巻第一百九十四

資治通鑑巻第一百九十四
 唐紀十
  太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下
貞觀六年(壬辰、六三二)

 春,正月,乙卯朔,日有食之。
1.春、正月、乙卯朔、日食があった。
 癸酉,靜州獠反,將軍李子和討平之。
2.癸酉、静州の獠が造反した。将軍李子和が討ち、平らげた。
 文武官復請封禪,上曰:「卿輩皆以封禪爲帝王盛事,朕意不然。若天下乂安,家給人足,雖不封禪,庸何傷乎!昔秦始皇封禪,而漢文帝不封禪,後世豈以文帝之賢不及始皇邪!且事天掃地而祭,何必登泰山之巓,封數尺之土,然後可以展其誠敬乎!」羣臣猶請之不已,上亦欲從之,魏徴獨以爲不可。上曰:「公不欲朕封禪者,以功未高邪?」曰:「高矣!」「德未厚邪?」曰:「厚矣!」「中國未安邪?」曰:「安矣!」「四夷未服邪?」曰:「服矣!」「年穀未豐邪?」曰:「豐矣!」「符瑞未至邪?」曰:「至矣!」然則何爲不可封禪?」對曰:「陛下雖有此六者,然承隋末大亂之後,戸口未復,倉廩尚虚,而車駕東巡,千乘萬騎,其供頓勞費,未易任也。且陛下封禪,則萬國咸集,遠夷君長,皆當扈從;今自伊、洛以東至于海、岱,煙火尚希,灌莽極目,此乃引戎狄入腹中,示之以虚弱也。況賞賚不貲,未厭遠人之望;給復連年,不償百姓之勞;崇虚名而受實害,陛下將焉用之!」會河南、北數州大水,事遂寢。
3.文武官が、再び封禅を請願した。上は言った。
「卿等は皆、封禅を帝王の盛事と思っているようだが、朕の考えは違う。天下が安泰で資材も人手も足りていれば、封禅をしなくても、何の不名誉があろうか。昔、秦の始皇帝は封禅をし、漢の文帝はしなかったが、後世、文帝が始皇帝に劣る主君と評価されているのか!それに、天に仕え地を掃くのが祭だ。泰山の巓へ登って数尺の土を封じなければ、その誠敬を展べられないなど、とんでもない誤りだ!」
 だが、群臣は尚も請願して止まない。いつしか上もこれに従いたくなったが、魏徴一人、これを不可とした。
 上は言った。
「公は朕に封禅をさせたがらないのは、我が功績がまだ高くないからか?」
「高うございます!」
「それでは、徳がまだ厚くないからか?」
「厚うございます!」
「中国がまだ安定していないからか?」
「安定しております!」
「四夷が、まだ服属していないからか?」
「服属しています!」
「今年の稔りが豊作ではないからか?」
「豊作でございます!」
「符瑞がまだ顕れないからか?」
「顕れております!」
「それならば、どうして封禅をしてはいけないのだ?」
「陛下にはこの六者が揃っております。しかし、隋末の大乱の後で、人口はまだ少なく倉廩もまだ満ちておりません。車駕が東巡しますと、千乗の車や一万の騎兵が随従し、その労役は大変なもの、容易にはできません。それに陛下が封禅すれば、万国から人々を集めなければなりません。遠夷の君長達も付き従います。今、伊、洛から東は海、岱へ至るまで、炊煙は稀にしか挙がらず草木もはえないような土地もございます。ここへ狄・戎を引き入れるのは、彼等へ我が国の虚弱さを示すようなものです。ましてや遠くから来賓を招くのならば賞さなければ徳望をなくしてしまいます。その費用をはじき出すために、百姓達は何年間労役に苦しむのでしょうか。虚名を崇えて実害を受けるようなことを、どうして陛下はなされるのですか!」
 やがて、河南と河北の数州で大水が起こったので、封禅の件は沙汰止みとなった。
 上將幸九成宮,通直散騎常侍姚思廉諫。上曰:「朕有氣疾,暑輒頓劇,往避之耳。」賜思廉絹五十匹。
  監察御史馬周上疏,以爲:「東宮在宮城之中,而大安宮乃在宮城之西,制度比於宸居,尚爲卑小,於四方觀聽,有所不足。宜增修高大,以稱中外之望。又,太上皇春秋已高,陛下宜朝夕視膳。今九成宮去京師三百餘里,太上皇或時思念陛下,陛下何以赴之?又,車駕此行,欲以避暑;太上皇尚留暑中,而陛下獨居涼處,温凊之禮,竊所未安。今行計已成,不可復止,願速示返期,以解衆惑。又,王長通、白明達皆樂工,韋槃提、斛斯正止能調馬,縱使技能出衆,正可賚之金帛,豈得超授官爵,鳴玉曳履,與士君子比肩而立,同坐而食,臣竊恥之!」上深納之。
4.上が九成宮へ御幸しようとしたら、通直散騎常侍姚思廉が諫めた。上は言った。
「気分が優れず、熱さが堪らなくこたえるのだ。これを避けに行くだけだ。」
 そして、思廉へ絹五十匹を賜下した。
 観察御史馬周が上疏した。その大意は、
「東宮は宮城の中にありますが、大安宮は宮城の西にあります。皇宮の制度と比べますと、まだ卑小で、四方からの観聴には手狭です。もっと高く広く増築改修して、中外の望みに応えましょう。また、太上皇は御高齢です。陛下は朝夕にご様子を見られますよう。今、九成宮は、京師から三百里も離れております。太上皇が陛下に会いたくなった時、陛下はそのたび駆けつけますか?また、今回の御幸は避暑に過ぎないとのことですが、太上皇をこの暑い中へ置き去りにして陛下一人涼しい場所で暮らすなど、温清の礼から見て心が安まらないと思われます。既に御幸の計画ができていて中止できないと言うのでしたら、どうか速やかに帰ってきて、衆惑を解いてください。また、王長通や白明達は楽工で、韋槃堤や斛斯正は馬の調教しかできません。たとえその技量が衆人より秀でていたとしても、金帛を賜下すれば済むことです。制度以上の官爵を授けられ、玉を鳴らし裾を引きずり、士君子と肩を並べて立ち同席して食するなど、臣はこれを恥ずかしく思っておりますぞ!」
 上は、深くこれを納れた。
 上以新令無三師官,二月,丙戌,詔特置之。
5.新令には三師官がなかった。二月、丙戌、上は詔して特にこれを設置した。
 三月,戊辰,上幸九成宮。
6.三月、戊辰、上は九成宮へ御幸した。
 庚午,吐谷渾寇蘭州,州兵撃走之。
7.庚午、吐谷渾が蘭州へ来寇したが、州兵が撃退した。
 長樂公主將出降,上以公主,皇后所生,特愛之,敕有司資送倍於永嘉長公主。魏徴諫曰;「昔漢明帝欲封皇子,曰:『我子豈得與先帝子比!』皆令半楚、淮陽。今資送公主,倍於長主,得無異於明帝之意乎!」上然其言,入告皇后。后歎曰:「妾亟聞陛下稱重魏徴,不知其故,今觀其引禮義以抑人主之情,乃知眞社稷之臣也!妾與陛下結髪爲夫婦,曲承恩禮,毎言必先候顏色,不敢輕犯威嚴;況以人臣之疏遠,乃能抗言如是,陛下不可不從。」因請遣中使齎錢四百緡、絹四百匹以賜徴,且語之曰:「聞公正直,乃今見之,故以相賞。公宜常秉此心,勿轉移也。」上嘗罷朝,怒曰:「會須殺此田舎翁。」后問爲誰,上曰:「魏徴毎廷辱我。」后退,具朝服立于庭,上驚問其故。后曰:「妾聞主明臣直;今魏徴直,由陛下之明故也,妾敢不賀!」上乃悅。
8.長楽公主の下嫁も間近になった。公主は皇后の生んだ娘だったので、上は特に彼女を愛しており、嫁入り道具は永嘉長公主の倍張り込むと、敕を出した。魏徴が諫めた。
「昔、漢の明帝が皇子を封じようとした時、言われました。『我が子が、どうして先帝の子と肩を並べられようか!』そして、楚王や淮陽王の半分の領土に封じたのです。今、公主の嫁入り道具が長主の倍になっていますが、明帝とはなんと心がけの違うことでしょうか!」
 上はその言葉に納得し、入って皇后へ告げた。すると后は感嘆して言った。
「陛下が魏徴を重んじていることは、つねづね妾も聞き知っていましたが、その理由までは知りませんでした。今、礼儀を挽いて人主のわがままを抑えたことを見て、ほんとうに社稷の臣だと知りましたわ!妾と陛下は夫婦で、誰よりも愛されていますけれども、それでも話す前に陛下の顔色を窺い、軽々しく機嫌を損ねることのないように気を遣ってしまいます。ましてや臣下ならばもっと疎遠ですのに、よくこのように正論をはけるものです。陛下も従わずにはいられませんわね。」
 そして、魏徴の元へ使者を遣って銭四百緡、絹四百匹を賜下するよう請い、かつ、彼へ言った。
「公が剛直だと聞いておりましたが、今、これを目の当たりに見ましたので、賞しました。公はその心を大切にして、けしてなくさないでください。」
 ある時、上は朝廷から中座して怒って言った。
「この田舎爺を殺してくれよう。」
 后が理由を聞くと、上は言った。
「魏徴が、朝廷のたびに我を辱めるのだ。」
 すると、后は退出し、朝廷での正装で庭に立った。上が驚いて理由を問うと、后は言った。
「『主君が聡明ならば臣下は剛直になる』と、妾は聞いています。今、魏徴が剛直だと聞きましたが、これは陛下が聡明な証拠です。妾がどうして祝賀せずにいられましょうか!」
 上は悦んだ。
 夏,四月,辛卯,襄州都督鄒襄公張公謹卒。明日,上出次發哀。有司奏,辰日忌哭。上曰:「君之於臣,猶父子也,情發於衷,安避辰日!」遂哭之。
9.夏、四月、辛卯。襄州都督鄒襄公張公謹が卒した。翌日、上は出次して哀悼した。すると役人が、辰の日は哭を忌むと上奏したが、上は言った。
「臣下と主君は、親子のようなものだ。真情から衷が出るのに、なんで辰の日を避けられようか!」
 ついに、彼の為に哭した。
 10六月,己亥,金州刺史鄷悼王元亨薨。辛亥,江王囂薨。
10.六月、己亥、金州刺史鄷悼王元亨が薨じた。
 辛亥、江王囂が薨じた。
 11秋,七月,丙辰,焉耆王突騎支遣使入貢。初,焉耆入中國由磧路,隋末閉塞,道由高昌;突騎支請復開磧路以便往來,上許之。由是高昌恨之,遣兵襲焉耆,大掠而去。
11.秋、七月、丙辰。焉耆王突騎支が使者を派遣して入貢した。
 もともと焉耆は、磧路経由で中国へ来ていたが、隋末にこの通路が塞がってしまい、高昌を経由して中国へ来るようになっていた。突騎支は、従来の磧路を開通させて往来の便を図りたいと請願し、上はこれを許した。
 これによって高昌は焉耆を恨み、兵を出してこれを襲撃し、大いに掠奪して去った。
 12辛未,宴三品已上於丹霄殿。上從容言曰:「中外乂安,皆公卿之力。然隋煬帝威加夷、夏,頡利跨有北荒,統葉護雄據西域,今皆覆亡,此乃朕與公等所親見,勿矜強盛以自滿也!」
12.辛未、三品以上の者と丹霄殿にて宴会を開いた。上はくつろいで、言った。
「中外が平和なのも、皆、公卿の力だ。だが、隋の夷、夏に威勢を表した煬帝も、北荒に誇った頡利も、西域に雄據した統葉護も、今や全て亡んでしまった。これは、朕も公等も目の当たりに見たことだ。強勢に驕って慢心してはならないぞ!」
 13西突厥肆葉護可汗發兵撃薛延陀,爲薛延陀所敗。
  肆葉護性猜狠信讒,有乙利可汗,功最多,肆葉護以非其族類,誅滅之,由是諸部皆不自保。肆葉護又忌莫賀設之子泥孰,陰欲圖之,泥孰奔焉耆。設卑達官與弩失畢二部攻之,肆葉護輕騎奔康居,尋卒。國人迎泥孰於焉耆而立之,是爲咄陸可汗,遣使内附。丁酉,遣鴻臚少卿劉善因立咄陸爲奚利邲咄陸可汗。
13.西突厥の肆葉護可汗が出兵して薛延陀を攻撃したが、敗北した。
  肆葉護は猜疑心が強くて暴戻で讒言を信じやすい人間。西突厥の小可汗では、乙利可汗が最も功績が多かったが、彼は肆葉護の一族ではなかったので、誅殺してしまった。これによって諸部の心はバラバラになった。肆葉護は又、莫賀設の子の泥孰を忌み、密かに殺そうと考えていたので、泥享は焉耆へ亡命した。
 設卑達官と弩失畢の二部がこれを攻撃し、肆葉護は軽騎で康居へ亡命して、客死した。すると国人は焉耆から泥享を迎え入れて擁立した。これが咄陸可汗である。咄陸は唐へ使者を派遣して内附した。
 丁酉、鴻臚少卿劉善因を派遣して、咄陸を立てて奚利邲咄陸可汗とした。
 14閏月,乙卯,上宴近臣於丹霄殿,長孫無忌曰;「王珪、魏徴,昔爲仇讎,不謂今日得此同宴。」上曰:「徴、珪盡心所事,故我用之。然徴毎諫,我不從,我與之言輒不應,何也?」魏徴對曰:「臣以事爲不可,故諫;陛下不從而臣應之,則事遂施行,故不敢應。」上曰:「且應而復諫,庸何傷!」對曰:「昔舜戒羣臣:『爾無面從,退有後言。』臣心知其非而口應陛下,乃面從也,豈稷、契事舜之意邪!」上大笑曰:「人言魏徴舉止疏慢,我視之更覺娬媚,正爲此耳!」徴起,拜謝曰:「陛下開臣使言,故臣得盡其愚;若陛下拒而不受,臣何敢數犯顏色乎!」
14.閏月、乙卯。上が近臣と丹霄殿にて宴会を開いた。長孫無忌か言った。
「王珪や魏徴は、昔は仇敵でした。それでも今日のような宴会で共に楽しまれるのですね。」
 上は言った。
「徴と珪は心を尽くして仕えてくれるから、我は彼等を用いているのだ。だが魏徴は、我が諫められても従わない時には、絶対我の言葉に応じない。何故かな?」
 魏徴は答えた。
「臣は、いけないと思うから諫めるのです。陛下がそれに従わないのに臣がこれに応じては、ズルズルと遂行されてしまうではありませんか。ですから敢えて動かないのです。」
 上は言った。
「応じながら再び諫めても良いではないか!」
「昔、舜が群臣を戒めました。『お前達、面従しながら退出した後に陰口をたたいたりしてはならない。』と。臣が心ではその非を知りながら口では陛下に応じたのでは、面従であります。これは稷や契が舜に仕えたやり方ではありませんか!」
 上は大笑いして言った。
「人々は、魏徴は挙止をないがしろにしていると言っていたが、我は艶やかな美しさを感じていた。挙止の底に流れる想いを感じ取っていたせいだ!」
 徴は立って、拝謝して言った。
「陛下が臣の言葉を採ってくださいますので、臣も愚かな想いを尽くせるのです。陛下が拒んで受けなければ、臣は敢えて顔色を犯すようなことを、どうしていたしましょうか!」
 15戊辰,秘書少監虞世南上聖德論,上賜手詔,稱:「卿論太高。朕何敢擬上古,但比近世差勝耳。然卿適覩其始,未知其終。若朕能愼終如始,則此論可傳;如或不然,恐徒使後世笑卿也。」
15.戊辰、秘書少監虞世南が「聖徳論」を献上した。上は自ら詔を書いて賜下する。
「卿の論は高すぎる。朕がどうして上古の聖人達になぞらえたりしようか。近世の主君より頭一つ抜け出しているだけだ。しかも、今日はその始まりを見ただけで、どのように終わるか知らない。もし、朕が最後までこのまま慎んでいたら、この論も後世へ伝える価値があるが、そうでなければ、卿は後世の人々から笑われてしまうぞ!」
 16九月,己酉,幸慶善宮,上生時故宅也,因與貴臣宴,賦詩。起居郎清平呂才被之管弦,命曰功成慶善樂,使童子八佾爲九功之舞,大宴會,與破陳舞偕奏於庭。同州刺史尉遲敬德預宴,有班在其上者,敬德怒曰:「汝何功,坐我上!」任城王道宗次其下,諭解之。敬德拳毆道宗,目幾眇。上不懌而罷,謂敬德曰:「朕見漢高祖誅滅功臣,意常尤之,故欲與卿等共保富貴,令子孫不絶。然卿居官數犯法,乃知韓、彭葅醢,非高祖之罪也。國家綱紀,唯賞與罰,非分之恩,不可數得,勉自修飭,無貽後悔!」敬德由是始懼而自戢。
16.九月、己酉、慶善宮へ御幸した。ここは、上の生家である。そこで、貴人と共に宴会を開き、詩を賦した。起居郎の清平の呂才がメロディーを付けた。功成慶善楽と命名される。童子八人に九功の舞を舞ませ、大宴会が開かれ、庭にては破陣舞が演じられた。
 同州刺史尉遅敬徳が、この宴会に参加していたが、上座へ据えられた者がいたので、怒って言った。
「お前はどんな功績があって、我の上座へ座るのか!」
 任城王道宗がその下座に座っていたので、これをなだめたところ、敬徳は道宗を殴りつけ、おかげで道宗の目が腫れ上がってしまった。
 上は気分を害して宴会を中止し、敬徳へ言った。
「朕は、漢の高祖が功臣達を誅殺したのを聞き、いつもこれを咎めていた。だから、卿等と共に、子々孫々まで富貴を保ちたかったのだ。だが、卿が官に居って屡々法を犯すのを見て、韓信や彭越が死刑になったのも高祖の罪ではないと判った。国の綱紀は、ただ賞と罰によってのみ保たれる。恩愛によって何度も目をつぶることはできないのだ。勤めて自らの行いを修め、後悔するような羽目に陥るな!」
 敬徳は、これによって始めて懼れ、自ら行いを抑えるようになった。
 17冬,十月,乙卯,車駕還京師。帝侍上皇宴於大安宮,帝與皇后更獻飲膳及服御之物,夜久乃罷。帝親爲上皇捧輿至殿門,上皇不許,命太子代之。
17.冬、十月、乙卯。車駕が京師へ帰った。帝は大安宮にて上皇に侍って宴会をした。帝と皇后は更に飲食や衣服を献上して、夜遅くまで宴会は続いた。帝は、自ら上皇の輿を担いで殿門までゆきたがったが、上皇は許さず、その役は太子に命じた。
 18突厥頡利可汗鬱鬱不得意,數與家人相對悲泣,容貌羸憊。上見而憐之,以虢州地多麋鹿,可以游獵,乃以頡利爲虢州刺史;頡利辭,不願往。癸未,復以爲右衞大將軍。
18.突厥の頡利可汗は鬱々としていた。家人と共に泣き崩れることも屡々で、容貌もやつれきってしまった。上はこれを見て憐れんだ。虢州には麋や鹿が多く、狩猟には打ってつけの土地なので、上は頡利を虢州刺史にしてやったが、頡利は行きたがらず、これを辞退した。
 癸未、頡利を右衛大将軍に任命した。
 19十一月,辛巳,契苾酋長何力帥部落六千餘家詣沙州降,詔處之於甘、涼之間,以何力爲左領軍將軍。
19.十一月、辛巳、契苾の酋長何力が部落六千余家を率いて沙州へ行き、降伏した。彼等を甘、涼の間へ住ませ、何力を左領軍将軍とするよう詔が降りる。
 20庚寅,以左光祿大夫陳叔達爲禮部尚書。帝謂叔達曰:「卿武德中有讜言,故以此官相報。」對曰:「臣見隋室父子相殘,以取亂亡,當日之言,非爲陛下,乃社稷之計耳!」
20.庚寅、左光禄大夫陳叔達を礼部尚書とする。帝は叔達へ言った。
「卿は武徳年間に直言をしたので、この官職で報いるのだ。」
 対して言った。
「臣は隋室で親子が殺し合い国を滅ぼしてしまったのを見ています。あの日の言葉は、陛下の為だけではなく、社稷の計でもあるのです!」
 21十二月,癸丑,帝與侍臣論安危之本。中書令温彦博曰:「伏願陛下常如貞觀初,則善矣。」帝曰:「朕比來怠於為政乎?」魏徴曰:「貞觀之初,陛下志在節儉,求諫不倦。比來營繕微多,諫者頗有忤旨,此其所以異耳!」帝拊掌大笑曰:「誠有是事。」
21.十二月、癸丑。帝は侍臣と安危の大本について論じた。すると、中書令温彦博が言った。
「陛下が常に貞観の初期の頃であるように、伏してお願い申し上げます。そうすれば、大丈夫です。」
 帝は言った。
「朕はこのごろ政に怠け始めたかな?」
 魏徴が言った。
「貞観の初めは、陛下は節倹を心がけ、諫言を求めて止みませんでした。ところがこの頃では、宮殿の改修が多く、諫言を受けると怒りの色が顔に現れております。ここの所が変わってまいりました。」
 帝は手を打って大笑いした。
「全くその通りだ。」
 22辛未,帝親録繋囚,見應死者,閔之,縱使歸家,期以來秋來就死。仍敕天下死囚,皆縱遣,使至期來詣京師。
22.辛未、帝は自ら囚人の記録を見た。死刑囚を憐れに思い、来年秋に帰ってきて死刑を執行されることを条件に、彼等を家へ帰してやった。そして、天下の死刑囚も全て、一時帰宅させるよう敕した。ただし、期限が来たら、京師へ集まることが、その条件だった。
 23是歳,党項羌前後内屬者三十萬口。
23.この年、党項羌が前後して三十万人、唐へ内附した。
 24公卿以下請封禪者前後相屬,上諭以「舊有氣疾,恐登高增劇,公等勿復言。」
24.公卿以下、封禅を請願する者が相継いだ。上は、彼等を諭して、言った。
「昔から病気持ちだったが、高山へ登れば益々悪化するかもしれない。公等、もうこの件は口にするな。」
 25上謂侍臣曰:「朕比來決事或不能皆如律令,公輩以爲事小,不復執奏。夫事無不由小而致大,此乃危亡之端也。昔關龍逄忠諫而死,朕毎痛之。煬帝驕暴而亡,公輩所親見也。公輩常宜爲朕思煬帝之亡,朕常爲公輩念關龍逄之死,何患君臣不相保乎!」
25.上が侍臣へ言った。
「朕が決裁したことが、或いは律令に触れているかも知れない。公輩は、それと判っても、些細なことならば復奏しないで流してしまう。しかし、事は些細なことから大きくなって行く。これこそ危亡の端緒である。昔、関龍逢が忠義から諫言して死んだ。朕はいつもこれを痛ましく思う。煬帝が驕慢暴虐で国を滅ぼしたことは、公輩もその目で見たことだ。公輩が常に朕の為に煬帝の滅亡を思い、朕は常に公輩の為に関龍逢の死を念じれば、君臣に溝ができることどうして起ころうか!」
 26上謂魏徴曰:「爲官擇人,不可造次。用一君子,則君子皆至;用一小人,則小人競進矣。」對曰:「然。天下未定,則專取其才,不考其行;喪亂既平,則非才行兼備不可用也。」
26.上が魏徴へ言った。
「官の人選は、間に合わせではいけない。一人の君子を用いれば君子が大勢やって来るし、一人の小人を用いれば、小人達が競って集まってくる。」
 対して言った。
「その通りです。天下が定まらない時には、専ら才覚で人を選び品行を考えませんでしたが、騒乱は既に平定しました。才品兼備の者でなければ用いてはなりません。」

七年(癸巳、六三三)

 春,正月,更名破陳樂曰七德舞。癸巳,宴三品已上及州牧、蠻夷酋長於玄武門,奏七德、九功之舞。太常卿蕭瑀上言:「七德舞形容聖功,有所未盡,請寫劉武周、薛仁果、竇建德、王世充等擒獲之状。」上曰:「彼皆一時英雄,今朝廷之臣往往嘗北面事之,若覩其故主屈辱之状,能不傷其心乎!」瑀謝曰:「此非臣愚慮所及。」魏徴欲上偃武修文,毎侍宴,見七德舞輒俛首不視,見九功舞則諦觀之。
1.春、正月。「破陣舞」を、「七徳舞」と改名する。
 癸巳、三品以上及び州牧、蛮夷の酋長と玄武門で宴をし、七徳、九功の舞を奏でる。
 太常卿蕭瑀が上言した。
「七徳舞での聖功の形容には、不備なところがあります。どうか、劉武周、薛仁果、竇建徳、王世充等を捕らえたときの有様を取り入れてください。」
 上は言った。
「彼等は皆、一時の英雄だ。今の朝廷の臣下にも、彼等へ北面して仕えた者は大勢居る。もしもかつての主君の屈辱の有様を見せつけられたら、心を痛めずにはいられないではないか!」
 瑀は謝って、言った。
「これは臣の愚慮の及ぶところではありません。」
 魏徴は、上へ武を抑えて文を修めて欲しかったので、宴会にて七徳舞が舞われたら首をうなだれたまま見もしないで、九功舞が舞われたらこれをじっくりと観覧した。
 三月,戊子,侍中王珪坐漏泄禁中語,左遷同州刺史。庚寅,以秘書監魏徴爲侍中。
2.三月、戊子、侍中王珪が、禁中の会話を漏洩したとして、同州刺史へ左遷された。
 庚寅、秘書監魏徴が侍中となった。
 直太史雍人李淳風奏靈臺候儀制度疏略,但有赤道,請更造渾天黄道儀,許之。癸巳,成而奏之。
3.直太史雍の人李淳風が霊台の候儀制度が疎略で、ただ赤道があるだけだと上奏し、渾天黄道儀も整備するよう請願し、これを許されていた。
 癸巳、これが完成したと報告した。
(天文学の観測器具でしょう。暦を作ったり、天候を予測する為に必要な器具を整備したとゆうのは判りますが、今まで設置していた器具と今回整備した器具の各々の用途=「この頃の天文技術の水準」については、どなたかに解説して欲しいものです。)
 夏,五月,癸未,上幸九成宮。
4.夏、五月。癸未、上は九成宮へ御幸した。
 雅州道行軍總管張士貴撃反獠,破之。
5.雅州道行軍総管張士貴が造反した獠を攻撃して、これを破った。
 秋,八月,乙丑,左屯衞大將軍譙敬公周範卒。上行幸,常令範與房玄齡居守。範爲人忠篤嚴正,疾甚,不肯出外,竟終於内省,與玄齡相抱而訣曰:「所恨不獲再奉聖顏!」
6.秋、八月、乙丑、左屯衞大将軍譙敬公周範が卒した。
 上は御幸する時、常に範と房玄齢に留守を任せていた。範は、忠篤厳正な為人で、病気が重くなってからは外出もせずに、遂に内省にてみまかった。死ぬ時に、房玄齢と抱き合って、決別の言葉を述べた。
「再び聖顔を拝謁できないことだけが恨めしい!」
 辛未,以張士貴爲龔州道行軍總管,使撃反獠。
7.辛未、張士貴を龔州道行軍総管として、造反した獠を攻撃させた。
 九月,山東、河南四十餘州水,遣使賑之。
8.九月、山東、河南の四十余州が大水に遭ったので、使者を派遣して救済させた。
 去歳所縱天下死囚凡三百九十人,無人督帥,皆如期自詣朝堂,無一人亡匿者;上皆赦之。
9.去年、天下の死刑囚凡そ三百九十人を放免したが、期限が来ると、監督する者もいないのに、彼等は自ら朝堂へ集まって来て、一人も逃げだした者はいなかった。上は、彼等を皆赦した。(このまま釈放してやったのか、それとも死罪を赦して数年の懲役にしたのか、どっちなのだろうか?少し気になったので新唐書の「刑法志」も参照してみましたが、判別つきませんでした。)
 10冬,十月,庚申,上還京師。
10.冬、十月、庚申、上は京師へ帰った。
 11十一月,壬辰,以開府儀同三司長孫無忌爲司空,無忌固辭,曰:「臣忝預外戚,恐天下謂陛下爲私。」上不許,曰:「吾爲官擇人,惟才是與。苟或不才,雖親不用,襄邑王神符是也;如其有才,雖讎不棄,魏徴等是也。今日所舉,非私親也。」
11.十一月、壬辰、開府儀同三司長孫無忌を司空にした。無忌は固辞して言った。
「臣は忝なくも外戚となっております。天下の人々が陛下のことを情実で登庸したと譏るのではないかと心配なのです。」
 しかし、上は許さず、言った。
「我は、官職に人を選ぶ時、ただ才覚だけを問うのだ。いやしくも不才ならば、親戚でも用いない。襄邑王神符がそれだ。才覚が有れば、仇敵でも厭わない。魏徴がこれだ。今回推挙したのは、情実ではない。」
 12十二月,甲寅,上幸芙蓉園;丙辰,校獵少陵原。戊午,還宮,從上皇置酒故漢未央宮。上皇命突厥頡利可汗起舞,又命南蠻酋長馮智戴詠詩,既而笑曰:「胡、越一家,自古未有也!」帝奉觴上壽曰:「今四夷入臣,皆陛下教誨,非臣智力所及。昔漢高祖亦從太上皇置酒此宮,妄自矜大,臣所不取也。」上皇大悅。殿上皆呼萬歳。
12.十二月、甲寅、上が芙蓉園へ御幸した。
 丙辰、少陵原にて狩猟をした。
 戊午、宮殿へ帰った。もとの漢の未央宮にて、上皇に従って酒を飲んだ。上皇は、突厥の頡利可汗へ舞を舞うよう命じ、また、南蛮の酋長の馮智戴へ詩を詠ませた。その後、笑って言った。
「胡と越が一家となった。こんな事は古来はじめてだ!」
 上は杯を奉って上寿し、言った。
「今、四夷が入臣したのは、皆、陛下の遺徳であり、臣の智力の及ぶところではございません。昔、漢の高祖も太上皇に従って、この宮で酒を飲みましたが、彼はその時、妄りに功績を誇りました。臣は敢えてその様なことは致しません。」
 上皇は大いに悦んだ。伝襄の者は、皆、万歳と唱えた。
 13帝謂左庶子于志寧、右庶子杜正倫曰:「朕年十八,猶在民間,民之疾苦情偽,無不知之。及居大位,區處世務,猶有差失。況太子生長深宮,百姓艱難,耳目所未渉,能無驕逸乎!卿等不可不極諫!」太子好嬉戲,頗虧禮法,志寧與右庶子孔穎達數直諫,上聞而嘉之,各賜金一斤,帛五百匹。
13.帝が左庶子于志寧と右庶子杜正倫へ言った。
「朕は十八まで民間にいたので、民の苦しみや患い、感情や偽りまで知らぬものはなかったが、大位についてから世務を執っていると、それでもなお、いろいろな過失を起こしてしまう。ましてや太子は深宮で生まれ育ち、百姓の艱難など耳目にも触れないでいて、どうして驕逸にならずにすむだろうか!卿等、極諫せねばならぬぞ!」
 太子は遊び好きで礼法に無頓着だった。志寧と右庶子孔穎達は屡々直諫した。上はこれを聞いて嘉し、各々へ金一斤、絹五百匹を賜下した。
 14工部尚書段綸奏徴巧工楊思齊,上令試之。綸使先造傀儡。上曰:「得巧工庶供國事,卿令先造戲具,豈百工相戒無作淫巧之意邪!」乃削綸階。
14.工部尚書段綸が、楊思斉とゆう細工の名人を徴用するよう上奏した。そこで上が、その腕を試させると、綸はからくり人形を造らせた。上は言った。
「巧工を得たならば国事に役立てるべきなのに、卿はまっさきにオモチャを造らせた。これでは百工は小細工を弄することばかり持てはやすようになるではないか!」
 そして綸の階を削った。
 15嘉、陵州獠反,命邗江府統軍牛進達撃破之。
15.嘉、陵州の獠が造反した。邗江府統軍牛進達へ命じて撃破させた。
 16上問魏徴曰:「羣臣上書可采,及召對多失次,何也?」對曰:「臣觀百司奏事,常數日思之,及至上前,三分不能道一。況諫者拂意觸忌,非陛下借之辭色,豈敢盡其情哉!」上由是接羣臣辭色愈温,嘗曰:「煬帝多猜忌,臨朝對羣臣多不語。朕則不然,與羣臣相親如一體耳。」
16.上が魏徴へ問うた。
「群臣の上書に採るべき内容のものがあっても、いざ召し出して話させてみると、大したことがない場合が多い。どうしてかな?」
 魏徴は答えた。
「臣の見るところ、百司は上奏する時、常に数日その事ばかりに思いを巡らせながらも、上の前に出ると三分の一も口にできません。ましてや諫める者はいつ逆鱗に触れるかとビクビクものです。陛下が顔色に気を付けなければ、なんで真情を尽くすことができましょうか!」
 これ以来上は、群臣と接する時に、いよいよ温和な顔つきとなった。
 上は常に言う、
「煬帝は猜疑が多く朝廷へ臨んでも群臣へ対して多くを語らなかった。朕はそうではないぞ。群臣とは一体のように親しんでおる。」
八年(甲午、六三四)

 春,正月,癸未,突厥頡利可汗卒。命國人從其俗,焚尸葬之。
1.春、正月。癸未、突厥の頡利可汗が卒した。国人へ、彼等の風俗へ則って火葬するよう命じた。
 辛丑,行軍總管張士貴討東、西王洞反獠,平之。
2.辛丑、行軍総管張士貴が、東、西王洞の造反した獠を討って、平定した。
 上欲分遣大臣爲諸道黜陟大使,未得其人;李靖薦魏徴。上曰:「徴箴規朕失,不可一日離左右。」乃命靖與太常卿蕭瑀等凡十三人分行天下,「察長吏賢不肖,問民間疾苦,禮高年,賑窮乏,起久淹,俾使者所至,如朕親覩。」
3.上は、大臣を諸道へ派遣して、地方官達を査定させたかったが、適切な人材がいなかった。李靖が魏徴を推薦すると、上は言った。
「徴には我が過失を指摘補整して貰わねばならぬから、一日として側を離せないのだ。」
 そして、靖と太常卿蕭瑀等およそ十三人へ天下へ分行するよう命じた。
「長吏の賢不肖を察し、民間の疾苦を問い、老人へ礼を尽くし、窮乏したものを救済し、志得ないものを抜擢し、俾使の行ったところは朕が観たかの如くせよ。」
 三月,庚辰,上幸九成宮。
4.三月、庚辰、上が九成宮へ御幸した。
 夏,五月,辛未朔,日有食之。
5.夏、五月。辛未、日食が起こった。
 初,吐谷渾可汗伏允遣使入貢,未返,大掠鄯州而去。上遣使讓之,徴伏允入朝,稱疾不至,仍爲其子尊王求婚;上許之,令其親迎,尊王又不至,乃絶婚,伏允又遣兵寇蘭、廓二州。伏允年老,信其臣天柱王之謀,數犯邊;又執唐使者趙德楷,上遣使諭之,十返;又引其使者,臨軒親諭以禍福,伏允終無悛心。六月,遣左驍衞大將軍段志玄爲西海道行軍總管,左驍衛將軍樊興爲赤水道行軍總管,將邊兵及契苾、党項之衆以撃之。
6.はじめ、吐谷渾の伏允可汗が使者を派遣して入貢したが、彼が未だ帰国しない内に、鄯州にて大いに掠めて去った。上は使者を派遣して略奪行為については赦してやり、伏允へ入朝を命じた。伏允は病気と称して来朝しなかったが、息子の尊王の為に通婚を求めた。上はこれを許し、自ら迎えに来るよう命じたが、尊王も又来朝しなかったので、婚姻は頓挫した。伏允は、また派兵して、蘭、廓二州へ来寇した。
 伏允は年老いており、その臣の天柱王の謀略を信じ、屡々唐の辺境を侵した。又、唐の使者趙徳楷を捕らえた。この時は、上が使者を派遣して説諭すること十回、ようやく返還した。上は吐谷渾の使者を謁見して自ら禍福を以て諭したが、伏允は遂に改悛しなかった。
 六月、左驍衛大将軍段志玄を西海道行軍総管、左驍衛将軍樊興を赤水道行軍総管に任命し、辺境の兵と契苾、党項軍を率いてこれを攻撃させた。
 秋,七月,山東、河南、淮、海之間大水。
7.秋、七月。山東、河南、淮、海の地域が大水に見舞われた。
 上屢請上皇避暑九成宮,上皇以隋文帝終於彼,惡之。冬,十月,營大明宮,以爲上皇清暑之所。未成而上皇寢疾,不果居。
8.上は、しばしば上皇へ、九成宮へ避暑へ行くよう勧めたが、上皇は、隋の文帝がそこで崩御したので縁起が悪いとして行かなかった。そこで、冬、十月、上皇の避暑の為に大明宮を造営する。だが、完成前に上皇は病気に伏してしまい、住むことができなかった。
 辛丑,段志玄撃吐谷渾,破之,追奔八百餘里,去青海三十餘里,吐谷渾驅牧馬而遁。
9.辛丑、段志玄が吐谷渾を攻撃し、これを撃破。八百余里追い散らし、青海から三十余里の所まで去らせた。吐谷渾は牧馬を駆り立てて逃げた。
 10甲子,上還京師。
10.甲子、上が京師へ戻った。
 11右僕射李靖以疾遜位,許之。十一月,辛未,以靖爲特進,封爵如故,祿賜、吏卒並依舊給,俟疾小瘳,毎三兩日至門下、中書平章政事。
11.右僕射李靖が病気を理由に退職を願い出、許された。
 十一月、辛未、靖を特進とした。封爵はもとのままで、俸禄や吏卒も旧給通り。病状が癒えるのを待って、三両日ごとに門下へ出仕し中書平章として政治を見るよう命じた。
 12甲申,吐蕃贊普棄宗弄讚遣使入貢,仍請婚。吐蕃在吐谷渾西南,近世浸強,蠶食他國,土宇廣大,勝兵數十萬,然未嘗通中國。其王稱贊普,俗不言姓,王族皆曰論,宦族皆曰尚。棄宗弄讚有勇略,四鄰畏之。上遣使者馮德遐往慰撫之。
12.甲申、吐蕃の贊普棄宗弄讚が使者を派遣して入貢し、通婚を請うた。
 吐蕃は吐谷渾の西南にあり、最近強盛になってきた。他国を蚕食して国土を広げ、兵力は十万と喧伝していたが、いままで中国との国交はなかった。その王は贊普と称し、風俗として姓を呼ばない。王族は皆「論」と言い、宦族は皆、「尚」と言う。棄宗弄讚には勇吉と知略があり、四隣はこれを畏れていた。
 上は馮徳遐を使者として派遣し、これを慰撫した。
 13丁亥,吐谷渾寇涼州。己丑,下詔大舉討吐谷渾。上欲得李靖爲將,爲其老,重勞之。靖聞之,請行;上大悅。十二月,辛丑,以靖爲西海道行軍大總管,節度諸軍。兵部尚書侯君集爲積石道、刑部尚書任城王道宗爲鄯善道、涼州都督李大亮爲且末道、岷州都督李道彦爲赤水道、利州刺史高甑生爲鹽澤道行軍總管,并突厥、契苾之衆撃吐谷渾。
13.丁亥、吐谷渾が涼州へ入寇した。己丑、大挙して吐谷渾を撃つよう詔が降る。
 上は李靖を将軍にしたがったが、彼が老齢なので気を遣っていた。すると李靖がこれを聞きつけ、行軍を請うた。上は大いに悦ぶ。
 十二月、辛丑。靖を西海道行軍大総管、節度諸軍とする。兵部尚書侯君集を積石道、刑部尚書任城王道宗を鄯善道、涼州都督李大亮を且末道、岷州都督李道彦を赤水道、利州刺史高甑生を塩沢道行軍総管とし、突厥、契苾の衆と合流して吐谷渾を攻撃させた。
 14帝聘隋通事舎人鄭仁基女爲充華,詔已行,册使將發,魏徴聞其嘗許嫁士人陸爽,遽上表諫。帝聞之,大驚,手詔深自克責,命停册使。房玄齡等奏稱:「許嫁陸氏,無顯状,大禮既行,不可中止。」爽亦表言初無婚姻之議。帝謂徴曰:「羣臣或容希合;爽亦自陳,何也?」對曰:「彼以爲陛下外雖捨之,或陰加罪譴,故不得不然。」帝笑曰:「外人意或當如是。朕之言未能使人必信如此邪!」
14.帝は隋の通事舎人鄭仁基の娘を充華とした。詔が降りて使者を派遣しようとゆう段になって、彼女には陸爽とゆう許嫁者が居たとゆうことを魏徴が聞きつけ、上表して諫めた。帝はこれを聞いて大いに驚き、自ら詔を書いて深く自分を責め、勅使の派遣を中止した。
 房玄齢等が上奏した。
「許嫁の陸氏は口約束で、大礼は既に行われています。中止してはなりません。」
 爽もまた、婚約などしていなかったと上表した。
 帝は徴へ言った。
「群臣は我が希望を容れているし、爽もまたこのように言ってきた。どうするかな?」
 すると魏徴は言った。
「爽としては、陛下が上辺は受け入れてくれても、密かに罪へ陥れるかもしれないと考えたら、このように言うしかなかったのです。」
 帝は笑って言った。
「余人の思いも又、そうかも知れないな。朕の言葉は、これ程に、まだ他人からは信じられていなかったのか。」
 15中牟丞皇甫德參上言:「脩洛陽宮,勞人;收地租,厚斂;俗好高髻,蓋宮中所化。」上怒,謂房玄齡等曰:「德參欲國家不役一人,不收斗租,宮人皆無髪,乃可其意邪!」欲治其謗訕之罪。魏徴諫曰:「賈誼當漢文帝時上書,云『可爲痛哭者一,可爲流涕者二。』自古上書不激切,不能動人主之心,所謂狂夫之言,聖人擇焉,唯陛下裁察!」上曰:「朕罪斯人,則誰復敢言!」乃賜絹二十匹。他日,徴奏言:「陛下近日不好直言,雖勉強含容,非曩時之豁如。」上乃更加優賜,拜監察御史。
15.中牟丞の皇甫徳参が上言した。
「洛陽宮の改修で人は労役に苦しんでいます。地租は重すぎます。人々が高髻を好んでいるのは宮中の悪影響です。」
 上は怒り、房玄齢等へ言った。
「徳参は、一人の労役も出さず、無税にして、宮人を坊主にしなければ気が済まぬのか!」
 そして、政治誹謗罪にあてようとした。すると魏徴が諫めた。
「賈誼の、漢の文帝への上書文に、『一人が痛哭した時には、二人が流涕している。』とあります。昔から、上書は激切でなければ人主の心を動かすことはできないものです。いわゆる狂人の言葉なら、聖人は採りません。ただ陛下、お察しください!」
 上は言った。
「朕がこの人を罰したら、誰も上書しなくなるな!」
 そして、絹二十匹を賜下した。
 他日、魏徴が上奏した。
「陛下は最近直言を好まなくなられました。勤めて寛容に振る舞ってはおられますが、往時のようではなくなってしまいました。」
 上は皇甫徳参へ更に賜下品を増し、監察御史に任命した。
 16中書舎人高季輔上言:「外官卑品,猶未得祿,飢寒切身,難保清白,今倉廩浸實,宜量加優給,然後可責以不貪,嚴設科禁。又,密王元曉等皆陛下之弟,比見帝子拜諸叔,叔皆答拜,紊亂昭穆,宜訓之以禮。」書奏,上善之。
16.中書舎人李高輔が上言した。
「地方官の卑品は、俸禄を貰っていません。飢えや寒さに迫られたら、なんで清白を保てましょうか。今、官庫はようやく満ちてきました。彼等へ俸禄を与えるべきです。その後に汚職を禁じ、厳格な罰を与えることにしましょう。また、密王元暁等は皆、陛下の弟です。帝子が諸叔へ拝礼して、叔が皆答礼するべきです。昭穆の序列が乱れておりますので、礼を以て訓諭するべきでございます。」
 書が上奏され、上はこれを善とした。
 17西突厥咄陸可汗卒,其弟同娥設立,是爲沙鉢羅咥利失可汗。
17.西突厥の咄陸可汗が卒し、その弟の同娥設が立った。これが沙鉢羅咥利失可汗である。

九年(乙未、六三五)

 春,正月,党項先内屬者皆叛歸吐谷渾。三月,庚辰,洮州羌叛入吐谷渾,殺刺史孔長秀。
1.春、正月。今まで党項から内附していた者が、皆、造反して吐谷渾へ帰順した。
 三月庚辰、洮州の羌が造反して吐谷渾へ入り、刺史の孔長を殺した。
 壬辰,赦天下。
2.壬辰、天下へ恩赦を下す。
 乙酉,鹽澤道行軍總管高甑生撃叛羌,破之。
3.乙酉、塩沢道行軍総管高甑生が造反した羌を撃破した。
 庚寅,詔:民貲分三等未盡其詳,宜分九等。
4.庚寅、民貨が三等にしか分かれていないのは大雑把過ぎて不便なので、九等に分けよと詔が降りた。(「貲」とゆう文字が、辞書に載っていませんでした。「貨」の異字体かと思って訳しましたが、実際はどうなのか?判っている方、教えてください。)
 上謂魏徴曰:「齊後主、周天元皆重斂百姓,厚自奉養,力竭而亡。譬如饞人自噉其肉,肉盡而斃,何其愚也!然二主孰爲優劣?」對曰:「齊後主懦弱,政出多門;周天元驕暴,威福在己;雖同爲亡國,齊主尤劣也。」
5.上が魏徴へ言った。
「北斉の後主と北周の天元は、共に百姓へ重税を課して自分一人贅沢をしたが、その為に国力が疲弊して国を亡してしまった。これを喩えるならば、人が自分の肉を食べるようなものだ。肉が尽きれば死んでしまう。何と愚かなことではないか!だが強いて比べれば、どちらの方が、より愚かだろうか?」
 魏徴は答えた。
「斉の後主は惰弱で、側近達から良いように操られていました。周の天元は暴君で威福は全て自分で握っていました。同じように国を滅ぼしましたとはいえ、斉主は最も劣っています。」
 夏,閏四月,癸酉,任城王道宗敗吐谷渾於庫山。吐谷渾可汗伏允悉燒野草,輕兵走入磧。諸將以爲「馬無草,疲痩,未可深入。」侯君集曰:「不然。曏者段志玄軍還,纔及鄯州,虜已至其城下。蓋虜猶完實,衆爲之用故也。今一敗之後,鼠逃鳥散,斥候亦絶,君臣攜離,父子相失,取之易於拾芥。此而不乘,後必悔之。」李靖從之。中分其軍爲兩道:靖與薛萬均、李大亮由北道,君集與任城王道宗由南道。戊子,靖部將薛孤兒敗吐谷渾於曼頭山,斬其名王,大獲雜畜,以充軍食。癸巳,靖等敗吐谷渾於牛心堆,又敗諸赤水原。侯君集、任城王道宗引兵行無人之境二千餘里,盛夏降霜,經破邏眞谷,其地無水,人齕冰,馬噉雪。五月,追及伏允於烏海,與戰,大破之,獲其名王。薛萬均、薛萬徹又敗天柱王於赤海。
6.夏、閏五月、癸酉。任城王道宗が庫山にて吐谷渾を敗った。
 吐谷渾可汗の伏允は、野草を悉く焼き払い、軽騎で磧へ逃げ込んだ。
 諸将は言った。
「草がなければ馬は痩せ疲れます。深入りできません。」
 だが、侯君集は言った。
「そうではありません。かつて段志玄軍が軍を返した時、奴等は鄯州まで追いやられていたのに、今では城下へ迫っています。まだ余力があって、戦いもできるのです。今、奴等は一敗の後で鼠や鳥のように逃げ散っており、斥候さえおりません。君臣は離ればなれとなり、親子も互いに見失う有様。今なら奴等を捕らえるのも塵や埃を払うようものです。この機に乗じなければ、必ず後悔します。」
 李靖はこれに従った。軍を二つに分ける。靖と薛萬均、李大亮は北道から、君集と任城王道宗は南道から進む。
 戊子、靖の部将薛孤児が、曼頭山で吐谷渾を敗り、その名王を斬って沢山の家畜を捕らえ、軍食に充てた。
 癸巳、靖等が牛心堆にて吐谷渾を敗り、また、諸赤水源を敗る。
 侯君集、任城王道宗は、兵を率いて無人の土地を人背余里進軍した。この地方は、盛夏なのに霜が降りる。破邏真谷を経たが、この地には水がない。人々は氷を食べ、馬は雪を噛んだ。
 五月、伏允を烏海へ追い詰め、これと戦って大いに破り、その名王を捕らえる。
 薛萬均、薛萬徹もまた、赤海で天柱王を敗る。
 太上皇自去秋得風疾,庚子,崩於垂拱殿。甲辰,羣臣請上準遺誥視軍國大事,上不許。乙巳,詔太子承乾於東宮平決庶政。
7.太上皇は、去年の秋から体調を崩していたが、庚子、垂拱殿にて崩御した。
 甲辰、群臣は遺誥に準じて軍国の大事を見るよう上へ請うたが、上は許さなかった。
 乙巳、太子の承乾が東宮にて庶政を平決すると詔が降りた。
 赤水之戰,薛萬均、薛萬徹輕騎先進,爲吐谷渾所圍,兄弟皆中槍,失馬歩鬭,從騎死者什六七,左領軍將軍契苾何力將數百騎救之,竭力奮撃,所向披靡,萬均、萬徹由是得免。李大亮敗吐谷渾於蜀渾山,獲其名王二十人。將軍執失思力敗吐谷渾於居茹川。李靖督諸軍經積石山河源,至且末,窮其西境。聞伏允在突倫川,將奔于闐,契苾何力欲追襲之。薛萬均懲其前敗,固言不可。何力曰:「虜非有城郭,隨水草遷徙,若不因其聚居襲取之,一朝雲散,豈得復傾其巣穴邪!」自選驍騎千餘,直趣突倫川,萬均乃引兵從之。磧中乏水,將士刺馬血飲之。襲破伏允牙帳,斬首數千級,獲雜畜二十餘萬,伏允脱身走,俘其妻子。侯君集等進逾星宿川,至柏海,還與李靖軍合。
  大寧王順,隋氏之甥、伏允之嫡子也,爲侍中於隋,久不得歸,伏允立侍子爲太子,及歸,意常怏怏。會李靖破其國,國人窮蹙,怨天柱王;順因衆心,斬天柱王,舉國請降。伏允帥千餘騎逃磧中,十餘日,衆散稍盡,爲左右所殺。國人立順爲可汗。壬子,李靖奏平吐谷渾。乙卯,詔復其國,以慕容順爲西平郡王、趉故呂烏甘豆可汗。上慮順未能服其衆,仍命李大亮將精兵數千爲其聲援。
8.赤水の戦いで、薛萬均と薛萬徹は軽騎で先行し、吐谷渾に包囲された。兄弟皆、敵の槍で傷つき、馬を失って徒歩で戦い、従う騎兵も六七割が戦死した。だが、そこへ左領軍将軍契苾何力が数百騎を率いて救援に来て全力で奮戦し、向かう敵を次々となぎ倒したおかげで、萬均、萬徹はどうにか助かった。
 李大亮は蜀渾山にて吐谷渾を敗り、名王二十人を捕らえた。
 将軍執失思力は居茹川にて吐谷渾を敗った。
 李靖は諸軍を指揮して積石山河源を経て且末へ至り、吐谷渾を西境まで追い詰めた。伏允が突倫川に居ると聞いたので、于闐と契苾何力に襲撃させようとしたが、薛萬均は前回の敗北に懲りて、強く不可とした。すると何力が言った。
「虜には城郭があるわけではなく、水や草を求めて移り住んでいるのです。もしも奴等が集まっている時に襲撃しなければ、一朝にして雲のように散ってしまいます。そうしたら、どうしてその巣穴を潰せましょうか!」
 そして自ら驍騎千余を選び、突倫川を直撃した。萬均は兵を率いてこれに従う。
 磧中には水が乏しく、将士は馬を刺してその血を飲んだ。こうして伏允の牙帳を襲撃し、撃破。首級数千を挙げ、家畜二十余万を捕らえる。伏允は単身脱出し、その妻子を捕らえる。
 侯君集等は星宿川を通過して柏梅へ至り、引き返して李靖と合流した。
 大寧王順は、隋氏の甥であり、伏允の嫡子である。隋で侍中となり(人質となったとゆう事)、長い間帰国できなかった。その間に伏允は侍子を太子に立てたので、順は帰国してから常に怏々としていた。李靖がその国を敗るに及んで、国人は切羽詰まり天柱王を怨んだ。順はこれに乗じて天柱王を斬り、国を挙げて降伏を請うた。
 伏允は千余騎を率いて磧中へ逃げ込んだが、十余日もすると衆は逃げ散ってしまい、伏允は左右に殺された。国人は、順を可汗へ立てた。
 壬子、李靖が、吐谷渾平定を上奏した。
 乙卯、その国を復すと詔が降りる。慕容順を西平郡王、趉故呂烏甘豆可汗とする。上は、順が国民から未だ心服されていないのではないかと慮り、李大亮へ精騎数千を与えて声援するよう命じた。
 六月,己丑,羣臣復請聽政,上許之,其細務仍委太子,太子頗能聽斷。是後上毎出行幸,常令居守監國。
9.六月、己丑、群臣が、政治を執るよう再び請うた。上はこれを許したが、細々としたことは太子へ委ねた。太子はよく聴断した。これ以後、上は御幸するたびに、太子を監国とするようになった。
 10秋,七月,庚子,鹽澤道行軍副總管劉德敏撃叛羌,破之。
10.秋、七月。庚子、塩沢道行軍副総管劉徳敏が造反した羌を攻撃、撃破した。
 11丁巳,詔:「山陵依漢長陵故事,務存隆厚。」期限既促,功不能及。秘書監虞世南上疏,以爲:「聖人薄葬其親,非不孝也,深思遠慮,以厚葬適足爲親之累,故不爲耳。昔張釋之言:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』劉向言:『死者無終極而國家有廢興,釋之之言,爲無窮計也。』其言深切,誠合至理。伏惟陛下聖德度越唐、虞,而厚葬其親乃以秦、漢爲法,臣竊爲陛下不取。雖復不藏金玉,後世但見丘壟如此其大,安知無金玉邪!且今釋服已依霸陵,而丘壟之制獨依長陵,恐非所宜。伏願依白虎通爲三仞之墳,器物制度,率皆節損,仍刻石立之陵旁,別書一通,藏之宗廟,用爲子孫永久之法。」疏奏,不報。世南復上疏,以爲:「漢天子即位即營山陵,遠者五十餘年;今以數月之間爲數十年之功,恐於人力有所不逮。」上乃以世南疏授有司,令詳處其宜。房玄齡等議,以爲:「漢長陵高九丈,原陵高六丈,今九丈則太崇,三仞則太卑,請依原陵之制。」從之。
11.丁巳、詔が降りる。
「山陵は、漢の長陵(漢の高祖の陵)の故事に依り、つとめて厚く盛り上げよ。」
 期限を定めて督促し、どんなに努力しても追いつかない。秘書監の虞世南が上疏した。
「聖人が親を薄く葬るのは、不孝ではありません。深思遠慮いたしますと、厚葬は親を害するだけですから、薄く葬るのです。昔、張釋之が言いました。『墓の中に宝物を山と入れておけば、南山を重石にしたところで、必ずこじ開けられてしまいます。』 劉向も言いました。『死者は永遠に死にっぱなしですが、国家には興廃がある。国が滅んだ後は、誰も墓を守ってくれない。釋之の言葉は、無窮の計略です。』その言葉は深く切実で、まったく道理にあっております。陛下の聖徳は聖君たる唐・虞を越えていますのに、その親へ対しては、秦や漢を手本として厚葬しております。臣は、陛下の為を想って、これを採らないのです。喩え金玉を副葬しなくても、後世の人が丘のような墳墓を見れば、どうして中に財宝がないなどと思いましょうか!それに、今、服喪は覇陵に依りました(漢の文帝と同じく、三十七日の喪に服した)のに、陵だけは長陵へ依る。これは宜しくありません。どうか白虎通(後漢の班固等の著作物)に依り、三仞の墳とし、器物制度も皆節約し、陵の傍らには石碑を刻み、別に一通の書を宗廟へ蔵して子孫永久の法としてください。」
 疏は奏されたが、返事はなかった。そこで世南は、再び上疏した。
「漢の天子が即位してから山陵を造営するまで、五十余年の歳月が流れています。今、数ヶ月の間に数十年の功を立てようとしていますが、これでは人民が耐えられないことを畏れます。」
 上は、世南の疏を役人へ渡して、適宜な処置を衆議させた。房玄齢等が議し、言った。
「漢の長陵は高さ九丈、原陵(後漢の光武帝陵)は高さ六丈。今、九丈は祟すぎ、三仞は卑しすぎます。原陵の制に依りましょう。」
 これに従う。
 12辛亥,詔:「國初草創,宗廟之制未備,今將遷祔,宜令禮官詳議。」諫議大夫朱子奢請立三昭三穆而虚太祖之位。於是增脩太廟,祔弘農府君及高祖并舊神主四爲六室。房玄齡等議以涼武昭王爲始祖。左庶子于志寧議以爲武昭王非王業所因,不可爲始祖;上從之。
12.辛亥、詔が降りた。
「国は草創したばかりで、宗廟の制度がまだ不備である。今回遷附するので、礼官へ詳議させよ。」
 諫議大夫朱子奢が三昭三穆を立てて太祖の位を空けないよう請うた。ここにおいて太廟を増築して弘農府君及び高祖並びに旧神主四体で六室とした。
 房玄齢等は、涼の武昭王を始祖とするよう議したが、左庶子の于志寧は、武昭王は王業の始まりではないから始祖としてはいけないと議し、上もそれに従った。
 13党項寇疊州。
13.党項が畳州へ来寇した。
 14李靖之撃吐谷渾也,厚賂党項,使爲郷導。党項酋長拓跋赤辭來,謂諸將曰:「隋人無信,喜暴掠我。今諸軍苟無異心,我請供其資糧;如或不然,我將據險以塞諸軍之道。」諸將與之盟而遣之。赤水道行軍總管李道彦行至闊水,見赤辭無備,襲之,獲牛羊數千頭。於是羣羌怨怒,屯野狐峽,道彦不得進;赤辭撃之,道彦大敗,死者數萬,退保松州。左驍衞將軍樊興逗遛失軍期,士卒失亡多。乙卯,道彦、興皆坐減死徙邊。
  上遣使勞諸將於大斗拔谷,薛萬均排毀契苾何力,自稱己功。何力不勝忿,拔刀起,欲殺萬均,諸將救止之。上聞之,以讓何力,何力具言其状,上怒,欲解萬均官以授何力,何力固辭,曰:「陛下以臣之故解萬均官,羣胡無知,以陛下爲重胡輕漢,轉相誣告,馳競必多。且使胡人謂諸將皆如萬均,將有輕漢之心。」上善之而止。尋令宿衞北門,檢校屯營事,尚宗女臨洮縣主。
14.李靖等が吐谷渾を攻撃した時、党項へ厚く贈り物をして道案内とした。すると党項の酋長拓跋赤辞が来て、諸将へ言った。
「隋の人間は信義がなく、我等へ暴行掠奪を働いた。今、諸軍へ異心がないなら、その資糧を我等へくれ。そうでなければ、我等は険へ據って諸軍の退路を断つぞ。」
 諸将は、これと同盟を結んで帰した。
 赤水道行軍総管李道彦が闊水まで進むと、赤辞が兵備をしていなかったので、これを襲撃して牛や羊数千頭を奪った。ここにおいて群羌が怨怒し、野狐峽へ屯営したので、道彦は進軍できなくなった。赤辞はこれを襲撃し、道彦は大敗した。数万の死者を出して、松州まで退却する。
 左驍衛将軍樊興は逗留して合流期限に間に合わず、士卒を多く失った。
 乙卯、道彦、興は死一等を減じて辺境への流罪となった。
 上は使者を派遣し、大斗抜谷にて諸将をねぎらった。この席で、節萬均は契苾何力の功を奪って自分の功績と称した。何力は怒りに我慢できず、刀を抜いて立ち萬均を殺そうとしたが、諸将がこれを止めた。
 上はこれを聞き、何力から事情を聞くと、何力はつぶさに語った。上は怒り、萬均を罷免してその官位を何力へ授けようとしたが、何力は固辞して言った。
「臣が原因で、陛下が萬均を解雇したら、無知な群胡は陛下が胡人を重んじて漢人を軽んじていると考え、誣告が相継いでしまいます。それに、漢人は萬均のような人間ばかりだと胡人が思えば、胡人に漢人を軽く見る心が芽生えてしまいます。」
 上はこれを善として、止めた。そのかわり、宿衛北門、検校屯営事として、宗女の臨洮県主を娶らせた。
 15岷州都督、鹽澤道行軍總管高甑生後軍期,李靖按之。甑生恨靖,誣告靖謀反,按驗無状。八月,庚辰,甑生坐減死徙邊。或言:「甑生,秦府功臣,寬其罪。」上曰:「甑生違李靖節度,又誣其反,此而可寬,法將安施!且國家自起晉陽,功臣多矣,若甑生獲免,則人人犯法,安可復禁乎!我於舊勳,未嘗忘也,爲此不敢赦耳。」李靖自是闔門杜絶賓客,雖親戚不得妄見也。
15.岷州都督、塩沢道行軍総管高甑生が軍期に遅れたので、李靖がこれを裁いた。甑生は靖を恨み、靖が謀反を企んでいると誣告した。そこで調べてみたが、事実無根だった。
 八月、庚辰、甑生は有罪となり、死一等を減じられて辺境へ流された。
 ある者が言う。
「甑生は、秦府の頃からの功臣でした。どうか罪を寛恕してやってください。」
 しかし、上は言った。
「甑生は、李靖の命令に違い、また、彼が造反したと誣告した。これを寛恕するなら、法はどこに適用されるのか!それに、晋陽で国家ができてから、功臣は多い。もしも甑生が免れたなら、人々が法を犯した時、どうやって禁じればよいのか!我は、旧勲を忘れたわけではないが、これは敢えて赦せないのだ。」
 李靖は、この事件以来、門を閉じて賓客を謝絶するようになり、親戚と雖も妄りには会えなくなった。
 16上欲自詣園陵,羣臣以上哀毀羸瘠,固諫而止。
16.上は自ら園陵(献陵のこと)へ詣でたがったが、上の哀しみがあまりに酷く、やせ衰えていたので、群臣は固く諫めて止めた。
 17冬,十月,乙亥,處月初遣使入貢。處月、處密,皆西突厥之別部也。
17.冬、十月、乙亥、處月がはじめて使者を派遣して入貢した。處月と處密は、皆、西突厥の別部である。
 18庚寅,葬太武皇帝於獻陵,廟號高祖;以穆皇后祔葬,加號太穆皇后。
18.庚寅、太武皇帝を献陵に埋葬し、廟号を高祖とした。穆皇后を一緒に埋葬し、太穆皇后の号を加える。
 19十一月,庚戌,詔議於太原立高祖廟。秘書監顏師古議,以爲:「寢廟慶在京師,漢世郡國立廟,非禮。」乃止。
19.十一月、庚戌、太原へ高祖廟を立てることについて議論するよう詔が降りた。すると、秘書監の顔師古が言った。
「寝廟は、京師に置くべきです。漢代では、郡国に廟を立てるのは、礼ではありませんでした。」
 そこで、止めた。
 20戊午,以光祿大夫蕭瑀爲特進,復令參預政事。上曰:「武德六年以後,高祖有廢立之心而未定,我不爲兄弟所容,實有功高不賞之懼。斯人也,不可以利誘,不可以死脅,眞社稷臣也!」因賜瑀詩曰:「疾風知勁草,板蕩識誠臣。」又謂瑀曰:「卿之忠直,古人不過;然善惡太明,亦有時而失。」瑀再拜謝。魏徴曰:「瑀違衆孤立,唯陛下知其忠勁,曏不遇聖明,求免難矣!」
20.戊午、光禄大夫蕭瑀を特進として、再び政治に参与させた。
 上は言った。
「武徳六年以後、高祖には廃立の想いがあったが、決断できなかった。我は兄弟から容れられず、それこそ『功績の高い者は賞されず』の懼れがあった。その時にあってこの人は、利益で誘えず死で脅かせなかった。まさしく、社稷の臣である!」
 そして、瑀へ詩を賜った。
「疾風に強い草を知り、悪政に誠臣を識る。」
 又、瑀へ言った。
「卿の忠直は、古人以上だ。だが、善悪を鮮明にし過ぎると、いずれ全てを失うぞ。」
 瑀は再拝して感謝した。
 魏徴が言った。
「瑀は衆人に迎合しないで孤立した。ただ、陛下だけがその忠勁を知ったのだ。たまたま聖明に遭わなければ、艱難へ陥っていたぞ!」
 21特進李靖上書,請依遺誥,御常服,臨正殿;弗許。
21.特進李靖が上書し、遺誥に依って、常服を着て正殿へ臨むよう請うたが、許されなかった。
 22吐谷渾甘豆可汗久質中國,國人不附,竟爲其下所殺。子燕王諾曷鉢立。諾曷鉢幼,大臣爭權,國中大亂。十二月,詔兵部尚書侯君集等將兵援之;先遣使者諭解,有不奉詔者,隨宜討之。
22.吐谷渾の甘豆可汗は長い間中国で人質となっていたので、国人がなつかなかった。遂に、臣下から殺された。子の燕王諾曷鉢が立った。だが、諾曷鉢は幼かったので、大臣達が権力を争い、国中が大いに乱れた。
 十二月、兵部尚書侯君集等へ兵を率いて援助に行くよう詔が降りた。まず、使者を派遣して諭し、詔を奉じない者は討伐するように命じた。

十年(丙申、六三六)

 春,正月,甲午,上始親聽政。
1.春、正月、甲午、上が始めて自ら政治を聴いた。
 辛丑,以突厥拓設阿史那社爾爲左驍衞大將軍。社爾,處羅可汗之子也,年十一,以智略聞。可汗以爲拓設,建牙於磧北,與欲谷設分統敕勒諸部,居官十年,未嘗有所賦斂。諸設或鄙其不能爲富貴,社爾曰:「部落苟豐,於我足矣。」諸設慙服。及薛延陀叛,攻破欲谷設,社爾兵亦敗,將其餘衆走保西陲。頡利可汗既亡,西突厥亦亂,咄陸可汗兄弟爭國。社爾詐往降之,引兵襲破西突厥,取其地幾半,有衆十餘萬,自稱答布可汗。社爾乃謂諸部曰:「首爲亂破我國者,薛延陀也,我當爲先可汗報仇撃滅之。」諸部皆諫曰:「新得西方,宜且留鎭撫。今遽捨之遠去,西突厥必來取其故地。」社爾不從,撃薛延陀於磧北,連兵百餘日。會咥利失可汗立,社爾之衆苦於久役,多棄社爾逃歸。薛延陀縱兵撃之,社爾大敗,走保高昌,其舊兵在者纔萬餘家,又畏西突厥之逼,遂帥衆來降。敕處其部落於靈州之北,留社爾於長安,尚皇妹南陽長公主,典屯兵於苑内。
2.辛丑、突厥の拓設阿史那社爾を左驍衞大将軍とした。
 社爾は、處羅可汗の子息である。十一の時から知略で有名だった。そこで可汗は拓設として磧北に牙帳を建て、欲谷設と敕勒部を分割統治させた。その地位のまま十年過ぎたが、重税を課したことがなかった。諸設が、あるいは彼が富貴になれないことをからかったが、社爾は言った。
「部落が豊かになれば、私には充分だ。」
 諸設は慚愧して感服した。
 薛延陀が造反して欲谷設を攻め破った時、社爾の軍も敗北し、敗残兵を率いて逃げ、西陲を保った。
 頡利可汗が滅ぶと、西突厥は再び乱れ、咄陸可汗兄弟が国を争った。社爾は偽って彼等のもとへ降伏に行き、兵を率いて西突厥を襲破し、その土地の半分を占領した。十余万の衆を擁し、自ら答布可汗と称す。
 社爾は諸部へ言った。
「我が国を破った首謀者は、薛延陀だ。我は先の可汗の仇に報いる為、これを撃って滅ぼしてやる。」
 諸部は皆、諫めた。
「新たに西方を得たのだから、ここに留まって鎮撫すればよい。今、ここを棄てて遠方へ行けば、西突厥は必ずこの地を取り返します。」
 社爾は従わず、磧北にて薛延陀を撃った。この戦争は百日にも及んだ。やがて咥利失可汗が立った。社爾の衆は長い戦役に苦しんで、大勢が社爾を棄てて咥利失のもとへ逃げこんだ。そこを薛延陀が襲撃し、社爾は大敗し、高昌へ逃げ込んだ。その旧兵は、わずか一万余りとなり、また、西突厥から迫られることも懼れ、遂に衆を率いて唐へ降伏してきた。
 その部落を霊州の北へ住ませるよう敕が降りた。社爾は長安へ留めさせ、皇妹の南陽長公主を娶らせ、苑内で典屯兵をさせた。
 癸丑,徙趙王元景爲荊王,魯王元昌爲漢王,鄭王元禮爲徐王,徐王元嘉爲韓王,荊王元則爲彭王,滕王元懿爲鄭王,呉王元軌爲霍王,豳王元鳳爲虢王,陳王元慶爲道王,魏王靈夔爲燕王,蜀王恪爲呉王,越王泰爲魏王,燕王祐爲齊王,梁王愔爲蜀王,郯王惲爲蒋王,漢王貞爲越王,申王愼爲紀王。
  二月,乙丑,以元景爲荊州都督,元昌爲梁州都督,元禮爲徐州都督,元嘉爲潞州都督,元則爲遂州都督,靈夔爲幽州都督,恪爲潭州都督,泰爲相州都督,祐爲齊州都督,愔爲益州都督,惲爲安州都督,貞爲揚州都督。泰不之官,以金紫光祿大夫張亮行都督事。上以泰好文學,禮接士大夫,特命於其府別置文學館,聽自引召學士。
3.癸丑、趙王元景を荊王とし、魯王元昌を漢王とし、鄭王元礼を徐王とし、徐王元嘉を韓王とし、荊王元則を彭王とし、滕王元懿を鄭王とし、呉王元軌を霍王とし、豳王元鳳を虢王とし、陳王元慶を道王とし、魏王霊夔を燕王とし、蜀王恪を呉王とし、越王泰を魏王とし、燕王祐を斉王とし、梁王愔を蜀王とし、郯王惲を蒋王とし、漢王貞を越王とし、申王慎を紀王とする。
 二月、乙丑。元景を荊州都督、元昌を梁州都督、元礼を徐州都督、元嘉を潞州都督、元則を遂州都督、霊夔を幽州都督、恪を澤州都督、泰を相州都督、祐を斉州都督、愔を益州都督、惲を安州都督、貞を揚州都督とした。
 ただ、泰は任地へ行かず、金紫光禄大夫張亮を代理として下向させた。上は、泰が文学好きで士大夫へ腰が低いので、特に彼の府へ別に文学館を設置させ、自由に学士を召し出す事を許した。
 三月,丁酉,吐谷渾王諾曷鉢遣使請頒暦,行年號,遣子弟入侍,並從之。丁未,以諾曷鉢爲河源郡王、烏地也拔勤豆可汗。
4.三月、丁酉、吐谷渾王の諾曷鉢が使者を派遣し、中国の暦を奉じ年号を使用し、子弟を入侍させたいと、請うてきた。全て許す。
 丁未、諾曷鉢を河源郡王、烏地也抜勤豆可汗とした。
 癸丑,諸王之藩,上與之別曰:「兄弟之情,豈不欲常共處邪!但以天下之重,不得不爾。諸子尚可復有,兄弟不可復得。」因流涕嗚咽不能止。
5.癸丑、諸王を藩へ行かせた。上はこれと別れに言った。
「兄弟の情として、どうして離ればなれになりたかろうか!ただ、天下への責任は重く、ゆるがせにはできない。それに、諸子達よ、お前達はいずれはまた会えるのだ。我は兄弟と二度と会えない。」
 そして流涕嗚咽を止めることができなかった。
 夏,六月,壬申,以温彦博爲右僕射,太常卿楊師道爲侍中。
6.夏、六月、壬申。温彦博を右僕射、太常卿楊師道を侍中とした。
 侍中魏徴屢以目疾求爲散官,上不得已,以徴爲特進,仍知門下事,朝章國典,參議得失,徒流以上罪,詳事聞奏;其祿賜、吏卒並同職事。
7.侍中魏徴が、屡々目の病で退官を求めていた。上はやむを得ず、徴を特進としたが、侍中ではなくなったがなおも門下事は裁断させ、朝章国典は得失に参議させ、流罪以上の罪は詳しく聞かせ、その禄賜は、吏卒は職務にあった時と同様にした。(大体こうゆう意味かな?当時の官職について熟知している人に翻訳して欲しい。)
 長孫皇后性仁孝儉素,好讀書,常與上從容商略古事,因而獻替,裨益弘多。上或以非罪譴怒宮人,后亦陽怒,請自推鞫,因命囚繋,俟上怒息,徐爲申理,由是宮壺之中,刑無枉濫。豫章公主早喪其母,后收養之,慈愛逾於所生。妃嬪以下有疾,后親撫視,輟己之藥膳以資之,宮中無不愛戴。訓諸子,常以謙儉爲先,太子乳母遂安夫人嘗白后,以東宮器用少,請奏益之。后不許,曰:「爲太子,患在德不立,名不揚,何患無器用邪!」
  上得疾,累年不愈,后侍奉,晝夜不離側。常繋毒藥於衣帶,曰:「若有不諱,義不獨生。」后素有氣疾,前年從上幸九成宮,柴紹等中夕告變,上擐甲出閤問状,后扶疾以從,左右止之,后曰:「上既震驚,吾何心自安!」由是疾遂甚。太子言於后曰:「醫藥備盡而疾不瘳,請奏赦罪人及度人入道,庶獲冥福。」后曰:「死生有命,非智力所移。若爲善有福,則吾不爲惡;如其不然,妄求何益!赦者國之大事,不可數下。道、釋異端之教,蠹國病民,皆上素所不爲,奈何以吾一婦人使上爲所不爲乎!必行汝言,吾不如速死!」太子不敢奏,私以語房玄齡,玄齡白上,上哀之,欲爲之赦,后固止之。
  及疾篤,與上訣。時房玄齡以譴歸第,后言於帝曰:「玄齡事陛下久,小心愼密,奇謀秘計,未嘗宣泄,苟無大故,願勿棄之。妾之本宗,因縁葭莩以致祿位,既非德舉,易致顛危,欲使其子孫保全,愼勿處之權要,但以外戚奉朝請足矣。妾生無益於人,不可以死害人,願勿以丘壟勞費天下,但因山爲墳,器用瓦木而已。仍願陛下親君子,遠小人,納忠諫,屏讒慝,省作役,止游畋,妾雖沒於九泉,誠無所恨。兒女輩不必令來,見其悲哀,徒亂人意。」因取衣中毒藥以示上曰:「妾於陛下不豫之日,誓以死從乘輿,不能當呂后之地耳。」己卯,崩于立政殿。
  后嘗采自古婦人得失事,爲女則三十卷,又嘗著論駁漢明德馬后以不能抑退外親,使當朝貴盛,徒戒其車如流水馬如龍,是開其禍敗之源而防其末流也。及崩,宮司并女則奏之,上覽之悲慟,以示近臣曰:「皇后此書,足以垂範百世。朕非不知天命而爲無益之悲,但入宮不復聞規諫之言,失一良佐,故不能忘懷耳!」乃召房玄齡,使復其位。
8.長孫皇后は仁孝倹素な性格で、読書を好み、いつも上と共にくつろいだ有様で古事を語り合い、意見を交換し、教え合うことが多かった。
 時には、上が宮人を濡れ衣で怒ることがあったが、その様なときには皇后は上辺は上にあわせて叱りつけ、裁断を自ら買って出た。そして、軟禁するよう命じておいて、上の怒りが収まるのを待ってから徐に理を述べた。だから、宮中では妄りに刑罰が横行することはなかった。
 豫章公主は早くに母を失っていたので后が養女としたが、実の子供以上に慈しんだ。妃嬪などが病気になると、后は自ら看病し、薬なども賜下したので、宮中では誰からも敬愛されていた。
 諸子へ訓諭する時には、謙譲倹約を第一にした。かつて太子乳母遂安夫人が、東宮に器物が少ないので増やして欲しいと奏したが、后は許さず、言った。
「太子となったのですから、徳が立たず名が揚がらないことを患いなさい。器物がないことなど何ですか!」
 上が病気になり長年直らないと、后は側に侍って昼夜離れなかった。いつも毒薬を衣帯に入れておき、言った。
「もしもの時は、妾も生きては行けません。」
 后は、もともと病弱だった。前年上に従って九成宮へ御幸した時、柴紹等が夕方に緊急事態を告げて来た。上が甲を被って閤へ出て状況を問うと、后は病をおしてついてきた。左右がこれを止めたが、后は言った。
「上が驚かれたのです。我が心がなんで安んじられましょうか!」
 これ以来、病状は重くなった。
 太子が后へ言った。
「医者も薬も揃っているのに、病気はちっとも良くなりません。罪人へ大赦を下し人々の出家を奨励するよう上奏して、冥福を獲得してください。」
 すると、后は言った。
「死ぬも生きるも天命です。智力でどうなるものではありません。善いことをしたら福があるといわれても、私は悪いことなどしていません。そうでないのなら、妄りに福を求めて何が得られましょうか!恩赦は国の大事です。容易に下すものではありません。道、仏は異端の教えで、国を蚕食し民を病ませます。皆、上が平素から信じないもの。なんで私如き一婦人が上へ勧められましょうか!そんなことをするくらいなら、サッサと死んだ方がましです!」
 それで太子は上奏しなかったが、私的に房玄齢へ語った。房玄齢が上へ語ると、上はこれを哀れんで、恩赦を降ろそうとしたが、后はこれを固く止めた。
 病が重くなると、上へ別れを述べた。この時房玄齢は譴責されて屋敷へ帰っていたので、后は帝へ言った。
「玄齢は陛下に久しく仕えています。慎重に細かく心を配り、奇謀秘計は決して洩らしません。大きな理由がない限り、決して棄てないでください。妾の本宗は、妾との縁で高い俸禄や官位を頂きました。徳で出世したのではありませんから、大変危険なのです。その子孫を保全したいので、重要な地位にはつけないでください。ただ外戚として厚遇していただければ、それでよろしいのです。妾は生きている間人の為になることはできませんでした。ですから死んだ時に人を害しないでください。わざわざ陵を丘のように盛り上げて天下の人々を患わせてくださいますな。自然の山を墳とし、副葬する器物は瓦や木を使ってください。それから陛下、どうか君子と親しみ小人を遠ざけ、忠諫を納れ讒言を斥け、労役を省き遊猟をやめてください。妾はあの世に行きますが、本当に、何の心残りもありません。葬式には児女を集めなくても構いません。悲哀の顔を見ても、いたずらに心を乱すだけですから。」
 そして、衣の中から毒薬を取り出して上へ示し、続けた。
「妾は、陛下が不予の日、あの世までお供しようと思っておりましたのよ。呂后の真似はできませんからね。」
 己卯、立政殿にて崩御した。
 后はかつて、古来からの婦人の得失の故事を集めて女則三十巻を作った。また、漢の明徳馬后へ反駁して、「外戚を抑えきれず朝廷を貴人で溢れさた。『その車は流水の如く馬は龍の如く』といたずらに戒めたのは、禍敗の源を開いて末流で防いだにすぎない。」と論じた。
 崩御するに及んで、宮司が女則を上奏した。上はこれを詠んで悲慟し、近臣へ示して言った。
「皇后のこの書は百世の規範となる。朕も天命を知らぬ訳ではないし、悲しんでも無益だとゆうことも判っている。ただ、入宮してももう規諫の言葉を聞けない。良き補佐役を失ってしまった。だから、いつまでも懐かしさをなくせないのだ!」
 そして房玄齢を召しだして、元の官位へ復帰させた。
 秋,八月,丙子,上謂羣臣曰:「朕開直言之路,以利國也,而比來上封事者多訐人細事,自今復有爲是者,朕當以讒人罪之。」
9.秋、八月、丙子。上は群臣へ言った。
「朕が直言の道を開いたのは、国の利益の為である。それなのに最近では、上封の中に誹謗中傷が多くなった。今後このようなことをする者は、讒人の罪に処する。」
 10冬,十一月,庚午,葬文德皇后於昭陵。將軍段志玄、宇文士及分統士衆出肅章門。帝夜使宮官至二人所,士及開營内之;志玄閉門不納,曰:「軍門不可夜開。」使者曰:「此有手敕。」志玄曰:「夜中不辨眞偽。」竟留使者至明。帝聞而歎曰:「眞將軍也!」
  帝復爲文刻之石,稱「皇后節儉,遺言薄葬,以爲『盜賊之心,止求珍貨,既無珍貨,復何所求。』朕之本志,亦復如此。王者以天下爲家,何必物在陵中,乃爲己有。今因九嵕山爲陵,鑿石之工纔百餘人,數十日而畢。不藏金玉,人馬、器皿,皆用土木,形具而已,庶幾姦盜息心,存沒無累。當使百世子孫奉以爲法。」
  上念后不已,於苑中作層觀以望昭陵,嘗引魏徴同登,使視之。徴熟視之曰:「臣昏眊,不能見。」上指示之,徴曰:「臣以爲陛下望獻陵,若昭陵,則臣固見之矣。」上泣,爲之毀觀。
10.冬、十一月、庚午。文徳皇后を昭陵へ葬る。将軍段志玄、宇文士及が士衆を分統して粛章門を出た。帝は、夜、宮官を二人の所へ派遣した。士及は営を開いてこれを内へ入れたが、志玄は門を閉じたままで入れず、言った。
「軍門は、夜間は開けない。」
 使者が言った。
「ここに手敕があります。」
「夜中で、真偽の判別がつかん。」
 遂に、夜が明けるまで使者を留めた。
 これを聞いて帝は感嘆した。
「真の将軍だ。」
 帝は、また、石へ文を刻んで、称賛した。
「皇后は節倹で、薄葬を遺言した。その大意に言う『盗賊は、ただ珍貨が欲しいだけ。珍貨がなければ、また何を求めましょう』朕の本志も、これと同じだ。王は、天下を家とする。自分のものだと主張するために、必ず陵の中へ入れなければならぬわけではない。今、九 山を陵とした。石をうがつ工人は僅か百余人、数十日で工事は終わった。金玉を埋葬せず、人馬器皿は皆、土木で形だけまねたもの。これでは姦盗へ盗掘する気も起させず、いつまでもあばかれまい。百世の子孫までの手本となろう。」
 上は后を忘れられず、苑中に展望台を建てて昭陵を望んだ。ある時、魏徴を連れて登り、これを見せた。徴はこれをつらつらと視て言った。
「臣の目はかすみ、よく見えません。」
 上が指し示すと、徴は言った。
「臣は、陛下が献陵を望まれているものと思っていました。昭陵でしたら、もとより見えておりました。」
 上は泣いて、台を壊した。
 11十二月,戊寅,朱倶波、甘棠遣使入貢。朱倶波在葱嶺之北,去瓜州二千八百里。甘棠在大海南。上曰:「中國既安,四夷自服。然朕不能無懼,昔秦始皇威振胡、越,二世而亡,唯諸公匡其不逮耳。」
11.十二月、戊寅。朱倶波と甘棠が、使者を派遣して入貢した。朱倶波はパミールの北にあり、瓜州の二千八百里かなたである。甘棠は大海の南にある。
 上は言った。
「中国は既に治まり、四夷は自ずから服従する。だが、朕は懼れずにはいられない。昔、秦始皇帝は、胡・越へ威を振るったが、二世にして滅んだ。ただ、諸公がただしてくれれば、そうならずに済むだろう。」
 12魏王泰有寵於上,或言三品以上多輕魏王。上怒,引三品以上,作色讓之曰:「隋文帝時,一品以下皆爲諸王所顚躓,彼豈非天子兒邪!朕但不聽諸子縱橫耳,聞三品以上皆輕之,我若縱之,豈不能折辱公輩乎!」房玄齡等皆惶懼流汗拜謝。魏徴獨正色曰:「臣竊計當今羣臣,心無敢輕魏王者。在禮,臣、子一也。春秋:王人雖微,序於諸侯之上。三品以上皆公卿,陛下所尊禮,若紀綱大壞,固所不論;聖明在上,魏王必無頓辱羣臣之理。隋文帝驕其諸子,使多行無禮,卒皆夷滅,又足法乎!」上悅,曰:「理到之語,不得不服。朕以私愛忘公義,曏者之忿,自謂不疑,及聞徴言,方知理屈。人主發言何得容易乎!」
12.魏王泰が上から寵愛されていた。ある時、三品以上は魏王を軽く扱う者が多いと聞き、上は怒って三品以上を集め、顔色を変えて叱咤した。
「隋の文帝の時、一品以下、皆が諸王へ対して跪いたものだ。彼は天子の児ではないか!朕は諸子の放縦な噂を聞かないが、却って三品以上が彼等を軽んじていると聞く。我がもし彼等を好き勝手にさせたら、公輩はどれ程の恥辱にまみれると思っているのだ!」
 房玄齢等は皆、震え上がり、汗だくになって拝謝した。だが、魏徴一人毅然として言った。
「臣が今の群臣を見ますに、決して魏王を軽んじているわけではありません。礼においては、臣も子も一つです。春秋では、王の家来は微賎でも序列として諸侯の上です。三品以上は皆、公卿で、陛下から尊礼される者です。もし、綱紀が崩れたのなら、何も言いません。ですが、聖明が上に居られるのなら、魏王が群臣を辱めるとゆう理はありません。隋の文帝はその諸子を驕慢にさせ、多くの無礼を行わせ、ついに国を滅ぼしたのです。なんで手本にできましょうか!」
 上は悦んで言った。
「理に沿った言葉には、なんで服せずにいられようか。朕は私愛に眩まされ公義を忘れていた。さきほどの怒りは、自分ではもっとものことだと思っていたが、魏徴の言葉を聞いてようやく理屈をわきまえた。人主は、軽々しく言葉を出せぬものだなあ!」
 13上曰:「法令不可數變,數變則煩,官長不能盡記;又前後差違,吏得以爲姦。自今變法,皆宜詳愼而行之。」
13.上は言った。
「法令は、屡々変えてはならぬ。頻繁に変えれば煩わしく、官長は全てを記載することができない。また、前後に矛盾が有れば、吏が姦を為すことができる。今からは法を変える時には、つまびらかに慎んで行え。」
 14治書侍御史權萬紀上言:「宣、饒二州銀大發采之,歳可得數百萬緡。」上曰:「朕貴爲天子,所乏者非財也,但恨無嘉言可以利民耳。與其多得數百萬緡,何如得一賢才!卿未嘗進一賢,退一不肖,而專言税銀之利。昔堯、舜抵璧於山,投珠於谷,漢之桓、靈乃聚錢爲私藏,卿欲以桓、靈俟我邪!」是日,黜萬紀,使還家。
14.治書侍御史権萬紀が上言した。
「宣、饒二州で、大きな銀山が見つかりました。毎年数百万緡は採掘できます。」
 上は言った。
「朕が天子となって、乏しいのは財ではない。ただ、民へ利を与えられる嘉言がないことを恨むのだ。その数百万緡など、一賢才を得ることに比べれば、どれ程のことがあろうか!卿はいまだに一人の賢人も進めず、一人の不肖も斥けず、ただ、銀の利益のみ口にする。昔、堯・舜は璧を山に棄て、珠を谷へ投じた。漢の桓帝・霊帝は、銭をかき集めて私藏した。卿は、我を桓・霊のようにさせたいのか!」
 この日、萬紀を罷免して家へ帰らせた。
 15是歳,更命統軍爲折衝都尉,別將爲果毅都尉。凡十道,置府六百三十四,而關内二百六十一,皆隸諸衞及東宮六率。凡上府兵千二百人,中府千人,下府八百人。三百人爲團,團有校尉;五十人爲隊,隊有正;十人爲火,火有長。毎人兵甲糧裝各有數,皆自備,輸之庫,有征行則給之。年二十爲兵,六十而免。其能騎射者爲越騎,其餘爲歩兵。毎歳季冬,折衝都尉帥其屬教戰,當給馬者官予其直市之。凡當宿衞者番上,兵部以遠近給番,遠疏、近數,皆一月而更。
15.この年、統軍を折衝都尉、別将を果毅都尉と改称した。
 およそ十道へ六百三十四府を設置した。関内には二百六十一の府があり、これは全て諸衛と東宮六率へ隷属させる。上府の兵は千二百人。中府は千人、下府は八百人。三百人を団とし、団には校尉がいる。五十人を隊とし、隊には正がいる。十人を火とし、火には長がいる。
 兵卒毎に武装や食糧の規定数があり、これは各人で揃え官庫へしまっておき、征行があれば支給する。二十才で兵となり、六十で退役する。騎射が巧い者は越騎となり、その他は歩兵とする。毎年季冬に、折衝都尉が部下を教練する。馬が必要な者は官から代金を貰って市場で買う。宿衞にあたる者は当番制で、遠い者は回数が少なく、近い者は多いが、一回は一ヶ月で交代する。

十一年(丁酉、六三七)

 春,正月,徙鄶王元裕爲鄧王,譙王元名爲舒王。
1.春、正月、鄶王元裕を鄧王とし、譙王元名を舒王とする。
 辛卯,以呉王恪爲安州都督,晉王治爲并州都督,紀王愼爲秦州都督。將之官,上賜書戒敕曰:「吾欲遺汝珍玩,恐益驕奢,不如得此一言耳。」
2.辛卯、呉王恪を安州都督、晋王治を并州都督、紀王慎を秦州都督とする。赴任するにあたって、上は書を賜って戒めた。
「我は汝が珍奇を捨てることを望み、ますます驕奢になることを恐れる。言いたいことは、ただそれだけだ。」
 上作飛山宮。庚子,特進魏徴上疏,以爲:「煬帝恃其富強,不虞後患,窮奢極欲,使百姓困窮,以至身死人手,社稷爲墟。陛下撥亂返正,宜思隋之所以失,我之所以得,撤其峻宇,安於卑宮;若因基而增廣,襲舊而加飾,此則以亂易亂,殃咎必至,難得易失,可不念哉!」
3.上が飛山宮を作った。
 庚子、特進魏徴が上疏した。その大意は、
「煬帝はその富強を恃み後患を思わず、豪奢を窮め欲望を極め、百姓を困窮させ、その身は他人に殺され社稷は廃墟となりました。陛下は乱をはじいて正へ返した時、隋が滅んだ原因と我等が天下を得ることのできた所以をよく考え、豪華な宮殿を撤廃して卑宮に安んじられたのではありませんか。もしも基礎があるからといって増築し、旧来をまねて装飾を加えるのなら、これは乱を以て乱に取って代わる事に他なりません。殃咎は、必ずやってきます。得るのは難しくとも、失うのは簡単なのですぞ。それをお忘れくださいますな!」
 房玄齡等先受詔定律令,以爲:「舊法,兄弟異居,蔭不相及,而謀反連坐皆死;祖孫有蔭,而止應配流。據禮論情,深爲未愜。今定律,祖孫與兄弟縁坐者倶配役。」從之。自是比古死刑,除其太半,天下稱賴焉。玄齡等定律五百條,立刑名二十等,比隋律減大辟九十二條,減流入徙者七十一條,凡削煩去蠹,變重爲輕者,不可勝紀。又定令一千五百九十餘條。武德舊制,釋奠於太學,以周公爲先聖,孔子配饗;玄齡等建議停祭周公,以孔子爲先聖,顏回配饗。又刪武德以來敕格,定留七百條,至是頒行之。又定枷、杻、鉗、鏁、杖、笞,皆有長短廣狹之制。
  自張蘊古之死,法官以出罪爲戒;時有失入者,又不加罪。上嘗問大理卿劉德威曰:「近日刑網稍密,何也?」對曰:「此在主上,不在羣臣,人主好寬則寬,好急則急。律文:失入減三等,失出減五等。今失入無辜,失出更獲大罪,是以吏各自免,競就深文,非有教使之然,畏罪故耳。陛下儻一斷以律,則此風立變矣。」上悅,從之。由是斷獄平允。
4.房玄齢等は、先に、律令を定めるよう詔を受けていた。彼等は提案した。
「旧法では、別居している兄弟へは罪は及ばないのに、造反罪の時には連座で死罪となっています。この時、祖父や孫は流刑に過ぎません。礼に據っても人情を論じても、これでは不備です。今、律を定め、祖父や孫同様兄弟も連座は流罪としましょう。」
 これに従う。
 これ以来、旧法と比べて死刑が半減し、天下の人々は大いに喜んだ。
 玄齢等は律五百條を定め、刑名二十等を立てた。隋の律と比べて、大項目で九十二條減じ、死刑から流罪へ減刑になったものは七十二條、煩雑なものを削除したり、重罪から軽罪へ減刑したものは、数え切れないほどだった。また、令千五百九十余條を定めた。
 武徳の頃の制度では、太学では周公を先聖として、孔子をお相伴としていた。玄齢等は、周公は祭るだけにして、孔子を先聖とし顔回をお相伴とするよう建議した。また、武徳以来の敕格を削除して七百條のみを残し、これを頒布した。また、枷、杻、鉗、鏁、杖、笞の罰を定めた。全て長さや幅まで制定した。
 張蘊古が死んでから、法官は罰しすぎることを戒めとするようになり、時に有罪のものを罰し損ねても、追加の刑罰を与えなかった。上がかつて大理卿劉徳威へ言った。
「この頃、刑罰の適用が少しばかり綿密になったようだが、何故かな?」
 すると、徳威が答えた。
「これは主上の責任で、群臣のせいではありません。人主が寛大を好めば寛大になりますし、急を好めば急になります。律令の文では、無罪のものを罰したら三等減りますが、有罪のものを無罪にしてしまったら五等減ります。いま、無辜の者を罰するよりも有罪の者を取り逃がす方が大罪になるのですから、各吏はそれを逃れようと、競って律文を深読みして罪を重く適用するようになったのです。これは誰からか教え諭されたのではありません。罪を畏れているのです。仮に陛下が、全て律によって断じたら、このような風潮は改まるでしょう。」
 上は悦んで、これに従った。これ以来、裁判は平允になった。
 上以漢世豫作山陵,免子孫蒼猝勞費,又志在儉葬,恐子孫從欲奢靡。二月,丁巳,自爲終制,因山爲陵,容棺而已。
5.上は、漢代は山陵を作っていたので後世まで民が労役に苦しまされたのだと考え、また、自分の子孫が益々豪奢傲慢になってゆくことも恐れた。
 二月、丁巳、これより山をそのまま陵として、棺桶に入れるだけにすることを国の制度とした。
 甲子,上行幸洛陽宮。
6.甲子、上は洛陽宮へ御幸した。
 上至顯仁宮,官吏以缺儲偫,有被譴者。魏徴諫曰:「陛下以儲偫譴官吏,臣恐承風相扇,異日民不聊生,殆非行幸之本意也。昔煬帝諷郡縣獻食,視其豐儉以爲賞罰,故海内叛之。此陛下所親見,奈何欲效之乎!」上驚曰:「非公不聞此言。」因謂長孫無忌等曰:「朕昔過此,買飯而食,僦舎而宿;今供頓如此,豈得猶嫌不足乎!」
7.上が顕仁宮へ至った時、官吏の接待が悪かったとして譴責した。魏徴が諫めた。
「陛下は接待が悪かったとして官吏を譴責されましたが、その風潮が煽られたらかつてのように民が生きることを悦ばなくなってしまうのではないかと、臣は恐れますし、それは陛下の本意でもありますまい。昔、隋の煬帝は郡県を巡った時に持てなしがご馳走だったか質素だったかで賞罰を与えました。そうして海内が造反したのです。これは陛下も御自身の目で見た事ですが、どうしてその様な行いに倣おうとなさるのですか!」
 上は驚いて言った。
「公でなければ、その様なことは言ってくれまい。」
 よって、上は長孫無忌等へ言った。
「朕は昔は飯を買って食べ、宿舎を賃借りして住んでいた。それが今ではこのように持てなされている。なんで不満を言えようか!」
 三月,丙戌朔,日有食之。
8.三月、丙戌朔、日食が起こった。
 庚子,上宴洛陽宮西宛,泛積翠池,顧謂侍臣曰:「煬帝作此宮苑,結怨於民,今悉爲我有,正由宇文述、虞世基、裴蘊之徒内爲諂諛、外蔽聰明故也,可不戒哉!」
9.庚子、上が洛陽宮の西苑で宴会を開き、積翠池へ舟を浮かべ、侍臣を顧みて言った。
「煬帝はこの宮を造り、民の怨みを買った。それが今は、すっかり我のものだ。これは、宇文述や虞世基、裴蘊等が内にて阿諛追従に励み、外には煬帝の聡明を覆い隠してくれたおかげだ。戒めとせずにはいられない!」
 10房玄齡、魏徴上所定新禮一百三十八篇;丙午,詔行之。
10.房玄齢、魏徴が、新しく編纂した新礼百三十八編を上納した。
 丙午、詔してこれを行う。
 11以禮部尚書王珪爲魏王泰師,上謂泰曰:「汝事珪當如事我。」泰見珪,輒先拜,珪亦以師道自居。珪子敬直尚南平公主。先是,公主下嫁,皆不以婦禮事舅姑,珪曰:「今主上欽明,動循禮法,吾受公主謁見,豈爲身榮,所以成國家之美耳。」乃與其妻就席坐,令公主執笲行盥饋之禮。是後公主始行婦禮,自珪始。
11.礼部尚書王珪を魏王泰の師とし、上は泰へ言った。
「汝は、我へ仕えるように珪へ仕えよ。」
 泰は珪を見るとすぐに拝礼し、珪もまた、師匠としての態度をとっていた。
 珪の子の敬直が、南平公主を娶った。ところで、それまでは公主が下嫁する時には舅や姑へ婦礼で仕えることがなかったが、珪は言った。
「今、主上は欽明で、礼に則って行動されている。ところで、我が今回公主の謁見を受けるのは(「嫁に貰う」とゆうのを、皇帝を憚ってこのように言ったのか?)、我が家の誉れとするためではない。国家の美を成就するためだ。」
 そして、その妻と席へ就くとき、公主へは嫁としての作法通りの礼を執らせた。
 これ以降、公主も婦礼を行うようになったが、それは珪が始めたことである。
 12羣臣復請封禪,上使秘書監顏師古等議其禮,房玄齡裁定之。
12.群臣が再び封禅を請うた。上は、秘書監顔師古等へその礼を議論させ、房玄齢へ裁定させた。
 13夏,四月,己卯,魏徴上疏,以爲:「人主善始者多,克終者寡,豈取之易而守之難乎?蓋以殷憂則竭誠以盡下,安逸則驕恣而輕物;盡下則胡、越同心,輕物則六親離德,雖震之以威怒,亦皆貌從而心不服故也。人主誠能見可欲則思知足,將興繕則思知止,處高危則思謙降,臨滿盈則思挹損,遇逸樂則思撙節,在宴安則思後患,防壅蔽則思延納,疾讒邪則思正己,行爵賞則思因喜而僭,施刑罰則思因怒而濫,兼是十思,而選賢任能,固可以無爲而治,又何必勞神苦體以代百司之任哉!」

13.夏、四月、己卯。魏徴が上疏して言った。
「始まりを善くする人主は多いのに、最後まで全うする者は少のうございます。これは、採ることが易しくて守るのが難しいからではありませんか?そう、憂うべき事が多いときには下の者へ誠意を尽くして対していますが、安逸な毎日は心を驕恣にさせて物事を軽く見るようになります。誠意を尽くせば胡と越でも一心になれますし、物事を軽く見れば六親でも離間します。刑罰で脅しつけれたところで、彼等は顔だけは服従しますが心中に不服が溜まります。人主となれば、欲しいものを見たときは満足の心を思いましょう。宮の建築や修繕をしたくなれば止めることを思いましょう。高危な地位にあるのですから謙降を思いましょう。満ち溢れたものへ臨んでは減らすことを思いましょう。逸楽に遭ったら節約節制を思いましょう。宴楽の時には後患を思いましょう。事実を覆い隠されることを防ぐために、延納を思いましょう。讒邪を疾むのなら己を正しくしましょう。封爵や褒賞を行う時は喜びによって与え過ぎることを戒めましょう。刑罰を施す時には怒りによって乱用することを戒めましょう。この十思を兼ねて賢者を選び能力に従って仕事を任せれば、何もしなくても治まります。なんで苦労して百司の任務を一人で行う必要がありましょうか!」


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:12
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