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詭弁"Going ‘in the direction of evolution’"について


創造論者たち[ie. DeWitt, 2002 ]は、優生学につながる素として"ダーウィン進化論"を批判することが多い。Ben Steinのインテリジェントデザイン宣伝映画Expelledも同様。

それらは「倫理的価値を"自然科学の版図内の結論"として導き出すこと」が詭弁ではなく、「論理的帰結だ」という前提が必要。すなわち...
Mooreは次のように論じた。進化の方向は"必然的に良い"ということではない。倫理的価値はそれが自然であることによって決定されない。そして、その派生で、「現に存在しているものは(自然なものであるから)、存在すべきである」という詭弁があると論じる人もいる 。

この観点では、「進化は発展的な力なので、あらゆる優生学的な方法で、我々は進化の方向へ進むことを助けるべきであり、人類が進化しない方向に進むのを抑止すべきである」とか「男性は女性よりも自然では乱交なので、男性の乱交は倫理的に容認可能だ」とか「男性は女性よりも自然では乱交であり、自然の秩序を変えるべきでない」といったものが例として挙げられる。


この「Going‘in the direction of evolution’」[Curry 2006]な詭弁あるいは誤謬に関わるのは、創造論者たちだけではない。その立場によって次のように行き着く:

  • 進化によって生じたものは善である
  • しかし、"その形質"は一般には善とは考えられない
  • 従って...
    1. 進化論は間違いである
    2. "その形質"を善と考えないのは間違いで、実は善なのだ
    3. "その形質"は、適応によって生じたものではない

3.あたりから派生したのが、Lewontinたちの"社会生物学に対する批判"なのかもしれない:
強制交尾は、昆虫から霊長類まで広く見られるオスの適応行動だ。人間の男性の攻撃的な性行動も、文化的に条件づけられた権力行使の歪みとしてではなく、動物一般の繁殖戦略と見なさねばなるまい。社会生物学は、そして著者はそう主張する。
この種の言説は危険というか、性犯罪者の免罪に利用されはしないだろうか。なにしろ男のレイプ衝動は「自然な性質」だとのお墨付きを与えているのだから。
著者は「否」と断言する。何かが「自然である」とは、「善である」という意味ではない。両者を混同する「自然主義の誤謬」から、フェミニズムなどの見当違いのイデオロギーが生ずるというのである。


「"自然に関する知識"から"倫理的価値"を導き出す」ために「自然は良い」という"価値観"(あるいは宗教)が必要。その「自然は良い」を自然科学の版図内にあると思えば、創造論者たち[ie. DeWitt, 2002]のような主張ができてしまう。

もちろん、「自然は良い」はさまざまな宗教の主張であっても、自然法則から導出できる結論ではない。キリスト教系だと神の被造物たる自然は善なるものかもしれないし、スピリチュアル系だと"自然"は信仰対象そのものかもしれない。だとすると、彼らにとっては、その自然から生み出されるものは善かもね。

したがって、これらの宗教を用いないなら、次のようになる:

  • 進化によって生じたものが善かどうかは知ったこっちゃない
  • "その形質"は一般には善とは考えられない
  • 従って...
    • "その形質"は一般には善とは考えられない






最終更新:2012年04月15日 23:35