天寶元年(壬午、七四二)1.春、正月、丁未朔、上が勧政楼へ御幸し、朝賀を受けた。天下へ恩赦を下し、改元した。
1春,正月,丁未朔,上御勤政樓受朝賀,赦天下,改元。
2壬子,分平盧別爲節度,以安祿山爲節度使。2.壬子、平盧を分離して別の節度とし、安禄山を節度使とした。
是時,天下聲教所被之州三百三十一,羈縻之州八百,置十節度、經略使以備邊。安西節度撫寧西域,統龜茲、焉耆、于闐、疏勒四鎭,治龜茲城,兵二萬四千。北庭節度防制突騎施、堅昆,統瀚海、天山、伊吾三軍,屯伊、西二州之境,治北庭都護府,兵二萬人。河西節度斷隔吐蕃、突厥,統赤水、大斗、建康、寧寇、玉門、墨離、豆盧、新泉八軍,張掖、交城、白亭三守捉,屯涼、肅、瓜、沙、會五州之境,治涼州,兵七萬三千人。朔方節度捍禦突厥,統經略、豐安、定遠三軍,三受降城,安北、單于二都護府,屯靈、夏、豐三州之境,治靈州,兵六萬四千七百人。河東節度與朔方掎角以禦突厥,統天兵、大同、橫野、岢嵐四軍 ,雲中守捉,屯太原府忻、代、嵐三州之境,治太原府,兵五萬五千人。范陽節度臨制奚、契丹,統經略、威武、清夷、靜塞、恆陽、北平、高陽、唐興、橫海九軍,屯幽、薊、嬀、檀、易、恆、定、漠、滄九州之境,治幽州,兵九萬一千四百人。平盧節度鎭撫室韋、靺鞨,統平盧、盧龍二軍,楡關守捉,安東都護府,屯營、平二州之境,治營州,兵三萬七千五百人。隴右節度備禦吐蕃,統臨洮、河源、白水、安人、振威、威戎、漠門、寧塞、積石、鎭西十軍,綏和、合川、平夷三守捉,屯鄯、廊、洮、河之境,治鄯州,兵七萬五千人。劍南節度西抗吐蕃,南撫蠻獠,統天寶、平戎、昆明、寧遠、澄川、南江六軍,屯益、翼、茂、當、巂、柘、松、維、恭、雅、黎、姚、悉十三州之境,治益州,兵三萬九百人。嶺南五府經略綏靜夷、獠,統經略、清海二軍,桂、容、邕、交四管,治廣州,兵萬五千四百人。此外又有長樂經略,福州領之,兵千五百人。東萊守捉,萊州領之;東牟守捉,登州領之;兵各千人。凡鎭兵四十九萬人,馬八萬餘匹。開元之前,毎歳供邊兵衣糧,費不過二百萬;天寶之後,邊將奏益兵浸多,毎歳用衣千二十萬匹,糧百九十萬斛,公私勞費,民始困苦矣。
3甲寅,陳王府參軍田同秀上言:「見玄元皇帝於丹鳳門之空中,告以『我藏靈符,在尹喜故宅。』」上遣使於故函谷關尹喜臺旁求得之。3.甲寅、陳王府参軍田同秀が上言した。
4陝州刺史李齊物穿三門運渠,辛未,渠成。齊物,神通之曾孫也。4.陜州刺史李斉物が三門運渠を掘った。辛未、渠が完成した。斉物は神通の曾孫である。
5壬辰,羣臣上表,以「函谷寶符,潛應年號;先天不違,請於尊號加『天寶』字。」從之。5.壬辰、群臣が上表した。
二月,辛卯,上享玄元皇帝於新廟。甲午,享太廟。丙申,合祀天地於南郊,赦天下。改侍中爲左相,中書令爲右相,尚書左、右丞相復爲僕射;東都、北都皆爲京,州爲郡,刺史爲太守;改桃林縣曰靈寶。田同秀除朝散大夫。
時人皆疑寶符同秀所爲。間一歳,清河人崔以清復言:「見玄元皇帝於天津橋北,云藏符在武城紫微山。」敕使往求,亦得之。東京留守王倕知其詐,按問,果首服。奏之。上亦不深罪,流之而已。
6三月,以長安令韋堅爲陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。6.三月、長安令の韋堅を陜郡太守・領江淮庸転運使とした。
初,宇文融既敗,言利者稍息。及楊愼矜得幸,於是韋堅、王鉷之徒競以利進,百司有利權者,稍稍別置使以領之,舊官充位而已。堅,太子之妃兄也,爲吏以幹敏稱。上使之督江、淮租運,歳增巨萬;上以爲能,故擢任之。王鉷,方翼之孫也,亦以善治租賦爲戸部員外郎兼侍御史。
7李林甫爲相,凡才望功業出己右及爲上所厚、勢位將逼己者,必百計去之;尤忌文學之士,或陽與之善,啗以甘言而陰陷之。世謂李林甫「口有蜜,腹有劍。」7.李林甫が相となると、およそ才望功業が自分を凌いで上から厚く遇されて勢位が自分に迫るようになった者は、必ず百計を設けて除き去った。特に文学の士をもっとも忌み嫌い、あるいは上辺は仲良くして甘言でつりながら、密かに陥れた。人々は、彼を称して言った。「口に蜜有り、腹に剣有り。」
上嘗陳樂於勤政樓,垂簾觀之。兵部侍郎盧絢謂上已起,垂鞭按轡,橫過樓下;絢風標清粹,上目送之;深歎其蘊藉。林甫常厚以金帛賂上左右,上舉動必知之;乃召絢子弟謂曰:「尊君素望清崇,今交、廣藉才,聖上欲以尊君爲之,可乎?若憚遠行,則當左遷;不然,以賓、詹分務東洛,亦優賢之命也,何如?」絢懼,以賓、詹爲請。林甫恐乖衆望,乃除華州刺史。到官未幾,誣其有疾,州事不理,除詹事、員外同正。
上又嘗問林甫以「嚴挺之今安在?是人亦可用。」挺之時爲絳州刺史。林甫退,召挺之弟損之,諭以「上待尊兄意甚厚,盍爲見上之策,奏稱風疾,求還京師就醫。」挺之從之。林甫以其奏白上云:「挺之衰老得風疾,宜且授以散秩,使便醫藥。」上歎吒久之;夏,四月,壬寅,以爲詹事,又以汴州刺史、河南采訪使齊澣爲少詹事,皆員外同正,於東京養疾。澣亦朝廷宿望,故并忌之。
8上發兵納十姓可汗阿史那昕於突騎施,至倶蘭城,爲莫賀達干所殺。突騎施大纛官都摩度來降,六月,乙未,册都摩度爲三姓葉護。8.上は兵を動員して、十姓可汗阿史那昕を突騎施に入れようとしたが、倶蘭城にて莫賀達干に殺された。突騎施の大纛官都摩度が来降した。
9秋,七月,癸卯朔,日有食之。9.秋、七月、癸卯朔、日食が起こった。
10辛未,左相牛仙客薨。八月,丁丑,以刑部尚書李適之爲左相。10.辛未、左相牛仙客が卒した。八月、丁丑、刑部尚書李適之を左相とした。
11突厥拔悉蜜、回紇、葛邏祿三部共攻骨咄葉護,殺之,推拔悉蜜酋長爲頡跌伊施可汗,回紇、葛邏祿自爲左、右葉護。突厥餘衆共立判闕特勒之子爲烏蘇米施可汗,以其子葛臘哆爲西殺。11.突厥の抜悉密・回紇・葛邏禄の三部が共に骨咄葉護を攻撃して、これを殺した。抜悉密の酋長を推して頡跌伊施可汗とし、回紇・葛邏禄が左右の葉護となった。
上遣使諭烏蘇令内附,烏蘇不從。朔方節度使王忠嗣盛兵磧口以威之,烏蘇懼,請降,而遷延不至。忠嗣知其詐,乃遣使説拔悉蜜、回紇、葛邏祿使攻之,烏蘇遁去。忠嗣因出兵撃之,取其右廂以歸。
丁亥,突厥西葉護阿布思及西殺葛臘哆、默啜之孫勃德支、伊然小妻、毗伽登利之女帥部衆千餘帳,相次來降,突厥遂微。九月,辛亥,上御花萼樓宴突厥降者,賞賜甚厚。
12護密先附吐蕃,戊午,其王頡吉里匐遣使請降。12.護密は、さきに吐蕃へ帰順していたが、戊午、その王頡里匐が使者を派遣して降伏を請うた。
13冬,十月,丁酉,上幸驪山温泉;己巳,還宮。13.冬、十月、丁酉、上が驪山の温泉へ御幸した。己巳、宮へ帰った。
14十二月,隴右節度使皇甫惟明奏破吐蕃大嶺等軍;戊戌,又奏破靑海道莽布支營三萬餘衆,斬獲五千餘級。庚子,河西節度使王倕奏破吐蕃漁海及游弈等軍。14.十二月、隴右節度使皇甫惟明が吐蕃、大嶺邏の軍を破ったと上奏した。
15是歳,天下縣一千五百二十八,郷一萬六千八百二十九,戸八百五十二萬五千七百六十三,口四千八百九十萬九千八百。15.この年、天下の県は千五百二十八。郷は一万六千八百二十九、戸は八百五十二万五千七百六十三、人口は四千八百九十万九千八百人となった。
16回紇葉護骨力裴羅遣使入貢,賜爵奉義王。16.回紇葉護骨力裴羅が使者を派遣して入貢した。奉義王の爵位を下賜した。
二年(癸未、七四三)1.春、正月、安禄山が入朝した。上が特別厚く寵遇していたので、彼は時期によらずに謁見できた。
1春,正月,安祿山入朝;上寵待甚厚,謁見無時。祿山奏言:「去年營州蟲食苗,臣焚香祝天云:『臣若操心不正,事君不忠,願使蟲食臣心;若不負神祇,願使蟲散。』即有羣鳥從北來,食蟲立盡。請宣付史官。」從之。
2李林甫領吏部尚書,日在政府,選事悉委侍郎宋遙、苗晉卿。御史中丞張倚新得幸於上,遙、晉卿欲附之。時選人集者以萬計,入等者六十四人。倚子奭爲之首,羣議沸騰。前薊令蘇孝韞以告安祿山,祿山入言於上,上悉召入等人面試之,奭手持試紙,終日不成一字,時人謂之「曳白」。癸亥,遙貶武當太守,晉卿貶安康太守,倚貶淮陽太守,同考判官禮部郎中裴朏等皆貶嶺南官。晉卿,壺關人也。2.李林甫は、吏部尚書を兼ねていて、毎日政事堂に出勤しており、人事は侍郎の宋遙と苗晋卿に全て委ねていた。
3三月,壬子,追尊玄元皇帝父周上御大夫爲先天太皇;又尊皋繇爲德明皇帝,涼武昭王爲興聖皇帝。3.三月、壬子、玄元皇帝の父の周上御大夫を先天太皇と追尊した。また、皋繇を尊んで徳明皇帝とし、涼の武昭王を興聖皇帝とした。
4江、淮南租庸等使韋堅引滻水抵苑東望春樓下爲潭,以聚江、淮運船,役夫匠通漕渠,發人丘壟,自江、淮至京城,民間蕭然愁怨,二年而成。丙寅,上幸望春樓觀新潭。堅以新船數百艘,扁榜郡名,各陳郡中珍貨於船背;陝尉崔成甫著錦半臂,鈌胯綠衫而裼之,紅袹首,居前船唱得寶歌,使美婦百人盛飾而和之,連檣數里;堅跪進諸郡輕貨,仍上百牙盤食。上置宴,竟日而罷,觀者山積。夏,四月,加堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。時京兆尹韓朝宗亦引渭水置潭於西街,以貯材木。4.江・淮南租庸等使韋堅が滻水の水を引き込んで望春楼の下に沢を造ろうとした。そこで江淮の運船をかき集め、人夫や匠を使って運河を掘らせた。徴発された役夫は、まるで丘をなすように大勢で、江淮から京城へ至るまで、民間は労役に苦しめられて愁い怨んだ。
5丁亥,皇甫惟明引軍出西平,撃吐蕃,行千餘里,攻洪濟城,破之。5.丁亥、皇甫惟明が軍を率いて西平らから出陣し、吐蕃を撃った。千余里を行軍し、洪済城を攻撃し、これを破った。
6上以右贊善大夫楊愼矜知御史中丞事。時李林甫專權,公卿之進,有不出其門者,必以罪去之;愼矜由是固辭,不敢受。五月,辛丑,以愼矜爲諫議大夫。6.上は、右賛善大夫楊慎矜を知御史中丞事とした。
7冬,十月,戊寅,上幸驪山温泉;乙卯,還宮。7.冬、十月、戊寅、上が驪山の温泉に御幸した。乙卯、宮殿に帰った。
三載(甲申、七四四)1.春、正月、丙申朔、年を載と改めた。
1春,正月,丙申朔,改年曰載。
2辛丑,上幸驪山温泉;二月,庚午,還宮。2.辛丑、上が驪山の温泉に御幸した。二月、庚午、宮殿に帰った。
3辛卯,太子更名亨。3.辛卯、太子が亨と改名した。
4海賊呉令光等抄掠台、明,命河南尹裴敦復將兵討之。4.海賊呉令光らが台・明州で掠奪を働いた。河南尹裴敦復に討伐を命じた。
5三月,己巳,以平盧節度使安祿山兼范陽節度使;以范陽節度使裴寬爲戸部尚書。禮部尚書席建侯爲河北黜陟使,稱祿山公直;李林甫、裴寬皆順旨稱其美。三人皆上所信任,由是祿山之寵益固不搖矣。5.三月、己巳、平盧節度使の安禄山に、范陽節度使を兼任させた。范陽節度使の裴寛を戸部尚書とした。
6夏,四月,裴敦復破呉令光,擒之。6.夏、四月、裴敦復が、呉令光を破り、これを捕らえた。
7五月,河西節度使夫蒙靈詧討突騎施莫賀達干,斬之,更請立黑姓伊里底蜜施骨咄祿毗伽;六月,甲辰,册拜骨咄祿毗伽爲十姓可汗。7.五月、河西節度使の夫蒙霊詧が、突騎施の莫賀達干を討ち、これを斬った。更に、黒姓の伊里底蜜施の骨咄禄毗伽を立てるよう請うた。
8秋,八月,拔悉蜜攻斬突厥烏蘇可汗,傳首京師。國人立其弟鶻隴匐白眉特勒,是爲白眉可汗。於是突厥大亂,敕朔方節度使王忠嗣出兵乘之。至薩河内山,破其左廂阿波達干等十一部,右廂未下。會回紇、葛邏祿共攻拔悉蜜頡跌伊施可汗,殺之。回紇骨力裴羅自立爲骨咄祿毗伽闕可汗,遣使言状;上册拜裴羅爲懷仁可汗。於是懷仁南據突厥故地,立牙帳於烏德犍山,舊統藥邏葛等九姓,其後又并拔悉蜜、葛邏祿,凡十一部,各置都督,毎戰則以二客部爲先。8.秋、八月、抜悉蜜が突厥の烏蘇可汗を攻撃して斬った。首を京師へ送った。
9李林甫以楊愼矜屈附於己,九月,甲戌,復以愼矜爲御史中丞,充諸道鑄錢使。9.李林甫は、楊慎矜が自分に懐いているので、九月、甲戌、彼を御史中丞として諸道鋳銭使にあてた。
10冬,十月,癸巳,上幸驪山温泉;十一月,丁卯,還宮。10.冬、十月、癸巳、上が驪山の温泉に御幸した。十一月、丁卯、宮殿に帰った。
11術士蘇嘉慶上言:「遯甲術有九宮貴神,典司水旱,請立壇於東郊,祀以四孟月。」從之。禮在昊天上帝下,太清宮、太廟上,所用牲玉,皆侔天地。11.術士の蘇嘉慶が「九宮の貴神に遁甲の術があり、降雨や日照りを司っています。どうか東郊へ祭壇を立て、四孟月に祀ってください」と、上言した。これに従った。
12十二月,癸巳,置會昌縣於温泉宮下。12.十二月、癸巳、温泉宮の下に会昌県を置いた。
13戸部尚書裴寬素爲上所重,李林甫恐其入相,忌之。刑部尚書裴敦復撃海賊還,受請托,廣序軍功,寬微奏其事。林甫以告敦復,敦復言寬亦嘗以親故屬敦復。林甫曰:「君速奏之,勿後於人。」敦復乃以五百金賂女官楊太眞之姊,使言於上。甲午,寬坐貶睢陽太守。13.戸部尚書裴寛は、もともと上から重んじられていた。李林甫は、彼が宰相となることを恐れ、彼を忌んでいた。
初,武惠妃薨,上悼念不已,後宮數千,無當意者。或言壽王妃楊氏之美,絶世無雙。上見而悅之,乃令妃自以其意乞爲女官,號太眞;更爲壽王娶左衞郎將韋昭訓女;潛内太眞宮中。太眞肌態豐豔,曉音律,性警穎,善承迎上意,不期歳,寵遇如惠妃,宮中號曰「娘子」,凡儀體皆如皇后。
14癸卯,以宗女爲和義公主,嫁寧遠奉化王阿悉爛達干。14.癸卯、宗女を和義公主として、寧遠奉化王阿悉爛達干に嫁がせた。
15癸丑,上祀九宮貴神,赦天下。15.癸丑、上が九宮で貴神を祀り、天下に恩赦を下した。
16初令百姓十八爲中,二十三成丁。16.百姓は、十八才で中、二十三才で丁とした。
17初,上自東都還,李林甫知上厭巡幸,乃與牛仙客謀增近道粟賦及和糴以實關中。數年,蓄積稍豐。上從容謂高力士曰:「朕不出長安近十年,天下無事,朕欲高居無爲,悉以政事委林甫,何如?」對曰:「天子巡狩,古之制也。且天下大柄,不可假人;彼威勢既成,誰敢復議之者!」上不悅。力士頓首自陳:「臣狂疾,發妄言,罪當死!」上乃爲力士置酒,左右皆呼萬歳。力士自是不敢深言天下事矣。17.かつて上が東都から帰ったとき、李林補は、上が巡幸に嫌気が差していると気が付いた。そこで牛仙客と謀って、近道からの粟賦を増やしてこれを関中へ運び込んだ。数年経つと、備蓄された穀物が溢れ返った。
四載(乙酉、七四五)1.春、正月、庚午、上が宰相に言った。
1春,正月,庚午,上謂宰相曰:「朕比以甲子日,於宮中爲壇,爲百姓祈福,朕自草黄素置案上,俄飛升天,聞空中語去:『聖壽延長。』又朕於嵩山煉藥成,亦置壇上,及夜,左右欲收之,又聞空中語云:『藥未須收,此自守護。』達曙乃收之。」太子、諸王、宰相,皆上表賀。
2回紇懷仁可汗撃突厥白眉可汗,殺之,傳首京師。突厥毗伽可敦帥衆來降。於是北邊晏然,烽燧無警矣。2.回紇の懐仁可汗が突厥の白眉可汗を攻撃した。これを殺して、首を京師へ送った。
回紇斥地愈廣,東際室韋,西抵金山,南跨大漠,盡有突厥故地。懷仁卒,子磨延啜立,號葛勒可汗。
3二月,己酉,以朔方節度使王忠嗣兼河東節度使。忠嗣少以勇敢自負,及鎭方面,專以持重安邊爲務,常曰:「太平之將,但當撫循訓練士卒而已,不可疲中國之力以邀功名。」有漆弓百五十斤,常貯之櫜中,以示不用。軍中日夜思戰,忠嗣多遣謀人伺其間隙,見可勝,然後興師,故出必有功。既兼兩道節制,自朔方至雲中,邊陲數千里,要害之地,悉列置城堡,斥地各數百里。邊人以爲自張仁亶之後,將帥皆不及。3.二月、己酉、朔方節度使王忠嗣に河東節度使を兼任させた。
4三月,壬申,上以外孫獨孤氏爲靜樂公主,嫁契丹王李懷節;甥楊氏爲宜芳公主,嫁奚王李延寵。4.三月、壬申、上は外孫の独孤氏を静楽公主として契丹王李懐節に、甥の楊氏を宜芳公主として奚王李延寵に、嫁がせた。
5乙巳,以刑部尚書裴敦復充嶺南五府經略等使。五月,壬申,敦復坐逗留不之官,貶淄川太守,以光祿少卿彭杲代之。上嘉敦復平海賊之功,故李林甫陷之。5.乙巳、刑部尚書裴敦復を五府経略等使とした。
6李適之與李林甫爭權有隙。適之領兵部尚書,駙馬張垍爲侍郎,林甫亦惡之,使人發兵部銓曹姦利事,收吏六十餘人付京兆與御史對鞫之,數日,竟不得其情。京兆尹蕭炅使法曹吉温鞫之。温入院,置兵部吏於外,先於後廳取二重囚訊之,或杖或壓,號呼之聲,所不忍聞;皆曰:「苟存餘生,乞紙盡答。」兵部吏素聞温之慘酷,引入,皆自誣服,無敢違温意者。頃刻而獄成,驗囚無榜掠之迹。六月,辛亥,敕誚責前後知銓侍郎及判南曹郎官而宥之。垍,均之兄;温,頊之弟子也。6.李適之と李林甫が権力を争って仲が悪くなった。適之は兵部尚書で、駙馬の張垍は侍郎だったが、林甫は彼もまた憎んでいた。そこで、兵部銓曹の悪事を告発させ、役人六十余人を摘発して京兆と御史に詮議させたが、ついに実証できなかった。
温始爲新豐丞,太子文學薛嶷薦温才,上召見,顧嶷曰:「是一不良人,朕不用也。」
蕭炅爲河南尹,嘗坐事,西臺遣温往按之,温治炅甚急。及温爲萬年丞,未幾,炅爲京兆尹。温素與高力士相結,力士自禁中歸,温度炅必往謝官,乃先詣力士,與之談謔,握手甚歡。炅後至,温陽爲驚避。力士呼曰:「吉七不須避。」謂炅曰:「此亦吾故人也。」召還,與炅坐。炅接之甚恭,不敢以前事爲怨。他日,温謁炅曰:「曩者温不敢隳國家法,自今請洗心事公。」炅遂與盡歡,引爲法曹。
及林甫欲除不附己者,求治獄吏,炅薦温於林甫;林甫得之,大喜。温常曰:「若遇知己,南山白額虎不足縛也。」時又有杭州人羅希奭,爲吏深刻,林甫引之,自御史臺主簿再遷殿中侍御史。二人皆隨林甫所欲深淺,鍛錬成獄,無能自脱者,時人謂之「羅鉗吉網」。
7秋,七月,壬午,册韋昭訓女爲壽王妃。7.秋、七月、壬午、韋昭訓の娘を壽王妃に冊立した。
八月,壬寅,册楊太眞爲貴妃;贈其父玄琰兵部尚書,以其叔父玄珪爲光祿卿,從兄銛爲殿中少監,錡爲駙馬都尉。癸卯,册武惠妃女爲太華公主,命錡尚之。及貴妃三姊,皆賜第京師,寵貴赫然。
楊釗,貴妃之從祖兄也,不學無行,爲宗黨所鄙。從軍於蜀,得新都尉;考滿,家貧不能自歸,新政富民鮮于仲通常資給之。楊玄琰卒於蜀,釗往來其家,遂與其中女通。
鮮于仲通名向,以字行,頗讀書,有材智,劍南節度使章仇兼瓊引爲采訪支使,委以心腹。嘗從容謂仲通曰:「今吾獨爲上所厚,苟無内援,必爲李林甫所危。聞楊妃新得幸,人未敢附之。子能爲我至長安與其家相結,吾無患矣。」仲通曰:「仲通蜀人,未嘗游上國,恐敗公事。今爲公更求得一人。」因言釗本末。兼瓊引見釗,儀觀豐偉,言辭敏給;兼瓊大喜,即闢爲推官,往來浸親密。乃使之獻春綈於京師,將別,謂曰:「有少物在郫,以具一日之糧,子過,可取之。」釗至郫,兼瓊使親信大齎蜀貨精美者遺之,可直萬緡。釗大喜過望,晝夜兼行,至長安,歴抵諸妹,以蜀貨遺之,曰:「此章仇公所贈也。」時中女新寡,釗遂館於其室,中分蜀貨以與之。於是諸楊日夜譽兼瓊;且言釗善樗蒲,引之見上,得隨供奉官出入禁中,改金吾兵曹參軍。
8九月,癸未,以陝郡太守、江淮租庸轉運使韋堅爲刑部尚書,罷其諸使,以御使中丞楊愼矜代之。堅妻姜氏,皎之女,林甫之舅子也,故林甫昵之。及堅以通漕有寵於上,遂有入相之志,又與李適之善;林甫由是惡之,故遷以美宮,實奪之權也。8.九月、癸未、陜郡太守・江淮租庸転運使の韋堅を刑部尚書として、その諸使を御史中丞楊慎矜に交代させた。
9安祿山欲以邊功市寵,數侵掠奚、契丹;奚、契丹各殺公主以叛,祿山討破之。9.安禄山は辺境で功績を建てて寵遇を得ようと、しばしば奚や契丹に侵略した。奚と契丹は、各々公主を殺して叛逆したが、禄山はこれを討って破った。
10隴右節度使皇甫惟明與吐蕃戰于石堡城,爲虜所敗,副將褚誗戰死。10.石堡城にて、隴右節度使皇甫惟明が吐蕃と戦い、敗れた。副将の褚誗が戦死した。
11冬,十月,甲午,安祿山奏:「臣討契丹至北平郡,夢先朝名將李靖、李勣從臣求食。」遂命立廟。又奏薦奠之日,廟梁産芝。11.冬、十月、甲午、安禄山が上奏した。
12丁酉,上幸驪山温泉。12.丁酉、上が驪山の温泉に御幸した。
13上以戸部郎中王鉷爲戸口色役使,敕賜百姓復除。鉷奏徴其輦運之費,廣張錢數,又使市本郡輕貨,百姓所輸乃甚於不復除。舊制,戍邊者免其租庸,六歳而更。時邊將恥敗,士卒死者皆不申牒,貫籍不除。王鉷志在聚斂,以有籍無人者皆爲避課,按籍戍邊六歳之外,悉徴其租庸,有併徴三十年者,民無所訴。上在位久,用度日侈,後宮賞賜無節,不欲數於左、右藏取之。鉷探知上指,歳貢額外錢百億萬,貯於内庫,以供宮中宴賜,曰:「此皆不出於租庸調,無預經費。」上以鉷爲能富國,益厚遇之。鉷務爲割剥以求媚,中外嗟怨。丙子,以鉷爲御史中丞、京畿采訪使。13.上は、戸部郎中王鉷を戸部色役使として、百姓を出身地へ戻すよう勅を賜った。鉷は、その輦運の費用がかさむことや、以後の物流に大きな労力がいることを奏上したので、沙汰やみとなった。(自信ありません。「復除」の「除」には「(官職などを)授ける」)という意味がありますから、「元の官職を与える」という意味でしょう。それを「流民を出身地へ返す」と訳したのはこじつけがひどすぎるような気がします。訳文だけ読むと意味は通りますが、私の完全な誤訳の可能性も強いです。)
楊釗侍宴禁中,專掌樗蒲文簿,鉤校精密。上賞其強明,曰:「好度支郎。」諸楊數徴此言於上,又以屬王鉷,鉷因奏充判官。
14十二月,戊戌,上還宮。14.十二月、戊戌、上が宮殿に帰った。
五載(丙戌、七四六)1.春、正月、乙丑、隴右節度使皇甫惟明に河西節度使を兼務させた。
1春,正月,乙丑,以隴右節度使皇甫惟明兼河西節度使。
李適之性疏率,李林甫嘗謂適之曰:「華山有金礦,采之可以富國,主上未之知也。」他日,適之因奏事言之。上以問林甫,對曰:「臣久知之,但華山陛下本命,王氣所在,鑿之非宜,故不敢言。」上以林甫爲愛己,薄適之慮事不熟,謂曰:「自今奏事,宜先與林甫議之,無得輕脱。」適之由是束手矣。適之既失恩,韋堅失權,益相親密,林甫愈惡之。
初,太子之立,非林甫意。林甫恐異日爲己禍,常有動搖東宮之志;而堅,又太子之妃兄也。皇甫惟明嘗爲忠王友,時破吐蕃,入獻捷,見林甫專權,意頗不平。時因見上,乘間微勸上去林甫。林甫知之,使楊愼矜密伺其所爲。會正月望夜,太子出遊,與堅相見,堅又與惟明會於景龍觀道士之室。愼矜發其事,以爲堅戚里,不應與邊將狎暱。林甫因奏堅與惟明結謀,欲共立太子。堅、惟明下獄,林甫使愼矜與御史中丞王鉷、京兆府法曹吉温共鞫之。上亦疑堅與惟明有謀而不顯其罪,癸酉,下制,責堅以干進不已,貶縉雲太守;惟明以離間君臣,貶播川太守;仍別下制戒百官。
2以王忠嗣爲河西、隴右節度使,兼知朔方、河東節度事。忠嗣始在朔方、河東,毎互市,高估馬價,諸胡聞之,爭賣馬於唐,忠嗣皆買之。由是胡馬少,唐兵益壯。及徙隴右、河西,復請分朔方、河東馬九千匹以實之,其軍亦壯。忠嗣杖四節,控制萬里,天下勁兵重鎭,皆在掌握,與吐蕃戰於靑海、積石,皆大捷。又討吐谷渾於墨離軍,虜其全部而歸。2.王忠嗣を河西、隴右節度使として、知朔方、河東節度事を兼任させた。
3夏,四月,癸未,立奚酋娑固爲昭信王,契丹酋楷洛爲恭仁王。3.夏、四月、癸未、奚酋の婆固を昭信王に、契丹酋の楷洛を恭仁王に立てた。
4己亥,制:「自今四孟月,皆擇吉日祀天地、九宮。」4.己亥、制を下した。
5韋堅等既貶,左相李適之懼,自求散地。庚寅,以適之爲太子少保,罷政事。其子衞尉少卿霅嘗盛饌召客,客畏李林甫,竟日無一人敢往者。5.韋堅らが左遷させられてから、左相の李適之は懼れ、自ら窓際を求めた。
6以門下侍郎、崇玄館大學士陳希烈同平章事。希烈,宋州人,以講老、莊得進,專用神仙符瑞取媚於上。李林甫以希烈爲上所愛,且柔佞易制,故引以爲相;凡政事一決於林甫,希烈但給唯諾。故事,宰相午後六刻乃出,林甫奏,今太平無事,巳時即還第,軍國機務皆決於私家;主書抱成案詣希烈書名而已。6.門下侍郎、祟玄館大学士陳希烈を同平章事とした。
7五月,壬子朔,日有食之。7.五月、壬子朔、日食が起こった。
8乙亥,以劍南節度使章仇兼瓊爲戸部尚書;諸楊引之也。8.乙亥、剣南節度使章仇兼瓊を戸部尚書とした。諸楊の引き立てである。
9秋,七月,丙辰,敕:「流貶人多在道逗留。自今左降官日馳十驛以上。」是後流貶者多不全矣。9.秋、七月、丙辰、勅が下った。
10楊貴妃方有寵,毎乘馬則高力士執轡授鞭,織繡之工專供貴妃院者七百人,中外爭獻器服珍玩。嶺南經略使張九章,廣陵長史王翼,以所獻精美,九章加三品,翼入爲戸部侍郎;天下從風而靡。民間歌之曰:「生男勿喜女勿悲,君今看女作門楣。」妃欲得生荔支,歳命嶺南馳驛致之,比至長安,色味不變。10.楊貴妃がすこぶる寵愛された。馬に乗るごとに高力士が轡を執って鞭を振るった。貴妃院専従の織工は七百人もおり、中外は争って器服珍玩を献上した。嶺南経略使張九章や広陵長史王翼は、献上物が精緻で美しかったので、九章には三品が加えられ、翼は朝廷にて戸部侍郎となった。天下は、風に靡くように従った。
至是,妃以妬悍不遜,上怒,命送歸兄銛之第。是日,上不懌,比日中,猶未食,左右動不稱旨,橫被棰撻。高力士欲嘗上意,請悉載院中儲偫送貴妃,凡百餘車;上自分御膳以賜之。及夜,力士伏奏請迎貴妃歸院,遂開禁門而入。自是恩遇愈隆,後宮莫得進矣。
11將作少匠韋蘭、兵部員外郎韋芝爲其兄堅訟冤,且引太子爲言;上益怒。太子懼,表請與妃離婚,乞不以親廢法。丙子,再貶堅江夏別駕,蘭、芝皆貶嶺南。然上素知太子孝謹,故譴怒不及。李林甫因言堅與李適之等爲朋黨,後數日,堅長流臨封,適之貶宜春太守,太常少卿韋斌貶巴陵太守,嗣薛王琄貶夷陵別駕,睢陽太守裴寬貶安陸別駕,河南尹李齊物貶竟陵太守,凡堅親黨坐流貶者數十人。斌,安石之子。琄,業之子,堅之甥也。琄母亦令隨琄之官。11.将作少匠韋蘭と兵部員外郎韋芝は、彼らの兄の堅の件は冤罪であると訴え、太子を証人として引っ張ってきた。上はますます怒った。太子は懼れ、親しい相手でも法律を曲げないことを示すために、妃と離縁させて欲しいと上表した。
12冬,十月,戊戌,上幸驪山温泉;十一月,乙巳,還宮。12.冬、十月、戊戌、上は驪山の温泉に御幸した。十一月、乙巳、宮殿に帰った。
13贊善大夫杜有鄰,女爲太子良娣,良娣之姊爲左驍衞兵曹柳勣妻。勣性狂疏,好功名,喜交結豪俊。淄川太守裴敦復薦於北海太守李邕,邕與之定交。勣至京師,與著作郎王曾等爲友,皆當時名士也。13.賛善大夫杜有隣は、娘を太子の良娣(側室の一人、正三品)としていた。良娣の妹は、左驍衛兵曹柳勣の妻となっていた。
勣與妻族不協,欲陷之,爲飛語,告有鄰妄稱圖讖,交構東宮,指斥乘輿。林甫令京兆士曹吉温與御史鞫之,乃勣首謀也。温令勣連引曾等入臺。十二月,甲戌,有鄰、勣及曾等皆杖死,積尸大理,妻子流遠方;中外震慄。嗣虢王巨貶義陽司馬。巨,邕之子也。別遣監察御史羅希奭往按李邕,太子亦出良娣爲庶人。
乙亥,鄴郡太守王琚坐贓貶江華司馬。琚性豪侈,與李邕皆自謂耆舊,久在外,意怏怏,李林甫惡其負材使氣,故因事除之。
六載(丁亥、七四七)1.春、正月、辛己、李邕と裴敦復がともに杖で打ち殺された。
1春,正月,辛巳。李邕、裴敦復皆杖死。邕才藝出衆,盧藏用常語之曰:「君如干將、莫邪,難與爭鋒,然終虞缺折耳。」邕不能用。
林甫又奏分遣御史即貶所賜皇甫惟明、韋堅兄弟等死。羅希奭自靑州如嶺南,所過殺遷謫者,郡縣惶駭。排馬牒至宜春,李適之憂懼,仰藥自殺。至江華,王琚仰藥不死,聞希奭已至,即自縊。希奭又迂路過安陸,欲怖殺裴寬,寬向希奭叩頭祈生,希奭不宿而過,乃得免。李適之子霅迎父喪至東京,李林甫令人誣告霅,杖死於河南府。給事中房琯坐與適之善,貶宜春太守。琯,融之子也。
林甫恨韋堅不已,遣使於循河及江、淮州縣求堅罪,收繋綱典船夫,溢於牢獄,徴剥逋負,延及鄰伍,皆裸露死於公府,至林甫薨乃止。
2丁亥,上享太廟;戊子,合祭天地於南郊,赦天下。制免百姓今載田租。又令除削絞、斬條。上慕好生之名,故令應絞斬者皆重杖流嶺南,其實有司率杖殺之。又令天下爲嫁母服三載。2.丁亥、上が太廟で享した。
上欲廣求天下之士,命通一藝以上皆詣京師。李林甫恐草野之士對策斥言其姦惡,建言:「舉人多卑賤愚聵,恐有俚言汚濁聖聽。」乃令郡縣長官精加試練,灼然超絶者,具名送省,委尚書覆試,御史中丞監之,取名實相副者聞奏。既而至者皆試以詩、賦、論,遂無一人及第者,林甫乃上表賀野無遺賢。
3戊寅,以范陽、平盧節度使安祿山兼御史大夫。3.戊寅、范陽・平盧節度使安禄山に御史大夫を兼任させた。
祿山體充肥,腹垂過膝,嘗自稱腹重三百斤。外若癡直,内實狡黠。常令其將劉駱谷留京師詗朝廷指趣,動靜皆報之;或應有牋表者,駱谷即爲代作通之。歳獻俘虜、雜畜、奇禽、異獸、珍玩之物,不絶於路,郡縣疲於遞運。
祿山在上前,應對敏給,雜以詼諧。上嘗戲指其腹曰:「此胡腹中何所有,其大乃爾!」對曰:「更無餘物,正有赤心耳!」上悅。又嘗命見太子,祿山不拜。左右趣之拜,祿山拱立曰:「臣胡人,不習朝儀,不知太子者何官?」上曰:「此儲君也,朕千秋萬歳後,代朕君汝者也。」祿山曰:「臣愚,曏者惟知有陛下一人,不知乃更有儲君。」不得已,然後拜。上以爲信然,益愛之。上嘗宴勤政樓,百官列坐樓下,獨爲祿山於御座東間設金雞障,置榻使坐其前,仍命巻簾以示榮寵。命楊銛、楊錡、貴妃三姊皆與祿山敍兄弟。祿山得出入禁中,因請爲貴妃兒。上與貴妃共坐,祿山先拜貴妃。上問何故,對曰:「胡人先母而後父。」上悅。
4李林甫以王忠嗣功名日盛,恐其入相,忌之。安祿山潛蓄異志,託以禦寇,築雄武城,大貯兵器,請忠嗣助役,因欲留其兵。忠嗣先期而往,不見祿山而還,數上言祿山必反;林甫益惡之。夏,四月,忠嗣固辭兼河東、朔方節度,許之。4.王忠嗣の功名が日々盛んになったので、李林甫は彼が朝廷へ入って宰相となることを恐れ、これを忌んだ。
5冬,十月,己酉,上幸驪山温泉,改温泉宮曰華清宮。5.冬、十月、己酉、上は驪山の温泉に御幸した。温泉宮を華清宮と改称した。
6河西、隴右節度使王忠嗣以部將哥舒翰爲大斗軍副使,李光弼爲河西兵馬使,充赤水軍使。翰父祖本突騎施別部酋長,光弼,契丹王楷洛之子也,皆以勇略爲忠嗣所重。忠嗣使翰撃吐蕃,有同列爲之副,倨慢不爲用,翰檛殺之,軍中股慄,累功至隴右節度副使。毎歳積石軍麥熟,吐蕃輒來獲之,無能禦者,邊人謂之「吐蕃麥莊」。翰先伏兵於其側,虜至,斷其後,夾撃之,無一人得返者,自是不敢復來。6.河西・隴右節度使王忠嗣が、部将の哥舒翰を大斗軍副使、李光弼を河西兵馬使、充赤水軍使とした。
上欲使王忠嗣攻吐蕃石堡城,忠嗣上言:「石堡險固,吐蕃舉國守之。今頓兵其下,非殺數萬人不能克。臣恐所得不如所亡,不如且厲兵秣馬,俟其有釁,然後取之。」上意不快。將軍董延光自請將兵取石堡城,上命忠嗣分兵助之。忠嗣不得已奉詔,而不盡副延光所欲,延光怨之。
李光弼言於忠嗣曰:「大夫以愛士卒之故,不欲成延光之功,雖迫於制書,實奪其謀也。何以知之?今以數萬衆授之而不立重賞,士卒安肯爲之盡力乎!然此天子意也,彼無功,必歸罪於大夫。大夫軍府充牣,何愛數萬段帛不以杜其讒口乎!」忠嗣曰:「今以數萬之衆爭一城,得之未足以制敵,不得亦無害於國,故忠嗣不欲爲之。忠嗣今受責天子,不過以金吾、羽林一將軍歸宿衞,其次不過黔中上佐;忠嗣豈以數萬人之命易一官乎!李將軍,子誠愛我矣,然吾志決矣,子勿復言!」光弼曰:「曏者恐爲大夫之累,故不敢不言。今大夫能行古人之事,非光弼所及也。」遂趨出。
延光過期不克,言忠嗣沮撓軍計,上怒。李林甫因使濟陽別駕魏林告「忠嗣嘗自言我幼養宮中,與忠王相愛狎」,欲擁兵以尊奉太子。敕徴忠嗣入朝,委三司鞫之。
上聞哥舒翰名,召見華清宮,與語,悅之。十一月,辛卯,以翰判西平太守,充隴右節度使;以朔方節度使安思順判武威郡事,充河西節度使。
7戸部侍郎兼御史中丞楊愼矜爲上所厚,李林甫浸忌之。愼矜與王鉷父晉,中表兄弟也,少與鉷狎,鉷之入臺,頗因愼矜推引。及鉷遷中丞,愼矜與語,猶名之;鉷自恃與林甫善,意稍不平。愼矜奪鉷職田,鉷母本賤,愼矜嘗以語人;鉷深銜之。愼矜猶以故意待之,嘗與之私語讖書。7.戸部侍郎兼御史中丞の楊慎矜は、上から気に入られたので、李林甫は次第に彼を忌むようになった。慎矜と王鉷の父の晋は従兄弟にあたる。幼い頃、彼は鉷と狎れており、鉷が入台したのも、慎矜の引き立てが大きかった。鉷が中丞へ出世しても、なお、慎矜は彼のことを名前で呼んだ。鉷は林甫から目をかけられていることを恃んでいたので、次第に不満になってきた。対して慎矜は、鉷の職田を奪った。また、鉷の母親はもともと賤しい身分だったが、慎矜はそれを他人へ語った。それらの事を、鉷は深く怨んだ。だが、慎矜はなおも昔のままにつき合い、彼と私的に讖言を語ったりした。
愼矜與術士史敬忠善,敬忠言天下將亂,勸愼矜於臨汝山中買莊爲避亂之所。會愼矜父墓田中草木皆流血,愼矜惡之,以問敬忠。敬忠請禳之,設道場於後園,愼矜退朝,輒裸貫桎梏坐其中。旬日血止,愼矜德之。愼矜有侍婢明珠,色美,敬忠屢目之,愼矜即以遺敬忠,車載過貴妃姊柳氏樓下,姊邀敬忠上樓,求車中美人,敬忠不敢拒。明日,姊入宮,以明珠自隨。上見而異之,問所從來,明珠具以實對。上以愼矜與術士爲妖法,惡之,含怒未發。
楊釗以告鉷,鉷心喜,因侮慢愼矜;愼矜怒。林甫知鉷與愼矜有隙,密誘使圖之。鉷乃遣人以飛語告「愼矜隋煬帝孫,與凶人往來,家有讖書,謀復祖業。」上大怒,收愼矜繋獄,命刑部、大理與侍御史楊釗、殿中侍御史盧鉉同鞫之。太府少卿張瑄,愼矜所薦也,盧鉉誣瑄嘗與愼矜論讖,拷掠百端,瑄不肯答辯。乃以木綴其足,使人引其枷柄,向前挽之,身加長數尺,腰細欲絶,眼鼻出血,瑄竟不答。
又使吉温捕史敬忠於汝州。敬忠與温父素善,温之幼也,敬忠常抱撫之。及捕獲,温不與交言,鎖其頸,以布蒙首,驅之馬前。至戲水,温使吏誘之曰:「楊愼矜已款服,惟須子一辯,若解人意則生,不然必死,前至温湯,則求首不獲矣。」敬忠顧謂温曰:「七郎,求一紙。」温陽不應。去温湯十餘里,敬忠祈請哀切,乃於桑下令答三紙,辯皆如温意。温徐謂曰:「丈人且勿怪!」因起拜之。
至會昌,始鞫愼矜,以敬忠爲證。愼矜皆引服,惟搜讖書不獲。林甫危之,使盧鉉入長安搜愼矜家,鉉袖讖書入闇中,詬而出曰:「逆賊深藏秘記。」至會昌,以示愼矜。愼矜歎曰:「吾不蓄讖書,此何從在吾家哉!吾應死而己。」丁酉,賜愼矜及兄少府少監愼餘、洛陽令愼名自盡;敬忠杖百,妻子皆流嶺南;瑄杖六十,流臨封,死於會昌。嗣虢王巨雖不預謀,坐與敬忠相識,解官,南賓安置。自餘連坐者數十人。愼名聞敕,神色不變,爲書別姊;愼餘合掌指天而縊。
8三司按王忠嗣,上曰:「吾兒居深宮,安得與外人通謀,此必妄也。但劾忠嗣沮撓軍功。」哥舒翰之入朝也,或勸多齎金帛以救忠嗣。翰曰:「若直道尚存,王公必不冤死;如其將喪,多賂何爲!」遂單囊而行。三司奏忠嗣罪當死。翰始遇知於上,力陳忠嗣之冤,且請以己官爵贖忠嗣罪;上起,入禁中,翰叩頭隨之,言與涙倶。上感寤,己亥,貶忠嗣漢陽太守。8.三司が王忠嗣を詮議すると、上は言った。
9李林甫屢起大獄,別置推事院於長安。以楊釗有掖廷之親,出入禁闥,所言多聽,乃引以爲援,擢爲御史。事有微交渉東宮者,皆指擿使之奏劾,付羅希奭、吉温鞫之。釗因得逞其私志,所擠陷誅夷者數百家,皆釗發之。幸太子仁孝謹靜,張垍、高力士常保護於上前,故林甫終不能間也。9.李林甫がしばしば大獄を起こしたので、長安へ推事院を別に設置した。
10十二月,壬戌,發馮翊、華陰民夫築會昌城,置百司。王公各置第舎,土畝直千金。癸亥,上還宮。10.十二月、壬戌、馮翊・華陰の民を徴発して、会昌城を築き、百司を置いた。王公にはおのおの第舎を置き、その土畝は千金もかかった。
11丙寅,命百官閲天下歳貢物於尚書省,既而悉以車載賜李林甫家。上或時不視朝,百司悉集林甫第門,臺省爲空。陳希烈雖坐府,無一人入謁者。11.丙寅、尚書省にて天下の一年の貢物が帳簿どおりに揃ったかどうか検分するよう、百官へ命じた。だが、調査が済むと、全て車へ積んで李林甫の家へ運び込まれた。
林甫子岫爲將作監,頗以滿盈爲懼,嘗從林甫遊後園,指役夫言於林甫曰:「大人久處鈞軸,怨仇滿天下,一朝禍至,欲爲此得乎!」林甫不樂曰:「勢已如此,將若之何!」
先是,宰相皆以德度自處,不事威勢,騶從不過數人,士民或不之避。林甫自以多結怨,常虞刺客,出則歩騎百餘人爲左右翼,金吾靜街,前驅在數百歩外,公卿走避;居則重關復壁,以石甃地,牆中置板,如防大敵,一夕屢徙床,雖家人莫知其處。宰相騶從之盛,自林甫始。
12初,將軍高仙芝,本高麗人,從軍安西。仙芝驍勇,善騎射。節度使夫蒙靈詧屢薦至安西副都護、都知兵馬使,充四鎭節度副使。
吐蕃以女妻小勃律王,及其旁二十餘國,皆附吐蕃,貢獻不入;前後節度使討之,皆不能克。制以仙芝爲行營節度使,將萬騎討之。自安西行百餘日,乃至特勒滿川,分軍爲三道,期以七月十三日會吐蕃連雲堡下。有兵近萬人,不意唐兵猝至,大驚,依山拒戰,礮櫑如雨。仙芝以郎將高陵李嗣業爲陌刀將,令之曰:「不及日中,決須破虜。」嗣業執一旗,引陌刀縁險先登力戰,自辰至巳,大破之,斬首五千級,捕虜千餘人,餘皆逃潰。中使邊令誠以入虜境已深,懼不敢進;仙芝乃使令誠以羸弱三千守其城,復進。
三日,至坦駒嶺,下峻阪四十餘里,前有阿弩越城。仙芝恐士卒憚險,不肯下,先令人胡服詐爲阿弩越城守者迎降,云:「阿弩越赤心歸唐,娑夷水藤橋已斫斷矣。」娑夷水,即弱水也,其水不能勝草芥。藤橋者,通吐蕃之路也。仙芝陽喜,士卒乃下。又三日,阿弩越城迎者果至。
明日,仙芝入阿弩越城,遣將軍席元慶將千騎前行,謂曰:「小勃律聞大軍至,其君臣百姓必走山谷,第呼出,取繒帛稱敕賜之,大臣至,盡縛之以待我。」元慶如其言,悉縛諸大臣。王及吐蕃公主逃入石窟,取不可得,仙芝至,斬其附吐蕃者大臣數人。
藤橋去城猶六十里,仙芝急遣元慶往斫之,甫畢,吐蕃兵大至,已無及矣。藤橋闊盡一矢,力脩之,期年乃成。
八月,仙芝虜小勃律王及吐蕃公主而還。九月,至連雲堡,與邊令誠倶。月末,至播密川,遣使奏状。
至河西,夫蒙靈詧怒仙芝不先言己而遽發奏,一不迎勞,罵仙芝曰:「噉狗糞高麗奴!汝官皆困誰得,而不待我處分,擅奏捷書!高麗奴!汝罪當斬,但以汝新有功不忍耳!」仙芝但謝罪。邊令誠奏仙芝深入萬里,立奇功,今旦夕憂死。
12.将軍の高仙芝は、もともと高麗人であり、安西に従軍していた。仙芝は驍勇で、騎射が巧く、節度使の夫蒙霊詧はしばしば推薦し、ついに安西副都護、都知兵馬使、充四鎮節度副使となった。
吐蕃賛普は、娘を小勃律王に娶せた。その勢力は周りの二十余国に及び、みな、吐蕃に帰順して唐へ貢献しなくなった。歴代の節度使はこれを討伐したが、みな、勝てなかった。そこで仙芝へ、行営節度使となって万騎を率いてこれを討つよう制が下った。
安西から百余日行軍し、特勒満川へ到着した。ここで軍を分けて、三道から進軍し、七月十三日に吐蕃の連雲堡下にて合流するよう申し渡す。
吐蕃は、一万近くの唐兵が突如出現したので大いに驚き、山に依って拒戦し、矢や石を雨のように降らせた。仙芝は、郎将の高陵の李嗣業を陌刀将として、命令した。
「日中になる前に、虜を撃破せよ。」
嗣業は軍旗を一本手に取ると、陌刀を率いて険阻な山を率先して登り、力戦した。辰から巳へ至って、虜を大いに破った。五千級を斬首し、千余人を捕らえ、それ以外は全員潰走した。
中使の辺令誠は、敵地深く入った事を懼れ、それ以上進もうとしなかった。そこで仙芝は、老弱の兵三千を令誠の護衛としてその城を守らせ、更に進軍した。
三日、坦駒嶺に到着した。険しい坂を四十余里下った前方には阿弩越城がある。仙芝は、士卒が険阻な地形を憚って進まないことを恐れた。そこで、部下に胡服を着せて阿弩越城からの降伏の使者に見せかけ、言わせた。
「阿弩越城は心底唐へ帰順したがっております。娑夷水の藤橋は、既に落としました。」
娑夷水は、すなわち弱水である。(小勃律王の居城は孽多城。これは娑夷水に臨んでいる。)その水は比重が軽く、草芥でさえ浮かばない。藤橋は、吐蕃へ通じる道である。
仙芝が、その芝居に合わせて喜んで見せたので、士卒たちは進軍した。三日して、果たして阿弩越城から降伏の使者がやってきた。
翌日、仙芝は阿弩越城へ入り、将軍席元慶へ千騎を与えて先行させ、言った。
「大軍が来たと聞けば、小勃律の君臣百姓は必ず山谷へ逃げ込む。そしたら彼等を呼び出して、帛を与え、敕による賜だと言うのだ。大臣たちがやってきたら、全員縛り上げて我の到着を待て。」
元慶は、その言葉通りにして大臣達を全員捕縛した。王と吐蕃公主は石窟へ逃げ込み、捕らえられなかった。仙芝が到着すると、吐蕃に随身していた大臣数人を斬った。
藤橋は城から六十里の所に架かっている。仙芝は急いで元慶を派遣して、橋を壊させた。僅かに遅れて吐蕃軍がやって来たが、もう、渡ることはできなかった。
藤橋は、矢がやっと届くくらいの広さ。吐蕃軍が退却した後、全力で修復したら、一年で完成した。
八月、仙芝は小没律王及び吐蕃公主を捕らえて帰国した。
九月、連雲堡へ到着し、辺令誠と合流した。月末、播密川へ到着した。京師へ戦勝の使者を派遣した。
河西へ到着すると、夫蒙霊詧は、仙芝が自分へ報告もせずに勝手に戦勝の報告をしたことに腹を立て、ねぎらいの言葉も掛けずに罵った。
「犬の糞を喰らった高麗奴が!お前の才覚を見抜いて抜擢したのは誰だ?それなのに、我の処分も待たずに勝手に戦勝を報告したのか!高麗奴!お前の専横は斬罪に値する!だが、手柄を建てたばかりだから、そこまでは勘弁してやっているのだ!」
仙芝は、ただ謝罪するだけだった。
辺令誠は、「仙芝が万里深く進軍して奇功を建てながら、今にも憂死しそうだ」と上奏した。
翻訳者: 渡邊 省