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日経 ~J1昇格横浜FC8年の闘い~

【日経12/12】J1昇格横浜FC8年の闘い(上)消滅の無念、市民動かす。1


J1昇格横浜FC8年の闘い(上)消滅の無念、市民動かす。

クラブ支えた「F」の遺産
クラブの消滅という悲劇から8年。怒れるサポーターたちが作り上げた市民クラブ、横浜FCは
Jリーグ1部(J1)の舞台へたどり着いた。理想と現実のはざまで揺れ動いたその軌跡をたどる。
一九九八年十月、親会社の佐藤工業が撤退したフリューゲルスと、日産自動車の業績不振で
追いつめられた横浜マリノスの合併が、両社長とJリーグの川淵三郎チェアマン(当時)の
三者会談で決まった。両クラブは横浜F・マリノスとして再スタートするという。
「話が違う」。サポーターが新クラブ創設へと動いたのも当然だった。
親会社の盛衰に死活がかかっていたプロ野球などを反面教師としたはずのJリーグは地域密着、
サポーター本位を打ち出していた。それが親会社の都合で合併するというのだから納得がいかない。

「横浜フリューゲルスを存続させる会」に集まった「再建基金」は約六千七百万円。
そのうちの二千万円などを元手に、横浜FCの母体となる市民クラブ「横浜フリエスポーツクラブ」が産声をあげた。
合併の表面化から3カ月足らずのことだった。
フリューゲルスの愛称「フリエ」からわかる通り、組織にはかつて愛したクラブの再生を目指す組がいた。
一方、今まで日本になかった全く新しいクラブを作ろうという新生派がいた。

九九年二月八日、日本サッカー協会第一種検討委員会はもめた。
まだ所属選手すら確定していない横浜FCの日本フットボールリーグ(JFL)加盟を特例で認めるべきか否か。
「資金面が弱く何年も持たない。規定通り都道府県リーグから始めるべきだ」という原則論を
「新しい市民クラブの可能性に賭けよう」といって押し切ったのは木之本興三委員長だった。


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当時Jリーグ専務理事としてフリューゲルス選手らとの折衝に当たった木之本氏は
フリューゲルス最後の試合となった天皇杯決勝の表彰式、選手から「おまえだけは許さない」とにらまれた。
「企業の論理に抵抗していたはずのチェアマンがなぜ合併を認めたのか。私にも忸怩(じくじ)たる思いがあった」。
サポーターの熱き思いは協会幹部の「負い目」を突き、準会員としての加盟が決まった。

新生横浜FCが独り立ちした今もなお「フリューゲルス」は生きて人々を勇気づけ、そして悩ませてもいる。
あの「再建基金」の約四千万円は自前のグラウンド建設費に充てられる。来年二月からは、かつての
フリューゲルスの練習場で、現在はF・マリノスが使用する横浜市戸塚区のグラウンドを専用練習場とする予定だ。
一方、微妙な影を落とすのがマリノスに引き取られた「F」。
フリューゲルス再生派はあのFを取り戻したいが、新生派に格別の思い入れはない。
坂本寿夫副社長は「横浜FC設立以降に応援するようになったサポーターが今や大半。時間をかけて話し合わなければ」と悩む。
出発点の同床異夢があった。企業に頼らないはずの市民クラブもこの間に変貌(へんぼう)した。
当初欧州の名門、バルセロナのサポーター組織をモデルにしたが、あちらは十万人を誇り、こちらは三千人。
集金力の限界もあれば素人集団による運営の限界もあった。
市民の市民による、というユートピア幻想は現実の前に砕かれ、設立に携わった幹部たちはクラブを去ることになる。
【図・写真】横浜F最後の試合となった天皇杯決勝。このときのサポーターの多くが横浜FCをつくった(1999年元日、国立競技場)


【日経12/12】J1昇格横浜FC8年の闘い(中)支える気持ち行き違い、「運営参加」の理想もろく。1


一九九九年、本格的な市民クラブとしてスタートした横浜FC。
その目玉となったのがソシオ(スペイン語で会員の意味)制度だった。
サポーターがソシオとなり、資金を出し合ってクラブ財政を支えるとともに、
クラブ役員とソシオ理事との協議会を通じて運営にもかかわっていく。
サポーターがクラブに対してカネも出すが口も出す。
初年度に3000人を超えるソシオが生まれ、一億円近い資金が集まった。
市民が主体的にクラブ運営に参加する日本初の試み。だが、結果的に2年余りで空中分解する。

「ソシオ全員が市民クラブの理想にこだわっていたわけではない」。当時、ソシオの一人だった男性は振り返る。
フリューゲルス存続に全力を尽くしたサポーターの中には、消滅したチームに代わる愛情の対象を求めていた人たちがいた。
彼らにとっては、スタジアムで声をからして応援することがすべて。経営にまで首を突っ込むつもりなどなかった。
九九年一月のクラブ立ち上げから、チームの初戦まで3カ月余り。
クラブ運営資金を捻出(ねんしゅつ)するため、早急に会費を集める必要もあった。
急ぎ足で組織の形を整えた弊害として、ソシオ制度への理解、意思統一を図る余裕がなかったことが災いした。
フリーライターの戸村賢一氏は「試合で声援を送ることと、クラブ運営のための制度をつくること。
どちらが本当の支援なのかという点で対立が生まれたようだ。発足当初から感情的な溝もあった」と指摘する。
利害が一致して共同歩調を取れたのは、クラブが動き出すまで。
二〇〇〇年秋に両者が別々の集会を開くようになると、もはやその亀裂は埋めようがなくなっていた


【日経12/12】J1昇格横浜FC8年の闘い(中)支える気持ち行き違い、「運営参加」の理想もろく。2


一方、クラブ側にも、経営のプロでないサポーターが運営に口出しすることに対し、
「判断の迅速性が損なわれる」「サポートすることと、経営に影響力を持つことは別だ」などという不満があった。
ソシオの内部分裂と、ソシオとクラブ間の溝。2つの対立が制度を瓦解させる。〇一年九月、クラブ側はソシオに代わり、
会費は納めるものの経営には関与しない新たなサポーター組織「クラブメンバー」の設立を発表した。
□  ■
ソシオ制度確立の理想を追った人々は去った。だが、市民クラブの理想がついえたわけではなかった。
その象徴がサポーター株主だ。クラブメンバー会員の個人を対象に発行した株式で〇二年九月に募集を開始した。
注目すべきはクラブの営業譲渡や合併、解散に対して拒否権を持つこと。
企業の論理で消滅したフリューゲルスの二の舞いを防ぐことができる――。
資金繰りに苦しむクラブの窮余の策だったが、応募が殺到。
坂本寿夫副社長は「クラブに貢献したいという思いの表れ」と感謝する。
現在、サポーター株主は564人で、合わせて約四千二百万円を出資している。
路線対立を克服できなかったソシオたちも「クラブのために、という思いは皆同じだった」(戸村氏)。
来年度のクラブメンバーへの入会申し込みは、募集開始から1カ月足らずですでに今年度の2000人を上回っている。
形はどうであれ、愛するクラブを支えるサポーターの思いは今も変わらない。
【図・写真】2000年12月、J2昇格を祝うソシオのメンバーたち。この後、方向性の違いが表面化する

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最終更新:2007年01月04日 04:28