辛巳、東都の明堂を改修した。
12丙戌,上幸驪山温泉;十一月,辛丑,還宮。12.丙戌、上が驪山の温泉へ御幸した。十一月、辛丑、宮殿へ帰った。
13甲辰,明堂成。13.甲辰、明堂が完成した。
14劍南節度使張宥,文吏不習軍旅,悉以軍政委團練副使章仇兼瓊。兼瓊入奏事,盛言安戎城可取,上悅之。丁巳,以宥爲光祿卿。十二月,以兼瓊爲劍南節度使。14.剣南節度使張宥は文官で戦争のことを知らなかったので、軍政は全て団練副使の章仇兼瓊に委ねていた。兼瓊が入奏して、安戎城を後略できると豪語すると、上はこれを悦んだ。
15初,睿宗喪既除,祫于太廟;自是三年一祫,五年一禘。是歳,夏既禘,冬又當祫。太常議以爲祭數則瀆,請停今年祫祭,自是通計五年一祫、一禘;從之。15.睿宗の喪が開けた時、太廟にて祫(祖先を祀る儀礼の一種)を行った。以来、祫は三年に一度、禘は五年に一度行ってきた。
二十八年(庚寅、七四〇)1.癸巳、上が驪山の温泉へ御幸した。庚子、宮殿へ帰った。
1春,正月,癸巳,上幸驪山温泉;庚子,還宮。
2二月,荊州長史張九齡卒。上雖以九齡忤旨,逐之,然終愛重其人,毎宰相薦士,輒問曰:「風度得如九齡不?」2.二月、荊州長史張九齢が卒した。上は、彼が旨に逆らったので地方へ追いやったのだが、それでも彼の人格は愛重しており、宰相が士を推薦する度に言った。
3三月,丁亥朔,日有食之。3.三月、丁亥朔、日食が起こった。
4章仇兼瓊潛與安戎城中吐蕃翟都局及維州別駕董承晏結謀,使局開門引内唐兵,盡殺吐蕃將卒,使監察御史許遠將兵守之。遠,敬宗之曾孫也。4.章仇兼瓊が、安戎城中の吐蕃の翟都局及び維州別駕董承晏と密かに謀略を結んだ。局が門を開いて唐兵を引き入れ、吐蕃の将卒をことごとく殺した。監察御史許遠に、兵を率いてこれを守備させた。遠は敬宗の曾孫である。
5甲寅,蓋嘉運入獻捷。上赦吐火仙罪,以爲左金吾大將軍。嘉運請立阿史那懷道之子昕爲十姓可汗;從之。夏,四月,辛未,以昕妻李氏爲交河公主。5.甲寅、蓋嘉運が入朝して戦勝を報告した。上は吐火仙の罪を赦し、左金吾大将軍とした。
6六月,吐蕃圍安戎城。6.六月、吐蕃が安戎城を包囲した。
7上嘉蓋嘉運之功,以爲河西、隴右節度使,使之經略吐蕃。嘉運恃恩流連,不時發。左丞相裴耀卿上疏,以爲:「臣近與嘉運同班,觀其舉措,誠勇烈有餘,然言氣矜誇,恐難成事。昔莫敖忸於蒲騷之役,卒喪楚師;今嘉運有驕敵之色,臣竊憂之。況防秋非遠,未言發日,若臨事始去,則士卒尚未相識,何以制敵!且將軍受命,鑿凶門而出;今乃酣飲朝夕,殆非憂國愛人之心。若不可改易,宜速遣進塗,仍乞聖恩嚴加訓勵。」上乃趣嘉運行。已而嘉運竟無功。7.上は蓋嘉運の功績を嘉し、河西、隴右節度使として、吐蕃を経略させる。
8秋,八月,甲戌,幽州奏破奚、契丹。8.秋、八月、甲戌、幽州が、奚・契丹を破ったと上奏した。
9冬,十月,甲子,上幸驪山温泉;辛巳,還宮。9.冬、十月、甲子、上が驪山の温泉へ御幸した。辛巳、宮殿へ帰った。
10吐蕃寇安戎城及維州;發關中彍騎救之,吐蕃引去。更命安戎城曰平戎。10.吐蕃が安戎城と維州へ来寇した。関中の彍騎を動員してこれを救援した。吐蕃は退去した。安戎城を平戎と改名した。
11十一月,罷牛仙客朔方、河東節度使。11.十一月、牛仙客の朔方、河東節度使をやめさせた。
12突騎施莫賀達干聞阿史那昕爲可汗,怒曰:「首誅蘇祿,我之謀也;今立史昕,何以賞我?」遂帥諸部叛。上乃立莫賀達干爲可汗,使統突騎施之衆,命蓋嘉運招諭之。十二月,乙卯,莫賀達干降。12.突騎施の莫賀達干は、阿史那昕が可汗になったと聞いて怒った。
13金城公主薨;吐蕃告喪,且請和,上不許。13.金城公主が薨去した。吐蕃が喪を告げてきて、和平を請うたが、上は許さなかった。
14是歳,天下縣千五百七十三,戸八百四十一萬二千八百七十一,口四千八百一十四萬三千六百九。西京、東都米斛直錢不滿二百,絹匹亦如之。海内富安,行者雖萬里不持寸兵。14.この年、天下の県は千五百七十三、戸は八百四十一万二千八百七十一、人口は四千八百十四万三千六百九人となった。
二十九年(辛巳、七四一)1.正月、癸巳、上が驪山の温泉へ御幸した。
1春,正月,癸巳,上幸驪山温泉。
2丁酉,制:「承前諸州饑饉,皆待奏報,然始開倉賑給。道路悠遠,何救懸絶!自今委州縣長官與采訪使量事給訖奏聞。」2.丁酉、制が下った。
3庚子,上還宮。3.庚子、宮殿へ帰った。
4上夢玄元皇帝告云:「吾有像在京城西南百餘里,汝遣人求之,吾當與汝興慶宮相見。」上遣使求得之於盩厔樓觀山間。夏,閏四月,迎置興慶宮。五月,命畫玄元眞容,分置諸州開元觀。4.上が、夢で玄元皇帝から告げられた。「京城の西南百余里に、吾が像がある。汝は使者を派遣してこれを求めよ。吾は、興慶宮にて汝とまみえよう。」
5六月,吐蕃四十萬衆入寇,至安仁軍,渾崖峯騎將臧希液帥衆五千撃破之。5.六月、吐蕃四十万人の大軍が入寇して安仁軍までやって来た。渾崖峰の騎将臧希液が五千の兵力で、これを撃破した。
6秋,七月,丙寅,突厥遣使來告登利可汗之喪。初,登利從叔二人,分典兵馬,號左、右殺。登利患兩殺之專,與其母謀,誘右殺,斬之,自將其衆。左殺判闕特勒勒兵攻登利,殺之,立毗伽可汗之子爲可汗;俄爲骨咄葉護所殺,更立其弟;尋又殺之,骨咄葉護自立爲可汗。上以突厥内亂,癸酉,命左羽林將軍孫老奴招諭回紇、葛邏祿、拔悉密等部落。6.秋、七月、丙寅、突厥の使者がやって来て、登利可汗の喪を告げた。
7乙亥,東都洛水溢,溺死者千餘人。7.乙亥、東都で洛水が溢れた。千余人が溺死した。
8平盧兵馬使安祿山,傾巧,善事人,人多譽之。上左右至平盧者,祿山皆厚賂之,由是上益以爲賢。御史中丞張利貞爲河北採訪使,至平盧。祿山曲事利貞,乃至左右皆有賂。利貞入奏,盛稱祿山之美。八月,乙未,以祿山爲營州都督,充平盧軍使,兩蕃、勃海、黑水四府經略使。8.平盧兵馬使安禄山は、お愛想が巧く、人当たりが善かったので、多くの人々が彼を褒めた。禄山は、平盧へ来た上の近習達には、みな厚く贈り物をした。だから、上はますます彼を賢人だと思った。
9冬,十月,丙申,上幸驪山温泉。9.冬、十月、丙申、上は驪山の温泉へ御幸した。
10壬寅,分北庭、安西爲二節度。10.壬寅、北庭と安西を分けて二節度とした。
11十一月,庚戌,司空邠王守禮薨。守禮庸鄙無才識,毎天將雨及霽,守禮必先言之,已而皆驗。岐、薛諸王言於上曰:「邠兄有術。」上問其故,對曰:「臣無術。則天時以章懷之故,幽閉宮中十餘年,歳賜敕杖者數四,背瘢甚厚,將雨則沈悶,將霽則輕爽,臣以此知之耳。」因流涕霑襟;上亦爲之慘然。11.十一月、庚戌、司空の邠王守礼が卒した。
12辛酉,上還宮。12.辛酉、上が宮殿へ帰った。
13辛未,太尉寧王憲薨。上哀惋特甚,曰:「天下,兄之天下也;兄固讓於我,爲唐太伯,常名不足以處之。」乃謚曰讓皇帝。其子汝陽王璡,上表追述先志,謙沖不敢當帝號;上不許。劍日,内出服,以手書致於靈座,書稱「隆基白」;又名其墓曰惠陵,追謚其妃元氏曰恭皇后,祔葬焉。13.辛未、太尉の寧王憲が卒した。上はことに甚だしく哀しみ嘆いて、言った。
14十二月,乙巳,吐蕃屠達化縣,陷石堡城,蓋嘉運不能禦。
14.十二月、乙巳、吐蕃が達化県を全滅させ、石堡城を陥した。
蓋嘉運は防ぎきれなかった。
翻訳者: 渡邊 省