巻第一百四十九

資治通鑑巻第一百四十九
 梁紀五
  高祖武皇帝五
天監十八年(己亥、五一九)

 春,正月,甲申,以尚書左僕射袁昂爲尚令,右僕射王暕爲左僕射,太子詹事徐勉爲右僕射。
1.春、正月、甲申、尚書左僕射袁昴を尚書令に、右僕射王暕を左僕射に、太子詹事徐勉を右僕射とした。
 丁亥,魏主下詔,稱「皇太后臨朝踐極,歳將半紀,宣稱『詔』以令宇内。」
2.丁亥、孝明帝が詔を下して述べた。
「皇太后が朝廷に臨んで天子の政治を行い、来年は六年目になろうとしている。(皇太后は)『詔』によって天下に命令を下すべし」
 辛卯,上祀南郊。
3.辛卯、武帝が南郊で祭祀を行った。
 魏征西將軍張彝之子仲瑀上封事,求銓削選格,排抑武人,不使豫清品。於是喧謗盈路,立榜大巷,克期會集,屠害其家;彝父子晏然,不以爲意。二月,庚午,羽林、虎賁近千人相帥至尚書省詬罵,求仲瑀兄左民郎中始均不獲,以瓦石撃省門;上下懾懼,莫敢禁討。遂持火掠道中薪蒿,以杖石爲兵器,直造其第,曳彝堂下,捶辱極意,焚其第舎。始均踰垣走,復還拜賊,請其父命,賊就毆撃,生投之火中。仲瑀重傷走免,彝僅有餘息,再宿而死。遠近震駭。胡太后收掩羽林、虎賁凶強者八人斬之,其餘不復窮治。乙亥,大赦以安之,因令武官得依資入選。識者知魏之將亂矣。
  時官員既少,應選者多,吏部尚書李韶銓注不行,大致怨嗟;更以殿中尚書崔亮爲吏部尚書。亮奏爲格制,不問士之賢愚,專以停解月日爲斷,沈滯者皆稱其能。亮甥司空咨議劉景安與亮書曰:「殷、周以郷塾貢士,兩漢由州郡薦才,魏、晉因循,又置中正,雖未盡美,應什收六七。而朝廷貢才,止求其文,不取其理,察孝廉唯論章句,不及治道,立中正不考才行,空辯氏姓,取士之途不博,沙汰之理未精。舅屬當銓衡,宜改張易調,如何反爲停年格以限之,天下士子誰復脩厲名行哉!」亮復書曰:「汝所言乃有深致。吾昨爲此格,有由而然。古今不同,時宜須異。昔子産鑄刑書以救弊,叔向譏之以正法,何異汝以古禮難權宜哉!」洛陽令代人薛琡上書,言:「黎元之命,繋於長吏,若以選曹唯取年勞,不簡能否,義均行鴈,次若貫魚,執簿呼名,一吏足矣,數人而用,何謂銓衡!」書奏,不報。後因請見,復奏「乞令王公貴臣薦賢以補郡縣。」詔公卿議之,事亦寢。其後甄琛等繼亮爲吏部尚書,利其便己,踵而行之。魏之選舉失人,自亮始也。
  初,燕燕郡太守高湖奔魏,其子謐爲侍御史,坐法徙懷朔鎭,世居北邊,遂習鮮卑之俗。謐孫歡,沈深有大志,家貧,執役在平城,富人婁氏女見而奇之,遂嫁焉。始有馬,得給鎭爲函使,至洛陽,見張彝之死,還家,傾貲以結客。或問其故,歡曰:「宿衞相帥焚大臣之第,朝廷懼其亂而不問,爲政如此,事可知矣,財物豈可常守邪!」歡與懷朔省事雲中司馬子如、秀容劉貴、中山賈顯智、戸曹史咸陽孫騰、外兵史懷朔侯景、獄掾善無尉景、廣寧蔡儁特相友善,並以任侠雄於郷里。
4.魏征西将軍張彝の子、張仲瑀が封書を上奏し、(官吏の)任免や選抜の制度について、軍人を排斥して高位の官職を授けないよう求めた。かくして街路に誹謗の声は高まり、広場には立て札が掲げられて、張仲瑀の邸宅を襲撃するために、集合の期日が定められた。張彝父子は平然として、意に介さなかった。
 二月、庚午、羽林兵・虎賁兵の約千人が集団で尚書省に赴いて罵声を上げ、張仲瑀の兄、左民郎中張始均(の身柄)を求めたが得られなかったので、瓦や石を尚書省の門に投げ付けた。尚書省の官吏たちは恐怖して、止めることも反撃することもできなかった。
 ついには松明を手にして道中の薪や藁を奪い、杖や石を武器とすると、張仲瑀の邸宅に赴いて張彝を屋敷から引きずり出し、気が済むまで鞭打って辱めると邸宅を焼き払った。張始均は垣根を越えて逃げたが、再び戻って暴徒に平伏し、父の助命を求めた。暴徒は(張始均を)殴打して、生きたまま火の中に投げ込んだ。張仲瑀は重傷を負ったが逃げ去った。張彝は虫の息で、翌々日に死去した。遠近の者たちは驚いて震え上がった。 霊太后は羽林兵・虎賁兵の悪質な者八名を捕らえて斬刑に処し、その他は改めて罪を問わなかった。乙亥、大赦を行って羽林兵・虎賁兵を安心させ、武官にも(朝廷の官僚に)選抜の対象となる道を残した。見識ある者は魏が混乱しようとしていることを悟った。
 この時、官職(の空き)は少なく、選抜の対象者は多かったので、吏部詔書李韶は選抜・登用を行わなかった。大いに怨嗟の声が上がった。代わりに殿中尚書崔亮を吏部尚書とした。 崔亮は新制度を作成して上奏し、士人の賢愚を問わず、現職に留まったり無官だったりした日月で判断したので、昇進や仕官できなかった者が皆、その才能を称えられることになった。崔亮の甥、司空諮議劉景安が崔亮に書簡を送って述べた。
「殷・周では各地の私塾が人物を輩出しておりました。前漢・後漢では州郡から才人が推挙されました。魏と晋では旧制度に従いましたが、中正官を置いて、完全ではありませんでしたが、十人に七~八人は登用の対象となりました。しかし朝廷に推薦される才人は文才を求められるのに止まり、その本質は取り上げられませんでした。思えば孝廉でも文章(についての知識)だけが論ぜられ、政治の手法にまで及びませんでした。中正法が施行されても才知や行状は考慮されず、空虚な弁論と出自によっていました。人材登用の道は狭く、その判断基準も不確かだったのです。叔父上は(人材)審査の任にあるのですから、琴瑟の弦を張り替えるように制度を改めるべきでしょう。どうして停年格などを設けて人材登用の道を狭めるのですか。(それでは)天下の士人は誰も名声を得てや行状を称えられるよう励んだりはしなくなるでしょう!」
 崔亮は返書を送って述べた。
「お前の言うことはよくわかった。(しかし)先に私がこの制度を設けたのにも理由があってのことなのだ。過去と現在は同じではなく、時代によって適切な手段も異なってくる。昔、子産は法典を鋳造して弊害を解決しようとしたが、叔向は旧来の法に基づいてこれを批判していた。お前(の進言)は古い礼式によって適切な手段を非難したのと同じではないか!」
 洛陽令、代郡の薛琡が上書して述べた。
「民衆の命運は長官の手に委ねられています。もし官吏を選抜するのに年数だけを取り上げ、能力の有無を考慮しないのなら、それは雁や魚が並んで行くのと変わりないではないですか。名簿を手にして名を呼ぶ程度のこと、一人の官吏で事足ります。(それに)何人も登用していては、何のための審査ですか!」
 書状を上奏したが、回答はなかった。後に謁見を求めて、再び進言した。
「王公や高官の方々に賢人を推挙させて郡県(の官吏)に充てるよう願います」
 公卿に詔を下して論議させたが、これもうやむやになった。その後、甄琛らが崔亮を継いで吏部尚書となったが、自分に都合の良いように従来の制度を施行し続けた。
 魏の官吏登用で良い人材が得られなくなったのは崔亮に始まった(悪弊な)のである。
 かつて燕の燕郡太守高湖が魏に亡命した。その子、高謐は侍御史となり、法に触れて懐朔鎮への流刑に処された。代々、北辺に住んで、ついには鮮卑の生活様式に馴染んだ。
 高謐の孫、高歓は落ち着いていて思慮深く、大きな志を持っていた。家は貧しかったが、平城で貴人に近侍していた時、富豪の婁氏の娘が高歓を見て異才を認め、ついには彼に嫁いだ。
 (高歓は)馬を手に入れると、懐朔鎮の函使となることができた。洛陽に着いて、張彝の死を見た。帰宅すると財産を投じて食客を抱き抱えた。その理由を尋ねる者がいた。高歓は言った。
「宿衛の将帥たちが大臣の邸宅を焼き、朝廷は彼らの反乱を怖れて不問にしたのだ。政治がこのようでは先も知れている。財産が必ず守ってくれるとは限らなくなったのだよ!」
 高歓は懐朔省事、雲中郡の司馬子如・秀容郡の劉貴・中山郡の賈顕智・戸曹史、咸陽郡の孫騰・外兵史、懐朔鎮の侯景・獄掾、善無郡の尉景・広寧郡の蔡儁らと特別な友誼を結んだ。(彼らは)皆、任侠によって郷里に名を知られていた。
 夏,四月,丁巳,大赦。
5.夏、四月、丁巳、大赦を行った。
 五月,戊戌,魏以任城王澄爲司徒,京兆王繼爲司空。
6.五月、戊戌、魏は任城王元澄を司徒に、京兆王元継を司空とした。
 魏累世強盛,東夷、西域貢獻不絶,又立互市以致南貨,至是府庫盈溢。胡太后嘗幸絹藏,命王公嬪主從行者百餘人各自負絹,稱力取之,少者不減百餘匹。尚書令・儀同三司李崇,章武王融,負絹過重,顛仆於地,崇傷腰,融損足,太后奪其絹,使空出,時人笑之。融,太洛之子也。侍中崔光止取兩匹,太后怪其少;對曰:「臣兩手唯堪兩匹。」衆皆愧之。
  時魏宗室權幸之臣,競爲豪侈。高陽王雍,富貴冠一國,宮室園圃,侔於禁苑,僮僕六千,伎女五百,出則儀衞塞道路,歸則歌吹連日夜,一食直錢數萬。李崇富埒於雍而性儉嗇,嘗謂人曰:「高陽一食,敵我千日。」
  河間王琛,毎欲與雍爭富,駿馬十餘匹,皆以銀爲槽,窗戸之上,玉鳳銜鈴,金龍吐旆。嘗會諸王宴飲,酒器有水精鋒,馬腦椀,赤玉巵,制作精巧,皆中國所無。又陳女樂、名馬及諸奇寶,復引諸王歴觀府庫,金錢、繒布,不可勝計。顧謂章武王融曰:「不恨我不見石崇,恨石崇不見我。」融素以富自負,歸而惋歎三日。京光王繼聞而省之,謂曰:「卿之貨財計不減於彼,何爲愧羨乃爾?」融曰:「始謂富於我者獨高陽耳,不意復有河間!」繼曰:「卿似袁術在淮南,不知世間復有劉備耳!」融乃笑而起。
  太皇好佛,營建諸寺,無復窮已,令諸州各建五級浮圖,民力疲弊。諸王、貴人、宦官、羽林各建寺於洛陽,相高以壯麗。太后數設齋會,施僧物動以萬計,賞賜左右無節,所費不貲,而未嘗施惠及民。府庫漸虚,乃減削百官祿力。任城王澄上表,以爲:「蕭衍常蓄窺覦之志,宜及國家強盛,將士旅力,早圖混壹之功。比年以來,公私貧困,宜節省浮費以周急務。」太后雖不能用,常優禮之。
  魏自永平以來,營明堂、辟雍,役者多不過千人,有司復借以脩寺及供他役,十餘年竟不能成。起部郎源子恭上書,以爲:「廢經國之務,資不急之費,宜徹減諸役,早圖就功,使祖宗有嚴配之期,蒼生有禮樂之富。」詔從之,然亦不能成也。
7.魏は数世代にわたって強く盛んで、東夷や西域からの朝貢・朝献は絶えなかった。また交易場を設けて南朝の品々も手に入れたので、府庫の品々は満ち溢れていた。
 ある時、霊太后は絹蔵に赴くと、王公や女官・夫人たち、霊太后に随行した百人余りに自ら絹を背負わせ、背負える限り自由に取らせた。少ない者でも百匹余りは取った。
 尚書令・儀同三司李崇と章武王元融は背負った絹が重すぎて地面に転がり、李崇は腰を痛め、元融は足を傷付けた。霊太后は彼らの絹を奪い、何も持たずに出て行かせた。当時の人々は二人を笑いものにした。元融は拓跋太洛の子である。
 侍中崔光は二匹を取るに止まった。霊太后が少なさを不思議に思うと、答えて言った。
「私の両手では二匹を持つことしかできませんので」
 人々は皆、彼に恥じ入った。
 当時、権力があり寵愛されていた魏の宗室の者たちは奢侈を競っていた。
 高陽王元雍の富貴は魏の誰にも勝った。屋敷や庭園は禁中の御苑に匹敵した。召使いは六千人、芸妓は五百人。外出すれば儀仗兵が道路を塞ぎ、帰宅すれば歌や笛の音が昼夜に及んだ。一食は数万銭に相当した。
 李崇の財産は元雍に匹敵したが倹約家で吝嗇だった。ある時、(李崇は)言っていた。
「高陽王殿下の一食(に要する費用)で、私の千日分を賄えてしまうな」
 河間王元琛は常に元雍と富裕さで争おうとしていた。十頭余りの駿馬には皆、銀の飼い葉桶が作られ、窓や出入口の上では珠玉で作られた鳳凰が鈴を銜え、金竜の口から旗がひらめいていた。ある時、諸王を集めて酒宴が催された。酒器には水晶の酒壺・赤玉の杯があり、精巧に作られていた。全て中国には無いものである。また歌妓や名馬・諸種の珍宝が並べられ、そして諸王を引き連れて府庫を見せて回った。金銭や絹織物は数え切れなかった。
 (元琛は)章武王元融を顧みて言った。
「私は石崇に出会えなかったことを残念に思うし、石崇が私(の財産家ぶり)を知らないのも残念に思うよ」
 以前から元融は富裕さを自負していたが、帰宅すると三日間、悲しみ嘆いていた。(これを)聞いた京兆王元継が見舞って言った。
「君の財貨は元琡に劣るものではないだろう。どうしてそんなに恥じたり羨んだりしているんだ?」
 元融は言った。
「以前から私より富裕であるのは高陽王だけだと言っていたが、河間王もいたとは思わなかったんだ!」
 元継は言った。
「君は淮南にいた袁術のようだ。天下には劉備もいることを知らなかっただけだろう」
 元融は笑って立ち上がった。
 霊太后は仏教を好み、多くの寺院を際限なく造営していた。各州に五階建ての寺塔を建立させ、民力は疲弊した。諸王・貴人・宦官・羽林軍には各自、洛陽に仏寺を建立させた。どれも壮麗で高かった。
 霊太后は何度も斎会を催し、莫大な財物を仏僧に施した。節度無く報賞を側近に賜って、費用は計り知れなかった。しかし民衆に恩恵を施したことはなかった。
 次第に府庫は空になり、百官の俸禄を削減した。任城王元澄が上奏して、意見を述べた。
「蕭衍は常に(我が国の)隙を窺っております。我が国が強く盛んである今、将兵の力を発揮させ、早く統一の大業を図られるべきでしょう。近年以来、君臣ともに貧しくなりつつあります。無駄な費用を節減して急務に備えるべきです」
 霊太后は(元澄の意見を)採用できなかったが、常に元澄を丁重に礼遇していた。
 魏は永平以来、明堂と辟雍を造営していたが、労役に従事する者は千人を超えなかった。官吏は寺院を修築する名目で(彼らを)他の労役にも従事させるようになり、ついには十年余りしても(明堂と辟雍は)完成しなかった。起部郎源子恭は上書して、意見を述べた。
「国家統治のための事業が放置され、不急の役務に(労力が)費やされております。天の祭祀と祖宗の祭祀を併せて行い、民衆に秩序を与えるためにも、諸種の労役を撤廃・削減して、為すべき事業を早く完遂すべきでしょう」
 詔を下して進言に従ったが、やはり(明堂と辟雍は)完成しなかったのである。
 魏人陳仲儒請依京房立準以調八音。有司詰仲儒:「京房律準,今雖有其器,曉之者鮮。仲儒所受何師,出何典籍?」仲儒對言:「性頗愛琴,又嘗讀司馬彪續漢書,見京房準術,成數昞然。遂竭愚思,鑽研甚久,頗有所得。夫準者所以代律,取其分數,調校樂器。竊尋調聲之體,宮、商宜濁,徴、羽用清。若依公孫崇,止以十二律聲,而云還相爲宮,清濁悉足。唯黄鐘管最長,故以黄鐘爲宮,則往往相順。若均之八音,猶須錯采衆音,配成其美。若以應鐘爲宮,蕤賓爲徴,則徴濁而宮清,雖有其韻,不成音曲。若以中呂爲宮,則十二律中全無所取。今依京房書,中呂爲宮,乃以去滅爲商,執始爲徴,然後方韻。而崇乃以中呂爲宮,猶用林鐘爲徴,何由可諧!但音聲精微,史傳簡略,舊志準十三弦,隱間九尺,不言須柱以不。又,一寸之内有萬九千六百八十三分,微細難明。仲儒私曾考驗,準當施柱,但前卻柱中,以約準分,則相生之韻已自應合。其中弦粗細,須與琴宮相類,施軫以調聲,令與黄鐘相合。中弦下依數畫六十律清濁之節,其餘十二弦須施柱如箏,即於中弦按盡一週之聲,度著十二弦上。然後依相生之法,以次運行,取十二律之商、徴。商、徴既定,又依琴五調調聲之法以均樂器,然後錯采衆聲以文飾之,若事有乖此,聲則不和。且燧人不師資而習火,延壽不束脩以變律,故云知之者欲教而無從,心達者體知而無師,苟有一毫所得,皆關心抱,豈必要經師受然後爲奇哉!」尚書蕭寶寅奏:仲儒學不師受,輕欲制作,不敢依許,事遂寢。
8.魏の陳仲儒は京房に倣って準を作成し、八音の楽器を調整するよう求めた。官吏が陳仲儒を問い詰めた。
「京房の律・準だが、今、それらの器具はあっても、使用法に詳しい者は少ない。仲儒殿が(教えを)受けた師はどなたで、どのような典籍を根拠としておられるのだ?」
 陳仲儒が答えた。
「以前より琴を非常に愛好しておりました。また司馬彪の『続漢書』を読んで、京房の準の技術を見たところ、(三分損益による)数値が詳細に定められていました。そして愚考の末、非常に長い間、(律管を)切ったり磨いたりして、大いに会得するものがあったのです。そもそも準とは律に代わるもので、(弦を)分割する数値を押さえてゆけば、楽器を調整することができます。私が調音の体裁を調べたところ、宮音・商音は濁音であるべきもので、徴音・羽音は清音であるべきものです。例えば公孫崇と同じく十二律の音階で止め、それぞれを宮音として一巡するなら、清濁(の十二音)で十分に足ります。ただ黄鍾管が最も長いので、黄鍾を宮とすれば順番に(正しく)並ぶことになります。しかし八音の楽器に対応させるなら、やはり全ての音を網羅して、正しく配列せねばなりません。もし応鍾を宮音として、蕤賓を徴音とすれば、徴音が濁音となって宮音が清音となります。そのような音律が成立しても、楽曲を作ることはできません。もし中呂を宮音とすれば、十二律の中には(五音に)対応する音がなくなります。今、京房の書に従えば、中呂を宮音とし、去滅を商音、執始を徴音とすることで、その後の音を正しています。しかし公孫崇は中呂を宮音としながら、まだ林鍾を微音としています。どうやって調音できたのでしょうか。ただ、音というのは精密なものですが、史料では簡略にしか伝えられていません。『後漢紀』によれば準は十三弦、(上下の)隠の飾りの間は九尺。琴柱が必要かどうかを述べてはいません。また一寸を一万九千六百八十三に分けており、非常に細微なことであって明確にするのは困難です。かねてから仲儒が私的に考察するに、準には琴柱を設けるべきでしょう。ただし中柱を前後に動かせるようにして、準(の弦)を分割してゆくのなら、相生により生まれる音律と自然に合致するはずです。準の中絃は粗くて細く、琴の宮絃と似ておりますので、軫を設けて調音し、黄鍾(の音)に合わせましょう。中絃の下には(三分損益の)数値に従って六十律の音階の節目を記しましょう。他の十二絃にも琴柱を設けて筝のようにします。そして中絃を奏でて一巡の音を区分し、その音階を十二絃の上に記しておくのです。その後、相生の法則によって順番に進めてゆき、十二律の商音・徴音を定義します。商音・徴音が定義され、また琴の五調の調音法によって楽器を調音した後、全ての音を網羅して琴の音色を豊かにするのです。こうしないのであれば、音を出しても調和はとれないでしょう。それに燧人は教授されることなくして火を知りました。焦延寿は弟子入りすることなくして十二律から六十律を生み出しました。それで言うのです。『知ろうとする者は教えを欲しても師事することはない。道理に通じた者は知識を身に付けても師となることはない』と。わずかでも得るものがあれば、(それは)全て心の奥底に関することです。どうして新説を唱える前に経師の教えなど受ける必要がありましょう!」
 陳仲儒の学問は師事を受けたものではないのに、軽々しく(準を)制作しようとしているので、決して採用したり許可を与えてはならない、と尚書蕭宝寅が上奏した。ついに陳仲儒の説は採用されなかった。
 魏中尉東平王匡以論議數爲任城王澄所奪,憤恚,復治其故棺,欲奏攻澄。澄因奏匡罪状三十餘條,廷尉處以死刑。秋,八月,己未,詔免死,削除官爵,以車騎將軍侯剛代領中尉。三公郎中辛雄奏理匡,以爲:「歴奏三朝,骨鯁之迹,朝野具知,故高祖賜名曰匡。先帝既已容之於前,陛下亦宜寬之於後,若終貶黜,恐杜忠臣之口。」未幾,復除匡平州刺史。雄,琛之族孫也。
9.魏中尉東平王元匡は何度も任城王元澄に意見を妨害されたので、憤って先の棺を再び用意し、上奏して元澄を攻撃しようとした。それで元澄は元匡の罪、三十条余りについて上奏し、廷尉は(元匡を)死刑に処するべきとした。
 秋、八月、己未、詔が下って(元匡の)死刑を免じ、官職と爵位を剥奪した。(元匡に)代わって車騎将軍侯剛に中尉を領させた。三公郎中辛雄が上奏して元匡を弁護した。
「(元匡が)三代の天子に仕えて剛直な諫臣であったこと、朝野(の人々は)ともに知っています。それで高祖陛下も(元匡に)匡の名を賜られました。これまでも先帝陛下は元匡(の諫言)を受け入れてきましたし、今上陛下も元匡(の発言)には寛大であるべきとしておられます。もし(元匡が)罷免・降格されたりすれば、忠臣の口が閉ざされることを恐れます」
 まもなく再び元匡に平州刺史を授けた。辛雄は、辛琛の族孫である。
 10九月,庚寅朔,胡太后游嵩高;癸巳,還宮。太后從容謂兼中書舍人楊昱曰:「親姻在外,不稱人心,卿有聞,愼勿諱隱!」昱奏揚州刺史李崇五車載貨,相州刺史楊鈞造銀食器,餉領軍元义。太后召义夫妻,泣而責之。义由是怨昱。昱叔父舒妻,武昌王和之妹也。和即義义從祖。舒卒,元氏頻請別居,昱父椿泣責不聽,元氏恨之。會瀛州民劉宣明謀反,事覺,逃亡。义使和及元氏誣告昱藏匿宣明,且云:「昱父定州刺史椿,叔父華州刺史津,並送甲仗三百具,謀爲不逞。」义復構成之。遣御杖五百人夜圍昱宅,收之,一無所獲。太后問其状,昱具對爲元氏所怨。太后解昱縛,處和及元氏死刑,既而义營救之,和直免官,元氏竟不坐。
10.九月、庚寅朔、霊太后が嵩高に遊行した。癸巳、宮城に帰還した。
 ある閑暇、霊太后は兼中書舎人楊昱に言っていた。
「地方にいる(皇室の)親族や姻族で、人々が望まない行いをする者もいるでしょう。貴方が聞いていることがあるのなら、遠慮して隠したりなど決してしませんように!」
 揚州刺史李崇が五台の車に財貨を積み上げ、相州刺史楊鈞が銀の食器を作らせて、(ともに)領軍元叉に贈ったことを楊昱は上奏した。霊太后は元叉夫妻を呼び寄せて、泣きながら二人を咎めた。このため元叉は楊昱を怨んだ。
 楊昱の叔父、楊舒の妻は武昌王元和の妹である。元和は元叉の従祖父である。楊舒が死去すると、元氏は何度も別居を求めた。楊昱の父、楊椿は泣きながら咎めて聞き入れなかった。元氏は怨みに思った。
 この時、瀛州の人、劉宣明が反逆を謀ったが、発覚して逃亡した。元叉は元和と元氏に楊昱が劉宣明を匿っていると誣告させ、また言った。
「楊昱の父の定州刺史楊椿、叔父の華州刺史楊津は、ともに三百具の武器と鎧を(劉宣明に)送って反逆を謀っていました」
 元叉もそれを事実であるかのように訴えた。
 (霊太后は)夜、御仗兵五百人を派遣して楊昱の邸宅を包囲し、楊昱を収監した。(証拠は)何も発見できなかった。霊太后が実状を尋ねると、楊昱は元氏の怨恨によるものと詳しく答えた。霊太后は楊昱の縛めを解き、元和と元氏を死刑に処すとした。
 その後、元叉は二人を弁護した。直ちに元和は免官されたが、ついに元氏は罪を問われなかった。
 11冬,十二月,癸丑,魏任城文宣王澄卒。
11.冬、十二月、癸丑、魏任城文宣王元澄が死去した。
 12庚申,魏大赦。
12.庚申、魏で大赦を行った。
 13是歳,高句麗王雲卒,世子安立。
13.この年、高句麗王高雲が死去した。後継ぎの高安が即位した。
 14魏以郎選不精,大加沙汰,唯朱元旭、辛雄、羊深、源子恭及范陽祖瑩等八人以才用見留,餘皆罷遣。深,祉之子也。
14.魏では郎官の授与(の基準)が綿密でないとして、大いに選別を行った。
 朱元旭・辛雄・辛深・源子恭と范陽の祖瑩ら八人だけが才知と能力を認められて留任した。その他は皆、罷免された。辛深は辛祉の子である。
普通元年(庚子、五二〇)

 春,正月,乙亥朔,改元,大赦。
1.春、正月、乙亥朔、元号を改めて大赦を行った。
 丙子,日有食之。
2.丙子、日食が起こった。
 己卯,以臨川王宏爲太尉、揚州刺史,金紫光祿大夫王份爲尚書左僕射。份,奐之弟也。
3.己卯、臨川王蕭宏を太尉・揚州刺史に、金紫光禄大夫王份を尚書左僕射とした。王份は王奐の弟である。
 左軍將軍豫寧威伯馮道根卒。是日上春,祠二廟,既出宮,有司以聞。上問中書舍人朱异曰:「吉凶同日,今可行乎?」對曰:「昔衞獻公聞柳莊死,不釋祭服而往。道根雖未爲社稷之臣,亦有勞王室,臨之,禮也。」上即幸其宅,哭之甚慟。
4.左軍将軍・豫寧威伯馮道根が死去した。
 この日、武帝は太廟と小廟で春の祭祀を行(う予定だ)った。(武帝が)宮城を出た時、官吏が報告した。武帝は中書舎人朱异に尋ねた。
「吉事と凶事が同日(に起こった)。今、行くべきだろうか」
 (朱异が)答えた。
「昔、衛の献公は柳荘が死んだと聞いて、祭服を脱がずに(弔問に)赴きました。馮道根はまだ社稷の臣ではありませんでしたが、王室に功労がありました。弔問に赴くのが礼というものです」
 すぐに武帝は馮道根の邸宅に行幸し、馮道根の死に激しく慟哭した。
 高句麗世子安遣使入貢。二月,癸丑,以安爲寧東將軍、高句麗王,遣使者江法盛授安衣冠劍佩。魏光州兵就海中執之,送洛陽。
5.高句麗の世継ぎ、高安が入貢の使者を派遣した。
 二月、癸丑、高安を寧東将軍・高句麗王として、高安に衣冠と剣や佩を授けるために使者の江法盛を派遣した。魏の光州兵が海上で江法盛らを捕らえ、洛陽に送致した。
 魏太傅、侍中、清河文獻王懌,美風儀,胡太后逼而幸之。然素有才能,輔政多所匡益,好文學,禮敬士人,時望甚重。侍中、領軍將軍元义在門下,兼總禁兵,恃寵驕恣,志欲無極。懌毎裁之以法,义由是怨之。衞將軍、儀同三司劉騰,權傾内外,吏部希騰意,奏用騰弟爲郡,人資乖越。懌抑而不奏,騰亦怨之。龍驤府長史宋維,弁之子也,懌薦爲通直郎,浮薄無行。义許維以富貴,使告司染都尉韓文殊父子謀作亂立懌。懌坐禁止,按驗,無反状,得釋,維當反坐;义言於太后曰:「今誅維,後有眞反者,人莫敢告。」乃黜維爲昌平郡守。
  义恐懌終爲己害,乃與劉騰密謀,使主食中黄門胡定自列云:「懌貨定使毒魏主,若己得爲帝,許定以富貴。」帝時年十一,信之。秋,七月,丙子,太后在嘉福殿,未御前殿,义奉帝御顯陽殿,騰閉永巷門,太后不得出。懌入,遇义於含章殿後,义厲聲不聽懌入,懌曰:「汝欲反邪!」义曰:「义不反,正欲縛反者耳!」命宗士及直齋執懌衣袂,將入含章東省,使人防守之。騰稱詔集公卿議,論懌大逆。衆咸畏义,無敢異者,唯僕射新泰文貞公游肇抗言以爲不可,終不下署。
  义、騰持公卿議入,俄而得可,夜中殺懌。於是詐爲太后詔,自稱有疾,還政於帝。幽太后於北宮宣光殿,宮門晝夜長閉,内外斷絶,騰自執管鑰,帝亦不得省見,裁聽傳食而己。太后服膳倶廢,不免飢寒,乃歎曰:「養虎得噬,我之謂矣。」又使中常侍賈粲侍帝書,密令防察動止。义遂與太師高陽王雍等同輔政,帝謂义爲姨父。义與騰表裏擅權,义爲外禦,騰爲内防,常直禁省,共裁刑賞,政無巨細,決於二人,威振内外,百僚重跡。
  朝野聞懌死,莫不喪氣,胡夷爲之剺面者數百人。游肇憤邑而卒。
6.魏太傅・侍中・清河王元懌は容貌が美しく、霊太后は元懌に迫って(彼を)寵愛した。しかしもとより才能もあり、国政を補佐するに(国家を)正して利益となることが多かった。文学を好み、士人を礼遇して敬った。当時、(元懌の)人望は非常に大きかった。
 侍中・領軍将軍元叉は門下省にあって、禁中の全軍を統轄していた。寵愛を頼んでいて驕慢で我が儘、欲望に限りはなかった。元懌は常に元叉を法に従って裁き、このために元叉は元懌を怨んだ。
 衛将軍・儀同三司劉騰の権力は朝廷の内外に影響を及ぼしていた。吏部では劉騰の意を得ようとして、劉騰の弟を郡(守)に登用しようとしたが、(その)人物も立場も相応しいものではなかった。元懌は抑止して上奏させなかったので、劉騰も元懌を怨んだ。
 竜驤府長史宋維は宋弁の子である。元懌は(宋維を)推挙して通直郎としたが、軽薄で行状が悪かった。元叉は宋維を許して富貴の身分を与え、司染都尉韓文殊父子が反乱を起こして元懌を擁立しようとしていると報告させた。元懌は罪を問われて拘束され、取り調べを受けたが、反逆の証拠は出なかったので釈放された。宋維は偽証の罪に問われることになった。元叉は霊太后に言った。
「今、宋維を誅殺すると、後に本当に反逆する者がいても、誰も報告しようとはしなくなるでしょう」
 それで宋維を降格して昌平郡守とした。
 元叉は元懌が自分を害するのではないかと怖れ、劉騰と密かに謀って、主食中黄門胡定に自ら述べさせた。
「元懌様は私に財貨を与えて陛下を毒殺させようとしました。もしご自分が皇帝になったのなら、私を許して富貴の身分にするおつもりでした」
 この時、孝明帝は十一歳。これを信用した。
 秋、七月、丙子、霊太后は嘉福殿にいて、まだ前殿には臨御していなかった。元叉は孝明帝を奉戴して顕陽殿に赴いた。劉騰は永巷門を封鎖して、霊太后が(嘉福殿から)出られないようにした。
 元懌は宮中に入り、含章殿の後殿で元叉と出会った。元叉は声を荒げて元懌の宮中入りを許さなかった。元懌は言った。
「お前は反乱を起こすつもりか!」
 元叉が言った。
「私が反乱を起こすのではない。ただ反逆者を捕らえようとしているのだ!」
 宗師と直斎の官吏に命じて元懌の衣服の袂を掴まえさせ、含章殿の東省に送致して、部下に監視させた。
 劉騰は詔と称して公卿を集めて討議を行い、元懌の大逆罪について論じた。人々は皆、元叉を怖れて異論を唱えようとする者はいなかった。ただ僕射・新泰文貞公游肇だけが反論して(元懌の反逆を)否定し、ついに(決議を記した上奏文に)署名しなかった。
 元叉と劉騰は公卿の論議(の結果)を持って宮中に入り、すぐに(上奏は)認められた。夜中、元懌を殺害した。かくして霊太后の詔と偽って、(霊太后は)病のために政権を孝明帝に返上すると述べた。
 霊太后を北宮の宣光殿に幽閉し、宮殿の門は昼夜を問わず閉じられ続けて、内外(の連絡)は断絶した。劉騰は自ら門の鍵を持っており、孝明帝も訪問したり会見することはできず、食事を送ることだけが許されることとなった。霊太后の衣服や食膳は粗末なものになり、飢えや寒さから逃れられなかった。それで嘆いて言った。
「虎を養って噛まれることがあると言うが、私のことではないか」
 また中常侍賈粲に孝明帝の書簡を(霊太后に)届けさせ、その動静を監視して(反撃の動きに)備えさせた。
 ついに元叉は太師・高陽王元雍らとともに政治を補佐した。孝明帝も元叉を姨父と呼んだ。元叉は劉騰と表裏となって権力を思うままに振るい、元叉は外朝で、劉騰は内朝で(政敵の反撃に)備えた。いつも宮中で起居して、ともに刑罰や賞与を取り裁いた。政治については大小の別なく二人が決裁し、内外に威勢を振るった。百官は(二人に対して)尻込みした。
 朝野(の人々)は元懌の死を聞いて、気を落とさない者はいなかった。胡人や夷人で元懌のために顔を傷付け(て哀悼の意を示し)た者は数百人。游肇は憤って嘆き、死去した。
 己卯,江、淮、海並溢。
7.己卯、長江・淮水・海岸で水害が起こった。
 辛卯,魏主加元服,大赦,改元正光。
8.辛卯、孝明帝が元服した。大赦を行って正光と改元した。
 魏相州刺史中山文莊王熙,英之子也,與弟給事黄門侍郎略、司徒祭酒纂,皆爲清河王懌所厚,聞懌死,起兵於鄴,上表欲誅元义、劉騰,纂亡奔鄴。後十日,長史柳元章等帥城人鼓譟而入,殺其左右,執熙、纂并諸子置於高樓。八月,甲寅,元义遣尚書左丞盧同就斬熙於鄴御,并其子弟。
  熙好文學,有風儀,名士多與之遊。將死,與故知書曰:「吾與弟倶蒙皇太后知遇,兄據大州,弟則入侍,殷勤言色,恩同慈母。今皇太后見廢北宮,太傅清河王橫受屠酷,主上幼年,獨在前殿。君親如此,無以自安,故帥兵民欲建大義於天下。但智力淺短,旋見囚執,上慚朝廷,下愧相知。本以名義干心,不得不爾,流腸碎首,復何言哉!凡百君子,各敬爾儀,爲國爲身,善勗名節!」聞者憐之。熙首至洛陽,親故莫敢視,前驍騎將軍刁整獨收其尸而藏之。整,雍之孫也。盧同希义意,窮治熙黨與,鎖濟陰内史楊昱赴鄴,考訊百日,乃得還任。义以同爲黄門侍郎。
  元略亡抵故人河内司馬始賓,始賓與略縛荻筏夜渡孟津,詣屯留栗法光家,轉依西河太守刁雙,匿之經年。時購略甚急,略懼,求送出境,雙曰:「會有一死,所難遇者爲知己死耳,願不以爲慮。」略固求南奔,雙乃使從子昌送略渡江,遂來奔,上封略爲中山王。雙,雍之族孫也。义誣刁整送略,并其子弟收繋之,御史王基等力爲辯雪,乃得免。
9.魏相州刺史・中山文荘王元煕は元英の子である。弟の給事黄門侍郎元略・司徒祭酒元纂とともに、皆、清河王元懌に厚遇されていた。(元英は)元懌の死を聞いて鄴で挙兵し、上表して元叉・劉騰を誅殺しようとした。元纂は(洛陽から)鄴に逃れた。
 十日後、長史柳元章らは城民を率いると、鼓を打ち鳴らして入城し、元煕の側近を殺害して、元煕・元纂と諸子を捕らえて高楼に拘禁した。
 八月、甲寅、元叉は尚書左丞盧同を派遣して、鄴の市街で元煕と子弟の斬刑を執行させた。
 元煕は文学を好み、教化の模範となる人物だった。多くの名士が元煕と交際していた。(元煕は)死に際して、旧友に書簡を送って述べた。
「私と弟はともに皇太后の知遇を蒙ってきた。私は大州の刺史となり、弟は(宮中に)入って近侍した。(私たちに対する)言葉や表情は丁寧で親しげで、実母に等しい恩恵を頂いた。今、皇太后は北宮に軟禁され、太傅・清河王は不当に殺害された。主上は年幼く、前殿にて孤独であらせられる。陛下も母君もこのような有様で、自らを安心させることもできない。だから兵と民衆を率いて天下に大義を示そうとしたのだ。しかし知恵は浅はかで力は足りず、逆に捕らわれることとなった。上は朝廷に申し訳なく、下は友人たちに恥ずかしく思う。もとより名誉と道義が心を突き動かし、こうせざるを得なかったのだ。腹を割かれ頭を砕かれようと、今更、言うべきことがあろうか!数多くの君子たちよ。皆、威儀を整えて身を慎めよ。国家のため、その身のため、名声と節義(を保つよう)に励め!」
 (これを)聞いた者は元煕を憐れんだ。元煕の首級は洛陽に届けられたが、見に行こうとする親族や友人はいなかった。前驍騎将軍刁整だけが元煕の遺体を手に入れて隠した。
 刁整は刁雍の孫である。盧同は元叉の意を得ようとして元煕の一派を徹底的に調査し、済陰の内史楊昱を捕縛して鄴に赴いた。尋問すること百日、(楊昱は)任地に帰還することができた。元叉は盧同を黄門侍郎とした。
 元略は逃れて旧知である河内の司馬始賓の下に至った。司馬始賓と元略は荻を繋いで筏を作り、夜に孟津を渡って、屯留の栗法光の邸宅に赴いた。
 次に西河太守刁双を頼り、翌年まで匿われた。当時、元略には賞金が掛けられて、厳しく身柄を求められていた。元略は怖れて、国境外まで送り届けることを求めた。刁双が言った。
「(人間は)必ず死ぬ時が来るものですが、死所を見つけるのが困難なのです。(それなら貴方の)知遇に応えるために死ぬだけでしょう。願わくば憂慮されますな」
 元略は強く南朝に亡命することを求めた。刁双は従子の刁昌に元略を送って長江を渡らせた。ついに(元略は梁に)亡命してきた。武帝は元略を中山王に封じた。刁双は刁雍の族孫である。
 元叉は刁整が元略を(梁に)送ったと誣告し、その子弟とともに収監した。御史王基らが弁明に力を尽くして、免ずることができた。
 10甲子,侍中、車騎將軍永昌嚴侯韋叡卒。時上方崇釋氏,士民無不從風而靡,獨叡自以位居大臣,不欲與俗俯仰,所行略如平日。
10.甲子、侍中・車騎将軍・永昌厳侯韋叡が死去した。
 当時、武帝は仏教を崇拝しており、士人も民衆も風潮に従って靡かない者はなかった。韋叡だけが大臣の地位にある者として、人々とともに武帝を真似ようとはせず、行動は全く以前と変わらなかった。
 11九月,戊戌,魏以高陽王雍爲丞相,總攝内外,與元义同決庶務。
11.九月、戊戌、魏は高陽王元雍を丞相として、(朝廷の)内外を統轄し、元叉とともに多くの政務を決裁させた。
 12初,柔然佗汗可汗納伏名敦之妻候呂陵氏,生伏跋可汁及阿那瓌等六子。伏跋既立,忽亡其幼子祖惠,求募不能得。有巫地萬言祖惠今在天上,我能呼之,乃於大澤中施帳幄,祀天神。祖惠忽在帳中,自云恆在天上。伏跋大喜,號地萬爲聖女,納爲可賀敦。地萬既挾左道,復有姿色,伏跋敬而愛之,信用其言,干亂國政。如是積歳,祖惠浸長,語其母曰:「我常在地萬家,未嘗上天,上天者地萬教我也。」其母具以状告伏跋,伏跋曰:「地萬能前知未然,勿爲讒也。」既而地萬懼,譖祖惠於伏跋而殺之。候呂陵氏遣其大臣具列等絞殺地萬;伏跋怒,欲誅具列等。會阿至羅入寇,伏跋撃之,兵敗而還。候呂陵氏與大臣共殺伏跋,立其弟阿那瓌爲可汗。阿那瓌立十日,其族兄示發帥衆數萬撃之,阿那瓌戰敗,與其弟乙居伐輕騎奔魏。示發殺候呂陵氏及阿那瓌二弟。
12.かつて柔然の佗汗可汗は伏名敦可汗の妻だった候呂陵氏を娶った。(候呂陵氏は)伏跋可汗や阿那瓌ら六人の子を産んだ。
 伏跋可汗が即位した後、忽然と幼子の祖恵がいなくなり、求め募ったが見つけることはできなかった。巫者の地万が現れて、祖恵は今、天上におり、自分なら呼ぶことができると言った。それで大沢中に帳幕を張って天神を祀ると、忽然と祖恵が帳幕の中に現れて、いつも天上にいると自ら言った。伏跋可汗は非常に喜んで、地万を聖女と呼び、娶って可賀敦とした。
 地万は邪法を身に付けているとされ、また容姿が美しかった。伏跋可汗は彼女を敬って寵愛し、彼女の言葉を信用して、国政を混乱させた。こうして数年、祖恵は次第に成長して、生母に語った。
「いつも私は地万の家におりました。天に昇ったことなどありません。天に昇ったというのは地万が私に教えたことです」
 地万の母は詳しく実状を伏跋可汗に報せた。伏跋可汗は言った。
「地万は起きていないことを先に知ることができるのだ。讒言などするな」
 しばらくして地万は怖れ、伏跋可汗に祖恵を讒言して殺害した。候呂陵氏は大臣の具列らに地万を絞殺させた。伏跋可汗は怒り、具列らを誅殺しようとした。
 その時、阿至羅が侵攻してきた。伏跋可汗は阿至羅軍を攻撃したが、柔然軍は敗れて帰還してきた。候呂陵氏は大臣とともに伏跋可汗を殺害し、弟の阿那瓌を即位させて可汗とした。
 阿那瓌が即位して十日、族兄の示発が数万の兵を率いて阿那瓌を攻撃した。阿那瓌は戦って敗れ、弟の乙居伐と軽騎で魏に亡命した。示発は候呂陵氏と阿那瓌の弟二人を殺害した。
 13魏清河王懌死,汝南王悅了無恨元义之意,以桑落酒候之,盡其私佞。义大喜,冬,十月,乙卯,以悅爲侍中、大尉。悅就懌子亶求懌服玩,不時稱旨,杖亶百下,幾死。
13.魏清河王元懌が死んでも、汝南王元悦に元叉を恨む思いはなかった。桑落酒を持って機嫌を窺いに赴くなど、元悦は極めて追従的だった。
 元叉は非常に喜んで、冬、十月、乙卯、元悦を侍中・太尉とした。元悦は元懌の子、元亶の下を訪れて、元懌の日用品や娯楽品を要求した。すぐに要望に応えなかったので、元亶は約百回の杖刑に処され、まもなく死去した。
 14柔然可汗阿那瓌將至魏,魏主使司空京兆王繼、侍中崔光等相次迎之,賜勞甚厚。魏主引見阿那瓌於顯陽殿,因置宴,置阿那瓌位於親王之下。宴將罷,阿那瓌執啓立於座後,詔引至御座前,阿那瓌再拜言曰:「臣以家難,輕來詣闕,本國臣民,皆已逃散。陛下恩隆天地,乞兵送還本國,誅翦叛逆,收集亡散。臣當統帥遺民,奉事陛下。言不能盡,別有啓陳。」仍以啓授中書舍人常景以聞。景,爽之孫也。
  十一月,己亥,魏立阿那瓌爲朔方公、蠕蠕王,賜以衣服、軺車,祿恤儀衞,一如親王。時魏方強盛,於洛水橋南御道東作四館,道西立四里:有自江南來降者處之金陵館,三年之後賜宅於歸正里;自北夷降者處燕然館,賜宅於歸德里;自東夷降者處扶桑館,賜宅於慕化里;自西夷降者處崦嵫館,賜宅於慕義里。及阿那瓌入朝,以燕然館處之。阿那瓌屢求返國,朝議異同不決,阿那瓌以金百斤賂元义,遂聽北歸。十二月,壬子,魏敕懷朔都督簡鋭騎二千護送阿那瓌達境首,觀機招納。若彼迎候,宜賜繒帛車馬禮餞而返;如不容受,聽還闕庭。其行裝資遣,付尚書量給。
14.柔然可汗阿那瓌が魏に着く頃、孝明帝は司空・京兆王元継と侍中崔光らに相次いで出迎えさせて、非常に手厚い慰労の席を設けた。
 孝明帝は顕陽殿に阿那瓌を招いて謁見し、そのまま酒宴を催した。阿那瓌の地位は親王に次ぐものとした。
 酒宴が終わる頃、阿那瓌は上奏文を手にして座席の後ろに立った。詔を下して(阿那瓌を)孝明帝の座席の前に来させた。阿那瓌は再拝して言った。
「私は一族の内乱のため、軽騎にて参内するに及びました。本国の臣民は皆、すでに逃げ散っております。陛下の恩は天地(の間)のように高い(と存じます)。兵を与えて本国に送り返していただければ、反逆者を誅殺して、逃げ散った民衆を集めましょう。それらの民衆を私が統率して、陛下にお仕え申し上げましょう。言葉では(言い)尽くせません。別に上奏文にて申し上げます」
 そして中書舎人常景に渡した上奏文にて述べた。常景は常爽の孫である。
 十一月、己亥、魏は阿那瓌を朔方公・蠕蠕王に擁立し、衣服や軺車を賜い、禄恤や儀仗兵は全て親王と同じとした。
 当時、魏は盛強の時代であり、洛水橋の南の御道の東に四つの館を建て、西に四つの里を設けた。江南から投降してきた者は金陵館に置き、三年後に帰正里に邸宅を与えた。北夷から投降してきた者は燕然館に置き、帰徳里に邸宅を与えた。東夷から投降したきた者は扶桑館に置き、慕化里に邸宅を与えた。西夷から投降してきた者は崦嵫館に置き、慕義里に邸宅を与えた。阿那瓌は入朝すると、燕然館に置かれた。
 阿那瓌は何度も帰国を求め、朝廷での論議は紛糾して決まらなかった。阿那瓌は百斤の金を元叉への賄賂とし、ついに北への帰還を許された。
 十二月、壬子、魏は懐朔都督に勅を下して、精鋭騎兵二千を選抜して阿那瓌を国境まで護送し、時期を見計らって(柔然を)呼び寄せさせ、もし柔然が出迎えてきたなら、絹や車馬を賜って選別の礼を執り行って帰国させ、もし受け入れられないのなら、(阿那瓌に)朝廷への帰還を許す、とした。その旅装や費用は尚書省で判断して支出させた。
 15辛酉,魏以京兆王繼爲司徒。
15.辛酉、魏は京兆王元継を司徒とした。
 16魏遺使者劉善明來聘,始復通好。
16.魏は劉善明を聘問の使者として派遣した。再び(魏と南朝の)友好関係が結ばれた。
二年(辛丑、五二一)

 春,正月,辛巳,上祀南郊。
1.春、正月、辛巳、武帝が南郊で祭祀を行った。
 置孤獨園於建康,以收養窮民。
2.孤独園を建康に設立し、孤独者や孤児を収容して保護した。
 戊子,大赦。
3.戊子、大赦を行った。
 魏南秦州氐反。
4.魏南秦州で氐人が反乱を起こした。
 魏發近郡兵萬五千人,使懷朔鎭將楊鈞將之,送柔然可汗阿那瓌返國。尚書左丞張普惠上疏,以爲:「蠕蠕久爲邊患,今茲天降喪亂,荼毒其心,蓋欲使之知有道之可樂,革面稽首以奉大魏也。陛下宜安民恭己以悅服其心。阿那瓌束身歸命,撫之可也;乃更先自勞擾,興師郊甸之内,投諸荒裔之外,救累世之勍敵,資天亡之醜虜。臣愚未見其可也。此乃邊將貪竊一時之功,不思兵爲凶器,王者不得已而用之。況今旱暵方甚,聖慈降膳,乃以萬五千人使楊鈞爲將,欲定蠕蠕,干時而動,其可濟乎!脱有顛覆之變,楊鈞之肉,其足食乎!宰輔專好小名,不圖安危大計,此微臣所以寒心者也。且阿那瓌之不還,負何信義,臣賤不及議,文書所過,不敢不陳。」阿那瓌辭於西堂,詔賜以軍器、衣被、雜采、糧畜,事事優厚,命侍中崔光等勞遣於外郭。
  阿那瓌之南奔也,其從父兄婆羅門帥衆數萬入討示發,破之,示發奔地豆干,地豆干殺之,國人推婆羅門爲彌偶可社句可汗。楊鈞表稱:「柔然已立君長,恐未肯以殺兄之人郊迎其弟。輕往虚返,徒損國威。自非廣加兵衆,無以送其入北。」二月,魏人使舊嘗奉使柔然者牒云具仁往諭婆羅門,使迎阿那瓌。
5.魏では首都圏の諸郡から一万五千人の兵を徴発し、懐朔鎮将楊鈞が統率して柔然可汗阿那瓌を柔然に送還させることとした。尚書左丞張普恵が上疏して述べた。
「長い間、蠕蠕は辺境での患いとなってきました。ここに今、天は(柔然の)国家を奪って民衆を離散させ、彼らの心を苦しめました。柔然人に天下の安定を楽しむべきと知らしめ、我らに向かって稽首させようとしているのでしょう。大魏に臣従させようとしているのでしょう。陛下は民を安心させて自らも慎まれることで、柔然人の心を楽しませて服従させるべきです。阿那瓌は身を小さくして帰順して参りました。それを慰撫するのは良いのです。しかしその上、先に我らが疲弊して、近郊(の兵)から一軍を創設し、彼らを国外に投入して、代々の強敵を救おうとなされている。天が滅ぼそうとする柔然どもを助けようとなされている。私が愚考いたしますに、成功するとは思えません。これは辺境の将帥が密かに一時の功績を貪ろうとしているだけで、軍事力が凶器となることを考えもしていないのです。王者はやむを得ずして軍事力を用いるもの。しかも今は酷い旱魃で、陛下も聖恩によって食膳を減らされました。それなのに一万五千人を楊鈞に率いさせ、柔然を平定しようとされている。時宜を選ばずに行動して成功するのでしょうか。もし失敗するようなことがあれば、楊鈞の肉を食らわしたところで足りないでしょう!宰相らは小さな功名だけを喜び、安危に関わる大計に考えを及ぼさない。これが私の心を寒くしていることです。それに阿那瓌が帰国しなければ、何によって信義とするのでしょう。私の官位では朝廷の大議に参与することはできませんが、文書が(私の所轄を)通過する以上、申し上げずにはいられませんでした」
 阿那瓌は西堂にて別辞を告げた。詔を下して軍需品・衣服・各種の綾絹・家畜の食料を賜い、それらは全て非常に手厚かった。侍中崔光に外郭まで付き添っての慰労を命じた。
 阿那瓌が魏に亡命すると、従父兄の婆羅門が数万の兵を率いて示発を攻撃してきて、これを破った。示発は地豆干に逃げたが、地豆干は示発を殺害した。
 柔然の人々は婆羅門を推戴して弥偶可社句可汗とした。楊鈞は上表して述べた。
「すでに柔然は君長を擁立しました。恐らくは兄(の伏跋可汗)を殺した人々に弟(の阿那瓌)を郊外まで出迎えさせることはできないでしょう。軽々しく赴いて得るものも無く帰還すれば、無為に国威を損なうだけです。(阿那瓌)自身が多くの兵士や民衆を得たのでなければ、彼を北に送るべきではありません」
 二月、魏は以前にも柔然への使者となった牒云具仁を使者として、阿那瓌を出迎えさせるため、婆羅門の説得に赴かせた。
 辛丑,上祀明堂。
6.辛丑、武帝は明堂で祭祀を行った。
 庚戌,魏使假撫軍將軍邴虯討南秦叛氐。
7.庚戌、魏は仮撫軍将軍邴虯に南秦州で反乱を起こした氐人を討伐させた。
 魏元义、劉騰之幽胡太后也,右衞將軍奚康生預其謀,义以康生爲撫軍大將軍、河南尹,仍使之領左右。康生子難當娶侍中、左衞將軍侯剛女,剛子,义之妹夫也,义以康生通姻,深相委託,三人率多倶宿禁中,時或迭出,以難當爲千牛備身。康生性粗武,言氣高下,义稍憚之,見于顏色,康生亦微懼不安。
  甲午,魏主朝太后于西林園,文武侍坐,酒酣迭舞,康生乃爲力士儛,及折旋之際,毎顧視太后,舉手、蹈足、瞋目、頷首,爲執殺之勢,太后解其意而不敢言。日暮,太后欲攜帝宿宣光殿,侯剛曰:「至尊已朝訖,嬪御在南,何必留宿!」康生曰:「至尊陛下之兒,隨陛下將東西,更復訪誰!」羣臣莫敢應。太后自起授帝臂,下堂而去。康生大呼,唱萬歳!帝前入閤,左右競相排,閤不得閉。康生奪難當千牛刀,斫直後元思輔,乃得定。帝既升宣光殿,左右侍臣倶立西階下。康生乘酒勢將出處分,爲义所執,鎖於門下。光祿勳賈粲紿太后曰:「侍官懷恐不安,陛下宜親安慰。」太后信之,適下殿,粲即扶帝出東序,前御顯陽殿,閉太后於宣光殿。至晩,义不出,令侍中、黄門、僕射、尚書等十餘人就康生所訊其事,處康生斬刑、難當絞刑。义與剛並在内,矯詔決之:「康生如奏,難當恕死從流。」難當哭辭父,康生慷慨不悲,曰:「我不反死,汝何哭也?」時已昏闇,有司驅康生赴市,斬之;尚食典御奚混與康生同執刀入内,亦坐絞。難當以侯剛壻,得留百餘日,竟流安州;久之,义使行臺盧同就殺之。以劉騰爲司空。八坐、九卿常旦造騰宅,參其顏色,然後赴省府,亦有終日不得見者。公私屬請,唯視貨多少。舟車之利,山澤之饒,所在榷固,刻剥六鎭,交通互市,歳入利息以巨萬萬計。逼奪鄰舍以廣其居,遠近苦之。
  京兆王繼自以父子權位太盛,固請以司徒讓車騎大將軍、儀同三司崔光。夏,四月,庚子,以繼爲太保,侍中如故,繼固辭,不許。壬寅,以崔光爲司徒,侍中、祭酒、著作如故。
8.魏で元叉・劉騰が霊太后を幽閉した時、右衛将軍奚康生も謀議に参与していた。元叉は奚康生を撫軍大将軍・河南尹として、護衛の兵を統率させた。奚康生の子、奚難当は侍中・左衛将軍侯剛の娘を娶った。侯剛の子は元叉の妹の夫でもある。元叉は奚康生が姻戚となったので、非常に信任し合った。三人はともに宮中で起居することが多く、時には交互に(宮中から)外出することもあった。奚難当を千牛備身とした。
 奚康生は粗暴で他者を侮り、言葉も気性も高みから見下すようだった。元叉は次第に奚康生を避けるようになり、(それは)顔色に表れたので、奚康生も少々怖れて不安になった。
 甲午、孝明帝は西林園で霊太后と朝見した。文武官が近侍して座り、酒宴が盛り上がると交互に舞った。奚康生は力士の舞を演じ、旋回する時には必ず振り返って霊太后を見た。手の挙げ方、足の踏み方、大きく開いた目、首の動き、(どれも霊太后に不都合な者を)「捕らえて殺す」と言わんばかりで、霊太后も意を悟ったが何も言わなかった。
 日が暮れて、霊太后は孝明帝を連れて宣光殿に宿泊させようとした。侯剛が言った。
「陛下の朝見は終わりましたし、皇后陛下らは南(の宮城)におられます。どうして(宣光殿に)留まって宿泊せねばならないのでしょう!」
 奚康生が言った。
「皇帝陛下は皇太后陛下の御子であらせられる。皇太后陛下に従って何処かに赴こうというのに、他の誰を訪れることがあるというのだ!」
 群臣に反論する者はいなかった。霊太后は自ら立ち上って孝明帝の腕を取り、御殿から降りると去っていった。奚康生は大声で万歳を唱えた。
 まず孝明帝が(宣光殿の)門内に入ると、側近らは(先を)争ってひしめき合い、門が閉じられなくなった。奚康生は奚難当の千牛刀を奪うと、直後元思輔を斬った。それで(孝明帝の側近らは)落ち着いた。孝明帝が宣光殿に昇ると、側近の侍臣は皆、西階段の下に並んだ。
 奚康生は酒の勢いで号令を掛けようとしたが、ついに元叉に捕らわれて、門下省に捕縛された。光禄勲賈粲は霊太后に偽って言った。
「侍従官が恐れや不安を抱いております。陛下自らが慰撫されるべきかと」
 霊太后は賈粲を信用して、御殿から降りて赴いた。すぐに賈粲は孝明帝とともに東序に出でると、顕陽殿に赴いて(孝明帝を)臨御させ、宣光殿に霊太后を閉じ込めた。
 夜になっても元叉が宮城を出ることはなく、侍中・黄門・僕射・尚書ら十人余りに奚康生の下に赴いて尋問させた。(尋問に向かった者らは)奚康生を斬刑に、奚難当を絞首刑に処すとした。元叉と侯剛はともに宮中におり、これら(の処分)を詔と偽って決定した。奚康生は上奏の通りになり、奚難当は死刑を免ぜられて流刑となった。
 奚難当は泣きながら父に別辞を告げた。奚康生は憤って嘆きつつも悲しまずに言った。
「私は反逆して死ぬわけではない。お前は何を泣くんだ?」
 この時、すでに夜だった。官吏は奚康生を追い立てて市街に赴き、これを斬った。尚食典御奚混は奚康生とともに刀を手にして宣光殿に入ったので、連座して絞首刑となった。奚難当は侯剛の婿だったので、百日余り拘束された後、安州に流刑となった。しばらくして、元叉は行台盧同を赴かせて(奚難当を)殺害した。
 劉騰を司空とした。八座や九卿は毎朝、劉騰の邸宅に行き、その顔色を窺ってから官府に赴いたが、終日、会うことができない者もいた。要請されたことは公私の別なく、財貨の多少によってのみ判断された。舟や車(による運送)の利益や山沢の恵みは各地で税として(劉騰に)独占された。六鎮の処遇は悪化して(他国との)交通や交易が行われた。(劉騰の)歳入や利息(による収入)は数兆単位となった。隣家を脅迫して建物を奪い、その住居を拡張した。(こうして)遠近で劉騰(の横暴)に苦しんだ。
 京兆王元継は父子で権力や地位が非常に大きくなったので、自ら司徒の地位を車騎大将軍・儀同三司崔光に譲るよう強く求めた。
 夏、四月、庚子、元継を太保として、侍中は以前のままとした。元継は固辞したが、許さなかった。壬寅、崔光を司徒として、侍中・祭酒・著作は以前のままとした。
 魏牒云具仁至柔然,婆羅門殊驕慢,無遜避心,責具仁禮敬;具仁不屈,婆羅門乃遣大臣丘升頭等將兵二千隨具仁迎阿那瓌。五月,具仁還鎭,具道其状。阿那瓌懼,不敢進,上表請還洛陽。
9.魏の牒云具仁が柔然に着いた。婆羅門は非常に驕慢で謙譲の意志は無く、牒云具仁の礼法を責めたが、牒云具仁は屈さなかった。婆羅門は二千の兵を率いさせて大臣の丘升頭らを派遣し、牒云具仁に随行して阿那瓌を出迎えさせることとした。
 五月、牒云具仁が懐朔鎮に帰還し、(柔然の)実状を説明した。阿那瓌は怖れて進もうとはせず、上表して洛陽への帰還を求めた。
 10辛巳,魏南荊州刺史恆叔興據所部來降。
  六月,丁卯,義州刺史文僧明、邊城太守田守德擁所部降魏,皆蠻酋也。魏以僧明爲西豫州刺史,守德爲義州刺史。
10.辛巳、魏の南荊州刺史恒叔興が南荊州を伴って投降してきた。
 六月、丁卯、義州刺史文僧明・辺城太守田守徳が所轄ごと魏に投降した。ともに蛮人の首領である。魏は文僧明を西豫州刺史に、田守徳を義州刺史とした。
 11癸卯,琬琰殿火,延燒後宮三千間。
11.癸卯、琬琰殿で火災が起こり、後宮三千間を延焼した。
 12秋,七月,丁酉,以大匠卿裴邃爲信武將軍,假節,督衆軍討義州,破魏義州刺史封壽於檀公峴,遂圍其城;壽請降,復取義州。魏以尚書左丞張普惠爲行臺,將兵救之,不及。
  以裴邃爲豫州刺史,鎭合肥。邃欲襲壽陽,陰結壽陽民李瓜花等爲内應。邃已勒兵爲期日,恐魏覺之,先移揚州云:「魏始於馬頭置戍,如聞復欲脩白捺故城,若爾,便相侵逼,此亦須營歐陽,設交境之備。今板卒已集,唯聽信還。」揚州刺史長孫稚謀於僚佐,皆曰:「此無脩白捺之意,宜以實報之。」録事參軍楊侃曰:「白捺小城,本非形勝;邃好狡數,今集兵遣移,恐有他意。」稚大寤曰:「録事可亟作移報之。」侃報移曰:「彼之纂兵,想別有意,何爲妄構白捺!『他人有心,予忖度之,』勿謂秦無人也。」邃得移,以爲魏人已覺,即散其兵。瓜花等以失期,遂相告發,伏誅者十餘家。稚,觀之子;侃,播之子也。
12.秋、七月、丁酉、大匠卿裴邃を信武将軍として、仮節を与え、大軍を率いて義州を攻撃させた。檀公峴で魏の義州刺史封寿を破り、ついに義州城を包囲した。封寿は降伏を願い出た。(梁は)再び義州を手に入れた。
 魏は尚書左丞張普恵を行台とし、軍勢を率いて(義州を)救援させたが、間に合わなかった。
 裴邃を豫州刺史として、合肥に駐留させた。裴邃は寿陽を襲撃しようとして、密かに寿陽民の李瓜花らと結んで内応させた。
 すでに裴邃は軍勢を整えて期日を定めたが、魏が察知するのを怖れて、まず揚州に移動してから言った。
「魏は馬頭に城砦を築いたが、聞くところによると、今度は白捺の古城を修築するという。事実なら互いに侵犯することになる。こちらも欧陽に城砦を造営し、国境の防備を設けるべきだ。今、すでに築城のための兵士は集まった。後はただ(魏からの)返答を待つ」
 揚州刺史長孫稚は幕僚に問い謀った。皆、言った。
「こちらに白捺城を修築する考えはありません。事実を知らせるべきです」
 録事参軍楊侃が言った。
「白捺城は小城です。本来、戦闘に有利な地ではありません。裴邃は狡猾な策略を好んでいます。今、兵を集めて移動するというのは、恐らく別の所に意図があるはず」
 長孫稚は深く理解して言った。
「すぐに録事は文書を作成し、裴邃に伝えよ」
 楊侃は文書を作成して伝えた。
「貴殿が兵を集めているのには、思うに別の意図があるのだろう。何を勝手に『白捺城を修築しようとしている』と虚言を吐くか!『他人には考えがあるのだから、それを私は推し量ろう』と言う。(春秋の晋人が)秦には人がいないと思ったようには考えるな」
 裴邃は文書を得ると、魏人に(策略を)察知されているとして、すぐに軍勢を解散させた。
 李瓜花らは期日が過ぎてしまったので、ついには互いに告発し合った。誅殺される者は十家余り。長孫稚は長孫観の子であり、楊侃は楊播の子である。
 13初,高車王彌俄突死,其衆悉歸嚈噠;後數年,嚈噠遣彌俄突弟伊匐帥餘衆還國。伊匐撃柔然可汗婆羅門,大破之,婆羅門帥十部落詣涼州,請降於魏,柔然餘衆數萬相帥迎阿那瓌,阿那瓌表稱:「本國大亂,姓姓別居,迭相抄掠。當今北人鵠望待拯,乞依前恩,給臣精兵一萬,送臣磧北,撫定荒民。」詔付中書門下博議,涼州刺史袁翻以爲:「自國家都洛以來,蠕蠕、高車迭相呑噬,始則蠕蠕授首,既而高車被擒。今高車自奮於衰微之中,克雪讎恥,誠由種類繁多,終不能相滅。自二虜交鬭,邊境無塵,數十年矣,此中國之利也。今蠕蠕兩主相繼歸誠,雖戎狄禽獸,終無純固之節,然存亡繼絶,帝王本務。若棄而不受,則虧我大德;若納而撫養,則損我資儲;或全徙内地,則非直其情不願,亦恐終爲後患,劉、石是也。且蠕蠕尚存,則高車猶有内顧之憂,未暇窺窬上國;若其全滅,則高車跋扈之勢,豈易可知!今蠕蠕雖亂而部落猶衆,處處棋布,以望舊主,高車雖強,未能盡服也。愚謂蠕蠕二主並宜存之,居阿那瓌於東,處婆羅門於西,分其降民,各有攸屬。阿那瓌所居非所經見,不敢臆度;婆羅門請脩西海故城以處之。西海在酒泉之北,去高車所居金山千餘里,實北虜往來之衝要,土地沃衍,大宜耕稼。宜遣一良將,配以兵仗,監護婆羅門。因令屯田,以省轉輸之勞。其北則臨大磧,野獸所聚,使蠕蠕射獵,彼此相資,足以自固。外以輔蠕蠕之微弱,内亦防高車之畔援,此安邊保塞之長計也。若婆羅門能收離聚散,復興其國者,漸令北轉,徙度流沙,則是我之外藩,高車勍敵,西北之虞可以無慮。如其姦回反覆,不過爲逋逃之寇,於我何損哉?」朝議是之。
  九月,柔然可汗俟匿伐詣懷朔鎭請兵,且迎阿那瓌。俟匿伐,阿那瓌之兄也。冬,十月,録尚書事高陽王雍等奏:「懷朔鎭北吐若奚泉,原野平沃,請置阿那瓌於吐若奚泉,婆羅門於故西海郡,令各帥部落,收集離散。阿那瓌所居既在境外,宜少優遣,婆羅門不得比之。其婆羅門未降以前蠕蠕歸化者,悉令州鎭部送懷朔鎭以付阿那瓌。」詔從之。
13.以前、高車王弥俄突が死去すると、その民衆は皆、嚈噠に帰順した。数年後、嚈噠は弥俄突の弟、伊匐に帰順してきた民衆を率いて帰国させた。伊匐は柔然可汗婆羅門を攻撃して、これを大破した。
 婆羅門は十部落を率いて涼州に赴き、魏に投降を願い出た。柔然の残党は互いに連れ立って阿那瓌を奉迎しようとた。阿那瓌は上表して述べた。
「(我が)本国は非常に混乱しており、姓族ごとに分かれて生活し、互いに襲撃し合っています。まさに今、北方の人々は爪先立つように救いを待っているのです。願いますれば先の恩恵を頼み、私に精兵一万を与えられ、漠北に送っていただきたい。戦乱に苦しむ民衆を慰撫して平定いたしましょう」
 詔を下して門下省で広く論議させた。涼州刺史袁翻が述べた。
「我が国が洛陽に遷都して以来、蠕蠕と高車は互いに侵略し合ってきています。まずは蠕蠕(の佗汗可汗)の首級が届けられ、しばらくして高車(の弥俄突)が捕らわれました。そして今、高車は衰微している中で自ら奮起し、雪辱や恥辱を晴らしました。しかし本当に多くの部族がいるので、ついに双方を絶滅させることはできないでしょう。蠕蠕と高車が戦闘を交えてから、(我が国の)辺境で戦火が止むこと数十年。これは中国の利益でした。今、蠕蠕の両可汗が相次いで帰順してきました。戎狄は禽獣のようなもので、ついに純粋で確固とした節度を持つことはありません。しかし(諸国の)存亡や再興(を取り仕切るの)は帝王の本来の務めです。もし見捨てて受け入れなければ、我が(国の)大徳を損なうことになるでしょう。もし受け入れて面倒をみるなら、我らの資産を損なうことになるでしょう。それどころか彼ら全てを国内に移住させるなど、彼らの心情が願うことではありますまい。また、いずれは後患となるのを恐れます。劉淵や石勒がそうだったでしょう。それに蠕蠕が今も健在だからこそ、なおも高車は周辺(の情勢)に憂慮せねばならず、まだ密かに我が国(の隙)を窺うような余裕がないのです。もし蠕蠕を全滅させれば、高車が跋扈するようになるのは簡単に予測できることでしょう!今、蠕蠕は混乱していますが多くの部落が存在しており、各所に所在して旧主(の帰還)を望んでいます。高車は強力になりましたが、まだ蠕蠕全てを服属させることはできておりません。愚考いたしますが、蠕蠕の二可汗は並存させるべきでしょう。阿那瓌を東部に居住させ、婆羅門を西部に居住させて、蠕蠕の投降民は各自、両者に従属させるのです。阿那瓌の居所となるのは(彼らにとって)不慣れな土地ですが、(服従の姿勢を見せているので無用の)憶測はしないでしょう。婆羅門は西海古城の修築を求めていますので、そこを与えましょう。西海は酒泉の北にあり、高車の居所である金山から千里余り離れています。まさしく北方の胡人にとって往来の要衝であり、肥沃な土地は耕作するのに非常に適しています。良将を一人派遣して軍勢を配置し、婆羅門を監視・警護させましょう。派遣軍には屯田させることで、(軍糧を)輸送する労力を省くことができます。その北にあるのは大漠で、野獣が集まる地です。蠕蠕には狩猟を行わせましょう。彼らと我が派遣軍の収穫を合わせれば、自らの守りを固めるのに十分です。一方では微弱となった蠕蠕を助け、また一方では高車の跋扈を防ぐ。これが国境地帯を安定化させる長計です。もし婆羅門が離散した蠕蠕民衆を収容し、蠕蠕を復興させることができたなら、少しずつ北方へと移住させ、流砂地帯を渡らせましょう。そうすれば(婆羅門の)蠕蠕は我が国の外藩であり、高車にとっては強敵となります。西北方面の憂慮は無用となりましょう。奸悪にも婆羅門が反逆したとして、逃亡者の暴挙に過ぎません。我が国に何の被害を与えられましょう!」
 朝議で賛同された。
 九月、柔然可汗俟匿伐は懐朔鎮に赴いて軍勢を求め、また阿那瓌を出迎えるとした。俟匿伐は阿那瓌の兄である。
 冬、十月、録尚書事・高陽王元雍らが上奏した。
「懐朔鎮の北、吐若奚泉は平坦で肥沃な原野です。阿那瓌を吐若奚泉に、婆羅門を旧西海郡に置き、各々で部落を率いて、離散した蠕蠕民衆を収容させることを願います。阿那瓌の居所は国境外になりますので、多少は優遇措置をとりましょう。婆羅門を阿那瓌と同等に扱う必要はないでしょう。そして婆羅門が帰順する前に投降してきた蠕蠕人は、全て(現住の)州や鎮からまとめて懐朔鎮に送り、阿那瓌の配下とさせるのです」
 詔を下して元雍らに従った。
 14十一月,癸丑,魏侍中、車騎大將軍侯剛加儀同三司。
14.十一月、癸丑、魏侍中・車騎大将軍侯剛に儀同三司を加官した。
 15魏以東益、南秦氐皆反,庚辰,以秦州刺史河間王琛爲行臺以討之。琛恃劉騰之勢,貪暴無所畏忌,大爲氐所敗。中尉彈奏,會赦,除名,尋復王爵。
15.魏では東益州・南秦州の氐人が皆、反乱を起こしたので、秦州刺史・河間王元琛を行台として、氐人を討伐させた。元琛は劉騰の勢威を頼み、貪欲・横暴で怖れを知らず、氐人に大敗した。 中尉が弾劾の上奏をした。この時、恩赦が行われ、(元琛は)除名されたが、まもなく王爵を回復した。
 16魏以安西將軍元洪超兼尚書行臺,詣敦煌安置柔然婆羅門。
16.魏は安西将軍元洪超を兼尚書行台とし、敦煌に赴いて柔然の婆羅門を安置させた。
三年(壬寅、五二二)

 春,正月,庚子,以尚書令袁昂爲中書監,呉郡太守王暕爲尚書左僕射。
1.春、正月、庚子、尚書令袁昴を中書監に、呉郡太守王暕を尚書左僕射とした。
 辛亥,魏主耕籍田。
2.辛亥、孝明帝が籍田で耕作を行った。
 魏宋雲與惠生自洛陽西行四千里,至赤嶺,乃出魏境,又西行,再朞,至乾羅國而還。二月,達洛陽,得佛經一百七十部。
3.魏の宋雲と恵生は洛陽から西に四千里行き、赤嶺に至って魏の国境を出た。また西に行き、翌月、乾羅国に至って帰国した。二月、洛陽に到達した。(宋雲らは)仏教の経典百七十部を得てきた。
 高車王伊匐遣使入貢于魏。夏,四月,庚辰,魏以伊匐爲鎭西將軍、西海郡公、高車王。久之,伊匐與柔然戰敗,其弟越居殺伊匐自立。
4.高車王伊匐が魏に朝貢の使者を派遣した。夏、四月、庚辰、魏は伊匐を鎮西将軍・西海郡公・高車王とした。しばらくして伊匐は柔然と戦って敗れ、弟の越居が伊匐を殺害して自ら即位した。
 五月,壬辰朔,日有食之,既。
5.五月、壬辰朔、日蝕が起こった。皆既日食である。
 癸巳,大赦。
6.癸巳、大赦を行った。
 冬,十一月,甲午,領軍將軍始興忠武王憺卒。
7.冬、十一月、甲午、領軍将軍・始興忠武王蕭憺が死去した。
 乙巳,魏主祀圜丘。
8.乙巳、孝明帝が円丘で祭祀を行った。
 初,魏世祖以玄始暦浸疏,命更造新暦。至是,著作郞崔光表取盪寇將軍張龍祥等九家所上暦,候驗得失,合爲一暦,以壬子爲元,應魏之水德,命曰正光暦。丙午,初行正光暦,大赦。
9.かつて魏世祖は玄始暦が(現実の暦から)次第に乖離してきたので、改めて新暦を作成するよう命じた。
 この時になって、著作郎崔光は盪寇将軍張竜祥ら九家が上程した暦を採用し、形象の是非を調査して一つの暦にまとめて、壬子を元日として魏の水徳に対応させ、正光暦と名付けた。丙午、初めて正光暦を施行し、大赦を行った。
 10十二月,乙酉,魏以車騎大將軍、尚書右僕射元欽爲儀同三司,太保京兆王繼爲太傅,司徒崔光爲太保。
10.十二月、乙酉、魏は車騎大将軍・尚書右僕射元欽を儀同三司に、太保・京兆王元継を太傅に、司徒崔光を太保とした。
 11初,太子統之未生也,上養臨川王宏之子正德爲子。正德少粗險,上即位,正德意望東宮。及太子統生,正德還本,賜爵西豐侯。正德怏怏不滿意,常蓄異謀。是歳,正德自黄門侍郎爲輕車將軍,頃之,亡奔魏,自稱廢太子避禍而來。魏尚書左僕射蕭寶寅上表曰:「豈有伯爲天子,父作揚州,棄彼密親,遠投他國!不如殺之。」由是魏人待之甚薄,正德乃殺一小兒,稱爲己子,遠營葬地;魏人不疑,明年,復自魏逃歸。上泣而誨之,復其封爵。
11.かつて皇太子蕭統が生まれる前、武帝は臨川王蕭宏の子、蕭正徳と養子としていた。蕭正徳は若くして粗暴で奸悪。武帝が即位すると、蕭正徳は皇太子となることを望んだ。
 皇太子蕭統が生まれると、蕭正徳は本籍に戻って西豊侯の爵位を賜った。蕭正徳は不服・不満に思い、つねに叛意を抱くようになった。この年、蕭正徳は黄門侍郎から軽車将軍となった。しばらくすると魏に亡命して、皇太子位を廃されたので災禍を避けるために来たと称した。魏の尚書左僕射蕭宝寅が上表して述べた。
「天子を伯父に持ち、父が揚州刺史でありながら、自らの近親を捨てて、遠い他国に身を投ずるなどできましょうか。このような者は殺すべきです」
 かくして魏人は蕭正徳を非常に冷遇した。それで蕭正徳は一人の幼児を殺害し、自分の子であり、遠くに墓地を造りたいと述べた。魏人は疑わなかった。 翌年、(蕭正徳は)再び魏から逃げ帰った。武帝は泣いて蕭正徳を諭し、その封爵を回復した。
 12柔然阿那瓌求粟爲種,魏與之萬石。
  婆羅門帥部落叛魏,亡歸嚈噠。魏以平西府長史代人費穆兼尚書右丞西北道行臺,將兵討之,柔然遁去。穆謂諸將曰:「戎狄之性,見敵即走,乘虚復出,若不使之破膽,終恐疲於奔命。」乃簡練精騎,伏於山谷,以歩兵之羸者爲外營,柔然果至;奮撃,大破之。婆羅門爲涼州軍所擒,送洛陽。
12.柔然の阿那瓌が種籾とするための粟を要求した。魏は一万石の粟を与えた。
 婆羅門は部落を率いて魏に反逆し、嚈噠に亡命・帰順した。
 魏は平西府長史、代人の費穆に尚書右丞・西北道行台を兼任させると、軍を率いて婆羅門を討伐させた。柔然は逃走した。費穆は諸将に言った。
「戎狄とは敵を見れば逃げ出し、相手の不備に乗じて再び現れるものだ。もし彼らを心底、恐怖させなければ、ついには奔走して疲れ切ることになるだろうよ」
 それで騎兵の精鋭を選抜して、山谷に伏せさせ、歩兵の弱そうな者に陣営外を守らせた。やはり柔然軍が到来した。(魏軍は)奮戦して、柔然軍を破った。婆羅門は涼州軍に捕らわれて、洛陽に送致された。
四年(癸卯、五二三)

 春,正月,辛卯,上祀南郊,大赦。丙午,祀明堂。二月,乙亥,耕藉田。
1.春、正月、辛卯、武帝が南郊で祭祀を行った。大赦を行った。丙午、明堂で祭祀を行った。二月、乙亥、籍田で耕作を行った。
 柔然大饑,阿那瓌帥其衆入魏境,表求賑給。己亥,魏以尚書左丞元孚爲行臺尚書,持節撫諭柔然。孚,譚之孫也。將行,表陳便宜,以爲:「蠕蠕久來強大,昔在代京,常爲重備。今天祚大魏,使彼自亂亡,稽首請服。朝廷鳩其散亡,禮送令返,宜因此時善思遠策。昔漢宣之世,呼韓款塞,漢遣董忠、韓昌領邊郡士馬送出朔方,因留衞助。又,光武時亦使中郎將段彬置安集掾史,隨單于所在,參察動靜。今宜略依舊事,借其閒地,聽其田牧,粗置官屬,示相慰撫。嚴戒邊兵,因令防察,使親不至矯詐,疏不容反叛,最策之得者也。」魏人不從。
  柔然俟匿伐入朝于魏。
2.柔然で大飢饉が発生した。阿那瓌は軍勢を率いて魏の国境内に入り、上表して救済を求めた。
 己亥、魏は尚書左丞元孚を行台尚書とすると、持節して柔然を慰撫・諭旨させた。元孚は元譚の孫である。出立に当たり、元孚は上表して方策を述べた。
「蠕蠕は久しく強大でありました。昔、代に都があった頃は常に厳重な防備を設けていたものです。今、天は大魏に幸いし、彼らを自らの内乱で滅ぼし、稽首して服属を願い出させました。朝廷は離散した柔然を集め、礼を備えて送り返しました。この状況を利用して深く遠謀を巡らせるべきでしょう。昔、漢宣帝の時代、呼韓邪単于が帰順すると、漢は董忠・韓昌に辺境諸郡の兵馬を率いさせて朔方に送り出し、駐留して(投降した匈奴を)護衛・支援させました。また光武帝の時代にも中郎将段彬に安集掾史を置いて、単于の所在に随行し、(匈奴の会合に)参加して動静を監視させました。今は全て故事に見られる指針に倣い、蠕蠕の未使用地を借りて、駐留軍に耕作・牧畜をさせ、一応の属官を置いて、慰撫し合おうという姿勢を見せ、辺境の軍勢を戒厳下に置くことで、(匈奴の動静を)視察して備えるのです。親しんでも偽りを述べさせるほどでなく、疎遠にしても反逆は許さない。(それが)最も有益な方法でしょう」
 魏人は従わなかった。
 柔然の俟匿伐が魏に入朝した。
 三月,魏司空劉騰卒。宦官爲騰義息重服者四十餘人,衰絰送葬者以百數,朝貴送葬者塞路滿野。
3.三月、魏の司空劉騰が死去した。劉騰の義子となった宦官で厳粛に服喪した者は四十人余り。衰絰を身に付けて葬列を送る者は百数人。葬列を送る朝廷の貴人たちが街道を塞いで野に満ちた。
 夏,四月,魏元孚持白虎幡勞阿那瓌於柔玄、懷荒二鎭之間。阿那瓌衆號三十萬,陰有異志,遂拘留孚,載以輼車。毎集其衆,坐孚東廂,稱爲行臺,甚加禮敬。引兵而南,所過剽掠,至平城,乃聽孚還。有司奏孚辱命,抵罪。甲申,魏遣尚書令李崇、左僕射元纂帥騎十萬撃柔然。阿那瓌聞之,驅良民二千、公私馬牛羊數十萬北遁,崇追之三千餘里,不及而還。
  纂使鎧曹參軍于謹帥騎二千追柔然,至郁對原,前後十七戰,屢破之。謹,忠之從曾孫也,性深沈,有識量,渉獵經史。少時,屏居田里,不求仕進,或勸之仕,謹曰:「州郡之職,昔人所鄙;臺鼎之位,須待時來。」纂聞其名而辟之。後帥輕騎出塞覘候,屬鐵勒數千騎奄至,謹以衆寡不敵,退必不免,乃散其衆騎,使匿叢薄之間,又遺人升山指麾,若部分軍衆者。鐵勒望見,雖疑有伏兵,自恃其衆,進軍逼謹。謹以常乘駿馬,一紫一騧,鐵勒所識,乃使二人各乘一馬突陣而出,鐵勒以爲謹也,爭逐之;謹帥餘軍撃其追騎,鐵勒遂走,謹因得入塞。
  李崇長史鉅鹿魏蘭根説崇曰:「昔縁邊初置諸鎭,地廣人稀,或徴發中原強宗子弟,或國之肺腑,寄以爪牙。中年以來,有司號爲『府戸』,役同廝養,官婚班齒,致失清流,而本來族類,各居榮顯,顧瞻彼此,理當憤怨。宜改鎭立州,分置郡縣,凡是府戸,悉免爲民,入仕次敍,一準其舊,文武兼用,威恩並施。此計若行,國家庶無北顧之慮矣。」崇爲之奏聞,事寢,不報。
4.夏、四月、魏の元孚が白虎幡を持って柔玄鎮・懐荒鎮の中間地で阿那瓌を慰労した。
 阿那瓌の兵は三十万と称しており、密かに叛意を抱いていた。ついに元孚を拘留して輼車に乗せた。兵士を集めると必ず元孚を東廂に座らせて行台と呼び、礼遇して敬意を払った。(阿那瓌は)軍勢を率いて南に向かうと、通過した地で略奪を行い、平城に至ると元孚に帰還を許した。
 官僚たちは元孚が君命を辱めたことは罪に当たると上奏した。
 甲申、魏は尚書令李崇・左僕射元纂に騎兵十万を率いて柔然を攻撃させた。阿那瓌はこれを聞くと、良民二千人・公私の牛馬や羊十万頭を駆り立てて北に逃れた。李崇は柔然軍を三千里余り追ったが、追い付かずに帰還した。
 元纂は鎧曹参軍于謹に騎兵二千を率いて柔然を追わせた。(于謹は)郁対原に至るまでに前後十七回の戦闘を行い、何度も柔然軍を破った。
 于謹は于忠の従曾孫である。思慮深い性格で見識と度量があり、多くの経書や史書に目を通していた。若い頃、郷里に隠棲して、仕官を求めなかった。于謹に仕官を勧める者もいたが、于謹は言っていた。
「州や郡の官職など昔の人が卑しんだものです。台鼎の地位こそ、(仕官の)時が来るのを待つべきものでしょう」
 元纂は(于謹の)名望を聞いて彼を登用した。
 後に軽騎兵を率いて国境外で偵察の任務に就いていると、突然、到来した鉄勒の騎兵数千に遭遇した。于謹は寡兵では対抗できず、逃げ切ることもできないとして、配下の騎兵を散開させると、草木の間に隠れさせた。また部下を山に登らせると、軍の部隊を指揮しているように合図させた。鉄勒は(これを)望み見て、伏兵がいると疑ったが、多勢であるのを頼み、進軍して于謹に迫った。いつも于謹は駿馬に乗っていた。一頭は紫、一頭は斑模様であるのを鉄勒は知っていた。それで二人(の部下)を各自、一頭に乗らせると、陣営から突出させた。鉄勒は于謹だと思い、これを争って追いかけた。于謹は残りの兵を率いて追跡中の鉄勒軍を攻撃した。ついに鉄勒は逃走し、それで于謹は国境内に入ることができた。
 李崇の長史、鉅鹿郡の魏蘭根が李崇に説いた。
「昔、初めて辺地に諸鎮を置いた時、広い土地にわずかな人しかおりませんでした。(それで)徴発された中原の名家の子弟が、また皇族の方々が国防の戦士として頼りにされたのです。中期以降、官僚たちは(諸鎮の軍人を)『府戸』と呼び、役務は下僕と同等になりました。官位や婚姻における家格についても、清流(としての地位)を失ってしまいました。しかし元々の同族だった者には各々、繁栄して名望を得ている者もいます。彼らと自分のことを考えれば、憤って恨むのは当然でしょう。鎮を州に改め、区分して郡県を置き、府戸とされた者は皆、(その役務を)免除して民とすべきです。仕官を待つ者の序列は全て本来のものに従い、文武官双方に採用して威光と恩恵を施すべきでしょう。この政策を行えば、我が国に北方の憂慮はなくなることでしょう」
 このように李崇は上奏したが、うやむやになって回答されなかった。
 初,元义既幽胡太后,常入直於魏主所居殿側,曲盡佞媚,帝由是寵信之。义出入禁中,恆令勇士持兵以自先後。時出休於千秋門外,施木欄楯,使腹心防守以備竊發,士民求見者,遙對之而已。其始執政之時,矯情自飾,以謙勤接物,時事得失,頗以關懷。既得志,遂自驕慢,嗜酒好色,貪吝寶賄,與奪任情,紀綱壞亂。父京兆王繼尤貪縱,與其妻子各受賂遺,請屬有司,莫敢違者。乃致郡縣小吏亦不得公選,牧、守、令、長率皆貪汚之人。由是百姓困窮,人人思亂。
  武衞將軍于景,忠之弟也,謀廢义,义黜爲懷荒鎭將。及柔然入寇,鎭民請糧,景不肯給,鎭民不勝忿,遂反,執景,殺之。未幾,沃野鎭民破六韓拔陵聚衆反,殺鎭將,改元眞王,諸鎭華、夷之民往往響應。拔陵引兵南侵,遣別帥衞可孤圍武川鎭,又攻懷朔鎭。尖山賀拔度拔及其三子允、勝、岳皆有材勇,懷朔鎭將楊鈞擢度拔爲統軍、三子爲軍主以拒之。
5.元叉は霊太后を幽閉してから、いつも孝明帝がいる宮殿の側で起居し、不実な追従を尽くしていた。このため孝明帝は元叉を寵遇して信用した。
 元叉は宮中に出入りする時、必ず勇士に武器を持って前後を護衛させていた。千秋門外に出て休息する時には木造の蘭汗を設け、腹心に警護させて暗殺に備えた。謁見を求める士人や民衆は遠くから対面するだけだった。元叉が政権を握った当初、本性を抑えて自分を飾り、物事に対して謙虚で丁寧だった。時事や(国政の)損益について非常な関心を見せていた。全てが思い通りになると、ついに驕慢になった。酒色を嗜好して、財貨には貪欲で吝嗇。与奪は感情のままに行い、(朝廷の)綱紀は乱れきってしまった。
 父の京兆王元継も非常に貪欲で思うままに振る舞い、妻子とともに各々で賄賂を受け取った。(元継一族に)頼み事をする官僚たちで意に背こうとする者はいなかった。郡県の下級官吏に及ぶまで公正な登用は行われず、牧・守・令・長は全て皆、汚職による者となった。かくして民衆は困窮し、人々は乱世の到来を思うようになった。
 武衛将軍于景は于忠の弟である。元叉の失脚を謀ったので、元叉は(于景を)降格して懐荒鎮将とした。柔然が侵攻してくると、鎮民は食料を求めた。于景は支給を許可しなかったので、鎮民は怒りを抑えられず、ついに反乱を起こした。于景を捕らえて殺害した。
 まもなく沃野鎮民の破六韓抜陵が兵を集めて反乱を起こし、鎮将を殺害して、真王と改元した。諸鎮の華人・夷人は次々と呼応した。破六韓抜陵は軍勢を率いて南に侵攻し、別働隊の指揮官の衛可孤に武川鎮を包囲させ、また懐朔鎮を攻撃させた。
 尖山郡の賀抜度抜と三人の子、賀抜允・賀抜勝・賀抜岳には才知と武勇があった。懐朔鎮将楊鈞は賀抜度抜を将軍に抜擢し、三人の子を軍主として衛可孤に抗戦させた。
 魏景明之初,世宗命宦者白整爲高祖及文昭高后鑿二佛龕於龍門山,皆高百尺。永平中,劉騰復爲世宗鑿一龕,至是二十四年,凡用十八萬二千餘工,而未成。
6.魏の景明初、世宗は宦官白整に命じて、高祖と文昭皇后のため、竜門山に二つの仏龕を彫らせた。ともに高さは百尺。永平中、今度は劉騰が世宗のために一つの仏龕を造った。今に至るまで二十四年、十八万二千人余りの工匠を動員したが完成しなかった。
 秋,七月,辛亥,魏詔:「見在朝官,依令七十合解者,可給本官半祿,以終其身。」
7.秋、七月、辛亥、魏で詔を下した。
「朝廷の官吏で法令により七十歳で解任された者は、元の官職の俸禄の半分を終身にわたり支給されることとする」
 九月,魏詔侍中、太尉汝南王悅入居門下,與丞相高陽王雍參決尚書奏事。
8.九月、魏では侍中・太尉・汝南王元悦に詔を下し、門下省に入居して、丞相・高陽王元雍と尚書の奏上についての決定に参与させた。
 冬,十月,庚午,以中書監、中衞將軍袁昂爲尚書令,即本號開府儀同三司。
9.冬、十月、庚午、中書監・中衛将軍袁昴を尚書令として、開府儀同三司を加えた。
 10魏平恩文宣公崔光疾篤,魏主親撫視之,拜其子勵爲齊州刺史,爲之撤樂,罷游眺。丁酉,光卒,帝臨,哭之慟,爲減常膳。
  光寬和樂善,終日怡怡,未嘗忿恚。于忠、元义用事,以光舊德,皆尊敬之,事多咨決,而不能救裴、郭、清河之死,時人比之張禹、胡廣。
  光且死,薦都官尚書賈思伯爲侍講。帝從思伯受春秋,思伯雖貴,傾身下士。或問思伯曰:「公何以能不驕?」思伯曰:「衰至便驕,何常之有!」當時以爲雅談。
10.魏の平恩文宣公崔光の病が重くなり、孝明帝は自ら面会に赴いて慰撫した。崔光の子、崔励に斉州刺史を拝命させた。崔光のために礼楽と遊覧を取り止めた。丁酉、崔光が死去した。孝明帝は崔光の死に際して慟哭し、弔意を表して食膳を減らした。
 崔光は寛容・穏和で善行を楽しんだ。終日、安楽にして怒ることがなかった。于忠・元叉は政権を握っても、ともに徳望ある崔光を尊敬し、多くの事柄の決定を相談した。しかし裴植・郭祚・清河王元懌の命を救うことはできなかった。当時の人々は崔光を張禹・胡広に匹敵するとした。
 崔光は死に際して、都官尚書賈思伯を侍講に推挙した。孝明帝は賈思伯に師事して『春秋』の講義を受けた。賈思伯は高貴な身分だったが、下位の士人にも身を低くした。賈思伯に問う者がいた。
「どうして貴方は驕らずにいられるのでしょう?」
 賈思伯は言った。
「衰えればすぐにも驕るようになりますよ。どうして変わらずにいられましょうか!」
 当時の人々は風雅な談話だとした。
 11十一月,癸未朔,日有食之。
11.十一月、癸未朔、日蝕が起こった。
 12甲辰,尚書左僕射王暕卒。
12.甲辰、尚書左僕射王暕が死去した。
 13梁初唯揚、荊、郢、江、湘、梁、益七州用錢,交、廣用金銀,餘州雜以穀帛交易。上乃鑄五銖錢,肉好周郭皆備。別鑄無肉郭者,謂之「女錢」。民間私用女錢交易,禁之不能止,乃議盡罷銅錢。十二月,戊午,始鑄鐵錢。
13.以前、梁では揚州・荊州・郢州・江州・湘州・梁州・益州の七州だけで銭を用いていた。交州・広州では金銀を用い、その他の州では穀物や絹で交易していた。
 武帝は五銖銭を鋳造した。(五銖銭には)外側と内側に縁取りがあった。別に内側の縁取りの無いものが鋳造され、「女銭」と呼ばれた。民間では女銭が密かに用いられ、禁止することができなかった。それで論議して銅銭を全て廃止した。十二月、庚午、鉄銭を鋳造するようになった。
 14魏以汝南王悅爲太保。

14.魏は汝南王元悦を太保とした。


翻訳者:にゃんごたん

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年01月12日 11:50
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。