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【資料】南京事件(アーカイブ)

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【資料】南京事件(アーカイブ)


2005年11月19日
20:48 【資料】南京事件
Queso

南京事件に関係する有益な資料,また歴史修正主義論者の言説に関する資料など,ここに書き上げましょう.重要な資料の問題点は,別トピを立てて個別に議論しましょう


《書き込み》
2005年11月19日
17:41
1: ja2047

まだ、どなたも書込がないので、少しずつ手許の資料を紹介していこうと思います。

ただ、「代表的」な史料については、ゆうさんのページ
http://www.geocities.jp/yu77799/
や、KーKさんのページ
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
で紹介されていますし、
その他、「あった派」「なかった派」とりまぜて、数々のHPがあります。

ここでは、史料として必ずしも価値が高いものではないが、比較的言及されることが少ないもの、珍しいものを、私の手持ちから少しづつ挙げていこうと思います。


2005年11月19日
17:42
2: ja2047


「百人斬り」に関連して時々言及される、鈴木二郎氏の「丸」の記事です。

「丸」という雑誌にこのような記事が載った号があるということは、ちょっと意外な気がします。

記事抜粋
「光華門につうじる道路の両側にえんえんとつづく散兵壕のみられるなかは、無数の焼けただれた死体でうめられ、道路に敷かれてたくさんの丸太の下にも、死体が敷かれていて腕、足の飛び出しているありさまは、まさにこの世の地獄である。その上を戦車は容赦なく、キャタピラの音をひびかせて走っているのを見て、死臭、硝煙の臭いとともに、焦熱地獄、血の池地獄に立つおもいがした」

「わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の〝百人斬り競争〟という特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。

この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。

南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの〝百人斬り競争〟の始末をのべてみる。
(中略)

検事の喚問は、やはりこの〝競争〟を『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の〝競争〟の真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの〝競争〟を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、

〝二人とも逃げるのは斬らない〟
といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、
『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』
と強調した。

検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。

しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。」

などです。

全文はまだテキスト化していません。


2005年11月19日
17:49
3: ja2047

鈴木二郎記事の続きをもう少し

「わたしはふたたび中山門に取って返した。そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、谷量虐殺にぶつかった。二十五メートルの城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。

神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『励志社』の門をくぐってみた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二,三人がツルはしをもってたっていたので工兵と知れた。そばに立っているわたしには目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルはしのさきが"ザクッ"と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。・・・この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるものもいた。」
鈴木二郎「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」 丸 1971年11月号


2005年11月19日
18:04
4: ja2047



同じく「丸」からの引用
こちらは松井石根大将の後を承けて中支那派遣軍司令官を務めた畑俊六大将の1971年の回想です。(丸エキストラ 第15集 大陸軍戦史)

「いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。」

この書きぶりからすると、畑俊六大将は虐殺は直接目撃していないが、掠奪は実際に直接見聞したというように読めます。
畑大将の赴任が南京事件終息期の1938年2月ですから、そう言うことになるのでしょう。


2005年11月19日
18:36
5: ja2047


もう一つ、これはリアルタイムに書かれたものです。

南京軍事法廷で死刑になった谷中将の、南京戦直後の報告文で、次のように書かれています。

軍状報告
第六師団は昨年七月二十七日動員を命ぜらる。八月一日より逐次出発朝鮮浦洲を経て北京南方地区に集中し、此間一部の兵力を第五、第二十両師団中間の山地即ち板橋村附近に派遣し、北京平地進出を企図せし三師の敵を拒止せしめ、主力は九月十四日第一軍の最左翼師団として永定河を渡河攻撃前進し、保定、正定城を陥れ、石家荘会戦後は直に敵を急追して内邸超縣に達せし時、十月十三日兵力の集結を命ぜられました。

爾後師団は、部隊の整頓整備を行ひ、鉄道次で船舶輸送により、先ず朝鮮八口浦に至り、第十軍に属せられ、十一月五日払暁杭州湾に奇襲上陸しまして、歩兵の主力、山砲数門、工兵聯隊のみにて直に北進、八日黄浦江北岸に進出しましたが、其時軍命令を受領しましたので、一部を水路平望鎭に派遣し、主力は翌払暁より上海戦線敵の背後より松江に向ひ当面の敵を撃破しつつ前進しました。敵は松江西方地区に於て頑強に低抗致しましたが、其兵力は甚たしく大たらず、且此頃友軍飛行機の通報に依り、上海方面の敵は逐次西方に大縦隊を以て退却しあることを知りましたので、独断北進敵の退路を遮断して鉄山鎭及青浦附近に於て三、四万の敵を迎撃、多大の損害を与へましたが、更に北進を続行、蘇州河を越え、上海-昆山道上三家村附近に於ては、追撃隊たる歩兵第十三聯隊が、十一日夜大縦隊を迎撃して軍旗二腕、其他多数の兵器、弾薬を鹵獲し、数千の死体を遺棄せしめまして、師団は更に昆山に向ひ急進して十五日全く之を占領し、同日再び第十軍に復帰を命ぜられ転進を開始しました。本会戦は、黄浦江南北の地形がクリーク地帯にして、全く馬を通ぜざるため、全部徒歩し、機関銃、歩兵砲は人力にて運搬し、又補給全く絶えしため、糧食は殆ど敵地に拠つたので御座います。又此問、兵の靴は破れ、靴下はなくなるものもあり、馬の落跌せるものも紗なからざる情況でありました。此戦闘に於て、屡敵の寝込みを襲ひ、且敵兵団の戦闘計画を根底より破壊し、其組織を覆し得たるは、果敢なる追撃を反復せると、夜問戦闘の効果大たるに因ることを痛感致しました。

次で十八日昆山出発南京に向ふ転進中の兵士の苦労は、更に大たるものがありましたが、凡そ六百粁の道も難なく踏破し、十二月八日南京要塞南方本防禦線を前日来攻撃中であった第十四師団の後方に到著、直に其左に併立戦闘に参与しまして、翌九日本防禦線を貫き、十日より内部防禦線たるトーチカ陣地を逐次奪取しまして、十二日には南門より城壁西南角に至る間を占領し、翌十三日午後二時までに完全に担任正面を占領しました。之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じたのであります。

南京占領後師団は、一部を以て城内、主力を以て城外に位置して居りましたが、軍命令に依り、二十一日出発南庶西南方約八十粁の蕪湖を中心とする地域に移り、警備の任につき今日に至ります。

抗州湾上陸以来敵に与へた損害は凡そ十万と信じます。

又南京に於て鹵獲せる兵器のみにても、小銃二十七万余、機関銃約壱千五百、迫撃砲壱千参百余、軽重砲百二十門、小銃弾四十五万余、砲弾二十一万余を算しました。

今次の戦闘を通じ、敵が各種の防備施設を未だ完備しあらざりし情況を認め同支事変が両三年遅かりせば一層頑強なる抵抗をなせしなりしと思はれまして、交戦の時期は誠に天祐なりしと存じます。

之を要しまするに、第六師団の将兵は忠誠の念極めて強く、実に勇敢無比でありまして、今日も尚十分の戦闘力を保有して居ります。然しながら今次戦役間名誉の戦死傷を遂げました忠勇の士が四千百余人の多きに達しました、」とは誠に申訳なく私の真に恐懼に堪へない所で御座います。
昭和十三年一月二十七日
陸軍中将谷寿夫


「補給全く絶えしため、糧食は殆ど敵地に拠つた」「河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じた」
の記述が確認でき、これがリアルタイムの認識であったことは明かです。


2005年11月19日
18:49
6: ja2047

「南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じたのであります。」
とは、南京城外、下関の殲滅戦のことです。

これは12月12日に潰走した南京城内の中国軍が(避難民も混じっていたと考えられます)揚子江岸に追いつめられたものを、一方的に攻撃して皆殺しにしてしまったものです。

私はこれは「虐殺同様の戦闘」ではあっても、「戦闘」であると考えますが、中国側はこれを「南京大屠殺」の範囲に含めています。

したがって、「中国側の定義する南京大屠殺」の少なくとも一部は、当時のリアルタイムの日本側の記録に残されていることになるわけです。

これが「虐殺」に当たるかどうかは別にして、「河岸一面死体を以て覆はれた」ということは、間違いのない事実だと考えてよいかと思います。
このこと自体がなかったように言っちゃったら、それは単なるウソです。  


2005年11月20日
12:09
7: Queso

ピッポさんの
○ 「南京事件」143枚の写真&読める判決「百人斬り」
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/

も素晴しい研究の成果が書かれたページです.
『南京事件「証拠写真」を検証する』の検証や,百人斬り事件裁判の資料,考察,マギーフィルムに関する考察,どれを取っても,とても参考になることばかりです.


2005年11月22日
14:15
8: pippo

ja2047 さんはじめ皆さんが、東中野さんの本を掲示板で検証していました。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?id=imgbord

ここを読むと、「歴史修正主義」「自由主義史観」というものの事実認識が如何に身勝手なご都合主義であるかがよくわかります。わたしもその掲示板では、いろいろと初歩的な質問をして、勉強させていただきました。

○ 「南京事件」143枚の写真&読める判決「百人斬り」
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/
は、その掲示板での討論を、写真から逆引きできないかとはじめたものに過ぎません。


2005年11月23日
11:53
9: pippo

ja2047 さんが紹介してくださった鈴木二郎氏の「丸」論考については、東京地裁判決文の中でも紹介されています。

■鈴木記者への取材記事と鈴木記者の寄稿文
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/part/p-044.htm
■本多「中国の旅」連載(昭46年)と、それ以後の論争
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/part/p-036.htm

鈴木記者と「百人斬り」記事とのかかわりは

■パーキンソン検事による浅海記者及び鈴木記者に対する尋問調書
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/part/p-023.htm

なお、鈴木記者はたまたま東京日日の写真入記事にかかわったため尋問を受けたようです。記事は紫金山での記事です。写真は佐藤振寿記者が常州でとったものです。

時間差があります。
当時は、記事は電信で、写真ネガは空輸で送られたものと思います。大阪毎日では12月7日の記事に写真が間に合っています。

■「百人斬り競争」東京日日と大阪毎日の報道比較
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/nich-mai-hikaku.htm

なお、南京虐殺なかった派は、鈴木氏の「丸」論考の「12月12日中山門通過」をもって、鈴木氏を「うそつき」と罵倒しています(例、森王琢氏)。この件についての論争はどうなっているのでしょうか?


2006年01月16日
22:04
10: ja2047


南京虐殺なかった派は、鈴木氏の「丸」論考の「12月12日中山門通過」をもって、鈴木氏を「うそつき」と罵倒しています(例、森王琢氏)。この件についての論争はどうなっているのでしょうか?

古くは山本七平氏が同じ指摘をしており、「決定版 南京大虐殺」の中で洞富雄氏が反論しています。
これは鈴木二郎氏の日付の記憶違いであろうと。


2006年01月16日
22:28
11: 愛・蔵太

ja2047 さんはじめ皆さんが、東中野さんの本を掲示板で検証していました。

すみません、これ、うまく読めなかったのですが…。


2006年01月16日
22:30
12: ja2047


「南京事件」でよく話題になる第16師団歩兵第33連隊の公刊連隊史です。

「40万虐殺などとんでもない」
としながらも、

「常軌にはずれたような行動も決して少なくなかった。」

「とくに南京陥落前後における家屋の破壊、放火、掠奪などは戦場心理の赴くままに、度を越した面がないでもなく、深く反省を要すべきものがあった。」
と踏み込んだ表現がされています。

「城内の西北隅には獅子山と呼ぼれる永久堡塁があり、これに立て籠って最後まで低抗した敵の一部は遂に逃げ遅れ、第二大隊の掃蕩開始とともに、武器を捨て、便衣を着用したりして投降してきたが、その数だけでも二、三百人に達した。

城内に入った日本軍は各方面でこうした集団的投降に会い、一時はその処置に困ったのであったが、これらの投降兵の消息が不明となったことから、戦後南京の虐殺事件として世界中に喧伝され、わが軍の伝統ある名誉を傷つけられることとなったのは遺憾であった。

上海から南京への作戦途上においては、気負いたった部隊の行動が、ややもすれば戦闘の域を逸脱し、常軌にはずれたような行動も決して少なくなかった。各部隊長は極力これが防止につとめていたが、とくに南京陥落前後における家屋の破壊、放火、掠奪などは戦場心理の赴くままに、度を越した面がないでもなく、深く反省を要すべきものがあった。

終戦後支那側は、南京虐殺四十万と称して日本軍の非人道的行為を難詰したが、これはいわゆる支那式の誇大数字であって、南京防衛の総兵力に、南京市民を総計しても、これにははるかに及ばぬ数字であることは明瞭である。また正規の戦闘において戦死した兵をも、主要都市における攻防では、一律に虐殺と呼称している点も不当である。」
(歩兵第33連隊史 島田勝巳 刊行会  昭和47年 P411-413)


2006年01月16日
22:39
13: ja2047

愛・蔵太 さん、こんにちは

すみません、これ、うまく読めなかったのですが…。

リンクがつながらなかったってことですか?
それとも写真が出ませんでしたか。


2006年01月17日
00:31
14: 愛・蔵太


申し訳ありません、今見たら普通に見えました。これはなかなかすごいものですね。


2006年02月17日
13:50
15: くまのみ

このコミュで初めて書き込みします。知人が本を出しましたので、紹介させて頂きます。

■「南京」難民に仕えた宣教師の証言集

“『この事実を……』(2)―「南京」難民に仕えた宣教師証言集”が刊行されました。

内容は、1868年前12月13日前後以降の英文タイプによる日記、手紙、報告書、抗議文、16ミリ隠し撮りフィルム解説、東京裁判証言録など、日本軍兵士に銃剣を突きつけられつつも南京を離れず、国際安全区の働きを文字通り双肩に担ったアメリカ人宣教師10名による原初資料の数々です。

イェール神学校図書館の特別秘蔵室に永らくほこりをかぶっていた資料を、華中師範大学の章開元(=さんずい+元)教授が15年前に調べ、歴史学者の眼で厳選編集したのを中国語に翻訳して、1999年に南京大学出版社から『《天理難容》―美国伝教士眼中的南京大屠殺(1937~1938)』として刊行されました。それを加藤実牧師(日本基督教団)が翻訳されました。

○ 購入方法:アマゾンなどのオンライン書店で購入できます。または最寄の書店で「書名と定価、発売:星雲社、発行:ストーク」を伝えて注文すれば取り寄せが可能です。(株)ストークの連絡先は「〒270-2213 千葉県松戸市五香1-13-12 TEL:047-384-7671 FAX:047-384-7880」です。

○ 編者: 章開元(さんずい+元) 訳者: 加藤実
企画: 「南京」証言集刊行会
発行: (株)ストーク 発売: (株)星雲社税込み
頁数: 728頁 版権: ○c2005 南京大学出版社定価: 2310円

○ “『この事実を…』―「南京大虐殺」生存者証言集”もまだ入手可能です。「侵華日軍大屠殺遭難同胞記念館が、生存者の証言から642篇を選び、整理して“証言集”として刊行。南京大虐殺を研究するのに生々しい第一次史料を提供すると同時に、日本の軍国主義のとてつもない犯罪行為への憤怒に溢れた譴責であり、三十万犠牲者の霊魂への慰めでもあり弔いでもある。」(「BOOK」データベースより)


2006年02月18日
20:35
16: ja2047

15くまのみさん
Eyewitnesses to Massacreの日本語版なのですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0765606852/503-7704263-1839951
ちなみに、このAmazoneで唯一の書評を書いている人は札付きのリビジョニズム宣伝家のようです (^^;
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060218/p1#tb


2006年02月18日
22:41
17: くまのみ

ja2047さん、はじめまして。

Eyewitnesses to Massacreの日本語版なのですね。

そうです。

この「書評」、本に全く目を通していないで書いているようですね…。


2006年02月19日
07:55
18: ゆう

情報、どうもありがとうございます。早速、アマゾンから注文しました。

しかしできれば、Eyewitnesses to Massacreから直接翻訳してほしかったですね。これを使う時は、翻訳が正しいかどうか、いちいち原典を確認しなければならないかもしれません。


2006年02月19日
14:00
19: ja2047

17くまのみさん
この「書評」、本に全く目を通していないで書いているようですね…。

たぶんそのとおりだと思いますが、読んでてもああいう風に書きそうな人ではあります (^^;


2006年02月20日
21:01
20: Queso

くまのみさん:
どうも情報ありがとう御座います.僕も早速注文しました.
Eyewitnesses...は持っているので,上記の本について否定論者が言及したときは,またいろいろコメントを返せるかと思います.700ページを越える翻訳を完遂しただけでも尊敬します ;-)
#やってみると翻訳ってやっぱり面倒なんですよね…


2006年02月20日
23:04
21: くまのみ

Quesoさん、どうも!(「正しい戦争は無い」のコミュに入れてもらいました。よろしくお願いします。)


2006年03月05日
16:20
22: まさみちゃん

南京虐殺事件の写真はウソだ、と主張される東中野先生がTVにて紹介されていました
http://video.google.com/videoplay?docid=-4960427717414049428&q=JAPANESE


2006年03月06日
20:29
23: ja2047

あの番組、私は生で見なかったのですけど、議論は成り立っていなかったみたいですね。

結論から言えば、東中野先生はまともな研究者からは相手にされていないということなのですが、だからといって、いつまでも野放しにしておくのもどうかと思うんだけどね。

もちろん私は「まともな研究者」などではないので、好き勝手言ってますけど (^^;


2006年03月30日
08:30
24: みこと

おひさしぶりです。議論をする気力も能力もありませんので、情報提示させていただきます。ご存知かもしれませんが、記録として残しておきますね。

教科書についての修正項目で以下のニュースがあったみたいです。
情報として投稿します。
犠牲者数の十数万という説は、笠原説を念頭に置いているのでしょうか?
(人数に関してはゆうさんの資料集を参考にさせていただきました。)

高校教科書検定:「日本の領土」明確化 首相参拝も修正
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20060330k0000m040147000c.html

■南京事件の記述
 旧日本軍が多数の捕虜や市民を殺害した南京事件。「教科書記述をより公正でバランスのとれたものにする」として前回検定後の02年度に設けられた検定のバランス基準が適用され、犠牲者数については20万人程度のほか、30万人以上という中国の主張に加え、「日本国内では十数万人などの説もある」との記述が追加される修正も行われた。


2006年05月30日
15:47
25: kana@八ヶ岳高原

つい先日、わたくしの知人以上友人未満である我が国を代表する高名な歴史学者とお話する機会があったのですが、氏は、石原都知事が以前「南京の当時の人口を上回る犠牲者の数があるのはおかしい。捏造の証拠」という主旨の発言をしたのを聞き、「ああ、この人は戦争を知らないな」と思われたそうです。

戦争時には、南京市民だけではなく、その周辺の市民や、国軍や、ゲリラなども皆、日本軍に追いつめられて、城壁に囲まれた南京市内に逃げ込んだのだそうです。従って、人口以上、例えば2倍、3倍の人がそこにいたとしてもなんら不思議ではなく、むしろ当然の事態だとお話されていらっしゃいました。(島原の乱の場合もそうだそうですね。)

それから氏は、毎日新聞の元従軍記者が当時撮影した夥しい数の写真を実際にご覧になられたそうです。虐殺も英雄視されていた当時の事で軍に提出したもののあまりにも残虐な写真ゆえ没にされたので、以後その記者自身がゲートルに隠したりして日本に持ち帰ったそうです。勿論、合成写真などできる設備も無かったであろう時期の事です。その現物をご覧になられた氏は、衝撃を受けられたそうです。「数の問題は、当時の混乱した状況ですから、学問的に厳密にと言っても限界がありますが、市民を巻き込んで無差別に日本軍が中国の人々を虐殺した事実は、もうこれはどうしようもないのです。各国のジャーナリストや外交官などの目撃者たちもたくさんいるのですから」と仰っておられました。


2006年05月30日
17:40
26: Queso

kana@八ヶ岳高原さん:
毎日新聞の元従軍記者が当時撮影した夥しい数の写真を実際にご覧になられたそうです。

毎日新聞の元従軍記者と言えば,村瀬守保さんでしょうね.村瀬氏の写真は,

村瀬 守保, 私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録, 日本機関紙出版センター ; ISBN: 4889008365

が入手出来ます.


2006年05月30日
21:03
27: ja2047

kana@八ヶ岳高原さん:
虐殺も英雄視されていた当時の事で軍に提出したもののあまりにも残虐な写真ゆえ没にされたので、以後その記者自身がゲートルに隠したりして日本に持ち帰ったそうです。

もし、記者の方のお名前など詳細がわかりましたら、教えて下さい。
これはまだあまり知られていない話のように思います。


虐殺も英雄視されていた当時の事で軍に提出したもののあまりにも残虐な写真ゆえ没にされたので

については、毎日新聞の発行した「不許可写真集」にもたくさん掲載されていますね。


2006年05月30日
21:27
28: kana@八ヶ岳高原

知人の歴史学者は、その記者の撮影した写真の原物を直接見たそうです。それは凄まじいものだったと仰っておられました。

明日にでも連絡を取って、名前など確認してみますね。
ただ、会社に無断で持ち帰り隠したとかで、一般公開することには消極的だったそうです。その辺の事情も確認してみます。


2006年05月31日
10:57
29: Queso
ja2047さん:

毎日新聞の発行した「不許可写真集」にもたくさん掲載されていますね。

2冊ありますね.この本も持っていますが,様々な写真の不許可になった理由などから世相が伺うことが出来ますね.お勧めです.
#まだどちらも入手可能な筈です

不許可写真―毎日新聞秘蔵 (1) (2) 毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶, 毎日新聞社


2006年05月31日
11:01
30: kana@八ヶ岳高原

今、歴史学者と連絡取りました。で、訂正を。
毎日新聞の従軍記者ではなく、共同通信の写真部長をされていた不動健治さんという方だそうです。惜しくも亡くなれていらっしゃるそうで、存命ならば100歳を越す方だそうです。
写真の原物は、現在ご家族が保管されているのでは、との事でした。

また、防衛庁の資料部署には、南京大虐殺関係の資料が保管されているそうです。氏は、特権で入室を許可され、実物をご覧になられたとの事でした。
「国家権力は何があったか知っているんですよ。だから、外交的な場では、否定できないで、一応の謝罪発言をしますでしょ。彼らはみんな知っているんですよ」とのお話も伺えました。

それから、これは、直接南京大虐殺に絡んだ話ではありませんが、明日と4日に歴史学会が東京で開かれるそうで、そこで、mixiの「戦争コミュ」などの話もして下さるそうです。で、若手の歴史学者に行動を起こすよう、促して下さるとの事でした。手応えのあった学者を、わたくしに紹介して下さることになっております。


2006年05月31日
20:41
31: ja2047

共同通信の写真部長をされていた不動健治さんという方だそうです。惜しくも亡くなれていらっしゃるそうで、存命ならば100歳を越す方だそうです。

ありがとうございました。
不動健治さんの写真が初めて発表されたのがたぶんこれ
「画報 近代百年史 第十五集 1937~1940」(国際文化情報社、1952.11.5発行)
だと思います。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/skpqrf/gahou001.jpg
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/skpqrf/gahou002.jpg
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/skpqrf/owpqrf.html#owpqrf


2006年05月31日
21:12
32: kana@八ヶ岳高原

#30の記事中の訂正です

写真の原物は、現在ご家族が保管されているのでは、

上記ですが、再度確認を取りましたところ、御家族が保管されていらっしゃるのか、資料館などに寄贈していらっしゃるのか、歴史学者の方には今正確なところは分からない、との事でした。

細かい事ですが、或る意味で重要な点ですので、訂正させて戴きました。


2006年05月31日
22:02
33: Queso

国家権力は何があったか知っているんですよ。だから、外交的な場では、否定できないで、一応の謝罪発言をしますでしょ。彼らはみんな知っているんですよ


にもありますね.在中国日本大使館の南京虐殺に関する肯定コメントのページは,いつの間にか無くなっていますね…どなたかどこかにコピーした情報とかご存知無いですか…


2006年05月31日
23:20
34: ja2047



2006年06月01日
00:08
35: Queso

ja2047さん:
いや,
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041002
の九郎さんの所のリンクにもある

▼在中国日本国大使館の南京大虐殺に関する見解 


(イ)日本政府は、いわゆる「南京事件」に関しては、その事実関係を巡り種々の議論が存在していることは承知しているが、1937年の日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害あるいは略奪行為があったことは否定できない事実であると考えている。

のことです.


2006年06月01日
06:10
36: ja2047

▼在中国日本国大使館の南京大虐殺に関する見解 
のことです.

あ、なるほど。

のぞきに行ったら、「ガンプラ交流会」などというものを見つけてしまいました (^O^
http://www.cn.emb-japan.go.jp/cul_edu/events060319.htm


2006年06月01日
07:38
37: 愛・蔵太

▼在中国日本国大使館の南京大虐殺に関する見解 
http://www.cn.emb-japan.go.jp/jp/jinfor6.html

すみません、これ、なんかうまく見れませんでした。


2006年06月01日
07:45
38: 愛・蔵太

って、探してみたら割と簡単に見つかったので、そっちのリンクを貼っておきます。



2006年06月18日
20:47
39: ja2047

K-Kさんの「南京大虐殺 論点と検証」
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/
が、live door Wiki の方にも出来てます。
http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c6%ee%b5%fe%c2%e7%b5%d4%bb%a6%a1%a1%cf%c0%c5%c0%a4%c8%b8%a1%be%da

内容が同じなのか、増補改訂があるのか、まだ確かめてません。


せっかくですから、ご本人の解説をお願いしたいところです (^^


2006年07月01日
09:11
40: ja2047

「現代歴史学と南京事件」笠原十九司・吉田裕 が3月に出版されましたが、いくつか新資料が発掘されています。

Apemanさんのブログで岡村大将の『岡村寧次大将陣中感想録』が紹介されていましたので、そう言えばそういう新資料紹介があったな、と思いだした次第です。

従来知られていたものと対比しながら、あらためて紹介したいと思います。


2006年07月01日
09:23
41: ja2047

従来資料:
『岡村寧次大将資料(上)』(原書房,昭和45年)P290-291
「それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければいけないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。

上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
  • 一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
  • 一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。」


新資料:
『岡村寧次大将陣中感想録』 厚生省引揚援護局作成-靖国借行文庫所蔵-
「中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し。」


2006年07月01日
09:29
42: ja2047

従来資料:
『戦場神経症竝に犯罪について』 早尾乕雄軍医中尉 不二出版「軍医官の戦場報告意見集」
http://www.geocities.jp/yu77799/gunnikan.html


新資料:
『戦場心理ノ研究-総論-』 早尾乕雄陸軍中尉のレポート、一九三八年五月
「余ガ南京へ入ツタノハ陥落後一週間デアツタカラ市街ニハ頻々ト放火ガアリ見ル間市内ノ民家日本兵ニヨリ荒サレテ行ツタ。下関ニハ支那兵屍体ガ累々ト重リ是ヲ焼キ棄テルタメニ集メラレタノデアル。目ヲ揚子江岸二転ズレバ此処二山ナス屍体デアッタ。其ノ中二正規兵ノ捕虜ノ処置ガ始マリ海軍側ハ機関銃ヲ以テ陸軍ハ惨殺、銃殺ヲ行ヒ其ノ屍体ヲ揚子江へ投ジタ。死二切レナイ者ハ下流二泣キ叫ビツ、泳ギユクヲ更二射撃スル。是ヲ見テモ遊戯位ニシカ感ジナイ。中ニハ是非ヤラシテクレト首切リ役ヲ希望スル将兵モアル。
〔中略〕揚子江二沈ンダ正規兵ノ屍体ハ凡二万人位ト言ハレル。」


2006年07月01日
09:35
43: ja2047
従来資料:
陸軍省人事局長阿南惟幾少将(のち大将、終戦時陸軍大臣)
(南京視察から帰って) 「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。」(阿南惟幾 S12.12.22陸軍省局長会報におけるメモ)

新資料:
『支那事変記録其の四』 田中新一陸軍省軍事課長の記録、
―防衛研究所戦史部所蔵― 三八年一月一二日の陸軍省局長会報における阿南惟幾陸軍省人事局長の中支那方面軍の軍紀についての報告
「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、掠奪たえず、現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なおたえず。」

いずれも「現代歴史学と南京事件」笠原十九司・吉田裕P12-13の引用資料の再引用と従来知られていたものとの比較です。


2006年07月01日
18:38
44: ja2047

訂正、
「Apemanさんのブログで岡村大将の『岡村寧次大将陣中感想録』が紹介されていましたので、」
と書きましたが、勘違いで青狐さんのところだったようです 
<(_ _)>
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060701

間違えるなら逆に間違えた方がまだマシだった (^^;;


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