巻第二百

資治通鑑巻第二百
 唐紀十六
  高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下
永徽六年(乙卯、六五五)

 冬,十月,己酉,下詔稱:「王皇后、蕭淑妃謀行鴆毒,廢爲庶人,母及兄弟,並除名,流嶺南。」許敬宗奏:「故特進贈司空王仁祐告身尚存,使逆亂餘孼猶得爲蔭,並請除削。」從之。
  乙卯,百官上表請立中宮,乃下詔曰:「武氏門著勳庸,地華纓黻,往以才行選入後庭,譽重椒闈,德光蘭掖。朕昔在儲貳,特荷先慈,常得待從,弗離朝夕,宮壼之内,恆自飭躬,嬪嬙之間,未嘗迕目,聖情鑒悉,毎垂賞歎,遂以武氏賜朕,事同政君,可立爲皇后。」
  丁巳,赦天下。是日,皇后上表稱:「陛下前以妾爲宸妃,韓瑗、來濟面折庭爭,此既事之極難,豈非深情爲國!乞加褒賞。」上以表示瑗等,瑗等彌憂懼,屢請去位,上不許。
  十一月,丁卯朔,臨軒命司空李勣齎璽綬册皇后武氏。是日,百官朝皇后於肅義門。
  故后王氏、故淑妃蕭氏,並囚於別院,上嘗念之,間行至其所,見其室封閉極密,惟竅壁以通食器,惻然傷之,呼曰:「皇后、淑妃安在?」王氏泣對曰:「妾等得罪爲宮婢,何得更有尊稱!」又曰:「至尊若念疇昔,使妾等再見日月,乞名此院爲回心院。」上曰:「朕即有處置。」武后聞之,大怒,遣人杖王氏及蕭氏各一百,斷去手足,捉酒甕中,曰:「令二嫗骨醉!」數日而死,又斬之。王氏初聞宣敕,再拜曰:「願大家萬歳!昭儀承恩,死自吾分。」淑妃罵曰:「阿武妖猾,乃至於此!願他生我爲貓,阿武爲鼠,生生扼其喉。」由是宮中不畜貓。尋又改王氏姓爲蟒氏,蕭氏爲梟氏。武后數見王、蕭爲祟,被髪瀝血如死時状。後徙居蓬萊宮,復見之,故多在洛陽,終身不歸長安。
  己巳,許敬宗奏曰:「永徽爰始,國本未生,權引彗星,越升明兩。近者元妃載誕,正胤降神,重光日融,爝暉宜息。安可反植枝幹,久易位於天庭;倒襲裳衣,使違方於震位!又,父子之際,人所難言,事或犯鱗,必嬰嚴憲,煎膏染鼎,臣亦甘心。」上召見,問之,對曰:「皇太子,國之本也,本猶未正,萬國無所係心。且在東宮者,所出本微,今知國家已有正嫡,必不自安。竊位而懷自疑,恐非宗廟之福,願陛下熟計之。」上曰:「忠已自讓。」對曰:「能爲太伯,願速從之。」
1.冬、十月、己酉。詔を下して称す。
「王皇后、蕭淑妃は毒殺を謀ったので、廃して庶人とする。母及び兄弟も、共に除名して嶺南へ流す。」
 許敬宗が奏上した。
「もとの特進贈司空王仁裕の告身はまだ残っています。これですと、逆乱の子孫に、そのおかげを蒙る者が出てきます。これを除削するようお願いします。」
 これに従う。
(先祖が官位を持っていたら、子孫は並の人より高い官位が給付される。これを告身と言う。司空は正一品。三品以上は曾孫まで、その特権が与えられる。)
 乙卯、百官が上表して中宮を立てるよう請うた。そこで、詔を下して言う。
「武氏の家門は勲庸著しく、地華纓黻、かつては才人に選ばれて後庭に入った。その誉れは重く徳は光る。朕は昔世継ぎとして先帝の慈愛を蒙り、常に侍従して朝夕先帝の側を離れなかった。宮壺の内ではいつも身を謹み、宮女の中では目を伏せていた。先帝はこれをちゃんとご覧になって、事毎に賞嘆され、遂に武氏を朕へ賜ったのだ。これは、政君の故事(漢の宣帝甘露三年参照)と等しい。武氏を皇后に立てるべきである。」
 丁巳、天下へ赦を下す。
 この日、皇后は上表して称した。
「陛下は以前、妾を宸妃にしようとなさいましたが、韓瑗と来済が面と向かって非難して、庭にて争いました。これは非常に難しいことです。国を思う深い想いでなくて何でしょうか。どうか褒賞を加えてください。」
 上は、これを瑗等へ示した。瑗等は深く憂懼し、屡々官位を去ることを請願したが、上は許さなかった。
 十一月、丁卯朔、皇后武氏へ璽綬冊を授けるよう、軒へ臨んで司空李勣へ命じた。この日、百官は粛義門にて皇后へ挨拶した。
 もとの皇后王氏ともとの淑妃蕭氏は、別院へ幽閉した。上はいつもこれを気にしており、ある時、その様子を見に行った。すると、部屋は厳密に密閉されており、壁の穴から食事を通すだけだった。それを見て、上はたまらなくなって、呼んだ。
「皇后、淑妃、息災か?」
 王氏は泣いて言った。
「妾らは罪を得て婢となった身です。何でそんな尊称を呼ばれますの!」
 又、言う。
「至尊がもしも昔をお忘れになられないなら、妾等に再びお日様を拝ませてください。どうかこの院を回心院と改名してくださいませ。」
 上は言った。
「朕は既に処置を考えている。」
 武后はこれを聞いて激怒して、人を派遣して王氏と蕭氏を百回づつ杖で打たせ、手足を切り取らせた。そして彼女達を捕まえて酒瓶の中へぶち込んで、言った。
「二人とも、骨まで酔いなさい!」
 数日して二人とも死んだので、死体を斬った。
 王氏が始めて宣敕を聞いた時、再拝して言った。
「大家の万歳を祈願いたします!昭儀の恩を承りました。私は殺されても仕方がありませんのに。」
 だが、淑妃は罵って言った。
「阿武の妖猾は、ここまで至ったか!来世では、我は猫に、阿武は鼠に転生しますように。その喉を噛みちぎってやる!」
 これ以来、宮中では猫を飼わなくなった。
 ついで、王氏の姓を蟒氏に、蕭氏を梟氏へ改姓した。
 武后はしばしば王、蕭が祟りを為すのを見た。髪はザンバラで血が滴り、まるで死んだ時のような有様だったという。後、蓬莱宮へ転居したが、それでも祟りを見た。だから、武后は洛陽に住むことが多く、終身長安へ帰らなかった。
 己巳、許敬宗が上奏した。
「永徽が始まりまして、国の本が生まれる前に、彗星がたなびいて二つの光より輝きました。しかし今、元妃が子を産み、正胤が降臨したのです。その証拠に日輪は二重になって輝きを増しております。枝と幹を逆に植え、天庭に誤った位が久しく続き、裳衣が倒襲され違方に位を震わせて、どうして良いものでしょうか!親子の間には他人が言い難いものがあります。あるいは逆鱗に触れて死を賜るかも知れません。しかし、臣の膏血を絞って鼎を染めることになりましょうとも、もとより望むところでございます。」
 上は召し出して、詳しく尋ねた。すると敬宗は答えた。
「皇太子は国の本でございます。本がまだ正しくありませんので、万国が気にならずにはいられません。それに、東宮に住まれているのは、微賤な出自。今、国家に既に正嫡が生まれたのを知り、きっと不安なはずです。位を盗んで不安を持てば、宗廟の福ではありません。どうか陛下、じっくりとお考えください。」
 上は言った。
「忠は、すでに自ら皇太子の辞退を言い出している。」
「ご辞退すれば、皇太子殿下は太伯になれるのです。どうか速やかに従ってください。」
 西突厥頡苾達度設數遣使請兵討沙鉢羅可汗。甲戌,遣豐州都督元禮臣册拜頡苾達度設爲可汗。禮臣至碎葉城,沙鉢羅發兵拒之,不得前。頡苾達度設部落多爲沙鉢羅所併,餘衆寡弱,不爲諸姓所附,禮臣竟不册拜而歸。
2.西突厥の頡苾達度設が、屡々使者を派遣して、沙鉢羅可汗討伐を請願した。
 甲戌、頡苾達度設へ冊を与え可汗としようと、豊州都元礼臣を派遣した。
 礼臣が砕葉城まで至ると、沙鉢羅が兵を発して拒んだので、先へ進めなかった。頡苾達度設は、部落の大半を沙鉢羅へ併呑されて勢力が弱くなり、諸姓から服従されていない。礼臣は、遂に冊を与えずに帰った。
 中書侍郎李義府參知政事。義府容貌温恭,與人語,必嬉怡微笑,而狡險忌克,故時人謂義府笑中有刀;又以其柔而害物,謂之李貓。
3.中書侍郎李義府を参知政事とした。義府は容貌は温厚恭謙で、人と語るときには微笑みを絶やさなかったが、狡猾陰険で凌がれることを嫌った。だから、時人は「義府の笑みの中には刃がある」と言った。又、上辺は柔らかいのに物を害するので、李猫とも言った。
顯慶元年(丙辰、六五六)

 春,正月,辛未,以皇太子忠爲梁王、梁州刺史;立皇后子代王弘爲皇太子,生四年矣。忠既廢,官屬皆懼罪亡匿,無敢見者;右庶子李安仁獨候忠,泣涕拜辭而去。安仁,綱之孫也。
1.春、正月、辛未。皇太子忠を梁王とし、梁州刺史にした。皇后の子息、代王弘を皇太子に立てる。生後四年である。
 忠が廃立されると、官属は皆罪を懼れて逃げ隠れ、敢えて挨拶する者が居ない。ただ、右庶子李安仁独り忠のもとへ伺い、涕泣拝辞して去った。安仁は、綱の孫である。
 壬申,赦天下,改元。
2.壬申、天下へ赦し、改元する。
 二月,辛亥,贈武士彠司徒,賜爵周國公。
3.二月、辛亥。武士彠を司徒として、周国公を賜下した。
 三月,以度支侍郎杜正倫爲黄門侍郎、同三品。
4.三月、度支侍郎杜正倫を黄門侍郎、同三品とした。
 夏,四月,壬子,矩州人謝無靈舉兵反,黔州都督李子和討平之。
5.夏、四月壬子、矩州の人謝無霊が挙兵して造反した。黔州都督李子和が討平する。
 己未,上謂侍臣曰:「朕思養人之道,未得其要,公等爲朕陳之!」來濟對曰:「昔齊桓公出游,見老而飢寒者,命賜之食,老人曰:『願賜一國之飢者。』賜之衣,曰:『願賜一國之寒者。』公曰:『寡人之廩府安足以周一國之飢寒!』老人曰『君不奪農時,則國人皆有餘食矣;不奪蠶要,則國人皆有餘衣矣!』故人君之養人,在省其征役而已。今山東役丁,歳別數萬,役之則人大勞,取庸則人大費。臣願陛下量公家所須外,餘悉免之。」上從之。
6.己未、上が侍臣へ言った。
「朕は人を養う道を考えるが、まだ、その要諦を得ない。公等、朕へ述べてみよ!」
 来済が言った。
「昔、斉の桓公が外へ出た時、飢え凍えた老人をみました。これへ食事を与えるよう命じると、老人は言いました。『どうか国中の飢えた者へ賜ってください。』着物を与えると、言いました。『国中の凍える者へ与えてください。』公は言いました。『寡人の蓄えで、どうして国中の飢え凍えを救えようか!』老人は言いました。『君が農事を奪わなければ、国人皆に食物が有り余ります。養蚕を奪わなければ、人は皆余分の着物まで持てます!』
 今、山東の役丁は毎年数万です。これを労役で取れば人々は疲れ果てますし、庸で取ればその費えが大変です。どうか陛下、公家に必要なもの以外は、悉く免除してください。」
 上はこれに従った。
 六月,辛亥,禮宮奏停太祖、世祖配祀,以高祖配昊天於圜丘,太宗配五帝於明堂;從之。
7.六月、辛亥。礼官が奏上した。「太祖、世祖の配祀をやめて、高祖は圜丘にて昊天を配し、太宗は明堂にて五帝を配してください。」
 上はこれに従った。
 秋,七月,乙丑,西洱蠻酋長楊棟附、顯和蠻酋長王郞祁、郞・昆・梨・盤四州酋長王伽衝等帥衆内附。
8.秋、七月、乙丑。西洱蛮の酋長王郎祁、郎・昆・梨・盤四州の酋長王伽衝等が衆を率いて帰順した。
 癸未,以中書令崔敦禮爲太子少師、同中書門下三品。
  八月,丙申,固安昭公崔敦禮薨。
9.癸未、中書令崔敦禮を太子少師、同中書門下三品とした。
 八月、丙申、固安昭公崔敦禮が卒した。
 10辛丑,葱山道行軍總管程知節撃西突厥,與歌邏、處月二部戰於楡慕谷,大破之,斬首千餘級。副總管周智度攻突騎施、處木昆等部於咽城,拔之,斬首三萬級。
10.辛丑、葱山道行軍総管程知節が西突厥を撃った。楡慕谷にて歌邏、處月と戦い、大いにこれを破り、千余の首級を挙げる。
 副総管周智度が咽城にて突騎施、處木昆等を攻めて、これを抜き、三万の首級を挙げる。
 11乙巳,龜茲王布失畢入朝。
11.乙巳、亀茲王布失畢が入朝する。
 12李義府恃寵用事。洛州婦人淳于氏,美色,繋大理獄,義府屬大理寺丞畢正義枉法出之,將納爲妾,大理卿段寶玄疑而奏之。上命給事中劉仁軌等鞫之,義府恐事洩,逼正義自縊於獄中。上知之,原義府罪不問。
  侍御史漣水王義方欲奏彈之,先白其母曰:「義方爲御史,視姦臣不糾則不忠,糾之則身危而憂及於親爲不孝,二者不能自決,奈何?」母曰:「昔王陵之母,殺身以成子之名。汝能盡忠以事君,吾死不恨!」義方乃奏:「義府於輦轂之下,擅殺六品寺丞;就云正義自殺,亦由畏義府威,殺身以滅口。如此,則生殺之威,不由上出,漸不可長,請更加勘當!」於是對仗,叱義府令下;義府顧望不退。義方三叱,上既無言,義府始趨出,義方乃讀彈文。上釋義府不問,而謂義方毀辱大臣,言辭不遜,貶萊州司戸。
12.李義府は寵愛を恃んで専横になった。洛州の婦人惇于氏は美人で、大理獄に繋がれていた。
 義府の属官の大理寺丞畢正義が法を曲げてこれを釈放し、義府の妾にしようとした。大理卿段寶玄は、これに疑惑を持って上奏した。上は、給事中劉仁軌へこれを取り調べさせた。義府は事の露見を懼れ、正義に獄中で首吊り自殺をさせた。上はこれを知ったが、不問に処した。
 侍御史漣水の王義方がこれを弾劾しようと思い、まず、その母親へ言った。
「義方は御史です。姦臣を見て糺さなければ不忠者。しかし、これを糺せば身は危うく、憂えが親に及びます。これは不孝者。二つのうちどちらか選ばねばなりません。どうしましょうか?」
 母は言った。
「昔、王陵の母は、身を殺して子の名を成したのです。汝が忠義を尽くして君に仕えてくれるのなら、我は死んでも恨みはありません!」
 そこで、義方は奏上した。
「義府は獄中にて六品寺丞を殺しました。かりに正義が自殺したとしても、それは義府の権威を畏れ、身を殺して口を封じたのです。それだと、生殺の権威が上以外から出たことになります。この風潮は助長させてはなりません。どうか厳しい処罰を与えてください。」
 そして、杖を持って義府を叱りつけた。義府は退出を望まず上を顧みたが、義方が三度叱咤しても、上は無言のままだった。義府はとうとう退出し、義方は弾劾文を読んだ。
 上は義府を赦して不問に処し、義方が大臣を侮辱し、その言葉は不遜だったとして、莱州司戸へ左遷した。
 13九月,括州暴風,海溢,溺四千餘家。
13.九月、括州で暴風が起こり、海が溢れて四千余家が流された。
 14冬,十一月,丙寅,生羌酋長浪我利波等帥衆内附,以其地置柘、栱二州。
14.冬、十一月、丙寅。生羌の酋長浪我利波等が衆を率いて帰順した。その地を柘、栱の二州とする。
 15十二月,程知節引軍至鷹娑川,遇西突厥二萬騎,別部鼠尼施等二萬餘騎繼至,前軍總管蘇定方帥五百騎馳往撃之,西突厥大敗,追奔二十里,殺獲千五百餘人,獲馬及器械,綿亙山野,不可勝計。副大總管王文度害其功,言於知節曰:「今茲雖云破賊,官軍亦有死傷,乘危輕脱,乃成敗之法耳,何急而爲此!自今當結方陳,置輜重在内,遇賊則戰,此萬全策也。」又矯稱別得旨,以知節恃勇輕敵,委文度爲之節制,遂收軍不許深入。士卒終日跨馬被甲結陳,不勝疲頓,馬多痩死。定方言於知節曰:「出師欲以討賊,今乃自守,坐自困敝,若遇賊必敗;懦怯如此,何以立功!且主上以公爲大將,豈可更遣軍副專其號令,事必不然。請囚文度,飛表以聞。」知節不從。至恆篤城,有羣胡歸附,文度曰「此屬伺我旋師,還復爲賊,不如盡殺之,取其資財。」定方曰:「如此乃自爲賊耳,何名伐叛!」文度竟殺之,分其財,獨定方不受。師旋,文度坐矯詔當死,特除名;知節亦坐逗遛追賊不及,減死免官。
15.十二月、程知節は軍を鷹婆川まで引いた。ここで西突厥の二万騎と遭遇する。更に、敵方には別部の鼠尼施等の二万騎が後続となっている。前軍総管蘇定方が五百騎を率いてこれを攻撃する。西突厥は大敗した。唐軍は二十里追撃し、千五百余人を殺獲する。山野に広がった馬や器械を獲得したが、その数は数えきれなかった。
 副大総管王文度がその功績を邪魔しようと、知節へ言った。
「今、賊軍を破ったとは言え、官軍にも死傷者が多い。危い時にはすぐに逃げる。それが戦争の常道だ。何で急に進軍するのか!それよりも、方陣を布いて輜重をその中へ置き、敵に遭遇したら戦う。これこそ万全の策だ。」
 また、別に旨を得たとでっちあげた。
”知節は勇猛を頼んで敵を侮っている。文度へ、これの節制を委ねる。”と。
 そして文度は、深入りを許さなかった。
 士卒は終日馬に跨り、武装して陣を結ぶ。その疲れは大変なものだった。多くの馬が、やせ衰えて死んだ。
 定方が知節へ言った。
「出陣して賊を討ちましょう。今、守りに専念し、自ら苦しんでいます。これでは、もしも敵に遭遇したら必ず敗北します。こんなに懦怯で、どうして功績が立てられますか!それに、主上が公を大将としたのに、更に軍副を派遣して号令を専任させることが、どうしてありましょうか。これは絶対変です。どうか文度を捕らえ、飛表を出して真偽を質してください。」
 知節は従わなかった。
 恒篤城まで進軍すると、群胡が帰属した。文度は言った。
「こいつらは、今は我等が帰国するのを待って、再び賊へ帰順するつもりだ。皆殺しにして、資財は奪ってしまえ。」
 定方は言った。
「そんなことをしたら、我等が賊になってしまいます。どんな名分で討伐できますか!」
 文度はついにこれを殺し、その資財を皆で山分けしたが、定方だけは受け取らなかった。軍が帰国すると、文度は詔をでっち上げた件が有罪となった。死罪となるべき所を、特に除名で済ませる。知節は逗留して敵を追わなかったことで有罪となり、死を減じて免官となった。
 16是歳,以太常卿駙馬都尉高履行爲益州長史。
16.この年、太常卿駙馬都尉高履行を益州長史とする。
 17韓瑗上疏,爲褚遂良訟冤曰:「遂良體國忘家,捐身徇物,風霜其操,鐵石其心,社稷之舊臣,陛下之賢佐。無聞罪状,斥去朝廷,内外甿黎,咸嗟舉措。臣聞晉武弘裕,不貽劉毅之誅;漢祖深仁,無恚周昌之直。而遂良被遷,已經寒暑,違忤陛下,其罰塞焉。伏願緬鑒無辜,稍寬非罪,俯矜微款,以順人情。」上謂瑗曰:「遂良之情,朕亦知之。然其悖戻好犯上,故以此責之,卿何言之深也!」對曰:「遂良社稷忠臣,爲讒諛所毀。昔微子去而殷國以亡,張華存而綱紀不亂。陛下無故棄逐舊臣,恐非國家之福!」上不納。瑗以言不用,乞歸田里,上不許。
17.韓瑗が、褚遂良は冤罪だと上疏し、言った。
「遂良は御国を思って家を忘れ、身を損なって職務に殉じました。その操は風霜に耐え、心は鉄石。実に社稷の旧臣、陛下の賢佐でございます。それが、罪もないのに朝廷を追い払われました。内外は民は嘆いております。晋の武帝は弘裕で劉毅の誅を咎めず、漢の高祖は深仁で周昌の直を含みませんでした。それなのに遂良は左遷され、既に季節が一巡り。陛下の意向へ違いましたが、その罰としては充分でございます。伏してお願い申し上げます。無辜の者を赦免し、罪なき者へ寛容になり、ねんごろに襟を正して、人情に従ってください。」
 上は、瑗へ言った。
「遂良の情は、朕も判っている。だが、奴は悖逆暴戻で上を犯すことを好んだから、このような叱責に至ったのだ。それなのに、卿は何でここまで言うのか!」
 対して言った。
「遂良は社稷の忠臣で、讒言によって左遷させられました。昔、殷は微子が去った為に亡びましたが、晋は張華が残った為に綱紀が乱れませんでした。陛下は理由もなしに旧臣を放逐しました。これは国家の福ではございません!」
 上は、納れなかった。
 瑗は意見が納れられなかったので田里へ帰ることを請うたが、上は許さなかった。
 18劉洎之子訟其父冤,稱貞觀之末,爲褚遂良所譖而死,李義府復助之。上以問近臣,衆希義府之旨,皆言其枉。給事中長安樂彦瑋獨曰:「劉洎大臣,人主暫有不豫,豈得遽自比伊、霍!今雪洎之罪,謂先帝用刑不當乎!」上然其言,遂寢其事。
18.劉洎の子が、父親の冤罪を訴え、言った。
「貞観の末期、褚遂良の讒言の為に殺されたのです。」
 李義府が、これを助けた。上が近臣へ問うと、皆は義府の旨へ諂って、あの誅殺が行き過ぎだったと言った。ただ、給事中の長安の楽彦瑋独りだけは言った。
「劉洎は大臣でした。人主が重態の時に、何で自分を伊尹や霍光へなぞらえてよいものでしょうか!今、洎の罪を雪ぐのならば、先帝が刑を乱用したというのですか!」
 上はその言葉に得心し、この事は沙汰止みとなった。
二年(丁巳、六五七)

 春,正月,癸巳,分哥邏祿部置陰山、大漠二都督府。
1.春、正月、癸巳。哥邏禄部を分けて陰山、大漠の二都督府を設置した。
 閏月,壬寅,上行幸洛陽。
2.閏月、壬寅、上は洛陽へ御幸した。
 庚戌,以左屯衞將軍蘇定方爲伊麗道行軍總管,帥燕然都護渭南任雅相、副都護蕭嗣業發回紇等兵,自北道討西突厥沙鉢羅可汗。嗣業,鉅之子也。
  初,右衞大將軍阿史那彌射及族兄左屯衞大將軍歩眞,皆西突厥酋長,太宗之世,帥衆來降;至是,詔以彌射、歩眞爲流沙安撫大使,自南道招集舊衆。
3.庚戌、左屯衛将軍蘇定方を伊麗道行軍総管とし、燕然都護渭南の任雅相と副都護蕭嗣業を率いて回紇等の兵を徴発して北道から西突厥の沙鉢羅可汗を討つよう命じた。
 嗣業は鉅の子息である。
 右衛大将軍阿史那彌射と族兄左屯衛大将軍歩眞は、皆、もとは西突厥の酋長だったが、太宗の時代に衆を率いて来降した。ここに至って詔が降り、彌射、歩眞を流沙安撫大使として、南道から旧衆を招集させた。
 二月,辛酉,車駕至洛陽宮。
4.二月、辛酉。車駕が洛陽宮へ到着した。
 庚午,立皇子顯爲周王。壬申,徙雍王素節爲郇王。
5.庚午、皇子顯を周王に立てる。壬申、雍王素節を郇王へ移した。
 三月,甲辰,以潭州都督褚遂良爲桂州都督。
6.三月、甲辰。淡州都督褚遂良を桂州都督とした。
 癸丑,以李義府兼中書令。
7.癸丑、李義府へ中書令を兼務させる。
 夏,五月,丙申,上幸明德宮避暑。上自即位,毎日視事;庚子,宰相奏天下無虞,請隔日視事;許之。
8.夏、五月、丙申。上は避暑の為、明徳宮へ御幸した。
 上は即位以来毎日政務を執っていた。庚子、宰相は天下が無事なので政務を隔日に執るよう請願した。これを許す。
 秋,七月,丁亥朔,上還洛陽宮。
9.秋、七月、丁亥朔。上は洛陽宮へ還った。
 10王玄策之破天竺也,得方士那羅邇娑婆寐以歸,自言有長生之術,太宗頗信之,深加禮敬,使合長生藥。發使四方求奇藥異石,又發使詣婆羅門諸國采藥。其言率皆迂誕無實,苟欲以延歳月,藥竟不就,乃放還。上即位,復詣長安,又遣歸。玄策時爲道王友,辛亥,奏言:「此婆羅門實能合長年藥,自詭必成,今遣歸,可惜失之。」玄策退,上謂侍臣曰:「自古安有神仙!秦始皇、漢武帝求之,疲弊生民,卒無所成。果有不死之人,今皆安在!」李勣對曰:「誠如聖言。此婆羅門今茲再來,容髪衰白,已改於前,何能長生!陛下遣之,内外皆喜。」娑婆寐竟死於長安。
10.王玄策は天竺を破った後、方士の那羅邇娑婆寐を得て帰った。彼は、自ら長生の術を得ていると吹聴し、太宗はこれを信じ、深く礼敬を加えて長生薬を調合させた。四方へ使者を発して奇薬異石を求め、婆羅門へ使者を出して諸国へ薬を取りに行かせた。
 だが、那羅邇娑婆寐の言葉は皆、迂誕無実で、ただ時間稼ぎをしているだけ。薬は遂に手に入らず、追い出した。
 上が即位すると、那羅邇娑婆寐は再び長安へやって来たが、上はこれを追い返した。
 この時、玄策は道王の友人となっていた。辛亥、玄策は上言した。 
「この婆羅門は、長年薬を調合しており、必ずできると言っております。今追い返したのは、惜しむべき事です。」
 玄策が退出すると、上は侍臣へ言った。
「昔から、神仙なぞどこにいるか!秦の始皇帝や漢の武帝がこれを求めたが、民を疲弊させただけで何も手に入らなかった。もしも不死の人が居るのなら、彼等は今何処に住んでいるのだ!」
 李勣が言った。
「まこと、聖言の通りです。この婆羅門は久しぶりに再来しましたが、顔はしわくちゃで髪は白くなり、以前とはずいぶん変わりました。何で長生ができるものですか!陛下がこれを追い返したので、内外は皆喜んでおります。」
 11許敬宗、李義府希皇后旨,誣奏侍中韓瑗、中書令來濟與褚遂良潛謀不軌,以桂州用武之地,授遂良桂州都督,欲以爲外援。八月,丁卯,瑗坐貶振州刺史,濟貶台州刺史,終身不聽朝覲。又貶褚遂良爲愛州刺史,榮州刺史柳奭爲象州刺史。
  遂良至愛州,上表自陳:「往者濮王、承乾交爭之際,臣不顧死亡,歸心陛下。時岑文本、劉洎奏稱『承乾惡状已彰,身在別所,其於東宮,不可少時虚曠,請且遣濮王往居東宮。』臣又抗言固爭,皆陛下所見。卒與無忌等四人共定大策。及先朝大漸,獨臣與無忌同受遺詔。陛下在草土之辰,不勝哀慟,臣以社稷寬譬,陛下手抱臣頸。臣與無忌區處衆事,咸無廢闕,數日之間,内外寧謐。力小任重,動罹愆過,螻蟻餘齒,乞陛下哀憐。」表奏,不省。
11.許敬宗、李義府が皇后の意向へ阿って侍中の韓瑗と中書令の来済を誣告した。「彼等は褚遂良と共に密かに不軌を謀った。桂州は戦争の強い土地だから、遂良を外援とする為に桂州都督とした。」とゆう内容だった。
 八月、丁卯、二人は有罪となり、瑗は振州刺史へ、済は台州刺史へ降格され、終身朝政へ関与できないことになった。また、褚遂良は愛州刺史へ降格され、栄州刺史柳奭は象州刺史となった。
 遂良が愛州へ到着すると、上表して自ら陳述した。
「昔、濮王と承乾が皇位を争った時、臣は死を顧みず、陛下へ帰心いたしました。この時、岑文本と劉洎が上奏いたしました。『承乾の悪状は既に露見して、幽閉されましたが、東宮はいつまでも空位としておく訳にはいきません。どうか濮王を東宮へ派遣してください。』これへ対して臣は、強く言い争いました。これらは陛下御自身がその目で見られたことでございます。そして遂に、無忌等四人で共に大策を定めました。先帝がご危篤に及び、臣と無忌だけが遺詔を受けました。陛下が草土の辰にあって哀慟なさっている時、臣は社稷の大事を説きますと、陛下は臣の頸を抱えたものでした。臣と無忌は雑多な事を丁寧に処理しましたので、数日の間に内外は安寧になりました。能がないのに任務は重く、ややもすれば行き過ぎたこともございましたが、臣ももはや老齢でございます。どうか陛下、哀れんで下さいませ。」
 表は上奏されたが、顧みられなかった。
 12己巳,禮官奏:「四郊迎氣,存太微五帝之祀;南郊明堂,廢緯書六天之義。其方丘祭地之外,別有神州,亦請合爲一祀。」從之。
12.己巳、礼官が上奏した。
「四郊で気を迎えるのは、太微五帝の祀です。南郊の明堂は緯書の六天の義に背いております。その方丘で地を祭る以外、別に神州があります。どうか、これを合わせて一祀としてください。」(かなり判りにくい文章です。どなたか翻訳してください。)
 これに従う。
 13辛未,以禮部尚書許敬宗爲侍中,兼度支尚書杜正倫爲兼中書令。
13.辛巳、礼部尚書許敬宗を侍中とし、兼度支尚書杜正倫は中書令を兼務させた。
 14冬,十月,戊戌,上行幸許州。乙巳,畋于滍水之南。壬子,至汜水曲。十二月,乙卯朔,車駕還洛陽宮。
14.冬、十月、戊戌、上が許州へ御幸した。
 乙巳、滍水の南で猟をする。壬子、汜水曲へ至る。十二月、乙卯朔、車駕が洛陽宮へ還る。
 15蘇定方撃西突厥沙鉢羅可汗,至金山北,先撃處木昆部,大破之,其俟斤嬾獨祿等帥萬餘帳來降,定方撫之,發其千騎與倶。
  右領軍郎將薛仁貴上言:「泥孰部素不伏賀魯,爲賀魯所破,虜其妻子。今唐兵有破賀魯諸部得泥孰妻子者,宜歸之,仍加賜賚,使彼明知賀魯爲賊而大唐爲之父母,則人致其死,不遺力矣。」上從之。泥孰喜,請從軍共撃賀魯。
  定方至曳咥河西,沙鉢羅帥十姓兵且十萬,來拒戰。定方將唐兵及回紇萬餘人撃之。沙鉢羅輕定方兵少,直進圍之。定方令歩兵據南原,攢矟外向,自將騎兵陳於北原。沙鉢羅先攻歩軍,三衝不動,定方引騎兵撃之,沙鉢羅大敗,追奔三十里,斬獲數萬人;明日,勒兵復進。於是胡祿屋等五弩失畢悉衆來降,沙鉢羅獨與處木昆屈律啜數百騎西走。時阿史那歩眞出南道,五咄陸部落聞沙鉢羅敗,皆詣歩眞降。定方乃命蕭嗣業、回紇婆閏將胡兵趨邪羅斯川,追沙鉢羅,定方與任雅相將新附之衆繼之。會大雪,平地二尺,軍中咸請俟晴而行,定方曰:「虜恃雪深,謂我不能進,必休息士馬。亟追之可及,若緩之,彼遁逃浸遠,不可復追,省日兼功,在此時矣!」乃蹋雪晝夜兼行。所過收其部衆,至雙河,與彌射、歩眞兵合,去沙鉢羅所居二百里,布陳長驅,徑至其牙帳。沙鉢羅與其徒將獵,定方掩其不備,縱兵撃之,斬獲數萬人,得其鼓纛,沙鉢羅與其子咥運、壻閻啜等脫走,趣石國。定方於是息兵,諸部各歸所居,通道路,置郵驛,掩骸骨,問疾苦,畫疆場,復生業,凡爲沙鉢羅所掠者,悉括還之,十姓安堵如故。乃命蕭嗣業將兵追沙鉢羅,定方引軍還。
  沙鉢羅至石國西北蘇咄城,人馬飢乏,遣人齎珍寶入城市馬。城主伊沮達官詐以酒食出迎,誘之入,閉門執之,送于石國。蕭嗣業至石國,石國人以沙鉢羅授之。
  乙丑,分西突厥地置濛池、崑陵二都護府,以阿史那彌射爲左衞大將軍、崑陵都護、興昔亡可汗,押五咄陸部落;阿史那歩眞爲右衞大將軍、濛池都護、繼往絶可汗,押五弩失畢部落。遣光祿卿盧承慶持節册命,仍命彌射、歩眞與承慶據諸姓降者,準其部落大小,位望高下,授刺史以下官。
15.蘇定方が西突厥の沙鉢羅可汗を攻撃した。
 金山の北にて、まず處木昆部を撃ち、大いにこれを破る。その俟斤嬾獨禄等が万余帳を率いて来降した。定方はこれを慰撫し、そのうちに千騎を徴発して同行した。
 右領軍郎将薛仁貴が上言した。
「泥孰部はもともと賀魯へ服従していませんでしたが、賀魯がこれを撃破して、その妻子を捕らえたのです。今、唐軍が賀魯の諸部を破って泥孰の妻子を得ました。これを泥孰部へ帰してやり、更に恩賞を賜下すれば、彼等は賀魯は賊で大唐は父母だと思い知ります。そうすれば、彼等は命懸けで戦ってくれます。」
 上はこれに従った。泥孰は喜び、従軍して共に賀魯を攻撃したいと請願した。
 定方が曳咥河西へ至ると、沙鉢羅は十姓の兵十万を率いて拒戦した。定方は唐兵と回紇万余人を率いてこれを攻撃した。沙鉢羅は、定方の兵が少ないので軽く見て、直進して包囲した。定方は歩兵を南原へ據らせ、矛先を外へ向けて構えさせた。自身は、騎兵を率いて北原に陣を布く。沙鉢羅は、まず歩兵を攻めたが、三度ぶつかっても唐軍は動かなかった。そこへ定方が、騎兵を率いて突撃する。沙鉢羅は大敗した。唐軍は三十里追撃し、数万人を斬獲した。
 翌日、定方は再び進軍した。ここにおいて胡禄屋等五弩失畢がことごとく来降した。沙鉢羅ひとり處木昆屈律啜と数百騎で西へ逃げた。
 この時、阿史那歩真が南道から出てきた。五咄陸部落は、沙鉢羅が敗北したと聞き、皆、歩真のもとへやって来て、降伏した。
 定方は蕭嗣業、回紇婆閏へ胡兵を率いて邪羅斯川へ向って沙鉢羅を追撃するよう命じた。定方と任雅相は降伏してきた者達を率いて後続となった。
 ここで、大雪が降った。平地で二尺積もる。軍中の将兵は、あるいは晴れるまで待とうと言ったが、定方は言った。
「虜は、雪の深さを恃みとして、我等は進軍しないと多寡を括り、必ずや士馬を休めている。ここは速やかに追撃するべきだ。もしももたついて奴等を逃がしてしまったら、もう追いつくことができない。今こそ功績を建てるのだ!」
 こうして、雪を掻き分け昼夜兼行した。
 通過する部落で衆を収めて行く。雙河へ至って、彌射、歩真と合流した。沙鉢羅の居所まで二百里。布陣長躯して、その牙帳へ迫った。
 沙鉢羅は、部下達と狩猟をしていた。定方はその不備を衝いて襲撃した。数万人を斬獲し、その鼓纛を得る。沙鉢羅は、その子息の咥運、婿の閻啜羅と脱走し、石国へ逃げた。
 定方は兵を休め、諸部は各々居所へ帰し、通行の封鎖を解き郵駅を設置し、死体を収容し疾苦を問い、国境を定め、生業を復活させた。およそ沙鉢羅に掠められたものは、悉く元へ戻し、十姓を従来のように安堵した。更に蕭嗣業へ沙鉢羅の追撃を命じて、定方は軍を返した。
 沙鉢羅は、石国の東北の蘇咄城へ到着した時には人馬が飢えきっていた。そこで人を城内へ派遣して、珍宝で馬などを購入させた。城主の伊沮達は、偽って酒食を用意して出迎え、彼等を城内へ誘い入れた。そして、門を閉じて捕らえ、石国へ送る。蕭嗣業が石国へ到着すると、石国の人は沙鉢羅を彼等へ引き渡した。
 乙丑、西突厥の土地を二分して濠池と崑陵の二都護府を設置した。阿史那彌射を左衛大将軍、崑陵都護、興昔亡可汗として五咄陸部落を支配させ、阿史那歩真を右衛大将軍、濠池都護、継往絶可汗として五弩失畢部落を支配させた。光六卿盧承慶を時節冊命として派遣し、彌射、歩眞と承慶の降伏した諸姓へ刺史以下の官を授けさせた。その高低は、部落の大小や位望の高下に準拠させる。
 16丁卯,以洛陽宮爲東都,洛州官吏員品並如雍州。
16.丁卯、洛陽宮を東都とし、洛州の官吏の員品は雍州に準じさせる。
 17是歳,詔:「自今僧尼不得受父母及尊者禮拜,所司明有法制禁斷。」
17.この年、詔が降りた。「今後、父母及び尊者の礼拝を受けていない僧尼は、法制によって禁止する。」
 18以吏部侍郎劉祥道爲黄門侍郎,仍知吏部選事。祥道以爲:「今選司取士傷濫,毎年入流之數,過一千四百,雜色入流,曾不銓簡。即日内外文武官一品至九品,凡萬三千四百六十五員,約準三十年,則萬三千餘人略盡矣。若年別入流者五百人,足充所須之數。望有釐革。」既而杜正倫亦言入流人太多。上命正倫與祥道詳議,而大臣憚於改作,事遂寢。祥道,杜甫之子也。
18.吏部侍郎劉祥道を黄門侍郎、仍知吏部選事とする。
 祥道は言った。
「今、官吏として採用する者が多くなりすぎています。毎年、千四百人もの官吏を登用し、歯止めがありません。今、内外の文武官は一品から九品まで合わせて、一万三千四百六十五人です。登用して三十年働くとするなら、毎年五百人を登用すれば勘定が合います。どうかご改革ください。」
 杜正倫も、また採用人数が多すぎると上言していた。そこで上は正倫と祥道へ詳しく議論するよう命じた。だが大臣は、改正されることを憚り、うやむやにしてしまった。
 祥道は林甫の子息である。
三年(戊午、六五八)

 春,正月,戊子,長孫無忌等上所脩新禮;詔中外行之。先是,議者謂貞觀禮節文未備,故命無忌等脩之。時許敬宗、李義府用事,所損益多希旨,學者非之。太常博士蕭楚材等以爲豫備凶事,非臣子所宜言;敬宗、義府深然之,遂焚國恤一篇,由是凶禮遂闕。
1.春、正月、戊子。長孫無忌等が新しい礼式を制定した。詔して中外にこれを施行させる。
 もともと、議者は貞観の礼節文が不完全であるとしたので、無忌等へ修正するよう命じていたのである。
 この時、許敬宗、李義府が実権を握っており、損益したものの多くは彼等の希望に沿っていたので、学者はこれを非難した。
 太常博士蕭楚材等は、凶事に預かることは、臣子が述べるべきではないとした。敬宗も義府もこれに得心し、遂に『国恤』一篇を焼き捨てた。これ以来、凶時の礼式が欠落してしまった。
 初,龜茲王布失畢妻阿史那氏與其相那利私通,布失畢不能禁,由是君臣猜阻,各有黨與,互來告難。上兩召之,既至,囚那利,遣左領軍郎將雷文成送布失畢歸國。至龜茲東境泥師城,龜茲大將羯獵顛發衆拒之,仍遣使降於西突厥沙鉢羅可汗。布失畢據城自守,不敢進。詔左屯衞大將軍楊冑發兵討之。會布失畢病卒,冑與羯獵顛戰,大破之,擒羯獵顛及其黨,盡誅之,乃以其地爲龜茲都督府。戊申,立布失畢之子素稽爲龜茲王兼都督。
2.話は遡るが、亀茲王布失畢の妻阿史那氏は、相の那利と密通していた。布失畢は、禁じることができなかった。これによって君臣は猜疑し、各々派閥を作って互いに相手を告発した。そこで上は両者を召し出した。二人が出頭すると、上は那利を捕らえた。布失畢は、左領軍郎将雷文成に送らせて帰国させた。
 亀茲の東境の泥師城へ到着すると、亀茲の大将羯猟顛が衆を指揮して入国を拒んだ。そして、西突厥の沙鉢羅可汗へ使者を派遣して降伏した。
 布失畢は城に據って守り、敢えて進まない。上は、左屯衛大将軍楊冑へ、兵を発しこれを討伐するよう詔した。
 やがて布失畢が病死すると、冑は羯猟顛と戦い、大いに破った。羯猟顛とその一党を捕らえ、悉く誅殺し、その地に亀茲総督府を設置した。
 戊申、布失畢の子息素稽を立てて亀茲王とし、総督を兼任させた。
 二月,丁巳,上發東都;甲戌,至京師。
3.二月、丁巳。上が東都を出発した。甲戌、京師へ到着する。
 夏,五月,癸未,徙安西都護府於龜茲,以舊安西復爲西州都督府,鎭高昌故地。
4.夏、五月、癸未。安西都護府を亀茲へ移し、旧安西を復して西州都護府とし、高昌の故地を鎮守させた。
 六月,營州都督兼東夷都護程名振、右領軍中郎將薛仁貴將兵攻高麗之赤烽鎭,拔之,斬首四百餘級,捕虜百餘人。高麗遣其大將豆方婁帥衆三萬拒之,名振以契丹逆撃,大破之,斬首二千五百級。
5.六月、営州都督兼東夷都護程名振、右領軍忠郎将薛仁貴が兵を率いて高麗の赤烽鎮を攻撃し、これを抜く。斬首は四百余級、捕虜は百余人。
 高麗はその大将豆方婁へ三万の兵を与えて派遣し、拒戦させた。名振は契丹を以て迎撃し、大いにこれを破る。二千五百級を斬首する。
 秋,八月,甲寅,播羅哀獠酋長多胡桑等帥衆内附。
6.秋、八月、甲寅。播羅哀獠の酋長多胡桑が、衆を率いて帰属した。
 冬,十月,庚申,吐蕃贊普來請婚。
7.冬、十月、庚申。吐蕃の賛普が通婚を求めた。
 中書令李義府有寵於上,諸子孩抱者並列清貴。而義府貪冒無厭,母、妻及諸子、女壻,賣官鬻獄,其門如市,多樹朋黨,傾動朝野。中書令杜正倫毎以先進自處,義府恃恩,不爲之下,由是有隙,與義府訟於上前。上以大臣不和,兩責之。十一月,乙酉,貶正倫橫州刺史,義府普州刺史。正倫尋卒於橫州。
8.中書令李義府が上から寵愛され、諸子は幼児でも高官に列した。それに義府は貪欲で厭きることが無く、母、妻及び諸子、婿は官位を売ったり賄賂で裁判を曲げたりした。その門前は市を為し、朋党を大勢作り、朝野を傾けた。
 中書令杜正倫は先輩として振る舞っていたが、義府は上の寵を恃んで謙らない。これによって仲が悪くなり、上の前で義府を訟した。上は大臣が不和なので、共に責めた。
 十一月、乙酉。正倫を横州刺史、義府を普州刺史へ左遷する。やがて正倫は横州にて卒した。
 阿史那賀魯既被擒,謂蕭嗣業曰:「我本亡虜,爲先帝所存,先帝遇我厚而我負之,今日之敗,天所怒也。吾聞中國刑人必於市,願刑我於昭陵之前以謝先帝。」上聞而憐之。賀魯至京師,甲午,獻于昭陵。敕免其死,分其種落爲六都督府,其所役屬諸國皆置州府,西盡波斯,並隸安西都護府。賀魯尋死,葬於頡利墓側。
9.阿史那賀魯が捕らわれた後、蕭嗣業へ言った。
「我は元々滅亡した虜なのに、先帝から擁立していただいた。先帝は我を厚く遇したのに、我はこれに背いた。今回の敗北は、天の怒りだ。中国では、市場で処刑すると聞いているが、どうか昭陵の前で処刑して欲しい。先帝へ謝りたいのだ。」
 上は、これを聞いて憐れんだ。
 賀魯は京師に到着し、甲午、昭陵へ献じた。敕が降りて、彼の死は免除された。その種落は六都督府に分け、彼へ服属していた諸国には、皆、州府を置いた。その領土は、西は波斯へ接した。全て安西都督府の麾下へ入れる。
 賀魯が死ぬと、頡利の墓の側へ葬った。
 10戊戌,以許敬宗爲中書令,大理卿辛茂將爲兼侍中。
10.戊戌、許敬宗を中書令とし、大理卿辛茂将へ侍中を兼任させる。
 11開府儀同三司鄂忠武公尉遲敬德薨。敬德晩年閒居,學延年術,修飾池臺,奏清商樂以自奉養,不交通賓客,凡十六年。年七十四,以病終,朝廷恩禮甚厚。
11.開府儀同三司鄂忠武公尉遅敬徳が卒した。
 敬徳は晩年は閑居し、長生の術を学び、池台を造り音楽を奏でさせて自ら楽しんだ。およそ十六年、賓客とは付き合わなかった。享年七十四、病気で没する。朝廷の恩礼はとても厚かった。
 12是歳,愛州刺史褚遂良卒。
12.この年、愛州刺史褚遂良が卒した。
 13雍州司士許禕與來濟善,侍御史張倫與李義府有怨,吏部尚書唐臨奏以禕爲江南道巡察使,倫爲劍南道巡察使。是時義府雖在外,皇后常保護之。以臨爲挾私選授。
13.雍州司士許禕は来済と仲が良く、侍御史張倫と李義府を怨んでいた。
 吏部尚書唐臨が、禕を江南道巡察使とし、倫を剣南道巡察使とするよう上奏した。この時、義府は地方へ飛ばされていたが、皇后は常に保護していたので、臨が私的な想いで人選したと受け取った。
四年(己未、六五九)

 春,二月,乙丑,免臨官。
1.春、二月、乙丑。臨を免官する。
 三月,壬午,西突厥興昔亡可汗與眞珠葉護戰于雙河,斬眞珠葉護。
2.三月、壬午。西突厥の興昔亡可汗が真珠葉護が雙河にて戦い、真珠葉護を斬った。
 夏,四月,丙辰,以于志寧爲太子太師、同中書門下三品;乙丑,以黄門侍郎許圉師參知政事。
3.夏、四月丙辰。于志寧を太子太師、同中書門下三品とした。
 乙丑、黄門侍郎許圉師を参知政事とする。
 武后以太尉趙公長孫無忌受重賜而不助己,深怨之。及議廢王后,燕公于志寧中立不言,武后亦不悅。許敬宗屢以利害説無忌,無忌毎面折之,敬宗亦怨。武后既立,無忌内不自安,后令敬宗伺其隙而陷之。
  會洛陽人李奉節告太子洗馬韋季方、監察御史李巣朋黨事,敕敬宗與辛茂將鞫之。敬宗按之急,季方自刺,不死,敬宗因誣奏季方欲與無忌構陷忠臣近戚,使權歸無忌,伺隙謀反,今事覺,故自殺。上驚曰:「豈有此邪!舅爲小人所間,小生疑阻則有之,何至於反!」敬宗曰:「臣始末推究,反状已露,陛下猶以爲疑,恐非社稷之福。」上泣曰「我家不幸,親戚間屢有異志,往年高陽公主與房遺愛謀反,今元舅復然,使朕慙見天下之人。茲事若實,如之何?」對曰:「遺愛乳臭兒,與一女子謀反,勢何所成!無忌與先帝謀取天下,天下服其智;爲宰相三十年,天下畏其威;若一旦竊發,陛下遣誰當之!今賴宗廟之靈,皇天疾惡,因按小事,乃得大姦,實天下之慶也。臣竊恐無忌知季方自刺,窘急發謀,攘袂一呼,同惡雲集,必爲宗廟之憂。臣昔見宇文化及父述爲煬帝所親任,結以婚姻,委以朝政;述卒,化及復典禁兵,一夕於江都作亂,先殺不附己者,臣家亦豫其禍,於是大臣蘇威、裴矩之徒,皆舞蹈馬首,唯恐不及,黎明遂傾隋室。前事不遠,願陛下速決之!」上命敬宗更加審察。明日,敬宗復奏曰:「昨夜季方已承與無忌同反,臣又問季方:『無忌與國至親,累朝寵任,何恨而反?』季方答云:『韓瑗嘗語無忌云:「柳奭、褚遂良勸公立梁王爲太子,今梁王既廢,上亦疑公,故出高履行於外。」自此無忌憂恐,漸爲自安之計。後見長孫祥又出,韓瑗得罪,日夜與季方等謀反。』臣參驗辭状,咸相符合,請收捕準法。」上又泣曰:「舅若果爾,朕決不忍殺之,天下將謂朕何,後世將謂朕何!」敬宗對曰:「薄昭,漢文帝之舅也,文帝從代來,昭亦有功,所坐止於殺人,文帝使百官素服哭而殺之,至今天下以文帝爲明主。今無忌忘兩朝之大恩,謀移社稷,其罪與薄昭不可同年而語也。幸而姦状自發,逆徒引服,陛下何疑,猶不早決!古人有言:『當斷不斷,反受其亂。』安危之機,間不容髮。無忌今之姦雄,王莽、司馬懿之流也;陛下少更遷延,臣恐變生肘腋,悔無及矣!」上以爲然,竟不引問無忌。戊辰,下詔削無忌太尉及封邑,以爲揚州都督,於黔州安置,準一品供給。祥,無忌之從父兄子也,前此自工部尚書出爲荊州長史,故敬宗以此誣之。
  敬宗又奏:「無忌謀逆,由褚遂良、柳奭、韓瑗構扇而成;奭仍潛通宮掖,謀行鴆毒,于志寧亦黨附無忌。」於是詔追削遂良官爵,除奭、瑗名,免志寧官。遣使發道次兵援送無忌詣黔州。無忌子秘書監駙馬都尉沖等皆除名,流嶺表。遂良子彦甫、彦沖流愛州,於道殺之。益州長史高履行累貶洪州都督。
4.武后は、太尉趙公長孫無忌が重賜を受けながら自分を助けなかったので、深く怨んでいた。王后廃立の議論の時、燕公于志寧は中立で何も言わなかった。武后は、これも悦ばなかった。
 許敬宗は、無忌へ屡々利害を説いたが、無忌はこれを面罵したので、敬宗も彼を怨んだ。
 武后が皇后になると無忌は内心不安でならず、また、武后は敬宗にこれを陥れる隙を伺わせた。
 さて、洛陽の人李奉節が太子洗馬韋季方と監察御史李巣が朋党を組んでいると告発した。すると敬宗と辛茂将へ、これを審議するよう敕が降った。敬宗がこれを性急に尋問すると、李方は自刃したが、死にきれなかった。そこで敬宗は、でっちあげを奏上した。
「李方は無忌と共に忠臣近戚を陥れて、権力を全て無忌へ集中させてから隙を伺って造反しようとしていたのですが、事が発覚したので自殺したのです。」
 上は驚いて言った。
「なんでそんなことがあろうか!舅が小人から間され、小生が疑いを持ちはしたが、なんで造反にまで至るものか!」
 敬宗は言った。
「臣の取り調べで、反状は既に顕れたのです。陛下がなお疑われるのは、社稷の福ではありません。」
 上は泣いて言った。
「我家は不幸にも、親戚間で屡々異志が出た。往年は高陽公主と房遺愛が謀反し、今、元舅までこんなことをして、朕を天下の人々へ対して恥じ入らせるのか。これが事実なら、どうすればよいだろうか?」
「遺愛のような乳臭い小児が一女子と造反しても、なにができましょうか!ですが無忌は先帝と謀って天下を取り、天下はその智に敬服しています。宰相となって三十年、天下はその威に畏れております。もし一旦造反したら、陛下は一体誰を派遣して相対させるのですか!今、宗廟の霊が助け給い、皇天もその悪を憎み、小事が発端で大姦を見つけたのです。実に、天下の慶事ではありませんか。無忌が李方の自刃を知って、急遽事を起こすことを、臣はひそかに恐れております。袂を払って一呼すれば同悪が雲集し、必ずや宗廟の憂となりましょう。臣は昔、宇文化及と父の述が煬帝から親任されていたのを見ていました。婚姻で結ばれ朝政を委ねられ、述が死ぬと、化及は禁兵の指揮を任されたのです。ですが一夕江都で乱が起こると、彼等は自分に懐かない者を殺し、臣の家も禍を蒙りました。ここにおいて大臣蘇威、裴矩の輩は、皆震え上がってただ自分に禍が降りかかることばかりを恐れ、黎明には隋室は傾いたのです。前事は遠くありません。どうか陛下、速やかにご決断ください!」
 上は、更に詳しく調べるよう敬宗へ命じた。
 翌日、敬宗は再び奏上した。
「昨夜、李方は既に無忌との造反を認めました。そこで臣は、また李方へ問いました。『無忌は国の至親で、何代にも亘って寵任されてきた。何を恨んでの造反か?』すると李方は答えました。『韓瑗が、かつて無忌へ語りました。「柳奭と褚遂良は、梁王を太子に立てるよう公へ勧めた。今、梁王は既に廃されて上も又公を疑っている。だから高履行も地方へ飛ばされたのだ。」それ以来、無忌は憂恐し、次第に自安の計略を練るようになったのです。後見している長孫祥もまた地方へ飛ばされ、韓瑗が罪を得てからは、日夜李方等と造反を語りました。』と。臣の取り調べと符合しております。どうかすぐに捕まえて法に照らしてください。」
 上は又泣いて言った。
「もしも舅が果たしてそうだったなら、朕は決してこれを殺すに忍びない。天下は朕を何と言うだろうか。後世何を言われるだろうか!」
「薄昭は漢の文帝の舅でした。文帝が代から都へやって来た時にも、昭はまた功績がありました。それなのにたかが殺人の罪で、文帝は百官に喪服を着せて慟哭させ、これを殺したのです。それなのに、今に至るも天下は文帝を明主と評しております。今、無忌は両朝から受けた大恩を忘れ社稷を移そうと謀りました。その罪は、薄昭と同列に語ることさえできません。幸いにも、姦状が暴露され、逆徒は服したとゆうのに、陛下は何を疑いなお躊躇されているのですか!古人の言葉にあります。『決断するべき時にできなければ、却って乱を受ける。』と。安危の機は、間髪も入りません。無忌は今の姦雄。王莽、司馬懿の類です。陛下が少しでも猶予されますと、変事が起こって悔いても及ばなくなることを恐れるのです!」
 上はその通りだと思い、遂に無忌を尋問させた。
 戊辰、詔を下して無忌の太尉及び封邑を削って揚州都督とし、黔州へ安置させて準一品を供給した。
 祥は無忌の従父兄弟である。工部尚書から荊州長史へ飛ばされた。だから敬宗は、それをもとに無忌を誣したのである。
 敬宗は、又、上奏した。
「無忌の逆謀は、褚遂良、柳奭、韓瑗が煽り立てて成立したのです。爽は、密かに宮掖へ通い、陰謀が深く進行しています。于志寧もまた、無忌の一味です。」
 ここにおいて遂良の官爵を追削し、奭、瑗を除名し、志寧の官を免じた。
 無忌の子の秘書監駙馬都尉沖等も、皆、除名して嶺表へ流した。遂良の子の彦甫、彦沖は愛州へ流したが、途中で殺した。益州長史高履行は累貶して洪州都督となった。
 五月,丙申,兵部尚書任雅相、度支尚書盧承慶並參知政事。承慶,思道之孫也。
5.五月、丙申。兵部尚書任雅相、度支尚書盧承慶を共に参知政事とする。承慶は思道の孫である。
 涼州刺史趙持滿,多力善射,喜任俠,其從母爲韓瑗妻,其舅駙馬都尉長孫銓,無忌之族弟也,銓坐無忌,流雟州。許敬宗恐持滿作難,誣云無忌同反,驛召至京師,下獄,訊掠備至,終無異辭,曰:「身可殺也,辭不可更!」吏無如之何,乃代爲獄辭結奏。戊戌,誅之,尸於城西,親戚莫敢視。友人王方翼歎曰:「欒布哭彭越,義也;文王葬枯骨,仁也。下不失義,上不失仁,不亦可乎!」乃收而葬之。上聞之,不罪也。方翼,廢后之從祖兄也。長孫銓至流所,縣令希旨杖殺之。
6.涼州刺史趙持満は力持ちで射撃が巧く、任侠を好んだ。その従母は韓瑗の妻となり、その舅の駙馬都尉長孫銓は無忌の族弟である。銓は無忌の縁座で雟州へ流された。
 許敬宗は、持満が造反することを恐れ、彼も無忌の一味だと誣告した。駅伝で京師へ急送し、獄へ下して尋問したが、言うことはいつも変わらない。
「殺されようとも、言葉は変えんぞ!」
 吏はどうすることもできず、代わりに罪状を造って上奏した。
 戊戌、これを誅殺し、城西へ屍を晒す。親戚は敢えて見ないふりをした。友人の王方翼が嘆いて言った。
「欒布が彭越の為に哭したのは、義だ。文王が枯骨を埋葬したのは仁だ。下は義を失わず、上は仁を失わない。なんと良いことではないか。」
 そして、これを収めて埋葬した。
 上はこれを聞いたが、罰しなかった。
 方翼は、廃皇后の従祖兄である。
 長孫銓の配流先の県令は、権力者の好感を買おうと、彼を杖殺した。
 六月,丁卯,詔改氏族志爲姓氏録。
  初,太宗命高士廉等脩氏族志,升降去取,時稱允當。至是,許敬宗等以其書不敍武氏本望,奏請改之,乃命禮部郎中孔志約等比類升降,以后族爲第一等,其餘悉以仕唐官品高下爲準,凡九等。於是士卒以軍功致位五品,豫士流,時人謂之「勳格」。
7.六月、丁卯。『氏族志』を『姓氏録』と改称すると詔が降りた。その経緯は、次の通り。
 太宗が高士廉等へ『氏族志』を造るよう命じ、氏族の格を昇降去取して、完成したときには時宜にあっていると称された。だがここに至って許敬宗等は、この書は武氏の氏族が欠落しているので、改訂するよう奏請した。そこで礼部郎中孔志約等へ比類昇降させ、后族を第一等とし、その余はことごとく唐の官品の高下を帰順として九等に分類した。
 おかげで、軍功で五品へ出世した士卒は士の格となった。時人は、これを「勲格」と言った。
 許敬宗議封禪儀,己巳,奏:「請以高祖、太宗倶配昊天上帝,太穆、文德二皇后倶配皇地祇。」從之。
8.許敬宗が、封禅儀を議し、己巳、上奏した。
「高祖、太宗を共に上帝へ配し、太穆、文徳の二皇后を共に地に配して祀りましょう。」
 これに従う。
 秋,七月,命御史往高州追長孫恩,象州追柳奭,振州追韓瑗,並枷鎖詣京師,仍命州縣簿録其家。恩,無忌之族弟也。
  壬寅,命李勣、許敬宗、辛茂將與任雅相、盧承慶更共覆按無忌事。許敬宗又遣中書舎人袁公瑜等詣黔州,再鞫無忌反状,至則逼無忌令自縊。詔柳奭、韓瑗所至斬決。使者殺柳奭于象州。韓瑗已死,發驗而還。籍沒三家,近親皆流嶺南爲奴婢。常州刺史長孫祥坐與無忌通書,處絞。長孫恩流檀州。
9.秋、七月、高州の長孫恩、象州の柳奭、振州の韓瑗等を枷鎖で京師へ連行させる為に、御史を各々の地方へ行かせ、州県にはその家を簿録させた。恩は、無忌の族弟である。
 壬寅、李勣、許敬宗、辛茂将と任雅相、盧承慶へ無忌の事件を再度取り調べさせた。
 許敬宗は、中書舎人袁公瑜等を黔州へ派遣して再び無忌の反状を設問させ、遂に無忌へ迫って首吊り自殺させた。柳奭と韓瑗は在所にて斬罪とするよう詔が降りる。使者は柳奭を象州で殺した。韓瑗は既に死んでいたので、死体を暴いて検分し、還った。三家を没収し、近親は皆嶺南へ流して奴婢とする。
 常州刺史長孫祥は無忌と書を交わしていた罪により、在所で絞殺された。長孫恩は檀州へ流す。
 10八月,壬子,以普州刺史李義府兼吏部尚書、同中書門下三品。義府既貴,自言本出趙郡,與諸李敍昭穆;無賴之徒藉其權勢,拜伏爲兄叔者甚衆。給事中李崇德初與同譜,及義府出爲普州,即除之。義府聞而銜之,及復爲相,使人誣構其罪,下獄,自殺。
10.八月、壬子。晋州刺史李義府へ吏部尚書、同中書門下三品を兼務させる。
 義府は貴くなると、本は趙郡出身だと自称し、諸李と昭穆を記した。大勢の無頼の徒が、彼の権勢を借りようと、拝伏して兄叔となった。
 給事中李祟徳は、もともと彼と同譜だったが、義府が晋州へ飛ばされると、たちまちこれを除いた。義府はこれを聞いて含み、相へ復帰すると、人へ彼の罪を誣告させ、獄に下して自殺させた。
 11乙卯,長孫氏、柳氏縁無忌、奭貶降者十三人。高履行貶永州刺史。于志寧貶榮州刺史,于氏貶者九人。自是政歸中宮矣。
11.乙卯、長孫氏、柳氏で無忌や奭との縁で貶降された者は十三人。高履行は永州刺史へ貶された。
 于志寧は栄州刺史へ貶され、于氏で貶された者は九人。これ以来、政治の実権は中宮へ移った。
 12九月,詔以石、米、史、大安、小安、曹、拔汗那、悒怛、疏勒、朱駒半等國置州縣府百二十七。
12.九月、石、米、史、大安、小安、曹、抜汗那、悒怛、疏勒、朱駒半等の国へ州県府百二十七を設置した。
 13冬,十月,丙午,太子加元服,赦天下。
13.冬、十月、丙午。太子を元服させ、天下へ赦を下した。
 14初,太宗疾山東士人自矜門地,婚姻多責資財,命脩氏族志例降一等;王妃、主壻皆取勳臣家,不議山東之族。而魏徴、房玄齡、李勣家皆盛與爲婚,常左右之,由是舊望不減,或一姓之中,更分某房某眷,高下懸隔。李義府爲其子求婚不獲,恨之,故以先帝之旨,勸上矯其弊。壬戌,詔後魏隴西李寶、太原王瓊、滎陽鄭温、范陽盧子遷、盧渾、盧輔、清河崔宗伯、崔元孫、前燕博陵崔懿、晉趙郡李楷等子孫,不得自爲昏姻。仍定天下嫁女受財之數,毋得受陪門財。然族望爲時俗所尚,終不能禁,或載女竊送夫家,或女老不嫁,終不與異姓爲婚。其衰宗落譜,昭穆所不齒者,往往反自稱禁婚家,益增厚價。
14.話は遡るが、山東の士人は自分の家格に驕り、婚姻では沢山の資財を責め取っていた。太宗はこれを疾み、氏族志を編修させ、彼等の格を一等降格させ、王妃や主婿は皆勲臣の家から取り、山東の族は議しなかった。
 しかし魏徴、房玄齢、李勣等の一族は皆、山東の士と通婚して常にこれを助けたので、旧家の名望は衰えるところか、或いは一姓の中で”某は房、某は眷”と更に分けて高下が懸け隔たるような有様となってしまった。
 さて、李義府はかつて山東の子と通婚を求めて断られたので、これを恨み、先帝の旨を言い立てて、その弊害を矯正するよう上へ勧めた。
 壬戌、後魏の隴西の李寶、太原の王瓊、滎陽の鄭温、范陽の盧子遷、盧渾、盧輔、清河の崔宗伯、崔元孫、前燕の博陵の崔懿、晋の趙郡の李楷等の子孫はかってに婚姻してはならないと詔した。また、娘を嫁へやる時の結納金を天下へ規定し、家門の高い者が多額を受け取ることを禁じた。
 だが、族望は時の人々から尚ばれていたので、遂に禁じきれなかった。ある者は娘を載せてこっそりと夫の家へ送ったり、あるいは娘が年老いても嫁にやらずに遂に異姓と婚姻させなかったりした。家門が衰えて系図があやふやになってしまった者は、往々にして却って婚姻を禁じられた家柄だと自称し、ますます多くの結納金をせしめる有様だった。
 15閏月,戊寅,上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌,車駕至東都。
15.閏月、戊寅。上が京師を発し、太子を監国とした。だが、太子は父を恋しがるばかり。上はこれを聞くと、急遽行在所へ連れてきた。
 戊戌、車駕が東都へ到着した。
 16十一月,丙午,以許圉師爲散騎常侍、檢校侍中。
16.十一月、丙午。許圉師を散騎常侍、検校侍中とした。
 17戊午,侍中兼左庶子辛茂將薨。
17.戊午、侍中兼左庶子の辛茂将が卒した。
 18思結俟斤都曼帥疏勒、朱倶波、謁般陀三國反,撃破于闐。癸亥,以左驍衞大將軍蘇定方爲安撫大使以討之。
18.思結俟斤の都曼が疏勒、朱倶波、謁般陀三国を率いて造反し、于闐を撃破した。
 癸亥、左驍衛大将軍蘇定方を安撫大使として、これを討伐させた。
 19以盧承慶同中書門下三品。
19.盧承慶を同中書門下三品とした。
 20右領軍中郎將薛仁貴等與高麗將温沙門戰於橫山,破之。
20.右領軍中郎将節仁貴等が横山にて高麗の将軍温沙門と戦い、これを破った。
 21蘇定方軍至業葉水,思結保馬頭川。定方選精兵萬人、騎三千匹馳往襲之,一日一夜行三百里,詰旦,至城下,都曼大驚。戰於城外,都曼敗,退保其城。及暮,諸軍繼至,遂圍之,都曼懼而出降。
21.蘇定方軍が業葉水へ至った。思結は馬頭川を保つ。定方は精兵万人、精騎三千匹を選びこれを襲撃した。一日一夜で三百里を行き、明け方には城下へ至ったので、都曼は大いに驚いた。城外で戦い、都曼は敗北し、退いてその城を保つ。暮れに及んで後続が到着し、遂にこれを包囲した。都曼は懼れ、降伏した。
五年(庚申、六六〇)

 春,正月,定方獻俘於乾陽殿。法司請誅都曼,定方請曰:「臣許以不死,故都曼出降,願匄其餘生。」上曰:「朕屈法以全卿之信。」乃免之。
1.春、正月、定方が乾陽殿へ捕虜を献上した。法司は都曼を誅殺するよう請うたが、定方は請うた。
「臣は殺さないと約束しました。だから都曼は降伏したのです。どうか命だけは助けてください。」
 上は言った。
「朕は、法を曲げてでも、卿の信頼を全うしよう。」
 そして、死を免じた。
 甲子,上發東都;二月,辛巳,至并州。三月,丙午,皇后宴親戚故舊鄰里於朝堂,婦人於内殿,班賜有差。詔:「并州婦人年八十以上,皆版授郡君。」
2.甲子、上が東都を発した。二月、辛巳、并州へ到着する。
 三月、丙午、皇后が朝堂にて親戚故旧隣人と宴会を開いた。婦人は内殿にて宴する。各々へ恩賞を賜下した。
 詔が降る。
「八十以上の并州の婦人へは皆、郎君を版授する。」
 百濟恃高麗之援,數侵新羅;新羅王春秋上表求救。辛亥,以左武衞大將軍蘇定方爲神丘道行軍大總管,帥左驍衞將軍劉伯英等水陸十萬以伐百濟。以春秋爲嵎夷道行軍總管,將新羅之衆,與之合勢。
3.百済は高麗の援助を恃み、屡々新羅を侵略した。新羅王春秋は上表して救援を求める。
 辛亥、左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大総管として、左驍衛将軍劉伯英等謬万を率いて百済を討伐させた。
 春秋を嵎夷道行軍総管とし、新羅の衆を率いてこれに合流させた。
 夏,四月,丙寅,上發并州;癸巳,至東都。五月,作合璧宮。壬戌,上幸合璧宮。
4.夏、四月、丙寅。上が并州を発した。癸巳、東都へ到着する。
 五月、上が合壁宮に御幸した。
 戊辰,以定襄都督阿史德樞賓、左武候將軍延陀梯眞、居延州都督李合珠並爲冷[山幵]道行軍總管,各將所部兵以討叛奚,仍命尚書右丞崔餘慶充使總護三部兵,奚尋遣使降。更以樞賓等爲沙磚道行軍總管,以討契丹,擒契丹松漠都督阿卜固送東都。
5.戊辰、定襄都督阿史那徳樞賓、左武候将軍延陀梯眞、居延州都督李合珠を共に冷[山幵]道行軍総管として、各々手勢を率いて叛奚を討伐させた。併せて、尚書右丞崔餘慶へ三部の兵を束ねさせた。やがて奚は使者を派遣して降伏した。
 更に、樞賓等を沙磚道行軍総管とし、契丹を討伐させた。契丹の松漠都督阿卜固を捕らえて東都へ送る。
 六月,庚午朔,日有食之。
6.六月、庚午朔、日食が起こった。
 甲午,車駕還洛陽宮。
7.甲午、車駕が洛陽宮へ還った。
 房州刺史梁王忠,年浸長,頗不自安,或私衣婦人服以備刺客;又數自占吉凶。或告其事,秋,七月,乙巳,廢忠爲庶人,徙黔州,囚於承乾故宅。
8.房州刺史梁王忠は成長するたびに命の不安を感じ、あるいは婦人の服を着て刺客に備えたり、屡々自分で吉凶を占ったりしていた。ある者が、それを告発した。
 七月、乙巳、忠を廃して庶民とし、黔州へ移し、承乾の故宅へ幽閉する。
 丁卯,度支尚書、同中書門下三品盧承慶坐科調失所免官。
9.丁卯、度支尚書、同中書門下三品盧承慶が、租税の徴収が巧く行ってないとして、免官された。(度支尚書は、徭賦職貢を司る職。)
 10八月,吐蕃祿東贊遣其子起政將兵撃吐谷渾,以吐谷渾内附故也。
10.八月、吐蕃の禄東賛がその子の起政へ兵を与えて吐谷渾を攻撃させた。吐谷渾が唐へ帰順したからである。
 11蘇定方引兵自成山濟海,百濟據熊津江口以拒之。定方進撃破之,百濟死者數千人,餘皆潰走。定方水陸齊進,直趣其都城。未至二十餘里,百濟傾國來戰,大破之,殺萬餘人,追奔,入其郭。百濟王義慈及太子隆逃于北境,定方進圍其城;義慈次子泰自立爲王,帥衆固守。隆子文思曰:「王與太子皆在,而叔遽擁兵自王,借使能卻唐兵,我父子必不全矣。」遂師左右踰城來降,百姓皆從之,泰不能止。定方命軍士登城立幟,泰窘迫,開門請命。於是義慈、隆及諸城主皆降。百濟故有五部,分統三十七郡、二百城、七十六萬戸,詔以其地置熊津等五都督府,以其酋長爲都督、刺史。
11.蘇定方が兵を率いて成山から海を渡った。百済は熊津江口へ據ってこれを拒んだが、定方は進撃してこれを破った。百済の死者は数千人。その他は皆潰走した。
 定方は水陸二道から進軍し、その都城へ直進した。まだ二十余里にも至らない内に、百済は総力を挙げて来戦したが、これを大いに破る。万余人を殺し、逃げるのを追ってその郭へ入る。百済王義慈と太子隆は北境へ逃げた。定方は進軍して都城を包囲した。
 都城では、義慈の次男泰が自立して王となった。衆を率いて固く守る。すると、隆の子の文思は言った。
「王も太子も健在なのに、叔父上ははやばやと兵を擁して王と名乗った。彼等が唐軍を撃退したら、我が親子は必ず殺される。」
 遂に左右を率いて城壁をこえて降伏した。百姓は皆これに従う。泰は止めきれなかった。定方は、登城して幟を立てるよう軍士へ命じた。泰は切羽詰まり、開門して命を請うた。
 ここにおいて義慈、隆及び諸城主が皆降伏した。
 百済は元々五部に分かれ、三十七郡に分けて統治し、二百城、七十六万戸だった。この土地へ熊津等五都督府を設置するよう詔が降る。その酋長を都督や刺史とする。
 12壬午,左武衞大將軍鄭仁泰將兵討思結、拔也固、僕骨、同羅四部,三戰皆捷,追奔百餘里,斬其酋長而還。
12.壬午、左武衛大将軍鄭仁泰へ兵を与えて思結、抜也固、僕骨、同羅四部を討伐させた。三戦全勝で百余里を追撃し、その酋長を斬って還る。
 13冬,十月,上初苦鳳眩頭重,目不能視,百司奏事,上或使皇后決之。后性明敏,渉獵文史,處事皆稱旨。由是始委以政事,權與人主侔矣。
13.冬、十月、上は始めて風眩頭重に苦しんだ。目が見えなくなることもある。百司の上奏は、上はあるいは皇后へ決裁させた。后は明敏な性で、文史を読み漁っており、諸事皆、皇帝の御意にかなっていた。ここにおいて始めて政治が委ねられ、権力が人主と等しくなった。
 14十一月,戊戌朔,上御則天門樓,受百濟俘,自其王義慈以下皆釋之。蘇定方前後滅三國,皆生擒其主。赦天下。
14.十一月、戊戌朔。上が則天門楼へ御幸し、百済の捕虜を受ける。その王義慈以下皆を赦した。
 蘇定方は前後して三国を滅ぼし、三度ともその主を生け捕りにした。
 天下へ赦を下す。
 15甲寅,上幸許州。十二月,辛未,畋於長社。己卯,還東都。
15.甲寅、上は許州へ御幸した。
 十二月、辛未、長社で狩猟をする。
 16壬午,以左驍衞大將軍契苾何力爲浿江道行軍大總管,左武衞大將軍蘇定方爲遼東道行軍大總管,左驍衞將軍劉伯英爲平壤道行軍大總管,蒲州刺史程名振爲鏤方道總管,將兵分道撃高麗。靑州刺史劉仁軌坐督海運覆船,以白衣從軍自效。
16.壬午、左驍衛大将軍契苾何力を浿江道行軍大総管・左武衛大将軍蘇定方を遼東道行軍大総管、左驍衛将軍劉伯英を平壌道行軍大総管、蒲州刺史程名振を鏤方道総管として、軍を分けて各々別道から高麗へ向かわせた。
 青州刺史劉仁軌は、監督していた兵糧船が転覆したので有罪となり、白衣を以て従軍し尽力した。
龍朔元年(辛酉、六六一)

 春,正月,乙卯,募河南北、淮南六十七州兵,得四萬四千餘人,詣平壤、鏤方行營。戊午,以鴻臚卿蕭嗣業爲扶餘道行軍總管,帥回紇等諸部兵詣平壤。
1.春、正月、乙卯。河南北、淮南の六十七州兵から募集して四万四千人を得て、平壌、鏤方の陣営へ向かわせた。
 戊午、鴻臚卿蕭嗣業を扶餘道行軍総管として、回紇等諸部の兵を率いて平壌へ向かわせた。
 二月,乙未晦,改元。
2.二月、乙未晦、改元する。
 三月,丙申朔,上與羣臣及外夷宴於洛城門,觀屯營新教之舞,謂之一戎大定樂。時上欲親征高麗,以象用武之勢也。
3.三月、丙申朔、上と群臣及び外夷が洛城門にて宴会を開いた。屯営にて新作の舞が披露され、「一戎大定楽」と名付けられた。
 この頃、上は高麗へ親征しようと思っていたので、用武の勢いを象徴したのである。
 初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道琛、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請唐暦及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉鬭而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合撃,破之,殺溺死者萬餘人。道琛乃釋府城之圍,退保任存城;新羅糧盡,引還。道琛自稱領軍將軍,福信自稱霜岑將軍,招集徒衆,其勢益張。仁軌衆少,與仁願合軍,休息士卒。上詔新羅出兵,新羅王春秋奉詔,遣其將金欽將兵救仁軌等,至古泗,福信邀撃,敗之。欽自葛嶺道遁還新羅,不敢復出。福信尋殺道琛,專總國兵。
4.蘇定方が百済を平定した時、郎将の劉仁願を留めて百済府城を鎮守させた。又、左衛中郎将王文度を熊津都督として、その余衆を安撫させた。
 文度が海を渡って卒すると、百済の僧道琛と元の将軍福信が衆を集めて周留城を占拠し、元の王子豊を倭国から迎え入れて擁立した。そして兵を率い、府城の仁願を包囲した。
 劉仁軌を検校帯方州刺史として、王文度の軍を率いさせ、新羅の兵を徴発して仁願を救援するよう詔が降りる。
 仁軌は喜んで言った。
「天は、この翁を富貴にしてくれるか!」
 やがて州司は唐の暦及び廟諱を使用したいと請願したので、言った。
「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!」
 仁軌の御軍は厳整で、戦いながら進軍し、向かうところは全て下した。
 百済は、熊津江口へ二つの柵を設けていた。仁軌は新羅の兵と合流して攻撃し、これを破る。百済は万余人が戦死、溺死した。
 道琛は府城の包囲を解き、退却して任存城を保つ。新羅は、兵糧が尽きて退却した。
 道琛は領軍将軍を自称し、福信は霜岑将軍と自称した。人々を招き集め、その勢力は益々増大する。仁軌は兵力が少なかったので、仁願と合流して士卒を休めた。
 新羅が出兵し、新羅王春秋は詔を奉じ、その将金欽へ兵を与えて派遣し、仁軌を救援させた。だが、古泗にて福信がこれを攻撃して、破る。欽は葛嶺道から新羅へ逃げ帰り、再び出ようとしなかった。
 福信は道琛を殺し、国兵を専断した。
 夏,四月,丁卯,上幸合璧宮。
5.夏、四月、丁卯。上が合璧宮へ御幸した。
 庚辰,以任雅相爲浿江道行軍總管,契苾何力爲遼東道行軍總管,蘇定方爲平壤道行軍總管,與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍,水陸分道並進。上欲自將大軍繼之;癸巳,皇后抗表諫親征高麗;詔從之。
6.庚辰、任雅相を浿江道行軍総管、契苾何力を遼東道行軍総管、蘇定方を平壌道行軍総管として、蕭嗣業及び諸胡兵およそ三十五軍と共に水陸から並進させた。
 上は、自ら大軍を率いて後続となりたがった。癸巳、皇后は抗表で高麗親征を諫める。詔して、これに従った。
 六月,癸未,以吐火羅、嚈噠、罽賓、波斯等十六國置都督府八,州七十六,縣一百一十,軍府一百二十六,並隸安西都護府。
7.六月、癸未。吐火羅、嚈噠、罽賓、波斯等十六国へ都督府八、州七十六、県百十一、軍府百二十六を設置する。全て、安西都護府の管轄とする。
 秋,七月,甲戌,蘇定方破高麗於浿江,屢戰皆捷,遂圍平壤城。
8.秋、七月、甲戌。蘇定方が浿江にて高麗を破った。
 定方は屡々戦ったが、全て勝ち、遂に平壌城を包囲した。
 九月,癸巳朔,特進新羅王春秋卒;以其子法敏爲樂浪郡王、新羅王。
9.九月、癸巳朔、特進高麗王春秋が卒した。その子の法敏を楽浪郡王、新羅王とする。
 10壬子,徙潞王賢爲沛王。賢聞王勃善屬文,召爲修撰。勃,通之孫也。時諸王頭雞,勃戲爲檄周王雞文。上見之,怒曰:「此乃交構之漸。」斥勃出沛府。
10.壬子、潞王賢を沛王とする。
 賢は、王勃が文章が巧いと聞き、召し抱えて修撰とした。勃は通の孫である。
 この時、諸王が闘鶏をしたので、勃は戯れに「檄周王鶏文」を作った。上はこれを見て怒り、言った。
「これは仲違いを芽生えさせる。」
 そして勃を斥して沛府へ出した。
 11高麗蓋蘇文遣其子男生以精兵數萬守鴨緑水,諸軍不得渡。契苾何力至,値冰大合,何力引衆乘冰渡水,鼓譟而進,高麗大潰,追奔數十里,斬首三萬級,餘衆悉降,男生僅以身免。會有詔班師,乃還。
11.高麗の蓋蘇文が子息の男生へ精兵数万を与え、鴨緑水へ派遣して守らせた。諸軍は、渡河できない。契苾何力が到着すると、川の水が凍り付いたので、何力は衆を率いて氷を踏んで渡河した。軍鼓を盛大に鳴らして進むと高麗軍は大いに潰れた。数十里追撃して、三万級を斬首する。その余衆は、皆、降伏した。男生は僅かに体一つで逃げ出した。
 ここで休戦の詔が降りたので、還った。
 12冬,十月,丁卯,上畋于陸渾;戊申,又畋于非山;癸酉,還宮。
12.冬、十月、丁卯。上が陸渾で狩猟をした。戊申、又、非山で狩猟をする。癸酉、宮へ還った。
 13回紇酋長婆閏卒,姪比粟毒代領其衆,與同羅、僕固犯邊,詔左武衞大將軍鄭仁泰爲鐵勒道行軍大總管,燕然都護劉審禮、左武衞將軍薛仁貴爲副,鴻臚卿蕭嗣業爲仙萼道行軍總管,右屯衞將軍孫仁師爲副,將兵討之。審禮,德威之子也。
13.回紇の酋長婆閏が卒した。姪の比栗毒が代わってその衆を統率し、同羅、僕固と共に国境を犯した。
 左武衛大将軍鄭仁泰を鉄勒道行軍大総管、燕然都護劉審礼、左武衛将軍節仁貴をこれの副とし、鴻臚卿蕭嗣業を仙萼道行軍総管とし、右屯衛将軍孫仁師をその副とし、兵を率いてこれを撃つよう詔が降りる。審禮は徳威の子息である。
二年(壬戌、六六二)

 春,正月,辛亥,立波斯都督卑路斯爲波斯王。
1.春、正月辛亥。波斯都督卑路斯を立てて波斯王とする。
 二月,甲子,改百官名:以門下省爲東臺,中書省爲西臺,尚書省爲中臺;侍中爲左相,中書令爲右相,僕射爲匡政,左、右丞爲肅機,尚書爲太常伯,侍郎爲少常伯;其餘二十四司、御史臺、九寺、七監、十六衞,並以義訓更其名,而職任如故。
2.二月、甲子。百官の名称を改める。門下省を東台、中書省を西台、尚書省を中台。侍中を左相、中書令を右相、僕射を匡政、左・右丞を粛機、尚書を太常伯、侍郎を少常伯。その他二十四司、御史台、九寺、七監、十六衛は、皆、その機能が判じるような名称にした。職務は代わらない。
 甲戌,浿江道大總管任雅相薨于軍。雅相爲將,未嘗奏親戚故吏從軍,皆移所司補授,謂人曰:「官無大小,皆國家公器,豈可苟便其私!」由是軍中賞罰皆平,人服其公。
3.甲戌、浿江道大総管任雅相が軍中で卒した。雅相は将となってからは、親戚や昔の部下を従軍させるよう上奏したことがなく、皆、所司へ移して代わりを授った。彼は、人へ言った。
「官は大小となく、皆、国家の公器だ。どうして私意で使って良いものか!」
 これによって、軍中は賞罰が公平で、人は服従した。
 戊寅,左驍衞將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還。
4.戊寅、左驍衛将軍白州刺史沃沮道総管龐孝泰が蛇水の上で高麗と戦い、敗北した。その十三人の子息は全員戦死する。
 蘇定方は平壌を包囲したが、長い間落とせない。やがて大雪にあったので、包囲を解いて還った。
 三月,鄭仁泰等敗鐵勒於天山。
  鐵勒九姓聞唐兵將至,合衆十餘萬以拒之,選驍健者數十人挑戰。薛仁貴發三矢,殺三人,餘皆下馬請降。仁貴悉阬之,度磧北,撃其餘衆,獲葉護兄弟三人而還。軍中歌之曰:「將軍三箭定天山,壯士長歌入漢關。」
  思結、多濫葛等部落先保天山,聞仁泰等將至,皆迎降;仁泰等縱兵撃之,掠其家以賞軍。虜相帥遠遁,將軍楊志追之,爲虜所敗。候騎告仁泰:「虜輜重在近,往可取也。」仁泰將輕騎萬四千,倍道赴之,遂踰大磧,至仙萼河,不見虜,糧盡而還。値大雪,士卒飢凍,棄捐甲兵,殺馬食之,馬盡,人自相食,比入塞,餘兵纔八百人。
  軍還,司憲大夫楊德裔劾奏:「仁泰等誅殺已降,使虜逃散,不撫士卒,不計資糧,遂使骸骨蔽野,棄甲資寇。自聖朝開創以來,未有如今日之喪敗者。仁貴於所監臨,貪淫自恣,雖矜所得,不補所喪。並請付法司推科。」詔以功贖罪,皆釋之。
  以右驍衞大將軍契苾何力爲鐵勒道安撫使,左衞將軍姜恪副之,以安輯其餘衆。何力簡精騎五百,馳入九姓中,虜大驚,何力乃謂曰:「國家知汝皆脅從,赦汝之罪,罪在酋長,得之則已。」其部落大喜,共執其葉護及設、特勒等二百餘人以授何力,何力數其罪而斬之,九姓遂定。
5.三月、鄭仁泰羅が天山で鐵勒を敗った。
 鉄勒の九姓は唐軍が来ると聞いて、衆を合わせて十余万となって、これを拒んだ。そして驍健な者数十人が戦いを挑んだが、節仁貴が矢を三発射ると、三人が死んだ。残りは下馬して降伏した。仁貴はこれを悉く穴埋めにして、磧北を渡り、その余を襲撃した。葉護三人を捕らえて還る。軍中ではこれを歌って言った。
「将軍は三箭で天山を平定し、壮士は長歌して漢関へ入る。」
 思結、多濫葛等の部落はまず天山を確保したが、仁泰等がやって来ると聞いて、皆、迎降した。仁泰はこれを襲撃してその家を掠め、兵士への褒賞とした。
 虜は兵をまとめて遠く逃げた。将軍楊志がこれを追撃したが、虜に捕らえられた。
 斥候が、仁泰へ告げた。
「虜の輜重が近くにあります。これへ行って奪いましょう。」
 仁泰は軽騎万四千を率いてこれへ急行する。遂に大磧を越えて仙萼河へ到着したが、虜の姿は見えない。兵糧が尽きたので還った。途中、大雪に遭い、士卒は飢凍した。武装を棄て、馬を殺して食べる。馬が尽きると、人は互いに食べ合った。塞へ入った時には、兵卒は僅か八百人しか残っていなかった。
 軍が還ると、司憲大夫楊徳裔が劾奏した。
「仁泰等は降伏した者を誅殺し、虜を逃げ散らす結果となりました。士卒を慰撫せず、兵糧も計らず、遂に野を骸骨で覆い甲冑を棄てて寇の資としたのです。聖朝開創以来、今日のような喪敗は聞いたことがありません。仁貴が監督した所でも、貪婪淫乱の極みでした。得た物があるとはいえ、喪った物を補えません。並びに法に照らして処断してください。」
 功を以て罪を贖うと詔して、皆、これを赦した。
 右驍衛大将軍契苾何力を鉄勒道安撫使として、左衛将軍姜恪をその副とし、その余衆を安招させた。何力は精騎五百騎で九姓の中へ馳せ入り、虜は大いに驚いた。何力は言った。
「汝等が脅されて従っていることは、国家は知っている。汝の罪を赦そう。罪は酋長にある。彼等を得たいだけだ。」
 その部落は大いに喜び、共にその葉護及び設、特勒等二百余人を捕らえて何力へ授けた。何力はその罪状を数え上げて、斬った。
 九姓は遂に平定した。
 甲午,車駕發東都;辛亥,幸蒲州;夏,四月,庚申朔,至京師。
6.甲午、車駕が東都を発した。辛亥、蒲州へ御幸する。夏、四月、庚申朔。京師へ到着した。
 辛巳,作蓬萊宮。
7.辛巳、蓬莱宮を作る。
 五月,丙申,以許圉師爲左相。
8.五月、丙申。許圉師を左相とした。
 六月,乙丑,初令僧、尼、道士、女官致敬父母。
9.六月、乙丑。始めて僧、尼、道士、女官へ父母を敬するように命じた。
 10秋,七月,戊子朔,赦天下。
10.秋、七月、戊子朔、天下へ赦を下す。
 11丁巳,熊津都督劉仁願、帶方州刺史劉仁軌大破百濟於熊津之東,拔眞峴城。
  初,仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏藉卿留鎭,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士咸欲西歸。仁軌曰:「人臣徇公家之利,有死無貳,豈得先念其私!主上欲滅高麗,故先誅百濟,留兵守之,制其心腹;雖餘寇充斥而守備甚嚴,宜礪兵秣馬,撃其不意,理無不克。既捷之後,士卒心安,然後分兵據險,開張形勢,飛表以聞,更求益兵。朝廷知其有成,必命將出師,聲援纔接,凶醜自殲。非直不棄成功,實亦永清海表。今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即爲擒虜,縱入新羅,亦爲羈客,脫不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。」衆從之。時百濟王豐與福信等以仁願等孤城無援,遣使謂之曰:「大使等何時西還,當遣相送。」仁願、仁軌知其無備,忽出撃之,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚衆,分兵守之。福信等以眞峴城險要,加兵守之。仁軌伺其稍懈,引新羅兵夜傅城下,攀草而上,比明,入據其城,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、靑、萊、海之兵七千人以赴熊津。
  福信專權,與百濟王豐浸相猜忌。福信稱疾,臥於窟室,欲俟豐問疾而殺之。豐知之,帥親信襲殺福信,遣使詣高麗、倭國乞師以拒唐兵。

11.丁巳、熊津都督劉仁願、帯方州刺史劉仁軌が熊津にて百済を大破し、真峴城を抜く。
 初め、仁願、仁軌等は熊津城へ屯営していた。上はこれへ敕書を与えた。その大意は、
「平壌の軍が撤退した。一城では弱い。宜しく撤退して新羅へ戻れ。もしも金法敏が卿等の力を借りたら留まって鎮守できるとゆうのなら、彼の元へ留まれ。だが、それができなければ海路から帰国せよ。」
 将士の中には西へ帰りたがる者も居た。だが、仁軌は言った。
「人臣が公家の利益の為に働くのだ。死ぬことはあっても二心を持って生きることはない。どうして私欲を先に持つことができようか!主上は高麗を滅ぼしたがっておられる。だから、先に百済を誅し、兵を留めてこれを守り、その心腹を制したのだ。余寇が充満して守備は非常に厳重だが、兵を練り馬へ馬草をたっぷり与え、その不意を衝いたなら、勝てぬ筈がない。既に勝った後に士卒の心を安堵させる。そして兵を分散して険に據り、形勢を開き、飛表を出して援軍を求めるのだ。朝廷が、その成功を知れば必ず将へ出陣を命じる。これが声援すれば、凶醜は自ら殲滅する。これは、ただ成功を棄てないだけではなく、実に海表を永く清められる。今、平壌の軍は既に還った。熊津まで抜かれたら百済の余燼はすぐにでも再興する。そして高麗の寇が残ったなら、いつになったら滅ぼせるのか!それに、今一城で敵地のまっただ中に居る。下手に動いたらすぐに捕らえられてしまうぞ。たとえ新羅へ入ることができても、客分になるのだから不自由なもの。悔いても及ばないぞ。いわんや福信は凶悖残虐。君臣は猜疑し、今に屠戮が起こる。ここは堅守して変を観、便宜に乗じてこれを取るべきだ。動いてはならない。」
 衆はこれに従った。
 この時、百済王豊と福信は、仁願等が孤城無援なので使者を派遣して言った。
「大使等はいつ西へお帰りになるのか。当方はお送りしてあげましょう。」
 仁願、仁軌は彼等に備えがないことを知り、突然出撃してその支羅城及び尹城、大山、沙井等の柵を抜き、大勢を殺獲して兵を分けてこれを守った。
 福信等は真峴城が険要なので、兵を加えてこれを守った。仁軌は敵の志気が緩むのを伺い、新羅兵を率いて夜、城下へ行き、城壁をよじ登り、明け方、その城へ入り據った。これによって、遂に新羅からの糧道が確保された。
 仁願が援軍を奏願すると、詔して萊、青、莱、海の兵七千人を熊津へ派遣した。
 一方百済では、福信が専横を振るい、百済王豊との間に次第に猜疑が芽生えてきた。福信は病気と称して窟室に伏し、豊が見舞いにくるのを待ってこれを殺そうと思った。豊はこれを知り、自ら兵を率いて襲撃し、福信を殺した。そして高麗、倭国へ使者を派遣し、唐兵を拒む為の援軍を請うた。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:59
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